「勘とデータ」

○長嶋氏の素振り論と松井秀樹選手

2012年末、松井秀樹選手が引退しました。スポーツ報知は、全紙面の半分を関連記事にあてました。松井のそっくりさんまでが、「まだ引退しない」と出ていました。恩師である長嶋茂男元監督の談話がのっていました。

天才は天才しか育てられないから、私たちは長嶋監督よりは野村監督に学ぶことを勧めていましたが、深いものを感じたので引用します。

私が長嶋監督の例を引いたのは、毎晩、帰ったらすぐに素振りを3回して、そこにいつもの音が聞こえたら、やめて食事入浴をする。聞こえなければ、聞こえるまで夜中も振るというような話でした。音でわかるというのが印相的でした。

第一線レベルにできあがっている人の場合、状態のチェックをして仕上がっていれば、そのままにしておく方がよい。何か不足していれば補って、元に戻しておくと。すべてを五感で捉えて判断する職人技での調整法です。

イチローの打席で構えるまでの“儀式”は、よく例に挙げられますが、長嶋氏のような調整は、客観的に自分の状態のベストを完全に把握していなくてはできないことです。コーチに頼るのでも、データに頼るのでもなく、自分の身体だけで確認するわけです。全身センサーのようであり、”野生の勘”と言われたゆえんです。そこでの手段は、特別なメニュや方法でなく素振りなのです。

○声の素振り

この記事で語られたのは、松井との「1000日計画」でした。そして、それは、素振りなのです。徹底したシンプルさを最大限に応用して基礎を固め、その基礎を応用して試合につなげていくのです。何一つ特殊ではないのです。誰もが基本と知っている素振りをどれだけ、どのくらいの量、そして、どくらいの密度でできるのかが問われているのでしょう。

バッティングや素振りの例を、私はヴォイトレでよく使ってきました。「日本人は自分のど真ん中をジャストミートできないのに、自分のストライクゾーンの上の高いボール球ばかり打ちたがる」と。

長嶋さんは、ボール球やワンバウンドさえ打ってしまう天才でした。「バッターはノーマルであれ」と言っていたのは、意外でもあり、さすがでした。

(以下<日録>より、再録)

野村克也の素振り論

バッティングは基礎、基本、応用と段階がある。素振りは基礎であり、この基礎をしっかりやらないで成長するわけがない。基礎をみっちりとやらない怠慢が強打者の生まれない理由のひとつなのかもしれない。

 たかが、素振りと思うだろうが、素振りひとつとっても、テーマを決めて考えながら練習する必要がある。素振りは1回ずつ振幅音を確認しながらでき不できを判断したものだ。ボールを捉える瞬間をイメージし、ブ~ンという音ではなく、ブンッと音が出るまで何百回も素振りを繰り返した。これだけは自分で努力するしかない。コーチは足や腰、腕の動きなどバッティングの形は教えることができても、イメージや感覚は自分で掴むしかないからだ。(中略)

 親も育ってきた環境も違うし、肉体や骨格も違う。それを猫も杓子も一通りの型にはめたのでは個性を生かすことはできない。「学ぶ」というのは「真似る」を語源にしていると言われるが、若手も「教わる」のではなく「覚える」という意識が必要なのではないか。(中略)

 特に「勝利の方程式」という決まり文句が一番気に入らない。勝負事に方程式などあるわけがない。マスコミの責任も大きいが、そんなものがあると考えるから型にはめてしまい、勝負の醍醐味を失わせるのだ。(中略)

 「人間成長なくして技術的進歩なし」である。

野村克也さん [SAPIO 2013.1]

 

金本知憲の素振り論

 「すべて野球のためにどうすべきかと考えていました。トレーニングはもちろん、体重を落とさないように無理して食べるのも、睡眠時間を確保するのも、野球のため。心身ともに本当に休んだといえるのは、シーズンが終わった直後の5日間くらいでしたね」(中略)

 「仮にコーチにやらされた練習でも、練習の狙いを理解できれば自分に役立つ。若い頃の広島時代の練習はそうでした。逆に自分から取り組んでも、漠然とやる練習では意味がない」。例えば金本が調子の良いときも悪い時も欠かさなかった素振り。「スイングの速度を上げるためなのか、打撃フォームを整えるためなのかで振り方は異なる」(金本)。そこまで考えて素振りを繰り返したからこそ、バットにボールを当て、しかも遠くに飛ばす技術を磨くことができたのだ。

金本知憲さん [TRENDY 2013]

 

長嶋茂雄の素振り論

「1000日計画」って言葉、覚えてるでしょ?3年間で一流の4番打者に育てるってプランよ。だから、それこそ毎日毎日素振りよ。昼でも夜でもどこでもスイングよ。銀座の(超高級)ホテルで部屋を借りてやったこともあった。(03年にヤンキーズの取材で訪れた)ニューヨークも?やったよなあ。(超高級老舗ホテルの)プラザホテルの最上階でバット振ったのは、世界でも松井くらいだろ。

 素振りはいい練習なのよ。スイングなんて1回に1秒ぐらいなもんでしょ。でも、それを1回、また1回と繰り返していくことで、いろんなことが考えられるのよ。そこから野球選手としての「深さ」や「幅の広さ」が生まれてくるわけ。

 技術はもちろん身につくよ。しかも退屈に思える練習を続けることで心、つまりメンタルが作られていく。それが大きいのよ。

長嶋茂雄さん [スポーツ報知 2012.12.29]

 

○(続)長嶋茂雄氏の指導法

ミスターは21歳の中島をつかまえ、いきなり打撃指導に乗り出した。

 「インパクトの瞬間、バチーンとチンチンを右から左の太腿にブツけるんだ!」

「バチーンとですか?」

「そう、バチーンと」

 首をひねる選手が続出するなか、ひとり目を輝かせていたのが中島だった。

 「僕にはメッチャわかりやすかった。長嶋さんは音で力の加減を表現するんです。バーンならバーン。バンならバン。ギュッと言わはったら、実際にギュッと体を回せばいいんです。”ここの角度がこう”なんて説明されるより全然わかりやすい。長嶋さんから教わったのは正味40分くらいやったと思いますが、その後から全然、打球の質が変わった。きれいに飛んでいくようになりました」

中島裕之さん [週刊現代 2013.02.02]

ヴォイトレで、出しやすい声から出していくのです。なかには、自分が出しやすいと思って出す声を否定されることもあります。出しやすい声=ベストの発声やベストに育つ発声ではない。でも、入口では、まずは「出しやすい声とは何か」を、そして、「出しやすいとはどういうことか」をバットや竹刀を振るときのように、直観的に捉えてみることです。

一流の選手でない大半の人の感覚やフォームは、大きくは当たっていても、そこから細部に深めていくと、すぐに外れていきます。ストライクゾーンは打てるとわかっていても、いつもそこで当たったり当たらなかったりが続くのです。そのうちに高めの内角だけが打てるようになるのを上達などと言われてがんばったりするわけです。

○心理の分析

野村監督は打つことよりも、まずは打ち取ること、バッターとしてよりキャッチャーとして、相手の心理をみることを本質と捉えたのでしょう。8×10の80にストライクゾーンを分けて、データをとりました。これはトレーナーとしては「やり方」になります。

次にどのコースにどの球種がくるかわかると、ほぼ、確実にヒットにできるのが、プロのバッターです。ですから、現場での勝負は心理戦なのです。力や技術を十分にもった上で心理を読む、その最高レベルが勘なのです。となると、バッティングセンターでは3割、4割でなく、10割打てなくては勝負以前のレベルということです。

ストライクゾーンを3×3くらいのマトリックスで捉えているようなバッターに、8×10の細分化したデータをもつのは、絶対的に有利なことです。投球を指示するキャッチャーの視点は、コーチです。これがチェックや上達のプロセスとなります。

しかし、長嶋さんの場合は、一般的なストライクゾーンなどは眼中にないのでしょう。打てる球と見送る球、つまり振る球と振らない球だけなのでしょう。打てる球、ヒットにできる球が振る球になるのです。一流ゆえに他人が定めたルールを超える、その常識を超えたプレーにファンは感動するのでしょう。

それを支えたのは、小学生でも、そこから始めるという素振りの徹底です。松井選手には、ニューヨークの最高級ホテルでも素振りをさせたというのです。シンプル イズ ベストなのです。

○人生と哲学

野村氏に学べるのは、三流から二流、二流から一流になるためのプロセス、考え方です。野球において将軍はピッチャーやバッターですが、キャッチャーは策士、参謀です。

日本で10年、アメリカで10年とトップクラスの活躍できる人は、純粋に素振りに打ち込みます。結果を出し、それが出なければ終わりですが、20年、成績を残せたら終わっても引っ張りだこでしょう。しかし、多くのプレイヤーは、明日のレギュラーも来年の活躍、いや雇用も保障されていません。人生における野球、野球を終えての人生も考えざるをえません。それが考えられていると、今だけに打ちこめるともいえます。

ですから野村氏の理論は、そのまま人生哲学になっています。これ以上は氏の多くの著作に委ね、ここからは勘とデータの話です。

天才でもない限り、勘は働かなくなるときがあるので、そのときにデータで支える、あるいは、データがあった上に、勘もおろそかにしないなら、両方のよさが活かせます。データに囚われ、勘も鈍くしてしまう人の方が多いので、こういう考え方は、とても大切だと思うのです。

○勘のよしあし

私は勘のよい人には、かなりの部分を本人の判断に任せています。できるだけ口を出さずに、材料だけを与えます。その与え方に工夫をします。環境を与えるのは、本人の資質を尊重してのことです。

当初は研究所もそのような人しかいない環境でしたから、私は場を高次に整えていればよかったのです。

「何も教えてくれない」などと言うのは、勘のよくない人で、そのまま放任しているとクレーマーになりかねません。「教えてくれる」「教えてもらう」ことで、どれだけ勘を鈍くしているかを、ときには考えてみることです。

まずは、自分に、その内面に、目を向けなくてはいけないのです。このことがわからず、「青い鳥症候群」の人が多いのです。「どこかに絶対的に正しい方法、よい方法、正しいレッスン、よいレッスン、正しい先生、よい先生がいる」と思って、探し求めてばかりいるのです。

レッスンはそういう思い込みに拍車をかけるのでなく、それをストップさせるためにあると思います。「正しい」とか「よい」とは何か。そんなものがあるのかどうか、疑問や否定を通じて、自らに問い続けていくようにしましょう。

でも今は、優しい先生が優しく教えることを求められるため、その期待に添うようにがんばるほど、本質からそれてしまうのです。厳しい場を求めてください。

○勘と基準と材料

勘のよい人は、「自分自身の声に向きあうことしかない」ことを知っています。

素振りのように一つのシンプルなメニュをくり返しているうちに、少しずつ丁寧に、繊細に扱っていくようになります。材料を元に基準が確立してくるのです。

そうでない人は、飽きてきます。やめてしまうか、やっていても雑になります。正しく教えられたことなどは形ですから、そのままでは、くせがついて固まってきます。それを安定と思うので、早々に上達が止まります。これは大きな勘違いです。自分の成長に合わせ、その都度、形から脱皮し、さらに深めていくことです。

○作品の価値への評価

「トレーナーは、作品の価値判断までに立ち入るべきではない」と考える人もいます。確かに、筋トレや体力づくりと試合の采配とは別の仕事のようにも思います。しかし、これは別の次元、レベルということです。目的となると現場に多少とも通じていないと、必要とされる基礎の程度もわかりません。この現場とは、ステージ経験などという、個別に違う、あいまいなものではありません。最低の絶対必要条件と余裕をもつための充分条件の2つの尺度です。

声を出している内容×声を出している時間での、トータル的なものが結果です。

生涯現役歌手というのは、自らに対してはプロです。トレーナーとなっても、他人のプロセスに通じているものではありません。多くの他人のプロセスに長い時間で通じていてこそ、トレーナーに必要条件なのです。

このプロセスというのを、私は5年から10年くらいを1クールとしています。仮に、10年くらいトレーナーをしたとしても、1年以内に辞めていく人ばかりみていたのでは、本当に大切な勘は培われません。トレーナーも生徒も育つのです。

○トレーナーの価値とは

最初には勘のよかった人が、続けているうちに勘が冴えなくなる、悪くなるケースは少なくありません。むしろ一般的です。そうならない方が例外といえます。声や歌では、それが顕著です。元より自分の評価も他人の評価もあいまいだからです。

レッスンの目的の一つは、トレーナーに評価をしてもらえることです。しかし、その基準があいまいでは進歩は望めません。アートという何でもありの世界で何を評価としてとるのかは、難しいものです。本人の満足か、客の満足か、どちらにしても曖昧なものです。受けを狙って急いでは雑になります。

その評価がトレーナーだけの満足に終わってはなりません(トレーナーの評価の問題は、以前に詳しく触れています)。

価値観を一致させないところにレッスンは成立しないのです。そこでトレーナーは一本の仮の道を示します。そこをプロセスにするかを問います。それをどうとるかがトレーナーの価値です。

○3年かける

トレーナーは「教える」、「与える」のでなく、「問う」場を与えるのです。邦楽で、師が弟子に、「自分のやる通りにやれ」と言うのは、自分のようにできたら完成というのではありません。

これから自分の声がどのようになるのかを、まだ体験していない人にあるのは、勘だけです。それで判断して、歩み始めるのですが、そのプロセス、方法、トレーナーについて、一致というのはそう簡単にできないものです。歩み始めるまでに3年くらいかかっても遅くないといえます。

私は今、「ここにいる十数名のトレーナーの判断がわかるまで3年かかってもよい、そしたら自分にもっとよいトレーナーがわかる」と言っていました。「自分によい」というのを、好き嫌いや憧れでなく、必要性で判断するのは、至難のことです。それなりの基準を身につけなくてはできないのです。

○勘は悪くもなる

勘というものが「やっていない人のなかではよいと思われても、大ざっぱによいだけで、そのうち(続けて学べている人のなかでは)よくなくなる」のが普通です。子供のころは天才、大人になるにつれ皆、凡才になるのです。日本の教育では平均化を強いるのでそうなりがちですが、ヴォイトレも似たようなものです。

レーニングやメニュでどのようになるかというのは、トレーナーの処し方によります。このプロセスをみてみましょう。すると、大体は同じように「勘の悪くなること」が起きているものです。それを避けるために、他にはない研究所としての総合的な機能をバックグランドで働かせているのです。

○トレーナーの成長

私は、これまで声楽畑のトレーナーを中心に、五十名以上のトレーナーとヴォイトレをやってきました。今も十数名のトレーナーと続けています。長い人は十年以上います。私より目上のトレーナーもいます。かつては、20代後半から30代の若いトレーナー中心でした。

採用して、しばらくは、レッスンをみても何も言わないようにしています。こちらの方針を押しつけると、せっかく異質の才能を発揮できる機会をなくしかねないからです。

生徒と同じで、準備が整っていないうちは待ちます。自分自身に何があるかを把握せず、何とか形にしようと試行錯誤しているうちは口をはさみません。出せるだけのものが全て出るまで待つのです。

声楽家ですと、音大生以外に教えるのに慣れていない人が多いです。ここの生徒の中にはプロもいますから、お願いして新しいトレーナーを体験してもらうこともあります。いろんな基準を得ることになります。

トレーナーには自分自身のレッスンやステージの体験があるし演奏能力もあるのですが、その基準をそのまま使えるわけではありません。それが指導の能力として出てくるまで、しばらく待ちます。その人の本領が発揮されるまでは、伸び伸びやらせるのです。

そして、1年半くらいたつと細かくみるようにします。この1年半というのは慣れてきて、なかだるみしやすい時期です。秀でた人ほど早めに半年か1年くらいで、個性が行き過ぎる方に出てくるものです。

そこから、きちんとした接点を私が見出し、レッスンを軌道にのせていくのです。接点がつかないとやめてもらうこともあります。

○トレーナーの一人よがり

トレーナーが、指導に慣れるにつれ、知らずと慢心してしまうこともあります。舞台などで抜擢されて大役などにあたると、そのようなことは起きやすくなります。舞台に集中するためもあります。

レッスンとステージを両立させるのは、かなり負担のかかることです。

まして、私や他のトレーナーの制限下で、完全には自分の自由に生徒を導けないのですから、いろいろと不満が出ることもあります。

複数のトレーナーを一生徒につけるやり方については、声楽の先生というのは反対するでしょう。方法としてはともかく、実際に自分が行うなら面倒なことです。生徒も一人の先生から学ぶ方がわかりやすいし、混乱しません。そこで、まず、一人のトレーナーに「言われたことができたら評価する」というのは、プロセスとして順当に思えるからです。

どのトレーナーも自分の判断、メニュ、方法が「正しい」と思います。他のトレーナーが自分と異なる見解、違う判断、メニュ、方法をとるなら「あまりよくない」とか「間違っている」と思うものです。少なくとも、自分の生徒に関わってくるなら、です。他のトレーナーのレッスンが、自分の指導の効果を損ねたり、台無しにしていると思うこともあるでしょう。

ここでは、トレーナー間での問題を扱う私のような調整役がいますが、普通はいません。そのトレーナーにつくか、やめるかだけでしょう。やめても次のトレーナーが自分にとってどうなのかを、わからないままに続けます。転々とする人もいます。

その判断がつかないまま、いや、違いにさえ気づかずにレッスンを続けたり、トレーナーを変えたりしなくてはならないのは、不安でダメージの大きいことです。

○批評と非難

トレーナーは、「自分は正しくて、何でも正しく教えられる」そして、他の生徒を引き受けると「前の先生は間違って学んできて、間違って教えている」と思い込んでいるものです。そこには、不満があるから前のところをやめた人だけが新しいトレーナーを探し、新しいやり方にあった人だけが残り、合わない人は黙ってやめていくという構造があるのに、一人で行っていると気づけないのです。これでは、この分野が進歩するはずがありません。

生徒を教えるために、自分を正当する―それはやむをえないこととしても、そのために他の人を貶めたり、考え方、方法から、関係のないことまで非難する人が少なくないのはいただけません。残念ですが、よく耳にすることです。

批判、批評として、実状を正しく把握した上での発展のための論争はありがたいものです。

しかし、みることも、やってもみないで、ただの否定することにどんな意味があるのか。単なる足の引っ張り合いです。他のトレーナーやそのやり方を認めたくない偏狭な心に過ぎません。

○程度の問題

他のスクールなどのトレーナーもここに来ます。メニュや方法についての質疑も受けています。誰でもいらしてよいのですが、大抵のことは正しいか間違いかでなく、程度の問題にすぎないのです。「同じ」と「違う」を、どのレベルでみるかということです。

すべては個別の具体的な問題です。「一般的に」「普通」ということで尋ねられたら、拙書を勧めています。そこにわかりやすく詳しく説明しています。

さらに、ここで補足を加えて、公にしているのです。

○結果を出す

「こういうやり方でやっています」それでいいでしょう。

「正しいのでしょうか」「よいのでしょうか」それは相手をみなくては、目的や結果をみなくては、何も言えません。

「この声や息はよいのですか」これもわかりかねます。よくないと言うよりは、出ないということが多いです。

そこで説明しても本当は仕方がない。答えないのは、答えがyesでもnoでも大差ないからです。

「トレーナー」は人を育てるのですから「こんな人がこうなりました」で、初めて問うことができます。

先日、嬉しいことに、ベテランのアナウンサーから詩吟に転向して長く声に悩んでいた人が、ここのレッスンを始めて5年目、上級のチャンピオンになりました。あるアーティストから、ここのレッスンを参考に、一般の人の声をよくできたという礼状をいただきました。

勘がよいのも、理論が正しいのも関係なく、結果としてみるのです。結果とは、全てにおいて出るのでなく、出たり出なかったりします。それでも、こうして時間がかかった分、大きな成果が出ているのは、嬉しく思います。

○雑になると否定しだす

本人がうぬぼれると、大体、ものごとへの対処が雑になります。すると、そういう人は他を否定しだすので、わかります。長嶋氏の弟子、松井選手が「ノーマル」に徹していたことを見習いたいものです。

さらに高い目標に挑めばよいのに、それをせず、少々できるようになったからと、次の次元アップに挑まなくなると、必ずといってよいくらいこうなります。

○自分のレッスンの方法が正しいというトレーナー

私のところには、ときに「自分のレッスンの方法が正しい」という人がいらっしゃいます。机上で論を戦わせても意味がないので

「では、誰を育てたのですか」

「育ったとはどうなったということですか」それでも食い下がられると、「その人連れて来てください」とは言えないので、次のレベルでの問いを投げかけます。

「あなたでしか育たなかったのですか」

「他のトレーナーの方がよりよくできたかも、と考えられませんか」

これは、自分自身にも考えていきたいことだからです。

また、「他のトレーナーは、間違った教え方で間違った発声になっている」と言うトレーナーがいたら、「他のトレーナーも皆、それぞれに相手のことをそう思っています」と答えます。

○幼いトレーナー

「自分の方法が絶対」といえるなら、世界一の実力がある人を一から育てたということでしょう。教えた人がNo.1になったとしても、ある条件のもとで自らを肯定し、他を否定できるにすぎません。そういうハイレベルで学べた人はどんなレッスンでも活かせるものです。

波風を立てるのは、いつもそれをよい方に使えていない、私からいうなら、本当の意味では、できていない、自立していない、時間のある人たちです。

今の自分をすごいと思い、5年、10年あとにイメージが及ばない人は10年、20年と続けてきた人を簡単に否定します。それは、後5年でも10年でも、彼ら自身がすごくなってから言うことなのです。でも、すごくなった人で言う人はいません。

どうなるかがわからないから何でも言えるのは、若い人の特権です。まだ、何ら実績をのこしていないのに言うなら、若いというより幼いだけです。幼いということは、まだみえていないということです。こういうときはコツコツと地道に我慢することが、一流になる人の器ともいえるのです。

○こだわる

私は、「シンプルに一つの声を磨いていける」のは、それだけで一つの才能だと思います。「他の人がもうできた」と通りすぎていくところで、何かを感じて、こだわり続けていくのですから、並大抵のことではありません。

私自身、「声がライフワーク」といっているのは、こうして探求し続けているからです。

悩んでいるトレーナーには「続けていくと、今よりもよくわかるようになる」と言ってあげたいと思います。

○もっているもの、もっていないもの

レーニングの時点で、私はその人のもっているものと、もっていないものについて考えるところから始めます。あなたもここで自分自身について考えてみてください。

<もっているものともっていないもの>

  1. 自分のもっているもの
  2. もっているのに出せていないもの(使えていないもの)
  3. もっているが出さない方がよいもの(使わないもの)
  1. もっていないが補えるもの
  2. もっていないが補えるかわからないもの
  3. もっていないが補っても使えないもの
  4. もっていないが補えないもの(理想的には欲しいもの)
  5. もっていないが補う必要のないもの

「発声を直す」というのは、c.を封じb.を導いていくことにあたります。多くのメニュはd.の不足を補うこと、その補強にセッティングしています。

e.は、声においての到達点には個人差があるということです。

f.やg.は、その人の限界をどこにどう見極めるかということにもなります。h.はトレーニングの目的にする必要はありません。このa~hについて、この機会にまとめてみてはいかがでしょうか。

○「初めて」の対処

どんなベテランのトレーナーでも、これまでに「初めて」のタイプには、やってみないとわからないときがあります。

「初めて」のタイプというのは、細かくみると人は一人ひとり皆違うので、「誰に対しても初めて」なのです。一見似ているけれどまるで異なったり、全く異なるタイプと思っていたら、誰かと似てきたり、といろんなプロセスをたどります。

何事も10年、20年と経ってみなくてはわからないことがあります。

レッスンにおいては、その人の<もっているもの、もっていないもの>を確認していきます。トレーニングでは、それを踏まえての、もっと長期的かつ革新的な取り組みが必要になります。

○優先とするもの

表現から入るとシンプルなことが、基礎から入ると迷路のようになることがあります。私は、プロの「歌唱」や「せりふ」のなかの声の目安を、「仮に」として、必ずどこかにおいています。これをマトリックスの縦に置くと、横に置かれるのは、それぞれの要素(声域、声量…)となります。3次元でみるなら、時間軸が必要です。器として大きくしていくにも、どこを優先するかによって違ってくるからです。

昔は、第一優先条件が声量(共鳴含む)であり、比較的、到達度合がわかりやすかったのですが、その後、日本では、声域のようになりました。これは個人差があり、また、素人は届けばよいが、プロは、使えなくてはいけないと言いつつ、その程度がわかりにくいものです。なぜなら音響技術で相当カバーできるからです。

声量が第一でなくなったのは、声量こそが音響技術でカバーできる度合が、もっとも高かったからでしょう。元々、ヴォリュームを増すためにマイクやスピーカーは発明されたのです。

○声量から声質(音色)へ

声の第一条件は、届くだけの声量があることですが、そのまた昔、アカペラだけの頃、問われていた声質(音色)なのです。これは先天的なもの(声質)と思われ、昔は、「声がよい」という基準でした。これも日本では独特の鼻にかかった声のよさでした。

今は、「その人らしく(くせが)あればよい」というのが基準かもしれません。これが、今のプロを真似て練習をすると、伸びない原因になっています。

音響技術が進歩して、まるでパチンコで打つのが自動化されたかのように、誰でも何でも届けばよいかのようになってしまったからです。ポピュラーのソロに関しては、音域の設定は自由なので無理して、ある音にまで届かなくてもよいのに、です。

そこで、音色そのものに個性がなくなり、発声のくせで、その人らしさを表すようになりました。

ものまねは、くせをつけたらよいので、簡単になりました。もっとも、今の「ものまね」は、デフォルメとしてのバラエティ芸です。音色、昔の声帯模写というようなものではありません。

たぶん、昔は芸人は、限られたところの人であったが一芸を極めていたのに、今や全国から才能で選ばれるので、器用で優秀な人が出てくるようになったのでしょう。歌手や役者も、タレントという名で一般化しているのは否めません。

○レッスン前の発声について

本番前の状態を整えるには、バランスをとることをメインにしておけば充分です。喉を疲れさせてはなりません。

最初からベストで出られるようにするオペラと、ライブの経過とともに調子を上げていくことの多いポピュラーとは、若干、異なるでしょう。ポップスといっても1,2曲だけの出番というなら、歌う直前にベストにしておくことです。

私は他の人のステージを表から裏までみてきたので、歌の怖さを知っています。リハーサルでベストが出たのをみると、本番はかなり神経質になって、天にも祈る気持ちでみています。よいできであったら幸い、リハーサルを超せないどころか、最悪の結果になることも少なくないからです。

客席が埋まっていないリハでは、聞こえ方も違います。ライブでは問われるものも違います。作品としての完成度よりもステージとしての完成度が問われます。

確かな技術がある人でも、楽器のプレイヤーのように番狂わせがないことがない分野だと思います。どんなにレッスンでよくても、本番が必ずしもそうなるとはいえないし、逆に前日やリハではどうしようもなかったものが、二度とできないほどのベストの仕上がりになることもあります。一流のプロやベテランよりも感動を与えるデビュー新人の一曲や、ド素人のビギナーズラックもあります。楽器のプレイヤーでは起こりえないことです。

○喉の疲れと解放

声を泉のように無限に出してくる、世界のレベルのアーティストに比べると、日本人の喉はまだまだ弱いでしょう。

現実として、私は日本人の9割の人に対して、喉は消耗品と考えるように言っています。喉には耐久時間や使用の絶対量があり、そのなかで仕事や練習を終わらせることを考えるということです。

月一回、週一回の出番なら、ピッチャーの登板のように翌日から休めて回復させたらよいです。ステージは発声のよさを問うわけでないので、喉に無理な負担がかかるのもやむをえないともいえます。売れるとハードな日常にもさらされるので、喉の負担ゼロが望ましいでしょう。ここはトレーナーの理想論だけでは通じません。

とはいえ、声が体で支えられているところまでは習得しておくこと、体調に万全を期すことが条件でしょう。

毎日、声の仕事をしている人は、喉に疲れを残さぬようにクールダウンしておきたいものです。翌日には元の状態にしておかないと、そのうち無理がきます。大敵は睡眠不足やメンタル面での心配事、おちこみです。気が張っていることで、ステージをもたせている声はハイリスクです。いつもハラハラしてみています。

○負担をかけない

発声練習では平気な人にも、ステージ表現することで喉に負担がきます。本来はそうであってはならないのですが、歌唱でさえ、その人の安全な範囲をはみ出すことは少なくありません。

安全なところ(ベース)なら8時間くらい出せる力を身につけておきたいものです。それに耐えうる発声づくりが、私の考えるヴォイトレのベースです。

ことばをつけると、少し負担がかかります。

注意していることは、くれぐれも仕事以外には声を使わない、控えることです。打ち上げなどは細心の注意が必要です。カラオケでも声を壊す人の大半は、歌の大声や高音域がきっかけですが、アルコールや食事、おしゃべりで、数倍悪化させているのです。

○最初のレッスン

本番に向けて、自分の声の調子を、どう整えていけばよいのかを知るのは、レッスンの目的の一つです。レッスンを本番リハで使うのか、基礎に使うのかは、いくつかの分類を示しました。

本番の日は、レッスンをしないのが原則です。このあたりの、本番前のトレーニングやレッスン前のことについては、「共通Q&A」ブログを読んでください。

自己流のトレーニングを禁じて、レッスンだけで、発声の感覚を気づかせ、仕上げていくトレーナーがいます。

レッスンでトレーニングのやり方を教えたり、トレーニングの実際をチェックするトレーナーもいます。トレーニングのサンプルのようなレッスンをして、そのまま持ち帰らせ、復習させるトレーナーもいます。

レッスン前の発声については、レッスンの時間にもよります。レッスンが60分以上あるなら、不要かもしれません。

このあたりの考え方にはトレーナーや生徒においても、かなりの違いがあります。

○最初のメニュ

最初のメニュから一人ひとり違います。トレーナーも違います。初回は本人の力のチェックと目的への方向性を探るところからです。

初回のトレーニン

1.挨拶(およびコミュニケ―ション)

2.情報交換や質疑応答(時間短縮や、人によっては喉の保全のため、シートでの提出を初めています)

3.スケール

ドレミファソファミレド、ドレミレド、ドミソドミソド、ドドドドド、ドドドなど(半音ずつ昇降)

ハミングや母音(ヴォーカリーズ)を中心にスケールで昇降させます。このときに声や体の調子をみたり、チェックします。そのために広めに声域を使うことも多いのです。軽く声の状態、コントロールのチェックをするのです。

ここでは実力以上の声域をとることも少なくありません。いずれ、マスターすべき域の目安を示し、チェックしたり、試行していることもあります。

チェックとトレーニングの混同をしないことについての注意は、「ヴォイストレーニング基礎講座」などに詳しく述べました。

○ある日のレッスン

ある日のレッスンでは、次の3つが中心です。

1.ハミング 低いソ―ド―高いド―ミ(声域、2オクターブ弱)

2.ハミング+母音(またはmやn) 低いファ―ド―高いド―レ(同上)

3.母音 低いミ―ド―高いド

わかりやすくするために全てのメニュを、同じ声域にすることもあれば、声の質を重視して、それが悪くなってから2,3音上がったら(下りたら)止めることもあります。

もっとも大切なスケールやヴォーカリーズが、ポップスや役者の発声練習では、準備体操だけで終わっているところがほとんどです。

私は、研修に行くと、これを徹底して、ていねいに扱わせるようにしています。リラックスや伸び伸びとするために、気にかけずに、大きくたくさん声を出すことから始めることもあります。

シンプルなことに徹底してとりくませることが、ヴォイトレの本質ともいってよい基本づくりのメニュです。その前に、体や呼吸を使ったり気力や集中力を高めるために、勢いで行うことが必要なこともありますが。

○同質化を目指す

1.スケール、声域、  低いミ―ド―高いラ―ド―ミ

2.ハミング=母音   ラ(ナ、マ)

3.子音=共鳴、n、m、y(ia)、w(ua)、k-g、s-z、t-d、h、p-b、r

この3つの組み合わせだけで無限にありますから、メニュも無限です。

発音は声を発するときに生じるものですが、共鳴を感じて行う方がしぜんによくなっていきやすいです。

最初から喉でなく共鳴で声が出ているというレベルのイタリア人のようなら、日常に話すところでも共鳴感覚で、そのまま移行できるようです。私たちはそういう発声をしぜんに捉えるのに、けっこうな時間がかかるのです。

○ヴォイトレの目的

もっとも入りやすいところから入り、今もっともよいものをみつけます。そして、その他のものをそれと同じに揃えていきます。これが、よくある発声練習、ヴォイトレと呼ばれているものの一つです。しかし、私は、そこに他を揃えるまでに、もっともよい声は、もっともましな声にすぎないのですから、もっとつきつめることと考えます。その声をベターからベストにしていくことが、トレーニングの目的です。つまり、

1.ベターをベストにする

2.ベターに、そうでないものを揃える

目的には、この2つが伴うべきなのに、大体はここまでいきません。1がないのです。できていると思って、甘いチェックで通り過ぎてしまうのです。多くは、ピッチのチェックで音色をみていません。

2は1のために必要なのに、2は2で終わってしまい、1のベターがベストにならないのです。むしろ、ベターがベターでさえないものに劣化して、揃えていく傾向が、多くの人にみられるのです。声量、音色を無視して、声域とバランスだけで揃えようとするからです。

○自己評価してみる

今のあなたの点数を平均50点として

a.ベスト100点超(理想)

b.ベター60点(現状の上)

c.ワース40点(現状の下)

  1. ワースト20点(劣化)

とすると、

1、bとcの現状をbにして、aの理想に高めていくべきなのに

2、dをcにすることばかり考えると、今のベターであるbよりよいものが出てもわからず、そのままbに留まってしまう。むしろ、ときによかったはずのbが、よくないcに影響され50点になってしまう。

つまり、成績の低い人をアップさせること(d→cおちこぼれ救済)だけを成果とみると、結果として、平均点は上がるが、最高点は下がるのです。本当は、b→aにすることでc→bと引き上げられるのがよいのです。c→bをすればb→aになると思いがちですが、aの100点超なので、そこからは出てこないのです。

○平均化の障害

まさに日本の教育のようなことがヴォイトレでも起こっているのです。エリートをつくるよりも、おちこぼれをなくすことで、エリートが出ない。金持ちをなくしても、貧しいい人は豊かになるわけではありません。たくさん使う人がいるために弱者救済ができるというのも人間社会なのです。芸事の世界でもそう言われて久しいですが、ヴォイトレでも同じことです。

このところは、この傾向が強まるばかりです。養成所はスクールに、体育会はサークルになったからです。誰もが育つ、誰もができるようになる方法などは、高いレベルになりません。

○スターが出ない

底上げしただけではスターは出ません。日本人の気質が、レッスンでさえ、同質化、均一化されていきつつあります。それは同時に異質の排斥になってしまうからです。

ヴォイトレも、その人の条件を大きく変えようとせず、状態だけを調整するローリスクローリターンのトレーニングが一般化してきました。ハイリスクハイリターンの自分勝手な自主トレの抑制としてならよいのですが、自分でやるべきことをやらずにトレーナーと抑制しただけ、調整だけやっていても、平均点以上の進歩は望めません。

ハイリスクハイリターンから、なるべくハイリスクをとるのもトレーナーの役割です。ただローリターンにするレッスンでは困ったことです。スターが生まれなくなったゆえんです。

○問題を顕わにする

私が思うに、問う力をつけるためにレッスンをするのです。答えを求めたり、正解を覚えるのではないのです。私は、知識やことばとしての、わからないことや知りたいことは初回、レッスン前のレクチャーで、お答えしています。やらなくてはわからないことは、ことばになりませんが、それ以外のことは、できるだけお答えしています。

本人の可能性、これは大体わかるのですが、その変化については、本人の努力しだいで大きく変わるので述べられません。本人の取り組みやスタンスが大きく変わることも期待したいからです。

○ベストは100/+α点

求める声のベストを100点満点でなく、100点超としています。私の考えるベストとは、100点+αなのです。それに対し、ベターを目指すのが大体のレッスンです。100点から何点足りないかを知り、それを埋めていくようなものです。満点を限度としての減点法です。

でも、満点になったからといって、それで何かができるわけでないのです。70点でも芸術センスが50点であれば、100点を超えるのです。フィギアスケートの大会と同じで、規定だけでは勝てませんが、規定がだめでは、自由も苦しい戦いになるということです。そこに基礎レッスンの必要性があります。

○あいまいから脱する

レッスンでは、声に対しての、あいまいなままの状態からの脱却を目指します。あなたの問題が解決するのでなく、まず具体的に浮き上がってくればよいのです。

できないことができるようになるといっても、解決法で1,2回のレッスンで、すぐ直るようなのは、問題でさえありません。すぐに解決しないことが問題です。

ですから、問題が明らかになることをきっかけに、自己変革のためのトレーニングが必要となります。それによって実力がついていけばよいのです。問題そのものは、そういう刺激になれば、必ずしも解決しなくてもいいということもあります。解決できないこともあります。

○あえて矛盾させる

レッスンで何人かのトレーナーにつけるのは、早くあなたや声のなかの問題を出すためです。矛盾であぶりだすのです。

違うトレーナーがついて同じ見解、同じ方法、同じようなメニュで解決していけるテーマというのは基礎であって、それは課題にはなります。やっていくとできていき、それであまりまえのことにすぎません。

そこは地道に平均点をアップをして、優秀に思われるレベルまでやっていけはよいのです。私は、これを「レッスンとトレーニングによる実力の底上げ」=「地力をつける」と言っています。

大切なのは、その先、トレーナーたちの矛盾が出てくるところをどのように自力で解決していくかです。そこにその人独自の世界観が現れるのです。

「バランスを崩すことを恐れず、トレーニングでは、レッスンで整えたバランスの崩れを拡大してみること」です。

○限界と両極を知る

自分の限界を知ればよいのです。それには、両極を知ればよいのです。極端を知ると中庸がわかります。問題、矛盾を起こすことで気づくことがあります。その姿勢を常にキープすることが大切です。

トレーナーや私に質問がくるのは、ことばでは説明しますが、解決しなくてよいのです。解決しないからよいのです。それを役立てて作品や表現になればよいのです。そこに理解や解釈は不要です。私の仕事の一つですが、答えないのも答えということが多々あります。答えられないこともあれば、答えない方がよいと判断することもあります。 私は、声(ヴォイトレ)の問いに、ときどき大きな距離を感じることがあります。何を答えても無理ということがみえるとき、あえて、ことばにしてリップサービスするのは、この仕事に忠実でないと思うのです。☆

○軸

声での基本デッサンが主軸で、そこからの変化が旋律となるように歌を捉えています。

芯―響き、芯は、軸となって、そこからの動きはつっぱしらず、しなやかになっていきます。

そのあたりの声のデッサンまでは、売れているプロよりも、ここに通う人、通った人の方がわかっている、できていると思えることもあるからです。