「時間とトレーナー」

○時間がかかる

 

 ここでは、複数のトレーナーにつくので、いろいろと迷うこともでてきます。しかしそのために自分の声についても早くわかるのです。

 代替や継続のためにも、あなたのことがわかるトレーナーは、何人かいた方がよいと思います。プロセスがわかるトレーナーということです。

 状態(声の状態)だけでみないで、条件でみることが、重要なことです。そのために長くみることが必要です。

 トレーナーにとっても、他のトレーナーがつくと、自分勝手にやりにくくなるところもありますが、それもお互いによいことです。めんどうだから、考えなくてはならなくなるから、です。

 

○判断留保

 

 トレーナーも一人で教えると、自信過剰になりがちです。信用のないうちは、トレーナーとしての実力を認めさせるために尽力するからです。そのため、断定的な口調で白黒、正誤をはっきりさせすぎるきらいがあります。

 初心者や素人にはそういうトレーナーの方が自信があり、信用をおけるようにみえるからです。トレーナーである限り、相手を前にして迷ったり、悩んだりしにくいでしょう。

 しかし、私は、正直にどういうところで判断つかないのかも述べています。話をそらしたり知識をひけらかすよりも、問題として共有します。お互いにその人が判断力をつけていくプロセスを歩めるからです。

 

○タイプと期間

 

 トレーナーとしては、自ら声を習得していることが望ましいです。声ですから、聞いたらわかるわけです。経歴もプロフィールも不要です。高齢のためや医者のような補助的なサポーターなど、例外もあります。楽器のようにモノ対象の扱い方ではないために、自分が優れた音色で演奏ができれば、すぐに他人も教えられるわけではありません。

ベテランの歌手は、ヴォイストレーナーの条件の一つは満たしていますが、歌唱のアドバイザーという方がよいでしょう。恵まれたのどや声をもつ人は歌手や役者になればよいのです。トレーナーとしては、そうでない人を多く相手にしなくてはいけないのです。恵まれてなかったのにトレーニングで声を克服したり、鍛えて変えたという人のほうが理想かもしれません。

 

○フィードバックの経験

 

 トレーナーは、いろんなタイプの他の人を教えて、結果をフィードバックする経験をつんでいることです。

 他の人を教えても、教えっぱなしではなりません。

 一人ひとりののどが違う点で、多くの人といっても、多くのタイプの人(年齢、人種、性別、期間、目的、レベル)を教えているキャリアが望ましいでしょう。しかも一人ずつ、できるだけ長くみている経験を求めたいです。経験をつんで、そこから多くのことを学び、新たに応用できるスキルに落とし込んでいるということです。

 

○無力を補う

 

 私はしっかりした声や大きな声が出なかったので、トレーニングで声を獲得してきました。10代からそれを計画し、体作りから取り組み、すごくトレーニングをしました。そして、20代で仕上げていきました。そういった点で、自分のようではないタイプの人に対しては、他の人に学ぶことが大きかったです。

 トレーナーはしばし、自分に与えられている条件をもっていない人に対し、無力なことがあります。とくに才能に優れた先生や声楽家タイプには、素人や初心者にうまく伝えられない人もいます。しかし、そういう天性のあるトレーナーでないと今度は高い目的地へのイマジネーションを与えられないこともあります。

 プロや一流の人を教えていないトレーナーは、初心者に優しく、ていねいということで受けがよいのですが、真の目的に歩ませず、結果として自分以下のレベルしか育たないレッスンになりがちです。しかし、自分のレベルに合わせて師、先生、スクールを選ぶのですから、それはそういう人にはよいともいえます。もし、足らなければ次を求めるようになるのでしたら。人を選ぶのもまた本人の実力、才能です。

「学ぶ対象のあいまいさ」

○今に学ぶこと

 

 トレーニングやレッスンは、トレーナーが学ぶ経験を積むに従って、発展してくるものです。即ち、トレーナー自身がどこまで自分の理論(仮説)を多くの人との実践の経験で、フィードバックできる能力があるのかが問われます。

私は早くから、個人レッスンから複数のトレーナーで組織的に内部結果をフィードバックするシステムをつくりました。研究誌の発行や声の分析など、外部の専門家とも協力して研究をしてきました。

 相手の要求や声の基準は、時代と共に変わります。人の心身さえ同じではありません。今の若い人とは、今の40、50代の若いときと違うのです。

 

○新たに学ぶこと

 

 次のようなことは、常に新たに学んでいかなくてはなりません。

1.人間としての心身

2.時代で変わる心身と発声器官

3.とりまく環境と状況

4.表現とスタイル

 

○生まれと育ち

 

 たとえば、単純な大声トレーニングでも、かつては、多くの人に有効だったのに、今では多くの人は害になります。

 トレーニングは、人間として、共通の体を前提に行ないますが、赤ん坊から大人に至る課程に、生まれと育ちという2つの大きな因子があります。

 生まれは赤ん坊の時点での違いです。遺伝的要素は、赤ん坊として生まれたときから個人差として生じていきます。育つにつれ、差は大きくなります。人種間での違いもあります。もっとも大きく違うのは、性別です。

 育ちからの差となると、もはや分類しきれません。成長とともに、発声発語器官そのものも変わります。後天的な違いで大きく違うのは、言語習得からの差です。聞こえてくる言語によって、耳での音の捉え方から、発声器官の使い方も大きく違ってくるわけです。

 

○トレーニングの日常の不可分な関係とあいまいさ

 

 最も難しいのは、声の場合、日常の発声発語とトレーニングとが明瞭に区別できないということです。声帯を中心に発声の楽器が体内にあります。歌唱や発語は、歌手や声優など専業を目指す人でなくても、相当のレベルにまでマスターしているからです。

 日本で生まれた日本人にとって、日本語を使えるのが当たり前のように、ほとんどの人間において、発声発語は、生活の中で習得されています。そこから歌唱、せりふという舞台表現に要求されるレベルとのギャップは、個人差が著しく生じているのです。

 歌や演劇は、専門のトレーニングをしなくても、こなせる人がたくさんいます。専門のトレーニングを必ずしも受けていない人も多いのです。となると、専門トレーニングとは何を意味するのかも、あいまいです。ヴォイストレーニングもその点では、一般的には、とてもあいまいになっています。

 

「声をこわさないことと統合力」

○トレーニングで声を壊すリスク

 

 日常でも過度にのどを使う、ホコリの多いところで声を出すと、のどを痛めます。カラオケで歌いすぎたり、飲酒で騒ぎすぎても同じです。どんなトレーニングでも、やりようによっては、いやトレーニングをしなくても、のどの状態を損ねる危険はあります。声を壊すといってもいろんなケースがあります。

 ヴォイストレーニングもやりすぎると、のどによくありません。どんなトレーニングでも、時間の長さ、休息の少なさ、健康心身状態などによっては、のどを悪くするのです。体調によっては、トレーニングをさけた方がよいときもあります。その上で、どんなに続けても、のどの状態が悪くならないようになれるのが、ヴォイトレの基礎クリアーといえましょう。

 のどそのものがよくない、のどの状態がよくない、こういう場合、トレーニングができるかどうかを適確に見極めなくてはなりません。そういう力もヴォイトレでつけていくのです。

 

○のどの個人差

 

 私共のところにも俳優、芸人や声優の養成所やスクール、他のトレーナーの個人レッスン、自主トレーニングなどで声を痛めている人がいらっしゃいます。そういうときは、何事も無理は禁物、休めることが第一です。喉の状態を踏まえて慎重に対処します。個人差もあり、体調やのどの調子にもよります。ともかくよくないときは、発声は少なめに、のどを休めることが急務です。ときに音声医を紹介することもあります。

 同じように(同じ年月、同じところ、同じ方法で)トレーニングした人でも、一方はとても上達し、一方はのどを壊すということもあります。のどには大きな個人差があるのです。自分の限界を知り、やりすぎないことと、途中に充分な休憩を入れることが大切です。

 本を読んでトレーニングすることで声を壊す人の多くは、続けて長くやりすぎています。次にトレーニング方法(イメージも含め)の誤解によることが多いです。最速で最大の効果を求めようとして、大声に高い声で無理するからです。

 

○声の管理の注意とアドバイス

 

 何時間も声を出し、とても熱心ゆえに声の調子を悪くする人もいます。

研究所は一人ひとりに目が行き届く個人レッスンですので、安全安心です。

 声が出にくくなったら、それは注意信号です。トレーナーは、そのリスクを避けることを最大限考慮します。危険なときは休ませたり、レッスンを中断し、カウンセリングをします。

 レッスンというのは、一年365日、つきっきりで行えるわけではありません。ですから、自己管理が必要です。研究所では、メールで、担当トレーナーに声の管理に関するアドバイスを求められるようにしています。

 

○声をこわす要因

 

 声をこわす主な原因は、次のようなものです。

1.限度を超えて声を出した(大声、ハイトーン、連続)

2.休めたり水分補給するなど、体調とトレーニング時間での配分を考えなかった

3.自分の合わない方法やイメージを用いて誤用した

 

○役者の基礎の大声

 

 劇団などの大声発声練習は、声楽やポップストレーナーの立場から、ほとんど否定する人が多いです。ですが、私は一理あるのと、人によって効果も違うということで、現場と相手を見ずには否定していません。

 一流の役者が、そこで確かに声が鍛えられたという実績のあるもの、そういう人がそれで身についたと思い、そういう指導もしているところに、第三者としては、介入できないからです。

 そこが合わなくてここに来る人もいます。他人の行なっているヴォイストレーニングは、単純に肯定も否定もできないものです。長期的な基礎づくりに目的をおいているものは、効果がみえにくい時期もあります。悩まれている人が多いと思いますので、それぞれの問題については、個別にアドバイスを求めにいらしてください。

 

○合わないという嘘[E:#x2606]

 

 本人の感覚、もしくはトレーナー、声楽家の判断や理論を元に、ヴォイストレーニングが間違っているという人もいます。これは、「自分には合わなかった」「自分ではうまく取り込めなかった」ということとどう違うのでしょうか。効果をあげるように使えなかったということです。それが本当にあるかどうかは、決定はできません。

 他のトレーナーがそのように教えなかったり、それを否定したからといって、継続的なトレーニングをしてもいないのに、それを根拠にするのは一方的です。

 その偏狭さのためにどこでも、まっとうな人材は育たなくなって久しいのです。小さくまとまったうまい人は多くなったのですが、まっとうな大スターは不在です。

 間違っていないし、うまいけど面白くともすごくもない人ばかりになったのです。日本のJ-POPSも、ミュージカル界も声楽も似ています。海外のステージ、ブロードウェイやオペラを見ればわかることなのでしょう。

 

○研究と面談

 

 私のところでは、およそ8つの音楽大学で指導を受けた声楽家がいます。偏狭な考えでは、共同研究などできません。日本や海外から発声に関するあらゆる教材を集め、ときには、直接伺って学ばせていただいています。

 

 ヴォイストレーニングの方法の誤用は、日本人のベースの声のなさにまでさかのぼります。あたりまえのことがあたりまえになっていないことに、問題をくみとることです。なかには、まれにヴォイトレの必要のない人もいます。そのためもあって、私は、必ずレクチャーをしてから、いろんな意味で可能性からその可否をみてレッスンを引き受けるようにしています。

 

○声と統合

 

 最初は、基礎2年間を必修として受け付けていました。やがて、グループで基礎をマスターさせるには、個人差が大きすぎることと、声だけの育成の場で、あまりに音楽性のなさを目にして、早く作品から入れていく必要を感じました。そのため、発表やライブの場を与えつつ、音楽的感覚を習得させるのを優先しました。

 私が声づくりそのものを受け持った人は、かなり限られ、大半はグループでの音楽的感覚、フレーズ感のコピーレッスンがメインでした。

 次に、私はプロデューサー的感覚で、声よりも歌について、判断せざるをえなくなってきました。90年代以降、歌と音楽の傾向が変わって、アレンジ面でのトータルサウンド的な作品、つまり、声のオリジナリティが、体からの肉声での表現でなく、歌手としての高い声をもつ人の歌唱中心になってきたからです。

 1、2については、私の基本マニュアルであった、シンコーミュージックの「基本講座」「実践講座」をお勧めします。注意を細かく加え、大幅に増補して出したので、読んでください。

「方法と実践」

○ブレスヴォイストレーニングと声楽

 

 声楽は、オペラの基礎づくりです。それに対し、ブレスヴォイストレーニングは、話し声から歌まで含めた人間のコミュニケーションのための音声の基礎づくりです。広くは、叫び声、泣き声、怒り声なども含めます。

 ブレスヴォイストレーニングは「アー」や「ハイ」の一声から、母音やシャウト、レガートなど、フレーズでの統一音声レベルでの解決をめざします。声楽はかなり広い声域、ハイトーンまで、しかもかなりの声量を体から歌唱するためにトレーニングを必要とします。それは呼吸から発声、ビブラート、ロングトーン、ヴォーカリーズ(母音)、歌唱フレーズでの共鳴統一のための基礎練習です。

 

○声の日常とドラマティック

 

 オペラが非日常なものに対し、ブレスヴォイストレーニングは日常ですが、区分は、あいまいです。もともと舞台は、非日常とはいえ、日常のハイテンションでの集約に過ぎないともいえるからです。

 日常生活の中でも、ときにはドラマ以上に、ドラマが起きることがあります。いえ、しばしば、ドラマにもできないほどのドラマが成り立っています。そこで発される声や歌は、ドラマティックです。

 

○深い声と高い声

 

 声楽は日本人の場合、多くがテノール、ソプラノ中心なので、ハイトーンと頭声共鳴が優先されているのは否めません。

 私はそれを逆手にとって、日本の声楽をJ-POPSなどのハイトーン、ファルセットの習得に利用しています。ポピュラーの本人しか通用しない、中途半端な発声をまねたトレーニングよりは、声楽は多くの人に通用してきた実績のある分、万人向けということで、安心かつ信頼も高いからです。

 

○組み合わせる

 

 ブレスヴォイストレーニングと声楽の組み合わせで、相互の弱点を補完することもできます。共に、イタリア人のような体からの深い声を得るのが目的です。

 バスやバリトンの人には、ブレスヴォイストレーニングと同じことを声楽で行っているようなものです。ことばは、レガートでなく、スタッカート気味な歌唱の一つと大ざっぱに捉えたらですが。

 

○遅れている

 

 声楽の中にも、いろんな考え、価値観、方法論、適用の仕方があります。優先順、重要度も異なります。とはいえ、百年を超える歴史の中で、オペラの伝統と権威ゆえか、お山の大将も多数いらっしゃいます。

 ポップスや役者声、ふつうの人の日常の声に偏見をもち、本人独自の声だけをよしとする人、それを教え方一辺倒のまま人も少なくありません。学生の頃、習ったことをずっと受け売りしで、続けている人もいます。共同研究や最新の科学技術を用いた解析などが遅れているように思います。

 

○方法の差異について

 

 私がいえるのは、ヴォイトレに特別な方法などというのはないということです。言語を発声として、幼いときからしぜんと習得していっているのが人類です。そこで楽器のように人工的につくられたものへのマニュアルなどあるわけがない。大切なのは、こうした原点をきちんと押さえた判断です。

 その上で、一流の人は、日常の中でより強度に、かつ短期に身につけた人のプロセスを効率化し、質を高めたものとして使って、自分を高めて(深めて)いくのです。

 同じ方法も相手やそのレベル、使い方によって毒にも薬にもなるし、方法の違いよりも、どう使えているかの方がよほど違いが大きいのです。ですから、方法論を議論しても仕方ないのです。

 研究所では、私も他のトレーナーも、相手によって全く違う方法を用いています。相手による違いの方が、他のトレーナーの方法との違いよりも大きいといえるくらいです。[E:#x2606]

 ヴォイストレーニングを行わなくても、声をしぜんの中で相当レベルまでマスターしている人もたくさんいます。しかし、そういうプロセスを取れなかった多くの人のために、ヴォイトレはあります。シンプルに絞り込んで、感覚を鋭くし、丁寧にコントロールし、体(呼吸器官や筋肉など)を強化、柔軟に調整していくということです。

 

○方法を工夫する[E:#x2606]

 

 特別なやり方があって大きな効果がすぐあがるというのもないことですが、間違ったやり方があって、それでのどをつぶすと捉えるのは、さらなる誤解です。

 ノウハウとは、役立つように使うためのものです。それを役立たぬどころか、ダメにするように使うというのなら、おかしいのです。与えられたものを役立つように変え、工夫すればよいのです。

 方法も道具も、思想や考え方も使い方しだいです。使って役立たない、毒だというなら、工夫して変えればよいのです。そうして人間は独自のものを編み出していったのです。変える力をつけていくことです。

 

○叩き台として[E:#x2606]

 

 声楽もブレスヴォイストレーニングも、変える力をつけるための叩き台にすぎないのです。私の示している方法やメニュ、考え方もすべては叩き台です。問いにすぎません。

 話を聞いて、納得できない、やってみてうまくいかないと、人のせいにするのでなく、自分が活かせるように学ぶことです。活かせるところがないのなら、ないというところから学べます。すべては、その人次第です。

 誰もがその通り、同じように、同じ期間で、同じようにできるようなものに価値はないでしょう。もちろん、やらないよりはやったという価値はあります。しかし、真の価値は、やっている人のなかで問われるのです。そうなると、方法などというものほど、つまらないものはないと気づくことです。

 

 

「トレーナーの条件」

○表現と歌の声

 

 ヴォイストレーニングを表現からみたときに、どのような表現を目的にするのかは、とても難しい課題です。

 オペラであれば、まだわかりやすいでしょう。オーディションやコンクールの基準が参考に、一流のオペラを徹底して聴くこと、その上で日本でなら二期会劇団四季の主役あたりを想定するのも一つでしょう。

 しかし、ポップスでは、一流の歌手でも、その方法論を本人以外で通用させられるとは限らないのです。アマチュアのサークルなら、ピアノがうまければピアノを弾いて自慢でき、少し歌えれば歌って教えることができるでしょう。しかし、プロには、プロもいろいろいますので、百戦錬磨のプロに対しては通じません。自己流で自分にしかあてはまらないようなものは、無力どころか、邪魔や害になりかねないのです。

 

○自分だけで診ないこと

 

 トレーナーは、医者のように、のどの手術はできなくてもよいが、声に対し適確な判断力をもって処方できることが大切です。できたら将来の可能性に対してということです。それには

1.声の育つプロセスを理解し、自ら実践できること

2.個人差に対応できること

3.自分の力量の及ぶ範囲かどうかの判断ができること

4.そうでないときやもっとふさわしい人がいると思われるときには、そのスペシャリストに紹介できるネットワークをもっていること

 これらは、まだまだ日本では十分ではありません。

 

○トレーナーは才能を求められる

 

 一流のプレイヤーは、大体一流の教師となります。しかし、一流の歌手が一流のトレーナーとなることはあまりありません。歌手が歌手を育てないのは、そう簡単にできない事情があるからです。ダンスやゴルフのレッスンプロなら、プロになれなかった人が教えたらよいのですが、ヴォイストレーニングはそんなに単純なものではないのです。

 人間に対する知識や体験、体だけでなく、教えることに関することも含めて望まれます。芸や芸術だけでなく、ビジネスやコミュニケーション心理などについても、相当のキャリアが必要です。

 この研究所には特に多彩な人が来るので、私自身では、まかないきれません。私は一人で行う限界を早くから知ったので、組織化して、客観性を高める方向をとってきました。

 

○外国人トレーナーのロス

 

 一流のヴォイストレーナーには、10歳くらいで世界に名の通るほどのプロとやっている人もいます。そんな芸当は、日本ではできません。日本のトレーナーだからできないというのではなく、そういうプロ歌手は、勘も体もセンスも特別にあり、トレーナーも楽とはいいませんが、トレーナーに求められる才能がまったく違うのです。

 私も外国人のトレーナーを日本人向けに使ってきました。日本人と外国人との間の声に関する根本的問題については、彼らは気づくことがなく、そのアプローチもできません。絶対音感のある人が、ドを出せない人をどう直せばよいのかわからないように、です。ピアノのレッスンでは、こんな問題は起きません。弾くレベルの差がすべてです。誰でもドの鍵盤を押せば、ドは出るからです。

 

○大声トレーニン

 

 私が他のところからもっともレッスンで求められてきたことは、タフな喉、強い声、通る声でした。現場や養成所などで声量不足を指摘されている、声優や俳優、芸人が要求されることです。昔ながらの大声トレーニングが行われているのも、廃止されたのも両方とも問題ありです。今の若い人ののどの弱さや体つきの変化などに、まったく無頓着なのは、驚く限りです。

 自分たちのやり方で、次の世代が育たなくなったことに気づくのが早かったのは、いつも同じ演目をやる落語、コーラス、歌劇団、ミュージカル劇団、邦楽の歌い手です。そういうところからいらっしゃると、うまくここのヴォイストレーニングや声楽を活かしています。その処法については、最初は混乱のなかで直しつつ試行錯誤でしたが、今はおおよそ、誰(どのトレーナー)がどう指導したらよいのかが、わかるようになりました。