「考えるということ」

○よく考えるということ

 「よく考えるように」とくり返し語ってきました。しかし、考えてみるまでもなく、考えることをしっかりと教えてくれるところは少ないと思います。学校や社会は、考えようとする人に、考えないことを教え続けたようにも思います。

これは、特に日本のことと思うのです。日本ですぐれた地位にいると思われる人の大多数は、考えたり言ったりする人ではなく、考えないし言わない人のようにみえます。

○自由に考えるには

考えるための状況づくりを考えてみます。

「いつでも言ってよい、何でも問うてよい

何を言ってもよい、意見が変わってもよい

否定的態度をとらない、聞くだけでもよい

話がまとまらなくてもよい、経験を元に話す

人ではなく考えをみる、話の後にしこりを残さない」

など。

まず、言いたいことを言わないことをやめてみるのです。空気を読まないのです。

とはいえ、こういう状況がつくれるのは限られます。まして、実行するのは。

ですから、まずは、自分のノートで行うとよいでしょう。言いたい相手には、メールの下書きに入れておきましょう。考えるのと、それをそのまま伝えるのは、全く別のことです。

○考えることで自由を得る

 選ぶ自由は大切ですが、選ぶというのは、面倒なことです。ですから、それを捨てる自由があってよいと思います。

 自由とは感じ方によるのですから、自由というのは、自分にそう感じられるかどうかなのでしょう。

自分を相対化、対象化する、つまり、自分と距離をとると、心は解き放たれます。開放感を感じると、動きやすくなります。人から教えられたり、自分で気づいたときにも、それは感じられます。

ときには、他の人とも一緒にそれを味わいます。すると、一体感や共感を得られるのです。

○他の人の話

 まずは、他の人の話を受け入れてみることからです。そのときに、よし悪しを判断して反応しないこと、肯定や否定しようとせずに受容してみることでしょう。そうであってこそ、自由に語りあうことが成り立ちます。

語るために聞くのでは、相手を受け入れていないことが多いのです。聞くために語ることが望ましいといえます。

○止める

理解し共感しているようでも、大半は、自分勝手に解釈して思い込んでしまっているものです。理解しようとしても、そのようにできなくて拒絶やスルーしかねないときは、受け止めてみるところまでで止めておくとよいと思います。

○場で考える前に

 

顔をみて相槌を打ち反応するのが、人としてのマナーでしょうか。気を遣って、相手の反応を気にしていると、反応しやすい話ばかりをするようになってしまいます。

 聞くことでどこまで理解できているのかはわかりませんが、声が聞こえる距離にいる、同じ時間、同じところにいるというのは、その人をその存在を認め、受け入れているということです。つまり、そこでは成立しているのです。

言いっぱなしも聞きっぱなしも、そのイメージはよくないのですが、案外とよいものと思われます。

○正しいことの誤り

「自分の言っていることが正しい」ということは、他のことを否定していることにもなるのです。だから、その主張を優先すると、偏ってしまうだけでなく、そのことに気づかないことになるのです。

正しいことと思えると、その正しいことを人に言うわけです。なぜなら、皆、正しいことを知りたくて正しいことを聞きたいからです。それは、ウイルスのように蔓延ってしまうのです。

こうして述べることもまた、ウイルスをつくり出します。これを読んで、そうだと思う人をつくることは、ウイルスを広めることになります。正しいと思った人を通じて、さらに広まるのです。

○納得するために

本当は、真に納得したいなら、正しいことを知るのではなくて、考えなくてはいけないのです。誰かの考えたことを正しいかどうかで選別して、正しいものを集めるのではなく、自ら考えることです。

私は、その考えることを伝えたくて述べています。こういうものを読んだだけで正しいと思ったり、簡単に納得しないで欲しいといつも願っています。しっかりと考えないと、真ん中を行っているつもりで偏っているのがみえなくなってしまうのです。

○純粋思考

 考えるといっても、真面目に考えたら、何でもわかるわけではありません。どんなことも、いろんな立場、見方があります。当事者であれば尚のこと、第三者として相手の言い分を聞き、客観的に情報を集めたら、必ず、総合的に正しく判断できるなどということでもないのです。

自分の知識を元に、体験を重ね、現場で情報収集すれば、必ずわかる、正しく理解できる、そんなことではないのです。真面目さ、真剣さ、情報の量や質、現場での体験が、真実を歪めてしまうことの方が、ずっと多いのです。

それよりも、知っていることや見たこと、自らの思惑や欲にどのくらい左右されずに考えられるかが、ずっと大切です。

 だから私は、博学の人の意見をあまり当てにしていません。知識や科学だけから解こうとする人は、すでに方向を見失っていると思うのです。

○事実と記憶

 ある事実があったとしても、その人間の記憶の正しさは疑わしいものです。そういうものだとの思い込みで生きた年月での、事実とは異なっている記憶は、事実よりも、私たち自身に大きな影響を与えているからです。

同じ事件でも、そこにいた人たちの記憶は、それぞれに違っているわけです。記憶とは、操作され偽装されるものです。つまり、創作されているわけです。フィクションでなくノンフィクションなのです。

○脳がつくる☆

たとえば、頭の中で早口ことばを10倍速で言えません。これは、身体でしかわからないことです。マゼンタの色は物理界にはなく、脳のみる色(赤と紫の波長)であるなどというのも、脳が生み出すものです。

○理性とは、正しさではない

理性が欲に勝つのではありません。感情で決めたことに理性は正当化を後付けでしているのです。

どんなものにもよし悪し、よい面、悪い面があり、それは人によってもタイミングでも違います。

○適用のミス

医学を学んだ医者でさえ、間違った根拠で間違った解釈をすることは少なくありません。いつも人を治すためによかれと思って、情報を集め、広めている人もいます。しかし、それが流布してブームになったり定説や常識となってしまうと、大体は、よくないことが起きます。一般の人には、適用の間違いや自分に当てはまらないことで害になることにも気づかないこともでてきます。

○メディアリテラシー☆

 メディアで流れる情報も同じです。それを信頼できるのかを判断する能力=メディアリテラシーをもつことが望まれます。メディアの情報に踊らされないことです。

 「何かおかしい」という感度を上げていくこと、常に学び考え続けること、何人かの専門家に学ぶことなど、日頃から心掛けておきましょう。

○「絶対」はない

健康であれば、しぜんとバランスが保てるものです。絶対に体によい成分も、絶対に悪い成分もありません。万人に合う「絶対的な健康法」はないのです。効果は、科学的には、簡単に断言などできないものです。ましてや、声や歌やアートにおいてや、です。

 人の体はしっかりとできているものです。まず、その力を充分に使ってみることです。心身が健康であれば、しぜんとバランスがとれます。そこでのアドバイスから、不足分をトレーニングするのです。

○トレーニングの代用と創造

 100パーセントの「よいレッスン」も「よいトレーニング」もなければ、100パーセントの「よくないレッスン」、「よくないトレーニング」もありません。TPOや目的、レベル、それに、あなたの個性も含めて、それぞれ違います。その時期、そのとき、その日でも違います。

もっともよいトレーニングは、自らつくっていくしかないのです。トレーナーがレッスンで与えるトレーニングメニュは、そこまでの代用なのです。

最初は、自分で考えるよりも自分に与えられたトレーナーのメニュを使う方が有効です。先に早くレベルアップもできます。万人に合うトレーニングはありませんが、あるタイプや目的に合っているトレーニングはいくつもあるからです。

○トレーニングの効果

ここで用心したいことは、効果ということです。これも、簡単に「こうだ」と言えるものでないことが多いのです。

 ある効果が目にみえやすいことも少なからずあります。

しかし、トレーニングのメニュを医師の治療や薬のようにみてはなりません。

自分の体は世界に一つしかなく、他に同じ体はどこにもないのです。おおまかに皆に当てはまるトレーニングはあっても、自分がハイレベルに至るトレーニングは、そのなかで自ら創造していかなくてはならないのです。

●セカンドオピニオンとしての対処☆

アドバイスするにも、材料が必要です。私は、現状と改善法での効果と副作用、その選択の理由と根拠をもって、セカンドオピニオンの仕事の意味があると思います。

そのときは、慎重な言い回しをします。リスクや副作用は、どんなことにも必ず伴うと思うことです。簡単に結論や絶対的な方法を示されたら、それは、おかしいのです。会うのが初めてならば、どんなアドバイザーも、あなたに対しては初心者なのです。

○継続的なチェックを

「○○流をやっているところに通う」などと言われたときにも、これまでのところで定期的に客観的なチェックを続けることを勧めています。そうでないと、そこでの結果もわかりません。いろんなところに行って、「2、3カ月で効果が出た」と言っては、「半年で出なくなった」と次々に乗り換えていく人がけっこうみられます。

○「皆が」とは、誰か

日本では、よく「皆が…」と言います。「私」に対して「公」、「みんな」とは、誰のことなのでしょう。私は、「皆が…」というような表現が入ると、「それは誰なのか」と聞き返します。「クラスでは」「学校では」「町内では」「○○部では」「会社では」「従業員は」「トレーナーの先生方は」「ここにいる人は」などのときもあります。

何となく、お互いにわかっているつもりで、そう言っているとしても、本当に誰なのかということを知らないと、物事は先に進められないからです。ですから、「みんな」とか「私たち」などという言葉は、簡単には使えないのです。

かつて、「我々は…」などと言って一括りにできたのは、「それは誰か」と聞かずにすんだのは、相手が決められた立場でいたからです。明らかに立場が逆で、それに対する同じ目的の同志としていたからです。体制と反体制と2分できていたからです。

○意志と関わり方を読む

報告やレポート、アンケートであがってきても同様です。そこに本人が自らの意志で、どのくらい関わろうとしているのかということを考えます。なかには、「提出するように」と言われたから、「大して、そのように思ってもいないけど書いてみた」というのもあります。何人もから同じ意見が出たり、何回もくり返し言ってくることなら、取り上げる必要度が高いとはいえますが。

○思いの度合いの違い

私の思いと相手の思いは、けっこう違っているということがあります。こちらが親友とかマブダチと思っても、向こうにとっては、こちらは多勢のなかの一人ということもあるでしょう。相互に同じくらいに関りたいというのではなく、片方は、そこにいるだけというくらいの関係もあるのです。

○選べる自由

 これまで、「自由は、不自由があってこそ、そこから逃れるときに感じられる」と言ってきました。たとえ、不自由であっても、そこから逃れられる選択ができる状況なら、人は、けっこう楽でいられます。「選べる自由」を感じていられるからです。

「選べる立場の人がいるのに、自分が選べない」となると、この不自由感は、不公平、不平等に思われます。でも、選べることに気づかなければ、不自由とは思えないでしょう。

○選ぶトレーニング

今のように、たくさんの選択肢があると、今度は、「うまく選べない」ということで不自由と感じます。選ぶ能力が求められるのです。

 何をどう選んでよいのかわからないというケースが、昔よりも圧倒的に多くなりました。となると、選べるように考えることができるようになるトレーニングが必要です。

○不自由の3つのケース☆

 ある状況に対して、「不自由」、つまり、「不快」、「苦しい」などと感じたときには、少なくとも、3つのケースがあります。その状況が悪いのか、状況をそう感じる自分が悪いのか、その状況を変えない自分が悪いのかです。

悪いというよりは、問題と言った方がよいかもしれません。状況の問題、感じ方の問題、変えようとしない問題です。人のせいにせず自分で解決できるようにすることが、問題解決の糸口です。

○レッスンの必要性

 悪いと思えば悪い、不自由とか不快と思えば、不自由、不快と感じてしまうのは、人間だからでしょう。

 トレーニングは、自分を強くして乗り越えることをベースとする考え方です。

しかし、レッスンは、それだけが目的とは限りません。強くすることが本当によいのか、そのためのキツさ、苦しさは本当に必要なのか、そこも含めて、一つひとつ考えていくわけです。

○レッスンと選択能力

 情報を集めるというのは、それによって様々な選択肢を探すことです。次には、どれかを選ぶのです。

でも、「適切に選ぶために、その能力をつける」となれば、そのヒントを与え続けるのが、レッスンでしょう。

○指標☆

「今、実行できる能力」というのなら、選択肢も選び方も実行できる範囲でとらなければなりません。自ずと、かなり制限されます。しかし、「自分の力を変えていける」と思うのなら、今、判断する必要はありません。「将来に」、という時間をみるなら、その制限は取っ払われます。

大半は、やってみないとわからないことばかりです。当初は、自分の判断の根拠は、自信という思い込みでしかありません。

そこで指標として、先達、先生やトレーナーや他の人の選択や判断を参考にしていきます。他の人に認められていくこと、受け入れられることをプロセスに組み込むのは、その一環です。

○承認と尊厳

 皆が自由を行使すると、必ずある人の自由によって不自由を被る人が出てきます。相互にいろんな力関係も働きます。

ステージ上のアーティストとステージ下の観客は、違う自由をもっています。全員がステージには上がれません。ステージに立つ人、そのなかで真ん中にいる人は一番の自由を味わっているのかもしれません。少なくとも、その人の尊厳は満たされるでしょう。その場では、その人の存在価値は、もっとも多くの人に承認されていることが多いからです。

○価値と自由

 でも、客のなかで、アーティスト同様、いや、それ以上に楽しんでいる人もいます。

楽しむということだけなら、そこで、それを与える大きな責任と能力の発揮を必要とするアーティストより、自由気ままに好きに楽しむ客の方が上かもしれません。お金でその価値を買っているのです。

みる方は、みせる方よりも自由ともいえます。途中で席を立ってもよいし、多様に自由を楽しめるのです。

○創造への試行

 プロのアーティストは、誰かに認められ、承認され、尊厳をもってステージに立っています。ファンであるなら、その誰かにあなたは入るのです。

価値をつくって伝えるアーティストは、絶えず創造しては試します。同じことをやると、価値は消費されていくからです。ときに失敗もしますが、成功を続けて、そのなかで成長していきます。不安定で不安な力から安定した安心できる力にしていくのです。

そこはステージでもレッスンでもトレーニングでも同じです。ただ、自主トレは、他の人がいない点、自己本位に偏向しがちです。そこで、いつもよくよく考えることが大切となるのです。