「イタリア語とカンツォーネ、イタリア歌曲を使う」

○イタリア語使用の意味

 

 日本語はベースですがその他に、英語よりもイタリア語を発声に使いたいと思ったのには、いろんな理由があります。第一に日本語よりも発声に使いやすい、特に日本語でのトレーニングで行きづまった人には効果があります。第二に意味のわからない、これがとても好ましいのです。

 音声を楽器レベルで使おうとするのがブレスヴォイストレーニングです。歌詞やストーリーにあまりに重点をおくと、音色とフレーズのデッサンという音楽的奏法への関心が失われます。ただでさえ、日本人は詞、ことばの方に傾倒しやすいのです。そのうえ、欧米から音楽が輸入され、そのコピーを身上としてきた経緯もあります。つまり、歌では音色での表現があまりにも問われなかったのです。

 

カンツォーネ歌唱の意味

 

 私がレッスンに取り入れたのは、大曲(声域や声量において、素人離れした歌唱力を要するもの)でした。コンコーネ50といった発声教本とともに、イタリア語歌曲集、さらにナポリ民謡、カンツォーネでした。その後、声の音色やリズムとしてシャンソン、ファド、ラテン曲の使用へとつながります。

 日常レベルを超えて、2オクターブを全身からの声で歌い上げるところに、プロとしての体やのどの条件をもってくるのが、トレーニングで鍛える声のあり方として、わかりやすかったからです。

 

○音大生の歌唱にみる感覚と体づくり

 

 日本の音楽大学は、日本の近代的歌唱の入り口でした。音大生は、体や感覚の条件を国際レベルに変える努力をして、発声をマスターしていきます。私にとっては、よき実験台として存在していたのです。

彼らにも日本語での歌唱は難しく、イタリア語の方が楽に、声が声域、声量ともとれるというのですから、そこに声づくりのベースをおくのも一理あるのです。

 日本人の一流のオペラ歌手は、日本語での歌唱を原語よりも苦手としています。ヨーロッパの現地では、よく声が響くのに、湿潤な日本では、のどの調子を壊しやすいのです。このあたりは、木製楽器の管理の難しさと似ています。

 

○イタリア歌曲の歌唱のメリット

 

 音声、楽器演奏面からアプローチするのなら、イタリア歌曲の歌唱は、次の面で導入として最適です。

1.日本人の感覚を切れる

2.日本人の体、呼吸、声、発音を切れる

3.西欧音楽の歌唱にストレートに入れる

4.クラシック、声楽の方法がそのまま使える

5.全世界で、教育の成果あげている

カンツォーネになると、

1.ポップスの感覚(メロディ、リズム、コード、進行展開)が入る

2.オペラに比べ短く、歌のエッセンスが入っている(構成、展開、詞)

3.親しみやすく、わかりやすく、覚えやすい

4.日本語詞が比較的すぐれている(内容、歌唱のしやすさ)

5.原語同士や日本語歌唱と比較ができる(同曲異唱)

 

「新しき声道」

○今のヴォーカルのヴォイトレ法

 

 ヴォーカルの声はしだいに浅く、小さく生声になり、かつてのように、話す声、地の声でプロとわかるどころか、素人以下になりつつあります。第一の原因は、誰もが無理にハイトーンへ音域を伸ばしてきたからです。そういう要求に、すぐに対応してしまうトレーナーが増えました。そういうヴォイトレ法が主流となりました。

 今は、トレーナーがリスクを避け、のどに安全な方向にだけ導きます。それゆえ何ら声として鍛えられないのです。声のトレーニングなど、形だけで眼中にないトレーナーが多くなったのは、残念なことです。そのトレーナーの声か、その人を教えた人、その人に教わった人の声を聞くとわかります。

 

○なぜ声優、役者に使えるのか

 

 ブレスヴォイストレーニングは、役者や声優の荒っぽい大声づくりで、声を損ねて悩んでいる卵たち(やプロ)に、特に使われています。歌手では本格志向の人が中心でしょう。お笑い芸人が多くなったのは、歌手よりも地として強く、太く、インパクトのある声が求められるようになってきたためでしょう。

 

○リスク回避のための音楽的感覚の必要

 

 私は当初、声そのものを鍛えるためにブレスヴォイストレーニングを提唱していたのです。ところが、歌手なのにあまりに音楽的感覚の不足から、声を損ねる人をみました。そこで、音楽フレージング感覚を吸収できる方法をメニュに入れたのです。

さらに、声楽家と組むようにしたのも、安全安心配慮のためだったのかもしれません。大きく効くものは、誤用に暴走しがちだからです。

トレーナーには、次のような観点を与えています。

1.自らの声やその成長プロセスをすべて理想としないこと

2.違うのどやタイプに対しての方法の限界を知ること、他の方法にも可能性を探ること

3.どんな方法であれ、できることを深めさせていくこと、判断力をつけさせること

 

○基礎のトレーニングとは

 

 表現のためのヴォイストレーニングだったのですが、ヴォイストレーニングそのものを目的とする人が多くなってきました。本当にそれでよいのかと思うこともありますが、一方で、それほどすばらしいこともないと考えることもあります。声は何かを表現するツール、歌やせりふの基礎としてきました。しかし声そのものを目的として簡潔させるのもありでしょう。私は声道として掲げることにしました。

 

○6つの違い

 

 基礎トレーニングとして使うのなら、さまざまな目的、レベル、プロセスを踏まえて、考えていかなくてはなりません。私のところにいらっしゃる方でも、いろんな違いがあります。少なくとも1~5について考える必要があります。

1.体、のどの違い、民族の違い

2.育ち、成長の違い、時代の違い

3.言語、発声の違い、母語、リズムの違い

4.日常レベルの声の違い

5.歌唱での声の使い方、優先度の違い

6.音響(リバーヴ、マイク、会場、レコーディング)環境の違い

「発声の最大の問題」

○レッスンの日数

 

 どのくらいのレッスンが必要なのかと聞かれることがよくあります。人と目的、レベルによるので即答できないのですが、「一般的に」考えてみて、最初は週2回、月8回くらいが、身体運動を伴うものに関しては最低限でしょう。できたら2日に一度というのが理想でしょう。身につけるということなら、最初の2年間は、とても大切です。

 

○出せているから難しい発声

 

 発声というのは、日常化しているがために、スポーツや楽器の練習などと簡単に比較できないのです。トランペット以上に、ひと声を出すのが難しい。出すということでは、すでに出せているために、トランペットよりも難しいのです。トランペットはまともに音が出てから、自分の音を導くのに大変ですが、声はいろんな加工があまりに自由なために、判断が難しいのです。

 

○発声の始点と終点[E:#x2606]

 

 声における最大の問題は、今のスタンス(立ち位置)を知ることや目的(自分にとっての理想の声)をイメージすることです。そして、始点と終点が共にとてもあいまいなことにあります。

 そこに第三者のトレーナーが、その両方を定めきれない、というのは、トレーナーによって違うばかりか、最初から必ずしも正しくつかめるものではないからです(特に終点に関しては)。トレーナーが一方的に教えられるものではなく、共に理解し研究していくべきものです。最初から本人がわかっていることがめったにないからです。

 

○一声十年

 

 声の弱い人が人並みを越えて、それなりの声と思われるようになるには、十年以上はかかるでしょう。陶芸のろくろ一つでも、その道で人並みになるには十年、プロスポーツ選手でも、10代からおよそ十年かかります。ものごとが成立するには、十年間、およそ一万時間が最低限の目安でしょう。

 陶芸で、2、3日で一人で湯飲みがつくれるようになったというレベルと、プロといわれる二十年、三十年のレベルとは、簡単に比較や言及できないのです。ちなみに一万時間とは、毎日3時間で十年です。

 

○ブレスヴォイストレーニング法の確立

 

 私自身は声については、元が最低の部類でしたから、私の十年があれば、4、5年で才能のある人は、最低レベルには到達できると考えたのです。そこで提唱したのがブレスヴォイストレーニング法でした。

 十年以上、試してきた結果として、私自身だけでなくとも、意図的にトレーニングという負荷を課し、声を変えることが可能ということがわかりました。7割にはスムーズにいったのですが、あとの3割は(特に声帯が小さくて、高く、細い声が特徴の人)、声楽併用が有効であったという感触でした。それでそのように改革しました。

 

○ブレスヴォイストレーニング法の誤用

 

 ブレスヴォイストレーニングに対しては、2、3年くらい、しかも私の指導下でなく、それまがいの方法でやったけど効果がないとか、のどを痛めたなどという人もいます。このような複雑かつ、個人的に状況も条件も差が大きい問題を、単純に正誤の二極だけで考える理屈がわかりません。私の方法は、私独自のものというより、人間の言語音声習得のプロセスを後追いしています。そのようなことがあるなら、急ぎすぎか、無理強いをしたためでしょう。方法よりも判断がよくなかったということです。

 

○改訂し、改善改良しつづける

 

 私は、初期のテキストからたえず、表現に対して、声は10分の1だから、常に音への感覚を磨きつつ、トレーニングしなくてはいけない旨を繰り返し述べてきました。どの本にも、声やのどを痛めることには最大の警告を発してきました。私ほど、こういう注意をしてきたトレーナーはいないでしょう。私自身、ポリープも結節もできたことはないし、のどを痛めたこともありません。本については、研究所内外の実践から注意事項を追加して、誤解のないように改訂しつづけています。

 

「改善より変革のために」

どんな人からも学べます。まして、自分よりもやっている人なら、学べることはたくさんあります。研究所からも他の人の十倍、百倍盗っていった人もいれば、ほとんど盗れなかった人もいるかもしれません。

 多くのものを盗れる可能性のあるトレーナーやマニュアルほど、盗れる人は限られています。盗ろうとしないととらないで終わるものだからです。

 一方、やさしく丁寧に教えてくれるトレーナーやマニュアルは、できる人の半分の半分くらいの力に早く、同じようになれますが、それゆえ、そこで頭打ちとなるものです。アーティストの育成は前者、学校教育は、おちこぼれをなくすためもあり後者と考えてもよいでしょう。

 学ぶというイメージが、学校の延長にある多くの日本人には、前者のようなところで学ぶことが難しいように思えます。日本では、先生が教えるとおりにやらないと認められませんが、向こうへ行くと、「あなたの思うようにやってごらん」といわれます。そこで多くの日本人は、面くらうとはよく聞く話です。

 アートは、自由なものなのに、自ら不自由になりたがる人たちの気がしれません。そういう人は自分たち以外の才能を認められなくなるのです。このあたりは、受けてきた教育の問題も大きいですね。

 

○考えるよりも味わう

 

 楽譜を大切にするのはよいのですが、もっと大切なのがみえないのは、困ります。私が、サンプルとして聞かせると、「曲名、歌詞、楽譜、アーティスト名を教えてください」といわれます。それを知ること、覚えることが基本だと、思っているのですね。そのまえにきちんと全身全霊で聴くことに集中することです。効率を求めることで、その場をおろそかにしないようにしましょう。

 本当の基本はもっと基本としてみえないところにあるのです。そういうふうにしか学んでいないからこそ、そうでない学び方をして欲しいのです。何を言っているのかわからないような声、ことばのない声からもっと大切なことを学んで欲しいから、私はできるだけ何も言わないのです。

 

○インプロ

 

 以前、黒人トレーナーとワークショップを行なったことがあります。そのとき、彼は、インプロの即興劇から入りました。勉強して、歌いこなすためにステージに立つという日本では、インプロの大切さは、気づきにくいということなのでしょう。今はプロでも、カラオケを歌う人と同じように、歌をこなすだけになってきました。

 いつでも、そのまねをするのではなく、そこに自らのものを入れて返すことです。

 

○会話のレスポンス

 

 会話を考えてみましょう。ずっとうなずいているだけの相手とは、よい関係は続きません。同じことが繰り返されると心地よくなっても飽きてきます。ですから、その前に「展開(転回)する」のです。しかし、繰り返しが短すぎたり、少なすぎると、基調がつかめず、展開部の意味が強まらず、あいまいになります。リピートと変化のバランスをよく感じてみてください。もっと深くリアリティをつかんでおくことです。

 

○自分を省みる[E:#x2606]

 

 理解できない、考えられない、感じられないと不満を抱く人がいます。自分の偏狭な考え方を認めず、他人と交わるのは、自分の存在をも揺るがせかねないという人がいます。ありのままの自分を認められない人には、不快かつ、我慢できないこともあるでしょう。偏狭かどうかも誰がどう決めるのか、ということでしょう。

 結論からいうと、もっとすぐれたレベルになった自分(そうではないから、そこからくる直感)から判断せざるをえないのです。要は、イマジネーションなのです。そこにトレーナーのレッスンをセットする必要があるのです。

 具体的手腕をトレーナーに問いたいのはわかります。しかし、本当は自分の可能性へのアプローチを示してもらうのが、もっともレベルの高いトレーナーの使い方です。