「トレーナーへの誤解」

 

○トレーナーの思い込みと喉ロス

 

 

 

 トレーナーが手っ取り早くまねて、歌って、それをそっくり真似させて習得するのは、形をつけるのに早い方法です。いわば、口移しのようなものです。ただし、皆、トレーナーと同じような発声、歌い方になります。

 

 若いトレーナーには、人を育てたり、5年、10年と人をみつづけた経験はありません。

 

 なぜ、そのトレーナーは、プロ歌手にならなかったのか、なれなかったのか。ルックス、スタイル、カリスマ性、ヒットに恵まれなかった、それとも、教えているから、教えたかったから、教える才能があるからでしょうか。

 

 他人に声を教えることは、自分ののどをロスしがちです。少なくとも自分の声が鍛えられ、自分の声を知り尽くしてからでないと、トレーナーという危険な仕事は、お勧めできません。

 

 

 

〇曲を歌うだけのレッスン

 

 

 

 日本のポップスのヴォーカルは、曲を正しく歌うことを教えられているだけです。ですから、ピアノの伴奏のうまい人か作曲家で充分です。

 

 歌謡曲の時代、ヴォイストレーナーは、ピアノで音をとってあげるのが大きな役割だったように思えます。すでに選ばれた個性、声、歌がその人にあったからです。

 

 プロにも、楽譜が読めない人はいます。美空ひばりさんやサザンの桑田さんは別格です。海外でも口うつしで歌を教えられている人もいます。その仕事はヴォイストレーナーのものとは違います。

 

 

 

○トレーナーの経験からの判断ミス

 

 

 

 20代後半以降にトレーニングした人のやり方は、必ずしも10代や20代前半の人にあてはまりません。若い人は、トレーナーにではなく、それ以下の世代に歌うのです。年配の人の思いもしないことができるのが、彼らにとっての最高の歌だと思います。

 

 

 

〇トレーナーとトレーニングの効果

 

 

 

 よく、トレーナーを変えやり方を変えたら、成果があがったという人がいます。これもどこまでがそうなのか、本当のところは本人には正しくわかりません。ほとんどが思い込みなので、そのように言う人は注意しましょう。

 

 また、下積み期間を、自分に効果がなかったからといって、そこでのキャリアを無視してはいけません。知らずにベースづくりが、声が強くなるなどということが起きていて、それが違うやり方、引き出し方で開花することが多いのです。ベースづくりとその使い方は、異なるものだからです。

 

 

 

○トレーナーのPRにとらわれるな

 

 

 

 知り合ってすぐに、その人の名をPRに使用したり、あるいは○○を育てたなどという人がいいます。そこに大して、声のよい人の名が出ていないのは、残念なことです。人を育てるというのは、10年がかりのものではないでしょうか。

 

 実際、その人と会ったときに聞くと、そのトレーナーのことを覚えてないこともよくあります。プロは何人ものトレーナーにつくことも少なくないからです。トレーナーは黒子役、あまり宣伝がましいことは避けるべきでしょう。

 

 10年で成り立つものに、「何回かで上達しました」というなら、マジックです。

 

 

「トレーナーの経験と能力」

 

○教えられた経験について

 

 

 

トレーナー本人の教えられた経験の有無について述べます。役者やヴォーカリストには、器用で、すぐに現場でプロとなれた人がいます。こういう人は、同じタイプで、仕事にすぐに選ばれた人にアドバイスするにはよいでしょう。しかし、一般の人や初心者を教えるには苦労します。

 

長嶋茂雄さんがリトルリーグのコーチをやるようなものです。プロとして選ばれてきた人には、よき先輩としてアドバイスできるかもしれません。プロ野球のように才能と実績がある人しか入らない世界では、いる人は選ばれた人です。

 

教えられた経験のある人は、最初は自分が教えられたように教えるでしょう。特に日本人はその傾向が強く、そのため形ばかりの伝承になっていることがたくさんあります。

 

そこから自分のやり方を創出したり、相手に合わせた指導をするような人もいます。が、稀です。むしろ、それが行き過ぎて自己流と偏向する人が少なくありません。

 

邦楽のように、自分と師との関係をまったく同じように弟子と自分の関係にもちこめるなら、まだよいでしょう。でもまったく違うタイプや違う目的には、かなり限定した目的でないと、効果が出にくいです。何より、同じ関係をとれなくなっています。

 

声楽出身の人がポップスを教えるときにも、その傾向が強いです。それでいつまでも、先生のレベルに追いつきません。それでも、私はトレーナーには、ポップスより声楽の人を、ピアニストでも、クラシックの人を採ることにしました。客観視する能力、特にトレーナーには、自分の好きなポップス歌手の歌唱に左右されないことが大切です。そして、学んで得ていく力があることです。

 

 

 

○グループレッスンのよさ

 

 

 

グループで教わると、そのなかでの違いやオリジナリティに敏感になります。声楽では、本当の個性差を見出せるのは、かなり高いレベルになってからです。共通のベースを学ぶのが先だからよいことです。

 

そこでいろんな進歩の仕方があるとともに、生徒のレベルや違いによって、違うやり方をとることも学べます。

 

劇団やミュージカルなどでは、おのずと比較するという学び方ができるのが大きなメリットです。特にダブルキャストや演目がスタンダードで同じなら、比べられます。人や作品をみる目を養うには、とてもよい勉強になります。

 

自らが個人レッスンしか受けていない声楽家やトレーナーには、グループレッスンするのは苦手な人が多いようです。

 

トレーナーによっては、個人レッスンでも他の人とのレッスン(たとえば前の人)を見せる方式を採る人もいます。これもレッスンする人、レッスンを見る人の相互にとって有意義なこともあります。

 

 

 

○複数のトレーナーについた経験について

 

 

 

わかりやすさ、求められるレベル、やり方、優先順位、判断の違いなど、トレーナーの比較から得られるものは大きいでしょう。いろいろと学べます。

 

しかし、受け手に柔軟性がないと、「どちらの先生が正しいの」「どのやり方がよいの」「いったい、どれが正しいの」と迷いが深まることになります。初心者のうちは、異なる目的、内容や期間で使い分ける方が無難でしょう。

 

トレーナーを選ぶことがもっとも難しいので、私はそれを専らアドバイスしています。トレーナーの使い方を限定し、決めたら有無をいわず、その範囲内において、迷わずにやることです。自分の目的、自分自身について、判断力の高さが問われていきます。それは、じっくりと力をつけていけばよいのです。

 

 

 

 

「場づくり」

 

○プロの育つ場にする

 

 

 

私がここまでやれてきたのは、若い頃からプロの人に重宝されてきたからです。

 

ですから、一般の人にもプロをそのように使えるところまで、なりなさいと、こちらのレベルは下げず、食いついていく課題を与えるようにしました。

 

次に、それを使えなければ、使えるまでは他から学ぶのもよいと思って、組織にしたのです。

 

日本では、やらない人の口ほどこわいものはない。どこの先生方もやさしく、生徒やスタッフも無難に取り巻きにしてしまいます。トレーナーも生徒に言いたいことも言えない。言うとやめてしまうからでしょう。

 

アーティックなことに殉じるなら、他の人からよい人と思われることなどあきらめましょう。実績と結果だけで問わなくてはいけません。そんな覚悟のある人はほとんどいないのです。その結果が、今の日本人の声の力なのです。

 

 

 

〇孤立、孤独のすすめ

 

 

 

才能の世界の下では、どこでもできない人のねたみ、そねみ、そしりでネットワークされています。そういう人との関わりを絶つのは、難しいものです。表現できないために表出やコミュニケーションが生きがいになってくるからです。

 

創造には、膨大な労力がかかります。他人と関わってグダグダいっている時間などありません。

 

暇だから、他人のあら探しのなどで自己充足しようとなります。そうして、どこのスクールも組織も悪しきサラリーマン化、官僚化してしまうのです。志の違いには、本人が気づくまで待つしかありません。

 

人前でやろうとすると、仲良くすることに専念します。いうことを聞いてくれる、頭数としての客を欲しいからです。そうして、純粋な情熱が曲がっていくのをみるのは、悲しいことです。

 

人に寄っていく人は、そうしている限り、何もできないのです。どこでも人が集まるところに、必ず見られる光景です。

 

本気でやれば、中途半端な仲間も客も吹っ飛んでしまうから、孤独にならざるを得ません。そこを乗り越えるためには、それ以上の実力が必要です。自ら常にいろいろと学び続けることです。

 

どこでも、そこにいることが目的になってしまってはよくないと思います。

 

 

 

 

「トレーナーの使い方について」

 

○日本のトレーナーの限界

 

 

 

レクチャーでは多くのプロ志願者と接してきました。すると、あたかもどこかで親切なトレーナーをみつけて、ゆっくりと自分の才能のなさに気づかぬように夢をあきらめさせてもらうプロセスをとっていくかのように思わざるをないことが少なくありません。

 

大切なことに気づきたくないから、皆、気づかないふりをして、そのうち考えなくなるのでしょうか。トレーナーも、その人のために一所懸命教えているつもりで、それゆえ、結果として引導を渡すことになっていることが少なくないようです。

 

 

 

〇現実を知る

 

 

 

根本的なものが何も変わらず、今の自分の線上でやっていけば、将来がオンしていくと思うことの甘さが、まったくわからなくなりつつあるようです。それがわかる才能があれば、20歳までに日本でなら、プロとなっているでしょう。昔なら、先生といわれる人は、そういう人には、この道はあきらめなさいと言ってあげました。

 

そうならないのは、表現はとにかく素晴らしいものということ。(だからといって、それをプロとして選ぶことは違うし、そんなわかりきったことをいっているのは、おせっかいなことですが。)

 

トレーナーの生活や、アーティスト活動が、生徒という名の客に依存している現実もあります。ポップスでも音大でも、悪しき依存構造をとっているのです。これが先生が先生としての地位を守るために家元制のようになると、形骸化します。

 

他のアートと違い、人が集まれば、成り立ったかのような印象をぬぐうには、よほど厳しい姿勢で望まないとなりません。メロディに歌詞をつけてトータルサウンドでパッケージしただけの、インスタント商品がいかに多いのでしょうか。

 

 

 

〇才能の発掘

 

 

 

私は、常にその人の才能として見出せるものを求めてきました。自分の力をつけるために、来ているのですから、他人に頼らず、自分の力を出し切って、まわりに認めさせていくことを覚えなくてはいけません。

 

お金を払って、お客さんとして対してもらえるスクールでは、なかなか両立しないものです。日本の場合は、先生にも、才能よりもコミュニケーション力、スクールも、内容よりサービスの方を期待されるからです。

 

強くなればマナーが身につき、マナーが身につかなければ強くなれないということがわかれば、誰よりもしぜんにマナーが身につくはずなのですが、マナーをよくすることが目的になってしまう。これでは、アーティックなことはできません。

 

トレーナーは、その人のサポーターであっても、生活上のカウンセラーやヘルパーではありません。ところが、日本では、メンタルトレーナー以上の役割を期待されるのです。

 

人に依存してしまう人ばかり受け入れてしまうと、能力のある人材は去ってしまいます。そこで日本の組織はどこでもダメになってしまうのを、私は見てきました。

 

自分自身を、トレーナーを使って生かし切ることができるようにアップしていくことです。学校のように、誰もを12割能力アップさせ、平均点にするのではありません。23倍の能力アップを目指すことが、トレーニングの必要性を増し、それゆえ効果をもたらします。

 

レッスンには、自覚を持たせ、人前で一人でやるときに充分に余裕がもてるほどの厳しい基準を与えることです。本番よりも厳しい場としてレッスンを置くこと、一人ひとりが他人と違う、自分のための試みや利用をできるように柔軟性を持ちつつ、必要なこと以外に無駄な時間をとらないように専念することが望まれます。