「表現と基本」

○表現と基本

 

 表現と基本ついて、私は、いつもヴォイトレの念頭において考えてきました。まとめたのを音楽之友社から発刊しました。ここでは、緻密に述べてみたいと思います。

 

 一つのトレーニングをていねいに説明すると、これは何に根ざしていて、という基本と、これは何に使えて何になるという応用が入ってきます。本を書いてりレクチャーしたのが、そのために役立ちました。

 それを「その場での修正」と「長期的な改良」の違いとみます。一軍の試合の監督の采配と、二軍でのトレーニングコーチのように、対象も目的も役割も違うということです。

 プロデューサー、演出家と、医者やパーソナルトレーナーは、同じ相手に対しても違う視点でみています。それぞれの目的、レベルの設定をしているのです。ヴォイストレーナーは、それらを全て兼ねることもあります。とはいえ出身やレッスン目的により、おのずと偏ります。私のところでは、私が 基本の基本と応用(の応用)をみて、基本をトレーナーに振り分けています。ときに、即時対応(本番、舞台やオーディションなど)にも応じなくてはいけませんが、そこに焦点を当てると本当の意味で高いレベルに、人は育たないのです。

 トレーナーには、声の基本、共鳴―発声―呼吸、つまり、声づくり、体づくり、感覚づくりをメインに取り組んでもらっています。一人のトレーナーでは徹底してできないことも分業体制で、それぞれに専念できるようにしています。トレーナーも専門別に細かな役割分担をさせるときもあります。

 

〇静かなレッスン

 

 レクチャーや一般向けのワークショップでは、基本とともに基本の応用を、それがなぜ必要とか、それを行なえばどうなるのかの説明が求められることがよくあります。個人レッスンでも最近はその傾向が強いです。私のところもそこで1万件のQ&Aを公開しています。

 それは、レッスンが質疑応答で終わってはいけないからです。私が言語化して、文章で伝えること、会報や本で公開するのは、レッスンで、声だけ、あとは無言、無音で進めたいからです。ですから、これを読んでいる人は、レッスンでは質問にくるのでなく、静かに淡々と自分の声に集中する時間を大切にしてほしいと思っています。大切なのは説明でなく、本人の気づきです。変化、感覚、体の育成です。

 表面上の効果を急ぐ人が多いので、サービス精神旺盛なトレーナーは、そこでのわかりやすい説明で相手を納得させる方向にレッスンをプログラミングします。

私は、本や会報をその役割に使ってきたので、レッスンでは静かです。本ではていねいなのにレッスンでは教えてくれないと思われたら本望です。レッスンは個別対応ですから、その人の人生の時間軸、空間軸から捉えていくので、そんなに簡単にアドバイスできません。

 その場を(つまり相手を別の思惑で)満足させるアドバイスはできますが、あえて避けます。ここのトレーナーも競争意識や親切心など、生徒のためにたくさん話すようになると、私はたまに釘を刺します。

 

〇入り口の先

 

 レッスンは、イベントではありません。トレーナーのパフォーマンスをみせるところではないのです。とはいえ、私の声を聞きたいなら、レクチャーにいつでもくればよいと、機会はオープンにしています。声はごまかせません。

 話やパフォーマンスでみせなくても、基本は、声そのものです。声は声として発したらわかるものです。シンプルに示せばよいだけです。ですから、私も声は出します。しかし、本当は生徒の声だけにレッスンの時間が費やされ、私が無言なのがベストのレッスンです。そんなことがわからない時代になってきたと感じます。

 

〇パフォーマンスとしてのレッスン

 

 応用、演出にすぐれたトレーナーは、それはそれで使いようがあります。「こうして、こうすれば声が出るでしょう」と、人気のあるパーソナルトレーナー(多くはフィジカルトレーナーを指す)もそうですね。5分でウエストがくびれるとか、バストが大きくなるとか、それは嘘ではありませんが、真実ではありません。とはいえ、TVに出るほどのパーソナルトレーナーは、それを知ってパフォーマンスとしてやっているのでしょうが…。それをまねているだけでバックの基本のないトレーナーは、早々にいなくなるでしょう。

 大切なのは、それが将来相手の大きな可能性につながるようにしているかです。演出してみせるのは、入り口としてはいいのですが、入り口から先がない、そのために、いつも入り口だけで終わっているケースが多いのです。フィジカルでは若いトレーナーに多いのですが、ヴォイストレーナーでは、ベテランにも少なくありません。役者や演出家のワークショップにもよくみられます。この入り口を出口、目的とし、セッティングしてみせると、一日でみるみる上達するような、実感のするセミナーになるからです。

 

PS.「インチキな人は、有名人を宣伝に出す」とTVで流れていました。有名人が自分でPRするのはかまいませんが、私たちの方から、こんな人がきていますというのをPRしません。実績を上げていたら紹介で人はきます。即効果を求めていらっしゃる人は、本当はトレーニングの対象にはなりにくいものです。お医者さんの紹介で、本当に困っている人がきます。少しずつよくなっていくのをみると、急いで成果を求めてはいけないと思います。

 

〇出口が入口

 

 声については案外と他の専門家も見抜けないことが多いようで、嘆かわしいことによく直面させられます。私としては、そこを他のどんなトレーニングもそれもあり、それもよしとした上で、一線を画しています。その出口が入り口にしか過ぎないことを知ってからいらっしゃればありがたいと思っています。

 一般の人には、手が届くような目標にしてみせて、モティベートや自信を起こさせる、それは、メンタル面に問題のある人にも、場合によっては、よい処方箋となるからです。

 多くの人に対して短い時間で効果をみせなくてはならないとき、専門外やまったくの畑違いの人にヴォイトレをアピールするときに、わかりやすく伝えられるのです。私もときおり利用しています。

 たとえば、研修で、早口ことばを入れると、早く打ち解け和気あいあいとなります。体のこと、体操や柔軟なども同じです。発声と関係しているから、程度の低いことですが、一般受けも、玄人受けしてしまうのです。

 本当の問題は、全体ではなく個、今ではなく将来に対して、どのようにトレーニングをセットしていくかということです。

私がグループレッスンをやめて個人レッスンにした第一の理由です。他人をみて学べるというメリットをなくすのは勇気がいりましたが、より大きなメリットをとりました。

 

 自分の今をみる、今の体、今の24時間、次に過去をみてこそ、本当の自分の将来を推し量る力がつくのです。これまでのすべての問題が今の声(発声に関するすべて)に出ていますと、そこを、どこまで厳しくみることができるかどうか、今の声をどこまでていねいにコントロールしていけるのかという感覚=体に入ることが大事なのです。

 

○頭を空っぽにする

 

私も、のどや体について、随分と詳しくなりました。でも、ことばには専門用語や知識は、なるべく出さないようにしています。中途半端に頭でっかちにするとあとで苦労します。事実よりもイメージの言語が大切です。ことばや知識、理論にこだわる人は、発声がよくなりません。私のところには、本や、メルマガの読者でいらっしゃる人も多いので、そこを注意しています。

 トレーナーは人の体を扱うので、最低の知識は、健康や安全のために必要です。しかしトレーナーについているなら、そこはトレーナーに任せればよいのです。レッスンでは頭を空っぽにしましょう。

最近はメンタルな問題も大きいです。どうしても正しい知識に基づいてとか、科学的ということを重視する傾向が強いからです。

 私のところは、そういうものを測る専門の器材があります。、そういうもの関心があっていらっしゃる人もいます。しかし、すぐれたトレーナーの耳には及びません。たとえば、声帯の振動数が1秒に何回という世界において、その回数を云々するようなことは研究者に任せたらよいのです。

 ゴルフのボールとシャフトのインパクトの角度が何点何何度などというのは、いくら知っても使えないでしょう。コーチが分析してアドバイスすればよいのです。本人は、ボールの行き先をみていれば、結果はわかるのです。角度でなく、全体のフォームとそのコントロール力で正していくしかないのです。そのまえに、同じスイングができる力をつけることです。

 

〇科学、医学とヴォイトレ

 

 科学が、アートの世界にまで入ってきたのはよいことですが、私は科学としての情報を集めて、使えないとことを説明しています。のどをいくらみてもらって、外科的な手術で解決できること以外については、メンタルの問題が大半です。心身ともに鍛えていくためにトータルのトレーニングをやるしかないのです。その当たり前のことがわからなくなっている時代です。

 何事にも、そこにいけばすぐに解決するなどということはありません。いろいろな理論武装をして、いろんなものを手を変え品を変え、やろうとしても、本当のことに気づけば、そんなものに頼らず、自分でしっかりと日々トレーニングしていくしかないのです。そういうところから、ここにはいらっしゃった人がたくさんいます。(Vol.250巻頭言より)

                                            

 声に関わる機能的な問題はいろいろとあるのですが、舌の長い短いなど、医学(手術)で直せないことは、自分をよく知って、最良の使い方を見つけていくのです。そのためにトレーナーを使うのです。自分を知るためにレッスンを使うのです。他の人と比べたり自分の悪いところばかり気にしてもしかたありません。

 声は最高の声、歌は最高の歌を目指してください。たとえ、そうでなくてもやってはいけないわけではないのです。他人になろうとは、しないことです。

 

○カラオケと初音ミク 

 

自分の声や歌が嫌だとか、めんどうだとなると、ヴォーカロイドを使うようになります。その是非はここでは問いません。クールジャパン、日本の商品文化として大いに世界で広まると良いと思います。生身でない分、24時間、世界中で同時に活躍できるのですから、デジタルは違う可能性があります。ドラムで32ビート、64ビート、128ビートが、打ち込みで可能といって使わないのと同じく、初音ミクが10オクターブで歌っても受け入れられるでしょうか。生身の体でハイC超えとか3オクターブに挑戦している人を、もしアートをめざすのなら、もったいないと思います。否定はしませんが、世界にはすでにもっとできる人がいっぱいいます。

日本の技術は、声や歌をカバーして「カラオケ」を開発、普及し、次に「ヴォーカロイド」と、先端のテクノロジーでフォローしました。のゲーム世代の耳=脳の変化もあります。アナログ=ラジオ・レコード、デジタル=ipad、パソコンとはいいませんが、人の感情は育ちでできた脳で決まっていくのです。私が嫌なデジタル音でうきうきする人を、おかしいとはいえません。目が疲れて、朗読で聞く人が増えています。このあたりを私は押さえていくところにしています。

 

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○一流と二流のプロセスの違い

 

 先日、ある高名な役者と話す機会がありました。そこで、一流として大成する人と、それに至らない人との違いの話をしました。

 考えてみると、研究所に、プロの人がいて、その上を目指してレッスンをしています。一方で、何とかこの世界で生きていこう、一人前になるというところを目指す人もいます。人並みの声に戻せたら、幸せという人もいます。

他のところでは、決してできない内容や体制で行なっているから、さまざまな人がきます。30%くらいの人は、よい面でも悪い面でも、他にはいくところのない人といえるかもしれません。ここは、すごくおもしろいところと思っています。

 

〇一流の感覚

 

 私が最初から研究所でめざしていたのは、一流の人材の養成です。心技ともにずば抜けたレベルに到達するためにレッスンとトレーニングがありました。スタートラインがプロへの指導だったために、必修でした。一流育成のために、世界の一流に学ぼうということで、声を徹底して学ばせたわけです。

 そののち、かつてのグループレッスンでは音楽の感覚までをプログラムすることになりました。世界の一流レベルの声、歌、そこから日本人の一流レベルの声、歌と、相違点を徹底して分析して、プログラム化しました。わかる人にはわかること、どのようにわからない人に伝え、わからない人をわかる人にできるかが、レッスンの目的になっていきました。これには個人レッスンの方が適していたのでスタジオも体制も大きく変えました。

理想を保ちつつ、どこまで現実にあてはめていくのかの試みです。いらした方だけでなく、私自身にもさまざまな示唆を与えてくれたと思います。

 

○オペラ歌手の基本に範をとる

 

 今、私は能という、舞うのも座るのも形があるもの、型の決まっているものに接しています。謡の声は、姿勢、肉体の制限下に調整しなくてはなりません。直立不動の合唱団で発声を最高にするためにそこから何をするかということに似ています。そこで私は、そういう職人肌の人を共に組むトレーナーとして選びました。

プロデューサー、演出家の注文に合わせて、声をコントロールする術を与える、これは、トレーナーをはじめたときの私の立場、やり方に似ています。演出家、プロデューサー、作曲家と共に選ばれたのに基礎力のない日本のプロ歌手に、私はレッスンしていたからです。基礎力がないと、タレントや役者に移るか引退、転職することになります。私の理想と裏腹に、現場での要求という現実に対処していたのです。それを直視して、基礎づくりをまでじっくりととりくめないプロダクションやプロとやるよりも、一般の人から育てようとグループレッスンを始めたのです。 

プロに対して、私は、表現と体(声)からみています。ここのトレーナーの出身はオペラ歌手が多く、全身から声を出して共鳴させる専門家です。現実対応の先に理想があります。一般の人、役者、声優を教えていると、現実に対応できるようにもなります。現実に対応してしまうようにもなってしまうのです。

 役者の声とオペラ歌手の声のもっとも大きな違いは何でしょう。それは、クライマックスの死ぬシーンで顕著に現れます。役者は死ぬ人になりきり、しぐさ、表情に同化した声を出します。オペラ歌手は発声を共鳴、スタイルを崩さずに通します。声ことば共鳴の優先順位が違うのです。

 役者や声優がたくさん学んでいる研究所なのに、声楽家中心のトレーナーにしているのは、私が声から全てを考えている立場をとっているからです。

 

○「早く」と「上に」の違い

 

 トレーニングとは、より早く、より上にいくためのものです。この「早く」と「上に」をきちんと考えなくてはなりません。「早く」とは、他の人が10年かけてたどり着いたことを、10年より早く達することです。それに対して、「上に」とは、その人より上にいけるということです。その人とは、師やトレーナーでもよいし、最高のアーティストでもよいでしょう。何年かかってもいくということです。では、上とは何かということになります。ここでは他の人の上というのをさらに超えて「深い」といっておきます。

 気をつけなくてはいけないのは、早くあるレベルにいけたからといって、誰よりも上にいけるわけではないということです。まして深くなるとは限りません。

 同じことをできるようになるのに、早くできた人のほうが、より上にいくのに有利と思います。早く活躍の場、機会と経験が与えられると、力がつくことが多いからです。

 しかし、人生、大器晩成型もいます。長く生きる人もいます。途中で失速する人もいます。

創始者や他からこの世界に飛び込んできた人と、二世三世といった人との違いもあります。オーナーとサラリーマン経営者、二世などの違いも関係ありそうです。

 

○姿形の制限と音声の成立

 

 日本人は、音声よりも形、耳よりも目を重んじてきました。声も話も歌も、ヴォイトレも、フィルターをかけてゆがませているというのが、私の持論です。

私は、研究所を、「音声、表現、(生)舞台での基本」を学ぶところとしました。目をつぶって聞こえてくる世界で、基準を確立しようとしたのです。日本のほとんどの分野がヴィジュアル中心になっていくことへのアンチテーゼ

です。

 詩吟、邦楽、歌舞伎、噺家の指導をしてきた私も、能と関わったときは、ためらいました。目をつぶって聞こえてくる音、声の世界での成立の基準のとりにくさでした。生の舞台や舞台裏をみたあとも、狂言はわかりやすいのですが、能は、衣装や舞とヴィジュアルあっての音声で、様式美中心です。型のなかに声を入れていくことで、音声の可能性は閉ざされているのかもしれません。節回し(音程、リズム)や声のトーンには、流派によって多様な価値観があり、音声を切って離せないでしょう。

 私は能のCD(音声世界)というのは、成立するのかというと疑問を持たざるをえないのです。詩吟、長唄はそれが主です。落語や狂言では、音声だけにすると見る面白さが失われるとはいえ、名人級であれば成立するでしょう。

 一流の音声を学ぶのなら、声楽家やオペラだけとはいいません。自らの体を中心に最高の音声(表現)を追求すべきです。そのときに形、姿勢や表情、ことばや発音をしないのです。これが私の考える声、発声の基本であり、ヴォイトレです。

 それに対して、一流に見せようと早く上げるなら、制限された型のなかでの使い方、体、声、歌を覚えて、コントロール、調整していけばよいのです。

 師をまねて守破離の手順を踏む日本の伝統芸では、時代を経るにつれ、守で終わってしまいがちです。伝承に傾いているからです。某歌劇団や某劇団から、二世三世ではありませんが、トップスターを真似て、早く途中まで育った挙句、そこに達しなかった人を山というほどみてきて、そう考えるのです。

 

〇今をみるトレーナーと先をみるトレーナー

 

 レッスンとして具体的に考えるのなら、両立は不可能ではありません。2人のトレーナーが、一人は今に、もう一人は遠い将来に対応するのです。「発声、声づくりと歌唱は反する」というのは、こういうことを言っているのです。どちらかしか選べないとか、矛盾して駄目になるのではありません。

本人の器が大きくなって、包括して昇華できればよいのです。消化してしまってはいけないです。

 職人はクリエーター、発注主の注文に応じてつくりかえます。芸術家はアーティストとして、自分の思うものをつくります。トレーナーはアーティストよりは職人であることを望まれます。役者や歌手よりも監督、演出家、プロデューサー、作詞作曲家、アレンジャー、SEあたりの方が創造的で、アーティストとして取り上げられるようになったのですから、トレーナーもアーティストであるべきというのは、私の立場です。

 

○救済と創造

 

 声から考えるのと、(体から)表現から考えるのは、大きな隔たりがあります。現代の人は少しでも早くばかりを結局求めがちです。早く楽にうまくなりたい―というのは、学校教育=平均化=落ちこぼれ救済教育であります。(他国に模範をとれる工業化社会時代のもの)

 基礎はそれでいいと考える人は日本に多いのですが、私は、基礎こそ、創造的でなくてはならないと考えています。思えば、日本の産業は欧米の表面的なものまねでスタートしました。基本特許料を払っていました。今は、アジアが日本をまね、日本の基礎の部品を使っていないとつくれないのです。ところが、アートの分野は逆行しているような感が強いのです。

 日本の誇るべき伝統の芸は、今や風前の灯です。戦後、特に団塊の世代アメリカ化によって、ロックやエレキギターに置き換えられていったのです。それでも楽器やダンスの技術はスポーツと同じく国際レベルに達しています。

 復興してピークにある落語、弱体化したもののすそ野の広いお笑い芸(人)、そして、かぶき者の歌舞伎の音声は、ときに胸を打たれます。世界で引けをとるものではありません。

 トレーナーとしては、落ちこぼれ救済での実績を元にして一流の才をつぶすようなことを気をつけなくてはいけません。才能のある多くの人の将来は、そう簡単に見抜けないものです。

 私は、ひと声については、それぞれにすごい研究所のトレーナー(オペラ歌手ですから)ですが、その点の自覚と自戒を促しています。ここに来ないと救われなかった人の声を助けること、それと、どこでもやれる力があるからこそ、ここで他のどこよりも進歩させられたという人を輩出すること、これが今からの研究所のあり方となっています。

 

○レッスンとPR・個人情報

 

 研究所の出身者やここにいる人のこと、有名人などを聞かれます。私は、ここではみかけても口外しないようにお願いしています。

 トレーニングというのは、人にみせるものでありません。一人で静かに、たんたんと、地道に積み重ねなくてはならないものです。レッスンは、そのためのアドバイスであり、確認です。トレーニングがベースで、日常の生活で音声の環境や習慣を変えることが求められます。体、感覚の条件づくりのペースメーカーと思っています。そういう環境を守れなくてはすべて、個室の個人レッスンにした意味もなくなります。

 ですから、私もレクチャーでは饒舌で、サービス精神旺盛です、方針についてはたくさん説明しますが、レッスンでは寡黙でありたいと思っています。

 

 かつてのグループレッスンでも、私は一言もしゃべらない、来た人が主役のレッスンをめざしていました。ライブでも、合宿でも、MC役の私が声を出すようになるにつれて、終わっていったたと思います。

 自分の声を自分で聞くことがとても大切です。メールでQ&Aをして、レッスンは「話よりも声を」と考えています。

 トレーナーが、たくさん話したり、たくさん見本をみせると、最近は、たくさんやってくれたということで、受けられた人の評価は上がります。それは主役が違います。

 レッスンにくる人がレッスンをするのです。声を出すのです。この時代、私のように沈黙で伝えるという技は使えなくなっていくのは、困ったことです。

 

〇レッスン環境の保持

 

 オペラ歌手でも医者でも、若くして世に問う、持論をもち本を出したりすると、日本の社会では、ねたみ、そねみ、嫉妬で、疎外されることが少なくありません。一人前でなく、世にも知られていない若さで、人に教える、ポップスや役者、一般の人に教えに行くこと何事かというような風潮はあります。歌手が、医者に行くのも、実力不足、管理不足とみなされ、選抜に影響したり、役から降ろされかねない、精神科医心療内科となると…。この時代錯誤の認識は困ったことです。

 私はどこにも属さないので、何を言われても利害関係がない分、どのプロダクションとも良好の関係を保てます。どこかに推薦してもらっているのでもないから、どのオーソリティ、専門家、学者や医者ともやっていけます。

 ホームページに具体的に名を出さないのは、私の責任の下、レッスンに集中する環境を保持したいからです。

 

 芸能人も有名人も、ここでは一人のレッスン生です。他で話せない苦労や厳しい立場におかれている人も多いので、声を中心に応援をしています。隠れ家的に利用ができるのが最大のメリットです。紹介で来られますので、PRは出していても、活動は別、レッスン室のなかでトレーナーと個別にレッスンは行なわれています。

 関わった人を例に出すのは、どういう分野の人がいるのかはヒントになるからです。体験談も、職業、年齢、性別があれば、伝わるものが大きいと思います。しかし、ここは常にプライバシーを優先しています。私の発言でも、今は個人の名を出すのは控えています。

 

〇充実感と実績

 

 トレーナーや医者というのは、職業上、個人情報の秘匿が義務です。いらっしゃる人も、あまり他の人に知られたくないことを話せます。それがレッスンに関係することもあります。メンタルのケアが入るので、精神科医と同じようなことに気をつけるようにしています。

 トレーナーにも、生徒さんの情報の扱いには厳しい契約をしています。生徒さんの情報も個人が特定されることは出していません。

 トレーナーを評価し、そのトレーナーに感謝して、名を挙げるのは自由ですが、ここでは、それも困るトレーナーもいます。

その人が、トレーナーに育てられたと思うのは自由として、トレーナーが、この人を育てたというのは、傲慢に思います。私は、関わったとか、ここにいらしたというところまでしか言いません。

プロでなくとも多くのトレーナーについていることもあります。他のところに行って、同じか、それ以上の効果が出ていたかもしれません。充実感や満足度と、実績とは別です。

 私は、ここのトレーナーをほめられるよりも、その人が、トレーナーを利用して、自らの夢を実現された、何かを変えることができたら、嬉しく思います。

有名な人がたまたま来て、数回、接したくらいでその名を挙げるような人の神経はわかりません。人は、10年、15年と長く付き合ってこそ、信頼、信用となるのです。どうして1、2年くらいのレッスンで、成果や結果をPRできるのかと思います。人は人、です。

 

○方法やメニュではない

 

 他のところのレッスンの方法やメニュ、考え方、理論、説明、関連商品などについても、正誤を知りたく、いらっしゃる人がいますが、私は他のところについては寛大です。

ことば、知識、科学としておかしくても、ペーパーテストではないのですから、成果が出ていたらよいのです。ことばや理論を読めば、大体、どの程度のものかはわかります。

 それに惹かれる人はそのレベルですから、そこからスタートすればよいのです。優れたら、次のステップ、次のトレーナーへ進めばよいのです。

どっぷり浸かっても、本当に全力でやっていくと必ず次につながります。侮いを残すのは、全力でやらなかったからです。全力でやれなければ、やれる環境にしていくことです。どこにいくとか、誰につくではなく、それを元に自らの環境や習慣、生活をどう変えるかが本質的な問題です。そのために自分のセンサーを磨いていくことです。

 私はレッスンで、声がよくならなくとも歌がうまくならなくとも、センサーが磨かれ、基準が一流レベルに高まっていればよいと思っています。おのずと成すべきことがわかるからです。すると、そう行動し、必要なこととめぐり会えるからです。

 その基準があれば、トレーナーにそれを満たす材料をもらえばよいのです。レッスンではチェックして、目的とのギャップをみて、その材料をもらいます。トレーニングをしてギャップを埋め、レッスンで高い目的をもらいます。それを自らの必要性として深めて満たしていく。それが研究所の求めているところです。

 評判や雰囲気に影響されるのではなく、本質をきちんとみることです。長く多くの人とやっていける人は、本当に少ないのです。5年で95%の会社は潰れているます。誰も潰したいのではないのに、あたりまえのことがあたりまえにできていないからそうなるのです。

 私は、2、3年の関係で、人を信用することも、評価することもありません。寛容です。誰から何をいわれても、その人を否定したり、関係をこちらから絶つこともありません。よいところをみつけていく、それは基本、大切なものが発酵していくのに要する沈黙の期間なのです。

 

○天のやり方、地のやり方

 

 天才の俯瞰的な物の見方と、秀才の俯瞰的な積み重ねの二方向からのアプローチが必要です。

 どんなに毎日トレーニングしていても、それが日常、あたりまえとなると次のレベルが求められます。常に非日常を日常化して、そこに非日常をセットする取り組みが求められるのです。私は、これを「状態づくりから条件づくりへ」、つまり、今の状態のベターを取り出すことは、将来のベストを求めることの前提としています。しかし、必ずしもつながっていないこともがあるのです。

それをくい止めるために、頭が空っぽにするのが必要と考えてください。

 私は今、一番出しやすい声からアプローチさせますが、その声イコール将来の目指すべき声そのものではありません。もしかするとその基礎も当たらないということもあります。これは、どこかで考えておくべきなのです。

 今その人の一番出しやすい声よりも、トレーナーは、自分の理想の声そのものや自分の発声、あるいは、その人の理想と思い込んだ声を押しつけやすいのです。トレーナーというのは、この点で危険な存在ともいえます。

 稽古やトレーニングが理不尽、修羅場であることで、自らを捨てて、つかんだり、「破」や「離」ができるきっかけになるのなら、結果として、よいことです。これは、その人の資質によるので、人をよくみて、対処するとしかいいようがありません。

 

○マジックの効用

 

 その日にすぐに結果を出すためのレッスンやワークショップというのは、考えものです。ますますそういうことを求められているからです。一番ひどいのは、TVやYoutube、動画といった映像で、目で見える効果を最大限に発揮するものですから、ビジュアル>オーディオです。日本人の視覚優先社会、最近はわかりやすいものしか認めない感覚が輪をかけています。身近な道具を使うトレーナーや声をグラフ化してみせる分析家が優先されるのです。

 早逝されましたが、ピンポン玉、割りばしなどで声をよくしていた上野氏などは、TVによく出ていました。私も、カラオケの取材がよくあったのですが、TVという媒体が、あまりに本質よりも表層だけ曲げて伝えるので、お断りしているうちに来なくなりました。90年代には、経験としてトレーナーに振っていたのですが、リズムを縄跳びしかクローズアップしないことなどでショックを受けました。音の変化よりも、滑舌、高音など、明らかなものに集約されるのは、しかたありません。企画書に、主婦の日常でできるトレーニングに包丁を使い、リズムを取るなどと台本にあったときに、ムリと思いました。

 90年代終わりからは、お笑い芸人タレントが仕切る番組が多くなり、バラエティ化して、おもしろいもの、楽なものが求められるようになりました。私は電話があると、上野氏のほうへ振っていました。

 彼の名誉のために言っておくと、彼の声はよかったし、ヴォイトレを一般化させた功績は大きいと思います。タレント、芸能人(ボブ・サップあたり)と、一般の人が対象でしたから、マジシャンのような役割を自ら引き受けられていたのだと思います。

 比較的まともな番組で、科学的として専門家や大学の教授が出るものでも、声で行なうことは、話題に合わせ、パフォーマンス化しています。番組のために即興でつくられた驚きをあたえたり、視覚の効果的でおもしろいメニュ、方法が多いのです。

 私は、心身、健康とも結びつく発声、声だからこそ、細心の注意を払うべきと考えています。声の判断は、とても難しいものです。それを見てまねる人に、のどが悪くなったり、方向違いの努力を強いられることを憂慮せざるをえません。

 「トレーナーに合うが自分に合わないもの」もあります。まして、みせるための方法は、よくありません。

 

○みかけの効果

 

 滑舌はやればやるほど、すぐによくなります。誰でも判断がつくので、一般受けするメニュです。私も、一般向けの研修に入れます。一回だけとか、一日だけ、というところでは、デモンストレーション、パフォーマンス、プレゼンテーションの要素を求められてしまうのす。

体験レッスンなどもその一つでしょう。すると、ビジュアル的に、使用前、使用後と、こう変わりました、のような即興効果に焦点を当てざるをえないのです。

 

私が一時、必要としたのは、そういう方面で能力のあるトレーナーでした。私もスタートはそれがあったからこそ業界に求められ、プロになれたのです。

 これは根深い問題です。真のレッスンと、みかけのレッスンとの違いといって片づけられない、というのも、形に実が伴わない、みかけが、真を呼び込むこともあるからです。

 私が組むのは、少なくとも自分のやっていることの位置づけがみえている人です。他の人をまねただけでやっているトレーナーには、この仮やみかけを、ど真ん中に思い込んでいる人が少なくありません。 

 

 多くのトレーナーが研究所にもきています。教えているトレーナーでなく、生徒として学んでいるトレーナーです。それはとてもよいことです。トレーナーには、学ぶことの必要を誤解している人が少なくないからです。

自分の方法を相手にやって効果が出ないと、資質がないとか、努力不足として片づけてしまうのです。これは、すぐれた人ばかりをみているトレーナーの中にも、昔から多かったので、私はそういうトレーナーを「先生」として、区別しています。お山の大将でも、お山の上だけなら、そこでやれていたらよいのです。

一流のアーティストに役立てばよいというのと、1000人の一般の人が確実によくなる(よくなったと思わせる)のは、同じことではありません。トレーナーの置かれた立場、相手の目的、レベルによっても変わります。

 今の研究所は、広く多くの異なる目的やレベルに対応して、方法やメニュも多彩にしています。

 一流のアーティストへのレッスンをバックボーンにもちつつ、いらっしゃる人のニーズに合わせ、応用しているところです。

 そのよしあしは、こうしていつもチェックし、舵取りをしています。教えることのまえに、みることに専念するのです。

 

○イメージ言語と理論(野村克也氏)

 

 ヴィジュアルの次におかれる難題は、トレーニングという、本来、自己目的化してはいけない特別なもの(期間、プロセス)のあり方です。

私は野球での、天才型の長嶋茂雄さんと秀才型の野村克也さんとの比較で例えます。「来た球を打つだけ」「こうきたらコーンと打つ」というイメージ言語中心の長嶋さん。これは松井など同じく天才型のバッターにしか伝わらないでしょう。こうきても、こう打っていない人が多いのです。でも、プロ野球選手はエリート中のエリートですから、通じるところもあります。勘、理論、データベースを加えて、指導法から人生哲学にまで結びつけたのが野村さんです。相手打者の研究を徹底して指示する捕手と、野性の勘と派手なパフォーマンスで客を興奮させるサードとの違いでもありました。

 野村監督がストライクゾーンを8×8の64に分けました。ピッチャーもそのときは考えていても、そのデータの蓄積から出てくるものは知らないのです。そこで野村さんの術中(読み)にはまるわけです。

 私は、かなり前に、この8×8の考え方を、声にあてはめて述べたことがあります。私のような素人では、せいぜいストライクゾーンといってもバッティングセンターやゲームセンターなどにある3×3の9のマップしかないのです。それを8×8=64で区分けして捉えるのは、よりていねい、繊細なコントロールや判断が必要とされるということです。もちろん、3×3でコントロールできないうちは、8×8は無意味ですが、その先の世界を意識づけしておくのは有意義です。そして、レッスンやトレーニングを次元アップさせる感覚の意識的基準になります。

 

〇勘と動作

 

 トレーナーのなかにも、声を分類して名称をつけ、その出し方を一つひとつ教えている人がいます。ヴォーカルでは、地声-裏声、ファルセット、デスヴォイスやエッジヴォイス、低中高音域の発声、ミックスヴォイス、日本人は、こういうことが大好きです。

私は当時、ボール球を打つ練習をしても悪くしかならないという例で、欧米人ヴォーカリストのとてつもなく高い声やダミ声(ハスキーヴォイス)をまねるような練習はしないようにさせていました。

テニスでも野球でも、基礎というのはいろんな球をいろんなフォームで打ち分けるのでなく、もっとも理想的な一つのフォームを身につけること、それで全てをシンプルにまかなうことです。

たとえば体で打つ、腰の入ったフォームを、球を打つ前に徹底してマスターします。

8×8のマップがあろうがなかろうが、そのど真ん中に来た球を百発百中、ホームランにできる力がなければ、通用しないのです。

プロが3割しか打てないのは、プロのピッチャーとの心理的駆け引きのせいで、次にストライクが来るのを読めたら、ほぼ、確実にヒットに(あるいはホームランに)できるそうです。素振りのなかで、8×8どころか、80×80、いや、イメージした線上に1、2ミリの狂いもないようにバットを運ばないと、ホームランにはなりません。物理的に考えたらわかります。

 最大に力が働くところに、タイミング(時間)と空間の軸を瞬時に一致させ、ボールとバットの面での拡張、そして、ボールを運ぶのです。予測(勘)と、選球眼(ボールに手を出さない)、あとはストライクで、打てる球がきたら打つだけなのです。そのために、全身で統合し、シンプル化しておかなくてはいけません。そこにはバットにボールを乗せるとか、まさにイメージ言語でしか伝わらない世界があるのです。

 

 ですから、3×3しか知らない人に、8×8の世界があることを見せるのは、よいことです。しかし、ここで64通りの打ち分けのフォームを教えても、どうなるでしょうか。多分、対応できようもありません。ゴルファーが、肝心の素振りを大してせず、チェックせずに、球とヘッドの角度を測ってばかりいるようなものです。測ってよくないのを知るのは大切ですが、00コンマ何度と考えて練習すると部分的に力が入ってしまうでしょう。全身を一つにして、アウトプットするということが、最大に優先されるべきなのです。

 こうした状態の調整が使い方の工夫がメインになって、細分化されてばかりいくのはよくないことです。一方で、大きく条件をつけていくこと、つまり鍛えて変えるべきところを変えていくことを怠るのなら、本末転倒です。

 

○「一つの声」から

 

 私のお決まりの比較表です。

ステージ・本番   トレーニン

応用        基本

全身        部分

調整        強化

無意識       意識的

 しかし、そこへ至るプロセスの練習では、意識して、部分的につかみ変えていくのです。

 役者が肉体をパーツに分け、パントマイムを学ぶように、です。

 ちなみに、ファインプレーは応用の最たるものです。それを誰も練習しません。危険ですから、同じプレイなら、ファインプレーにせずに、基本のレベルで処理できる人のほうがずっとレベルが上です。難しいボールを派手に転倒してとる人より、地味に目立たずとる人の方が実力が上ということです。

 

 ヴォイトレも、声を分け、それぞれをやり方で学んでいくというのが流行しているのでしょうか。トレーナーの方法をみると、3パターンが多いです。初心者にはわかりやすいからでしょうか。ストライクゾーンでいうと、高-中-低、内-中-外の3×3マトリックスと似ていますね。

 私はあえて、まず一つの声といいたいのです。研究所には声優が多くいらしています。仕事としてはまず、最低5~7つの声を使い分けられないといけません。一人何役もやるからです。しかし、私は、一つの声を徹底してマスターしてから応用していくのか、正道と思っています。

その人に無理がくるので、ものまね声やアニメ声からスタートさせません。分けると早く上達したかのようにみえて、早く限界がくるのです。

 噺家は人物を描き分けている、声で演じ分けているといいますが、まったく違う声を使っているのではありません。若い噺家なら、女性なら高く弱く、男性を低くと変える人もいますが、ベテランや名人は、同じ声で、声の表情で分けてみせます。2つの声が必要なのではなく、高度に使える一つの声が必要なのです。ここは声の種類をどうみるかということになりますが、実際の名人の声を聞いて判断してください。

 

〇自分のストライクゾーン

 

 長嶋さんのレベルでは、ストライクとボールの区別もなく、単に打てる球、打てない球、いや、打ちたい球と打ちたくない球だったのでしょう。野球がおもしろいのは、どんな悪球、ワンバウンドした球でも、敬遠の球でも、打ってもよいということです。確かにボール球はヒットになる確率は低いのです。一流は、そんな常識も通じないからこそ一流なのです。これこそが、声や歌で一流になろうとする人が知っておかなくてはならないことです。そういう人を育てたいと思っているトレーナーが心しておくことです。狭い判断や自分のパフォーマンスのために、その人の大いなる可能性を邪魔しないように気をつけることです。

 

 レッスンをしたり、トレーニングをしたり、アドバイスをすることで、ことばにしたり、マニュアルや本にすることで、何かは、まとまり、その分、何かは失われます。

 いくら科学的な分析や理論が進んでも、一流のプレーヤーはさして多くなりません。一流のアーティストもそこからは生まれません。学ぶこと、知ることは大切ですが、頭でっかちにならないことです。頭をとるために学ぶのだということを忘れないでください。トレーナーも、頭の固まりみたいな人が多いものです。

 

○メンタルとフィジカル

 

 私は、2000年から、メンタルの勉強、2005年からフィジカル(体)の勉強を中心にしました。スクールにくる人に対応するトレーナーが異なり、私の場合は、くる人に対応している、トレーナー(の対応しきれない人)に対応するという、より高度な必要に迫られているからです。

 より早く、より高く、より厳密に、判断を求められます。生徒さんへのトレーナーの回答やそこでの疑問にも答えなくてはなりません。

 トレーナー間での考え方、価値観、判断の違い、優先順位、メニュの違い、そこでの矛盾や問題など、これらは、その本質をみるには、しばらく放って起きたいこと、本人が(生徒もトレーナーも)問い、答えをつかむまで見守りたいことが多いのですが、早々に助言せざるをえない立場にいます。それで、いつも考えさせられます。

 よく、「何十冊も本を書いたり、ブログの連載も続けられますね」といわれます。私たちのサイトに掲げた何千ものQ&Aをみていただいてもわかるように、私には1000冊でも書ききれないほど、わからないこと、知りたいこと、聞きたいことがあります。ここで関わっている人にいいたいこと、伝えたいことがあります。でも、いろんなことをいっているようでも、同じこと、一つのことをいい続けていると思っています。

 

〇昇華と統合化

 

 AとBが矛盾するとき、それを包括した力をつけ、Cとして一つ上で統合しなくてはいけないと、哲学的なことです。AやBのどちらを正しいと思って、分析して細分化しても、そこには、あなたの答え(人生の)はありません。だから、ここに関わっているときは、理屈はトレーナーに任せて、頭を空っぽでやってください。

空っぽにならないから、公案を考えつくして解脱するために、これを述べているのです。「私のいうことから学んでください」ではありません。問いも答えも現場にあります。

 トレーナーとの一つひとつのレッスン、ご自身の一つひとつのトレーニング、そこで体から出てくる声が全てを教えてくれようとしています。それを聞き取る耳を、感覚を、感性を磨いていくことです。声だけでは通じませんが、声を通して、そういう力をつけることができます。その力が声に宿ります。

 体は、声の楽器です。その状況、状態を判断し、よい状態にして日常的に声をうまく取り出せるようにしていくのです。

 しかし、これまでの日常でそうならなかったでしょう。このことをしっかりと自覚することが第一歩です。だからこそ、非日常であるレッスンやトレーニングでシェイプアップさせるのです。そこでの主役はあなたです。

 

○解剖学と発声

 

ときどき言語聴覚士(ST)と、仕事をやっています。声のつくりや名称については、厳密にしなくてはならないと感じることがあります。医者と話すときも、専門用語や薬の名が出てきます。

しかし、一般の人なら、私がヤマハで出した「声のしくみ」で、知識面はおつりがくるでしょう。

たとえば、発声やスポーツで上達するのに、感覚でなく現実に正しくの体を知ることが必要と唱える人がいます。

 こういう傾向がトレーナーにも多く、体幹やコア、ハムストリングスまで言及されるようになっています。研究所のトレーナーのQ&Aのアンサーにも、出ていますね。

 

 私は専門用語はあまり使いません。それでわかった気になってもらっても仕方ないからです。解明されていないことがたくさんあるので、決めつけて、あとで迷わせたくもありません。

 机上の理論で悩む暇があれば、自分の体、声を使い、練習することです。

 たとえば「舌はとても大きい(牛タンを見たらわかりますが)」ということを、マッピングしたところで、発声にどうプラスになるのでしょう、舌がどこまで続いているかは、もとより、体は一つであって、命名したところで区分されているのだけなのです。西欧医学の一処方としてあるだけです。

舌のリラックスができない人がそう捉えることで、リラックスできるなら、よいと思います。しかし、私はイメージで、感覚で描かれた図のような、新しいマップを自分なりにつくって体を捉えて直すほうが有意義だと思います。

私の本には、意図的に最低限しか入れていません。そういう図版がたくさん入っている本もあります。

 研究所にも、解剖図や人体の模型があります。発声の状態のみえるソフトもあります。人の体に関する本も、専門書から一般書まで、ここ1年に100冊以上増えていきます。ターザンなども毎月、読んでいます。

 

 しかし、それがどう役立つかは、疑問です。疑問が問いになるために、私は読んでいます。何らかの結果、かたちになっているとは思っています。そうしないより、そうしたほうがよいと、私の何かが、そうさせています。皆さんにも、そのくらいの距離をとって、科学や知識とは接した方がよいと、忠告します。

 それを求めても大して現場で役立つものではありません。だからこそ、接しているのは大切かもしれません。体やその働きを正確に知るのは、合理的や理論的にみても、自然や神へのアプローチの一つなのです。それは、アートをつくっていく人には、大きなヒントになります。でも、もっと大切なのは自分のイメージで膨らませることです。そこに出口を求めることを忘れないでほしいのです。

「トレーナーを選ぶセンス」

○トレーナーを選ぶセンス

 

 人をみる眼を持つことは大切です。すべては人との関係で築かれていくからです。なかには腐れ縁というものもあります。人をよしあしやメリットデメリットでみることはよいこととはいえません。

 しかし、自分の時間やお金を投資する、つまり、何かを得ようというときは、よくよく考えてみるのです。

 人そのものに価値があるかないかはわかりません。自分がその人を活かせるかを考えます。その人に便宜を図ってもらうのではありません。その人と接することで自分が変われるか、発想や考え方や行動に刺激を受けるかです。

 自分の日常性を破ってくれるかです。それを直感として見抜けるかです。

 その人が多くの人に力を与えているから、自分もそうなるとは限りません。自分に対してだけ、そうなることもそうならないこともあるかもしれません。

 私は自ら、とりにいくようにしています。誰にでも与えられるような人を選びません。誰もがとれるものに価値はありません。他の誰もがとれなかった何かをとりにいきます。それが自分にも相手にも価値のあることだからです。要は自分次第です。

 

○相性とスタート

 

 まだ何者でもない人は、トレーナーなどを選ばなくてよいと思っています。本人が未熟な経験で選ぶより、私が選ぶほうが結果として適切なはずです。

 でも、あえて自己責任で遠回りをしてみるのも悪くありません。自分にぴったりのトレーナーや歌にめぐり会うには、自分を知らなくてはなりません。それは、すでにある自分ではないのです。そのままで相手に通じる、そんな天才なら、すでに世の中でかなりのことをやっています。

 自分に合う相手や、相手に合う自分が、あるのではないのです。自分を知るために相手に会うのです。会ってから、合うところや合わないところを知って、合わせていくのです。

 ここでは複数のトレーナーにいろんなメニュをセットしています。

 そのバリエーションからあなたの素質や才能、個性や性格が発揮されてくるように、です。

 自分のことは自分だけが知っていて、正しい判断で選べるなどというのは、根拠のない自信です。それで事に当たると、続かなくなります。すべては新しいスタートなのです。

(会報1205「メッセージ」収録を参考)

 

○トレーナー捜し

 

 トレーナーを探すのは、自分の能力をつけていくためです。どんなトレーナーであれ、あなたがそのトレーナーを最大限に使い、最も大きな成果を求めていくことです。

 すぐに合わないと決めてしまう人は、心の問題です。優れた人は、どのトレーナーにも合うのです。合うなかで、最良の選択をしていけるのです。トレーナーのよいところを取り出し、最大限に活かせるからです。

 トレーナーの悪いところを最大限に見つけるような才能は、愚の骨頂です。自己満足、自己保身でしかありません。変わりたくないなら、一人でやればよいのです。今の自分の肯定をしてもらいたくてトレーナーを探す人、そこで応じる人(トレーナー)、これは、医者とカウンセラーの関係です。芸や仕事の力をつける関係ではありません。

 

 「変わらなければ出会いでない」。変わるチャンスを自分の考えに囚われ、拒んでいるのは、未熟なのです。

 トレーナー探しが、自分探しになってしまいます。自分を見つめずに、トレーナーみてを判断しようと考えていても、仕方ないのです。トレーナーの目を使って自分の検証をすればいいのです。

 どのトレーナーも万能、完全ではありません。すべてのトレーナーがトレーナーとしてあなたにふさわしいとも思いません。私も私自身を誰にも推薦しません。この研究所には、いろんなタイプのトレーナーがいます。

 少なくとも、トレーナーはそれでメシを食ってきたので、そうでない人が学べるものはたくさんあります。

 

○変わるために変える

 

 これまで、いろんな人に会いました。欠点が目につく人ほど、それだけ欠点があってやれているのはたいしたものだ、その力の本質は何なのだろうとみてきました。

 いろんなアーティストとつきあってみると、必ずしも、その地位相応に常識やマナーのある人ばかりではありません。自分の世界を創りあげるためには、気を遣い、誰とも仲良くやっているわけにもいかないのでしょう。

 とはいえ、アーティストである限り、作品においては、いかなる制限の下でも、人が期待する以上の力を出してきたから認められてきたのです。

 トレーナーに就くと活かそうとするのです。トレーナーに自分の力を最大つけさせたいように感化せしめていくのです。このまわりの人をとり込み動かす力がなければ、芸も仕事もまともにできません。

 

 あなたの今の力に何かを加えたいのなら、大きく望むほどに、自分を無としましょう。トレーナーのいうことを聞けというのではありません。その向こうにある超越的な何かを感じること、そこに素直になっていくことです。

 トレーナーは、あなたの潜在させている能力を開花させるための技術(方法、メニュ)を与えて、変化させようとしています。あなたが何かできるなら、世の中に問うてください。何かできないなら、できるために、与えられたものに全力で取り組み、本当のあなたの力を出してください。仕事も他のことも同じです。

 

○トレーナーの本当の力

 

 ときに、とんでもない要求があります。「プロの歌手よりうまく歌ってください」、「プロの役者よりうまくせりふを読んでください」、「アナウンサーよりうまくニュースや早口ことばを読んでください」、などです。

 世の中には、スーパーマンのように何でもできる人もいます。しかし、トレーナーは、スーパーマンではありません。そんなことができるといったら、それぞれのプロの人に失礼なことです。

 そういうプロの人とはトレーニングしていないトレーナーなら、素人相手にのど自慢をするのもよいと思いますが。本当のプロとは、専門の場で長く居つづけた人です。トレーナーはレッスンのプロであり、ステージのプロではありません。

 

 自分の能力や素質、才能などは、わかっているつもりでわかっていないものです。トレーナーも、すぐにはわからないことが多いです。それでも、経験上、10年20年と人をみていると、認識を深めていけます。

 私が続けていられるのは、私の力でなく、私に与えられた機会や場のおかげです。そこで取り組むうちに、私のなかのそういう力が出てきたのです。これも、そのプロセスの一部です。こうして伝えようと努力してきた結果です。

 

 私にとっては、当たり前のことが、世の中の多くの人にわからなくなったのは、中途半端な自己責任、個人主義に走ったためでしょうか。マスメディアや教育やトレーニングの劣化のせいです。学ぶ人もお客さん気分になってしまったからです。トレーナーの歌に感心するくらいなら、なぜ、その人がプロ歌手として、うまくいっていないかを学ぶことが有意義です。プロ歌手とトレーナーは違います。プロ歌手の二流が、トレーナーではないのです。

 

〇背景と蓄積の力

 

 研究所は何もないところからから私とその当時のスタッフ、生徒がつくりました。何年もたつと、そこにずっとあるかのように思って、人がきます。ここを、どれだけ多くの人が多くの時間とお金と汗と涙をつぎ込んで維持してきたのかを、わかってもらうのは難しいと思います。

 ロビーに、ここの史料の一部を置いています。私が50ヶ国以上、全国を巡って入手してきたものや、いろんな人からいただいたり、通われた人が残しておかれたものが、飾られています。そういったものこそが、レッスンのバックボーンとして、働きます。レッスンをあなたに活かすための力なのです。

 そういうものがあるところで学ぶのと、きれいなビルのスタジオで学ぶのは、まったく違います。そのようなことに感じられない人が多くなったように思います。

トレーナーについても、そこにバックボーンを感じなければ、大して成果は期待できません。方法メニュなどはいくらでも口移しでコピーできます。本当に世の中で活かせる力にはならないのです。

 伝統は、過去の力ではありません。それをあなたが今、未来へ向かって活かす、そのことによってしか活かされていかないのです。

 研究所も私も、スタッフもトレーナーも、形だけにならないように日々改良し続けています。皆さんから学び続けています。

 皆さんも是非、ここに今おかれた場と機会(トレーナーとレッスン)を利用して、最大限の結果を出していってください。

 

○サービス不本意

 

 私が毎日のように疑問や提言、クレームを皆さんに求め、それに目を通すのは、その解決がレッスンになると思っているからではありません。生徒にトレーナーやレッスンを評価させているのも、それでトレーナーの評価を決めたり、人気を計っているのではありません。

 教育や医療が市場原理主義で、商取引としてのサービス最優先で捉えるものなら、愛想よくして、その場での充実度、満足度の高い、楽しく楽なお得なレッスンを提供して、ビジネス収益を最大に上げるようにすればよいでしょう。多くの人は、それを正しいと思い、ここにもそれを求める人もいます。

 お客さんはわがままになり、規則を守らない(言った者勝ちのクレームをつける)、整理整頓をしない、失礼なことばを吐く、対価を払わない、ものを乱雑に扱う(こわす、もって帰る)、そういうことが、起きているスタジオやレッスン室もあるようです。

 サービスが最大のことに思われ、ランキングされ、不満やクレームがネットで荒れるようになると、どこの店も同じようなことに気をつけ、マニュアルを厳守していき、似たものになります。サービス業と、教育、医療、芸事は違うということさえ、わからなくなっているのでしょうか。

 

〇唄えないものを聴く

 

 私は、トレーナーのわがままを許さないのと同時に、いらっしゃる方のわがままも許しません。スタッフやトレーナーに比べて、私との接点の少ない皆さんの意見や感じ方を知りたいから、何でもいえるように気をつけています。

 トレーナーと合わないと、その人によかれと思ってセッティングしていることを、1回のレッスンで否定されても、何でもすぐに皆さんの望むとおりにすればよいとは思っていません。

 設備やモノについては、利用する人の求めに応じてできるだけ早く改善します。しかし、レッスンは、その人に見えないことを見させていく、気づかないことを気づかせていくためにあるからです。

 

 短期でみて判断すると、長期的にみたときの、より大きな成果を妨げるケースが多いものです。声や話、歌はみえにくい分野であるからなおさらです。

 理不尽なことを我慢しろとか、精神主義的に鍛えるのではありません。本人が自主的に行なわなければ効果半減です。

 

○本当の効果、成果とは

 

 次のことを覚えておくとよいと思います。

・レッスンにきているとか、レッスンが楽しいとか、レッスンが充実しているということと、本当の効果や成果は同じではないということ。

・自分が出ていると感じている効果と、本当に必要とされる成果は同じではないということ。

 

 目的がレッスンそのものでの快感なら、何もいいません。それが得られているなら、最高によいこと、うらやましい限りのことです。

 声を武器として使いたい、魅力的に使いたいという人には、トレーナーを最大に活かすように使ってほしいし、使えるようになって欲しいのです。心身がリラックスできて発散できれば心地よいという場と、自己修業として能力を高めていく高まり感の必要な場では、違うものということをどこかで気づいて欲しいと思います。

 

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○歌手の新分類

 

 歌手において、プロや職業的歌手ということを、歌で生計を立てているかどうかで問うことの無意味さを述べたことがあります。次のように分けてみるのは、一つの案かと存じます。

1.芸術的歌手(オペラ歌手)

2.総合的歌手(シンガーソングライター)

3.パフォーマンス的歌手

4.役者的歌手

5.タレント的歌手

6.ビジュアル的歌手

7.レコーディング歌手(流し、声優)

8.カヴァー歌手(オールディーズ)

 

 重なるところも多いとは思いますが、その要素は次のようなことです。

1.楽器プレイヤーの演奏レベル

2.作詞・作曲・アレンジ・演奏のトータルレベル

3.振り、アクション、ステージ、ライブ

4.ことば、せりふ、雰囲気、振り、表情、アクター

5.知名度を活かしての歌

6.ルックス、スタイル、ファッションを活かしての歌

7.何でも声でみせられる

8.どこまで似ているか

 7は、耳へ働きかける音の力として1と通じますが、ラジオ、CDに強い人、アニメソングや唱歌の歌手などが代表例です。8は日本のように外国の力(海外の流行のプロデュース)だけで成立してしまう国では、ほとんどのポップス歌手も含まれるといえます。

 

○歌手、役者の特異性~学ぶべきものの専門範囲がない

 

 ヴォイトレとして似ているものとして、話し(方)、語学(日本語、外国語)に関わる人、プレイヤー、役者、歌手、声優、アナウンサーなどで例をとります。

 たとえば、アナウンサーや声優は、2年くらいの養成所(スクールなど)での勉強の期間が必要でしょう。私どもも、滑舌や早口ことばを実習に入れますが、これは彼らの得意とするものです(つまり、きちんと習って身につけてきている)。普通の人なら2年くらいかかります。普段の生活にはない特殊な技術の一つです。いつも早口ではっきりとしゃべっている人のなかには、労せずマスターできる人もいるかもしれません。技術として、日常では個人差が大きいものの一つでしょう。

1.高低アクセント

2.イントネーション

も、標準語としての日本語(共通語)として教わりマスターします。方言は直さなくてはなりません。報道、放送のための共通のルールです。

 それに対して、歌手、役者はあまりスクールのようなところに行きません。実生活のなかでスキルを得てきます。他の人よりもおしなべて高い、感性、感覚と声の調整能力があると考えられるでしょう。

 研究所にくると、プロ歌手なのに音程、リズムから徹底して基礎をやらなくてはいけない人もいます。楽譜が読めても読めなくてもプロにはなれますが、耳・声のプロセスは、欠かすことはできません。

 

 レッスンとなると、「レッスン=トレーニングで上達する」というプロセスを歩ませますから、「楽譜を読めるように」とか、「楽器が弾けるように」というのを加えることがあります。音楽の世界で長くやっていきたい人なら効果的です。これまで入れていなかったから、入れることで大きく上達するからです。変わる可能性があればやるに値するのです。

 

○プロの条件

 

 歌手も役者も、出口は、表現力となります。そこで歌手は音楽の、役者は演技の振り、しぐさや表情といった、プロを目指さなくてはいけません。素人であってもプロ以上のプロ、役者以上の役者もいるので、いくつか定義してみます。

 

 プロであるには「プロみたい」「歌手みたい」「役者だね」といわれるようではだめです。最低の条件として、

1.いつでもどこでも(いろんな制約下で)最高のパフォーマンスができる。

2.不調のときにも、最低限許されるレベルより上で演じられる。

 そこでは応用性と再現性の2つが徹底して問われます。

 心身の能力が高いことがそれを支えます。感性や視野の広いこと、即興性も必要です。考え方や振る舞い方もプロでないと、務まらないわけです。非日常において日常であることができることはそういうことです。

 ですから、レッスンもトレーニングも非日常でセットしないとよくないのです。日常で、非日常なことをするのは、奇人です。プロは、日常と非日常を自由に行き来します。日常を一瞬で非日常化する力をもつのです。

 状況対応力は、プロの条件です。状況打破力は、一流への道、いつでも現状を自分で変えられる人、つくれる人だけが、生涯のプロ=一流となれるのです。その状況を指して、その人の世界というのです。

 

 日本語について、私たちは日本語を大して努力せずに話しています。多くの場合、音声で放送したり演じるレベルには磨かれていないので、トレーニングが必要です。

 その人の今のレベルというのは、それぞれに違います。必要とされるレベル(目標)も、それぞれに違います。

 その2つをはっきりさせます。トレーニングを曖昧にしないためです。アナウンサー、ナレーター、声優なら、目標を表現や演技で、音声で放送できるレベルに設定します。

 

○トレーナーの条件に日本語教師を例に

 

 日本語を外国人に教えられると思うのですが、相手の母語国語についての知識がないと効率が悪いもです。日本語教師は必ず、日本語だけでなく、相手の母語との音声での比較を学びます。

 ヴォイストレーナーにおいても、自分がしゃべれる、話せる、歌えるだけでは足りません。相手がどういう状態かを知り、それと自分とを比べるだけでなく、ここがポイントで難しいのですが、相手の理想像をセットしてのアプローチが必要となります。それには多くの経験を他の人の心身を通じて積んでおくことです。

 

 日本語教師

 a:日本語

 b:相手の母語

 aとbの比較

を埋めるトレーニン

 

 ヴォイストレーナー

 a:自分の声と心身

 b:相手の声と心身

 aとbの比較

それに加えて

 c:いろんな人の声と心身

 aとbとcの比較

 d:相手の理想イメージ

 bとdの比較

 e:自分(トレーナー)の理想イメージ

bと(aとcとd)から導いたeの比較

 そのギャップを埋めるトレーニン

知識だけでない分、このように複雑なのです。

 

〇トレーナーの条件話し方の先生を例に

 

 「話」となるとどうでしょう。話し方教室と比べてみます。

1.リラックス、緊張緩和、あがり防止

2.スピーチやプレゼンテーション、音声コミュニケーションの技術(パフォーマンス)

3.話の構成、内容、意味(ここは、文章で起こしてもわかる部分)

 

 声もせりふや歌のように使うところは、「話」と共通します。誰でも話せるし歌えるのです。そこに立ち返るのなら、より話せるより歌えるように、という比較の問題です。

1.(外部)うまい人と比べる

2.(内部)前の自分と比べる

 この2つの軸で比べます。それとともに、プロの条件として、コンスタントにその力を発揮するということです。そこを再現性、耐久力など目標にするとわかりやすいでしょう。

 

 スピーチ、面接、司会など人前であがりやすい人なら、心身のリラックスが問題となります。プロでも状態が未知数であったり、状態が不安(体調不良、準備不足)であれば、同じようなことが起こりやすいです。それが外にわかるかということのほうが現実としては問題です。

 次の2つを踏まえておくことになります。

1.状況

2.状態

「500人の前で話してもあがりません」ということなら、500人の前で話す機会を与えて場慣れをしたらよいのです。経験を重ねることで自信をつけさせるのは、恐怖症の克服と同じくとても有効です。

 

○ピークパフォーマンスとレッスン

 

 基礎と応用、練習と本番を結びつけておくこと、これを常に考えてレッスンをするのが大切です。

 基礎のレッスンと即興のレッスンを比較しました。いつでも、もっともよいところのみで状態を取り出すこと(ピークパフォーマンス)は、メンタルトレーナーの専門です。スポーツや歌など人前で演じるアートでは、一つの分野といってよいほど、大きな課題なのです。

 誰にもメンタル面で落ち込むことはあります。うつ病は100万人で、国民病といわれるくらい社会問題です。意欲、モチベーションなどが関わるからです。

日本だけではなく先進国では一般的なことですが、日本ほどひどくありません。先日、いきなり何百人ものまえで話せといわれたシチュエーションで、外国人と日本人との比較(心拍数)実験がTVで流れていました。日本人の結果は、最低でした。

 

〇英語とヴォイトレ

 

 英語でなく英会話が苦手という人も、これに通じます。外国人とうまく話せない人は、外国語力だけでなく、外国に接していない、慣れていないことが大きいのです。メンタル面の自信のなさが、フィジカルに影響して、実力を発揮できないのです。

英会話学校の体験レッスンで初回は全くできないのが、4、5回でそれなりに話せるとなれば、英会話力でなく、慣れによって変わったのです。

 話し方や内容を学ぶよりも、人前に立って話すことで舞台慣れをさせていくほうが効率的なのです。これは人前で行なうことには共通のことでしょう。

 

 「英語耳ヴォイトレ」の執筆のときに、改めて英語でのコミュニケーションは音声の力に大きく依存することを確認します。特にヒアリング(リスニング)と発音といった、発声、呼吸に関わるところには、準備が必要な人が少なくないことに気づきました。外国人の前で外国語でというまえに、人前で大きい声を出せるか、強く息を吐けるかということです。

 

〇気づきと補充

 

いっぺんにすべてのことを行なおうとするとわかりにくくなります。ピアノの初心者なら、すぐ弾くのではなく譜面読みや指の運動を、別々にトレーニングした方がよいのです。

結果というと先のほうにばかり気がいきます。そこで直そうとして直せるくらいなら、すでにすぐに直っています。直っていないケースでは、もっと根本の問題に気づき、改めなくてはならないのです。改めるというと、正しく直すように思われがちですが、多くは不足しているものを補うことです。入っていないものを入れること、気づいていないことに気づくこと、そこから、感覚を変え、体を変えていくのです。体を変えていくこととは、感覚を変えていくことでもあります。

 歌でいうと、音感(音高や音程)やリズム感のよくない人には、間違ったところを正しい音やリズムに直すのでなく、気づかせること(気づく能力をつける)です。次に気づいたことを自らやり直し、正すことです。これを一人でできないから、トレーナーが指導したり、判断をするのです。しかし、教えるのではなく、一人で発見して矯正できるようにしなくては意味がありません。

 トレーナーは正誤の判断をするのではありません。その人の判断のレベルを判断することです。7音の曲を5音で捉えている人には、2つの音の存在を気づかせなくてはなりません。そのときに2つの音だけ教えて出させたところでは直りません。

 リズムを間違う人は、一定のテンポを正しくキープできません。テンポなしに正確なリズムは刻めません。トレーナーは、その人の大まかな、あいまいな、だらしないところを(プロのレベルからみて)判断の基準そのものを高めていきます。きめ細かく、ていねいで厳密な判断ができるようにしていくのです。

 

○体と心と声

 

 私は「方法とメニュでなく、基準と材料を与える」と言ってきました。息や声は一時、表現から切り離して、体中心に理想に整える。息吐きなどで条件をつくる、鍛えるということです。

英語を話すのに息を強く吐くトレーニングをしていたら、バカのようにみえるでしょうか。私はそこからヴォイトレととらえているのです。 

ですから、ヴォイトレでは

1.フィジカル、表情、しぐさ

2.メンタル、心、感情

を同時に扱っていきます。スピーチやプレゼンテーションでの疑問点や相違点もわかりやすくなるでしょう。

 

 プロは身内でなく、第三者(初めて会う人)に通じる力、プロが(ほかの分野のプロも)認める力が必要といえるかもしれません。

 フィジカルでも、脳科学を使った方法で、画期的にうつ病認知症などが治ったという事例がたくさん出てきています。しかし、かつてのロボトミー脳梁で左右脳を分離する手術、後遺症が出て→失敗)などと同じで、誰かに一時、プラスであっても、一般化については、短期的にみて、すぐに肯定してよいものではありません。

研究や実験は大切です。それで進歩していくところもあります。しかし、客観的な評価ができると限らない分野もあります。科学的という売りに振り回される人が少なくないのは、どの分野も同じです。試みにすぎないのに、理論・理屈や検査で安心したいのです。人より機械やコンピュータ、実の声よりも理論を信じるようになってきたのです。どんな体験談も検査値も、必ずしも自分に当てはまるものではないことを知っておくことです。

 医者(他人)を信頼するだけで、かなりのことはよくなるのは確かです。医者やトレーナーを頭から疑ったり、比べて欠点ばかりをあげつらうのは、本人の成長のためにはお勧めできません。

 その人の性格や考え方が、その人をつくってきているのです。一時、少なくともレッスンでは、我というものを離してみることです。他人のように自分を眺められるようになることが大切です。そのことが芸を高める条件でさえあるのです。

 

○前向きな姿勢が最大の薬

 

 わがままと個性、くせと個性をわけるのは、難しいことです。専門家といっても、本当の専門家は、何をもってどう示すのかも難問です。声がよいからヴォイストレーナーとして優秀とはいえないでしょう。トレーナーの判断と自分の判断にどう折り合いをつけるのかは、難しい問題です。

 でも折り合いを付けなくてもよいのです。全てを受け入れつつ、よいところを活かしていく、どこまでも前向きな姿勢こそが何よりも大切なのです。

 将来に目標を持つ、目的を立ててそこに歩むこと以上に、よい薬はないのです。

 科学的手法について、私はかなりの情報を集めています。しかそ安易に使うのではありません。

ここに訪れる人やその人が通うところの情報を知っていることで相手や担当するトレーナーに安心を与えられることのほうが大きいのです。

 

〇カウンセリング

 

手法が希望をもたらすことで効果をあげるのは、カウンセリングに通じます。そういう名で呼ばなくとも、レッスンのなかでトレーナーと話すことの大半はカウンセリングと、結果としてなっているのです)。

 トレーナーには

1.経験がある

2.自信がある

3.ことばや伝える手段がある

 ことばは、とても大切です。

 トレーナーの大半は歌唱芸術家ですが、研究所ではことばで話しかけ、メールで励ましています。

 

「うつ」という症状が一般化しました。このことばのひびきがよくありません。「う」「つ」と、行き詰まった感じです。「アタ病」「オト病」「エテ病」「イチ病」では、だいぶよくしが変わるでしょう。

 

声の出にくい人は、性格や考え方を見直してみましょう。すぐに変える必要はありません。変わらなくてもかまいません。自分と向かい合う時間と自覚を強くもつことです。今がダメで、次に急ぐのではなく、今は今でよしとして、次に行けたら行く、というのでよいのです。

 

〇絞り込みと集中

 

 いろんな人の歌唱タイプを挙げました。どれになろうか、どれかになろうと悩まなくてよいです。どれもが一人のなかに混在しています。可能性をていねいにみつめ、最大に取り出せるものを選びます。変えたり、組み合わせたりすればよいのです。

 一流の人が100%使っていて、私たちが10%しか使っていないのではないのです。一流の人は自らのなすことを知り、そこに最大に集中しています。それがどういうことか学んでいけばよいということです。

自分を変えたり脱したりするのは、自分の限界を知ってからでよいのです。知るためには行動すること、壁にぶつかること、悩んで考えること、そのくりかえししかないのです。

 大きな世界を目指したり、才能をもっている人ほど大きく悩んでいます。自分のことでも悩んでいます。それでよいのです。

「声とその専門化の領域」

○声とその専門化の領域

 

 声のトレーナー、それに似た職の資格をつくるという話は、いろんなところから持ち込まれてきました。私はいくつかの理由で保留しています。

1.定義ができない

2.出身畑(出自)がさまざまである

3.すでに多くの人が名乗ったり使っていて、それぞれに実績もある。今も多くの人が使っている

4.私的(個人的)あるいは、一門(流派)にならざるをえない、共通化にはよい面とともに悪い面もあるが、その範囲について見当がつかない。

 ということです。

 

 これには、MT(ミュージックセラピスト、音楽療法士)やST(スピーチセラピスト、言語聴覚士)のように、医療介護の方面から定義付けるアプローチもあると思います。

 見当がつきにくいのは、整体やパーソナル(フィジカル)トレーナーとも似ています。カイロプラティクスなどは、狭義に定義し、試験制度、教育体制などを整えているようです。それを国際的に確立できたと、石川光男先生から賀状にて教えていただいたところですが…。

 話し方などの分野も似ています。カリスマトレーナーの周りに一門ができていることもありますが、まとまってはいきません。

 話し方のトレーナーは、元々、話がうまいのでなく、真逆だった人が、努力して一人前(もしくは一流)になったことで、そのプロセスを方法として伝えています。多くは、あがり防止といったメンタル的な要素です。

 日本語の話せない外国人がいて、日本語教師が成り立ちます。日本人に日本語教師が成り立たないとまではいいませんが、日本人に日本語を教えるのは英語教師ほどの需要はないでしょう。

 声や話や歌は、かなりのところ日常化しているので、何をもって身につけたのかがわかりにくいし、基準をどうするかが最大の難点です。

 

 話のプロというなら噺家(落語家)です。二つ目、真打などの協会の定めるグレードが目安です(これも、2つの協会、2つの離反した流派)。

 そこからみると、楽器の上達グレードなどは、中級者くらいまでは、かなり簡単に作成できます。楽器メーカーが、行なっているのが日本らしいところですね。

 

 日本語においては、音声以外のことが主となりがちです。音声でも、発音、滑舌などの正誤で判断しやすいものだけが、習い事となると、プログラム化しやすいわけです。

 

○声の多彩さと難しさ

 

 なぜ私が他の分野の専門家やビジネスリーダーなど多彩な人と関わりあうようになったのか、今もそうしているのかを述べたほうがわかりやすいかもしれません。それこそが、声というものの多彩さを表すからです。表現ということを追求すると、すべての人間の活動に関わらざるをえなくなるからです。声―表現に関わらない人は、世の中でほとんどいないといってもよいからです。

 

 整体師は、心身のことにおいて、その人の実力で処方のレベルとしてもピンきりです。また、一人でどこまでできるかということも、人間であれば、すべてに万能とはいえないと思います。相手あってのものなので、まさに、健康法のようなものと思ってよいでしょう。

それにしても、今の専門家、特に体のことを扱う医師やそれを伝えるマスメディアの、一つの方法と理論だけをシンプルに、一律、誰にでも効果のあるようにとりあげる風潮は危険です。

 

〇専門とは何か

 

 声については、専門家のようであって、専門は何かといえば、出自(出身畑)のことに過ぎないのです。それがアナウンサーなのか劇団員(役者)なのか、歌手なのか、演出家なのか、セールスマンか、声優なのか、ということになります。ただの人でも、人生経験をたくさん積んだら、専門家ということもあり、でしょう。まして人心を掌握するために声を毎日、使ってきた政治家や社長、セールス、渉外、交渉、水商売なら、声の表現技術の専門家です。

ですから、誰にでもできる、誰に対してもできる、と思ってしまう危険性があります。そこで、ここでは2つだけ注意します。

 

 一つは、専門家というのは、自分の専門の範囲や能力の限界を知っている人です。

 もう一つは、専門家は、他の分野の専門家の範囲や能力を知っていること。自分よりもふさわしい人材がいるときは、そちらを紹介できる能力、人脈を持っていることです。

 私を頼っていらっしゃるのは、この2つをもっているからです。

 研究所内にも多彩な人材をおき、外にもそういうネットワークを持っています。そこで我を離れた判断ができるのが、専門家の価値です。素人にはできない、専門家ゆえの強みです。

 

 ですから、皆さんは次のことを覚えておくとよいでしょう。

1.世の中に万能な人はいない

2.その専門家の専門領域と、その専門外を知ること(本人に聞いて、きちんとそういうことを話せる人は少ないです)

3.今、ここでの判断が、ベストとは限らない。ずっとその疑いはあってもよい。今の楽や今のもっともよいのが将来によいとは限らないし、むしろ可能性を早く狭めることもあるようなことです。

 

 あなたにとっての世界一の優れたトレーナーに会うのは、あなたが優れていくことによって、そのあとに起こってくればよいことです。

 私は、それを妨げない努力をしています。よりふさわしい人を紹介するというのも、医療などでないとわかりにくいものですが、そのためにあなたが判断力をつけられるレッスンやトレーニングをセットするように心がけています。

 

○声の可能性と限界

 

 専門家とは、わからないことがあること、わからないことについてはわからないとはっきり言える人です。これが今や、「何でも努力すればできる」などと、いらした人を説得する傾向の強い人ばかりです。本人さえもできていないことや努力していないことも勧めていることが多いのです。

 トレーニングは誰でも始められ、やることはできます。それを人に問うことになると、可能性よりも、限界が突きつけられます。本当の壁を破ったり超えたり、見極めて方向を変えたりするために、トレーナーやメンターを使うのです。自分にとってどうなのかは、最終的に自分で判断するしかないからです。

 

 それでも、多くの人は、好き嫌いや一時の他人の評判や権威に価値をおいてしまうものです。その眼をくもらせないためにレッスンがあります。しかし、その眼をくもらせてしまうレッスンのほうが多いのは、甚だ問題です。

観る眼を求めている人が少ないというのは、よく感じます。人間的、性格的に好きなトレーナーといたいというのが本音というケースもよくあります。眼力をつけるために他に学びにいくのです。

 あなたの才能の発掘と、それを活かす学び方を身につけていくのが、レッスンだとしたら、楽しいことばかりではありません。己を知り、限界を知り、そこから可能性を、努力で得ていくのです。目的は目先でなく、一歩も二歩も先にあるのです。

 

〇ヴォイトレの複雑さ

 

 医者も整体師もプロデューサーも、分野を問わず、優れた人はそういうことをよく知っています。彼らは知識や時代、歴史を、先人やライバルから学びつつ、現場で最良のセレクトをできるように努力します。本能的、直感的なものを大切にしつつ、科学的・客観性をも整合させようと日夜、努力しています。それはすぐに結果の出るものではありません。

 まして、このような未熟な分野で、未熟な人の集まるところでは、科学や理論といいつつ、もっともそこから離れたもの、偶然の経験や実験、少ない症例などで自己証明したと思い込んだことだけを主張している人も少なくありません。

 大切なのは、一時、自己否定することになっても現場で効果をもたらすもの、短期でなく長期にもたらすものを見抜く力です。

 未熟な分野は未熟な人が集まります。頭であれこれ考えてまわりと同調し、多数決のような感覚で判断します。その結果、いつまでも烏合の衆から出られなくなります。未熟と思えば、分野を超えて、すぐれた分野や人に学ぶことに尽きます。

 

〇失敗、未完成の現実直視

 

 声や歌は、日常のものがうまく育っていないというのが現実です。ある意味で、日本における声の問題はその未熟性の結果なのです。ですから、そこを見据えて、今の自分自身の判断を保留しなくては、そのままで昇華しないのです。

 ヴォイトレが複雑になっているのは、心身の問題、未熟さが声に結果として出てくるのです。

 気分のよいとき、体調のよいときの声がよいのは、生命体なら当然です。レッスンの目的にとることではありません。現実に多くのヴォイトレは、そのスタートラインの前提(入口)のはずのことが目的化しつつあります。トレーナーも心身リラックスに重きをおかざるをえません。病気や医療の副作用で人並みの声のリハビリが最終目的の人は別です。彼らには、日常を取り戻すこととして、それが大切です。

 しかし、目的をアップすることでもっと効果のあがる人が、そこで満足することはもったいないことです。必要性をアップさせる、モチベーターとしての役割が主流となりつつあるのが、ヴォイトレに限らないのではないのでしょうか。

 レッスンにヴォイトレそのものよりも自ら生きてきた人生の経験の力を使うようにしています。そこはまだ未熟、世の中には人生の大家はたくさんいます。トレーニングとうまく使い分けてください。

 

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○伝統へのアプローチ

 

 能や狂言観の観劇をすることになり、すべてのせりふが入ってくるようになりました。慣れとは恐ろしいものです。邦楽、長唄、詩吟の指導などにもこのような経験があったら、もっと根本から体現できていたのでは、と思います。

 歌から始めて、カンツォーネ、オペラからシャンソン、ラテン、エスニック、さらにはゴスペルからミュージカル、ジャズ、落語、お笑いへと、相手も役者、声優、一般の方と時流に翻弄されつつ、日本の芸と、ビジネスマンや経営者の声に接してきて、今があるのですね。

 

 形のあるものに対しては、形をこわす。それが体制や権威や伝統のようなもので、つちかわれていて、こちらが微力なときには、その根っ子の部分で専門性を発揮しながら、時間をかけます。本質を把握して少しずつ応用していく。

 これは私が若く無力なときに、実力のある歌手、演出家、作曲家などに学んできたことです。

 ヴォイトレにおいては、それは、発声器官や体、呼吸、共鳴という人間としての共通の体という楽器、時代や国を超えて人の心を動かす一流の表現、の両極です。

 アナウンサーは、発音、アクセント、イントネーション、ナレーションのプロですが、発声の専門とはいいがたいとも思います。報道で求められる正しい伝達の声と、芸術の感動の伝わる声は違います。美しい声と印象に残る声も違います。一流のレベルにおいては、職分よりもその人個人が問われるので、こういう比較は一般論でしかないのですが。

 

○声の基礎と役割分担

 

 声の基礎づくりについてみていきましょう。

第一レベルは、心身の基礎。スポーツ選手に対するメンタルトレーナー、パーソナルトレーナー(フィジカル)、マッサージ、整体師、医者、栄養士などです。

第二レベルは、専門へ特化するためのそれぞれの基礎。たとえば野球であればバッティングコーチやピッチングコーチにあたります。それぞれに目的も専門も違っています。

 

 ヴォイトレを、大きく3つに分けると、

A.表現 ―本番、ステージ、レコーディング ―ディレクター、プロデューサー

B.歌唱 ―作詞作曲、アレンジャー、SE、ヴォーカルアドバイザー

C.発声 ―ヴォイストレーナーほか

 もちろん、私は、A~Cを通してみる立場です。それぞれの専門家との共同作業をしています。Cは声楽家のトレーナーと発声の基礎づくりのところで行なっています。このもう一つ基礎に、ゼロレベルとして

D.健全な心身

というのがあります。これが最近は大きな課題です。

 

 そこで、医者(音声専門)、整体師、メンタルトレーナー(心療内科精神科医)、ST(言語聴覚士)、MT(音楽療法士)とも連携を深めています。

 最近、広義のヴォイトレには、ジム、ヨーガ、(占い、ヒーリング)などあらゆる心身運動の分野が混在してきています。トレーナーが、他の専門や関心をもっていたら、おのずと、これらは混じってくるものです。それは、声が日常生活とともにあるからです。ただし、セラピーの方向については、医療などの専門家以外の人が言及するようなことは、気をつけなくてはなりません。

 

○2つの面からのアプローチ

 

 私も多くの専門家と交わることで多くの分野の勉強、研究をすることになりました。声を扱う以上、「声のしくみ」(ヤマハミュージックメディア)で明らかにしたように、人間の活動領域全般に関らざるをえないからです。今も大学に行ったり、教育関係者とも、いろんな研修や研究をしています。

 主として次の2つの面からアプローチしています。

1.心身、自己の確立

2.コミュニケーション、表現

 

 参考までに、学校での教科としては

国語―日本語、読む聴く、朗読劇、せりふ

理科―物理、音声音響、生理―生物、成長、発達史、遺伝学、骨相、考古学

英語―語学、外国語、発音、聴きとり(ヒアリング)

社会―日本、世界、歴史地理

音楽

体育、保健、成長期、老化

大学であれば文化人類学、解剖学、哲学、美学など、さらに含まれるでしょう。

 大まかには、国語、物理、生物、体育、音楽がメインです。

 

〇総合化とシンプル化

 

 ヴォイトレにおいては、声の表現のあいまいさから、まわりの条件から、その本質が隠されてしまうことが多いのです。私のヴォイトレは、シンプルです。必要なのは、その人とその声だけです。それなりの人はすぐわかってくださいます。その信用やレベルということが知りたいなら、それは私が私の声で実現してきたところです。研究所としては、私の選んだトレーナー、スタッフに、外部の協力者の総力で、あなたに対応することとなります。

 

 せりふも歌も、ステージもレコーディング、放送などに必要な声も、いろんなものの総合物です。それをすべて一緒に考えるのは、あまりに乱暴です。

 野球チームなら、優勝という目的に向けて時間軸(タイムスケジュール)とともに、チームメンバー(構成)を考えて、そのメンバー一人ひとりの問題をみるでしょう。ここでも一人のなかのいろんな問題をみていきます。

 レッスンは、いろんなレベルでいろんな目的で行なっています。ピアノをつけたり、マイクやライトを使うこともあります。それは、一つ上の目的のためです。声をみるなら、声をみればよいし、そこから声を直したり、鍛えたり、変えたりしたらよいのです。

 

○ハイレベルなレッスンとは

 

 私が声と発音を分けるのは、発音はチェックしやすく、誤りを直しやすいからです。歌でも音程やリズムのミスは、そこを直すのですが、それとヴォイトレとは、分けなくてはいけません。

 

 昔から、歌のレッスンはありましたが、私の考える本当の意味でのヴォイトレは行なわれていませんでした。声楽家でさえ、そこを飛ばして、歌唱のテクニックから発声を始めていたのです。ポップスでは、作曲家がピアノでメロディを教えて、歌詞を合わせて一丁あがりでした。

 それでも、日本では歌心ということばで、歌手志望者は、生活のなかで仕込まれたわけです。「歌をトータルで伝える」ために「その環境や習慣を与える」のは、素晴しい素質のあるものには最高の教育法です。

 あたかも、芸人や役者は舞台に立たせたら成長する、子どもは川に落としたら泳ぎを覚えるといった、ハイレベルでのハイリスクな方法です。真の天分のある人は、早く大きく育ったのです。

 そのやり方は、今の日本では難しいでしょう。多勢のなかから抜きん出た力をもつ人を師が選ぶというシステムの上に成立したのです。それは、日本の伝統芸能や相撲などにも通じます。欧米でもすぐれたアーティストがプライベートで同じことを行なっている例があります。世界中から天才を集めて教育するのです。しかし、マンツーマンで教えるのでなく多対多でチームをくんで教えるのが一般的です。

 才能や素質にめぐまれず、頭でっかちな人はこういうシステムを頭から否定します。それだけの修行をしていない人、その境地まで達していない人が何を言っても仕方ありません。

 

 嫌だからやらないというのも、アーティストの特権です。私は本人の意見を尊重します。しかし、それを嫌と思うところで嫌と思わない人に負けているともいえます。

 世の中にでていく人にとって、自分の好き嫌いなどは超越しているのです。

「私が」「私が」といっていると、レッスンの効果も限られたものになります。

 声に日常性のなかでこれまで培われて動いてきたのです。ハイレベルにするには非日常性と、とても高い必要性を与えることです。それが、トレーナーの真の役割です。

「声の評価」

○声の評価

 

 声は、スポーツや楽器、音響などの測定のようにはなかなかいきません。声の専門家がいたとしても、これらを実証するのは難しいです。医療分野もいろいろ測定器具などはありますが、専門家の耳で聞いて捉えた印象に勝るものはなかなかありません。

 

 これまで私はいろんな医師や専門家に話を聞いてきました。結局のところ、直感に勝るものはないといわれ、改めて、原点を確認せざるをえなかったのです。

 

 私のように、現実の人間の声に対して効果を出すことを優先で動かなければいけない立場では、科学者、医者、学者の、この30年ほどの成果は、まだまだ取り上げるに足りません。派閥などで固まっているとしても学会などをもち、少数であっても問題提起をしています。それに対して、ほとんどのヴォイストレーニングは、自分の指導していることを疑ったり改革しようという発想もない段階で遅れています。そういった土俵にも上がっていないのが現状です。

しばらくはトレーニングプログラム、カルテを完備しつつ、データをとりながらアプローチしていくつもりです。

 

 声のチェックとして、専門的には

感じとして

1.ざらざらしている

2.息が漏れている

3.弱々しい

4.努力している

この4要素を0~4で評価しています。

 

これらを次の体制でみます。

1.3人以上でみる

2.5年以上の経験者でみる

3.時間をあけてチェックする

 

 こういった体制で客観視します。

 この医療の見解は、私たちには、最低限のケアのレベルですから、その上にいくつものステップをくみあげています。しかし、体制などについては学ぶ点があり、とり入れています。

 

○逆を考えること

 

 トレーナーとレッスン受講生(以下、レッスン生)との関係について、私は、レッスン生主導のレッスン、できたら、一流の作品とレッスン生をダイレクトに結びつけて、そこに最小限、トレーナーがアドバイスをする立場としているのが理想と思っています。

 多くの場合、そこで大きなギャップがあり、ヴォイトレで感覚と体を補わなくてはいけないのです。そのプロセスをみつめるのが、レッスンです。

 

 初心者や慣れていない人の場合は、トレーナー主導にならざるをえません。できるだけ、そのままの状況が続かないことが望まれているのですが、トレーナーは先生で、レッスン生は生徒でありたい傾向が強いために、そういう関係が固定されがちです。それでは、クリエイティブなレッスンになりません。

a.トレーナーが主、レッスン生が従

b.レッスン生が主、トレーナーが従

c.a-b半々

というのもあってよいでしょう。

 なぜ、aで固定されやすいかというと、主従関係や封建制度のように、そう決めると、お互いに楽だからです。すると、トレーナーの言いつけどおりにやるかだけが問われるようになりがちです。レッスンを受けたいという真面目なタイプは、こういう形があることと、カリキュラム通り進むことを望みます。それほど安心できることはないからです。日本人はその傾向が強いのです。

 

 一例として、日本の英語教育をみると、その特徴がよくわかります。正しく記憶し再起する力が求められています。適当に身振り手振りで話してでも意志を通じさせる力が養われません。単語や文法に詳しく、読み書きに高度な能力がついたのに、発音や聞き取りに弱く、話す聞くに弱いのです。これは、会話より文献講読を必須としていた時代背景もありました。音楽教育やヴォイトレでも同じ傾向があります。教えられたい、教えてもらわないとできないという人が多いのです。どこでも教えるのがうまいトレーナーをそろえることになりました。

 

 本来は、最初にカルチャーギャップをあびて、感覚を神経レベルで切り替えられるとよいのです。しかしついてこられないのです。ついてこられないのが当然なので、ついてこようとして、悩んだらよいのです。なのに続ける気力を失ってしまいます。これまでの教育の方法を少しずつ変えていくようにします。変えるかどうかも本人次第、変えたくないなら変えなくてもよいとしています。

 

○他のトレーナーとのレッスン

 

 トレーナーが替わるときや引継ぎのとき、前任者のメニュをどのくらいふまえるかという問題とが、現れます。そこでの変化についてこられないなら、前と違うことはできません。

 前任者と同じやり方、メニュを使うほうがレッスン生はやりやすいのは、確かです。

 ヴォイトレでは、使っているスケールも、音(母音など)もトレーナーによって違います。私は、それを許容しているどころか、推奨しています。

 質のよいレッスンとして、トレーナー本人の最も自信のあるメニュで対応していくのがよいと思うからです。

 いくつかの考え方があります。

1.全体の共通メニュを使う

2.トレーナー個人のメニュを使う

3.代表(福島英)のメニュを使う

4.レッスン生の持ってきたメニュを使う

 

 この研究所では、これらのすべてを可としています。

 1~4をふまえ(難しければ2~4でよい)、新たにトレーナーと共に、担当のトレーナーたちのメニュをつくっていくということです。結局は、レッスン生個人の新メニュとなりますが。それをセカンドオピニオンとして、別のトレーナーや私が知っておくことです。

 ねらいは、一人のトレーナーとレッスン生でクローズしないようにしておくことです。有効な対処法は、同時に二人以上のトレーナーにつくことです。

 

○自分でつくっていく

 

 私は自分のことばや方法をレッスン生に押しつけません。新たなメニュとまでいかなくとも、できるだけ新たにその場で作り出します。メニュやプログラムは、個別対応です。

 過去のメニュや、他の人のメニュとも共通するものもあります。変わらないものもあります。でも、いつも説明の仕方や使い方は変えています。毎月会報を出しているのは、その証です。

 

 たとえばの話ですが、レッスンで「その声は少し右だから左に」というような注意をします。ここの右や左には、様々なことばが入ります。こもっている、浮いている、ひびきが拡散している、絞られている、のどが開いている、しまっている・・・など。

 これらは、イメージ言語ですから、これを取り上げて正誤を論じてもしかたありません。

 よくトレーナーの指導することばや用語の間違いを指摘する人がいます。私もおかしな使われ方をたくさんみてきました。しかし、結果として効果が出ていたら、何もいいません。執筆のときは少し気をつけています。

Ex.「肺活量を増やして」(といっても、本当は増えません。でも、そういうイメージということなら、かまいません)

 間違って使われているほうが多いことばもあります。

Ex.「音程が下がっている」「音程が低い」、これは2音の間隔が狭い、高いほうの音が下がっている、ことなら正しいのですが、音程=音高(ピッチ)と間違えて使っていても、相互に了承していたらよいでしょう。

 「胸声は胸に共鳴させて」「胸で深い音色をつくって」と。たくさんあります。

 トレーナーとレッスン生の間でのイメージの共有ができているかが問われます。発声をよくするためにことばがイメージを喚起するキーワードとして働いていればよいのです。

 

○トレーナーのイメージのことば

 

 トレーニングのプロセスに他人が入ると、ややこしくなります。私はトレーナーの間に入るときは、結果を中心にみて、使っていることばは気にしません。

 ことばを変えることでよい効果がもたらされるところはアドバイスします。そういうことばほど、事実と異なることが多いのです。セカンドオピニオン、プロデューサーなども同じようなことをしています。

 

 「のどを使うな」というのは、発声としてはおかしいことですが、ほとんどのトレーナーが使っています。

 スポーツで、投げるのに「腕の力を抜け」というのも、事実と違うことばです。こういったイメージのことば、つまり感覚のことばが、トレーニングでは中心となるのです。

 

 第三者が入ってやっかいなのは、他のトレーナーが、右によっているとみて、左へ導いているようなレッスンや、そこの声だけをみて、左へよっているから右に戻さないといけないと判断してしまうケースです。逆のこと、反対の間違ったことをしているとみえてしまうのです。この点で、私は他のトレーナーに自分のレッスンをみせたくないトレーナーがいることは一理あると理解できます。

 他のトレーナーが腹式呼吸を教えたあとの、レッスン生の発声をみると、「お腹ばかり意識せず、共鳴や流れを意識しなさい」といいたくなることになります。「ヴォイトレに行くと悪くなった」などというプロデューサーやプレイヤーなどがいたら、こういう誤解をしているのです。

 

○目的とメニュ

 

 トレーニングと本番との目的と違いはこういう誤解が多いのです、結局ヴォイトレが、トレーニングとしてではなく、柔軟や発声練習のように期待されているからです。つまり、トレーニングしたらすぐによくなるということに期待されているのです。

 トレーナーのなかには、そういう要望に応じる人がふえ、トレーニングにもそういうのが中心になりました。それは、基礎でなく応用でのコツを伝えるということになります。

 私もそういうレッスンを入れています。本でも、「カラオケ上達法」や「裏ワザ100」などのように、応用したものを出しています。これは基礎でなく、本番体験というような応用なのです。そこから切り込んだ基本を必ず加えています。私の場合は本当の基礎を忘れないように心がけています。

 

 トレーニングにおいて大切なのは、何が正しいのかでなく、目的の絞り込みとそのためのきめ細やかな方向づけです。右のほうへのズレを真ん中に戻してOKということもあれば、もっと右へもっていき、次に左へ戻すということもあります。この幅の大きさがトレーナーの本当の力といえます。

 たとえば、ヴォイトレの前の柔軟運動などは、すぐに声に効果が表れます。しかし、そのあとはかなり徹底してやるまで大して効果に反映しません。高いレベルの目的や判断でないと、それができても前提に過ぎない、あるいは本当には必要とされないことであったりします。

 トレーナーが何人いても、いくつものメニュがあっても、その逆のことの存在と可能性をも知っておいて欲しいのです。メニュが上へとか左へとなっていたら、必ず下へとか右へということも考えておくようにということです。

 

○舞台とトレーニングの違い

 

 私の「レッスンとトレーニング(応用と基本についての相違)」を引用しておきます。

  1. ステージ 本番 歌 全体的 無意識 調整 状態づくり
  2. レーニング 練習 声 部分的 意識的 強化 条件づくり

 aの理想は即興でのファインプレー、bは将来へ計画的ということです。ですから、aとbでも、bのなかでも、一見全く反対のやり方をとるトレーナーやトレーニング、方法やメニュもあります。どちらが正しいかではないのです。

 多くのケースでは、どちらも必要です。その割合や優先順位が目的、レベルによって、トレーナーによって、そして何よりもあなたの個体差によって違ってくるのです。

 

 私は最初から異なるタイプの二人のトレーナーにつくことを勧めています。そのことで、かなりの独りよがりを防げます。

 多くの場合、独りよがりを防ぎたいからレーナーにつくのですが、初心者ではトレーナーの偏りにに対抗できません。これは、一人の歌手の歌しか聞かないカラオケファンが、その歌手の影響下に知らないうちに100%置かれてしまうことで明らかです。

 トレーナーのレベルの問題もあります。トレーナーといっても、客観性を持たないで、そのトレーナーの主観だけでの判断が行なわれているものです。どんなに優れたトレーナーでもその可能性は否定できません。

 

〇レッスンのメニュと内容

 

 レッスンのメニュや内容の根拠というのをみてみましょう。

1.それが自分の歌だけの経験(歌手)

2.トレーナー自身の受けてきたレッスン

3.レッスン生に受けさせてきたレッスン

 この3つの条件がそろっていても、きちんとフィードバックしていないと、あなたには、あまり役立つものといえません。

 

 トレーナーの歌やせりふは、その人やその声の個体差によるので、基礎の声とみるかとなると難しいです。ほかのレッスン生の歌や声をみるのがよいでしょう。

 トレーナー自身の受けたレッスンがそのトレーナーの声にどのくらいの影響を与えているのかは、わかりにくいです。有名なトレーナーにレッスンを受けてきたことを、そのやり方だけ受け売りしている人もいます。そういうときは、トレーナーのトレーナー(師)とトレーナーとをきちんと比べましょう。習得度をみることが賢明です。免状をもらったとかいう人でも身についていない人が多いものです。やり方だけまねして、右から左へと教えている人も多いようです。

 

 私はやり方に価値を認めません。レッスン生の声へどれだけの価値を生じさせるかが全てと思っています。

 やり方そのものだけでみないので、どんなメニュをみても、それだけでそのトレーナーを判断したり、よしあしを述べることもしません。感性があればできようがないのです。

 声にはいろんな声があります。いろんなやり方があるのは当たり前です。

 私は常にその人の最も扱いが完璧になる声を基本とします。ですが、そうでないところに価値をおく人がいても、それらを求める人がいたらよいと思っています。

 歌も声も、どれがよいとはいえません。レッスンもメニュ、方法も同じです。そうでなければ、私は人以上の出身を異にするトレーナーや他のところにいるトレーナーと一緒にやってはいけないでしょう。