「プロ歌手へのレッスン」

○プロ歌手へのレッスン

 

 すでにプロである歌手に対するのと、そうでない人のプロになっていくプロセスに対するのでは、トレーナーのとるスタンスは異なります。プロ歌手についての定義や分類などというのは、現実や過去の歴史をみて、実物に当たればよいことですが、アイドルや役者、タレント出身の歌手になると、問われる要素から違ってきますから、やっかいな分野なのです。

 素質と、それを伸ばすこと、さらに足らないものを補わせること、この3つを述べます。そこに3つの歌のレベルを想定しておきます。

A.プロ歌手 世界の一流レベル

B.プロ歌手 日本の一流レベル

C.プロ歌手 日本のデビューとそこから10年レベル

分類をするのは、問われるレベルと要素が違うからです。

 ヴォイトレの意味がわからないというプロの歌手や役者、プロデューサーがいるのが、CとBの間で、論じているからです。トレーナーもCとBの下ので対応しているからです。

 デビューとデビューから10年レベルを、同じところにおいたのは、日本では声の力においては、あまり変わらないか、デビュー時よりも劣っている人が多いからです。

 演歌、歌謡曲に至る一連の流れ、浪曲、民謡などのレベルは、昭和の時代をピークにしています。トレーナーでいうと、1980年代後半あたりからは、1960年あたりのレベルを超えていません。私の親の世代のトレーナーは、日本の歌を育てていました。当然、次の私たちの世代は、それを世界のレベルにすることでした。そこに至っていない現実から、私はスタートしたのです。

 1990年代に、J-POP、カラオケの隆盛で、歌はプロから、一般の人のものへ移りました。トレーナーも、そこに対応するようになったのです。

 私は、私の前の世代の方が、科学的なことや知識はともかく、指導においては適切であったと思っています。それでトレーナーに対しても、ここで述べているわけです。

 

 普通の人(仮にレベルDとしますがCと変わらないかもしれません)が声をよくしたいというと、トレーナーは心身のリラックスを教えて、よくなったと言うと本人も納得します。日常で足りている声を、不調だからバランスを整えて、マイナスをゼロにしてOKです。これは今のヴォイトレの現状です。歌い手も同じです。

 世界のレベルを目標にして、歌の二極化(私の、アナウンサー-キャスター、ナレーター-パーソナリティーなどの対立構図を念頭にしてください)は、その上にようやく合一できるということです。

 

○目的と基準のおきかた

 

 実力のある歌手に、2曲の歌唱レッスンをします。表現力と基礎力をつけるためにいらしています。基礎力は、私は一声、一フレーズでみます。そこのトレーニングは、基礎を身につけているトレーナーに任せています。一流のオペラ歌手でなくとも、その基礎条件を持っている声楽家で、一般の人やポップスに理解のある人なら、務まります。私のところのトレーナーのことです。

目標レベルは、たとえば、オペラの一フレーズが歌えるための、声域、声量、共鳴、発声、呼吸、体と音色、コントロール力を持つことです。Caro mio benやコンコーネの1番の冒頭ができたら十分です。音大入試でなく、大学院レベル、劇団四季のオーディションで受かり、契約更新が確実なレベルとするのもよいでしょう。

 ここで日本のプロ歌手(と自称する人の4分の1は、こういう必要性もないかもしれません)で研究所にいらっしゃる人には、私は基礎として、日本のミュージカルや合唱、ゴスペルなどでも通じるクリアでシンプルなレベルを最低ラインにしています。

 

〇周りに合わせない

 

 他の人と合わせるための耳の力、発声の力を最低限の音楽的基礎力としてつけます。

 周りと比較しやすいと自分のことが分かるのでヴォイトレにくるのです。周りと比較するというのは、日本人の場合、周りが皆似ているために、それに合わせようとしてしまいがちです。「類は友を呼ぶ」も「朱に交われば赤くなる」は、あまりよい意味ではありません。多くは、日本のミュージカルのように、宝塚のように、なるのです。日本のシャンソンやジャズのように、なるのです。批判しているのではありません。ファンはそういう世界が好きですから、ファンの色に染まるのです。でも、逆ではないでしょうか。

 その中にも、かつてはそういう分類にとどまらない、個として発色するスターがたくさんいました。オペラ、シャンソンカンツォーネ、ラテン、エスニック音楽、日本にも、お笑いから踊りまで、世界のものを取り入れた時代があったのです。今はどうでしょう。

 この二重構造が、オリジナリティの発掘、創造、評価を難しくしています。反面、どの分野も、どこかの国の大使のようなプロデュース型―あるいは翻訳型のアートが、日本では評価されやすいです。初めて持ち込んだ(初めてつくったのでなく)のが、第一人者になるのです。

 

○基礎の3レベル

 

 これは

A.歌手レベル

B.日本の一流歌手レベル

C.世界の一流歌手レベル

の条件を持つとするとわかりやすいでしょう。

 分類すると、1.体、2.呼吸、3.発声、共鳴、音色、4.声量、5.声域、6.音感、音程、7.リズム感、8.フレーズ、9.構成、展開、10.オリジナリティ、

 オリジナリティも、声そのもの、発声フレーズ、組み合わせ、と分けます。基礎のところで、その人の声のタッチやフレーズでのオリジナリティは充分に出ます。それにことばがついたくらいが歌なのです。

 声の完成(音楽的な声のフレーズ)に対して、ことば(母音、子音、発音、強弱、イントネーション)があります。ことばがつくと歌のように思われていますが、スキャットなら、ことばはいりません。

由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」の前半部分とか、サラ・ボーンの「枯葉」にいたっては、スキャットでほとんどもたせています。サッチモルイ・アームストロング)のトランペット演奏の部分と同じことです。

 

○役者の声の個性

 

 私のところは、役者も来るので、声の基礎+セリフの表現と、声の基礎+歌唱の表現で、大きく2つにコースを分けています。リズム、音程練習などは音楽基礎として、歌唱につけます。

 声の完成に、発声からフレーズを音楽的にこなす力(メロディ処理)をもつというのは、私のブレスヴォイストレーニングの原型の最終形です。外国人レベルの表現力を含める可能性のある声をつくり、そこに歌をのせるのです。歌は後からついたのです。

 

〇ミュージカルを比較

 

 日本で最初に参考にしたのは、日本の歌手や声楽家ではなく役者でした。役者の声を持てば、歌が変わるということです。そこにあったのは、声の表現力、個性といったオリジナリティの豊かさです。

 日本のミュージカルと黒沢映画を比べてみてください。あるいは日本のミュージカルとブロードウェイのミュージカルの明確な差を感じてみましょう。劇団四季の人がたくさんいらっしゃる前から、マドンナプロデュースの「エビータ」(マドンナ、アントニオ・バンデラス)とで徹底した比較をしました。主役の2人だけでなく、他の歌についても差が何なのかということです。ブロードウェイへ行く人も何名か短期でみました。

 声の芯、深さ(胸中共鳴)、そして声量(圧力)やインパクト、エッジ、ハスキー、リズムや切れ込みの鋭さ、加速度、パワーなど、日本の歌が失ってしまったもの、追いつけていないものがあります。

 日本の歌とひとくくりにするのは乱暴ですが、そこを足らないと気づいた人が変えていけばいいのです。このあたりは、私は、

 やれている人はやれていることでよしとし、

 さらなる高みを目指すなら、+α

 やれない人はやれるための+α

それがレッスンやトレーニングで得られると考えています。

 

 得られないものもあるでしょう。日本の評価基準も確立していない。メロディとリズムが取れて、そこに歌詞がのっていたらよしというように問われているぐらいでは(その形が音楽や声なのに、ルックス重視となれば)、ど真ん中のトレーニングで成り立たないのは当然でしょう。1980年代からの作品の多くは成り立っていなかったとみてよいと思うのです。

 

○表現の3レベル

 

 表現の3つのレベルについて述べましょう。

C.全体をまとめ、無難にこなす。

B.発声の響きで統一し、丁寧にことばを処理する。

A.本人の最も武器になるものを中心に表現する。

としてみます。

 Bには、個性的で歌はうまくない、けれどもパワフル、インパクトのあるプロの歌手もいます。これをB2としましょう。役者型ということです。シャウト系やシンガーソングライター系が含まれます。

 B1は、オーケストラや合唱団などとフィットする歌い手を考えるとわかりやすいでしょう。私はこの2つのBを日本の二極と言ってきたのです。ミュージカルでもB2は少ないです。日本にはB1とB2と併せ持つ人がいないのです。

 AはB1+B2+Cです。B1やB2は含まれて目立ちません。世界の一流のヴォーカリストと呼ばれている人の顔、ステージ、歌声、しゃべり声を思い浮かべてみてください。

 表現のA~Cは、本人の事情、目的やレベルもですが、今、置かれている立場、活動の現状も踏まえなくてはなりません。それに従い、Aへ歩んでいた人も、B2からB1にそしてCへ戻ってしまうことが多いのです。

 

○差を知ること

 

 世界に通じる声になりたいという人がいらっしゃいます。

海外のトレーナーを闇雲に高く評価する日本人らしい人もたくさんいます。海外のトレーナーは、日本人に対して大した覚悟をさせられません。実力差が大きいので、親善交流レベルです。

 それがなぜかを考えずに、1、2割の改善で、一流の指導を学んだという歌手やトレーナーもいます。単にその肩書を履歴につけたいだけ、毎年渡米して継続しなくては、お偉いトレーナーも不憫でしょう。

 フィギュアスケートJリーグ(サッカー)などと比べてみれば一目瞭然です。日本のトップレベルの選手は世界に並びました。

 ステージやレコーディングが迫っている人に、根本的なトレーニングは、表現力を一時落とさずには難しいということです。基礎はやりすぎることはありません。歌から一時遠ざかることもあります。

 発声に関するノウハウや新たなメニュを得ることで、歌が楽になったり、表現力を増すことはよいと思います。喉が荒れてくる人もいるのですが、ウォーミングアップ、クールダウンして使えばよいです。

 表現はよほどの実力のある人でないと、ど真ん中の声からやっていくと、バランスを崩しかねません。誰でもこれまでに「声は使ってきているし歌は歌ってきている」という事実です。特にプロは、かなり使ってきています。

 日頃の生活から、よいところ(プラス)も悪いところ(マイナス)も積み重なって、今の声に出ているのです。あなたがプロなら、すでにもっているものによいこともたくさんあります。そのために犠牲になったり、制限されたところもあることを忘れないようにしましょう。総合的にみると、これまで、あまりやっていない人よりは、問題が複雑になっているのです。

 

○スタンスの違い

 

 歌をみるとき、次のスタンスでみます。1.悪いところを目立たなくする。2.よいところを目立たせる。2が基本で1が応用、2がトレーニングで1がリハーサル前です。

構成展開から入っていき、実力のある人なら声の置き方や呼吸を変化させて歌をブラッシュさせます。テンポやキィをその人の最大の力が出るところに合わせます。

 腹から声が出ているような、喉が鉄でできているような外国人のシンガーが来たら、声の差は明らかです。それを音響、構成、声の統一性などで、客にはわからないようにするのが、日本のヴォイストレーニングに必要な条件かもしれません。ですから、注意も、口内のこと、軟口蓋をあげて、みけんや鼻腔に声を集めていくような部分的な事になるのです。

 前に、森和彦氏の指摘を引用しました(私の著書では、リットーミュージックの「ヴォーカルトレーニング」「ヴォイストレーニング」「ヴォイストレーニングの全知識」に詳しい)。

 スタンスの違いは、大きいです。日本のオペラが、一流の歌手を出せないのは、指導者がわかっていないためでしょうか。森氏は、山路一芳氏の師です。イタリアでは一般の人が出せるベルカントを日本の歌手が使えないのは、教養やテクニックの問題ではありません。もちろん、声楽家は使えているのですから。

 表現に対し、自然にありのままに自らの声を鍛えているかです。それをなくして発声や音響のテクニックでカバーしようとしているからです。

 

○表現からの基礎

 

 私は、基礎だけのレッスンを好むのも(ヴォイトレにくる人には)よいとは思っていません。基礎がなくては表現できないのではなく、表現の必然性が、基礎のレベルを高めるからです。

 自分があり、自分の世界があり、表現に結集していくのです。最初からそんなことは、よくわからないから、基礎をやって、テクニックでなく、自然に声が出る、自由に声が出る、おのずと人に働きかけるというのもありです。表現するのでなく、表現手段を得て待つことになります。普通は十代の時期にあたります。

 声は、あてるのでなく、あたるのです。トレーニングだから、方向づけ、意識づけをするのです。

 「今すぐできるようにするから問題」なのです。将来大きく確実にできているようにするのに、急ぎすぎないことです。その結果、少し先に行くと同じところをぐるぐる回っている人が多いからです。一冊の本から学ばずに、何十冊も読みっぱなしにしているのに等しいです。

 同じことのリピートが力をつけるのですが、リピートに飽きてしまうのはメニュや方法のままだからです。意識が基礎に厳しくないからです。細部の発声が変わり、気づいていくのを待ちます。同じものが違って聞こえたり、異なる感覚で発声できてこそ、一歩なのです。

どうして、こんなに誰もが見えるもの、わかるものしか求められないようになったのでしょうか。

 誰でもできていることなら、誰でもできています。あなたが今の力で少し変えてできるくらいなら、もうほとんどの人ができています。そういう日常で埋まるくらいの小さなギャップでは、トレーニングの意味はないと思ってください。1、2か月で学んだものは1、2か月で忘れ去られていきます。それでは体力づくりと大して変わらないでしょう。

 

○表現と判断

 

 表現について述べていきます。あなたが全力でやったところで70パーセント、そこから100パーセントに満たそうと思わないことです。そのギャップをずっと抱えていくのです。その日に100パーセントに整えると小に、3か月から1年くらいで100パーセントにすると中になるといったところでしょうか。

 ライブやレコーディングでは、応用して50の力で100に見せる方法や演出があります。そこは演出家、プロデューサーがプロです。しかし、カラオケの先生やヴォイストレーナーもそうやっています。

 

 多くの人は、カラオケのエコーのように、+αされたところも含めて実力と思うので、それ以上に伸びません。トレーナーも自信をつけさせるためにそこを褒めるでしょう。

 自分で厳しく判断することです。本音で言ってくれというのなら、私は1曲でいくつでも指摘します。いくつも指摘できるのは、表現、音楽など、どれかの土俵にのっているからよい方です。多くはそのレベルにありません。

 一遍に言っても伝わりようもないので、1年、2年、3年と、タイミングをみます。ガイドラインをプランニングします。そういう関係が成立すると、厳しい分、実力はつきます。多くのケースでは土俵にのっていないことに気づいてもらえません。

 

〇転機

 

 ビジュアル、ルックス、パフォーマンスが売り物の人のプロです。比較的、研究所には、少ないタイプですが、年に何人か(何組か)来ます。プロダクションからは、このタイプが多いです。そういう人は、昔なら20代半ば、今は30代くらいで転機が来ます。

 元々、与えられたものの表現をパフォーマンス中心で見せてきた人が多い。それでやってこられたゆえに、本当に表現に入るには、ゼロからやるくらいの時間と努力を要します(モデル出身の歌手はこの代表的存在です)。

 早々に限界が見えるのに、問題は複雑化しています。喉の限界は、ていねいに扱えば音響でカバーできます。ファンが声や歌での表現を大して求めていないので、考えなくてはなりません。プロデューサーにも相談します。

 こんなに話が本質からそれるのは、本質をそれたレッスンやトレーニングが中心で行われているからです。しかし、それも間違いではないのです。要求に対応するために、レッスンもあり、トレーナーもそうなるからです。それが価値のあるレッスンとは思いませんが、そうでないと買ってもらえないことも多いのです。カラオケがうまくなるためのレッスンなので、カラオケの先生に文句を言う人はいません。私は、トレーナーにも生徒さんに気づいて欲しいのです。

 

〇表現の基礎レッスンの実際

 

 表現のレッスンは、声よりも呼吸です。大きな呼吸の動き、その自由度を優先します。

一曲をテンポ早めで4回くらいのブレス(息つぎ)で歌いきってみましょう。作曲家になって自分の実感で作り上げていくプロセスを踏むのです。

 鼻歌(ハミング)→コーラス→歌唱のような感じです。なかなか1コーラス(一番)が一つにならないはずです。これを4つくらいで、構成、展開していきます。起承転結でも、Aメロ、Bメロ、サビでも構いません。ここで型(パターン)としてのフレーズに、その変化、伏線やニュアンスなど、表現に結びつくものが自然に出てくるとよいのです。

 難しいときは、フレーズ毎に作っていきましょう。1フレーズ(4~8小節)で1つ、それを組み合わせて4フレーズで4つ。4つが同じようにならないように変化をつけます。(展開)シンクロ+αで相似形、リピート(型)とチャレンジ(型破り)、安定させて変化させ、インパクト(迫力、パワー)と丁寧の両立と、二律背反することを入れていくのです。

 

○声から歌へ

 

1.声から(歌)→音楽へのアプローチ

2.音楽から(歌)→声へのアプローチ

で試してみましょう。できている(と思っている)ことを完璧にするために補うのは、基礎力です。これが、本当のヴォイトレです。

 

1.体→呼吸→発声(結びつき)

2.発声→共鳴(声域)

3.共鳴でことばの処理(声量、発音)

 

 ここに声域、声区、声質(地声、裏声、ファルセットとメリハリの問題も入ります。

 歌では高音域、頭声中心になりがちですが、低音域、胸声が基本です。強化には量での強さ、大きさ、太さが必要です。急ぎすぎたり、無理をすると喉によくありません。調整として、質をていねいに、弱く、小さく、細くやるのは、強化で無理をしすぎていないかのチェックによいです。

 

トニー・ベネットのF

 

「Fly Me to the Moon」をトニー・ベネットで聞いてみてください。そこからコピー→自分のオリジナリナルにする、のプロセスを踏んでみましょう。外国人の声と、日本人のプロの声を何曲かで比べるとよいでしょう。

 音色に注目してください。Fillで始まる2番は大変です。In other words ~の2回のくり返しを2コーラス、表現し切った上で、収めらますか。

 日本人のは、ボサノバ調などにして、喉でまとめているのが多いでしょう。歌いこなして、うまく処理しているようでも、そこに本人しかできない声での音楽、表現の成り立ちと創造の力は、弱くありませんか。曲のメロディの良さだけが引き立つとしたら、BGMと同じです。そういう歌を日本人が好むのは確かですが、ヴォイトレでの可能性からみると、もったいないことです。

 

○本当の基礎 

 

 一般の人でもプロでも、基礎を学びたいといらっしゃいます。本当は基礎でなく、せりふや歌を、プロのようにうまくなりたいのです。できたら、ストレートにセリフや歌を直したいと思っているでしょう。ですから、レッスンでも、せりふや歌を取り入れています。

 基礎は最初の5分だけというレッスンもあります。これは、目的とするレベルのプロセスへのスタンスの問題です。

 何もやっていない人は何をやっても伸びます。1つのレッスンから、学べない人も、1を学べる人も、100を学べる人もいるということです。気をつけることは、時間をかければ有利というのは量でなく、質的変化を伴うということです。

 レッスンへのスタンスについて、私は、レッスン前にレクチャーしているのですが、なかなかわかってもらえないこともあります。その私の力不足は、受け取る側の器不足は、こうしてフォローしているのです。

 

○本当ではない基礎

 

 歌唱に入るまえの発声練習で、スケール、母音の統一の練習を行っているのは、基礎というよりは、調子のチェックとウォーミングアップです。最後にそれを繰り返すトレーナーもいます。それはクールダウンになっている、レッスン前後の声の状態をチェックすることが目的のこともあるのでしょう。

 よい発声になっていると、レッスンの成果が上がったように思います。状態が整うからです。レッスンでも対応できなかったり、合わなかったりすると、状態が悪くなることもあります。すると、自分の力にショックを受けたり、レッスンがよくないと思う人もいます。しかし、その感じだけを知って、次のレッスンに臨めばよいということです。大騒ぎすることではありません。

 トレーナーが、あなたの要求に対応して、すぐに方法を変えたり、途中で中断したりすることもあります。これも一長一短です。言っておきたいことは、よし悪しを一回のレッスンで判断することは、あまりよいことではないということです。[E:#x2606]

 現場では、そこですぐ判断してメニュを変えて調整するトレーナーの方が優れているように見えます。見えるだけに厄介です。わかりやすさが問われる、トレーナーもそういう形にレッスンをしがちです。

固定メニュのレッスンをするトレーナーのと、相手に応じてメニュを変えるトレーナーの違いで、それぞれにメリット、デメリットがあるのです。

 

○教える―教わるの関係をはずす

 

 せりふや歌なら、表現としての成立は、オリジナリティです。セリフや歌というもののはるか上の判断をもってレッスンを行うことは、難しいでしょう。基礎なら、「体や感覚そのものを将来に対して大きく変えていくこと」を行うことです。

トレーナーは、「先での判断をもって今のレッスンを行う」というのが、私の考えです。

 リズムや音程も、複雑なものを、その音にあてることで、「正確にあてたから、OK」というのは、あまり感心できないことです。今の状況や状態での慣れを問うているだけです。その人にとっては進歩かもしれませんが、それをやらなくても、日常のレベルでできる人がいます。それが日本で日本人で、ということであれば、そのくらいのことなら、本当の実力にならないのです。でも、慣れから入るのも大切なので、入口としてはOKです。

 歌手は、そんなことで音感やリズムを得てきたのではないのです。発声のレッスンなのに譜読のトレーニングで終わっていることもあります。それも基礎ですが、人に教えるためにそこを重視しがちです。

 トレーナーに学ぼうとする人も、そういうトレーナーにつくのでその傾向が助長されます。器用な人と器用なトレーナーほど、そういう影響力で目的の設定をしてしまいます。

 

〇正しさでみない

 

 本当の基礎は、リズムや音程でも、そんな表面的なことではないのです。その上でのアプローチというのなら、よい場合もあります。音程、リズムは、発声の悪さや声域の問題から、うまくいかないことが多いのです。トレーナーも本人もうまくいったと思っているのに、うまくいっていないからややこしいのです。

 正誤でいうなら、その音にあたれば正しいです。あたらないことを間違いとするからです。しかしヴォイトレというなら、あててはならないのです。

あたっていなくてはいけない、あてなくともあっている、というレベルになることです。無理に意識的に行っていると、脳や発声器官が覚えて、自然と無意識にあたってくる、無理のない発声域において、そうなるのです。だから、そこを拡げるのが、基礎です。

 スケールや母音での声域、共鳴の獲得や、コールユーブンゲンでの音感、音程(発声、リズム、譜読、レガート、スタッカートなども含む)と、目的に応じていろんなメニュがセットされます。あなたの使いやすい音高、母音、長さ、強さ、音色、響きは、他の人と必ず異なるのです。

 「使いやすい=将来のベストではない」ということも注意しましょう。

 

○メニュはシンプルに

 

 音程、リズム、スケールは、基礎として全パターンのトレーニング音源をつくりました。コールユーブンゲンでも、本当に使おうと思ったら、難易度が高いからです。ずっとやさしいメニュでさえ、ほとんどの人は音を取るだけで終わっています。自然に理想的な発声でできていないことを知るために、シンプルにしたのです。

一方で、発声を耳から直していく、正すために、思いきり高度なものを入れていく、これは、表現から学ぶことです。その高度なことに耐えうるために基礎を行うので、シンプルにします。表現と基礎応用も基本は表裏一体です。

 日常レベルで優れた人が何のトレーニングもせず、できてしまうものについては、基礎や表現で考えない方がよいし、そういう基礎や表現の前提が必要条件になると思わない方がいいのです。[E:#x2606]

 絶対にトレーニングをやっていないとできないこと、5年のトレーニングをやった人と同じことをしようとすると5年はかかるというレベルに目的を設定した方がよいのです。その分、年月はかかります。だからこそ一日ですぐによくなるレッスンとは相いれないのです。

 このあたりは私の根本的な方針です。

 レッスンは、そのチェック、判断、基準と、それを満たす(補う)材料の提供です。そこから具体的にどのようにするかについて考えます。

 

○器と耐久力

 

 「器を大きくする」と、私はよく使います。これは応用力をつけることです。仕事でのいろんな要求に応えられるようにすることもですが、本当は自分の最もオリジナルなところでの表現(これは、それゆえ、しばしば世の中に認められない、嫌われる)を通じさせる力ということです。

 日本の、誰かのようになれば充分という、輸入文化のまま、「外国人のように」とか、「昔の師匠とか先生のように」と、他人の作った基準でみてしまうのは三流国です。いつも、ダブルスタンダードとして両立させる努力が強いられます。

日本では、器用にまねのできる人が重宝されるので、そういう人がプロになり、トレーナーになり、悪循環が続いています。

トレーナーと実力派アーティストとの関係が築かれていかないのは、歌のレッスンは心身の管理に終わっているのは、なぜでしょう。プロ歌手も、基礎と言いつつ基礎を身につけようとしていない、喉にかからない共鳴で正確に歌いこなせたらよいというのが実状です。

自分の体からの芯のある声でのオリジナリティの確立に至らずに、です。

一流のアーティストや役者に、対応できているトレーナーはとても少ないのです。アイドルやモデル、タレントにアドバイスできてよしとするくらい、スタッフ、トレーナーとも、未熟な世界です。声も弱体化してスターも出なくなったのです。

 

〇器づくり優先を

 

 レッスンは、目に見えやすい、わかりやすいもので、素人にも判断できる高い声(音域)、発音(ことば)音程、リズムが中心になりがちです。歌は、バランスでみるので、どうしてもそうなります。

 それが、役者でもあるはずの歌い手から、声そのものの表現力や個性を奪ってしまった要因です。役者は声量とせりふ(表情、しぐさ)力、のどの強さ、タフさが条件でした。昔の歌手もそうでした。声の基本の力がなくなり、歌手も役者もタレント化しています。一度、本質に戻らなくては、ヴォイトレも先がないと思います。

 

 器の要素

 喉 声 呼吸 体

 声の高さ、共鳴(母音、音色)、長さ、大きさ(強さ)

 長時間、タフに

「メンタルからフィジカル、そして」

○メンタルからフィジカル、そして

 

 メンタルの問題、心療内科精神科医につながるようなことについて、フォローすることが増えました。何人かのトレーナーにも基礎的なことを学んでもらいました。私が大学性の頃に学んだことや音楽療法などで知ったことも役立っています。

 そういえば、私が学んだとき、無益だった現象学は、ヴォイトレについて多くの示唆を与えてくれました。心理学も社会学も実在主義など哲学も、上の世代の人とやっていくのに、うまく働いたのかもしれません。

世界を飛び回り、言語、民族、体の相違に突き当たったときに、比較文化論やレヴィ・ストロース、コンラード・ローレンスなど、どこで何が役立つか分からないものです。もっと学んでおけばよかったと思います。これまで思わなかったのですが、今は、そう思うのです。

 

 メンタルやフィジカルについて、パーソナルトレーナーでは優秀な人が出てきて、マスメディアが取り上げるようになってきました。

斉藤孝氏の「声に出して読みたい日本語」のヒットの頃、身体論が見直され、音読メソッドから、川島氏に代表される脳トレ甲野善紀氏の古武術などの、流れの延長上に、ヴォイトレの一部ものってきたように思われます。

 ヴォイトレ、声への関心も高まり、新しいトレーナー、トレーニング法がたくさん出てきました。私も音楽の分野から、役者、声優などを経て、一般の分野に引きこまれ、これまでと違う人たちと出会うことになりました。健康としての体への関心が高まって、「TARZAN」のような雑誌が売れ行きを伸ばしています。腹をへこますとか、体幹インナーマッスルとかで、科学的、生理学的なトレーニング法が出てきたのです。美容や老化防止(アンチエイジング)に結びついて、老若男女問わずブームとなり、いろんな機器や小道具も登場しました。

 ヴォイトレも少なからず影響を受けています。オリンピックを目指して奔走したスポーツ科学に比べると恥ずかしいばかりの程度ですが。

 

○一般化による退行

 

 芸に関わらず専門分野の一般化は、メンタルやフィジカルで選抜されていた優等生ばかりだったところに、そうでない人が入ってくることに伴い、様々な問題となって現れてきます。専門家の方法が通用しにくくなり、混乱してきます。目標と必要性、意欲についても異なるので、当然のことです。

 頭で考える人を神秘と科学で虜にしたオウム真理教のようなことにもなりかねないのです。私は宗教を否定しているのではありません。宗教なしに音楽のあるのが不思議なのが、一般的な社会です。

 声は体から出ますから、声を使う人、歌手や役者は、肉体芸術家、肉体労働者です。体が楽器です。楽器の演奏者ですが、楽器が内在化し、身体の中に入っているので大きく違います。体と心とを一緒に手入れします。

 歌い手や役者は、感性の豊かなアーティストでありつつ、ハイレベルな身体能力を持つアスリートです(「感性について」は、私のサイトでの研究をお読みください)。

 

〇理解とトレーニン

 

 ヴォイトレは発声も呼吸(法)や聴力など、身体と習得していくものです。体への理解と、体の発達にトレーニングを必要にします。それを頭で考え、やろうとする人が増えたことが問題です。

喉の仕組みを知って、正しく使うことが、前提という考えを持っている人が多くなったことに、ショックを受けていす。

1/10の1/10で、「100人に1人くらいは、それが必要」と述べました。本当は1パーセントの人も必要としないことです。ざっとみると2人に1人くらいは、私の読者でさえ(いや読者ゆえ)正しいことを勉強しようとしているのです。

 

たとえば今はトレーナーが否定している、昔ながらの大声トレーニングがあります。役者出身のトレーナーには、続けている人もいます。そこで成果の出ている人がいるのも否定できないのです。

 合理的な方法をとれば、より早く、より良くなると、科学的なことに「絶対だ」と考える人が多いのですが、何ら確かなことではありません。ただし、喉を痛めてまで練習している人には、自分だけで行う練習を、全否定しないまでも、お勧めしていません。 

 

〇選択問題

 

 楽に少ない練習で、すぐに50の出来になるのと、時間をかけてたくさんの大変な練習で60の出来になるのと、どちらをとるかというときに、昔の人は後者を、若い人は前者をとるのかもしれません。これが効率というものの正体です。その選択のどちらが正しいとは言いません。仮に設定した選択問題です。                               

                         

 現実には、1か月で50を得る人も、10年で25も得られない人もいる、という世界です。それを確実に1、2割増しのリターンにしてあげるのがトレーナーの仕事かもしれません。それは早さ、労力、質のどれでしょうか。私は質にこだわりたいですが。

この背景には、マイクを含めて音響技術の発達があるのです。アカペラ、マイクなしの勝負なら、60、70、80しか通じないのではっきりします。そこを基礎とするのか、余力とするのか、余分、無駄とするのかは、考え方によるのです。少なくとも、私は、選べるところまでみせたいと考えています。

 

〇絶対量の累計経験

 

 人より優れるためには、誰よりも練習しなくてはいけないというのは、馬鹿正直な考えです。そこから抜け切らない人も少なくなりました。

声について、私は日本で一番とはいえませんが、ある時期、これほどやる人はいない、と思えるところまでやりました。

 歌については、私は声の100分の1もやってないのですから、小さい頃から歌っている人に敵わないのです。ヴォイスの専門家は、プロの歌手ではないのです。

量が質をもたらすことを私は体験から熟知しています。アテネオリンピックの800メートルで、ゴールの200メートル前からダッシュして抜いて金メダルを手にしたのが、水泳の柴田亜依選手です。毎日5時間18キロ、他のオリンピック選手の1.5倍練習したといいます。因みに、私の体形は、10代の2年間の水泳で逆三角形に変わりました。どんな知識があろうと、毎日の体での積み重ねがないと、変わらないのです。

 

〇人と違うレベルの声

 

 大声トレーニングで教えているベテランの役者に、プロの役者とやっている人に、トレーナーが「方法が間違っている」とか、「科学的な理論と違う」と言うとしたら、「ちょっと待て」です。

 練習をして、自分の声を、人が一声聞いて、鍛えられている、人と違うレベルだ、信用できると思われるだけのものにしておくことです。

 私も後進のトレーナーを育てている立場です。いつもこういう点について、頭で勘違いしないように、伝える努力をしています。読んだあと、頭を外して身に付けていただければ嬉しいです。

 

○知識と実践

 

 生理学や運動学は学んできましたが、現場では、私はそれを机上のQ&Aとして、知っていても使わない、使えないものとして、封印しています。研究所には、人体の骨格や喉などのパーツの模型が、いくつも揃っていて、まるで病院か理科室のようです。しかし、私は、それでしか説明できない質問のない限り使いません。権威づけには効果的ですが、レッスンの本道とは関係ないからです。トレーナーが知識も知っているのは、よいことです。ただ、使い方、使うときを誤らないことです。

 

 「喉で声を出すな」の世界で、「喉からどのように声が出ているか」を教えるのは矛盾しています。知ることはよいことですが、知っていることで囚われていませんか。忘れられたらいいのですが、最近は、知らないとうまく出せない、知るとうまく出せるような、トリックが幅をきかせているように感じます。

 レッスンを受ける人も説明されると学んだ気になり、得した気になります。科学的とか、理論というのは、よい売り物になるのです。でも、ピアノを弾きたい人が、調律師やメーカーにピアノの仕組みを教えてもらうことは、レッスンと関係ありません。貴重なレッスン時間では、もっと優先すること、時間をかけることがあるのです。

 

〇正確さを求めるな~ホムンクルスの図

 

 体のマッピングを正確に知ることが、絶対条件のように説かれることが多くなりました。自分の体ですし、まして、それを楽器として声を出すのですから、知ることも学ぶことも、教わることもよいです。ただし実演家として、最も大切なのは、正確な体のマッピングではありません。イメージをして最もよく発声できるようなマッピングが必要なのです。

 ホムンクルス(体性感覚)の図を見たことがありますか。それは感覚器のところが大きく描かれています。本来の人の実際とは、かけ離れています。イメージとしての図としては、その方が近いのです。もちろん、発声のイメージとして、よい図ではありません。

 

〇イメージの共有

 

 私はレッスンでよくイメージの図を描きます。体や頭、顔、喉、メロディ、リズムなども、二次元の世界でイメージとして伝えようとします。最初はわからなくても、だんだんと私が何を言いたいのかがわかってくるようになってきます。

 トレーナーと本人との間に共有できたイメージが全てともいえます。それを引き出すのにインデックスをつけたイメージのことば「キーワード」が、レッスンの要なのです。それは二者間でのクローズの世界ですが、私は、他のトレーナーや人にも伝わるようにオープンにしようと考えてきました。

 スポーツより難しいと思います。目でなくて耳の力に負うからです。耳の力を目で補うために、コンピュータでの音声の解析は、発達しましたが、同じ理由で限界があります。

 

○身体知

 

 身体知の話です。私が量のことを言ったのは、根性や精神力や忍耐のこととは違います。かつて芝居の修行などはそういう中で磨かれていったと思います。しかし、私は心地よくさせることでの声の習得を目的としています。楽にというか、楽しく取り組んでもらいたいと思っています。でも日本では、楽しく取り組むのでなく、楽しくしていれば身につくような、大きな勘違いがありますね。

 

 身体に身についたものは、身体そのものの差やメカニズムのように思われますが、大半は脳によるもの、つまり、脳を進化させてこそ、可能になることです。それを最初に知っておきましょう。

 筋トレや柔軟をいくらやっても、やらないよりはよいのですが、そのままでは、スポーツ選手や楽器のプレイヤー、歌手にはなれません。

 記憶術をいくら覚えても、それで英単語を覚えられたのとは違うということです。テストでよい成績を取りたければ、テストの勉強をたくさんする。運動会の100メートル走で1位になりたければ、早く走れる本を読むよりも、瞬足というシューズを買う、いえ、走る練習をたくさんするということです。

 

〇脳の働き~シンプル、エコに

 

 プロの条件の目安について、私の体験でもあり、一般的に言われていることです。発声と違うのですが、ピアニストの指、これは常人離れして強いと思いますか。実はアマチュアと差がないそうです、つまり指のタッチの筋肉系を鍛えても、空手などではよいのでしょうが、ピアニストには、さして関係ないのです。

脳の働きが違うということです。それがどう働くかというと、神経細胞などは、ど下手な私などが弾くと、めちゃめちゃに働き、プロの一流は、いつも通り変わらないそうです。

 これはスポーツでならわかるでしょう。水泳で素人が選手と競泳すると、素人の方が速くたくさん腕や足をバタつかせて力も入ります。プロはひとかきでスーイと伸び進みます。すでにしてシンプルに最も効果的に働くように、プログラムされているのです。

 あなたが初見で歌うと、つっかかる曲も、100回練習したら、楽に声が出るでしょう。シンプル、エコに、それで余力をもってプレイしなくては、人を感動させられません。

 つまり、専門化(スペシャリスト化)、職人化が行われているのです。いくら、喉や発声器官のあり方やメカニズム、個々の動きや状態のよし悪しなど、部分的にこだわったところで、一般的に、一、二割よくなるだけで大して効果ないのです。

 

○喉でなく脳の違い

 

 調律が必要な楽器は、狂いがあれば、うまく演奏できません。声は声帯がうまくくっつかない―ポリープや声帯結節など、どうしようもないのは、休ませて回復を待つか、手術などで元の音を出るようにしないと難しいでしょう。

 喉については複雑です。医者が処置をした方がいいケースもあります。しかし、発声に対しては、個人差もあり、喉で調整するよりは、体全体から発声において調整していくことが、何よりも大切です。

 

 ヴォイストレーナーが、発声のメカニズムを知っていても「喉頭のなかの声帯をこのように閉めなさい」と言わないのはどうしてでしょう。

なかには喉を閉めることを教えるトレーナーもいて、私はそれを否定するのではありません。外国人トレーナーにもいます。

 問題は、発声を体との関係で覚えて、発声、歌唱に有利な変化をしていっているかということです。

 注意することは、一人ひとりの喉が違うために、この変化について絶対無比に正しいプロセスはないことです。細かくみるのなら、一人ひとり違ってくるのです(これについては、以下に再録する「ロマのバイオリンの話」を参考にしてください)。

「表現やオリジナリティを踏まえて述べるなら、私はロマのバイオリニスト、あるいはインドのカースト制度下で音楽を生業としていた人たちの演奏を思い出します。楽器は、ボロボロの寄木のようなものから本人自身がつくります。手製でも、その耳とそれぞれの楽器に合わせた調整や、それを活かす演奏がプロフェッショナルなのです。楽器を半分つくり変えるほどの調整もしてしまうのです。[中略]私はあなたに、ここに述べたロマのすぐれた演奏家を目指して欲しいのです。自分のがどんな楽器であれ、それを疑わず自分流に最大限に活かせる工夫をして、最高に使い切るつもりでトレーニングにのぞんで欲しいのです」

 

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〇小脳で司る~筋肉の発達

 

自製の楽器の形状に合わせ、弓も弾き方も工夫していくのです。それは、感覚→身体→楽器の順であり、楽器だけの完成度を単体として問うメーカーの基準のようなものではないのです。

 

 考えてみれば当たり前のことです。ピアニストの指は、相手を倒したり、重いものを持つものためでなく、ピアノを弾くために進化させたものです。それに関わる筋肉の違いではなく、脳の細胞や指の神経細胞の働きによるところが大きいのです。

 これはスポーツでは、常識です。体の運動を扱うのは小脳です。

 ゆる体操の開発者の高岡英夫氏の監修しているサッカーのマンガでは、「大脳はテクニックを担っていて、フロントキックを蹴るプロセスを大脳が筋肉に命令する一方で、このテクニックが、スムーズに繰り広げられるかは小脳の働きにかかっていて、その時、筋肉は何も考えず、何も覚えていない[中略]筋肉は使うことで発達するが、筋肉の付く場所、形、量が違ってくる」とあります。

サッカー選手でも、軸がなく、背骨が屈曲し、固まり、大腿直筋が発達してしまう人と、軸があって背骨がゆるんで真っ直ぐ腸腰筋が発達する人とは、大きく違うといっています。この場合、サッカーということで、サッカー選手として問われることも違うと思いますが…。

 声はいろんな使われ方をするので、このあたりは、声―スポーツ、一流のオペラ歌手―サッカーのように大きく分けてみるしかありません。浪曲、詩吟―相撲のようになるのかもしれません。

  練習によって、筋肉を変える、筋肉の状態を変えるというよりも、脳を変えるということが大切になります。長期にわたり、本格的に一流を目指すのか、短期にあるレベルに楽に達するのかによっても違うでしょう。

 小さな子供ほど、早期学習、かつ連続学習の効果が高いのは、こういうことから頷けるでしょう。音楽にも脳の形成の時期における変容ということで、臨界期に近いことがあると察せられます。私たちは10歳には戻れませんから、現実問題、これからの練習について考えていくことになります。

 

イヤートレーニング~ヘッシェル回

 

 「楽器の練習や人の歌を聴くと、喉が疲れるから発声の練習は先にするように」と私は教わりました。確かにそのとおりで、イメージは声帯に働きかけ、歌っていなくても疲れることがあります。発声をしなくても歌いやすい状態にセッティングされるともいえます。

 歌うことをイメージするトレーニングは、脳の神経細胞を動かしますから、これも有効でしょう。このあたりは、スポーツでのイメージトレーニング(ボクシングのシャドーボクシングなど)で同じことをしています。

たくさんの曲を聴いているだけで歌がうまくなったり、発声がよくなるということです。

そこで、私は「読むだけで声と歌がよくなる本」にはたくさんの曲を紹介して、聞くだけでも根本から学べるようにしているのです。

 ピアニストは、ピアノの音を聞くと、指の神経細胞が動いているそうです。

量が質に転じると、ミスを予見して目立たないようにしたり、タッチに音色の違いを出したりできるようになります。弾いて出すより、聞いて修正するのです。つまり、聴覚野「ヘッシェル回(横側頭回)」の神経細胞の働きがプロなのです。

 耳のよさは

1.幼いころからずっとやっている人。

2.幼いころだけやって、大人になってやりだした人。

3.大人になってやった人。

4.大人になってやっていない人。

と、この順で鈍いのです。大人になってからでもやれば、幼いころの経験がなくても、よくなるということを知っておくと、自信になるでしょう(失音感楽症や自閉症の人など、ここでもいろいろ難しいことがありました)。

 

○早くより、しっかり

 

 喉に限りませんが、体、筋肉を固めると、同じように動かしやすくなります。そのため、初心者やアマチュアではまじめな人ほど正確さを狙って固めがちになるのです。トレーナーにも、それにこだわるまじめな人が多いです。

それに対して、プロは最大限、無駄をなくし、流れの中で効率的に扱うすべを身につけています(これには重力や反動などもあります)。

 早く正しくできるように急ぐのと、しっかりと身につけることがイコールでないことに留意してください。ただし、プロセスでの必要悪としてレッスンやトレーニングでは、固めるプロセスをとり入れざるをえないことが多いのです。ただ、それを自覚しているトレーナーが多くないことが問題です。

 遊びや、ゆるみ、しなりは必要です。頭をからっぽにし、遊びながらの練習がいいのです。笑いながら、アホな顔してやれば、力は入りません。

 これらは多くのレッスンと反することですが、イメージトレーニングで大切なのは、全力でやるのと、自分のフォームのあるべき姿は、大体において、違うということです。野球でも投球の軌道で打つのは違ってくるでしょう。目的によっても、鍛えられること、つく力も違うということなのです。

 「他のトレーナーのトレーニングをすぐに否定するな」というのは、初めての人には分からないことです。そのトレーナーもわかっていないことがあります。

 私はいつも間に入って説明しているので、誰よりもわかってきました。

 

欠点を洗い出すレッスンと、欠点をカバーする本番は真逆です。あなたのレッスンは、欠点をカバーすることしか教えられていないのではありませんか。毎日どんどんよくなっていくからよい、と思っていませんか。ミスしないということや高い声を出せるようにということと、効率のよい自然な発声は、異なることが多いです。

 そういう目的の一つから入ることは否定しません。プロセスとしては、無理しない範囲で、一つのことにこだわらず、大きな目的に格上げできたらよいのですが。

 

〇複数のトレーナーを使う

 

 私のところは、他のトレーナーについている人も受け入れています。ここのトレーナーの違いの幅よりも、巷のトレーナーとの違いは少ないとさえ思うのです。

大切なのは、違いよりも深さです。トレーナーの方法を否定するのではなく、位置づけを見直し、そのトレーニングの活かせるところを活かし、補うようにしていきます。

本人は、ここでゼロからやり直したいということが多いのです。そこは求める程度、深さの違いだと思います。

 

 複数のトレーナーがつくと必ずそのうち誰か一人が、相対的に合っていると思うものです。他のトレーナーはそのトレーナーほどではないと思いがちです。

その人の判断力は尊重したいのですが、その判断力の結果が、その人の今の声や歌の問題ということもあるのです。ですから、一時、問題と判断を保留することです。将来の器が大きくなるようにトレーナー選んで、できたら複数つけておくのがよいと思うのです。

多くの場合、トレーナーを否定できる根拠は、それほどないです。プロセスを経て、自分に本当にふさわしいトレーナーにつけばよいのです。

そこまでは自らがバージョンアップして、声や判断力を高めることが重要です。その時に、自分とは異なるトレーナーの判断の仕方に学ぶ方がずっと大きいのです。

 安心できたり、わかりやすいトレーナーは、あなたと同じレベルで判断しているに過ぎないのです。やりやすいということは、1、2割伸びたら、終わりというパターンです。

 どのトレーナーにも素直に対してみることが、大切なことだと思います。わからなくなったら、それもよいことです。私に聞いてください。

 

○フォームを身につける

 

 私が水泳のときに感じたことを述べます。あるとき、緩めること―力の逃がし方、リカバリー、クッション、流れにのる、妨げないというのがつながりました。最初はばらばらの動きが、つながった瞬間、体が水に乗るのがわかりました。それをコツ、タイミングというのです。

いくら本で読んでも体(腕や足)をもって実際に動かさないと、身につかないものです。独学でフォームが身につけられる人は、一割もいないと思います。

それはフォームができるのに筋力や関節の柔軟などの準備がいるからです。その上で、イメージ―全体、流れが感じられるほど脱力できることが必要です。それを支えるためには、体力、筋力が整うのと、それを合理的に使うのとの矛盾を昇華しないとなりません。支えられないと、正しいフォームにならないのです。

 体と一つになること、そのイメージは、そう簡単につかめるものではありません。

バスケットのシュートで「膝からシュート」と教わるのは、まさにそういうことです。腕の操作を気にしていては、全体は一つになりようがないです。

 プロとアマチュアの違いは、全体を使うか、部分を使うかともいえます。部分を使うと疲れが早くきます。正確さにも欠けます。しかし、固めやすいので、早く習得しようとするとそうなりがちです。

 これは初心者のテニスと同じです。手先ばかり動き、器用にラケットにあてて返しても、勝つことは、できません。素振りでフォームを体で覚えていないからです。部分的に固めて打つのをやめ、腰中心にフォームで打つことを強制されて、矯正されるのです。それを覚えたら、最初は大変でも、よりパワフルになります。完全な正確さも求められると必ずそうなります。手先のスマッシュでは持続は不可能だからです。

 

発声も同じでしょう。私は、腰から声を出していますから8時間声を出しても影響ありません。それだけでも聞きにいらしてはいかがでしょう。

 

〇トレーニングで可能なこと

 

体で声を出すことがわからなくても、イメージとして入るところからスタートです。

 息も同じです。息吐き競争にいらしてください。

オペラ歌手の一流の人は、誰にも負けないでしょう。

非日常でのトレーニングによって日常を非日常にし、非日常を日常にしたからです。

ここまではトレーニング次第で可能です。というより、トレーニングはトレーニングで可能なことを得るために行うものです。新しく鍛えて強化して、身体、喉、声を獲得することです。

 スポーツ選手やプレイヤーと同じく、声に関しても、優れている人を見たら、レベルがわからなくても、優れていくことはわかるものです。人間の素晴らしいところだと思います。

そうでないのは、頭でっかちな人や、中途半端にそれをかじった人です。そういう人は、素直にみられず、素人でもわかることさえ否定します。妬み、嫉み、やっかみのこともありますが、中途半端にやっていると偏ってしまうのです。やり出して2,3年くらいの人やトレーナーに多いのです。私もそういうときがあったのでよくわかります。それを改めて、超えなくては、人に通じるところへ達しません。

 頑張って身につけて、抜け出してください。山に登り始めると、山の形が見えなくなっていきます。山の形は見えませんね。上達すると声も消えてしまうものです。ですからシェルパーならぬ、トレーナーを利用するのです。無心となり、景色がよい、そのくらいに自然にありたいものですね。

 

○トレーニングの考え方とメニュ

 

1.自然のプロセスを妨げない

2.無用のことをできるだけやらない

レーニングは、意図的に何かを

1.より早くか

2.より高いレベルに

叶えようとするものです。ですから、普段の生活でも

1.声を出し(息や体を使い)

2.ことばをしゃべり(発音、調音、声量)

3.歌を歌って(声域、共鳴)

なじみのあるものとしておくことです。オペラになると

1.より深く響く声に

2.外国語で

3.アリアを歌う

と3つとも、日常とは異なる訳です。これを違うと捉えるか、延長上と捉えるかですが、非日常ゆえに、トレーニングになります。

ヴォイトレの位置づけについては、特別のものか、日常のものかは定まっていません。

1.声のキャッチ、確実に声にする

2.息を流す つなげる レガート(ロングトーン

このフレーズに、音色の変化、表現づけ(タッチ、ニュアンス)をするのです。

テンポ、声量、ピッチのゆるぎ、クレッシェンド、呼吸、ブレス回数、体のゆれにも注意しましょう。

ある研究者によると、ピアノの実力をキープするには、毎日3時間45分以上、練習がいるそうです。声の実力には?

 

○基礎の3ステップ

 

やればできるというなら、やらないでできていないものを目的とすることでしょう。スポーツのトレーニングの研究をすると、基礎といっても、いくつかに分けられます。スポーツでは、一般的に

1.基礎の基礎―柔軟(調整)

2.基礎―体力作り、ランニング(強化)

3.基礎の応用―特別なプレイへの動き(調整)、もしくは、そのための特殊なトレーニング(強化)

一概に基礎といってもこの3つがあります。2までは、腹筋や腕立て伏せなど、どのスポーツでも同じようなものです。3では種目において異なることです。

バスケットでは3は、ピボット(急に向きを変える)や、カニさん歩き、腰をかがめ、重心を低くして手を上げ、横に歩く=ディフェンスの基礎、

この上に、ボールプレイの

4.応用の基礎―ドリブル、シュート

5.応用―1on1(1対1)

6.応用の応用―3on3(5on5)

そして、本番は、10分の4クォーター(ピリオド)です。

 

〇10のランク

 

 実践形式のトレーニングを分けるとしたら、10くらいのランクがあるのです。

 2までは誰でもやればよい日常の延線上にあるものです。3から先は、プレイで必要とされることによって専門特化していくのです。バスケット特有の動き、トレーニングを、テニスや水泳の選手がやっても仕方ないでしょう。3からが、プレイには不可欠なものなのです。

 カール・ルイスは、100メートル、200メートル競走と、走り幅跳びを兼ねました。高跳びやハードルはやりません。これは3から先のトレーニングが矛盾するからです。つまり、速く走るための理想の体と、高く跳ぶための理想の体が違うのです。ストレートにいうと使う筋肉が違うのです。高く跳ぶ筋肉は、早く走る筋肉と矛盾してしまうのです。

 これを声や歌に置き換えると、どのようになるかを、私は課題としてきました。高い声と低い声、細い声と太い声。声域と声量、どこまで両立し、どこで矛盾するのかは、簡単に述べられることではありません。スポーツ以上に個人差があるのです。ヴォイトレにおける3とは、いや4~10とは何なのでしょうか。私がよく使う声の基本表を掲げておきますので、考えてみてください。

 

<基礎>

1.体

2.息、発声

3.共鳴

<応用>

4.発声、ことば、フレーズ感

5.リズム感。温感

6.構成、展開

<本番>

7.キャラクター

8.状況対応力

9.オリジナリティ、世界観

10.オーラ、人格、人間力

 

○思い込みという信頼感or依存心のチェック

 

次のようなことについて、どう思いますか。

・医者やトレーナーは万能である。体(病気、治療)や声のことは何でも分かる。

・医者やトレーナーは自分に合わせてくれる。合わせられる。

・レッスンやトレーニングをしないとよくならない。

・メニュや方法がないと不安である。上達にはアドバイスが絶対に必要。

・独自のメニュの方がよくなる。

・よくチェックするのがよいトレーナーだ。

・質問をしても意味がない。

・いつも、自分に最も良い方法でやっていると思う。

・有名な人ほど実績がある。

・プロデューサーやレコード会社は、未知の才能を発掘する。

・スタジオや設備が充実しているところがよい。

・マスコミによく出る人はすごい。資格を持ったり、学会、他、加入している人、海外などに有名な人に学んだり、習ったりしている人はすごい。

 これらについて考えてみてください。

 

〇メンタルが何割か

 

 私の親しくしている専門家は、声については、メンタルの問題が9割といいます。

・少し具合が悪いとすぐ専門家や医者のところに行く。結構なお金を払い、その分、効果があるように思う。

・長時間のレッスンの疲労感に実感を得る、コミュニケーションにおいて充実感や満足感を得る。

  喉の状態が悪いために、そういうところへ行ってよくなる例は1/10×1/10=100に1つです。しかし、行くのは悪いことではありません。そこで

 ・原因を教えてもらい、自分なりによい状態をつかむ。

 ・専門家と話すことで、安心する。

 ・信頼することで、将来への自信を取り戻す。

これは、メンタル面での効果です。大切なことですが、長い時間軸でみると、自分のもつ条件は変わっていないのです。つまり、現実には状態がぶれているだけのことです。それがトレーニングというのなら、幻想に近いでしょう。ヴォイトレが本当に効果をあげるのかが、各界の第一人者に未だ認められているといいがたい状況は、このあたりに原因があるのです。

 

 これは日本人の病院好きと似ていると思います。どこかしら悪いところをみつけにいく、病院で病名をもらいに行く。それがおすみつき、安心なのです。風邪で病院に行くのは日本人くらいです。その薬を貰わないと安心できなくて、眠れない。これでは自ら、病気になりにいくと言えます。

 

「原因がわかれば何とかなる」などというのは、科学の与えた幻想にすきません。

声についても、ほぼ推測、仮説での試行です。それでは心もとないから、「あなたは○○ですから○○をすればよくなります」というフォーマットでトレーナーは対応してしまうのです。いらっしゃる人から、そういう役割を求められてしまうからです。

 方法やメニュを与えても大した効果はありません。望みが高くないから、どんな方法やメニュでもそれなりになってしまうのでしょう。よくなったと思い込みたいので、よいところをみて、そのように思い込んでしまっているのです。

よいレッスンは、気づきのための基準と補うための材料を与えることです。方法やメニュは、それを使えばすぐに解決しそうと、すぐに解決しようとする方向で使われやすいために、害になりかねないのです。

 

無知の知

 

 トレーナーは、いろんな経験から、いろいろ学んでいますが、いくら学んでもわからないことはたくさんあるものです。わかっていることなどほとんどないのかもしれません。しかし、不安に思わせては、いらっしゃる人にあらぬ心配をさせ、効果もでにくくなるので、ニコニコと完璧なふりを装って対応します。

 何もわからないのでは困りますが、何がわかっていて、何がわからないかを知っていることが大切です。トレーニングするにあたって、私はできるだけそれを提示するようにしています。一般の人の最高の集中力で5分、それを何とか20分に引き伸ばして、30分弱というところではないでしょうか。

 レッスンの時間も長いほどよいのではありません。

 

〇チェックとは

 

 柔軟や声のチェックは、トレーニングではありません。声の使い方のアドバイスも、状態をよくすることと、将来の可能性の把握のために使うものです。

 本格的なトレーニングを集中して行うと、バランスを失うなどのデメリットも出てきます。どこかに副作用を想定して対処することを考えてアドバイスしているのです。

 

 私のところでも、トレーナーの見立てが異なるとき、トレーナーの個性で偏らないようにと、客観視することを務めてきました。必ず複数のトレーナーでチェックしているのです。

 チェックは、何がわかるかでなく、わからないものについて行うことが大切です。チェックは、事態をよくするためにあるのです。ですから、チェックそのものよりも、そこからどうするかが問題です。

 本人や周りが納得できるようにしたいのですが、納得したものが、本当によくなるとは限りません。

 いつも「自分の声について、他人任せにするな」と言っています。体も、生き方も、価値観も、目的も一人ひとり違い、それを伴うのです。まずは、あなた自分自身の目的を明確につかみ、示していくことです。

 

○現場のデータの蓄積と分析

 

 私が自ら声について行ってきたことをとりあげつつも、体験談など生徒自身の声を提示しているのは、それが現場だからです。こうしたことは、頭だけで考えられるものではありません。研究所であらゆる仮説を試行し、試行錯誤を通して完成に近づけようとしているのです。うまくいかないことも、ミスも当然ありうるのです。要はそれを放置してきたのか、修正しつづけてきたのか、ということです。その違いをみてほしいのです。

 

1.トレーナーの考え、理解、方法、メニュ

2.自分の考え

1と2は対立してもかまいません。いずれ自分のものとしていくというなら、トレーナーへ依存している比重を少しずつ自分に移していくことです。

 定義、基準、資格のない分野ですから、トレーナー本人のPRや肩書をうのみにしないことです。たとえ、学会でも、会費で所属できるところが大半です。あなたも入れるでしょう。その人がそこで、どれだけ活躍しているかをみてください。

 

○トレーナーを先生としない

 

 トレーニングは常に、形から入り、形をとり、(固定する)その形を取る(解決する)。そして、また1、2、3…と繰り返すのです。

 私たちもエビデンス(証拠、論拠)を求められることがあります。提示できることもあれば、できないこともあります。ハッタリも、プラシーボ効果として必要なときもあります。科学や道具を使っても、何にもならないことが多いのです。

 トレーナーの示す楽観的な見取り図は、レッスンを引き受けたり、キープするためだけのことも多いのです。どこまであなたを中心に考えているのかは、わからないのです。これはトレーナーに限らずどこでも同じです。

よいレッスンを維持できる環境や条件を求めなくては、トレーナー失格です。リハビリのようなマッサージのレッスンで、あとは何の効果もないことも少なくありません。

 

〇代替のトレーナー体制

 

 私のところにも、他の著名なトレーナーについている人が、

トレーナーが忙しすぎる。 

他の仕事で出張。出演が多い。

留学や休みが多い。

予約が取れない。キャンセルが多い。

などの理由でもいらっしゃいます。優れたトレーナーが実演家であると、教えることに全力をつくせないこともあります。そういうトレーナーの元からも、いらっしゃいます。

私のところでも専属トレーナーとはいえ、舞台があれば、やむなく休むときもあります。トレーナーが病気や事故ということもあるでしょう。その時に、レベルをおとさず代替や振替ができるか、そのトレーナーを引き継げるか、そういうことを考えている体制かを問うてください。

 

○不調の対策

 

 喉の病気といっても、休めて治す、自然治癒がメインです。本人が治すもので、トレーナーや医者は、補助にすぎません。

 薬や飲食物、スプレーなど、道具などを使っても、

1.体の回復(フィジカル)

2.心の回復(メンタル)

3.体力、柔軟、喉の状態の回復

を待つしかありません。

少しずつ、こういう状態から

1.鍛えられ

2.コントロールできるようになり

さらに

1.予知できるようになり

2.対応力もつくようになる

これが大切なのです。

レーニングは、調子が悪い時も舞台に立つための下支えです。トレーナーはその下の下支えなのです。

 

〇水分のとり方

 

世の中には、声のためにも、喉のためにもいろんな薬やツールが出回っています。アメ、水、嗜好品、加湿器、喉スプレー。そういうものを使う分だけ、あなたは、ひ弱になり育たないことにもなりかねません。

 例えば、発声のための喉の状態をよくすること、声帯に水分はとても大切です。しかし、いつも水を飲んでは発声していたら、ないときは大変ですね。唾液がもっとも良い状態に口内を保ちますから、水で流すのは必ずしもよくないのです。このあたりも人それぞれに違いますが、喉アメなどで整えるのは、お勧めできないのです。

 加湿するのは、喉には良いことですが、本番では乾燥や埃のひどい中でやることの方が多いです。そのあたりも、日頃からあまり甘やかさないのがいいと思います。

 無理して埃だらけの中で歌うような練習をしてはなりません。しかし、ステージの乾燥には慣れなくてはだめでしょう。それに耐えられるくらいのトレーニングも環境は用意すべきです。

 豊かな国のスポーツ選手が、アウエーで弱いのは、環境のためです。睡眠などを含め体調管理について、よほどの経験がなくては崩れてしまうからです。

 

○甘やかさない

 

 好ましいトレーニングのプロセスをまとめておきます。

1.自然に直す

2.自然に直すのを妨げない

3.自然に直すのを妨げていることを排除する

4.自然に直す力の衰弱を補う

自分の心身にそういう力をつけるのが、もっとも望ましいです。

空調も、空気清浄機も、加湿器もなくて、同じことのできる力のある人は本番に強いし、有利です。

人間は文明を発展させ、治療についても飛躍的にさまざまなツールを発展させてきました。ある意味、じっとして治している動物に見習うべきところがあるでしょう。

 

〇プリミティブに

 

1.悪い原因を探り、対処する(調整)

2.欠けているものを補う(補充)

3.強化する(鍛錬)

本来のトレーニングは3にあたります。

 頭で考え、科学的に分析すると1、2にエネルギーが行くのです。

 日本のサッカーのエリート教育みたいなもので、平均レベルは上がるがスターは生まれない。スターは、教育の前に、自由奔放に、路上サッカーなどで、その強化の時期をふんでいるので、天才となりえるのです。これはアーティストや音声を扱うようなパフォーマンスにも求められるのではないでしょうか。

 本能的に極限状態を求め、大きく器をつくること、それには、もっと野性的であってほしいと思うのです。

トレーナーの過保護、丁寧さ、やさしさ、ほめすぎ、リスクや危険の一方的な防止、禁止と甘やかすだけではなりません。

 規則正しい生活がよいのですが、いつも、そういうトレーナーの制止を、振り切れとも願っているのです。

 多くの人は、大してムチャもやってないのに制止を願っているようです。まるで自主規制です。これでは何万人どころか、何十人の心さえ動かせないではありませんか。そのうちヴォイトレ・ホスピス編を書く破目になりそうです。暴走するアーティストをなんとか制御するのがトレーナーやプロデューサーという関係でありたいと私は思います。

「表現と基礎の間で」

○表現と基礎の間で

 

 桜が舞い花吹雪が水面を埋め、桜色の流れゆくのにも心打たれる。これも自然の表現です。

私が枝を揺らすと、パッと桜が散ります。それを見て、小学生たちが並木を次から次と幹を両手で揺らしていきます。あまり、桜は散りません。

“そんな唄をたくさん聞いているな”と思いました。力づくでは、絵にならない、桜の幹の力に負けているのです。基礎と応用、そんな話をしてみたいと思います。

 

 最近、いろんな分野の専門家が、ここに学びに来ます。ここではいろんな分野のトレーナーもレッスンを受けています。他でよいレッスンをするためにここにいらしているのです。

 私は誰がいい、どれがいい、どの方法やメニュがいいなどに関知しません。そういうところで頭でっかちになった人の頭をはずすのを引き受けています。そういう人はたくさん勉強して覚えたら、声も歌もよくなると思い込んでいるのです。

 桜の散るのに心を打たれるには、素直な心で、受け入れることです。「ソメイヨシノが日本の桜の中では…で、それは…であり…」などという知識はいりません。学者とアーティストは違います。人よりも、感動する心が豊かに保つのに努力もいるのです。それは知識ではありません。もし知識とするなら、科学や文明よりは、教養、歴史や古典などを通してのイマジネーションをふくらませるものでありたいものです。

 

○100人に1人

 

 喉が弱いとか、傷めやすいとかで体の不調で医者に行くことは悪いことではありません。大体、行く必要のある人は、10人に1人くらいです。メンタル的に頼りたいとか、安心したいという本心で、5、6人でしょうか。整体やマッサージなどと似てきます。

 それは、そのときの心身の状態をよくすると声もよくなるということがメインです。それで1、2割よくなったり、元に回復したところで大したことのできないのは、スポーツやアスリートを考えたらわかります。

10分の1の人のうち、本当にそこに行って効果のある人は、更にその10分の1です。つまり、100人に1人、あるいは100回行って1回くらいでしょう。これでも、私は多めに数えているつもりです。

 

○声のリハビリ

 

 1年間入院していた人が、退院した翌日にマッサージでほぐしてもらっても、マラソンには出られません。私は1週間入院したことがありますが、その後1ヶ月、あまり体を動かせませんでした。そこで、3年の計画を立てました。1年目は、息と体、2年目は、発声と共鳴(半オクターブ)、3年目は、1オクターブ半(2年目にコンコーネ50を50番までやりました。最初は10曲でも調子が悪かったのが、2年かけて50曲できるように戻しました)、私がトレーナーゆえ、よくわかっていることであり、年の功です。

 

 いつも触れていることは、目的のための具体化したスケジュールと必要性の向上です。これが日々の計画と欲であり、表現と基礎ということにあたります。

 3年後のマラソン完走にはさかのぼってプランニングします。そして最初の1ヶ月目、1日1万歩、ジョギング、柔軟や体作りから、というようなことです。そこで医者に行くとか、整体師のところでほぐすのは、チェックとしてよいことです。

問われるは毎日、どれだけ練習をやったかということ、それと目的との距離、ギャップや方向づけ、それを埋めるプログラム、日々のトレーニングの計画をきちんとさせているか、ということです。

 

〇プログラミング

 

 研究所では、プロの表現については私が中心で、目標の決定から、管理し、プランニングをつくっています。基礎づくりは、初心者は、トレーナーにつきます。プロについては、その人の資質や方向によって、いろんなスタッフを加え、分担しています。

 少なくても100分の1や、10分の1をもって、自分の何かが大きく変わるような錯覚は起こしてほしくないのです。

 「その日の喉の調子がよくなる」ことと、「2、3年後の実力(声力)」がつくことは、全く別の次元のことです。

 ここでは100人に1人くらいは、治療などをした方がいい人もいます。専門外のことには、専門の人に引き合わせる判断をします。年に何人か、医者のアドバイスのもとに、トレーニングを併行していることもあります。

 

○声の症状と日常性

 

 声がかすれる、喉が痛い、声が弱いという症状でいらっしゃる人が増えています。養成所やプロダクションに入ったり、オーディションを通ったりした直後のプロやセミプロにも多いことです。

 昔は、喉について教えてくれる人はいなかったのに、今は、あなたの喉はこのようになっているとか、他の人と違う、などと、丁寧に説明してくれる人もいます。そのために、うまくいかないのは喉のせいだと思い込む傾向が著しくなってきました。

 アドバイスや知識を得るのは悪いことではありません。自分を知ることも、勉強するのは、よいことです。私も毎日、いろんな本を読み、学説や論文にも目を通しています。

 しかし、それは現場では大して使いません。というより、使えません。もっとも使っていると感じるのは、自己否定的な態度をとる人の根拠を崩すためです。知っていることによって、よくない方向に振り回されている人に、それを忘れてもらうためです。早くトレーナーを信頼してもらうのに必要なときがあります。

知識を信じる人は知識のある人を信じ、それを使わない人を信じません。知識の虜となっている人は、固まった頭をほぐさないといけません。

理屈で納得したいのですから、頭で理解しないと体や感覚にも効かないのです。それは大きな欠点です。細かいことや正しさにこだわる人に多いです。今の日本では一般的になりつつあり、結果として救われないのです。

 「それは確実に上達できるか」「絶対に効果はあるか」「何回、何ヶ月か、いくらかかるか」というアプローチをするような人です。

 私はその問いも半分は当然のことと思っています。できたら、これらの問いに対してクリアしたいと思っていますから、問うこと自体を否定しているのではありません。

 しかし、声や歌は日常のものであるからこそ、そういう問いは、不毛になりがちです。変えるためには、非日常なレベルに目的を置き、必然性を高めておかなくては、いつものレベルに戻ってしまうからです。

 

〇一日の効用~ワークショップ

 

 私は気づきを最大の効用とし、一日でよい声を出せるようにするワークショップには重きをおいていません。自分の今のなかでよい声が出たらそのままで通用するという、誤解を与えてしまうからです(私はそれを「ベターな声」と言っています)。

 それならば、なぜワークショップで出せた声が、同じ体なのに、いつも出せないのかということを追及して解決していないことが欠陥です。

 プロのトレーナーの演出のマジックで、心身がリラックスしそのときだけ取り出された声色、それは一人では出せないのです。

 喉の仕組みや腹式呼吸などの筋肉などの働きから説明されると、そのメニュや方法が、あたかも効いたかのように思うのです。

 そういうセミナーやレッスンは、コンプレックスの払拭のためのものです。自信を持つという効果が最大のメリットです。つまり何度も受けて慣れるというのなら話べたの人や緊張して人前でうまく話せない人などのメンタル改善にはよいでしょう。

 

○程度~ワークショップ

 

 私がバッティングセンターで、プロのバッティングコーチに打つコツを教わると、快音が響くようになるかもしれません。うまくいくと最初は、よい結果が出るでしょう。でも次の30球で息切れ、集中力が切れ、やがて腕がマヒするでしょう。

100球中、70球ジャストミートできる人は、1つの町内に何人かいるでしょう。そんな程度までとわかっていてやる分にはいいのです。イチローのように、小学校からマシンで毎日何百本も続けたら高度に身につくかもしれません。

 多くの人はワークショップの日で終わります。次に別のワークショップで、似たことをくり返します。知識は豊かになります。頭では理解でき、人にもしゃべれるようになりますから、一見上達したようです。が、体というのは毎日相当にやらないと変わりません。

 知識は100分の1の人に役立つ、あるいは100分の1くらいは足しになると言いましたが、その言い方を借りると、100分の99は知識と関係のない、体のトレーニングの積み重ねから生じる結果(効果)です。つまり、ワークショップや診断のチェックは入口、あるいは、その前提です。

私は、それが必要条件とか、前提とは思いませんし、害されているとはいいません。しかし、誤解を広めていることが多いのが現実だと知っています。

 一言でいうと、「中途半端な知識ほど害になるものはない」のです。私も本は読みますが、そこに述べられているからといって、そのまま使おうとは思いません。まじめな人は、何とかの一つ覚えみたいに、教わったり、読んだだけで、他の人のメニュを教えるのにも使っているようです。

 私はメニュや方法自体についてよし悪しはないし、使う人の技量次第と思っています。ですから、知ったメニュを試してみるのはよいと思うのです。自分自身に試すのもよいでしょう。

自分に効果があったからと、目的も資質もキャリアも違う人に、そのまま当てはまると思い込むことがよくないのです。

だからといって死ぬほど危険ということではないので、程度問題ですが…。トレーナーとメニュとの関係については、いろんな問題があるということです。

 

○バランスとインパクトにスタンス[E:#x2606]

 

a.ステージ=状態、調整、リラックス、バランス(声域)、本番

b.トレーニング=条件、強化、集中、インパクト(声量、音色)

 これは、私がよく使う声や歌の本番(ステージ)とトレーニングの違いを述べた対比表です。aはマイナス、ミスをなくす方向、bはプラスをみつける、個性を引き出す方向です。

 本人自らbからaに行くのが自然な流れです。つまり幹から花です。しかし、声に関しては日本では、幹がしっかり根を下ろさないうちに花を求めるので、あまり大きくなりません。

 日本では、形、それも輸入された作品のコピーや、そこからの評価基準を薄めて採用してきました。そのために、手本をまねる傾向が強いので、その形が漠然としていた頃は、まだ個性豊かでパワフルなスターも出ていました。だんだんと形をまねるだけになり、まさに形になっていったわけです。

 声楽家もヴォイストレーナーもaでの技術面については、うまくなったと思います。音痴やガラ声のような歌はなくなりました。それは同時に、個性をも殺すとまではいわないまでも、個性を伸ばせないようなものにしてしまったのではないでしょうか。第一級の人材が出なくなっています。

 私などはトレーナーの判断で、育てたりできるのは、一流のアーティストではないと知っています。そうであれば基準の判断力を与える、プラスして考え方や精神のフォローをすることで充分と思っています。

 それではレッスンになりませんから、きめ細やかにその人をメイキャップし演出していく、日本ではそういう形を持った人でないと使いにくいといった傾向があります。才能よりも、従順さを優先しているからですが…。

 

○フレーズ

 

 私が1フレーズにこだわるのは、その人の表現と判断の精度をあげるためです。

 ど真ん中にくればホームランとなる力を養います。そのために再現性が必要で、そのためのフォームもいります。タイミング、勘、筋力、神経など、あらゆる心身の能力のパフォーマンスを上げておくことです。ここに知識はいりません。

 喉が他人と違っていたり、声が違っていても、気にすることではない。むしろ可能性を豊かにしていると捉えることです。普通の人ならデメリットになることをメリットに高めてこそ、個性であり、一流への道を切り拓くのです。

 そこに研究者の協力があるとよいと思います。日本のスポーツも、それで補強されてきました。しかし、誰もがそこで力を培ったのでなく、育った人は、高める機会をもらっただけなのです。多くのアスリートは誰よりもたくさん練習し、覚悟し、自力で工夫してきたのです。頭を使うなら、自分のトレーニングにどう全力を投じるかということです。

 実際にはスタートライン前でうろうろしている人が多いのです。

 5キロ走ったら足が痛くなった、だから病院に行って、パーソナルトレーナーについて、というのは、なんと贅沢、虚弱かということです。

 喉の手術をしても、ドクターの制止を振り切り、2,3週間で現場復帰し、高熱や大病でも、それを隠して気づかせない、そんなプロも、同じ人間です。喉が合金でできているわけでもないのです。トレーニングで鍛え、リスクを背負ってきたからこそ、微妙なコントロールで鋭く使えるようになるのです。

 それに対して、第三者の観点からサポートしているのが、トレーナーです。

 昔の私は無視か制止をしていました。アーティストは暴走するからです。今はムチを入れなくてはなりません。アメを与えすぎられているからでしょう。これは時代が変わったというより、人間力の劣化と思います。

 

○役者と声楽家

 

 私が声楽家と組んでいるのは、彼らのオペラの舞台での実力レベルでなく、5年、10年、15年以上、発声や共鳴、呼吸を人並みでないレベルで高めてきたプロセスを買うからです。そこまでのプログラムと方向性に、発声の基礎の共通点を見出しているからです。

 彼らは、先輩、同輩、後輩と、一定の基準をおいて多くの他人の成長を長くみてきています。それは、よい経験です。

 研究所の発足時、私は役者の声をベースにして考えました。日本の声楽家一般よりも個性的かつ、強く豊かな声に思えたからです。ただし、日本の歌い手の場合、声域(高音域)での問題があり、そこでは共鳴を集めて行く必要があったので声楽を使うようにしたのです。

 役者は、3年、5年くらいは声もセリフによって鍛えられますが、その後は、表情やしぐさに声が従います。死にそうな演技をしたら、死にそうな声が出るのです。そこは個性というより、なり切りようです。死にそうな声のメソッドやトレーニングはありません。役者は、役によって、声はバラバラです。

 声楽家は、死の間際のシーンの表現にも体からの歌唱、つまり発声呼吸、共鳴をキープします。ことばは発声を妨げることでもあります。となると、セリフでの発声よりは、共鳴での発声の方が高いレベルをキープできます。

 これは、ことばを伝えるという限定のある役者と声の輝き(共鳴)を優先できる声楽家の大きな違いです。それを職業や現場での使い方で分ける必要はありません。

 私は、役者や声優だからこそ、ことばを離れた声だけのトレーニングをすることに意味を感じるとよいと思います。ベテランは、セリフを読ませたら、もうスタイルができていて、あまり直すところもない。さらに声の力をつけるなら、イタリア曲の歌唱(アリア)を使う方が、極端ゆえに気づく、変わる―という結果につながるのです。

 

○研究する

 

 私は、ヴォイストレーニングに、プロレベル、そして生涯、長期に使えるということを想定しています。どのトレーナーについているとか、研究所にいるとか、いないなどと関係ありません。

研究所をやめても、多数の人が会報を購読しています。レッスンに戻ってくることもあります。そういう例は他にはあまりないでしょう。声の研究誌を月刊で出しているところは、世界にもありません。

 研究所ですから、自分の研究をするのです。私もトレーナーも、レッスンにいらしている人も研究です。

 

 作家の渡部淳一さんが以前、「歌手は、覚えた曲を歌っているから楽だ。小説家は…」みたいなことを述べられていました。仕上げたら、またゼロから筋を考える作家は、大変だと思います。そして日本の歌手の多くは、彼らからそう思われても仕方ないほど、クリエイティブでないのも確かと思いました。

 プロでもデビューあたりまであったインパクトや声量が、昔なら7、8年、今や2、3年も経たないうちに、なくなるのです。無難に安定して、テクニックに頼った、危なげない歌唱になっていくのです。その結果、歌は、いや歌手の歌は市民権を失いつつあります。私たちの生活に必要なものから、離れていきます。そこに今の歌の凋落がある―とまでは言いませんが…。そういうステージを許す日本の客、プロは、ステージでは鋭いから、客に応じているとするなら、そういうステージを期待する日本の客というのがあるわけです。プロデューサーからトレーナーまで一色汰で、まさに日本らしいのです。

 私は、そうでなく、もっとも個の感覚や息にのっていく声、その表現を作り出す、場を提供してきました。しかし、多くの人が求めるのは、目先のテクニックや調整なのです。

 

○トレーナーとの分担

 

 トレーナー、声楽家は、現実に、ここにいらっしゃる方には、とても役立っています。ニーズに応えるのが仕事ですから、そこはそれでありがたいことです。

私も応用ということで、基本を掘り下げつつ、ムチャ難題、いろんなところで解決できなかった問題の持ち込みに対応しています。次々と新たな問題を持っていらっしゃる人がいるから、ここは長年、声の研究所として活動できているのです。

 何よりも、声や歌が育っています。それは、目先の結果でなく、何年後の感覚や体の違いに焦点を当てているからです。

 1、2割うまくなればよいという人はアマチュアなら、カラオケの先生、プロならプロデューサー、役者なら演出家にアドバイスしてもらえば早いのです。そこはヴォイスアドバイザーとして使い、ヴォイストレーニングに使うなら、もっとしっかり考えなくては、もったいないです。トレーナー自身も伸びません。少し歌えたり声の出る人が、もう少し歌えるように、もう少し声が楽に出るようにしているというのでは、大した成果をもたらしません。 歌のプロと演技のプロと声のプロは、違います。応用は、歌やセリフ、その基礎が、声なのです。

 

 私のところは、今年10年、20年とプロの活動をしてきたり、トレーニングをしてきた人もよくいらっしゃいます。研究所には私よりも年配のトレーナーも何人かいます。

 桜の美しさでいうと、葉桜の美しさを何年かしたらわかるかもしれません。歳をとってこそ、経験してこそわかることもあります。それを若いトレーナーに求めるのは酷ですから、いつも知っていることの裏に、知らないことがあること、きちんと知らないということさえ知らないということを、アドバイスしています。

 

○多様な見方を知る

 

 研究所内ではレッスンがマンネリにならないように、時々、他のトレーナーにサードオピニオンとして、一言アドバイスさせたり、ローテーションを変えることをお勧めしています(原則として、最初から2人以上トレーナーがついています)。

 研究所の外で別にトレーナーについている人が、そこを続けながら来ていることも少なくありません。私のところは、困りません。当人が、使い分けられたら問題はないのです。

 先方のトレーナーが嫌がる場合は、秘密厳守にしています。日本で有名な劇団やプロダクション、養成所では対外レッスンを禁止しているところがあります。そういえばオペラ界でも邦楽や落語業界でもタブーですね(音大では少し自由になってきたようです)。

 

 世の中に出て、いろんな人にいろんなことを言われていく歌手や役者、声優が、それで育つわけがありません、一人のトレーナーの価値観の中で、同じ判断を共有するのはよいのですが、それしか知らずにいるのは、どうでしょうか。

 

〇判断の違いに学ぶ[E:#x2606]

 

 声に関する絶対的な判断はないということです。声楽家でさえ、一流の人は、生涯にわたり研究して発声を変えていきます。スポーツ選手、野球選手やゴルファーでさえそういうものです。プロセスや芸の道に判断基準はあるから、レッスンは成立するのですが。相手やそのときによって、かなり違ってくるということです。これがわかるトレーナーは、あまりいません。一人で指導していては、気づく機会が少ないからです。

 一人の判断では○か×かですが、二人になると○○、○×、×○、××と4つになります。私がそこに入ると2の3乗ですから8つの判断パターンがあります。一人のトレーナーのなかでも○×でなく△とかになることがあるでしょう。基準として、大切なのは独り立ちしていくために、その人自身が自分を判断する時に、本当の力となるのは何でしょう。それは○×のように判断のわかれたところや△をどう細かくみることができるかです。

 2人の意見が○×に分かれたとき、私が○なら○○×で、2対1で片方が正しいということではないのです。正しいのは○○○の一致だけかもしれませんし、3人一致で決まるものでもないのです。つまり、何をみているかということの違いなのです。そこは、やがて本人もわかるかどうかです。

 審査する人が3人いて、あなたの歌や声に対する評価が違うときもあります。あなたは、自分自身で判断しなくはなりません。その基準をどのようにトレーニングで得ていくのかが、本当のレッスンの意義です。

 

○バランス重視で没個性

 

 気をつけなくてはいけないのは、すぐに仕上げようとするなら、必ずバランス重視となることです。バランスを整えるのは平均化です。そこから個や我が出てくるでしょうか。むしろ、それを抑えることがバランスをとるということになりがちです。

「我」が、くせと一緒に除かれてしまうと、個は育っていかない、つまりは、誰かのような声、誰かのように歌うことになりがちです。

 私が最初、日本の声楽家と組まなかったのは、そのことが大きかったからです。ちなみに日本にいる外国人トレーナーも日本人をレッスンするときは、この傾向が強くなります。日本になじんで受けのよいトレーナーほどです。そういうタイプがトレーナーになっています。

 歌のうまいトレーナーにつくほど、人は育ちません。教えるのがうまいトレーナーほどテクニック漬けの、おかしな歌になってしまいます。それは、日本ではミュージカルの一部に顕著です。

 

 バランスよりインパクトを重視すると、一時、歌は下手になります。「これまでの歌では通用しないから根本的に基礎から変えたい」といって来た人が、いざ、そのようになると、あたふたと不安になります。前よりも高いところが出ない、フレーズが回りにくい、ピッチ、音程が不安定になる…と混乱します。一時でもマイナスになったところばかり気にする、また、周りに指摘されるからです。立場の弱いヴォーカリストではその声に抗えません。何事も、新しく試みると、その試みが大きいほどマイナス点も出てくるものです。

 できているのなら、そう歌っているのにできていないから、直す、いや補充するのでしょう。ですから、いろんな乱れが生じるのは当たり前です。

 伸びないのは、守りから出られないからです。本番、バンドやステージがいつもある人は仕方ないので、切り替え力に応じて進行を加減します。

 

〇声そのものでみる

 

 ヴォイトレは、うまくなるために受けるのに、一時でもコントロールが乱れたら失敗と考えるのでしょう。基礎から変えたいなら、大きく変わるためには、今の発声から離れなくてはいけないのです。バランスとピッチ、リズムにだけ合わせようと、くせをつけたり、ぶつけてきて覚えてきたのです。そのことを守ろうとしている限り、大して変わりようがないのです。

 こういう人は、今まで歌えてきたこと、そこが技術やスキルと思ってきたことが、自分がより大きくなる部分を邪魔していると、気づいたのに、また見失ったということです。

 「そういうやり方やメニュは間違っている」と言われると、安心して、それを直せばよくなると思うわけです。そういう調整トレーニングにつくと、さらに表面的な技術やスキル、メニュやノウハウばかりを増やして弱化していくことになるのです。

 声そのものがトレーニングされていない限り、同じ問題は残ったまま目立たなくなるだけです。スケールの大きな跳躍はかないません。

 

〇二重の方針

 

 とはいえ、誰もが一流の大歌手などを念頭おいているわけではありません。声楽のトレーナーで、声域やバランスについては、他のところのトレーナーより、ずっと条件の変わることを長期的に考えた上、短期の成果も出すことを、セットしているのが、今の研究所の体制です。

 これはプロで舞台、オーディションが迫っている人が増えたための対応でもあります。こういうときは私もバランス重視でみます。条件を大きく変えることよりも、状態の調整を優先しなくてはならないケースなのです。

 

 レッスンであるので、今、困っている問題でいらっしゃると、そこに、発声のメニュ、方法ですぐに応えてみせると、人気が出て評判もよくなります。

 発声の本にあるように、軟口蓋を上げて響きをまとめ、呼吸で支える。

 呼吸筋を鍛えて、息そのもののコントロールを強くも繊細にもできるようにする。それのできない体や感覚でできることは、10分の1なのです。即効のメニュやレッスンをやりつつも、長期的に上達する方向でのプログラムを続けていくのが、基本方針です。

 

○基礎のフォーム

 

 初めて何か新しい、スポーツでバッティングなどをスタートしようとすると、余程、勘がよく、体や感覚が優れている人を除いて、ほとんどは手や足、部分的に力が入って、痛くなります。そこで手首のスナップなど教えてもらっても、ボールになんとか当たるだけ、それでは、部活の2年目の生徒にもかないません。毎日のトレーニングで2年生レベルにかなうためには、2年かかります。いくらプロのトレーナーがついたといっても、素振りのフォームが安定するまで繰り返す必要があります。柔軟や体力強化も必要ですね。

 私は水泳をやりました。わずか2年半くらいでも、フォームを支えるに足る筋トレ、左手の補強などで、素人レベルで10年、20年泳いでいる人よりも、速く、長く、楽に泳げるようになりました。続けて毎日行うことの相乗効果です。とはいえ、ずっと長く基礎からやっている人にかなうことはありません。トレーニングは正直なものです。声だけが別ということはありません。

 

〇圧倒的なインプットのための課題でのアプローチ

 

 マンネリを防ぐのは、表現の世界での具体的なアプローチをしていくことです。

 歌がうまくなりたい。自分の歌が歌いたい。これに声だけが出ても無理です。リズムや音程のトレーニングをしても無理です。一流の人が学んだのに習います。時間や量を効率化するのが、トレーニングです。レッスンの課題をペースメーカーにします。

 よく例に出すのは、聞き込みの課題ノルマです。月20曲(カンツォーネ4、シャンソンエスニック4、歌謡曲4、日本曲4、自由曲4)で1年間240曲です。ここから20曲セレクトします。2年後には、翌年分240曲から選んだ20曲と合わせてレパートリー40曲ですが、そこから20曲に絞ります。5年ではレパートリー100曲から、本当に人前に出せる20曲、トータルの練習曲数は240曲×5=1200曲。10年なら2400曲ですね。量としてはこのくらいで最低レベルであり、プロのベースと考えています。

 歌える人ならたくさんいますが、オリジナリティとして、自分の世界を、プログラムして、意図的に(それがトレーニングですから)作っていくなら、このくらいをベースに入れなくては、何も出てこないでしょう。

 一流のプロは、質もともかく、圧倒的なインプット、ストックがあります。これにトレーニングを加え、レッスンでは、1フレーズでも、1曲でも、質、気づきを与えます。聞き方、感じ方を変えていきます。体―感覚の相互作用で、効果を出していくのです。頭は、このことで工夫して、フィードバックするのに使うのです。

 

○歌唱表現と技法のギャップ

 

 解剖学や生理学の勉強をしても“身”につくものはありません。第一線のオペラ歌手やポップス歌手にそんな人はあまりいません。トレーナーとして人に教える時に、学ぶのはよいことでしょう。餅は餅屋に任せましょう。

歌うときは、頭を空にしないと、オーラ、集中力、気力に満ちたピークパフォーマンスは実現できません。最高の声を取り出したり、保ったりすることに集中しましょう。

 

 歌唱表現に問われるもの

1.声の共鳴―発声―呼吸一体

2.声の使い方、フレージング

3.歌の見せ方、組み立て、アレンジ、構成、展開

 

a.ヴォーチェ・ディ・ペット

b.ヴォーチェ・ディ・テスタ

 

ここに声の理想的なあり方とか訓練は入っていません。いろんな発声法、テクニックやメニュ、方法を使うのは、表現という目的の元に、具体化された問題とのギャップを埋めるためのきっかけです。その日の声のチェックとか柔軟を響きで確認するのは、トレーニングとは違います。

 リップロールとかハミングも、そういう意味で役立てるものです。しかし使われていてもが有効でないことが多いです。人によっては、目的からみて使わないほうがよいこともあります。

 発声のなかで、ビブラートやミックスヴォイスなどということばを使うとレッスンらしくなるのですが、ことばで物事を分けていく(頭でっかちということ)と大きな問題が見えなくなってしまうのです。欠点の修正や、やむをえないケース以外は、イメージ、統一性のある連続感覚の中で、一つに捉えていく方がよいと思います。

 

〇理想のレッスン

 

 スケールなども、最初は1音ずつ正しくとるのはやむをえませんが、レガートに一つの線上に声(音)がおかれる感覚を養うことです。一般的なレッスンをみると、あまりに雑すぎます。

ピアノを弾いていて、注意しないために雑になるのでしょうか。しっかりと聞いていないのです。発声の練習でよい声をとり出したり、育てるはずのレッスンが、音程(ピッチ)とリズムを正しく、ピアノに合わせていくことに目的をすり替えているのです。トレーナーが気がつかないなら、その先に、声での発展は期待できないでしょう。

 とはいえ、時間や量が変えていくこともあるので、トレーナーが余計なことを言わず、黙々とやり続けていくのは、理想的なレッスンのスタイルです。アカペラで声を出すこと、聞くことを勧めます。

 本人の目的や必然性が高ければ、変わろうとする努力がレッスンに出てくれば変わっていくものです。その点は、私はレッスンに期待はしていないが、来る人の可能性や能力について、誰よりも信じています。

 

○基本の基本「ハイ」

 

 基本の一声として、「アー」でも「ヤッホー」でもいいですが、私は「ハイ」をよく使います。「ハ、イ」という、元気のよい明快な声ではなく、「Hai」と体からストレートに出てくる声です。Hは声帯音で、発声に障害のある人が、最初のきっかけにとる音でもあります。「ハイ」は、人間関係の基本でもあります。相手に反応して「ハイ」と返してコミュニケーションしていくでしょう。ビジネスマンの研修では、この理由を、もっともらしく後づけしています。

 

 最初は「ハッ」を使いました。お祭りや掛け声からのヒントでしたが、喉に負担を強いるので、「イ」をaiの二重母音のような感覚でつけました。だから、日本語の「イ」のように口を横にひっぱっらないのです。響きが、鼻の辺りに残るようなのがよいです。ことば、発音でなく声(音)の練習です。ことばの「ハイ」の明瞭さでなく、声がよく聞こえる方がいいのです。

 これは、最初は日本人に苦手な深い声、胸声の強化として、低めで、「太く、強く、大きく」としていました。発声というと、すぐに頭や鼻に響かすのが練習というのは、声楽から来た慣習のようです。

 日本人は元々鼻にはかかりやすい声をしているのです。日本語はフランス語ほどではありませんが、鼻音、鼻濁音もよく使います。戦前戦後、1950年代くらいまでの歌手をみるとよくわかります。小柄な日本人にとって頭での共鳴は民謡など邦楽でも、大いに使われていたのです。

 そして、「Hi」は最初、スタッカートのように、伸ばさないで切っていたので、一瞬の声(今でポジション、声の芯をとる発声、それをぶつけすぎから)でした。そこから共鳴につなげられない人が多く、歌とつなげるため、レガートのように「ラ、ラー」とつけました。「ハイ、ラ、ラー」と3ステップにしたのです。つまり、声の線をとるトレーニングです。

 よく考えれば、「ハイ」のところで「イ」の響きを頭声にもってくれば、すむわけです。こうして相反する要素を1つの声の中で包括して、器を大きくする基本メニュにしました。

 これは、セリフで原詞を読み、1オクターブ上で歌って、カンツォーネの大曲などでフレーズから、声を育てていた即興的な方法にはついていけない人へのアプローチとして有効です。150キロのボールを振り切って当たらないなら、まぐれ当たりでホームランを打てる人を除いては、空振りする間に、バントからミートしていきましょうということです。

 

○方法、メニュによし悪しはない

 

 こういう方法のよし悪しは、よく議論されます。しかし、方法やメニュ、トレーニングは、目的のために行うものです。例えば「ハイ」をやったら歌いにくくなったと言っても、当たり前のことです。これは、すぐに歌うためのトレーニングではないからです。

こうした現場をみずに、方法やメニュだけを取り出して、単体で使えるとか使えないとか、正しいとか間違っているかというよう論議や批判はやめてもらいたいものです。

 私は「腕立てをやったあと、すぐにバッターボックスに入るバッターはいない」と言っています。トレーナーにおいても、相手においても、同じメニュが、目的、レベル、現状において千変万化します。少なくとも私は1000以上のメニュを持っていますが、どのメニュも変化させて使っています。

 

 1か月先どうしたいかから、1年、5年、10年先をも予感しなくてはいけないから、その人の表現の問題に入らざるを得ないのです。つまり、体から出てくるであろう声の向かう先です。そこで体から出てくる声の必要のないこと、使っていられないこともあるからです。

 表現に合わせて声を使わせるレッスンの多いなかで、私は基本的に「出てきた声の上で表現を動かそう」という主旨です。

 すると声の完成度の高い声域、声量、音色での表現となります。現実には半オクターブくらいでのフレーズトレーニングが中心にならざるをえません。その人の声と歌、セリフをどのようにみていくかは、本人と相談しながら進めていきます。そこで方針、これは方法と共に将来的な可能性と展開についての予見を伝えて、考えてもらうのです。

 

○幅を広げること

 

 声の器を大きくするというのは、上の線(頭声や裏声)を伸ばしたり下の線(胸声)を伸ばしたりするのではありません。上の線と下の線の間に幅をもたせ、その中でいろんな線の引ける可能性を高めていくことです。

 一つの声でも、「縦の線に」と言っています。上にもっていく(奥をあける、頭部共鳴させる)のは、たての線の上半分のこと、いや、先端にすぎません。[E:#x2606]

そこばかりひっぱる人が多いのですが、その分、下に根っこを引っ張ることが必要です。これは誤解されやすく、「重く、暗く、太く」を、「ぶつける、こもる、押しつける、掘る」となると、好ましくありません。このあたりをわからせるには、説明では大変です。実感できる日を待つしかありません。

 胸声を、喉声として否定する人は、欧米人のロックや役者の声、ワールドミュージックを聞いたことがないのでしょうか。

 自分でできないから、他人にできないと思ってはいけないのです。自分にできなくとも、その人にできるものを引き出して伸ばしましょう。他人をどう活かすかも、オリジナリティでしょう。

 

○2つの役割

 

 ヴォイストレーナーは、声に関して、芸道の基礎を作っていく、という役割があります。これは、声楽家のトレーナーでも声楽かぶれしていなければ、半分はお任せしてもよいと思います。

 もう一つ、表現のオリジナリティを見抜くこと、これは、音楽プロディーサーやディレクターの役割ですが、日本の場合、多くをビジュアル面に負っています。ルックスやスタイル中心と音楽性の判断にすぐれた人はいるのですが、なぜか歌の声にまで至っていません。そういう人は歌としてみると、声のよし悪しでなく、音楽としてのよし悪しでみてしまうのです。

 本当のオリジナリティは、その間に、その人の声が歌いだすとき、歌と声が一体化するときに生じるのです。心と体の一致といってもよいでしょう。

 私は、

1.声そののもの魅力

2.声のフレーズでの魅力

3.フレーズの組み合わせの魅力

と分けてみています。1は生来持っている声、2は音楽性で比較的わかりやすいのですが、どう化けるかわからないところです。よほどの人でないと意図して取り出せません。

 

〇飛躍のためのレッスン

 

 声と音楽の配合によって本当の歌が生じる飛躍の瞬間があるのです。

 それを、予期して引き出すのが、私の中では、最高のレッスンです。そのようなレッスンは、100回に1回、100人に1人ですが、確かにあるのです。そのようにセッティングしないと、才能ある人が来ても、奇跡の生じることはありません。そのきっかけや兆しだけでもかまいません。10回に1回、何かが出てくるようなレッスンであれば、よい関係です。

 頭でっかちになること、偏見をもってみること、意図を露わに出すのは、避けることです。無理な発声の音域や声量では難しいフレーズでは、こなすのに精いっぱいです。新しい可能性の出てくる余地がないのです。自分でできることでしっかりと歌い込むのは、基礎ではないのですが、大切なアプローチです。

 

〇トレーナーの限界

 

トレーナーに個性があるほど、メリットとデメリットを両方、受けることになるのです。ここでは、私が仲介できるようにしています。個性のないトレーナーが、基礎トレーニングとして適していることもあります。

 トレーナーが自身の限界(才能と長所、短所)を知っていること、自分より有能な適材の人材を知っていて、任せることを選択に入れていることも大切です。

若くてもパワーがある、時間がある、安いとか、技量とは違うメリットを持つトレーナーもいます。人によっては回数や量を与えた方がよいこともあります。それらをフィードバックできる体制を持つこと、援護したり補ったりする組織にする必要があります。

 

 本人が活動していくプロの現場を知っていること。そういうところにいるプロやプロデューサーと関係をオープンにしていることが大切です。

 声はいかようにも使われます。自分の生きてきたところ、見聞した世界だけが全てと思ってはなりません。常に社会に対して、仕事に対して、開かれていなくては偏るのです。

 

○体の声

 

 歌い手は歌という作品で勝負しますから、1オクターブ半で3分間という単位を中心に考えます。ディレクターは、90分というステージ構成で考えるので、どうしても、こなす、まとめる、あげるという方向になります。どちらもベテランになるほど技巧者になります。

プレイヤーに対し、パーソナルトレーナーは、監督やコーチとは別の役割です。その人の体や筋肉からみて整えることが仕事です。

 私たちも、体の声として表現に思いを馳せますが、体と声から整えたく思っています。その人のライブやレコーディングそのものではない、それを参考にしても、もっとあるべき理想を追求します。

 私は歌や音楽にどっぷり漬かっていないから、ことば、音楽より、声の原初のエネルギーからみるのです。そこでは、あまり急ぐとよくないのです。

 

 ですから、今のあなたの歌と声そのものに可能性を加え、あなた自身の可能性をみているつもりです。「期待はしないが誰よりも信じている」と思います。それは、「人生は生きるに値するほどでないが、絶望するほどひどくない」に似ているようです。

 ある意味で、今、ここでの歌や表現をスルーしているときもあります。それは、その人がその人自身たるエネルギーを発していないからです。パワーをもつまで潜在的なあなたの力に働きかけていくのです。

 

〇一声、一フレーズ、一曲の関係

 

 多くの人を通して、一つの歌、一つの声のその成果を、最高のレベルに結実させるようにしています。それには、声が成立するところがスタートです。それを私は「ハイ」という一声から探っています。

 一声で成立させることが無理なら、一フレーズで、一フレーズで無理なら一曲与えようというのが、私のスタンスです。これは一曲が無理なら一フレーズで、一フレーズが無理なら一声でという絶対的な厳しさの中で声の本質を取り出すためです。「ハイ」と成り立たなければ何にもなりません。完成には遠くとも、一フレーズで使い、一曲で使って知っていくことです。こなすとかまとめるというふうにとられると困るのです。一声で勝負できなくとも、歌では一曲でいろんな勝負の仕方があることも知っておくのも大切です。

これは無限の表現の可能性のようにみえます。しかし、そこでは、限界を早く見極めたゆえの、工夫、へたをすれば割り切り、ごまかしにもなります。もとより虚を実に見せる世界ですから、その虚は問いません。

 逆にいろいろとあるのは迷ったり、堂々めぐりすることになるので、まずは、一フレーズと言っているのです。

 

〇人知を超えて

 

声の動きに、そこからこぼれてくるニュアンス、印象、余韻を、散る桜の花びらの舞いに例えたいと思います。そこに人間の力、いや、人が人を超えた力が働きます。歌があれば、声が、音楽の中のことばと溶け合うのです。私はその天使となれる日を夢見ていました。何十回か堪能させてもらっています。まずは私の心を射抜くものが出てくるところからです。その日のためにレッスンはあります。ステージで喝采を浴びるのは、私の手を離れたところで委ねています。

                                      

声の働き、動き、ため、艶、彩、空気の振動、これらは鼓膜だけでなく、体感、心の反応、心揺さぶる感動、甘美な世界への誘いとなりゆくのです。

 一流プレイヤーとなると、ミューズをみるといいます。そういうレッスン、それを、私は声や歌で、マイクもないアカペラのステージで、レッスンの場として経験してきたと思います。一流のアーティストのように何度も、自分自身ではとり出せなかったものを、才能のある人に接する中で感じるのです。

 

○声がなくなる

 

 ヴォイトレのレッスンというと、以前はスケールの上下降することや「アエイオウ」のヴォーカリーズ、歌いあげることのように思われていたようです。

 私はその人と、人間として向き合いつつ、その時間は相手も私もいなくなってしまうのを理想としています。声が全ての空間、時間を満たして、声があらゆるものを無にする。聞こえるのは声だけ、見えるものは何もない、それで満たされるのです。他に何ら欠けていない主役として演じている相手も、同じように感じているのです。

 いつも、声も歌もあってはいけない、消えていることです。それが本当の声であり、歌です。

外国人やお坊さんに声がいいですねと言われている私は、そんな程度であり、それゆえヴォイストレーナーに甘んじている次第です。

ただ、歌や声で、もっと大切なものを邪魔しないように心がけています。声を出すのもせりふを言うのも、歌を歌うのも、せりふや歌そのためではありません。声もせりふも歌も消して心が満たされるためにあるのです。私のヴォイトレは、そこをみているのです。

 

〇声が聞こえる

 

 あなたの声も歌も、みてくれと言われるとみています。多くのレッスンはそこで終わりです。しかし、みてくれと言われなくとも、私は、あなたを感じようと沈黙します。あなたが私を感じさせたら、そこから、あなたは変わっていくのです。

 他のトレーナーの指導しようというスタンスとは、私は違います。そこは他のトレーナーにお願いしています。レッスンや指導で妨げないことです。教えても大して何にもならないことも知っていますが、人に教わることは、とてもよいことなので、そうできるようにしています。

シンプルにすれば、おのずとみえてくるものです。それを声やことばや、歌で邪魔をしてはいけません。そしたら、本当の声もことばも歌も聞こえてくるのです。

「竹内敏晴さんのこと」

○竹内敏晴さんのこと~力[E:#x2606]

 

 「胴間声、馬を追い、田を起こす野良声は、熱く、強く、国を突き抜けて、海の船での人を呼ぶ声は、それを忘れてどれくらいになるのか」と、竹内敏晴さんは述べていました。日本のオペラ歌手をみて、「力がない、輝きがない、ひ弱な優等生の答えだ」と看破しています。「ここに人間がいる。この声を聞け!命の輝きを!イタリアのオペラの声を知った竹内さんの衝撃」それを、私も、また見失ってから久しいといえます。

「表現(呼びかけも含む)の伝達と、私が学生時代に学んだメルロ・ポンティの現象学―それが結びついてこようとは、当時、知る由もありませんでした。『これが自分の声』と、汚くても、しなをつくり身構えたような声を排除してきた、竹内さんの求める声を、多分、私も求め続けています。

 マイクによって、人の声は、声と声、体と体のふれあいから失われていきました。「安らぎ、集中し、笑えるところがレッスンの場」と、竹内さんは言っていました。

 

 笑い顔にするとよい声が出るのは、この状態が発声の理にかなっているからです。頭からでなく、体から、表情から動くのです。この生のことばや生の声の力を見習って欲しいのです。

 「表現は内的に感じとるのではなく、外に、他者と共有する、この目の前の案内に、くっきりと存在しないものを作り出すこと」と竹内さんはおっしゃっていました。

 私が竹内さんに言われたことがあります。「出しやすいところ、出してやすい声から始めようというのは、とてもよいですね」と。私の軸は、ずっとぶれていないと思ったのですが、それは私の軸でなく、地球の軸だったのかもしれません。人類の、人間の軸。私たちが、身近に感じているだけの、私たちの感じていた、確かな感触なのでしょうか。でも、それが失われて久しいと、悲しいかな、締めくくることになるのです。

 

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○「西洋音楽論」~アフタビートについて

 

 「西洋音楽論」で指揮者、編曲者の森本恭正氏の、西洋音楽はアンダービートという論を読みました。日本人の裏拍は1And、2And…で、Andが強いというもので、クラッシックでも二拍子が強いということです。行進や、信号が赤から青でなく黄色をはさんで変わること、日本のマンガの急な展開、尺八のタンギングのなし、などを例に出されています。日本の楽器は、人のためでなく、自分の瞑想と思索のためにあるとのことです。求められるのは、音色でなく、旋律、ハーモニーでない。Dumb=バカ、しゃべる=饒舌な文化、バロックでの歌(旋律)と伴奏のミスラムの確立。

 最後に「君が代」では行進はできない。世界で唯一、ヨーロッパの音階で作られていないから、というのは、私には知りようもないのですが…。ロマン派の狂気を読み取れなくなったら演奏する意味も、エキサイトメントも消えると。

 

 これまでの私のリズムと音階論の裏づけにもなることでした。私は2拍目と言うより、1拍目の前の(つまり4拍目)の準備に、注意して述べました。ハンドルの遊びかもしれません。

 私は、日欧のボールつき(ドリブル)で手でついたところでカウントするのと押し込んで引き上げるところでカウントする違いや、引く(のこぎりや柔道)と押す(のこぎりやボクシング)の違いを示しました。

 私には、なぜクラッシックの人が気づかないかわからなかったのですが、昔の音大のピアノ科卒のポップスのピアニストなどが、アンダービートを苦手にするような時代は、終わっています。それでも、プロデューサーやアレンジャーなどの歌詞とメロディ本位と、リズム軽視がずっと続いていました。それは母音を中心とする日本人の耳の合わせるためのものだと。私が「ヴォーカルの達人2巻、音程リズム編」で述べたことです。

 

日本人 母音(共鳴)、メロディ(伸音)、一音(一声)さわり、高低アクセント

欧米人 子音(息)、リズム(グルーブ)、コーラス、ビブラート、強弱アクセント

 

 これらの背景、文化、風土で表現に求められるもの、場も異なります。日本人の欧化政策と、古来の日本の文化や生活様式からの断絶が、この問題を、複雑にしています。

 マイクや音響、合成音を駆使するポップスにおいては、簡単に述べられません。だからこそ、私は人間の体や声の元に戻って、アカペラで発声やヴォイトレを考えようと思います。

 人間としての体の共通なところ、表現の普遍性、この二極を詰めるのです。そこでものごとを考え、その上で、今の、あなたの保ち続けたスタンスを考える、ということで、確かなものとしたいのです。本当に使える声として身に付けていくために、そこまで考えていくのです。

 

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○声への自覚

 

 私は、発声に自覚的になるということを求めています。それは、最近の流行のような、喉や口内の仕組みや発声のメカニズムを知ることではありません。全身全霊で、声をどう把握し、どのように表現されるものかを知ること、そして、どう表現にならしめるかということが本題です。

 あなたの喉という楽器の状態、調子がよいとか悪いとかは、そこからみると大したことではないのです。より大きな世界を創ろうとすれば、おのずと機能的に無理、無駄が省かれていくのです。

 ちょっとした不調や悪条件、悪い状態でいちいち止まっていては、大した進歩もありません。声の力が弱まって、大歌手や、大スターが生まれなくなったのは、科学的な分析や理論や治療のせいかもしれません。プロデューサーやトレーナーが、細かなことばかり言うので、大きな冒険ができなくなったのかもしれません。自主性、自立性の欠如と依存症傾向でしょうか。

 それも、本人のせいですが。人間としての幅、器、スケールまでにしか表現もいきつかないのです(「ヴォイストレーナーの選び方」ブログ内「ロマのバイオリンの話」に詳しい)。

 

 フィジカルとメンタルを一流にすることが、声を育てるのに大事なことです。その日の声の調子をよくしたくらいのヴォイトレで、将来の声が変わるなど考えられません。そこに、世界に通じるくらいのものになる実感があるのか、そのもとに持続したトレーニングが、他の誰もついていけないくらいの質を伴って行われているのか、の方が大切です。

 

〇ひ弱な声から10分の1

 

 よいレッスンもすぐれたトレーナーも、それに勝るものではないのです。竹内敏晴さんのいう「ひ弱な優等生の声」を変えなければ何ともなりません。「ロマン派の狂気」を、甘ったるい差にしか感じていないなら、本物のレベルに追い付くのは無理でしょう。

 どのようにスタンスを持つかが、あなたの将来を決めていくのです。ですから、喉の開け方などより、このようなことを私は述べているのです。

 具体的なことはトレーナーとのレッスンで充分に行っていますが、本やブログは、勘や感性を磨くのに、そのままでは役立たないとしても、役立てるために行動する、きっかけにはなるからです。私の半生の研究のまとめの本のタイトルは「読むだけで声や歌がよくなる…」になったのです。

 ヴォイトレが、あなたに必要なことの10分の1になると言ってきました。すると、こういうアドバイスも10分の1になります。それが10分の1になれば充分です。あとは年月をキャリアに、練習時間を声の能力に、変えていくのです。そのセッティングをみるのが、今の私の最大の役割です。10分の7、8はご自身がやる、これは、どの世界も変わりません。

 

○優れた歌唱の条件~基準と精選「歌唱ステージ評価表」[E:#x2606]

 

 以前作った「歌唱ステージ評価表」を刷新したので、取り上げます。

 歌唱なので、歌手以外関係ないように思われますが、俳優、声優はもちろん、就活から婚活まで使えるものです。直接当てはまらない項目は、○音域別、○音程、○リズム(の一部)、○設定、○展開構成(の一部)、○伴奏との兼ね合い、○ハーモニー感、くらいでしょう。

 毎日3~4ステージ、年2回は80人ほどの160曲を1日で聞いていた頃の私が、トレーナーと分担して審査していた表が、元になっていますから、実践的です。

 今も私はプロの歌を聴いて、最初の「○準備」から、最後の「○可能性」まで、瞬時に半分くらい、1フレーズで7割くらい、1コーラスで9割以上は、判断しているつもりです。

 皆さんも、独自の解釈で構わないので、これを参考に100項目くらいのチェックリストを作ってください。自分のよいところは○、だめなところは×をつけてみてください。他の人をチェックの練習台に使うとよいでしょう。私と基準が違ってもよいです。自分なりに設けた基準、それを精選していくことが大切なのです。

 

〇異なる解釈と可能性

 

 基礎の力をチェックという切り込みを細かくつけていくことで、気づいていくためのよい勉強になるのです。プロの人は、私よりも歌えるからと、私よりもよい基準も持っているとは限りません。プロの持つ基準を、私ほど根本で把握しているとは限りません。

 歌い手特有の現象ともいえますが、プロ中のプロであるほど、他人の長所には気付きにくいものです。

 そこで、私は必ず、他の人と異なる視点や解釈を提示します。それを取り入れるのも、参考意見として聞くのも流すのも自由です。

 声や歌については、他の人のものは客観視できても、自分のものについてみると、ぶれやすいからです。誰がみても、明らかに、悪くなってきたのを、よくなったと思うようなケースも少なくありません。

 私は根拠や判断基準を、できるだけことばにします。ことばは、余程勉強しなければ、使えません。わかるが伝えきれない、すると、レッスンでなくなります。

 相手がアマチュアなら、まねして、よい見本と比べさせることも一つのやり方です。これでわからせても実感するのは中々難しいです。実感できるくらいなら、修正できているからです。ほとんどが、間違ったまねになる、間違った実感だから伸びないのです。

 判断できていないけれど、よいと思うからとか、それがいくつかあるから、そのなかからベストを決めるというのが、レッスンでは、起こりがちです。本人が判断できないケースでは、どれも高いレベルでは通用しません。

 可能性のあるのを示すことなら、よいと思います。選曲できない人と同じですが、耳の力を磨かなければステージでは難しいでしょう。

 日本のプロは、案外、くせとワンパターンが売りになる人もいます。しかし、そこで長く多くの人に通用していくには、かなりの研究や研鑽が不可欠です。

 

〇暗記する長所と短所リスト

 

 歌唱チェックのリストの項目を新たに100出せと言われたら、私は10人くらいの歌唱を聴くだけで出てくると思っています。挑戦してみてください。小見出しはあまり気にしなくてよいです。項目だけ見るとチェックしやすいと思います。

 オーディションでは、本人に渡しませんが、トレーナーが評価やコメントを書き、伝えていました。そこで並ぶようなワードです。頭に入れておくと役立つと思います。暗記して、初めてことばというのは作用します。

悪いところを直せというチェックリストではありません。悪いところは長所といわれるくらいに磨きあげ、よいところへ伸ばすことです。たくさんよいところを増やすのでなく、いくつかでよいから認めていきましょう。すると、長所、短所リストがあなたの強みと、無視してよいものリストになっていくでしょう。

 

〇感じる人

 

 竹内敏晴さんの「人間、この声、命の輝き、衝撃」を、私は「生命力、立体感」と言っています。今のことばで言うと、「リアル、3D」でしょう。あなたがここにいて、その存在感が、オーラを放っているように、その一つの媒介を声として欲しいのです。歌わなくても、声を出せなくても、伝わるならもっとよいでしょう。

 私もそのようなレッスンを目指していました。1990年代後半から感じる人が少なくなりました。研究所はそういう人の集うところから、そういう人を育てるところに変わっていきました。他の人のせいではありません。私の限界だったのでしょう。

 

○多様性のなかでの声

 

 沈黙でも伝わるだけのものがあります。だから声を出したとき、輝くのです。

 まずは、声そのものを輝かせていく、それを結果として、手に入れていくのはレッスンです。どこの国にも民族にもある魅力的な声は、かつて日本にも満ち溢れていました。このところ、急速に失われているように感じます。

 ヴォイトレが普及したのはよいことです。声は努力次第で、誰でも向上できるツールです。声を出したり、使ったりするのが苦手な日本人が多くなっていくので、その価値は高まっていきます。

 日本人は、他国に対する劣等感を、辛抱強く努力して、克服してきた民族です。それが一人前の大人としての、一個人としての表現の力として獲得するのでなく、カラオケや、初音ミクのような、ブレイクスルー(ハイテク化)で超えていくだけではならないと思います。そういう発展の方向があるのはよいのですが、そこが中心であるのはよくないと思うのです。

 声は、人と人が触れ合っていくというところに生まれてきたものです。直接的なスキンシップでなく、空気を振動させて相手と触れあいます。それは命の架け橋にもなります。大震災でも、電話一本の会話が欠けがいのないものになりました。

 声力で劣る日本ゆえに、こういった研鑽、努力を重ねて、いつか世界に冠たる声力を、多くの人が手に入れることを信じたいと思います。

 

〇心身是精進

 

 正しいトレーナーとか、正しいヴォイトレの方法といった、うわべの違いに囚われず、きちんと本質を踏まえて、トレーニングを続けていくように整えていきたいものです。

 時間はかかります。でもこれまで時間をかけてこなかったなら、当たり前のことです。時間をかけましょう。

 いつも離れず身についている体ですから、楽器ほど大変ではありません。誰もがもっているから、表現のレベルまで身につけるのが大変なのです。

 声を、どのようにイメージして使っていくか、ということに敏感になることです。

 レッスンは、その気づきに材料を与える場にすぎません。この、すでに身についているのに、身についていない、正体の分かりにくいものを、明快にしていくために、レッスンを使っていくのです。

 声で、全てのものごとがよくなるわけではありません。うまくいかないときに、声がよくないことは、とても多いのです。

 歌うとき、せりふを言うとき、毎日、声は使っています。でもその声はレッスンだけで変わるわけではありません。日々是精進、モチベートを下げないようにしましょう。

 声の場合、基準があいまいになりやすいのです。つかみどころがなくなると、やる気も失せます。レッスンをペースメーカーにして、日々挑戦し続けて下さい。

 死ぬ直前までよい声が出たら、嬉しいと思いませんか。なら使い続けることです。心身の健康があってこそ、声がよりよくなっていくのです。