「トレーナーのリスクをさける」

○最良のトレーナーでなく体制に

 

 ここにいらっしゃる理由の一つに、前の所でのレッスンでトレーナーがいなくなった、トレーナーをやめたり、海外へ行ったり、他の仕事で忙しくなったなど、トレーナーの事情でレッスンが続けられなくなったということが少なからずあります。あなたがそのトレーナーのレッスンの曜日や時間に行けない、あるいは勤務や仕事の事情でそのトレーナーのレッスンを受けられない状態に陥ることもあるでしょう。

 いうまでもなく、一人のトレーナーの判断は、絶対ではありません。すぐれていると評判があったり、信用していても、プロを育てていても、あなたにとっては、どうかわかりません。今はよくともあなたにとって、いつまでも唯一の最良のトレーナーかどうかは未知です。私も欧米の知名度のあるトレーナーに、会ってきましたが、彼らの評判と私の判断は必ずしも一致しません。長期で関わったり、目的を絞り込んでみなくては、よくわからないこともたくさんあります。それもあって複数トレーナー制を採っています。

 

○最初のトレーナーを過大評価しがち

 

 一般的にいうと、最初のトレーナーの影響力はとても大きいです。その価値観判断基準が後々まで残るケースが多いのです。むしろ、最初に合わずに何人か替えて自分に合うトレーナーにたどりついた方が客観視できるだけ、よいと思います。最初だから、何も知らず惚れ込んでしまうと、他がみえなくなります。そこでそのトレーナーの好みで、声の判断のラインが強くひかれます。それは、そのトレーナーには合っていても、あなたに合うかはわからないのです。というより、合わないことが多いといってもよいのです。そこで評価されても他の人にも認められるとは限りません。

 

○複数トレーナーでリスク分散

 

 複数トレーナーの多角的なアドバイスから、入ることを私はお勧めしています。セカンドやサードオピニオンをもつということです。それによって少しばかり混乱しても、長い眼でみると、比べながら進むことであなたの判断力はずっと早く適確につきます。歌もあこがれのアーティストだけをまねていると必ず偏り、くせがつくものです。

 レッスンとは声を出したり、よしあしを判断してもらうだけではありません。むしろ、自分で判断する力をつけることが、レッスンの目的です。

 

○満足感充実感と成果の違い

 

 私のところでは、日本のトレーナーだけでなく、海外のトレーナーとレッスンをしていた人もきます。いくら著名なトレーナーであっても、リップサービスだけ受けて満足して、会ったことを自慢したいだけの結果になっていることも多いようです。本当に力があれば、声一つでわからせられるでしょう。出身も略歴もトレーナーめぐり歴も不要でしょう。

 

セカンドオピニオンの難しさ

 

 私はトレーナーについての判断は、アーティストについてと同じく、今、目の前にいるあなたのトレーニングにとって、有効である範囲についてでしか、行いません。声や歌の分野において、ステージはもちろん、レッスンでも見たことだけで、すべての判断はできないからです。相手によっても、条件、状況でもかなり異なります。ある人に対して最悪のトレーニングが、他の人に対して最良の結果を出すこともあります。その逆もあります。

 トレーニングの成果とは何か、ということでさえ、語学などでの上達に比べるとわかりにくいものです。医者や語学の先生も、雰囲気やサービスで評価が左右されるようになってきたということでは、口コミでさえ、トレーナーの技量の参考になりません。

 自分で体験して判断するのはよいのですが、その自分の判断のよりどころを、どう客観的に証明できるのでしょうか。

 

○「誰でも」の意味のなさ

 

 トレーニングさえ、誰でも楽に簡単ですぐに習得できるものがあるようになり、しかも、安いからよいというのが売りになるという最近の傾向は、残念に思います。そこが多くの人のニーズでもあるから、ビジネスとなるのはわかりますが。

 ノウハウと正解だけを一方的なやり方で与える本やレッスンが巷に増えました。誰でも早く上達するくらいのものは、ほとんど使えないのです。安心感に依頼心を増してしまうだけです。そういうのがヴォイストレーニングなら、私は決別してやっていく所存です。

 

○声はすぐわかる

 

 呼吸法や気などに比べて、声の有利なところは、耳に実際に聞こえるところだと思います。みえないのは残念ですが、みえないものこそ、大切です。聞こえるのですから、しっかりと聞いてみればわかるはずです。わかるから、通じるわけです。

 プロの耳でなくても、声や歌は一般の人がよしあしを判断しているのです。他人に対しては、判断できてきます。でも、自分に対してが、とても難しいのです。

 

○トレーナーの声

 

 ときどきにPCのソフトで声をみるようにしています。研究所では、トレーナーの声や歌に対する判断の仕方を、私は誰よりも吸収してきました。これも研究の一面にすぎませんが。

 私は、トレーナーの採用についても、学歴、年齢も問わず、声でみています。どんな立派な理論や方法をお持ちでも、声が伴っていなければ信じません。

 せりふや歌となると、これは応用です。表現に入ると、もう正誤の判断は無意味になります。個性になるのですから。たしかに、アナウンサーは報道の、ナレーターは読みのプロです。それぞれに問われる要素をプロの人はプロとしてもっています。しかし、発声はもっと根本にあるものです。彼らもまた大いに学ぶことがあるから、研究所にいらっしゃるのです。そこでもどうやら声というのは多くの人に混同されているようです。

 

 

「声楽の独立性のもつメリット」

「トレーナーの判断の違いと、複数トレーナーの必然性」

 

○声楽の先生と前提

 

 最初は一人のトレーナーで基礎を固め、それが身についたらようやく、他のトレーナーにみてもらうというのは、声楽によくある考え方です。昔は、自主トレも禁じて、トレーナーの前でのみ、発声させて、学ばせるというスタイルもありました。

 彼らは、目的のために、1.長期にわたり、2.集中的にトレーニングし、3.同じステージに立つ(コンクールなど、評価が一応、基準として確立されている)という前提があります。

 これが、ポピュラーや役者にあてはまらないのは、目的も前提も、資質やレベルも個々にあまりにも違うからです。たくさんの観点からの刺激やアドバイスを受けた方がよいのです。

 

○ポピュラーと理想イメージ

 

 ポピュラー歌手は10人ほど声を考えるだけで、その声や使い方の多彩さはわかるでしょう。ポピュラーや役者の声は、声楽で定められた条件よりもずっと自由なのです。日常にも近い声です。

 多くの場合、声楽やヴォイストレーニングのトレーナーの理想とする歌手や歌唱像そのものは、コーラスの指導者とも似て、現実にいる歌手と異なっているのです。理想的な発声のイメージだけで人を育てようとしているトレーナーがよいのかというと、案外とそうともいえないのです。ここでは、声楽のトレーナーを声楽の基礎を中心に活かし、その応用に対して、かなりの自由度をもたしています。

 

○トレーナーなのに声をみない

 

 プロデューサーやアレンジャーに近い人は、作品中心で、流行に翻弄され、ヴォーカリストや役者の体やのどから声を考えられません。将来の可能性よりも、今の状態での使いやすい声やバランスのよい声を選びます。日本人をみる外国人トレーナーもこの傾向が大きいです。

 プロ歌手出身のトレーナーは、プロとして自分の世界を確立しているがゆえに、好嫌が強く、その判断がおのずと自己肯定に偏ります。自分とは違うタイプの可能性を否定しがちです。そのトレーナーには未知、いや認めてこなかった世界だからです。

 

○歌でなく声をみるということ

 

 私が多くのポピュラー歌手、役者などと巡りあいながら、今のように、声楽家のトレーナー中心の体制にしたのは、共同の場をもつ以上、個人の価値観や見解においての違いがあっても、オリジナルな発声づくりにおいては、認めあえる必要があったからです。歌と切り離し、声の独立性を確固としてみることのできるトレーナーであることが必要だったのです。声そのもので一流やプロとわかるだけのものを示せるというのが、私の思うヴォイストレーニングの基礎だからです。

 

 

「声での成立」

○歌より「話」で表現の成立をみる

 

 あるとき、私は歌唱ではまだまだ表現できない人でも、2分くらいのモノトーク(日本語でのトーク)では、人に充分に伝えることができることに気づきました。そこは生活、実体験に結びついたことばがでてくるからです。そこでそのなかからの表現力をみることにしました。

 そこで歌手にも、モノトークを必修にしたのです。

モノトークとは、モノローグ(独白)を表現として成立させたもの、モノローグ=独白はダイアローグに対して用いられているので、それと区別して命名しました。

 

○役者として伝えてみる

 

 どれだけ歌で伝わっているかは、わかりにくいでしょう。本人自身が、歌で伝わっていないことがなかなかわからないのです。

 マクドナルドでの「いらっしゃいませ」程度にしか、伝わっていないこともわからないのです。それではトレーニングにもならないし、トレーニングの必要さえもないでしょう。それは会話やせりふなら、わかりやすいので、日本語でしっかりと伝えるところから、スタートしたのです。この研究所のレッスンが、歌手だけでなく、一般の人、役者、声優にそのまま有効なのは、そういう経緯があるのです。

 

○トータルとしてのトレーニン

 

 まとめると、学ぶことは、次のようになります。

a体と結びついた声-ブレスヴォイストレーニングの声づくり(声楽の体づくり基礎)

bことばと結びついた表現「モノトーク

c音楽と結びついた歌唱(カンツォーネ)フレーズ、リズム、感覚

 カンツォーネをイタリア語で歌うのはaに、日本語で歌うのはbに近く、ともに念頭に入れていくと、トータルとして理想的なトレーニングになるということです。

 

○歌唱と声づくり(発声)の判断は一時、反する

 

 自分へアドバイスする人が複数であることで迷うとしたら、大切なことなのです。こういうことは、すぐに解決しようとすべきことでないし、できないことを知っていれば、あせる必要はありません。レッスンには、解決するのでなく、問いを求めにくればよいのです。

 

・歌唱へのアドバイス―声の使い方~状態づくり

・声づくりのトレーニング―声の育て方、鍛え方~条件づくり

 この二つは、目的のとり方が違います。場合によっては、明らかに対立するものです。

 

○プロの即実践ヴォイトレ

 

 私はプロの歌唱、それもステージを控えてのアドバイスからこの仕事を始めたからよくわかります。

 すぐ本番を迎える歌手に、根本からの発声トレーニングは、リスクが大きすぎます。シーズン中にバッティングフォームの改良をするようなものです。できるのは、姿勢、呼吸の補完、といっても、ほとんどほぐしてリラックスすること。そのイメージ、集中の意識、共鳴の集約、声の統一くらいでしょうか。

 

○歌唱指導とトレーニングの違い

 

 歌唱指導では、ポップスにおいては全体のバランスをとり、演奏のラインからはみ出すことを防ぐことがメインになっています。客に下手に思われる要素があれば、隠さなくてはなりません。その上できちんと構成し、聴かせどころを強調し、曲の輪郭をハッキリさせ、表現らしさを引き立たせます。今や音響や視覚効果を考慮することが不可欠です。

 それに対して、トレーニングでは、根本的な改革を求められます。1、2割アップという改善では、大して変わりません。しかし、ほとんどのトレーニングでは、効を急いで少しよくするだけ、マイナスを防ぐことだけになっています。そういうものがヴォイストレーニングと思われ、行なわれています。

 

○声の改革

 

 声の改革というのなら、あらゆるごまかしや不鮮明なところを白日にさらし、一時、バランスを崩してでも、問題点を顕わにすることです。そして解決のための課題を鮮明にしていくことです。

 そこに声以外にも、アーティストのオリジナリティや表現とも絡むことなので、すぐにわからないこともあります。ときにプロのアーティストのイメージに、その声や体がそぐわないときは、アーティストと考え方が相反することさえあります。

 しかし、作品としてのイメージと体(のどの器質)からの可能性は、限界をも知って行うべきでないのに、音響技術でカバー(あるいは、ごまかす)すればよいということにはなりません。アレンジやリバーヴの効果に頼るから、将来の可能性まで損なわれるのです。

 

○日本人の欠点

 

 私が日本人の歌手や役者に決定的に欠けているとみなしていたのは、

1.力強さ、タフさ

2.完全なコントロール力、ねばり

3.声としてのオリジナリティ

4.演奏としてのオリジナリティ

5.即興力

 ほかにコーラスや構成、展開、全体を統一する力などもあります。あまりに多いので、そう簡単に変わりません。

 音響技術での補完が容易になり、客も一層の視覚的効果を求めるようになったので、声の問題そのものの位置づけや、優先順も以前よりあいまい(というか、ダメでもよく)になってきました。そのために、アーティストやプロデューサーと相談せざるをえなくなりつつあります。

 欧米のように、1~3の条件の上に4がのったヴォーカリスト、つまり、本人のもっとも可能性のある声(オリジナルの声)を取り出した上に、作品のオリジナリティをのせるところにまでいきつかないのです。そこまで求められないということです。

「日本人は音色を聞かず、世界に通じず」

○ストーリーをはずして聞く

 

 海外の歌のように歌詞やストーリーの意味がわからないからよいというのは、音色やフレーズ(節回し、メロディ、リズム)から感じていくものだからです。それが演奏、音楽の世界です。

 一見、逆のようで、同じこととしては、歌詞がすでにわかりすぎているというのもあります。落語の定番の噺のようにストーリーがわかっていれば、どう演ずるかに、客の関心がいきます。そこで声や表現といったものの技量、オリジナリティが出ます。同じことをやることで、感覚も判断力も深まるのです。それは、トレーニングの根本的な考え方でもあります。

 

○スタンダード曲のよさ

 

 日本にはあまりなくて、世界にたくさんあるのは、スタンダード曲です。スタンダード曲とは、歌詞やストーリーを皆、知っているのです。その上で歌われるから、歌い手は、楽器としての演奏力と表現力が問われるのです。

 つまり、初物、誰もやっていないからオリジナリティなどという安易な海千山千の世界から、早く質の世界に入ることができるのです。大切なのは、自分の音と使い方(音色とフレーズ)を発見することです。日本では、そのこともアレンジでのオリジナリティで問うてしまうようになったのですが。

 

○定番曲をまねない

 

 日本でも、邦楽や演歌には、定番曲があります。ミュージカルも同じ曲を違う人が歌っています。それは勉強するにはレベルがアップしやすい状況です。ところが残念ながら、安易に真似てしまうことでプラスにはならないのです。特殊な分野である声だから、大して人材は育ちませんでした。

 日本の客は、ビジュアルやストーリーでみてしまうから、尚更です。表面上の形に影響されて、歌手も曲や詞が新しければ、初めて歌うなら何でもよいとなりがちなのです。

 

○日本にもスタンダードがあった

 

 昭和の半ば頃までは、著作権が整備されていなかったのです。また、同じ曲を違うレコード会社専属の歌手同士、同じ時期に競作してヒットを競うこともありました。それとはすでに異なる状況でしたが、私が覚えている最後の競作曲は「氷雨」での日野美歌佳山明生さんの歌唱です。

 フォークなどの台頭期では、かぐや姫など、ほぼ一曲の繰り返しだけのステージをやっていたグループもありました。「好きだった人」などがその代表曲でした。フォークのヒットは、歌詞の力が大きく、即興の詞づけにも長けていて、必ずしも曲の力とは言い難いです。そういえば、昔は、歌手も1ステージのなかで1曲のヒット曲を何回も歌ったりしていたものでした。

 

○日本語の訳詞

 

 日本はロカビリー、ロック、ポップス、ジャズ、カンツォーネシャンソン、ラテン、ボサノヴァ、ファドまで、向こうのものに訳詞をつけて歌う時代となり、同じ曲での比較が容易になったのです。

 当初は英詞の訳もよいのがあったのですが。(この一連のヒットで、出版社をつくったのがシンコーミュージック創設者漣健児氏です。「悲しき・・・」で始まる一連のシリーズが有名です。多くの歌い手が同じ曲を歌ったために比較でき、秀劣や個性がとてもわかりやすかったのです。違う歌詞がいくつか付くこともありました。

 日本人の英語熱もあって、ジャズやポップ、ロックなど英語曲は英語のまま歌う人が多くなりました。その日本訳の詞は、陳腐なものが多かったのです。それに対し、カンツォーネシャンソンは、日本人にはフランス語、イタリア語がわかる人が少ないせいもあってか、よい詞がつき、日本語で歌われました。宝塚時代、越路吹雪さんの歌を訳詞した岩谷時子さんや、作詞家のなかにし礼さんなどは、シャンソン畑出身です。

 

○訳詞のよいこと

 

 歌詞がよいことは、原語と日本語との両方で学ぶためには、一つの大きな条件です。特に、カンツォーネは、日本詞がうまく付けられているのが多いです。しかし、この頃の詞は、一音節(モーラ)に一音の日本語をあてていたため、原詞の内容の半分から三分の一しか伝えられていません。そのためまったく違う意味に変えられたものが少なくありません。下品な原詞がオシャレな日本語の歌詞になりました。

 なぜ、原語のままの曲で※らせるのでなく、日本語にして歌ってみることが大切かというと、歌はお客さんの生活しているところのことばで支えられているからです。

 

○歌が楽器に勝るところ

 

 楽器に対して、決定的に歌が有利なところは、次の二点です。

1.人間の声である

2.ことばで意味を具体化できる

 日本人で英語でジャズを歌っている人は、英語圏で生活しているのでもなければネイティブのセンスにはかないません。日本語で育ってきた日本人が、セリフや表現を英語で話しても、それを聞いて伝わる程度をネイティブでなければ判断できません。判断の基準は、母語に対してしか通じないのです。

 

○歌唱レベルでの低さ

 

 日本では英語で歌えれば、英語の発音が正しければOKという形での評価が、幅を効かし、表現が忘れられてしまうのです。

 日本の歌でも似ています。合唱、ニューミュージック、J-POPS、演歌、邦楽はなぜ、時代を超え、日本を超え、世界のスタンダードにならなかったのでしょうか。エスニックだからではありません。エスニックでも世界に出ているのは、たくさんあります。声としての表現力としての歌、つまり歌唱力でかなわなかったからです。これは、分野としてではありません。演じる人、歌う人、その個人の音声での表現力においてです。

 どこでも、一人の天才とそれに続くハイレベルな集団が出て、そのジャンルをつくり、ジャンルを超え、スタンダードに芸を成立させていくのです。歌謡曲や演歌のすぐれていたことは認めますが、デビューのあとによくならないのが、日本の特徴です。聴衆が声の世界に寛容すぎるのです。