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私は10数名のヴォイストレーナーとともに、ヴォイストレーナーにも指導しているため、内外のヴォイストレーナーのアドバイザーやヴォイストレーニングをしている人のセカンドオピニオンもたくさん行ってきました。

ヴォイストレーナー、指導者、専門家以外にも「ヴォイストレーナーの選び方」などに関する質問が多くなりました。

そこでタイトルを「夢実現・目的達成のための考え方と心身声のトレーニング」に変えました。

以下も参考にしてください。

「ヴォイストレーナーの選び方要項」 http://www.bvt.co.jp/new/voicetrainer/

「姿勢とスマートスーツ」ほか

○姿勢とスマートスーツ

 眼鏡も医療機器だったのですから、義手義足もメガネのようにファッションとなるでしょう。センサーや筋肉の電気処理技術の発達に加え、3Dプリンターでの造形が支えます。廊下に立たされたのび太は、ドラえもんから「ゴルゴンの首」を借りて、足を石にして疲れないようにしたのですが、スマートスーツは、それ以上の働きをします。必要なときだけ硬くなって座れる人工イス(足)のような製品になるようです。

姿勢については、こうした文明の利器でサポートを行えるようになるのです。懐メロのステージで車イスで登場した歌手がいましたが、遠からずして、そうなっても真っ直ぐ立って歌える日が来るでしょう。とはいえ、腰痛ベルト(コルセット)のように、頼りすぎると筋力低下につながりかねないので、自助努力に努めましょう。

○音のネットワーク

 ウェアラブルコンピュータは、アップルウォッチほどに小さくなりましたが、この先、メガネ型や指輪、皮膚への埋め込み型となっていくことでしょう。SF映画でおなじみですね。

元をたどると、これはスマホ、携帯、電話と遡ります。その機能は、声と聴覚を結びつける拡張技術でした。音声を電信信号にして電線で伝え、また音に戻して伝えたのです。すでに世界中に電話、電線のネットワークがあったことが、瞬く間に普及した要因です。

○心の数値化

スマホでは、歩数計が使われています。(今は、万歩計とは言わないのでしょうか。)それと同じく、身体の情報がすべて数値化されて記録・管理される日は近いでしょう。

 体の次は心、つまり、情動を数値化することになるでしょう。喜怒哀楽といった感情を記録するとともに、それを制御するアプリが使われるようになるでしょう。

○声の身体性☆

 他人にくすぐられるとくすぐったいのに、自分でくすぐっても、くすぐったくはないですね。ロボットアームでくすぐると、どうでしょう。自分で操作すると、やはり、くすぐったくないのですが、0.2秒以上の時差をつくると、くすぐったいそうです。

イグノーベル賞での「スピーチジャマー」では、0.2秒、話声を遅らせて(delay)本人の耳に届けると、まともに話せなくなるのです。それは、自分の声を脳内で聞きながら話しているからです。声のディレイで話しにくいのは、国際電話やスカイプなどですが、そのため、そこでは、それを妨ぐエコーキャンセラーが使われています。

 こうした聴覚の発声からのフィードバック機能は、声の大きさでもみられます。周りの声が大きいと、私たちも、つい声が大きくなるのです。ステージの歌で、よく失敗するのは、モニターの返しが小さいため、無理に大きな声を出してしまうことです。

こうして、声も身体性に深く根差していることがわかります。

○現実、世界、リアル☆☆

 現実の世界は、私たちが主観的に感じて組み上げているので、現実そのものとは違います。その現実感をリアルといってきました。

現実とか世界とか、リアルというのも、混同されて使われています。ここでいう現実とは、物理的世界のことで、そこに私たちが感じ取る世界は、五感などを通して捉えられた世界のことです。

 視力のない人とそうでない人では、みえるものが違います。赤外線ゴーグルをつけた人は、闇のなかでもみえるので、つけない人とは全く違う世界をみます。

現実と現実感は違います。「世界」と言うときも、物理的な世界と私たちのみる世界というのでは、違うのです。

○芸術のリアル☆

 芸術の多くは、いえ、ややこしいので、たとえば、舞台の演劇としましょう、それはまさに虚構の世界です。しかし、そこで私たちが共感してリアルを感じます。現実以上に現実感を感じることがあります。それをリアリティとかリアルと言って、求められてきたわけです。

それは、観る人、聴く人、感じる人のなかに生じることです。もちろん、劇なら演じている側が役に没入しているから、そう働きかけるのです。

 フィクションは、ノンフィクションでは伝えられないものを伝えるためにあります。とはいえ、純粋なノンフィクションはありえません。どこまでも主観的に捉えた世界に、私たちは生きているからです。

○主観と客観

 アインシュタインの示す世界は、ニュートンが示す世界よりも物理的世界というようなことになります。でも、私たちは、リンゴが落ちるとみえる主観的世界にいるので、リンゴを地球が引っ張っているというニュートンの世界は、充分に、物理的=科学的です。主観的ではなく客観的といえます。

一方、宇宙の視点まで広がったアインシュタインの世界とても、絶対に客観的ではないのです。数字や科学だけでなく、物理もまた、純粋に物理的世界ではないといえるからです。

でも、そんなことは、3次元の今に生きる私たちには大した問題ではありません。自分のなかでさえ、主観的な捉え方は、刻々と世界の様相を変えるのですから。

○人の目

 ニュートンは、物理学者で、プリズムの実験では、光を七色に分けてみせました。色によって屈折する角度が違うことを発見したのは、18世紀初頭のことでした。

そこから1世紀ほど後、ゲーテは、色彩論で反論します。プリズムを目に当て、白と黒の間に色をみたのです。そして、色相環や補色の関係を導き出したわけです。人の目があって、自然の光がそうみえるということです。

 マゼンタ(ピンク)の波長はないのに、私たちは、虹では、両端にある赤と青という色、つまり離れた波長を同時にみて、合成してみているそうです。ディスプレイは、RGB(赤緑青)の比率でフルカラーの画面をみせています(ヤングヘルムホルツの3色説)。現実ではそうではないのを、私たちの目が、そのようにみているということです。

○光より音が速い☆

 物理世界では、光速は30万キロメートル/秒、音速は340メートル/秒ですから、光は音よりずっと速いのです。花火では「ピカッ」と開花して、しばらくしてから「ドーン」です。

しかし、40メートル内になると、目よりも耳、視覚で捉えて動くよりも、聴覚で聞いて動く方が速いそうです。この知覚の差を、脳は、同時に感じるように補正しているというのですから、ややこしいです。

私は、かつて、スタートの合図には、ピストルの音が速く届くので使われると聞いたことがあるのですが、この点は、どうなのでしょう。

○3Dから4DXへ

 錯覚や錯聴は、実際とは違うのでイリュージョンとなります。しかし、そこにリアル感があり、本物以上の体感を与えると、現実以上にリアルなシミュレーションゲームができるのです。それは、誰もが映画でも体験しているわけです。3Dから触覚、嗅覚なども含めた4DXとなっていくのです。

○声の可視化

 バレエやダンスの練習では、動きやポーズを鏡の前でチェックします。それに対して、声や歌では、録音の再生でチェックするのです。音声の分析がグラフでリアルタイムに表示できるようになったので、それを参考にチェックすることもできます。

ここで大切なのは、人の耳でチェックできなかったものが、可視化できることで何が変わるかということです。

 車も、バックミラー、サイドミラーをアラウンドビューモニターでみるようになると、死角がなくなり、駐車するのも楽になります。音を遠くへ伝えるように、モノを3Dスキャンと3Dプリンターで飛ばせるところまできています。

ひと昔前であれば、超能力や魔術と言われたであろう能力を、今、私たちは手にしているのです。

○分人☆

 個人individualを役割で分けた分人dividualという概念があります。元より、一人の人間であっても、いくつもの顔をもって、人々は行動していたのです。どの社会でも自分に求められる役をいくつか演じ分けてきたといえます。

○情報化と身体性

人が、身体の制約から解放される一方で、身体性を求めることは、なくならないはずです。テレビでみて、興味をもてば、その現場に行ってみたくなるわけです。何かで聞き知って、ライブに行くのと同じです。どんなに武器に戦闘能力がついても、人は、人と人が至近距離で戦うのをみて、興奮したいのです。

○イタリアの大声、日本の馬鹿声☆

 「戦さがなくなり、平和が50年も続くと、大声楽家がばったり出なくなる」ということを、声楽家の畑中良輔氏は言っていました。中欧の研究家の説とか。

 イタリア人は、「大声に虚言なく悪人なし」、立派な声の男から小声で口説かれるのが、もっとも魅力的だそうです。

それにしても、日本で、日本人の馬鹿声というものを聞くことは少なくなりました。

○メロディと詞

 三島由紀夫は、「言葉は音楽の冒涜であり、音楽は言葉の冒涜であって、言葉の持つロゴスは、すでに音楽の建築的原理の裡に含まれており、言葉の持つパトスは、音楽の情感的要素によって十分代表されているはず」と言いました。

ことばとメロディは、矛盾しながらも、お互いに包括していることを表しています。

○玉三郎の声歴史☆

 坂東玉三郎は、14歳で玉三郎を襲名しました。そこから10年間、変声期で、お客の前で声を出せるようになったのは、22、3歳からで、本当に声が出てきたのは30歳くらいから、と述懐しています。

ついでにですが、「方式にかなった声は決して芸術的とはいえない」と述べています。「発声を学ぶのは、一般的な効率のよさを学ぶことで、芸術的なものとは次元が違う」と言い切っています。そして、自分流のものと基本とを、いつも照らし合わせていくことの大切さを問うています。

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○本当のスタート

原体験としての感覚、気持ちよさを実感することを大切にしましょう。

ことばが先に出てから、心が動き出すこともあります。

等身大に歌うことの大変さを知りましょう。そこから、体から声が出るように方向が定まってきます。

○中村天風のことば

過去の後悔、現在の悩み、将来の不安、この3つを考えてはよくない、「心を気持ちよくなくするな、嫌な気持ちに心をせず、喜ばせる、楽しくさせる、それが義務」と言ったのは中村天風です。氏は、聖人カリアッパに「身体の病で心にまで迷惑かけるな」と言われ、結核を治したのです。

○科学について☆

Scienceの語源は、ラテン語のScientiaスキエンティアです。Sciは知る、entiaは成すで、「知る」を「成す」のです。これは、自然科学だけでなく、あらゆる知識を得ることでした。

 科学とは、理論と実証によって、自然世界の普遍的な原理、法則を発見することです。研究で得て、実験で確立した知識にあたります。研究と実証が重要です。

合理性、論理性、実証性、普遍性があることです。

「どこでも、いつでも、誰でも」これらを全て満たすことです。

「科学的」では、無私性、懐疑、批判を怠らないことが求められます。

○科学的な検証

 科学的な検証は、次の1~4を必要とします。

1.様々な例を列挙する

2.内容を調べて分類する

3.全体を貫く理由を考える

4.結果的にどうするのか提案する

○ハチミツと声☆

「ハチミツを飲むと、声はよく出ますか」とよく聞かれます。

そう公言しているアーティストやトレーナーもいます。ハチミツにもいろいろあるし、個人差も大きいです。

プラシーボ効果でもあると思います。それは、思い込みによるものですが、たとえば、データ以前に、健康食品に気をつかう人は、そうでない人よりも日常生活をコントロールしているというようなものです。

栄養という面では、ハチミツに限りませんが、体によいものはよいです。高い栄養素とやさしい口当たりから喉も通りがよくなりそうというイメージとして思い浮かべるハチミツ効果でしょう。浅田飴のイメージもありそうです。スポーツ選手が本番前に口に入れるレモンのハチミツ漬けなども思い込みです。声帯には届きませんし、発声の原理からは関係ありません。

こうしたことは、大体が相関関係に過ぎないのに、因果関係と思ってしまう人が多いのです。

○ニセ科学にひっかからない☆

科学とか科学的とつくと、批判的な目を向けず、盲信してしまう、お任せしてしまい、考えない、指導者、専門家、マスメディアの言うことを鵜呑みにする、基礎的な知識や規範が欠けているなどが考えられます。

急ぎ過ぎる、早く効果をあげることばかり考える、欲に囚われるなどが原因です。「手っ取り早く安く楽に」、を求める人は、とても多いのです。

ひっかからないためには、いつも、「なぜ」と考えることです。

「どんなものにも、よいだけのものはなく、必ず、悪いこと、副作用もある」と考えるとよいでしょう。

○根拠とトレーニング

「トレーニングに根拠がないなら、やらない方がよいでしょうか」と聞かれたことがあります。

仮に、根拠がわからなくても、やった方がよいことはあります。ですから、やってみる方がよいでしょう。メリットも必要ですが、リスクを避けたり安全性が高まることでも、トレーニングはする意味があります。

○7世代の掟

アメリカの今のニューヨーク州にいたイロクォイ族は、取り決めに、以後の7世代への影響まで考える義務を誓い合っていたそうです。「7世代の掟」と言います。

「見えないものを見、聞こえないものを聞く」「影をみる」ことが大切です。

○豊かになると、ことばは不要か

豊かに平和になると、ことばが早口になり、切れ切れになっていくそうです。

平穏のなかにいると、生活、ひいてはものの考え方が似てくるので、しぜんと意志が通じやすくなり、ことばもなおざりになるそうです。会話も反応だけになりがちになるのです。

○姿勢の語源☆

 姿勢は、ギリシア語でhexis、これには、人間の資質、知識、能力、感性という意味もあります。ラテン語では、habitus、これは英語のhabitになります。

○和服と姿勢

日本の着物は、重ねるほどに体を隠すものです。ちょっとした仕草や動きで心を表していました。歩くのに、膝を曲げ腰を落とす、足の親指に重心をおき、かかとをひきずるのは、鼻緒をつっかけて歩くのに適していたのです。

○イスと正座

日本にイスが使われてこなかったのは、家が狭いこともあったし、帯の邪魔になったからと思われます。

僧は、修行で、身体の型と発声のトレーニングをして体を整えていきました。「坐」もしっくりときていたわけです。

正座は、修養であり、芸事、武道の基礎であり、病の治癒にもなっていたのです。

○実感を急がずに得る

トレーニングとは、一定のことをくり返して心身の姿勢、動作に一連なりの調和バランスが生じたときに、実感としてわかるものです。それは、厳かな快感を伴うものです。プロセスとしては、こうした取り組みをじっくりと学んでいけばよいのです。

そのために「こうすればこうなる」という答えを早く求めてしまわないように気をつけることです。

○姿勢をよくするために

 姿勢は、次のことと密接に関わっています。

運動能力、身体的な基礎、パフォーマンス向上、心理的安定、美的バランス、健康の維持、ストレス解消、感受性や感覚を磨くこと。

○「養生訓」の丹田☆

貝原益軒は、『養生訓』で、中国の『難経』から引用して丹田のことを記しています。

「臍の下三寸を丹田という。腎間の動気といわれるものはここにある。(中略)気を養う術はつねに腰を正しくすえて真気を丹田に集め、呼吸を静かにして荒くせず、事をするときには胸中から何度も軽く気を吐き出して、胸中に気を集めないで丹田に気を集めなければならない。こうすれば気はのぼらないし、胸は騒がないで身体に力が養われる」(『養生訓』伊藤友信訳 講談社学術文庫)

○白隠の呼吸法☆

 白隠は、「真人の息は踵をもってし、衆人の息は喉をもってす」、という荘子の言葉を借りて、臍下の丹田から下半身全体へ気を巡らすことを説いています。

○日本人の丹田☆

頭部の「上丹田」、胸部の「中丹田」、臍下の「下丹田」、これが日本にきて、広まっていくうちに、臍下の「下丹田」のみを意味するようになったのです。

丹田は、物理的な体重心とは異なります。

身体の「中心感覚」は、熟練していくと位置や形が変化していきます。

臍下三寸といわれる丹田の裏側には仙骨があります。下腹部に深い呼吸が入り腹圧が上がると、仙骨が骨盤の真ん中に引き込まれる感じになります。

○腰と骨盤

運動するときに、動作の中心は腰に逃げやすいのです。胸部と骨盤とをつなぐ腰には、5つの小さな腰椎骨が連なっています。衝撃に耐えられなくなると、椎間板が損傷して痛みを生じてくるのです。

骨盤は、最も大きな骨格で衝撃にも強いのです。

○禅の座り方

 禅では、座るときに「背筋を伸ばす」と言わずに、「鼻とへそ」「耳と肩」とをまっすぐにするようにします。道元の「坐禅儀」、天台の「小止観」も同じです。

肩や首を緊張させずに、背筋が自然と伸びるのです。

「鳩尾をゆるめる」のを「上虚」と言います。

 筋肉を硬直させずに、骨に運動を任せるという感じです。

○究極の自然体☆

 力として出そうとすることを避ける古武術では、身体の「芯」が自覚されてくるような状態を求めます。そして、気を扱うようにしていったのです。

 「腕と肩の筋肉はどこまでも力を抜いて、まるでかかわりのないようにじっと見ているのだということを学ばなければなりません」(『弓と神』福村出版)

○運動能力

筋生理学からみると、運動能力は、骨格筋によるので、筋繊維が大きくなることで力がパワフルになります。しかし、古武道などでは、筋力より骨格そのものの構造で動かすことを学びます。力任せは嫌われるわけです。

日本人の技巧的なフォームでのバッティングと大リーグの上半身(特に両腕)マッスルむき出しの力のバッティングを比べるとよいでしょう。

○ことばのもつ客観性

ことばは、相手に何かを伝えるためという二者間だけではなく、それを第三者に聞かせるために必要とされたのです。二者間ならボディランゲージやノン・バーバルコミュニケーションも、ことば以上に有効でしょう。ただし、会議や外交などとなると、ことばが絶対に必要となるのです。

●相貌学(フィジオノミー)

トレーナーは、医師と同じく熟練した直観力を最大の能力とするものと思われます。それは、声を聴くことで効果を上げるのです。つまり、臨床心理士のような能力を身に付けなくてはなりません。声もまた、心理的な障害と関わっていることが多いからです。ときおり、精神科の医師から連絡を受けます。これも、こういうことを物語っています。

○ニヒリズム

ある価値観を否定するのに、その虚偽を暴くことが目的となってしまう。それは、手段の目的化です。否定することで、さらに否定が生じていくのです。

否定、非難でなく、代案、新しい構築を試みることです。よりよいものがでてくれば、古いものは淘汰されるのです。

○よいトレーナー

正しくみえることを安易に信じないことです。そのために、どうすればよいのでしょうか。

「アメリカの自己中心主義に傷ついてきた日本」のような立場の人が増えました。

どちらにしても、一人とどまって、個人的に問題に対峙するということです。

そこにトレーナーを利用してください。よいトレーナーは、人を安心させられます。

「考えるということ」

○よく考えるということ

 「よく考えるように」とくり返し語ってきました。しかし、考えてみるまでもなく、考えることをしっかりと教えてくれるところは少ないと思います。学校や社会は、考えようとする人に、考えないことを教え続けたようにも思います。

これは、特に日本のことと思うのです。日本ですぐれた地位にいると思われる人の大多数は、考えたり言ったりする人ではなく、考えないし言わない人のようにみえます。

○自由に考えるには

考えるための状況づくりを考えてみます。

「いつでも言ってよい、何でも問うてよい

何を言ってもよい、意見が変わってもよい

否定的態度をとらない、聞くだけでもよい

話がまとまらなくてもよい、経験を元に話す

人ではなく考えをみる、話の後にしこりを残さない」

など。

まず、言いたいことを言わないことをやめてみるのです。空気を読まないのです。

とはいえ、こういう状況がつくれるのは限られます。まして、実行するのは。

ですから、まずは、自分のノートで行うとよいでしょう。言いたい相手には、メールの下書きに入れておきましょう。考えるのと、それをそのまま伝えるのは、全く別のことです。

○考えることで自由を得る

 選ぶ自由は大切ですが、選ぶというのは、面倒なことです。ですから、それを捨てる自由があってよいと思います。

 自由とは感じ方によるのですから、自由というのは、自分にそう感じられるかどうかなのでしょう。

自分を相対化、対象化する、つまり、自分と距離をとると、心は解き放たれます。開放感を感じると、動きやすくなります。人から教えられたり、自分で気づいたときにも、それは感じられます。

ときには、他の人とも一緒にそれを味わいます。すると、一体感や共感を得られるのです。

○他の人の話

 まずは、他の人の話を受け入れてみることからです。そのときに、よし悪しを判断して反応しないこと、肯定や否定しようとせずに受容してみることでしょう。そうであってこそ、自由に語りあうことが成り立ちます。

語るために聞くのでは、相手を受け入れていないことが多いのです。聞くために語ることが望ましいといえます。

○止める

理解し共感しているようでも、大半は、自分勝手に解釈して思い込んでしまっているものです。理解しようとしても、そのようにできなくて拒絶やスルーしかねないときは、受け止めてみるところまでで止めておくとよいと思います。

○場で考える前に

 

顔をみて相槌を打ち反応するのが、人としてのマナーでしょうか。気を遣って、相手の反応を気にしていると、反応しやすい話ばかりをするようになってしまいます。

 聞くことでどこまで理解できているのかはわかりませんが、声が聞こえる距離にいる、同じ時間、同じところにいるというのは、その人をその存在を認め、受け入れているということです。つまり、そこでは成立しているのです。

言いっぱなしも聞きっぱなしも、そのイメージはよくないのですが、案外とよいものと思われます。

○正しいことの誤り

「自分の言っていることが正しい」ということは、他のことを否定していることにもなるのです。だから、その主張を優先すると、偏ってしまうだけでなく、そのことに気づかないことになるのです。

正しいことと思えると、その正しいことを人に言うわけです。なぜなら、皆、正しいことを知りたくて正しいことを聞きたいからです。それは、ウイルスのように蔓延ってしまうのです。

こうして述べることもまた、ウイルスをつくり出します。これを読んで、そうだと思う人をつくることは、ウイルスを広めることになります。正しいと思った人を通じて、さらに広まるのです。

○納得するために

本当は、真に納得したいなら、正しいことを知るのではなくて、考えなくてはいけないのです。誰かの考えたことを正しいかどうかで選別して、正しいものを集めるのではなく、自ら考えることです。

私は、その考えることを伝えたくて述べています。こういうものを読んだだけで正しいと思ったり、簡単に納得しないで欲しいといつも願っています。しっかりと考えないと、真ん中を行っているつもりで偏っているのがみえなくなってしまうのです。

○純粋思考

 考えるといっても、真面目に考えたら、何でもわかるわけではありません。どんなことも、いろんな立場、見方があります。当事者であれば尚のこと、第三者として相手の言い分を聞き、客観的に情報を集めたら、必ず、総合的に正しく判断できるなどということでもないのです。

自分の知識を元に、体験を重ね、現場で情報収集すれば、必ずわかる、正しく理解できる、そんなことではないのです。真面目さ、真剣さ、情報の量や質、現場での体験が、真実を歪めてしまうことの方が、ずっと多いのです。

それよりも、知っていることや見たこと、自らの思惑や欲にどのくらい左右されずに考えられるかが、ずっと大切です。

 だから私は、博学の人の意見をあまり当てにしていません。知識や科学だけから解こうとする人は、すでに方向を見失っていると思うのです。

○事実と記憶

 ある事実があったとしても、その人間の記憶の正しさは疑わしいものです。そういうものだとの思い込みで生きた年月での、事実とは異なっている記憶は、事実よりも、私たち自身に大きな影響を与えているからです。

同じ事件でも、そこにいた人たちの記憶は、それぞれに違っているわけです。記憶とは、操作され偽装されるものです。つまり、創作されているわけです。フィクションでなくノンフィクションなのです。

○脳がつくる☆

たとえば、頭の中で早口ことばを10倍速で言えません。これは、身体でしかわからないことです。マゼンタの色は物理界にはなく、脳のみる色(赤と紫の波長)であるなどというのも、脳が生み出すものです。

○理性とは、正しさではない

理性が欲に勝つのではありません。感情で決めたことに理性は正当化を後付けでしているのです。

どんなものにもよし悪し、よい面、悪い面があり、それは人によってもタイミングでも違います。

○適用のミス

医学を学んだ医者でさえ、間違った根拠で間違った解釈をすることは少なくありません。いつも人を治すためによかれと思って、情報を集め、広めている人もいます。しかし、それが流布してブームになったり定説や常識となってしまうと、大体は、よくないことが起きます。一般の人には、適用の間違いや自分に当てはまらないことで害になることにも気づかないこともでてきます。

○メディアリテラシー☆

 メディアで流れる情報も同じです。それを信頼できるのかを判断する能力=メディアリテラシーをもつことが望まれます。メディアの情報に踊らされないことです。

 「何かおかしい」という感度を上げていくこと、常に学び考え続けること、何人かの専門家に学ぶことなど、日頃から心掛けておきましょう。

○「絶対」はない

健康であれば、しぜんとバランスが保てるものです。絶対に体によい成分も、絶対に悪い成分もありません。万人に合う「絶対的な健康法」はないのです。効果は、科学的には、簡単に断言などできないものです。ましてや、声や歌やアートにおいてや、です。

 人の体はしっかりとできているものです。まず、その力を充分に使ってみることです。心身が健康であれば、しぜんとバランスがとれます。そこでのアドバイスから、不足分をトレーニングするのです。

○トレーニングの代用と創造

 100パーセントの「よいレッスン」も「よいトレーニング」もなければ、100パーセントの「よくないレッスン」、「よくないトレーニング」もありません。TPOや目的、レベル、それに、あなたの個性も含めて、それぞれ違います。その時期、そのとき、その日でも違います。

もっともよいトレーニングは、自らつくっていくしかないのです。トレーナーがレッスンで与えるトレーニングメニュは、そこまでの代用なのです。

最初は、自分で考えるよりも自分に与えられたトレーナーのメニュを使う方が有効です。先に早くレベルアップもできます。万人に合うトレーニングはありませんが、あるタイプや目的に合っているトレーニングはいくつもあるからです。

○トレーニングの効果

ここで用心したいことは、効果ということです。これも、簡単に「こうだ」と言えるものでないことが多いのです。

 ある効果が目にみえやすいことも少なからずあります。

しかし、トレーニングのメニュを医師の治療や薬のようにみてはなりません。

自分の体は世界に一つしかなく、他に同じ体はどこにもないのです。おおまかに皆に当てはまるトレーニングはあっても、自分がハイレベルに至るトレーニングは、そのなかで自ら創造していかなくてはならないのです。

●セカンドオピニオンとしての対処☆

アドバイスするにも、材料が必要です。私は、現状と改善法での効果と副作用、その選択の理由と根拠をもって、セカンドオピニオンの仕事の意味があると思います。

そのときは、慎重な言い回しをします。リスクや副作用は、どんなことにも必ず伴うと思うことです。簡単に結論や絶対的な方法を示されたら、それは、おかしいのです。会うのが初めてならば、どんなアドバイザーも、あなたに対しては初心者なのです。

○継続的なチェックを

「○○流をやっているところに通う」などと言われたときにも、これまでのところで定期的に客観的なチェックを続けることを勧めています。そうでないと、そこでの結果もわかりません。いろんなところに行って、「2、3カ月で効果が出た」と言っては、「半年で出なくなった」と次々に乗り換えていく人がけっこうみられます。

○「皆が」とは、誰か

日本では、よく「皆が…」と言います。「私」に対して「公」、「みんな」とは、誰のことなのでしょう。私は、「皆が…」というような表現が入ると、「それは誰なのか」と聞き返します。「クラスでは」「学校では」「町内では」「○○部では」「会社では」「従業員は」「トレーナーの先生方は」「ここにいる人は」などのときもあります。

何となく、お互いにわかっているつもりで、そう言っているとしても、本当に誰なのかということを知らないと、物事は先に進められないからです。ですから、「みんな」とか「私たち」などという言葉は、簡単には使えないのです。

かつて、「我々は…」などと言って一括りにできたのは、「それは誰か」と聞かずにすんだのは、相手が決められた立場でいたからです。明らかに立場が逆で、それに対する同じ目的の同志としていたからです。体制と反体制と2分できていたからです。

○意志と関わり方を読む

報告やレポート、アンケートであがってきても同様です。そこに本人が自らの意志で、どのくらい関わろうとしているのかということを考えます。なかには、「提出するように」と言われたから、「大して、そのように思ってもいないけど書いてみた」というのもあります。何人もから同じ意見が出たり、何回もくり返し言ってくることなら、取り上げる必要度が高いとはいえますが。

○思いの度合いの違い

私の思いと相手の思いは、けっこう違っているということがあります。こちらが親友とかマブダチと思っても、向こうにとっては、こちらは多勢のなかの一人ということもあるでしょう。相互に同じくらいに関りたいというのではなく、片方は、そこにいるだけというくらいの関係もあるのです。

○選べる自由

 これまで、「自由は、不自由があってこそ、そこから逃れるときに感じられる」と言ってきました。たとえ、不自由であっても、そこから逃れられる選択ができる状況なら、人は、けっこう楽でいられます。「選べる自由」を感じていられるからです。

「選べる立場の人がいるのに、自分が選べない」となると、この不自由感は、不公平、不平等に思われます。でも、選べることに気づかなければ、不自由とは思えないでしょう。

○選ぶトレーニング

今のように、たくさんの選択肢があると、今度は、「うまく選べない」ということで不自由と感じます。選ぶ能力が求められるのです。

 何をどう選んでよいのかわからないというケースが、昔よりも圧倒的に多くなりました。となると、選べるように考えることができるようになるトレーニングが必要です。

○不自由の3つのケース☆

 ある状況に対して、「不自由」、つまり、「不快」、「苦しい」などと感じたときには、少なくとも、3つのケースがあります。その状況が悪いのか、状況をそう感じる自分が悪いのか、その状況を変えない自分が悪いのかです。

悪いというよりは、問題と言った方がよいかもしれません。状況の問題、感じ方の問題、変えようとしない問題です。人のせいにせず自分で解決できるようにすることが、問題解決の糸口です。

○レッスンの必要性

 悪いと思えば悪い、不自由とか不快と思えば、不自由、不快と感じてしまうのは、人間だからでしょう。

 トレーニングは、自分を強くして乗り越えることをベースとする考え方です。

しかし、レッスンは、それだけが目的とは限りません。強くすることが本当によいのか、そのためのキツさ、苦しさは本当に必要なのか、そこも含めて、一つひとつ考えていくわけです。

○レッスンと選択能力

 情報を集めるというのは、それによって様々な選択肢を探すことです。次には、どれかを選ぶのです。

でも、「適切に選ぶために、その能力をつける」となれば、そのヒントを与え続けるのが、レッスンでしょう。

○指標☆

「今、実行できる能力」というのなら、選択肢も選び方も実行できる範囲でとらなければなりません。自ずと、かなり制限されます。しかし、「自分の力を変えていける」と思うのなら、今、判断する必要はありません。「将来に」、という時間をみるなら、その制限は取っ払われます。

大半は、やってみないとわからないことばかりです。当初は、自分の判断の根拠は、自信という思い込みでしかありません。

そこで指標として、先達、先生やトレーナーや他の人の選択や判断を参考にしていきます。他の人に認められていくこと、受け入れられることをプロセスに組み込むのは、その一環です。

○承認と尊厳

 皆が自由を行使すると、必ずある人の自由によって不自由を被る人が出てきます。相互にいろんな力関係も働きます。

ステージ上のアーティストとステージ下の観客は、違う自由をもっています。全員がステージには上がれません。ステージに立つ人、そのなかで真ん中にいる人は一番の自由を味わっているのかもしれません。少なくとも、その人の尊厳は満たされるでしょう。その場では、その人の存在価値は、もっとも多くの人に承認されていることが多いからです。

○価値と自由

 でも、客のなかで、アーティスト同様、いや、それ以上に楽しんでいる人もいます。

楽しむということだけなら、そこで、それを与える大きな責任と能力の発揮を必要とするアーティストより、自由気ままに好きに楽しむ客の方が上かもしれません。お金でその価値を買っているのです。

みる方は、みせる方よりも自由ともいえます。途中で席を立ってもよいし、多様に自由を楽しめるのです。

○創造への試行

 プロのアーティストは、誰かに認められ、承認され、尊厳をもってステージに立っています。ファンであるなら、その誰かにあなたは入るのです。

価値をつくって伝えるアーティストは、絶えず創造しては試します。同じことをやると、価値は消費されていくからです。ときに失敗もしますが、成功を続けて、そのなかで成長していきます。不安定で不安な力から安定した安心できる力にしていくのです。

そこはステージでもレッスンでもトレーニングでも同じです。ただ、自主トレは、他の人がいない点、自己本位に偏向しがちです。そこで、いつもよくよく考えることが大切となるのです。

「学ぶことへのヒント」

○素人コメンテーター

 スポーツの世界には、そのプレーをやったことがないとか、やったとしても、大してできないのにプロや一流の選手のフォームや監督の采配にまで口を出す人たちがいっぱいいます。

以前は、それは、便所の落書きのごとく、市井の居酒屋談義で消えていったのですが、今や、ネットに記録され、残っていくことになりました。

そして、内容のある話には、耳を傾ける人、コメンテーターのファンのような人も増えています。量が膨大になると、まさに素人恐るべしで、コメントする人のなかったプロのフォームやプレー、采配などについて的確に見抜き、ことばにする才能にすぐれた人も出てきました。

○プロとの違い

評価や批判は、必ずしも、それを実践してきた者の特権ではないと思います。むしろ、一流選手には、そういうことに不向きな人も多いものです。

選手あがりで、すぐに解説が通じるのは、プロでも10人に1、2名でしょう。素人となると、そんな高い確率ではありえません。言うことの根拠や基準を問われると、お手上げかもしれません。

しかし、プロでも、そこは「自分の経験から」と言うくらいしか答えられないことが多いはずです。

ハイレベルな判断のできる人は、ほとんどいないでしょう。

○量と質

 大衆は、多人数ですから、何十万人、何百万人のファンがいたら、そのうち0.0…1パーセントもないでしょうが、数人は、現場のプレーヤーよりもすぐれた見識をもつ人がいてもおかしくないです。

まして、選手よりも多くを広く見て記録し、分析しているような方法論をもつのであれば尚さらです。

○素人とプロ

プロが、固定観念、先入観をもつのに対して、素人は、自由であるから、しかも、数が多いので、当たる人も出るのです。

科学や医療、プログラムなどの革新では、1人の天才が何十万もの人ができないことをやり遂げます。芸術では、創造という点で違ってきます。分析、批評は、創造とは異りますが、創造的なものもあります。

○創造への妨げ

イメージ、形に支配され過ぎると、時代が変わるのについていけません。専門、知識、常識が、前時代のエッセンスとして、そのまま強くあるほど衰えてしまうのです。一気に衰退への道をたどり、滅していったものも数多いです。

名のあるプロとなると、いろんなしがらみ、人間関係が権力構造に取り込まれていかざるをえません。まわりへの影響を考えると、革新したくとも、できないことが少なくありません。

伝記などで真実が出てくるのは、本人も関係者もほぼ亡くなったり第一線から退いたあとです。それは、政財界や企業だけではなく、どんな分野でもいえることです。

○中途半端なエビデンスは不毛

 最近のヴォイトレでは、あまりに安易に“科学的なトレーニング”などと称して行われているように思います。そのせいか、生理的、解剖学的な質問も増えました。

競合するところとの差別化のためにサービスするのなら、他分野と行き着くところは同じです。

私は、非合理的な似非科学よりは迷信的な精神論の方が、まだよほど健全であるように思っています。

科学をエビデンスをもって活用するのには文句はありません。私もその成果を先陣を切って取り入れてきた一人だからです。それでも、過度なエビデンス主義を不毛と思っています。現場感覚、直観からの拒絶せざるをえないのです。

○脱エビデンス主義

物事に白黒をつけたいのはわかりますが、ほとんどは、白か黒かではなく、グレーなのです。それを早く白黒つけてもらいたくて来る人が多いと、黒を白といって、そこに科学的理論を後付けするようなことが、世の中で、いや限られた人たちのなかで通用してしまうのです。

普及期にはよくあることですが、それがずっと続いているとしたら、その分野の未熟性、人材の向上レベルの低さを嘆くしかないのです。

○アーティストは反例なのに

科学主義への反論は、これまでも述べてきました。何しろ、科学は、反例一つで覆るのです。一人の反例アーティストがいたら、覆るほどに頼りないものです。その一人になろうと夢見る人がつくってきた世界だからです。

しかし、もはや、そんな例外となることを求めることもなくなってきたのでしょうか。同じ枠内で皆、同じくらいにできたらよいと思うようになったのでしょうか。それが、この科学的、エビデンス信仰に拍車をかけています。

○思い込むのとマニュアル漬け

目標レベルを下げるほど、マニュアル漬けになっていくともいえるのです。自己陶酔で終わる思い込みは危険でもありますが、思い込みからしか始まらない、突き抜けられない世界もあるのです。

それを支えるだけの下積みができるシステムがあるのかが問われていると思います。時間や量は前提であって、そこでマックスに、バージョンアップしていく環境をどう確保するのかということになります。

○マックスと全力ということ

「マックスを恐れないが、マックスにしない」、トレーニングでは、最大限、100パーセント、力を養います。そして、実際には、加減して使うということです。力というのは、甚だあいまいなことばです。

 全力というのが何パーセントとかいうのは、100パーセントということもあれば、70パーセントということもあり、まさに、人間の限界をどこにおいて、どこまで使うのかは、いろいろと変わるのです。

○イメージ言語としての数字

 私としては、これまで、「トレーニングは、100パーセントの力を120、200パーセントにしていく」とか、「本番は70パーセントで」とか、そのときどきに変えて使ってきました。ですから、これもイメージ言語の一つといってもよいでしょう。

○数字の説得力

今までより「力が2倍強くなった」とか、「半分しか力が出せなかった」ということは、イメージです。能力が2倍つく、3倍記憶力がよくなるなども、そうした例えです。人が数字に弱く盲信するという弱みに付け込んだ説得術、誇張、オーバートークです。

しかし、そこに「球速が100キロから120キロで20パーセント増し」とかなると、1.2倍の能力アップのように客観性をおびたようなレトリックとなります。

それが“科学的”と言われて、さらに説得力を増してしまうのです。実のところ、大して変わりはないのです。

点数で比較しても意味ないから偏差値などが使われてきたのですが、満点が何なのか、わからない分野では、イメージ以上に意味のないのは言わずもがなです。

○アートとトレーニング

 ある一点ですぐれているか、総合的にすぐれているかでみることは、大切です。その間にいくつものバリエーションがあります。多くは、相関的に評価されていくのです。

アーティストは、それには当てはまらないところ、誰もやっていないところ、気づいていないところ、力を入れていないところでトレーニングを行っていくことでしょう。結果、自ずとギャンブル性を持ち合わせていきます。

○効率化とトレーニング

 リスクを抑え効率化することをトレーニングで考えると、それに反しかねません。トレーニングには自ずと理想像ができてくるからです。

一つのものを求めるところでは似たタイプが多くなるのは、当然の成り行きです。模範的な正解というのが必ず出てきてしまうのです。果たして、そこを目指してよいのかを、常に考えていかなくてはなりません。

○柔とテクニカル

 「柔よく剛を制す」とは、スポーツの世界では、すでに重量別などが取り入れられたことで遠ざけられました。しかし、相撲やラグビーなどでは、ときおり、同じフィールド上で、そういうことがみられることがあり、痛快です。

特に日本人は、自らを投影してなのでしょうか、判官贔屓で感情移入しやすいからです。

ただ、そのためにリスクが大きくなり、ケガや生命に関わるとするならスポーツの域を超えてしまいます。精神主義に陥りやすいのも欠点といえましょう。

 パワーがなければ技術にシフトするものです。パワーゲームか、テクニカルゲームかというジャンルの要素も大きいのです。

○イチローの脅威

イチローなどは、大リーグのベースボールというパワーゲームを奇跡ともいえる大活躍でテクニカルゲームにしました。ただ、ベースボールには、単なるパワーゲームでなくテクニカルに勝敗を決する要素がいろいろとあったのです。九回裏にランナーがいなければ、ホームランバッターが望まれそうですが、確実に出塁するイチローの方が怖いし、ましてランナーがいたら、イチローの方が望まれるのは言うまでもないでしょう。

○パワーそのものではない

 アート、演劇や歌唱、ステージの世界では、大スターと体の大きさ、パワーは、あまり関係ないといえます。もちろん、体の大きさ、身長や体重とフィジカルな能力は別なので、大雑把な例えですが。

その点、芝居などもですが、特に歌のパワーとなったときに、あまり男女に差がないのは、特筆すべきことではないでしょうか。

○マックスと変化

 「フィジカルなパワーは養成しやすい」ゆえに、「体は変えやすい」のは確かです。そこでもメンタルが大きく問われるのは無論ですが、「メンタルはフィジカルに支えられ、フィジカルの強化にも使える」のです。

 となると、パワーの上限をマックスまで上げていくのは、トレーニングとして理想的なことです。

しかし、それは、そのパワーを全開で使うのではありません。それをもって微妙な変化をつけられるようになるためということを忘れてはなりません。

○マックスとメリハリ

私が最速100キロのボールを投げたとして、下限は、ストライクが入るなら60キロ、すると、60~100キロしか変化がつけられないのに対し、150キロが投げられたら、その2倍以上の変化がつけられます。まあ、60キロは使えないでしょうから80~100キロと80~150キロ、その2つを比べても、どちらが有利か、その差は歴然です。失敗するのは、150キロのピッチャーでも、150キロでしか投げないときでしょう。

○歌のパワーとメリハリ

これは、歌や芝居のメリハリに置き換えられます。声量でいうと、デシベルとなりますが、110デシベルくらいをマックスにして、70~100デシベルを自在に使えたら70あたりだけで歌う人よりもメリハリが付けやすいでしょう。マイクを使えば50~70でも補えますが、やはり、口先でのコントロールでは、パワーやメリハリに欠けるのです。

○特化する

 体もあり、フィジカルもあり、メンタルもあった上で、テクニカルに特化するのなら、鬼に金棒です。そこは「己を知る」ことから始められることでしょう。そして、どこに絞り込むのかということです。

総合力があっても全て平均点では、プロでは難しいのです。一つでも最高のものがあるか、2~3の準最高のものがあり、それをうまく組み合わせられるかです。その上で、それを攻めとして、守りとしては平均点以上の固めができるかが問われるのです。

○価値の価値観

 すぐれたアーティストは、「人を感動させられたらよいのであって、どのように感動させるかは問題ではない」というのが、とりあえず私の頭にあることです。

しかし、アーティストを志願する人は、どうやって感動させられるかを考えているでしょうか。大体は、「どうすれば歌がうまくなるのか、演技力が上がるのか」を考えます。しかし、そこはトレーナーに任せたらよいのです。

どちらにしても、この場合、「うまくなる」「演技力が上がる」というのは、「感動させる力をつける」というように結びついていないことが多いのです。それは、価値に関する考え方、まさに価値の価値観といってもよいかもしれません。

○安定したパフォーマンス

 エンターテイメントなら、売り上げや動員数が重要な指標になります。消化ゲームのようなステージを重ねている歌い手の多い現在では、創造と消費との関係から見直すことも必要かと思われます。

数(量)をこなした上でのコンスタントな仕上がりを求められます。そして結果を出すこと、それも、できる限りマックスの結果を出すことです。

そのために変えられるところ、変えてよいところと変えないところ、変えてはならないところを、どのように見極めるのかがトレーナーの最大の腕の見せ所です。そこは何とも奥深く難しいのです。

○結果とエンターテイメント

 アートや芸は「結果オーライ」の世界です。狙って、よい結果をとれるものではありません。ベストパフォーマンスをいつも念頭におきつつも、今は今のよい結果を目指すこと、そのための準備と詰めを怠らないこと、その体制を日頃から具えておくことが肝要です。

一曲をうまく歌うこととステージで全体の見せの構成では、エンタメでは、後者が全てといえます。声と歌、歌と音楽、歌手と出演者(演奏者ほか、全て)との関係も似たようなものです。

○大局観

 パワーとバランスでは絶対的にバランス優位に、それがステージ、歌でも問われるとなってきたのなら、ヴォイトレもそうなるのがしぜんな流れといえましょう。

なんせ、歌手が48人というなら、紅白歌合戦でも目一杯、4時間かかっていたのに、今や、同時に登場し、一曲5、6分で演出してしまうのです。こうなると、歌手の力でなくステージパフォーマンスの力としか言いようがありません。まだ人間が出ているだけよいとは思うのですが。いえ、これでは、少しずつ、人間は不要となり、AI、ヴォーカロイドへの置き換えが進んでいくでしょう。

○ステージ経済

 バランスで最高の勝負をしていると、パワーが最大でなくてもよいのです。もちろん、平均点以下に下回っていてはどうにもならないはずです。しかし、それでどうにかなっているのが今の日本の、ステージなのです。まさに日本そのものと歩みを同一にしているのです。

となると、長くは続かない、それなのに、続けるだけのシステムで残していっているのです。歴史上の教訓では最悪の滅亡となる兆候です。(そこに触れると収拾がつかないので、ここでは、省いて別の機会に記することとします。)

○習わしは変わる

 パワーだけで雑なのは、デビューまでの特徴といえるわけです。そのパワーで10代、20代に世に出てから、走り続けるのが、これまでの世の習わしというものです。なかには、20代から30代で伝説となって夭折する人もいます。

しかし、それが40、50代はおろか、60、70代まで走り続けるのが当たり前となると、事情が異なります。しかもストイックでヘルシーで、好きなことをやり続ける健康優良児として求められると。これまでの習わしは大きく変わっていっているのです。

○人間の感覚、特に聴覚における錯覚

 アートはイリュージョンなのですから、どのようにマジックを使うかというのもテクニカルな技術となります。声のよさ、歌のうまさが同じでも、プロとなれるのかどうかの違いは、そうしたところへのセンスが大きくものを言うのです。

 人が感じることに敏感というのと、自分が感じることに敏感というのと、そうしたセンシブルが創造に結びつくのと、この3つの関係は、けっこうあいまいで、捉えにくいのです。

人間ですから、思春期などにそれが研ぎ澄まされることもあれば、歳と共に人生経験のなかでいろんなことが生じて深まる人もいるでしょう。案外と声や歌に現れやすいものです。それが大きく変化したり上達したりする例を、私はたくさんみてきました。

○意味と信心

 これまでも「無意味なトレーニングとは、何か」をずいぶんと考えさせられてきました。

エビデンスがなくても、いや、ほとんどないのですから、トレーニングに根拠や意味を絶対的に問うても難しいといえます。

トレーナーは、ヴォイトレを奨励する立場にあるので、それらしい理屈をつけて、そうした意味を信じられるようにする役割を負います。

「どうなるかわからないけど、やってみましょう」など、本音で言えるのは、かなりの信頼関係の得られた相手か一流のプロとの間だけです。まず、信心から効果は出てくるのですから。

○答えない良心

「直観的に判断したことへの説明を求められる」と、まず、答えるのか答えないのかに迷うのが良心だと思うのです。それをしゃあしゃあと答えてしまうのは、親切、かつ物知りのようで、人を伸ばすには、あまり向いていない人だとわかってきました。

その前にそういうトレーナーを選ぶ人は、まだ、本当に覚悟をもち、本気でやろうとしていないということもいえます。本人は頭で本気で熱心なのですが、その分、見えなくなってしまうという人もいます。

「うまくいけば」「運がよければ…」で、選ぶなら、人あたりとサービス精神のあるトレーナーがふさわしいでしょう。

○アティチュード

 姿勢や呼吸ということばを使わざるをえないことが多いのですが、できるだけフォームということばに置き換えて説明してきました。しかし、フォームというのもあいまいです。

そこには、フィジカルに合理的な動きのとれる肉体強化をもち、メンタルとしてそれを十全に発揮できるだけのものを具える、つまり、構え、スタンスがいるのです。

そこで「スタンスができていない」とも言いたいのですが、これまた、伝わりにくいものです。気構え、心掛け、意欲、態度というか、モチベーション、アティチュードのようなことです。

○起声のタイミング

 発声にタイミングは、とても大切です。呼吸のキープや切り(ブレスの音)はわかりやすく、これまでも多くを注意として挙げてきました。指導にオノマトペを多用したのは長嶋監督でしたが、そこは、聴覚を含めての五感の鋭さがあったのでしょう。

ハイレベルとなると入り方、いわゆる起声、アタックが安定していくのです。そうはいっても、そこに絞り込んで行うとうまくいかなくなることが多く、バランスとして全体、量から入る方がよいという例です。

○起声の難しさ☆

たとえば、1,2,3,4、1,2,3,4とすると、最初の1、その切り出しに呼吸、そして声(発声、共鳴)にするのが難しいのです。しかし、4のあとの1は、比較的うまくやりやすいです。それは、すでにフレーズで流れているからです。車の運転で、加速より発進が難しいのと同じです。

 何であれ、始動には0→1と最大のエネルギーがいるのであり、1→2→3の方が楽なのです。そのためにイントロ、前奏などもあるのです。電話で「もしもし」と声をかけるのと同じです。

 ステージでの1曲目前にブレスやハミングのトレーニングをしておくとよいでしょう。動きがゼロになるのをなるべくなくし、0.9くらいにあげておくためにしておくのです。

○みえない世界

理詰めで、ものごとを突き詰めるのが、物理学です。心のように、みえないものについては心理学です。でも、ものもみえなくなるから、心と同じようになるのです。

量子論は、もはや、哲学や宗教に近いようにも思われます。

現在は、私が選んだ結果としてあり、時間も空間も超えて、それは根源のものから繋がっているとなるのです。

 みえない世界で音を聞き続けてきた私に、そこにみえるもの以上の世界があったのは、まぎれもないことです。

○「絶対」はない

 「ものごとに絶対がない」のは、経験からも察せられることです。こうして、ことばにしたからといって、それが自分の考えていることと一致するとは限りません。TVをみて、そこに取り上げられる人が、いつもそういう服やメイクと表情をしているとは思わないでしょう。

つまり、何事もしぜんであるがままには、観測できないのです。つまり、「こうだ」と自然なままに、客観的事実として断定できることなどないのです。

○レッスンの特別な状況

レッスン、トレーニングでも同じです。相手やトレーナーが介在すると、すでに特別な状況となるのです。「あいまいで確定できず絶対的でない」ゆえに、しぜんに捉えておく方が「絶対に正しいもの」などを追求するよりも現実的で真理なのです。

自分=人を自然の外においてみることができないように、トレーニングも自分を外において客観的、絶対的など求めても無理なのです。

それゆえ、私は、これまで「トレーニングは各論(個人・特殊)であって、総論で問うても無意味」とくり返してきました。

物質が粒子でありつつ波動であるのなら、ものごとも常に揺らいでいるのです。その加減をよきように整えるのです。いい加減とは、言い得て妙なことばです。

○「正解」にとらわれない

喉の位置などを「正確に」などと客観的に観測すると、その一瞬を、どこかに固定されざるをえません。それは、解剖学のように、死んで動かなくなった状態です。波動が粒子になったように固定されます。動きの中の1枚の写真のように確定してしまうのです。

しかし、その写真は、すでに選ばれたもの、現象として取り出されたものにすぎません。そこに動きは全く入っていないので、全く違うということです。これを「観測問題」といいます。

○介入と非局在性

ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」というベストセラーがありました。現実化したのは思考、選択した結果ということです。

 芸術は、時空を超えると言ってきましたが、あらゆるものもまた、そうなのです。そして流れている、つまり絆なのです。

「今、ここ」しかないし、私自身が介入すると、「今、ここ」としか現れないのです。なのに、それは、同時に過去や遠くに離れたものとも関係しあっているというのです。つまり、非局在性をもつわけです。

○固有振動数

 ものが振動で共鳴、共振するとき、その振動数は決まっています。これを固有振動数といいます。

最近は、これについて、体内の細胞や臓器との関連で研究されています。固有振動数の乱れで病気になるなら、それを整えて治すという考え方です。

実際に音楽療法なども使われています。自然のもの、食べもの、香料、ハーブ、温泉などでの治療も昔から行われています。歌やことばも同じように整えるものとしてあるのでしょう。

「発声の周辺」

○固さをとり、自在になる

姿勢については、立っても座っていても、糸で頭のてっぺんをつるされた操り人形のようにイメージします。これは、発声に限らず、多くの分野で、姿勢やフォームの例えとして使われています。ちなみに、喉の喉頭も、筋肉で吊るされ、ぶら下がっているのです。

そこで、野口三千三の野口体操ほか、いろんな体のメソッドには、ゆらゆらと動かす、海藻の漂うようにとか、金魚の尾びれのように揺らす、緩ませる方法など、多くのメニュがあります。坐禅なども、座るときにおもむろに左右に揺らしてから、少しずつ、その揺れを小さくしてピタッと定めるとよいようです。

 発声のトレーニングメニュにも、歩いたりボールを受け渡したりして行うのがあります。これも固さをほぐし、心身の柔軟な状態を取り出すことが狙いです。

○声と感情の解放

 感情は、頭では抑えられません。「頭ではわかっているのに…」となるのが、感情です。

それを、これまでの時代、大半の人間は、声を出して解放していたのです。ですから、声が出せないようでは、痛みだけでなく、大きくストレスをためることになります。声を抑えると心身に歪みが生じかねません。

○スポーツに学ぶ

スポーツやダンスでは、それなりに慣れないと緊張が抜けず、いつもの感覚さえ働きにくくなっていることが自覚できます。ですから、その基本動作、型あたりから入る方が、ヴォイトレの最初の感覚づくりには、向いているように思います。ヨーガや気功や武道などでもよいのでしょう。

○急に変えない

発声の必要性からは、運動は歩くことでも充分です。ランニング、ジョギングなどは初心者には、やや過剰です。体力、筋力の強化になるのですが、人によってはいきなり行うのは、ハードにも思います。慣れていないために疲れたり固まったり緊張が解けなくなるなら逆効果です。

声は微妙なものなので、声以外の日常の条件は、少しずつ変えていくようにしましょう。

○環境を整える 

 練習には、できるだけ静かな広いところ、室内なら天井の高いところが理想です。

吸音、遮音については目的によります。モニターや反響音よりも、体の感覚で、よし悪しを判断できるようにしていきましょう。

○呼吸トレーニングの是非

 無意識下の潜在能力を発揮させるには、呼吸が、もっともアプローチしやすいものとなります。意識的にコントロールもできるし、無意識でも働いているからです。

 変わることは、必ずよし悪しの両面を伴うものです。ですから、「呼吸の強化などはしない方がよい」と言う人も少なくありません。

しかし、メリット、デメリットの両方があると知った上で扱うのなら、何もしないよりはずっと上達に寄与します。

足らない人は補わなければなりません。そこで急激で過剰なトレーニングをしようとすると、一時的に乱れるのは当たり前のことです。

○トレーニングの必要性

トレーニングは、目的を早く達成するために行うというだけではありません。人間、トレーニングによってでないと到達できないレベルもあります。そちらの方が、私は、ヴォイストレーニングの本意だと思っています。

何もトレーニングもせずに、歌ったり話したりするのに反対というのではありません。目指す目的やレベルによります。また、何をもってトレーニングというかによります。

私たちは、誰でも話したり読むこともトレーニングしてきたから、今、できているのです。

○トレーニングで気をつけること

 一見、トレーニングというイメージは、ハードなものに思われます。だからこそ、その逆のことを失わないようにしてください。

大切なことは、しなやかさ、なめらかさ、伸びやかさとでもいったらよいでしょうか。

イメージやことばは、自分に心地よいものを使いましょう。

日常のいろんな出来事が心身には大きな影響を与えるからです。それをイメージやことばで、うまくリセットするのです。たとえば、トレーニングと次のようなことばを結びつけてみましょう。

□内なるエネルギーを感じる

□疲れを感じない

□だるくない、すっきりしている

□よくみえる、聞こえる

□空気がおいしい

□ご飯がおいしい

□ぐっすり眠れる

□目覚めがさわやか、すっきり

○ほぐすことと学ぶこと

 両手を上に伸ばして背伸びをして戻します。3回くり返してみます。自分の体を感じましょう。

体の疲れがほぐれていくのを感じてください。そのときによって、感じ方も違ってくると思います。そうして心身の一体感や脱力を学んでいきましょう。

声は、学びにくいので体から学んでいくとよいのです。あるいは、これまでの体のトレーニングの経験を思い出していくと、学びやすくなります。

○ヴォイトレの虚弱化☆

 ヴォイトレのメニュに、心身のリラックスへの配分が多くなりました。これは、教え方が丁寧になったこともありますが、昔よりも、そこが劣っている人が増えたことを表しています。

特にヴォイトレに関わる人にそれが多くなったことでしょう。何よりも、トレーナーにもそういう人が多くなったのだと思えます。つまり、分野として虚弱体質化しているのです。

○パワーコントロール

本当に学ぶのは、心身のリラックスなどではありません。そこから得た感覚を声のパワーコントロールに活かすことです。そこが結びついていない解放目的のメニュが、いかに多いことでしょうか。それだけでは何にもなりません。☆

 脱力にも程度があります。極端な話、顔が緩むと鼻水や涙が出るし、下の方なら失禁、脱糞してしまうのです。

○不しぜんを自覚する

 立つということ自体が、緊張で支え重力にも反しているので、不しぜんなことです。

人によっては、横になって始めることをお勧めしています。

 息を吐きながら上体を前屈します。声や体との連動を確認してみてください。しぜんに働きやすくなっていますか。

呼吸は、寝ているときは無意識で、腹式呼吸が優位です。何かをするときには、息を止めたり長く吐いたり、急に吸ったりして不しぜんになります。せりふや歌をそうした動きからみると、多くの人にとっては、不しぜんなことを行っているわけです。

○不しぜんをしぜんにする☆

 普通の体での不しぜんなことを自然にするには、“普通でない体”にするしかありません。感覚やイメージでもかなり変えられますが、徹底した差はつきません。このあたりもまた、目的とどのレベルを求めるかによります。

他の才能があれば、あるいは、他の才能で補えば、歌やせりふは、総合的なものですから、かなりのレベルで早く扱えるようにもなります。

ただし、普通は、トレーニングして、声の力をつけるのが正攻法でしょう。他の才能がある人も、そうすれば、さらによくなります。正面から取り組むと、声の可能性と重要性に気づかないはずはないのです。

○伸びとあくび

 頭を使うと緊張して疲れ、眠くなったりあくびが出ます。それは、身体としての頭=脳を守るためです。しかし、熱中して集中しすぎたり、ストレスで疲れすぎたりしていると、そこに気づかないまま疲弊してしまいます。

両手を伸ばしてあくびをしましょう。その動きが、私たちをしぜん体に戻すきっかけになるからです。そういう動きを利用しない手はありません。

○首のリラックス

 首筋が立つ、これは、胸鎖乳突筋のことですが、怒ったときや悲しいときに目立ちます。首が緊張しているのです。その状態は、発声によくありません。

首筋をほぐします。首を上下、左右に動かし、左回り、右回りと回します。

○ローテーション☆

どのメニュも、回数や行うテンポは、あなたが決めてください。そのときの状態に合わせて決めるとよいでしょう。そうして、トレーニングを主体的にしていきます。

毎日、決まった回数がよいと思うなら、それでかまいません。

ローテーションは、一定期間、同じにしますが、特別なときは変えてかまいません。また、随時、見直しては変えるかどうかを考えるのです。

いつも同じ時刻や同じタイミングに一定の時間をとることを守った方が、続けやすいしチェックにもよいでしょう。

○丹田とベルカント

 呼吸を主体とした声のコントロールのために体の感覚を深めましょう。

 日本では、古来、呼吸の中心、ひいては、歌やせりふの源を丹田と表してきました。丹田呼吸などと言われて、多くの人が継承してきました。

しかし、そこから、方法が派生していくと、偏りや誤解が生じるものです。ベルカント唱法などと同じく、なんとでも都合よく、実体を伴わずに使われてしまうのです。

そこで、私も、こうしたことばを使いにくくなってしまいました。ことばのもたらすイメージに個人差があまりに大きいと、結局のところ、使えないのです。

○重心

 丹田を重心のように考えてもよいとは思っています。ただ、重心は、移動できます。上下左右、前後にも動きます。足を開いて左足に体重を移すと重心もそのまま移動するわけです。この動きからでも、いろんな感覚、センサーの能力を深められます。

揺らす、揺れる、緩むなどと同じような解放の動きです。

動いて、鈍いところ、こったところなどがあれば、こうしてほぐしていきましょう。気分、気持ちに敏感になってみましょう。

そして重心を納まるところへ戻してみましょう。気分がおちついてきたら、そこがよいところなのでしょう。

○部分と全体

気持ちよくなり、気分がよくなり、体も表情もほぐれてきたら、表情も微笑んでいるようになるでしょう。こういう状態でトレーニングを行うのが理想です。

 頭、顔、胸、腰、手足、その指先まで触ってみましょう。そして全身のつながりを意識するのです。ほぐれて心地よい、「何となく」でよいのです。一時、日常のこと、仕事のことを忘れましょう。

○指示下と自己流☆

トレーナーの指示に従って行っているうちは、なかなか主体的になりにくいものです。

強い口調で強いられたら、その通りに行っていても、どこかで反発したり偏ったりしてしまうのが人間です。人には、自他の区分があるからです。

 一方、自らが感じたり思うままに行うと、しぜんな状態でやりやすくなります。そこは原点です。しかし、反面、そこに居着いてしまいがちです。すると、いつまでも同じ状態から抜けられず、上達へアプローチできないことにもなります。自己流となると、それは、周りの人にも認められないし、しぜんな状態にも反するということで可能性を閉ざしてしまうのです。

 他人の指示に応じつつ、自ら主体的にこなしていきたいものです。他人の指示を共同作業として、いや、むしろ自分の望む方向へ一致させていくのです。主体と客体が一致するのが理想といえます。

○原点は赤ん坊☆

 

小さな体でも、赤ん坊の声はよく通ります。遠くまで聞こえます。その声量にさえ負けているのなら、学ぶことはそこにあります。しかし、その声を出せるようになったところで何ともなりません。

小さな体でも、あれだけの声を出せるのだから、私たちはもっと大きな声を出せると思えばよいのです。しかも、かつて自らも出してきたはずです。そこを忘れてはなりません。

それを妨げているのは何かということです。その妨げを除くことで原点に戻れるのです。赤ん坊は目標ではなく、原点なのです。

原点に戻っては、また歩んでみる、そのくり返しです。赤ん坊の状態がよいといっても、赤ん坊になったら何もできません。そういうことです。

○赤ちゃんとライオンの発声

赤ちゃんは、腹式呼吸と大声の発声の見本として、よく取り上げられています。小さな体であれだけの大きな声が出るところで、体、呼吸の使い方の一体の感じの例として、最適なのでしょう。でも、喉声ですから、よい声とはいえないでしょう。

似た例では、ライオンの吠える声も、ときどき例として、使われています。最近も、ある歌手が動物公園で研究する姿が放映されていました。

何事からも学べますが、学ぶところをしっかりと設定することです。人から聞いたからといって、まねをしているだけでは学べません。

○公の声

ときどき、学生さんの就活や面接でのヴォイトレを引き受けることがあります。ビジネスや公式の場では、よそいきのことばと声を使うので二重に難しくなるのです。外国語で話すようなものですから、そんなに簡単なことではありません。

しかし、役者の初舞台と同じで、慣れていないだけのことです。相手は、慣れによって1、2年で誰もが克服できるところをみているのではありません。慣れでは何ともならないところ、本気度や個性、仕事の能力を見ているのですから、あまり囚われないことです。その上で、ヴォイトレとことばの練習をしておきましょう。

○声と血管☆

 「人は、声とともに老いる」これは、アメリカの医学者、ウィリアム・オスラーの「人は、血管とともに老いる」のことばから、私が仮借したことばです。声帯への補給路は、一本の血管ですから、血管と声とは深い関係にあるわけです。

血管は、体中に10万mほど張り巡らされています。毛細血管ともなると、髪の毛の10分の1、赤血球がギリギリ通れるくらいです。毛細血管は、修復されるし新生もします。しかし、老いていくとゴースト血管となります。20代から60代までで4割も減るそうです。シナモン、ルイボスティー、ヒハツ(ヒバーチ、ロングペッパー)がよいそうです。血流によいのは、玉ねぎ、ショウガ、酢です。

○自己中心社会と声

 自分の声を聞いて、逃げ出したくなるのは、マイナスの現実を前にしたときの自己愛です。ある実験では、声を褒められた人は、自分の声の録音を聞くことを嫌わなくなるといいます。

「ハロー効果」と「栄光欲」ということです。

今は、モニタリング社会です。皆、どうみられるかをモニタリングして、どう見せられるかを演じているといえるのです。それは、カメレオン社会ともいえます。本音と建て前が明らかに違うのに、同調してみせるからです。

○話し方の前に声

声は、自信、意欲、本気、気構え、誠意、信頼、情熱、心、気持ちを伝えます。

 自分の声は自己流の発声、くせの塊です。自ら習得していないし、習得するものとも思っていないからです。そのため、素顔のまま、いや、髪ボサボサ、ひげボウボウで人前に出しているようなものです。したがって、自分の声は、聞くのも嫌となるのです。

○話より歌から

歌の発声から話に入るのは一段上から切り込むことです。これまでの話し声を離れて、少しパワフルな声を感じることで、声に必要な要素が整っていきます。心身の力が加わるので、しぜんと一段上のスキルが身につきます。

カラオケの歌唱では、話し声と同じくらいかそれ以下の声量で歌っている人が多いです。声をマイクで変えているのでは、元の声は、そう変わりません。生の声での歌の力を活かしてみることです。

歌手や俳優でなくても、声のトレーニングは必要と思われます。それで歌手や俳優のような声になれるから、やってみる価値は充分にあるでしょう。

○呼吸と発声と感情のアウトプット

声が出やすくなると話し好きになるものです。歌も発声も、それ自体、ポジティブなものです。それは、一歩、前に踏み込んでいるからでしょう。

 心身によいのは、姿勢、呼吸、発声にあらゆる心身能力が一体として使われるときです。健康づくりも兼ねられます。やる気も出ます。

○声のアドバンテージ

声で説得する、声で本音を見抜くなど、声の勉強をすると、コミュニケーションにおいて、大きなアドバンテージとなります。

人は、声で値踏みされてしまうものです。声のマイナス面は、明らかにハンディキャップになるのです。不安で頼りない声の人には、仕事も他のことも安心して任せられないでしょう。声は、外見の見方までも変えてしまうのです。

○自分の声の問題点

 自分の声の問題を整理してみましょう。

喉の痛み、声枯れ、高音域が出ない         

声量小さい、聞き返される、通らない、細い 

声がこもる、幼い、不明瞭な発音、

など、何でもあげてみましょう。       

○体を変える

呼吸に専念する、これは行動から心を変える一例です。

足先からほぐす。

重心を落とす。

そして、全身から出す声を目指しましょう。

声そのものは、一人ひとり違います。ですから、個性そのものといえます。

○吸うこと、吐くこと

充分に吸えない人、吐けない人が多くなっています。

よくない声を出してみる。

よいと思う声を出してみる。

そして、チェンジする。

声をとりまく環境を変えていきましょう。

それは、違う場へ行けばよいのではありません。

相手に自分への認識を変えさせていくのです。

○ステージに立つ声

ステージでの声は、日常の中でも人と会うとき、また、全てにおいて通じる声でありたいものです。

準備して完成度を少しでも高めていきます。

声の表情に気持ちは、出ます。声に対峙することです。

鼻歌からでも、かまいません。

不安があっても、いつも今日からスタートです。

そして、失敗しては学んでいくことです。

○先達の判断

幼いころ、自分を超えた存在は、親でした。次に社会の先輩、学校の先生などになります。そう考えて顧みると、今の自分のこともわかりやすくなります。

 そのとき、自分が判断せずに、見たり聞いたりしていることは、しぜんに身についているのです。しかし、しぜんが理想というのではありません。周りの人の影響が大分、逸れてもいるのです。

○指月の指

「指月の指」とは、禅語です。月を指した指は、忘れるようにということです。

 悪いほど偉ぶるのは悪人だけと思っていたら、病人もそうらしいです。

○一と全

一つのことが全てで、全てが一つにつながっているというのが、全能感です。

私は、声で、それを個=孤として感じてきました。もっとも印象に残ることには、いつも声が関与していたのです。これは当然のことでしょう。人が関わっていくことの大半は、声で介されているのですから。

○比較でのネガティブ

 私は、相対的に比べて、判断をしています。それが仕事でもあるのですが、すでに偏見でもあるのです。

比較するとネガティブになりがちです。よくないところをよくするのが練習ですから、そこにこだわって見つけるということを課していると、欠点を洗い出すことばかりに目がいきがちです。要注意です。

○好かれるトレーナー

好かれるのは、よいところをみつけては褒めてあげるトレーナーです。しかし、それでクライアントが心地よくなっても上達はしません。声も人も育たないのです。

こと声となると、メンタルや暗示、イメージの効果が大きいので、急に2、3割もよくなったりするから、そういう人や方法が信じられてしまうのです。

○クローズでのレッスン

 およそは、最初にトレーナーの思う路線が引かれ、そのトレーナーの価値判断に基づいて声が慣らされて出てきます。これは、まねの上達法と同じです。

まねをさせると、即効で、伸びることも珍しくありません。早ければ、数日、遅くても1、2年で、かなり鈍くて3~5年くらいで、それなりの結論、つまり、限界が出ます。

 そこで壁となって、その後、伸びないのです。元々の伸びしろを使い切ってしまったためです。

つまり、今の体の条件の中での潜在能力を調整によって出したところで終わって、あとは、より小手先の技に走った分、伸びるといったところです(大きな意味では、最初から小手先なのですが)。それに気づかないのは、レッスンが一人のトレーナーとの間でクローズされているからです。

○条件を変える基礎

今、持っている条件そのものを変えなくては、大して上達しません。そのベースである器が大きくならないからです。それを行うのが、本来、基礎トレーニングです。

 ヴォイトレそのものは、将来のために行うものですが、将来は将来、今は今として、結果を出すことも必要です。

しかし、長期的なレッスンの目的としては、安易に歌やせりふがよくなったということでは満足しないことです。

声そのものを今のレッスンできちんと感じることからです。その時間を体験する、それを重ねていくということです。

○原点に戻る

一回のレッスンでもわかる人はわかると私は思っています。

いろんなところで学んできた人ほど、基礎の基礎を入れていないのに、頭で考えて、わからなくなっていることが多いようです。

トレーナーは、神ではないのです。そのトレーナーのひいた路線にのっかってしまい、いつしれず鈍ってしまって気づかなくなってしまっている人が多いのです。最初の1つ、2つのちょっとした効果で満足してしまいがちです。自ら感じて深めるのを忘れてしまうからです。

声を出す、その原点に戻って、もう一度、積み重ねていきましょう。

○地に足をつける

目標をもつことを急ぐあまり、他の人のようになろうとしたり、他のところへ属して頼ろうとなってしまうケースは多いものです。「プロダクションを紹介して」などというのも、その病の一種です。

レッスンと同じことで、教える必要のある人は、教えてもわからず、教えなくてよい人は教える必要もない、紹介しなくてはいけないような人は紹介してもうまくいかず、うまくいく人は、紹介しなくてもうまくいく、そのように世の中は動いています。

何であれ、世の中に対して、できることで仕事をしていくことです。それをしっかりとしていくことで接点がついていくものです。

○プロダクションの紹介

どこかにあなたを紹介しようという人がいるなら、それは、どこにメリットがあるのかを考えることでしょう。あなた自身の才能にでしょうか。

お金を払って紹介してもらっても、そのお金は紹介者か紹介先に行くだけです。芸能プロダクションには、レッスン料の徴収などで運営しているところもあります。

そのお金を、彼らはあなたではなく、価値のある人に支払って仕事をしてもらったり、スカウトに支払ったりすることでしょう。また、あなたのような“お客”を集めるのに使うでしょう。

○教わること

教わりはしても、それは、一方的に与えられるものではなく、それによって気づいていく、判断の基準とそれをどう満たすのかを独学よりも早く深く知るためです。

次に行くのでなく、今のことにより深めていくものがあることに気づきましょう。そこから自らを知ることも、発現することもできるのです。

○流れのままに

 誰がどう教えても、どんなレッスンでもトレーニングメニュでも、どんなトレーナーでもよいと思うのです。何であれ、誰であれ、学ぶところはあります。

それをきっかけに、内を深めていけば、自ずと次のステップがみえてきます。

すると、誰の何をどう必要とするかがわかってくるのです。第2、第3のステップで、必要な人や仕事に出会っていけばよいのです。

○流れを切る

出会いを妨げてしまうクローズな場、仲間意識、師弟関係こそ、ある面では、表現者にとって、もっともリスクのあることです。

そこに甘んじるくらいなら、その程度の能力、気づき、学びであり、そのくらいのレッスンやトレーニングです。それはそれで充分、なら、分相応といえるのです。一時、そうであっても慌てる必要はありません。気づくこと、そこがあってこそ、流れが切れるのです。

○呼吸と三昧

 呼吸から感じてみましょう。生涯で呼吸は5億回、心臓拍動は20億回と言われています。

呼吸に注意集中して、一心不乱になりましょう。呼吸三昧です。三昧とは、没頭することです。

○縁起

 個人と関係性とは、仏性と縁起ですが、これは、どちらかというものでなく、両方が伴っていくものです。外から押し付けられたり教えられたりするのではなく、内から充分に出していくのです。

基本というのも、外のものをまねするのではありません。まねすることを契機として内にあるものを引き出すのです。

「離見と声と体」

○一人ではみえない

 自分の身体のうち、みえるのはどのくらいでしょう。股間や頭の後ろ、骨、内臓など皮膚の下はもちろん、見えないのです。顔は、鏡や録画したもので見ることはできますが、そのままではないでしょう。病院でレントゲンやスキャン画像をみても実感できません。

声も同じです。スピーカを通じても、録音を再生してもリアルではありません。なのに、他人にはまる見え、いえ、まる聞こえなのです。まして、それを、踊るにしろ歌うにしろ、コントロールして出すのが簡単なわけはないのです。

 

○自分ではない

 自分が自分ではない状態、焦って慌てているとき、事故などで茫然自失なとき、酔っぱらったとき…などを考えてみると、人前でのステージで緊張したりあがったりしているときというのは、自分が自分であろうはずがないと思うのです。

 そんな状態に備えずに、自分の肉体を鍛えたりダイエットしたりして、その先に何をみているのでしょう。じっくりと考え、自分を取り戻しましょう。

○外から形づくる自分

私たちは、裸を衣服で隠して外に出ます。裸で自分だと見せられる人はそうはいないでしょう。メークをし、着飾り、ブランド品を身に着けると、イメージを変えます。

「だから、その人の正体は、その声を、肉声を聞くことだよ」と言ってはきましたが、もっとわからなくもなります。みえないんですものー。

それでも、服を着て、化粧で顔のパーツを書き込み、形を整えると、透明人間にペンキを塗ったように形が現れます。ます。

お風呂やプールで裸になり、お湯や水に触れて体を実感してみましょう。スキンシップは、外側からの圧で自分を感じられます。自分を感じていくには、他のものを必要とするのです。

 リップは、口元を口唇にするのです。それは、秘部を露わにすること、イメージとして、ですが。

 自分を感じるのには、他人を必要とするのです。それをつくりあげていくと文化となります。身体を加工したり飾ってファッションとするのも文化です。

○排出物への親しみ

 身体の内側から外に出ると、汚いものとなります。鼻水、唾、小便、大便、ゲロ、垢、フケなど、涙を除いて、きれいと思われるものはありません。

でも、内にあるときはそうは言われません。内といっても体内ですが、体の中ではありません。穴や腔や筒というところです。そのうち、無菌ではないところは、腸も含め「体外」です。

そういった“汚いもの”は、文明が遠ざけてきました。しかし、動物や幼い子には、親しいものです。「うんこドリル」は大ヒットしました。

泣いたり、呻いたりする声も出していたものです。それは嫌なものである一方、快感であるという面もあるのです。

○真相

真理を求め続けること、たとえば、ミステリー小説を読んでいく途中、その真相がわかるとミステリーは終わります。そのストーリーは、半ば死ぬわけです。一冊が終わることなく、謎が解かれず終わるのは、残念なことと思います。

しかし、多くは、その後も少し続き、余韻をもって終わります。余談などでまとめるわけです。

最初に犯人など、謎の答えが示されて、それを知った上で読んでいくミステリーも少なくありません。

人生も、どう紐解いていくのか、紡いでいくのか、ですね。

○八雲と声☆

小泉八雲は、左眼は失明、右眼も強度の近眼でした。その分、聴覚が鋭かったともいえましょう。

見るのは主体的、聞くのは受動的です。聞くのは、体感し身体的にくるものです。

彼が、船のエンジン音を「コトシヌシノカミ オオクニヌシノカミ」など「カミ」と呪詞のように聞いたという話がありました。霊的なもの=ゴーストリーは、魂です。欧米でも、アイルランドやギリシャは多神教です。

神道を理解することは、日本人にとても重要なことです。古事記訳は、イギリスの植民地支配上にあった学術研究だと聞いたことがあります。

八雲は、人は、盆踊りに魅了され、懐かしく感じるというのです。鐘の音、物売りの声など、日本には、豊かな音、声の文化がありました。

○話術と胆力☆

言葉を超えてメッセージとして伝わる分が、8割くらいあります。それらを総合して、話術となるのです。姿勢、表情、眼差し、身振り、しぐさ、声、間などに、その人の信念、志、使命感、人柄などが伝わるのです。

スピーチは演じるものです。自分から1つの人格が出てくるようなもので、なり切るのです。その人格の使い分けが必要なときもありましょう。

 「何を語るか」の前に、スタンス、「どういう立場で語るか」が重要です。

 そのためには、聞き手の声、無言の声を聞くことです。何を語るかではなく、聞き手に耳を傾けるのです。聞き手の関心や興味に応え、共感を得られるようにしましょう。そこでは、細やかな感受性が必要となります。

そして、場に呑まれないこと、場を呑むこと、胆力が必要です。

○重さと暗さ☆

 重さ、というのでしょうか、ある意味での暗さが、人も歌も声にも重要です。重要とは、重い要めと書きます。下積みは、重さとなります。表現を支えるその人の重みとなります。

音楽でも、そこにアンチとして、明るく軽い音楽、イージーミュージックが出てきたのです。メインあってのサブ、主あっての従、派生です。

 

○会って話を聞く

直接会ってこそ、聞いてこそ、はじめてわかるものがあります。しかし、私たちは、そうせずに聞いたり読んだりしただけで、わかった気になっていることが、とても多いと思います。できるだけ本人に会って話を聞いてみましょう。

重みもなく、しぜん体でもない人の話ばかりを聞かされているとしたら、不幸なことです。今の日本の最大の不幸の一つです。

 率直さ、飾らなさ、屈託のなさは好感となります。それと、年齢を重ねての、重ねる=思い、円熟味が、人として問われるのです。

●第三者役

 情熱をもってクールになり切るのと、第三者的に演じることは違います。しかし、この二面は、どんな演者、いや、どんな人でも必ずもっています。

たとえば、自分とトレーナーをみます。ここでいうトレーナーとは、自分のなかのトレーナー像です。

私は、トレーナーだけでなく、クライアントと師事するトレーナーとの関係をみる立場です。

その二者の関係をみる第三者です。しかし、演じるときに、これを自らのなかにもてるとするなら、プロでも一流の演者でしょう。

研究所は、個人レッスンやグループレッスンだけでは得がたいそういう複合のシステムを体制にしているのです。

○ひばりの眼☆

 たとえば、「ひばりの歌は、歌っているひばりとそれを正しているひばりと、遠くから、その二人をみて正しているひばりがいる」ようなことを、言ったことがあります。その役割は、ひばりの母親と大正時代のレコード、まわりの一流の歌手や役者だったと思います。

声を出す、それをチェックする、それで進んでいくのではなく、もうそれはチェックされて出ていて、全体の終わるところからみているひばりがいる、彼女の作品にそう感じたのです。

 木のなかの仏を掘り出す、キャンバスのなかに人物を描き出す、そういうのを歌という時系列のものに当て嵌めるのは難しいことです。

しかし、ひばりにとっての歌は、時間ではなく、空間であり、演じる場で、絵を描くようなもの、立体的な3D=リアルそのものだったのでしょう。

○抑える

 自意識は、自己陶酔、自己愛になりがちです。集中して役になり切っても、そこに必要以上の過剰さ、過度さが出てしまうと台無しです。味付けが濃すぎるのは、薄いのよりも救いようがないのです。

 吟味され、抑制され尽くしたものが、至高の芸です。話も歌も文章も表現ならも同じことでしょう。

政治家や預言者は、役者と似て、課された役割を何十回も人々を前に演じているのです。同じテーマで同じ情熱をもって、人の心を動かし続けるのは容易ではありません。

○二度目で超える

 素人が、純粋に真剣な思いでビギナーズラックを起こすのは、自意識が過剰でないところまでです。もし、「感動的な話をもう一度」と言われ、くり返すと、最初のようにはいかなくなるでしょう。必ず、自意識が変に現れてきます。本当の勝負は、もう一度求められての二度目からです。

再現するには、もう一人の自分としても自意識が必要なのですが、そこで初心が保てなくなります。それゆえに、さらにもう一人の自分やトレーナーが必要なのです。

自意識のコントロールで保てるところを超えていくには、話や声や芸、そして、自分をも消し去らなくてはなりません。その二人を扱う、もっと大きなものに委ねるということです。

○二つの昇華

一見、矛盾する次のようなものが、共に芸に必要なのです。

情熱―冷静

大胆―慎重

厳しさ―優しさ

強さ―弱さ

素直で親しみやすい―したたかで狡猾

真面目さ―おもしろさ

○腹にひびく声

腹を据え、自信たっぷり、覚悟をもって話すことです。腹にひびく声には、説得力、強さ、信じるもの、包容力、ぬくもりがあります。決して早口でまくしたててはなりません。

○感じさせる

何事も学ぶのには、聞くのではなく、感じてください。

間、余韻で語られること、そして、語ることは、黙っていればよいのではありません。気やエネルギーのように相手に働きかけていなくてはなりません。

○自分のことば

 慣れない外国語や共通語より、使い慣れていることばを使うことです。方言でもかまいません。わかりやすく明確に意思が伝わること、印象に残ることが大切です。それは自ら慣れ親しんだスタイルからでよいのです。

それが有用であれば、さらによいでしょう。あるいは、それも必要かどうか、考えてみましょう。

 何を伝えているのかは、何を背負っているのか、どのレベルでの対話なのかです。

a.思想―ヴィジョン―志

b.戦略―戦術―技術

c.人間力

姿勢、目線、間、印象、雰囲気、心持ちが、ものを言います。

○筋肉とエイジング

筋肉は、男性で体重の40%、女性で30%を占めています。筋力のピークは、男性で20代、女性は20歳で、およそ40歳くらいまでしか続かないそうです。一流のスポーツ選手の引退も、そのくらいですね。

誰しもエイジングによる老いは避けられません。老けて老化すると、老年症候群、廃用症候群、生活不活発病となります。活発に若々しく生活することが大切です。

○2つの体力

 体力とは、身体能力を遂行する能力です。

1.全身持久力、2.筋力、3.バランス能力、4.柔軟性、5.敏捷性などです。これらは、行動体力、つまり、パフォーマンスと直結するものです。

もう一つは、病気やストレスへの抵抗力や環境に適応する力といった防衛体力(プロテクション)があります。体力は、気力、知力と並べて用いられます。

○喉力

 声力もまた、体力に支えられています。そのうちの持久力は、長く持続させられるということで、スタミナ、粘り強さでもあります。

 しかし、いくら体力があっても「喉力」がなくては声は枯れてしまいます。

呼吸は、筋肉のほか、心肺機能にも支えられています。それらはトレーニングもできるしチェックもできます。 柔軟性やバランス、敏捷性といった他の要素を忘れずに高めていくことです。

○体力のチェック

 簡単な体力チェックの方法を紹介します。

1.筋力

両手を胸の前で組みます(斜め十字)。

イスに座り立ち上がり、また、座ります。

10回で何秒かかるかを測ってみましょう。

背筋は伸ばし、ひざも完全に伸ばすこととします。男女とも、50代までなら8(~12)秒が普通です。

2.持久力

ややきつめの早さで3分間で何メートル歩けますか。

男性40代360m、女性40代330mが目安です。

○筋力の低下

筋量は、20~50歳で10%減少、50~80歳で30~50%減少します。

筋力も運動しないと30歳頃から毎年、0.5~1%低下します。

握力:50歳90% 60歳80% 70歳70%

背筋力:50歳85% 60歳65% 70歳55%(女性45%)

ベッドレストといって、約3週間、ベッドから降りないと下半身の筋量は2~10%減、筋力は20%減じるそうです。

○体幹筋

 次の筋肉を意識してトレーニングしましょう。

・腹筋(腹直筋、腹横筋、腹斜筋)横隔膜

・背中の多裂筋、脊柱起立筋、広背筋、僧帽筋)

・腸腰筋(大腰筋、腸骨筋、小腰筋)

・大殿筋、骨盤底筋

○サルコペニア

サルコペニアとは、ギリシャ語のsarco(筋肉)penia(喪失)から、筋機能低下症候群、筋量減弱症候群と訳されます。次の症状をチェックしてください。

・ふくらはぎを両手でつかめない。

・開眼で片脚立ち8秒未満しかできない。

・立ち座り5回に10秒以上かかる。

そうであれば、サルコペニアの疑いがあります。

〇座りすぎないこと

座りすぎにも気をつけてください。

sedentary behavior、lead a sedentary life

座りがちな生活のことです。日本人が世界一長く、1日7時間ほど座っているとのことです。

○トレーニングの特質☆

トレーニングの特質について、あげておきます。

やめると元に戻ります(可逆性)。反復によってのみ効果があります。

やや強く(過負荷)

少しずつ(漸進性)

部分的に(特異性)

目的をもち(意識性)

人に合わす(個別性)

時期(適時性)

この6つの要素を合わせもつのです。

○続けるには☆

準備と環境を整え、妨げるものを取り除くことです。

時間を決める

変化させる    

無理をしない

他の人と行う

記録する

報酬、ご褒美を与える

信じる

この7つの要素を整えましょう。

○メディカルチェックの必要

 次の4つのことをメディカルからセルフチェックしましょう。

水分、ミネラルの補給

ウォーミングアップ

クールダウン

トレーニングの可否(トレーニングの時間や強度、医療関係者の要、不要)

○健康寿命

健康上の問題で日常生活が制限されることのない期間を健康寿命といいます。(WHO2000年)

日本人では、約10年も寿命との開きがあります。これを短くしたいものです。

「呼吸論」

○一人で試みる必要性について

ものごとの学び方には、教えられて学ぶ以前にしておくこと、できたら、先にやっておくとよいことがあります。

教えられることは、すでに選択されています。大体は、「それが正しい」という形で入ってくるからです。

1.これまでやっていないことをする

2.何でもよしとしてやってみる

3.極端なことをやってみる

 こういうことは試みられません。

何事も、正誤の判断の前に、経験としてあってもよいことがたくさんあります。そして、それは学びのなかで、行き詰ったときに多くの手掛かりをくれます。

それに対し、教えられることは一つの形、体系になります。これまでにやっていないことをするわけです。そこから形になると、教えられていないことや禁じられていることは、しなくなります。それは無駄を省いているのです。しかし、実のところ、省いているなかで多くのことが落ちてしまうのです。

やってみて正されることよりも、やっていないことは、ずっと多いでしょう。個性やオリジナリティは、そこに潜んでいるものです。ですから、一人でやってみるとよいのです。

○型とイメージ

型は、選択され決まった動きのように思われています。それはローテーションとなり、フォームとなります。習慣となり、基本の型となるということです。

その型をもたらすものにも、自ずと形ができてきます。形は、辿っていると小さくなりがちです。少しでも大きくするつもりで接しましょう。形は同じでもイメージを大きくして試みるのです。

すると、これまでに使っていない脳、感覚、体を働かせることになります。そこで、これまでの習慣、くせがとれたり、もう一度原点に戻ったりするきっかけにもなります。

もたらすものが大切なのに形しかみえず、学ぶことが形をとることと誤解されがちです。型は、形を優先して、本人の自由を失わせることが多いのです。形から動きを感じられるようになると型をふまえて、ようやく自由を得られるのです。

○イチロー選手の型と段取り

イチロー選手は、彼の独特のフォームよりも、その前の段取りが注目されてきた選手かもしれません。彼独自の一連の段取りによって脱力し、心身も柔軟な構えとします。つまり、リラックス、落ち着き、事に備えるわけです。それは、「儀式」とさえいわれます。

本番前にトイレに行くなどというのも用足しだけが目的ではないのです。

となると、フォームより、そこまでの段取りにも型があり、その方が基礎ともいえましょう。

○声を出す

スポーツでよく「声を出せ」といわれます。これは、選手を鼓舞してチームを一体化するのとともに、大きな声を出せば、息が大きく出るのですから、深い呼吸となり落ち着く効果もあります。

しかし、他から強制されたり無理に自己に強いたりすると、力の出す方向を間違えかねません。そこでヴォイトレでは、ゆっくりと大きくしていく、深く広くしていくことをお勧めしています。

○怒に笑

一方が怒鳴ると、他方は怒鳴り返さない限り息が詰まってしまうものです。そこで大きな声で笑うことができたらよいのですが。まあ、シチュエーションとしては無理があるでしょう。

たとえば、深刻な状況では、上司が先に笑わないと部下が笑うことはないでしょう。ですから、深刻なときに笑える人は貴重なのです。その状況の外にいて達観することができたら、多くの問題は消えてしまうものです。

○完全な呼吸はない。

肺のなかの全ての息を吐くことはできません。それと同様、完全なリラックスや完全な呼吸法はありません。目標として目指してもよいのですが、できたとは思わないことです。常に目指している状態がもっともよいのです。

できたと思うと、そこから浅くなります。呼吸は限界まで深まったら、それ以上に深まりません。でも、もっとを目指していると、深いところに安定してくるのです。その最高値には個人差がありますから、それを目指すよりも最高値に最低値を近づけていくことです。☆つまり、安定させること、下振れを防ぐことが重要なのです。

一歩前へ、ポジティブに対するとき、人はけっこうな能力を出せます。しかし、到達したと思ったときには、もう守りに入り、事が難しくなるのです。息も止まり、浅くなるのです。

○コミュニケーションにおける呼吸

 呼吸は、間を表します。「あの人とは、気や呼吸が合わない」、そういうことはよくあります。それが、いわゆる間、間合いです。

何かを尋ねて何かが返答される、その内容よりも、その間のとり方でコミュニケーションは決まってきます。間合いとは、何とも微妙なものなのです。

そこには、タイミングの他、相性、性格、タイプなども含まれてきます。それが同じ人の呼吸を微妙に変えてしまうからです。

○説得と沈黙☆

説得するときには、説得される相手の身になることです。

コミュニケーションには、あえて先読みしない、というのも大切です。ずっと先読みされていると、息が詰まってくるものです。そこであえて進まず、待ちます。その一時を楽しみましょう。この間を決めるのが、呼吸なのです。

 「息をのむ」というのは、息を止め、じっとしている状態です。「はっ」と驚いたときなどにも使います。説得の前には沈黙が必要です。

○呼吸へのアプローチ

横隔膜は、首の前壁の筋肉の変化したもので、吸気筋です。

息を吐くのをコントロールする専門の筋肉はありません。

「人」という字を書いて飲む。これはメンタルで人に勝つとともに、空気を飲むことで呼吸に結びついているのです。

1分間の呼吸の回数は、大人は16回~20回(およそ、3秒で1回、1.5秒吐き、1.5秒吸う)、新生児で35~50回(大人の2~2.5倍)です。

 新生児は、換気量の少なさを回数で補います。大人でも緊張したりストレスを受けると呼吸が浅くなるので回数が増えます。

〇呼吸数を知る

自分の呼吸数を測ってみましょう。

1分間に吐く 回→ 秒で1回

1分間で吸う 回→ 秒で1回

長く吐いてみましょう

普通は7~20秒くらいです。

長く話す    秒~ 秒

歌って伸ばす  秒~ 秒

 吐くこと、呼気を長くするのには、新たにそれを支える筋力をつける必要があります。それは、呼吸に関わる筋肉で、骨盤底筋肉群まで含みます。

吐くことの反動(圧力差)で空気を入れ(吸う、吸気)ます。呼気と吸気の循環を大きく安定させていくのが呼吸法の目的です。そのことで、呼吸という発声のエネルギーを増大させ、しかも効率よく使えるようになるのです。

○呼吸の観察

みぞおちあたりの胸まわりで4~5㎝広がるのが横隔膜です。普段の呼吸で1.5~3㎝、腹式呼吸では5~7㎝も動きます。呼吸量は1㎝の動きで250~300㎖といわれています。

1.自分がどういう呼吸をしているかを知る

2.呼吸のくせをなくす

あるいは、くせなどにあまり囚われず、単に呼吸を大きくしてみると考えるとよいでしょう。

呼吸や呼吸法を、どれがよいかとかどういうのが正しいと決めつける必要はありません。最初は、意識することで精いっぱいです。少しずつアプローチしていきましょう。

トレーニング中、ため息やあくびが出ることがあります。これは換気の作用があります。出したくなったら妨げないでください。

○コンディショニングとグッドの声

 ヴォイトレで、声の調整をするというのは、整えるというのになるので、ヴォイスコンディショニングと言えばよいと思うのです。

ここで私が述べている調整の声とは、ベターな声のことです。

それが、今のしぜんでベストの声であるというなら、グッドの声でよいのです。元より、グッド、ベター、ベストをどう割り当てるかです。

私の区分では、普通によいのはグッドの声、これは心身がよければ出る声です。ベストの声は、心身をグレードアップして、つまり、鍛えた後にコントロールされて出る声としています。ベターの声は、グッドとベストの間、ベストの声への導入となります。つまり、現状グッド→ベター、将来はベター→ベストとみているのです。

○ヴォイトレの弛緩☆☆

 世の中、何においても「がんばらない」が、キーワードになってきたように思います。力をいれたがゆえの空回り、無理による無駄を嫌がり、恐れるようになってきたのでしょう。しかし、力が抜け楽になった分、原因のみえないところで表向きの混乱もなっているのです。

それは、当然のことです。トレーニングは意識して部分的に集中したのち、解放させるわけです。厳密には、ある条件のもとに負荷をかけて鍛え、変えて、一時的にアンバランスになるのを許容し、その後に、無意識に全体のバランスを可とするようにしていきます。ですから、無理、無駄を必要悪として、ある時期、許容しないと大きくは変わらないともいえるのです。

○肺と呼吸

内臓のなかで、肺は、呼吸筋、骨格筋の動きに委ねられています。心臓や胃腸、肝臓、腎臓のように、自らは動きません。しかし、その筋肉を扱うことで自らの意志でもコントロールできるのです。

呼吸が整うと

1.フィジカル面では、エネルギー代謝がうまくいき、うまく体を動かせます。疲労しにくくなり、体重も適正になります。

2.メンタル面で安定します。

ちなみに、2001年、日本呼吸器学会は、「肺年齢」という考えを提唱しました。年齢による肺活量の計算式もあるようですので、参考までに。

○ダイエットと横隔膜

 大きく息をすると、お腹の筋肉を動かすことになり、内臓をマッサージすることにもなります。腹圧が上がり腹がへこみ、スタイル改善、ダイエットにもなります。

お腹の前は腹直筋、横は外側から、外腹斜筋、内腹斜筋、腹横筋、後ろは広背筋と脊柱起立筋です。

 胸鎖乳突筋といって、胸骨と鎖骨から乳様突起までつながる筋肉があります。これは、横隔膜と同じ神経系の支配下にあります。その横隔膜は、背骨回りの多裂筋と骨盤下の骨盤底筋肉群と連動します。

横隔膜が下がる(収縮)ということは

1.助間筋が収縮、肋間が開き胸部が広がる。

2.助間筋は、1~4内助間筋が前に拡がり、5~外助間筋のみ、横に拡がります。

その後、内助間筋が収縮し、腹横筋も収縮し、横隔膜が上がり戻るのです。

胸部回り、背骨回り、首回りの筋肉が固い人は多いです。すると、呼吸がスムーズにいきません。息切れの状態になっているのです。そこで、深呼吸することが、こりをほぐしデトックスにもなります。

○呼吸の3パターン

 呼吸について、基本を押さえておきましょう。次の3パターンがあります。

1.鼻から吸い、鼻から吐く

2.鼻から吸い、口から吐く

3.口から吸い、口から吐く

吐く―吸うことでは、鼻からか口からかで全4パターンあります。

1.鼻―鼻 通常

2.鼻―口 話すとき

3.口―口 非常時

4.口―鼻 このケースは、あまりないでしょう。

○呼吸トレーニングの効果

コリ、張り、冷え、むくみをとりましょう。

背のこり 助骨拳筋 背骨と肋骨つなぐ

肩こり  上後鋸筋 脊柱と肋骨つなぐ

斜角筋  首の横突起と肋骨つなぐ

胸骨のきわ 助下筋

喉の痛み 下後鋸筋 胸横筋

○異なる刺激

スポーツなどでは、技の習得にステップを踏むので、くせも同時についてきます。そして、とれないことにもなります。多くの場合は気づかない、とれない、よくないから、くせというのです。

そこで、直接、くせをとろうとするのでなく、あえて異なる環境刺激を与えるのです。他のスポーツや運動、筋トレをすることは、これにあたります。

あえて体を不安定にさせてバランスをとるようにしていき、慣れるとリラックス、脱力できるようにする、などという方法があります。片足で立つ、赤ちゃんのまねをする、コアトレをするなどは、そういう面が大きいのです。 

○意識をはずす

 筋肉に意識を向けます。意識を向けると、筋肉は収縮し固くなります。心身とも緊張するのです。そこで意識せずに、そこで扱えるようにしていくのが望ましいのです。しかし、トレーニングにハマる人には逆行していく人が少なくないのです。

息を吐くとお腹が固まります。吐き切るとガチガチになります。試してみる分にはよいのですが、このままでは、呼吸をコントロールできるようにはなりません。

何もしていなくても私たちの重力で負荷がかかり、それに対抗して支えているのです。そこで歪みが生じているのは、正したり整えたりしないとなりません。過緊張やくせをリセットして、それで補正できない分は強化します。最終的に、しなやかに、疲れにくくするのです。

それには、

1.無意識に使わないところを知る

2.意識して使えるようにする

3.無意識に使ってみる

この3つのくり返しです。

さらに、

1.使えているところをさらに使えるようにする

2.使えていないところを使えるようにする

の2通りをふまえていくいことです。

○赤ん坊からの進化☆☆

新生児の泣き声は、小さな体で大きく響くので発声の理想として取り上げられることがよくあります、しかし、声は喉声、その姿勢は必ずしもよいとはいえないものです。顎だし肩すくめのポーズですしね。もちろん、声域は狭く、発音も歌も不可能です。

しかし、泣くことで、呼吸筋(横隔膜、腹横筋)脊柱周りの筋肉が鍛えられていきます。つまり、完成形でなく、プロセスとしての参考例となるのです。

赤ちゃんの発達をみてみましょう。

1.首がすわる(3ヶ月)

2.寝返りをする(4~5ヶ月)

3.四つん這い(上半身)で体重を支える

4.ハイハイをする

5.つかまり立ちをする

6.立つ

7.つかまり歩きをする

8.歩く

 これらを再体験してみましょう。

首がすわるときに、あごを出さないようにしましょう。

寝返り、四つん這い、うつ伏せからハイハイへ、脊柱でバランスを意識します。

おすわりでは、軸と抗重力を感じます。

ずり這い(お尻歩き)

つかまり立ち

 それぞれのプロセスを経て、発声、呼吸ほか、人の基本的な動作で起きていることを知りましょう。

○声のためのワークショップ

仰向け、横向け、うつ伏せでの呼吸、そして発声へもっていきます。

1.胸は前 柔らかくする(胸部上部)

2.お腹は、横と後へ胴回りの広がりを肋骨に触り自覚する

3.肩、首回りをほぐしつつ脱力

4.背中で支える

吐くとお腹がへこむというよりは、横に拡がっていたお腹が戻る感じがよいでしょう。

○リラックスする

刺激して、ほぐし、そして強化し脱力します。

1.脱力する

2.揺らしたりさすったりして、緩める

3.押す、圧する

リンパを流すようにしてみましょう。

首の緊張をとるには、首の後ろに両手をあてて、縦にうなづいたり左右に動かします。

筋肉が骨についているところを、その筋肉の両端でほぐしましょう。

肩、小胸筋

腕の旋回

背骨 

イスに座って前屈してみましょう。

強く息を吐きます。息を吐きすぎることで内・外腹斜筋も働きます。

腹横筋を強化します。

体育座りから後傾して腹筋の意識をします。

座禅、瞑想をして落ち着けます。

調身、調息、調心の順に行いましょう。

○ラジオ体操の利用

高齢化社会になって、ラジオ体操が復活しているそうです。運動不足を補い、柔軟性を維持するには、とてもよいことです。

「胸を張って背中を反らしましょう」では、顎が上がり口から肺まで真っ直ぐになるので、呼吸はしやすくなりますが、肺や呼吸筋、横隔膜などは活かされにくくなります。手を上げると背中は、反ります。首や肩での呼吸では、腹式呼吸も胸部も使いにくいでしょう。

○効果の判断の難しさ

「息を吸ってお腹を膨らませるのが、腹式呼吸」というのは誤解しやすい教え方です。お腹を突き出したり出しひっこめたりするのは、呼吸とは別のトレーニングです。

だからよいとかよくないとは一概にいえません。呼吸そのものとつながっていないから、呼吸トレーニングでないようでも、結果としてそれを補助したり役立っていることもあるからです。

正しい、間違いに関する判断は、その場だけのことでなく、将来に対してプラスを求めるならば、簡単に肯定したり否定できません。あるトレーニングが直接的な効果でないだけで、あるいは一見、力んだりして邪魔していても、その動きが間接的に呼吸をフォローする効果となることはよくあります。☆

固めない、しぜんというのが基本です。とはいえ、より基本をしっかりと身につけるとするなら、トレーニングである以上、意識して固くなり緊張もして行うことになります。それをどこで修正するかということです。

固くもならず緊張もせずに、しぜんであれば変わりません。あるいは、とても長い時間がかかります。

○呼気と吸気

肺の弾力は「残気量」などから出せるそうです。ともかく、息は出したら入るのです。入れるためには出せることです。最初は、そのために無理、必要悪も承知でトレーニングするのです。

○機器を使った呼吸のトレーニング

ストローを使ったり、口をつぼめる、鼻先の片方をふさいで出す、などのトレーニングは、出口を狭くして抵抗を感じ、呼気を意識して、またそれに対応する力をつけようというねらいです。

吐くことに負荷をかける、呼吸筋を鍛えるというような器具なども売られています。

使い方や目的によって異なるし、人によって長所、短所もありますから、否定はしませんが、私はお勧めしていません。それで心地よいとか力がつくと感じている人は、よいと思います。

○過呼吸の注意

過呼吸は、吐きすぎてCO2不足で息苦しくなり、息を吸い過ぎるので、過換気症候群といわれます。具合が悪くなったり、倒れることもあるので、注意してください。

○発声トレーニングのメリット

呼吸、発声、共鳴には、うまい人と下手な人がいます。

生まれつき、あるいは、育っていくなかでうまくなった人とならない人がいるのです。うまくならない人は、うまくなるためにトレーニングをお勧めしている次第です。

すると、体幹が安定します。歩くこと、走ること、動くこと全般の運動技術や能力が向上します。習慣を改善していくのです。

発声でフィジカルパフォーマンス、メンタル、内臓機能などの改善が期待されます。健康になることも確かです。

○現代の呼吸事情

姿勢が悪いのは、呼吸によくありません。

赤ん坊、子どもの動きからヒントを得ましょう。とはいえ、子どもも小学校に入り、イスに座ることが多くなると、姿勢が乱れがちです。

昔は、たくさん歩いてたくさん運動して、しぜんと正されていたのです。しかし、その機会が減って声をつかわなくなったのです。それは、子どもから大人になるにつれ顕著になります。

○老いと呼吸

老いると、床から腰を上げるだけでも一運動になります。疲れがたまったときと同じでしょう。そこにはメンタル面も大きいです。

腹がすわるようにします。腹にすえかねたり腹を立ててはいけません。

正座や瞑想が流行しているのも、そのような背景があると思われます。

○チェックプログラムの立案

 次の項目をチェックしましょう。

表情 立ち方 歩き方 動き方 しぐさ 気分

1.レッスン時

2.レッスン前

3.レッスン後

4.普段

○胸とお腹

胸については、胸骨中心に大きく動くことが理想です。肋骨は、柔らかく、胸椎の可動域は大きくというように、です。

お腹は使うのですが、それは力を入れたり固めることではありません。

腹式呼吸、発声、ヴォイトレのトレーニングや鍛錬ということばに、あまり忍耐や我慢のイメージがつくのもよくありません。

力を圧縮するのでなく、解放するのです。ただし、拡散するのではなく、集中するのです。

○機能を高める

 声の機能を最大に使いたいなら、身体を機能的に使えるようにすることです。

できないことをできるようにするには、すぐに、部分的な目的での完成を目指さないことです。全体を底上げしていくことで結果、解決していくように考えることです。

高い声を出したいなら、高い声を出そうとせずに発声をよくする、整えることをします。つまり、より早く少し先に行くためにでなく、より深くより確実に、ずっと先に行くために、ためることを選べるかということです。

短期プログラムで筋肉をもりもりつけたからといって声が出るわけではないのです。

○体と声と呼吸のタイミング

スポーツでも体と呼吸のタイミングを合わせるのは大変なことです。陸上や水泳のスタート、相撲の立ち合いと、呼吸が合わないとやり直しますね。声は、その間にあるのでさらに複雑です。しかし、呼吸と声=体となれば、シンプルです。

呼吸と体を合わせるのに間のとり方を得ていきましょう。息は慌ててもため過ぎてもよくありません。でも、ためられるようにはしておきましょう。イメージ、感情にも左右されるので、心身の統一イメージが必要です。

○芯と共鳴

声=体とは、体についている声、芯のある声をもっているということで、軸、縦の線などと述べてきました。呼吸で声を生じ、共鳴させます。芯と共鳴の2つの条件がいるのに、多くの人は、共鳴だけでコントロールしようとして息詰まるのです。☆

○横隔膜のリラックス

横隔膜が緊張すると体幹がうまく使えず、しぜん体になりません。

たとえば、声を出して、竹刀面に打ち込むとします。そのときに、息は出ます。素早く吸い込んで、次に備えます。このとき肩で息をしません。肩が動くと乱れるからです。

本番前は、深呼吸でリラックスさせましょう。声を出しながら体操やエクササイズをします。動きのリズムに呼吸を合わせるのでなく、呼吸に合わせるのがよいでしょう。スローモーションでみてみましょう。機能的=美しいとなります。

息を吐いて肋骨が下がるとお腹が持ち上がりませんか。呼吸も横隔膜も、無意識から意識的に使えるのです。胸式呼吸時に首回り、胸、肩のあたりの筋肉が動くのは自立神経も乱れ、よくありません。

○筋力維持と腹圧

最近は、お腹が少し出ている体型が長生きするといわれ、反メタボの気運もあります。発声には、痩せているよりは少しぽっちゃりがよいといいます。

 理想は、お腹が固くない、背中も柔らかく、筋膜、インナーマッスルも柔らかい、筋肉、関節も柔らかいことです。

横隔膜の筋力の低下を防ぎましょう。使わないと劣化するので使うことです。これを他のところ、胸式呼吸などで補うと使えなくなりかねません。

メンタルとしての過緊張や、姿勢で胸の張り過ぎも悪い影響をもたらします。肺に空気があるのに吐けない、となります。

肩や首がこるのもメインの横隔膜呼吸ができていないために負担がかかるのです。

 

○胸の張りについて

横隔膜右下には肝臓があり、右サイドの横隔膜は少し高い位置にあります。右肺は三葉で大きいためです。左サイドはやや押し下げられています。左肺は二葉で上に心臓があるためです。

 胸を張ることで腰が反るなら、楽に続きません。ここで支えるのが腹圧です。上下、左右、前後で圧力がほどよくかかっていればよいのです。腹圧が前腹に偏ると脊柱が安定せずに腰が反るわけです。あごを引いて頭を持ち上げます。頭の上を操り人形の糸でぶら下げられていて、顎だけ引く感じがよいでしょう。首の筋肉では、顎が上がるので、胸椎の筋肉を使います。

無理に胸を張るのはよくありません。しぜんと張れているのがよいでしょう。つまり、腰を反らせてはよくない、ということです。肋骨が持ち上げられて浮くので、吐くときに下がらなくなります。固めてしまうわけです。

お腹は肋骨と骨盤の間にあたります。そこにボールを入れて支えるようなイメージをもちましょう。

○その他、肩、首などの注意

肩甲骨を脱力します。肩が下がることも大切です。

首に筋が出る人は、頭が前に出ています。すると、胸鎖乳突筋が緊張し、斜角筋も緊張したまま、肩上げ呼吸となります。(これは、特に女性に多いのですが、肩こりの一因です。きちんと空気が深く入らないのです)

どちらも呼吸を助けるときに働いても緊張をし続けなければよいのですが、この助けをメインとしてしまうと、悪影響が出ます。本来、メインとすべき横隔膜に頼らなくなってしまうからです。横隔膜が緊張していて、今度は吐けなくなります。

○フォロー体制づくり★

アメリカのスポーツ界では、メディカルスタッフとして、アスレチックトレーナー、フィジカルセラピスト(理学療法士)、ストレングス&コンディショニングトレーナーがついています。それに習い、研究所にも、そういう体制をつくりました。どうぞ、ご利用ください。

「勘とデータ」

○長嶋氏の素振り論と松井秀樹選手

2012年末、松井秀樹選手が引退しました。スポーツ報知は、全紙面の半分を関連記事にあてました。松井のそっくりさんまでが、「まだ引退しない」と出ていました。恩師である長嶋茂男元監督の談話がのっていました。

天才は天才しか育てられないから、私たちは長嶋監督よりは野村監督に学ぶことを勧めていましたが、深いものを感じたので引用します。

私が長嶋監督の例を引いたのは、毎晩、帰ったらすぐに素振りを3回して、そこにいつもの音が聞こえたら、やめて食事入浴をする。聞こえなければ、聞こえるまで夜中も振るというような話でした。音でわかるというのが印相的でした。

第一線レベルにできあがっている人の場合、状態のチェックをして仕上がっていれば、そのままにしておく方がよい。何か不足していれば補って、元に戻しておくと。すべてを五感で捉えて判断する職人技での調整法です。

イチローの打席で構えるまでの“儀式”は、よく例に挙げられますが、長嶋氏のような調整は、客観的に自分の状態のベストを完全に把握していなくてはできないことです。コーチに頼るのでも、データに頼るのでもなく、自分の身体だけで確認するわけです。全身センサーのようであり、”野生の勘”と言われたゆえんです。そこでの手段は、特別なメニュや方法でなく素振りなのです。

○声の素振り

この記事で語られたのは、松井との「1000日計画」でした。そして、それは、素振りなのです。徹底したシンプルさを最大限に応用して基礎を固め、その基礎を応用して試合につなげていくのです。何一つ特殊ではないのです。誰もが基本と知っている素振りをどれだけ、どのくらいの量、そして、どくらいの密度でできるのかが問われているのでしょう。

バッティングや素振りの例を、私はヴォイトレでよく使ってきました。「日本人は自分のど真ん中をジャストミートできないのに、自分のストライクゾーンの上の高いボール球ばかり打ちたがる」と。

長嶋さんは、ボール球やワンバウンドさえ打ってしまう天才でした。「バッターはノーマルであれ」と言っていたのは、意外でもあり、さすがでした。

(以下<日録>より、再録)

野村克也の素振り論

バッティングは基礎、基本、応用と段階がある。素振りは基礎であり、この基礎をしっかりやらないで成長するわけがない。基礎をみっちりとやらない怠慢が強打者の生まれない理由のひとつなのかもしれない。

 たかが、素振りと思うだろうが、素振りひとつとっても、テーマを決めて考えながら練習する必要がある。素振りは1回ずつ振幅音を確認しながらでき不できを判断したものだ。ボールを捉える瞬間をイメージし、ブ~ンという音ではなく、ブンッと音が出るまで何百回も素振りを繰り返した。これだけは自分で努力するしかない。コーチは足や腰、腕の動きなどバッティングの形は教えることができても、イメージや感覚は自分で掴むしかないからだ。(中略)

 親も育ってきた環境も違うし、肉体や骨格も違う。それを猫も杓子も一通りの型にはめたのでは個性を生かすことはできない。「学ぶ」というのは「真似る」を語源にしていると言われるが、若手も「教わる」のではなく「覚える」という意識が必要なのではないか。(中略)

 特に「勝利の方程式」という決まり文句が一番気に入らない。勝負事に方程式などあるわけがない。マスコミの責任も大きいが、そんなものがあると考えるから型にはめてしまい、勝負の醍醐味を失わせるのだ。(中略)

 「人間成長なくして技術的進歩なし」である。

野村克也さん [SAPIO 2013.1]

 

金本知憲の素振り論

 「すべて野球のためにどうすべきかと考えていました。トレーニングはもちろん、体重を落とさないように無理して食べるのも、睡眠時間を確保するのも、野球のため。心身ともに本当に休んだといえるのは、シーズンが終わった直後の5日間くらいでしたね」(中略)

 「仮にコーチにやらされた練習でも、練習の狙いを理解できれば自分に役立つ。若い頃の広島時代の練習はそうでした。逆に自分から取り組んでも、漠然とやる練習では意味がない」。例えば金本が調子の良いときも悪い時も欠かさなかった素振り。「スイングの速度を上げるためなのか、打撃フォームを整えるためなのかで振り方は異なる」(金本)。そこまで考えて素振りを繰り返したからこそ、バットにボールを当て、しかも遠くに飛ばす技術を磨くことができたのだ。

金本知憲さん [TRENDY 2013]

 

長嶋茂雄の素振り論

「1000日計画」って言葉、覚えてるでしょ?3年間で一流の4番打者に育てるってプランよ。だから、それこそ毎日毎日素振りよ。昼でも夜でもどこでもスイングよ。銀座の(超高級)ホテルで部屋を借りてやったこともあった。(03年にヤンキーズの取材で訪れた)ニューヨークも?やったよなあ。(超高級老舗ホテルの)プラザホテルの最上階でバット振ったのは、世界でも松井くらいだろ。

 素振りはいい練習なのよ。スイングなんて1回に1秒ぐらいなもんでしょ。でも、それを1回、また1回と繰り返していくことで、いろんなことが考えられるのよ。そこから野球選手としての「深さ」や「幅の広さ」が生まれてくるわけ。

 技術はもちろん身につくよ。しかも退屈に思える練習を続けることで心、つまりメンタルが作られていく。それが大きいのよ。

長嶋茂雄さん [スポーツ報知 2012.12.29]

 

○(続)長嶋茂雄氏の指導法

ミスターは21歳の中島をつかまえ、いきなり打撃指導に乗り出した。

 「インパクトの瞬間、バチーンとチンチンを右から左の太腿にブツけるんだ!」

「バチーンとですか?」

「そう、バチーンと」

 首をひねる選手が続出するなか、ひとり目を輝かせていたのが中島だった。

 「僕にはメッチャわかりやすかった。長嶋さんは音で力の加減を表現するんです。バーンならバーン。バンならバン。ギュッと言わはったら、実際にギュッと体を回せばいいんです。”ここの角度がこう”なんて説明されるより全然わかりやすい。長嶋さんから教わったのは正味40分くらいやったと思いますが、その後から全然、打球の質が変わった。きれいに飛んでいくようになりました」

中島裕之さん [週刊現代 2013.02.02]

ヴォイトレで、出しやすい声から出していくのです。なかには、自分が出しやすいと思って出す声を否定されることもあります。出しやすい声=ベストの発声やベストに育つ発声ではない。でも、入口では、まずは「出しやすい声とは何か」を、そして、「出しやすいとはどういうことか」をバットや竹刀を振るときのように、直観的に捉えてみることです。

一流の選手でない大半の人の感覚やフォームは、大きくは当たっていても、そこから細部に深めていくと、すぐに外れていきます。ストライクゾーンは打てるとわかっていても、いつもそこで当たったり当たらなかったりが続くのです。そのうちに高めの内角だけが打てるようになるのを上達などと言われてがんばったりするわけです。

○心理の分析

野村監督は打つことよりも、まずは打ち取ること、バッターとしてよりキャッチャーとして、相手の心理をみることを本質と捉えたのでしょう。8×10の80にストライクゾーンを分けて、データをとりました。これはトレーナーとしては「やり方」になります。

次にどのコースにどの球種がくるかわかると、ほぼ、確実にヒットにできるのが、プロのバッターです。ですから、現場での勝負は心理戦なのです。力や技術を十分にもった上で心理を読む、その最高レベルが勘なのです。となると、バッティングセンターでは3割、4割でなく、10割打てなくては勝負以前のレベルということです。

ストライクゾーンを3×3くらいのマトリックスで捉えているようなバッターに、8×10の細分化したデータをもつのは、絶対的に有利なことです。投球を指示するキャッチャーの視点は、コーチです。これがチェックや上達のプロセスとなります。

しかし、長嶋さんの場合は、一般的なストライクゾーンなどは眼中にないのでしょう。打てる球と見送る球、つまり振る球と振らない球だけなのでしょう。打てる球、ヒットにできる球が振る球になるのです。一流ゆえに他人が定めたルールを超える、その常識を超えたプレーにファンは感動するのでしょう。

それを支えたのは、小学生でも、そこから始めるという素振りの徹底です。松井選手には、ニューヨークの最高級ホテルでも素振りをさせたというのです。シンプル イズ ベストなのです。

○人生と哲学

野村氏に学べるのは、三流から二流、二流から一流になるためのプロセス、考え方です。野球において将軍はピッチャーやバッターですが、キャッチャーは策士、参謀です。

日本で10年、アメリカで10年とトップクラスの活躍できる人は、純粋に素振りに打ち込みます。結果を出し、それが出なければ終わりですが、20年、成績を残せたら終わっても引っ張りだこでしょう。しかし、多くのプレイヤーは、明日のレギュラーも来年の活躍、いや雇用も保障されていません。人生における野球、野球を終えての人生も考えざるをえません。それが考えられていると、今だけに打ちこめるともいえます。

ですから野村氏の理論は、そのまま人生哲学になっています。これ以上は氏の多くの著作に委ね、ここからは勘とデータの話です。

天才でもない限り、勘は働かなくなるときがあるので、そのときにデータで支える、あるいは、データがあった上に、勘もおろそかにしないなら、両方のよさが活かせます。データに囚われ、勘も鈍くしてしまう人の方が多いので、こういう考え方は、とても大切だと思うのです。

○勘のよしあし

私は勘のよい人には、かなりの部分を本人の判断に任せています。できるだけ口を出さずに、材料だけを与えます。その与え方に工夫をします。環境を与えるのは、本人の資質を尊重してのことです。

当初は研究所もそのような人しかいない環境でしたから、私は場を高次に整えていればよかったのです。

「何も教えてくれない」などと言うのは、勘のよくない人で、そのまま放任しているとクレーマーになりかねません。「教えてくれる」「教えてもらう」ことで、どれだけ勘を鈍くしているかを、ときには考えてみることです。

まずは、自分に、その内面に、目を向けなくてはいけないのです。このことがわからず、「青い鳥症候群」の人が多いのです。「どこかに絶対的に正しい方法、よい方法、正しいレッスン、よいレッスン、正しい先生、よい先生がいる」と思って、探し求めてばかりいるのです。

レッスンはそういう思い込みに拍車をかけるのでなく、それをストップさせるためにあると思います。「正しい」とか「よい」とは何か。そんなものがあるのかどうか、疑問や否定を通じて、自らに問い続けていくようにしましょう。

でも今は、優しい先生が優しく教えることを求められるため、その期待に添うようにがんばるほど、本質からそれてしまうのです。厳しい場を求めてください。

○勘と基準と材料

勘のよい人は、「自分自身の声に向きあうことしかない」ことを知っています。

素振りのように一つのシンプルなメニュをくり返しているうちに、少しずつ丁寧に、繊細に扱っていくようになります。材料を元に基準が確立してくるのです。

そうでない人は、飽きてきます。やめてしまうか、やっていても雑になります。正しく教えられたことなどは形ですから、そのままでは、くせがついて固まってきます。それを安定と思うので、早々に上達が止まります。これは大きな勘違いです。自分の成長に合わせ、その都度、形から脱皮し、さらに深めていくことです。

○作品の価値への評価

「トレーナーは、作品の価値判断までに立ち入るべきではない」と考える人もいます。確かに、筋トレや体力づくりと試合の采配とは別の仕事のようにも思います。しかし、これは別の次元、レベルということです。目的となると現場に多少とも通じていないと、必要とされる基礎の程度もわかりません。この現場とは、ステージ経験などという、個別に違う、あいまいなものではありません。最低の絶対必要条件と余裕をもつための充分条件の2つの尺度です。

声を出している内容×声を出している時間での、トータル的なものが結果です。

生涯現役歌手というのは、自らに対してはプロです。トレーナーとなっても、他人のプロセスに通じているものではありません。多くの他人のプロセスに長い時間で通じていてこそ、トレーナーに必要条件なのです。

このプロセスというのを、私は5年から10年くらいを1クールとしています。仮に、10年くらいトレーナーをしたとしても、1年以内に辞めていく人ばかりみていたのでは、本当に大切な勘は培われません。トレーナーも生徒も育つのです。

○トレーナーの価値とは

最初には勘のよかった人が、続けているうちに勘が冴えなくなる、悪くなるケースは少なくありません。むしろ一般的です。そうならない方が例外といえます。声や歌では、それが顕著です。元より自分の評価も他人の評価もあいまいだからです。

レッスンの目的の一つは、トレーナーに評価をしてもらえることです。しかし、その基準があいまいでは進歩は望めません。アートという何でもありの世界で何を評価としてとるのかは、難しいものです。本人の満足か、客の満足か、どちらにしても曖昧なものです。受けを狙って急いでは雑になります。

その評価がトレーナーだけの満足に終わってはなりません(トレーナーの評価の問題は、以前に詳しく触れています)。

価値観を一致させないところにレッスンは成立しないのです。そこでトレーナーは一本の仮の道を示します。そこをプロセスにするかを問います。それをどうとるかがトレーナーの価値です。

○3年かける

トレーナーは「教える」、「与える」のでなく、「問う」場を与えるのです。邦楽で、師が弟子に、「自分のやる通りにやれ」と言うのは、自分のようにできたら完成というのではありません。

これから自分の声がどのようになるのかを、まだ体験していない人にあるのは、勘だけです。それで判断して、歩み始めるのですが、そのプロセス、方法、トレーナーについて、一致というのはそう簡単にできないものです。歩み始めるまでに3年くらいかかっても遅くないといえます。

私は今、「ここにいる十数名のトレーナーの判断がわかるまで3年かかってもよい、そしたら自分にもっとよいトレーナーがわかる」と言っていました。「自分によい」というのを、好き嫌いや憧れでなく、必要性で判断するのは、至難のことです。それなりの基準を身につけなくてはできないのです。

○勘は悪くもなる

勘というものが「やっていない人のなかではよいと思われても、大ざっぱによいだけで、そのうち(続けて学べている人のなかでは)よくなくなる」のが普通です。子供のころは天才、大人になるにつれ皆、凡才になるのです。日本の教育では平均化を強いるのでそうなりがちですが、ヴォイトレも似たようなものです。

レーニングやメニュでどのようになるかというのは、トレーナーの処し方によります。このプロセスをみてみましょう。すると、大体は同じように「勘の悪くなること」が起きているものです。それを避けるために、他にはない研究所としての総合的な機能をバックグランドで働かせているのです。

○トレーナーの成長

私は、これまで声楽畑のトレーナーを中心に、五十名以上のトレーナーとヴォイトレをやってきました。今も十数名のトレーナーと続けています。長い人は十年以上います。私より目上のトレーナーもいます。かつては、20代後半から30代の若いトレーナー中心でした。

採用して、しばらくは、レッスンをみても何も言わないようにしています。こちらの方針を押しつけると、せっかく異質の才能を発揮できる機会をなくしかねないからです。

生徒と同じで、準備が整っていないうちは待ちます。自分自身に何があるかを把握せず、何とか形にしようと試行錯誤しているうちは口をはさみません。出せるだけのものが全て出るまで待つのです。

声楽家ですと、音大生以外に教えるのに慣れていない人が多いです。ここの生徒の中にはプロもいますから、お願いして新しいトレーナーを体験してもらうこともあります。いろんな基準を得ることになります。

トレーナーには自分自身のレッスンやステージの体験があるし演奏能力もあるのですが、その基準をそのまま使えるわけではありません。それが指導の能力として出てくるまで、しばらく待ちます。その人の本領が発揮されるまでは、伸び伸びやらせるのです。

そして、1年半くらいたつと細かくみるようにします。この1年半というのは慣れてきて、なかだるみしやすい時期です。秀でた人ほど早めに半年か1年くらいで、個性が行き過ぎる方に出てくるものです。

そこから、きちんとした接点を私が見出し、レッスンを軌道にのせていくのです。接点がつかないとやめてもらうこともあります。

○トレーナーの一人よがり

トレーナーが、指導に慣れるにつれ、知らずと慢心してしまうこともあります。舞台などで抜擢されて大役などにあたると、そのようなことは起きやすくなります。舞台に集中するためもあります。

レッスンとステージを両立させるのは、かなり負担のかかることです。

まして、私や他のトレーナーの制限下で、完全には自分の自由に生徒を導けないのですから、いろいろと不満が出ることもあります。

複数のトレーナーを一生徒につけるやり方については、声楽の先生というのは反対するでしょう。方法としてはともかく、実際に自分が行うなら面倒なことです。生徒も一人の先生から学ぶ方がわかりやすいし、混乱しません。そこで、まず、一人のトレーナーに「言われたことができたら評価する」というのは、プロセスとして順当に思えるからです。

どのトレーナーも自分の判断、メニュ、方法が「正しい」と思います。他のトレーナーが自分と異なる見解、違う判断、メニュ、方法をとるなら「あまりよくない」とか「間違っている」と思うものです。少なくとも、自分の生徒に関わってくるなら、です。他のトレーナーのレッスンが、自分の指導の効果を損ねたり、台無しにしていると思うこともあるでしょう。

ここでは、トレーナー間での問題を扱う私のような調整役がいますが、普通はいません。そのトレーナーにつくか、やめるかだけでしょう。やめても次のトレーナーが自分にとってどうなのかを、わからないままに続けます。転々とする人もいます。

その判断がつかないまま、いや、違いにさえ気づかずにレッスンを続けたり、トレーナーを変えたりしなくてはならないのは、不安でダメージの大きいことです。

○批評と非難

トレーナーは、「自分は正しくて、何でも正しく教えられる」そして、他の生徒を引き受けると「前の先生は間違って学んできて、間違って教えている」と思い込んでいるものです。そこには、不満があるから前のところをやめた人だけが新しいトレーナーを探し、新しいやり方にあった人だけが残り、合わない人は黙ってやめていくという構造があるのに、一人で行っていると気づけないのです。これでは、この分野が進歩するはずがありません。

生徒を教えるために、自分を正当する―それはやむをえないこととしても、そのために他の人を貶めたり、考え方、方法から、関係のないことまで非難する人が少なくないのはいただけません。残念ですが、よく耳にすることです。

批判、批評として、実状を正しく把握した上での発展のための論争はありがたいものです。

しかし、みることも、やってもみないで、ただの否定することにどんな意味があるのか。単なる足の引っ張り合いです。他のトレーナーやそのやり方を認めたくない偏狭な心に過ぎません。

○程度の問題

他のスクールなどのトレーナーもここに来ます。メニュや方法についての質疑も受けています。誰でもいらしてよいのですが、大抵のことは正しいか間違いかでなく、程度の問題にすぎないのです。「同じ」と「違う」を、どのレベルでみるかということです。

すべては個別の具体的な問題です。「一般的に」「普通」ということで尋ねられたら、拙書を勧めています。そこにわかりやすく詳しく説明しています。

さらに、ここで補足を加えて、公にしているのです。

○結果を出す

「こういうやり方でやっています」それでいいでしょう。

「正しいのでしょうか」「よいのでしょうか」それは相手をみなくては、目的や結果をみなくては、何も言えません。

「この声や息はよいのですか」これもわかりかねます。よくないと言うよりは、出ないということが多いです。

そこで説明しても本当は仕方がない。答えないのは、答えがyesでもnoでも大差ないからです。

「トレーナー」は人を育てるのですから「こんな人がこうなりました」で、初めて問うことができます。

先日、嬉しいことに、ベテランのアナウンサーから詩吟に転向して長く声に悩んでいた人が、ここのレッスンを始めて5年目、上級のチャンピオンになりました。あるアーティストから、ここのレッスンを参考に、一般の人の声をよくできたという礼状をいただきました。

勘がよいのも、理論が正しいのも関係なく、結果としてみるのです。結果とは、全てにおいて出るのでなく、出たり出なかったりします。それでも、こうして時間がかかった分、大きな成果が出ているのは、嬉しく思います。

○雑になると否定しだす

本人がうぬぼれると、大体、ものごとへの対処が雑になります。すると、そういう人は他を否定しだすので、わかります。長嶋氏の弟子、松井選手が「ノーマル」に徹していたことを見習いたいものです。

さらに高い目標に挑めばよいのに、それをせず、少々できるようになったからと、次の次元アップに挑まなくなると、必ずといってよいくらいこうなります。

○自分のレッスンの方法が正しいというトレーナー

私のところには、ときに「自分のレッスンの方法が正しい」という人がいらっしゃいます。机上で論を戦わせても意味がないので

「では、誰を育てたのですか」

「育ったとはどうなったということですか」それでも食い下がられると、「その人連れて来てください」とは言えないので、次のレベルでの問いを投げかけます。

「あなたでしか育たなかったのですか」

「他のトレーナーの方がよりよくできたかも、と考えられませんか」

これは、自分自身にも考えていきたいことだからです。

また、「他のトレーナーは、間違った教え方で間違った発声になっている」と言うトレーナーがいたら、「他のトレーナーも皆、それぞれに相手のことをそう思っています」と答えます。

○幼いトレーナー

「自分の方法が絶対」といえるなら、世界一の実力がある人を一から育てたということでしょう。教えた人がNo.1になったとしても、ある条件のもとで自らを肯定し、他を否定できるにすぎません。そういうハイレベルで学べた人はどんなレッスンでも活かせるものです。

波風を立てるのは、いつもそれをよい方に使えていない、私からいうなら、本当の意味では、できていない、自立していない、時間のある人たちです。

今の自分をすごいと思い、5年、10年あとにイメージが及ばない人は10年、20年と続けてきた人を簡単に否定します。それは、後5年でも10年でも、彼ら自身がすごくなってから言うことなのです。でも、すごくなった人で言う人はいません。

どうなるかがわからないから何でも言えるのは、若い人の特権です。まだ、何ら実績をのこしていないのに言うなら、若いというより幼いだけです。幼いということは、まだみえていないということです。こういうときはコツコツと地道に我慢することが、一流になる人の器ともいえるのです。

○こだわる

私は、「シンプルに一つの声を磨いていける」のは、それだけで一つの才能だと思います。「他の人がもうできた」と通りすぎていくところで、何かを感じて、こだわり続けていくのですから、並大抵のことではありません。

私自身、「声がライフワーク」といっているのは、こうして探求し続けているからです。

悩んでいるトレーナーには「続けていくと、今よりもよくわかるようになる」と言ってあげたいと思います。

○もっているもの、もっていないもの

レーニングの時点で、私はその人のもっているものと、もっていないものについて考えるところから始めます。あなたもここで自分自身について考えてみてください。

<もっているものともっていないもの>

  1. 自分のもっているもの
  2. もっているのに出せていないもの(使えていないもの)
  3. もっているが出さない方がよいもの(使わないもの)
  1. もっていないが補えるもの
  2. もっていないが補えるかわからないもの
  3. もっていないが補っても使えないもの
  4. もっていないが補えないもの(理想的には欲しいもの)
  5. もっていないが補う必要のないもの

「発声を直す」というのは、c.を封じb.を導いていくことにあたります。多くのメニュはd.の不足を補うこと、その補強にセッティングしています。

e.は、声においての到達点には個人差があるということです。

f.やg.は、その人の限界をどこにどう見極めるかということにもなります。h.はトレーニングの目的にする必要はありません。このa~hについて、この機会にまとめてみてはいかがでしょうか。

○「初めて」の対処

どんなベテランのトレーナーでも、これまでに「初めて」のタイプには、やってみないとわからないときがあります。

「初めて」のタイプというのは、細かくみると人は一人ひとり皆違うので、「誰に対しても初めて」なのです。一見似ているけれどまるで異なったり、全く異なるタイプと思っていたら、誰かと似てきたり、といろんなプロセスをたどります。

何事も10年、20年と経ってみなくてはわからないことがあります。

レッスンにおいては、その人の<もっているもの、もっていないもの>を確認していきます。トレーニングでは、それを踏まえての、もっと長期的かつ革新的な取り組みが必要になります。

○優先とするもの

表現から入るとシンプルなことが、基礎から入ると迷路のようになることがあります。私は、プロの「歌唱」や「せりふ」のなかの声の目安を、「仮に」として、必ずどこかにおいています。これをマトリックスの縦に置くと、横に置かれるのは、それぞれの要素(声域、声量…)となります。3次元でみるなら、時間軸が必要です。器として大きくしていくにも、どこを優先するかによって違ってくるからです。

昔は、第一優先条件が声量(共鳴含む)であり、比較的、到達度合がわかりやすかったのですが、その後、日本では、声域のようになりました。これは個人差があり、また、素人は届けばよいが、プロは、使えなくてはいけないと言いつつ、その程度がわかりにくいものです。なぜなら音響技術で相当カバーできるからです。

声量が第一でなくなったのは、声量こそが音響技術でカバーできる度合が、もっとも高かったからでしょう。元々、ヴォリュームを増すためにマイクやスピーカーは発明されたのです。

○声量から声質(音色)へ

声の第一条件は、届くだけの声量があることですが、そのまた昔、アカペラだけの頃、問われていた声質(音色)なのです。これは先天的なもの(声質)と思われ、昔は、「声がよい」という基準でした。これも日本では独特の鼻にかかった声のよさでした。

今は、「その人らしく(くせが)あればよい」というのが基準かもしれません。これが、今のプロを真似て練習をすると、伸びない原因になっています。

音響技術が進歩して、まるでパチンコで打つのが自動化されたかのように、誰でも何でも届けばよいかのようになってしまったからです。ポピュラーのソロに関しては、音域の設定は自由なので無理して、ある音にまで届かなくてもよいのに、です。

そこで、音色そのものに個性がなくなり、発声のくせで、その人らしさを表すようになりました。

ものまねは、くせをつけたらよいので、簡単になりました。もっとも、今の「ものまね」は、デフォルメとしてのバラエティ芸です。音色、昔の声帯模写というようなものではありません。

たぶん、昔は芸人は、限られたところの人であったが一芸を極めていたのに、今や全国から才能で選ばれるので、器用で優秀な人が出てくるようになったのでしょう。歌手や役者も、タレントという名で一般化しているのは否めません。

○レッスン前の発声について

本番前の状態を整えるには、バランスをとることをメインにしておけば充分です。喉を疲れさせてはなりません。

最初からベストで出られるようにするオペラと、ライブの経過とともに調子を上げていくことの多いポピュラーとは、若干、異なるでしょう。ポップスといっても1,2曲だけの出番というなら、歌う直前にベストにしておくことです。

私は他の人のステージを表から裏までみてきたので、歌の怖さを知っています。リハーサルでベストが出たのをみると、本番はかなり神経質になって、天にも祈る気持ちでみています。よいできであったら幸い、リハーサルを超せないどころか、最悪の結果になることも少なくないからです。

客席が埋まっていないリハでは、聞こえ方も違います。ライブでは問われるものも違います。作品としての完成度よりもステージとしての完成度が問われます。

確かな技術がある人でも、楽器のプレイヤーのように番狂わせがないことがない分野だと思います。どんなにレッスンでよくても、本番が必ずしもそうなるとはいえないし、逆に前日やリハではどうしようもなかったものが、二度とできないほどのベストの仕上がりになることもあります。一流のプロやベテランよりも感動を与えるデビュー新人の一曲や、ド素人のビギナーズラックもあります。楽器のプレイヤーでは起こりえないことです。

○喉の疲れと解放

声を泉のように無限に出してくる、世界のレベルのアーティストに比べると、日本人の喉はまだまだ弱いでしょう。

現実として、私は日本人の9割の人に対して、喉は消耗品と考えるように言っています。喉には耐久時間や使用の絶対量があり、そのなかで仕事や練習を終わらせることを考えるということです。

月一回、週一回の出番なら、ピッチャーの登板のように翌日から休めて回復させたらよいです。ステージは発声のよさを問うわけでないので、喉に無理な負担がかかるのもやむをえないともいえます。売れるとハードな日常にもさらされるので、喉の負担ゼロが望ましいでしょう。ここはトレーナーの理想論だけでは通じません。

とはいえ、声が体で支えられているところまでは習得しておくこと、体調に万全を期すことが条件でしょう。

毎日、声の仕事をしている人は、喉に疲れを残さぬようにクールダウンしておきたいものです。翌日には元の状態にしておかないと、そのうち無理がきます。大敵は睡眠不足やメンタル面での心配事、おちこみです。気が張っていることで、ステージをもたせている声はハイリスクです。いつもハラハラしてみています。

○負担をかけない

発声練習では平気な人にも、ステージ表現することで喉に負担がきます。本来はそうであってはならないのですが、歌唱でさえ、その人の安全な範囲をはみ出すことは少なくありません。

安全なところ(ベース)なら8時間くらい出せる力を身につけておきたいものです。それに耐えうる発声づくりが、私の考えるヴォイトレのベースです。

ことばをつけると、少し負担がかかります。

注意していることは、くれぐれも仕事以外には声を使わない、控えることです。打ち上げなどは細心の注意が必要です。カラオケでも声を壊す人の大半は、歌の大声や高音域がきっかけですが、アルコールや食事、おしゃべりで、数倍悪化させているのです。

○最初のレッスン

本番に向けて、自分の声の調子を、どう整えていけばよいのかを知るのは、レッスンの目的の一つです。レッスンを本番リハで使うのか、基礎に使うのかは、いくつかの分類を示しました。

本番の日は、レッスンをしないのが原則です。このあたりの、本番前のトレーニングやレッスン前のことについては、「共通Q&A」ブログを読んでください。

自己流のトレーニングを禁じて、レッスンだけで、発声の感覚を気づかせ、仕上げていくトレーナーがいます。

レッスンでトレーニングのやり方を教えたり、トレーニングの実際をチェックするトレーナーもいます。トレーニングのサンプルのようなレッスンをして、そのまま持ち帰らせ、復習させるトレーナーもいます。

レッスン前の発声については、レッスンの時間にもよります。レッスンが60分以上あるなら、不要かもしれません。

このあたりの考え方にはトレーナーや生徒においても、かなりの違いがあります。

○最初のメニュ

最初のメニュから一人ひとり違います。トレーナーも違います。初回は本人の力のチェックと目的への方向性を探るところからです。

初回のトレーニン

1.挨拶(およびコミュニケ―ション)

2.情報交換や質疑応答(時間短縮や、人によっては喉の保全のため、シートでの提出を初めています)

3.スケール

ドレミファソファミレド、ドレミレド、ドミソドミソド、ドドドドド、ドドドなど(半音ずつ昇降)

ハミングや母音(ヴォーカリーズ)を中心にスケールで昇降させます。このときに声や体の調子をみたり、チェックします。そのために広めに声域を使うことも多いのです。軽く声の状態、コントロールのチェックをするのです。

ここでは実力以上の声域をとることも少なくありません。いずれ、マスターすべき域の目安を示し、チェックしたり、試行していることもあります。

チェックとトレーニングの混同をしないことについての注意は、「ヴォイストレーニング基礎講座」などに詳しく述べました。

○ある日のレッスン

ある日のレッスンでは、次の3つが中心です。

1.ハミング 低いソ―ド―高いド―ミ(声域、2オクターブ弱)

2.ハミング+母音(またはmやn) 低いファ―ド―高いド―レ(同上)

3.母音 低いミ―ド―高いド

わかりやすくするために全てのメニュを、同じ声域にすることもあれば、声の質を重視して、それが悪くなってから2,3音上がったら(下りたら)止めることもあります。

もっとも大切なスケールやヴォーカリーズが、ポップスや役者の発声練習では、準備体操だけで終わっているところがほとんどです。

私は、研修に行くと、これを徹底して、ていねいに扱わせるようにしています。リラックスや伸び伸びとするために、気にかけずに、大きくたくさん声を出すことから始めることもあります。

シンプルなことに徹底してとりくませることが、ヴォイトレの本質ともいってよい基本づくりのメニュです。その前に、体や呼吸を使ったり気力や集中力を高めるために、勢いで行うことが必要なこともありますが。

○同質化を目指す

1.スケール、声域、  低いミ―ド―高いラ―ド―ミ

2.ハミング=母音   ラ(ナ、マ)

3.子音=共鳴、n、m、y(ia)、w(ua)、k-g、s-z、t-d、h、p-b、r

この3つの組み合わせだけで無限にありますから、メニュも無限です。

発音は声を発するときに生じるものですが、共鳴を感じて行う方がしぜんによくなっていきやすいです。

最初から喉でなく共鳴で声が出ているというレベルのイタリア人のようなら、日常に話すところでも共鳴感覚で、そのまま移行できるようです。私たちはそういう発声をしぜんに捉えるのに、けっこうな時間がかかるのです。

○ヴォイトレの目的

もっとも入りやすいところから入り、今もっともよいものをみつけます。そして、その他のものをそれと同じに揃えていきます。これが、よくある発声練習、ヴォイトレと呼ばれているものの一つです。しかし、私は、そこに他を揃えるまでに、もっともよい声は、もっともましな声にすぎないのですから、もっとつきつめることと考えます。その声をベターからベストにしていくことが、トレーニングの目的です。つまり、

1.ベターをベストにする

2.ベターに、そうでないものを揃える

目的には、この2つが伴うべきなのに、大体はここまでいきません。1がないのです。できていると思って、甘いチェックで通り過ぎてしまうのです。多くは、ピッチのチェックで音色をみていません。

2は1のために必要なのに、2は2で終わってしまい、1のベターがベストにならないのです。むしろ、ベターがベターでさえないものに劣化して、揃えていく傾向が、多くの人にみられるのです。声量、音色を無視して、声域とバランスだけで揃えようとするからです。

○自己評価してみる

今のあなたの点数を平均50点として

a.ベスト100点超(理想)

b.ベター60点(現状の上)

c.ワース40点(現状の下)

  1. ワースト20点(劣化)

とすると、

1、bとcの現状をbにして、aの理想に高めていくべきなのに

2、dをcにすることばかり考えると、今のベターであるbよりよいものが出てもわからず、そのままbに留まってしまう。むしろ、ときによかったはずのbが、よくないcに影響され50点になってしまう。

つまり、成績の低い人をアップさせること(d→cおちこぼれ救済)だけを成果とみると、結果として、平均点は上がるが、最高点は下がるのです。本当は、b→aにすることでc→bと引き上げられるのがよいのです。c→bをすればb→aになると思いがちですが、aの100点超なので、そこからは出てこないのです。

○平均化の障害

まさに日本の教育のようなことがヴォイトレでも起こっているのです。エリートをつくるよりも、おちこぼれをなくすことで、エリートが出ない。金持ちをなくしても、貧しいい人は豊かになるわけではありません。たくさん使う人がいるために弱者救済ができるというのも人間社会なのです。芸事の世界でもそう言われて久しいですが、ヴォイトレでも同じことです。

このところは、この傾向が強まるばかりです。養成所はスクールに、体育会はサークルになったからです。誰もが育つ、誰もができるようになる方法などは、高いレベルになりません。

○スターが出ない

底上げしただけではスターは出ません。日本人の気質が、レッスンでさえ、同質化、均一化されていきつつあります。それは同時に異質の排斥になってしまうからです。

ヴォイトレも、その人の条件を大きく変えようとせず、状態だけを調整するローリスクローリターンのトレーニングが一般化してきました。ハイリスクハイリターンの自分勝手な自主トレの抑制としてならよいのですが、自分でやるべきことをやらずにトレーナーと抑制しただけ、調整だけやっていても、平均点以上の進歩は望めません。

ハイリスクハイリターンから、なるべくハイリスクをとるのもトレーナーの役割です。ただローリターンにするレッスンでは困ったことです。スターが生まれなくなったゆえんです。

○問題を顕わにする

私が思うに、問う力をつけるためにレッスンをするのです。答えを求めたり、正解を覚えるのではないのです。私は、知識やことばとしての、わからないことや知りたいことは初回、レッスン前のレクチャーで、お答えしています。やらなくてはわからないことは、ことばになりませんが、それ以外のことは、できるだけお答えしています。

本人の可能性、これは大体わかるのですが、その変化については、本人の努力しだいで大きく変わるので述べられません。本人の取り組みやスタンスが大きく変わることも期待したいからです。

○ベストは100/+α点

求める声のベストを100点満点でなく、100点超としています。私の考えるベストとは、100点+αなのです。それに対し、ベターを目指すのが大体のレッスンです。100点から何点足りないかを知り、それを埋めていくようなものです。満点を限度としての減点法です。

でも、満点になったからといって、それで何かができるわけでないのです。70点でも芸術センスが50点であれば、100点を超えるのです。フィギアスケートの大会と同じで、規定だけでは勝てませんが、規定がだめでは、自由も苦しい戦いになるということです。そこに基礎レッスンの必要性があります。

○あいまいから脱する

レッスンでは、声に対しての、あいまいなままの状態からの脱却を目指します。あなたの問題が解決するのでなく、まず具体的に浮き上がってくればよいのです。

できないことができるようになるといっても、解決法で1,2回のレッスンで、すぐ直るようなのは、問題でさえありません。すぐに解決しないことが問題です。

ですから、問題が明らかになることをきっかけに、自己変革のためのトレーニングが必要となります。それによって実力がついていけばよいのです。問題そのものは、そういう刺激になれば、必ずしも解決しなくてもいいということもあります。解決できないこともあります。

○あえて矛盾させる

レッスンで何人かのトレーナーにつけるのは、早くあなたや声のなかの問題を出すためです。矛盾であぶりだすのです。

違うトレーナーがついて同じ見解、同じ方法、同じようなメニュで解決していけるテーマというのは基礎であって、それは課題にはなります。やっていくとできていき、それであまりまえのことにすぎません。

そこは地道に平均点をアップをして、優秀に思われるレベルまでやっていけはよいのです。私は、これを「レッスンとトレーニングによる実力の底上げ」=「地力をつける」と言っています。

大切なのは、その先、トレーナーたちの矛盾が出てくるところをどのように自力で解決していくかです。そこにその人独自の世界観が現れるのです。

「バランスを崩すことを恐れず、トレーニングでは、レッスンで整えたバランスの崩れを拡大してみること」です。

○限界と両極を知る

自分の限界を知ればよいのです。それには、両極を知ればよいのです。極端を知ると中庸がわかります。問題、矛盾を起こすことで気づくことがあります。その姿勢を常にキープすることが大切です。

トレーナーや私に質問がくるのは、ことばでは説明しますが、解決しなくてよいのです。解決しないからよいのです。それを役立てて作品や表現になればよいのです。そこに理解や解釈は不要です。私の仕事の一つですが、答えないのも答えということが多々あります。答えられないこともあれば、答えない方がよいと判断することもあります。 私は、声(ヴォイトレ)の問いに、ときどき大きな距離を感じることがあります。何を答えても無理ということがみえるとき、あえて、ことばにしてリップサービスするのは、この仕事に忠実でないと思うのです。☆

○軸

声での基本デッサンが主軸で、そこからの変化が旋律となるように歌を捉えています。

芯―響き、芯は、軸となって、そこからの動きはつっぱしらず、しなやかになっていきます。

そのあたりの声のデッサンまでは、売れているプロよりも、ここに通う人、通った人の方がわかっている、できていると思えることもあるからです。

「始点と終点を整理する」

○始点と終点を整理する

 

 ヴォイトレは、スタートもゴールもあいまいなままスタートすることが多いのです。トレーニングのなかでは、そこを整理して自分の位置づけや目標を、より具体的につかんでいけるようにしていくことが目的の一つです。

 「レッスンでは、メニュや方法を用いて、目標と現状の間にあるギャップを埋める」というと当たり前のようですが、現実には、とても難しいことです。

 全体の把握なくして、きちんとした位置づけはできません。

 サッカーなら「強いシュートを打ちたい」ということを目的として、練習で強いシュートを打つことだけをやっても、他の要素も整えない限り使えません。PKのように無防備のなかで打てるシュートは、ほとんどないからです。ボールを受けてシュートに持ち込む、パスを受けられるところに走り込むなど、「シュート」するために、たくさんの条件がついてくるからです。シュートが打てても「試合がない」「試合があっても、試合に出してもらえない」など。総合力がまったくないシュート請負人などはいらいでしょう。

スポーツや楽器のプレイヤーなどでは、当たり前のことが、声のレッスンにおいては、とてもいい加減に扱われていることが少なくないのです。

○「歌いやすさ」より「自由度」

 

 すぐに本番に役立つ、アドバイス・レッスンでは、比較的、明確な目的ですから、早く、よりよくすることができます。

 歌唱レッスンでは、悪いところで目立つところから直します。でも、その前によいところをみつけ、いつかそこをもっと伸ばせることに気づいたら、ずっとよいことでしょう。

 ヴォイトレでは、共鳴、発声、発音などを、歌でこなせるように改善が求められることが多いのです。そういうときは、くせがついていて固めていたり、うまく解放できないところを脱力して、よい状態で発声できるようにします。人によっては脱力して解放すると、自由度が増す分、歌いにくくなることもあります。このとき「歌いやすさ」より「声の自由度」を選べる人は、本質をつかんで、かつ勇気のある人です。時間はかかりますが後で伸びていく少数の人といえます。

 

○アファーメーションとしてのヴォイトレ

 

 声域を少し広めにして発声で慣らします。歌の音域、声量よりも少し広めにとれるようにします。発音、メロディ(音高、音程)やリズムを基本や応用でチェックするのです。

 声をしっかりとコントロールしていきます。確実に声にして、共鳴にもっていきます。このあたりは声楽の基礎といったところです。

 プロの最低レベルのところでも、このあたりはできていなくてはなりませんが、できている人は稀です。確かな目的への第一ステップとなります。

 

○ことばと発音

 

 せりふやナレーションなどでも同じですが、ヴォイトレで「ことばを使う」と発音本位になりがちで多くのケースでは、発声が中心はなりません。本番とあまり変わらないことで、リハーサルのようなレッスンになることも少なくありません。

 これを母音や子音に分けて、厳密なチェックをして、よしあしを判断し、直していくとヴォイトレらしくなります。

 しかし、この場合も、声より発音やアクセントのチェックで終わることが多いようです。もう一つ基礎に踏み込んで母音の単音やハミングを中心にすればよいのですが、そこまで戻れるところは少ないようです。

 

○イメージの共有

 

 私は、その人のレッスンとトレーニングの位置づけとイメージを共有するため、最初の説明を細かくしています。

 私なりのイメージで相手の今の声、発音、フレージングあたりの出来不出来、目的とそこまでのギャップの埋め方などを示します。

 これが伝わることも伝わらないこともありますが、気にしません。伝わっていないときは手を変え品を変えて、その人にわかるイメージに近づけていきます。トレーナーも同じです。

 最初は、私のイメージや感覚に合わせてもらうところからスタートします。そして、少しずつズレをとっていくのです。

 

○似ていることでの注意

 

 その人の呼吸の延線上に素直に声が出てくると、それは必ず私のものとは異なってきます。

それをもって(本人であることをもって)よしとするのが、よいトレーナーです。

 「自分に似ているか」「同じレベルで同じにできるか」ではありません。

「その人らしくその人の声が出ている」のが、それが声に表れているか、その人が表れる、感じられる可能性のある声を引き出すのです。その点、似ていると、却ってやりにくいこともあります。

 

〇シンプルにする

 

 歌うとなると途端に難しくなる、つまりいろんな要素が入ってくるので雑になるのです。その難題に挑戦している人が多いのですが、私のヴォイトレでは、最も簡単なフレーズや言い回しでチェックするのです。

 それは。1オクターブ半を3分かけて歌う世界からは遠く離れているようにみえます。出している声や発音さえ異なるように思ってしまうものです。

 しかし、そこの感覚のギャップにこそ、あなたの声とイメージとしての限界が含まれているのです。それを解放するために、ありきたりとみえるヴォイトレのメニュを徹底して丁寧に使うことを必要としているのです。

 

○トレーニングの紆余曲折と結果よし

 

 限界をみてどう処理するのか―その前に、まとめてテクニカルに処理するのも正攻法です。しかしトレーニングでは、一時、迷ったり悪くなっても、後にトータルとしての力がついていたのなら、結果としてOKです。

 しかし、本人は不安でしょうから、それらを説明することもあります。スタート(今)からゴール(将来)、までの間にいくつかの目安を入れていきます。

レッスンやトレーニングでは「ど真ん中のことだけをやればよい」というものではないのです。できたら、「どちらかで冒険し、どちらかで徹底することが望ましい」と思っています。

 

○休むと喉は疲れる

 せりふや歌は、知らないうちに疲れを喉にためていきます。やや疲れたときのほうが表現として、より働きかけるといえます。そのためにわざと続けたり、かすれさせて声を使う人もいます。いわゆる、「のってきた」状態です。「のってきた」ときは、もうやりすぎ、使いすぎているものです。

 無理しなければ状態が悪いことを悟られずに、何時間かはできるでしょう。間に長い休みをとると、声は疲れを表に出してしまうのです。使いすぎて少し麻痺、喉が休みをとろうとしているのです。

 ステージの間の休みの取り方は、難しいケースが少なくありません。

 「ステージでは疲れないようにすること」

 「疲れていても疲れを見えるように出さないようにすること」です。声も似ています。元気のない声、ハリのない声では、価値がつけられません。

 絶好調ののりのときに喉(声帯回り)は、もう疲れていると考えておくことです。「喉も消耗品」と意識することは、トレーニング中にリスクを減らす一つの考え方と思います。

 

「芸道」

「芸道」

 

 「何か」があるらしいというのはわかるが、まだわかっていないので、そのことにアプローチしていく。それは「後になって身につく」という漠然とした予感からスタートします。

 その答えは人生の後半にわかるか、もしかすると死ぬときにまでわかりません。一流や名人といわれる人は、死ぬ間際でも時間が足らなかったと言います。

 

○プログラムのないこと

 

 私が専門学校やカルチャー教室を退いた理由に、年内プラン(シラバス)を前もって提出しなければいけないことがあります。会ってもいない相手とどうなっていくかもわからないのです。内容を出すときに考えても、実際は違うことをやりました。カルチャースクールで、カリキュラム通り進んでいくトレーナーのレクチャーを受けてつまらなかったからかもしれません。

 

 歌も芝居も、慣れないものであればわかるまでに時間がかかります。最初で好きになるものもありますが、何回も聞いているうちに好きになることも少なくありません。

 これから大きく学ぼうとするなら、できるだけわからないものに接することです。わからないからといって切り捨てたり、接しないのはよくありません。

一流の作品なら、そのアーティストや作品は、大きな歴史の流れで、人類が人類に伝え続けてきたことにある価値をリスペクトすることです。

それがわからないなら「自分の方に?をつける」という謙虚さ、素直さが必要です。わかるように待つくらいの努力はすべきです。トレーナーやレッスンの内容の判断も、わからないからダメだとか、いちいち説明が必要というのでは、先に進みません。一つずつわかることが必要でもないし、本人がわからないままで進んでいけばよいものなのです。

 まして、音楽や芝居は時間の芸術です。時間を経ないとわからないのです(15秒でわかるのはCMだけです)。「アナログ脳からデジタル脳」になり、ドラマ的展開の成立しにくくなったことを語ったことがあります。

作品はそれを切り出すことで、商品と近い点もありますが。

 

○置き換える

 

 人間関係やコミュニケーションも同じです。相手が第一印象や一回の会話でどこまでわかるのでしょうか。わかるというのは、これまでの自分の経験した範囲での好き嫌いで言っているだけのことが大半なのです。相手が自分よりもはるかに若いと、たとえば子供が、どれほどモノが見えなくて、幼いかはわかるでしょう。その構図を自分より年配の人と自分にあてはめてみて考えるだけでも想像できそうなものです。

 同じことができないという点で、力の差は明らかです。というまでもなく自分のみえていないものがみえている人の存在くらいはわかるはずなのです。そもそも、みえないもののもつ深い世界を感じ得ない人が、どうアートに接していくというのでしょうか。

 私が師と思う人たちは、そういう大きな流れを感じさせてくれました。一日一日私が学ぶよりも大きく学んでいて、その距離は縮まるどころか離されるばかりです。

 私が残念なのは、話していても批判ばかりする人、知ったことで学んだつもりのような人が少なくないことです。たとえば、今の私は、昔の私と違う私です。私自身は今も学んで、昔よりもずっと学べるようになっているから昔と違います。

ところが、あまり学んでいない人は、学んでいくと変わっていく人のことがわからないのです。大体、そういう人は、学んでいない人の中にいるから、なおさら人は変わらないと思い込んでいるのです。

 師は、超えるとか超えないとかでなく、超えられないものの象徴としてあるものです。ですから、技術や知識において弟子の方が勝っていても、どうでもよいことなのです。

 武芸などにおいては、まともに勝負したら30代くらいの人の方が80代より強いでしょう。だからといって「私は師を超えて師の師になった」などと言うなら愚かなことでしょう。

 自分で決定する人は、それがいきて自己完結してしまう危険がいつもあります。井の中や、水たまりにいるのに気づかないのです。

本人なりに学んでいるつもりですから、直らないのです。ですから、偉い人ほど人につく、師を求めて自ら師事してついているのです。学びの程度の問題です。

 

○フェア

 

 昔は、学校の若い先生を町や村の人が、尊敬しつつ育てていったものです。今のようなモンスター・クレーマーはいなかったのです。子供も、誰の子であっても、村や町の子で、天から授かった子だったのです。

 鳥羽一郎の「師匠」(「オヤジ」と読むが師匠のこと)という歌では、殴って育ててくれた師への感謝があり、尊敬があります。

 「人間はみな同じ人間」とみるのは大切ですが、そのために大切なものがみえなくなっているのは否めません。日本人の旧態で日常的だったものが、今の時代も残っている。コミュニティについては、どう判断するのかは難しいことです。誰もが自分の都合のよい方に考えるからです。女人禁制のような域や、宗教の儀式、禁忌なども。クレームとお節介との違い一つでも判断の難しい社会になりました。自分の絶対有利をフェアでないと考え、譲る人がいるから、今の平等があるわけです。

 

○改善のアドバイス

 

1.わからないからやれる

2.わかるとやれない(働かない、学べない)

 

1.ルーティンワークをしつつ次のステップアップを待つ

2.将来を、よりよくする方へ動くこと

3.身体で捉えるよさと頭で捉える誤解について知る

 

 

 

 

 

○トレーナーの全能感について 

 

 「あらゆることを説明できる理論も方法もない」これは科学的に、理論的に取り組むときに基本的な考え方です。わからないもことに対して、精神的なアプローチで物足りなさを感じる人は、たやすく“科学的”や“理論的”なことにとりつかれ、だまされてしまいます。これこそが20世紀を通じて学んだ真理であったと思うのです(オウム真理教日本赤軍などの残した教訓です)。

 

 ここのところ、他のスクールやトレーナーからいらっしゃる方が多くなりました。「安易な方法や実践では1、2年も続かない」ということです

表現者パフォーマーとしては、それなりの実践力のある人でも、他人を教えると、こうも安易な勘違いをするのかと思いました。

1.トレーナーは、最初は、こわごわと生徒に接します。自分の考えややり方が他人に通じるのか、自信がもてないからです。他人に伝えてどうなるのか、誰からも学んだことのない、現場での叩き上げの人ほど不安に思うのです。

 この不安が、本当はとても大切です。これが直観的にすぐれたものと結びついています。いつまでもその初心のスタンスを保持することが大切なのです。

 熱心に他の先生に学んだり、本をたくさん読んだ人は、ときとして、この不安という素直さから入れなくなります。自信満々に入っていく人ほど、やっかいなのです。

 自分が学んだことを試したくてたまらないのです。自分はできる、だから他人も「もっと早く楽にうまくできる」ということを熱意をもってがんばります。「自分の言う通りにするとできるはず」という根拠での、指導、実績のない自信は、自分の成果さえ見誤らせる最大の要因となるのです。

 

2.生徒が満足し、喜んでくれる。生徒のなかで何人かに(基準の甘いトレーナーなら全員に)効果らしいものが表れます。トレーナーは伝わったことを実感します。

多くの場合、それはトレーナーでなく、生徒が秀でているのです(でも、そういう人がくることがトレーナーがすぐれているということです。私は、くるのでなく、3年は学び続けることがより大切だと思います。私のように本を出していると、一度はくる人も多いのですが、見にくるだけの人もいます)。

 

 トレーナーには、自分の言う通りに、すぐできるのが、素質があり、努力している生徒、そうでないのは素質に欠け、努力していない生徒のようにみえることになります。

 すると「自分のように」「自分の教える通りにして伸びた人のように」まだ、「伸びていない人はやらなくてはいけない」、となってきます。

 2、3年もやり、一通りのタイプに慣れてくると、教え方(=型)というのができてきます。よくも悪くもそこから「トレーナーの独自性」が出てくるのです。これが強く出てくるトレーナーと出てこないトレーナーの優劣は、簡単には判断できません。専門化するに従って独自化されていきます。すると、あるタイプとより合うようになる半面、合わないタイプとはより合わなくなってきます(薬と同じです)。そこでトレーナーは柔軟に対応するか、他のタイプのトレーナーと組むかとなりますが、どちらも実際は難しいため、うまくできていることはあまりみられません。

 よりよい事例をみて、よりよく効果を早く集中的に、かつ効率的に上げようとすると、手探り状態で遠慮勝ちにしていた指導が、前向きに、積極的に働きかけるように変わってきます。やや強制的に、ある意図をもってレッスンが行われます。それに合っている人は、よりよい効果が得られ、ますますその傾向に偏ります。だからこそトレーニングです。私はそういう意図がない現状を憂えています。

 トレーナーの自信の裏付けとなるのと同時に、気づきにくい落とし穴になっていきます。やや専門的に深くなった分、多くのケースでは狭くなります。偏向してきているのです。

 しかしトレーナーは、「自分に合っている人しか残らない」という閉ざされた環境でやるので、自分のおかれている立ち位置に気づかないものです。

 

○トレーナーの偏向と流派

 

 トレーナー自身がレッスンの環境ですから、自分とレッスンをやる相手が「トレーナー=自分の環境の中」にいることを意識しなくなります。だからこそ、トレーナー自身が人に学ぶことで、自分だけで勉強を完結=クローズしないことです。他人を教えたこともない、本当に自分だけでクローズしている人ほど、トレーナーを批判するものです。

 アットホームなところほど、そのままファミリー化してしまいます。多くのレッスン生がトレーナーと同じ傾向になるので、さらにその色に染まることが正当化されていくのです。ファミリーの流儀に染まっていくことが上達となってしまうのです(流派なども、こういう類の一例といえます)。

 するとトレーナーも生徒も、共に他のやり方や考え方に否定的になります。情報も、自分に都合のよいものを選びますから閉ざされていきます。似ているものを、ちょっとした違いをもって、競争するならまだしも、排除していこうとします(このあたりは、政治や宗教などと似ています)。似ていないものには無関心で判断がつかなくなるのです。

 日本の多くの歌や芝居は、そういう「主人」の家風がとても強くて、作品に抵抗を感じることがあります。自立した個が集まって共同でワークするのでなく、その家にいないとやっていけない依存的な体質になっています。表現が個でなく、全体の平均値をもって、なりたっているのです。よく私が例える「日本の合唱団」のような均質没個性的な集団が多いのです。それではコラボレーションでなく、排他的な集まりになりがちです(このあたりの日本の組織論です)。他人の前の舞台でなく、その家にいる限り、長くいるほど全能感に満たされ、高揚できるのです。同窓会のようなコミュニティとしての安定感をもたらすので、メンバーも離れにくくなります。そしてグルはますますお山の大将になってしまうのです。メンバーがそれを望む、というのは自立できないメンバーが長居し、常時いることで、そういうシステムが構築されていく、このことはよくあることですが、なかには、節度も失せ、価値も滅していくことがあります。

 

○理屈

 

 声に関わる専門家やトレーナーには一匹狼の人が多いものです。私もいろんなところに呼ばれると、他の専門家と一緒にやることもあります。しかし、他のヴォイストレーナーと一緒という場は、ほとんどありません。トレーナーとしては一人、あとは、医者やアーティストなど、異なる分野の専門家と行うことがほとんどです。企業や文化人の研修などでは、声と体を使うことで異質的なのです。

 お山の大将となると、そういうなかで、同じミスを犯していることがあります。ミスはともかく(というのも何をもってミスとするかは一概にいえないからです)、ミスやミスしている可能性に気づいていないのがミスなのです。

 最近はどういう分野でも、「科学」や「理論」という「理屈」「裏付け」を欲しています。なおさら知識によるミスが見えなくなっています。医者も学者もトレーナーも、よほど気をつけないとそうなってしまうのです。実際に声の分野は詳しい人が少ないので称賛されても、批判はほとんどありません。

 私のように、自らの理論を仮説とし全能でないことを前提に、基礎を語ったものさえ、多くの人はバイブルのように信じたがるのです。何であれ知識や理論、考え方というのは、具体的に適用するのには、厳しい節度をもち、制限して使うことが必要です。それが前提なのです。こういうこともたくさんの人と長くやってきてわかったことです。

 

○有効にする

 

 私は、他の人の考えや理論や方法を否定しているのではありません。それがうまくいくのと同じくらいに、うまくいかないこともあるということを知っておくことだと言っています。誤解のないように。それは私にも、ここのトレーナーにもあてはまるのです。私は、知って対処するように努めています。その違いが大きいのです。

 

 私は、私と考え方や方法の違う他のトレーナーを”有効に”使っています(私の考えに基づいて、同じ方法でやることを強制しないでやらせています。自由にやらせているようにみえてもセッティングや再セッティングに気をつかっています。なかなか生徒さんにはみえないし、再セッティングなどはほとんどの人には必要ないのですが)。

 前提としては、私のレッスンも、有効なものも無効なものもあり、他のトレーナーのレッスンも有効も無効もある。それゆえに、もっとも活かせるようなやり方をすればよいということになります。

 有効、無効という言い方はやや極論かもしれません。

 「ある人においてはあてはまり、ある人にはあてはまらない」というような、おおざっぱなものでよいから、そこに基準をもとうとすることです。同じ人でも状況によって異なります。

 「ある目的に対して有効なやり方は、優先させてしまうために、同時に、別の目的に対してはマイナスになることがある」が正確です。

 薬と同じで、「早くよく効く薬は、同時に早く大きく何かを損ねている」のです。私はそういう(対症的な)化学療法的な治療には用心しています。漢方薬の方がよいと思っています。だから「長期的に」と言っているのです。

 トレーニングやレッスンをこういうケースを言いかえると、治療と言ってもよいと思います。

 巷でよく売れる本や方法は、どうもそうでないものも多いです。早く成果をあげた分(上達した分)早く行き詰まり、早く限界となるものです。自分自身の発見に至らず、他人のまねを求めて(基準にして)自分の声の限界を早めることさえあるのです。

 

 私もトレーナーも、科学や理論といった理屈よりも、説得力のあるものとして、実体験を元に語るようにしています。体験した人の口から言ってもらうことで、信用を高めているのです。こうした体験談こそ、片やまやかしにすぎないし、生徒による自画自賛(トレーナー崇拝)になりがちなことにも気をつけるべきです。

 少なくとも、人は1、2年でなく、5~10年のスパンでみましょう。本人も入ったときにはよいことばかりを思ったものの、何年かたったあとでは、取り消したい衝動に駆られることもあるのではないでしょうか。

 そのあたりが、感想が案外と当たっている「食べログ」とも違います。製品の機能の「価格com」の評価ほどの客観性などはもちえないのです。他の客が再試行しやすいということです。

 本や雑誌、ホームページ、ブログなどには、発声についての理論や方法がたくさん取り上げられています。そこで「必ず」「絶対」と言っているものや「新しいもの」ほど、基本的な理論から離れていることが多いのです。

 歌手や役者のは、かなり常識的なところでの誤りがたくさんみられます。医者や学者も専門分野以外にいたっては、暴論が少なくありませんが。これは、「イメージ言語」としてではない知識でのミスです。

 

○反駁を反証する

 

 私は、声の分野で最も多くのレッスンを言語化してきました。自らのレッスンだけでなく、他人のレッスンを書き留めてきました。それ以上に、多くの人に、ことばにしてもらったのを記録し、比較、検証してきたのです。

生徒はもとよりトレーナーやゲストについても、ほとんどを文章で残してもらってきました。自分のレクチャー、レッスンと同じです。それが単なるレッスン場でなく研究所であるゆえんです。

 本を書くにも、レクチャーをするにも、そこで出せる具体例は、自分の理論や方法を肯定できるデータです。それは、賛成者の意見を聞いて並べるのに等しいのです。

 「科学的に」と言うのなら、自分の理論に当てはまらないケースを集めて、一つひとつ反証していかなくてはならないのです。

 これはレッスンでも当てはまります。私が他のトレーナーと共にレッスンを分担しているのは、私のレッスンに当てはまらない人に当てはまるレッスンのできるトレーナーがいるからです。トレーナー、もしくはトレーニング(方法、メニュ)です。この「当てはまる」とは甚だ曖昧なものです。

 

 レッスンをしたいという人を1年くらいでよくするのは、トレーナーをやっている人なら、誰でもできるでしょう。

 ここでは、複数のトレーナーを最初からつけることで、初心者でも早くトレーナーやレッスンの比較ができるようになります。このトレーニングが自分にはよい、このトレーニングは合っていないと思うなども、一人のトレーナーにしかついていないよりはずっとわかりやすくなります。

 たとえ初心者や門外漢であっても、偏向しなければ、人間の能力というのは案外と高くなるものです。トレーニングするというのは、どこかしら偏るし、一人のトレーナーなら、その程度がわかりにくいということです。トレーナー自身がわからないのです。

 「このトレーナーのレッスンは私の○○にプラスで、あのトレーナーのレッスンは○○に役立つ」などと言えるようになります。

 何よりも「レッスンを受けている人を賢くしていく」ことが本当は重要なのです。

トレーナーの言うとおりにくり返せるだけでなく、自分のためにトレーニングをきちんと身につけていけるようにしていきます。

 声の場合、あいまいになるのは、何でもできるかのようにしようとするからです。判断の基準をつけるには、目的の明確化、できることの制限が要ります。

 これはマンツーマンでは特に大切なことです。そのトレーナーとクローズになるからです。

 

 レッスンは、「今日はレッスンの○○はよかったから、もっとやりたい。でも、○○はいらないと思う」というようなことから始まってもよいでしょう。それが正しいかどうかは別です。でも、主体的になるのが第一歩です。

 一人のトレーナーのなかにもいろんな方法や方針があるのです。それを受け入れつつも共に考え、変えていくことだと思うのです。

 マンツーマンであっても、外の情報を遮断してはいけません。そこでクローズになると、そのトレーナーの価値観だけを元に声や歌が形づくられていきます。トレーナーの理想通りになることは、あなたにはリスクが大きくなります。プロやトレーナーというのは、独自の方法や理屈を売り物にしている人が多いのです。それが薬と同時に毒になってしまいがちなのです。効くものほどリスクも大、そこで極端を避けるためには、時間をかけることです。

 

○制限と判断

 

 私は、グループレッスンのときから、他のトレーナーも使っていました。個人レッスンもトレーナーにやらせていました。「福島のレッスンよりも、他のトレーナーのレッスンの方がいい」という人も出てきました。それは、最初、私が分担したくて、そうして成り立たせるために仕向けたことです。しかし、トレーナ―が力をつけるにつれ、本当に任せられるようになりました。私は後進に譲ることはあっても、競っていくつもりはありません。

 後進のできることは、私はやらずに任せます。いずれは、私ができないことを任せる。これが可能となったのが、今の研究所です。

 

 なのに、そういうことさえわからない人が増えたのでしょう。

 私は自分だけで教えているのでなく、研究所の組織として教えているのです。私がいなくて成り立つこと、トレーナーとのレッスンが成り立つと研究所として、もっともよいというのが私の立場です(これはグループでも毎回言っていたことです)。

 

 日本人に「主体性」を気づかせるのは、殊のほか難しいものです。レッスンをマンツーマンにしたのもグループでの主体性が失われてきたからです。

 間違えないでほしいのは、方法やメニュの差異を比較して、トレーナーの優劣を決めても仕方ないということです。

 少なくとも他のところより、比較され競争にさらされるここのトレーナーは、独自性なくしては続きません。生徒がつかなくなります。誰にも支持されていないトレーナーはいられないのです。

 

 目の前のトレーナーから学べることは学びつくせば、おのずと次のステップが見えてくるのです。

 付言するならば、ここで私から学ぶことを声だけとするのはもったいないことです。せめて耳を、できたらスタンスを学んでほしいものです。

 もっとも自分にふさわしいトレーナーをみつけるには、目の前のトレーナーを理解し使いつくすことが第一歩です。使い方を学ばずに、他のトレーナ―についても同じことです。

 

 他のところでついていたトレーナーに不服があっていらっしゃる方もいます。しかし、他の人は、「そのトレーナーからも、もっと多くを学んでいる(可能性がある)」ことと、ここでうまく続けたければ、「トレーナーよりも自分のスタンスを変える」ことをアドバイスしています。

「自分が関わった人を自分に活かせること」が「有能」ということです。[E:#x2606]「自分を変えることが学ぶことの意味」です。

 

○評価について

 

 自分を出し切る。それは第一の条件です。しかし、出し切ったくらいでできるのは、声を二次的に使う分野くらいです。

 どのトレーナーが合っているかとか、レッスンのどこがプラスなのかというのは、習っている本人が、自分の「今の器」で考えたり、思いこんだことです。その思い込みや判断がさらなる成長を止めていることもよくみられます。

 自分の判断を取るか、トレーナーの判断を取るかは自分で決めたらよいともいえるのですが、経験も直感もそれなりに必要でしょう。自分で判断するのか判断を他に任せるのかに、その人の本当の力が出ます。すべて自分で判断するのは学べないことになるのです。

 

 研究所は学ぶ場であり、サービス業のようなビジネスではありません。「お客様として生徒をみているのではない」のです。

 私が生徒にトレーナーのレッスンの評価をさせているのは、最近取り入れられている学校での「生徒による教授評価」とは意図が違います。生徒の考え方や学びのレベルとその進歩を知るためです。それでトレーナーを判断しようと思っていません。「生徒が先生を評価する」「それを先生の評価とする」というのは、ビジネスの顧客満足サービスと混同したおかしな制度です。

 トレーナーも人間なので、ムラもあれば失敗するレッスンもあります。苦手な人もいれば、教え方の相性が合わない人がいます。すぐにうまくいかなくてもよいのです。私は、直接のレポートなどもあるので早く気づくことができます。でも、トレーナーと学ぼうとしているのであれば長い目で見るようにして欲しいのです。

 どのトレーナーにも万能になれとは望んでいません。たレッスンは、トレーナーも生徒も、一緒に改良していく姿勢で臨んでいくものと思っています。お互いの研究であり創造です。過去の伝承だけであってはならないのです。だからこそ、記録し、考え、判断し、そして、力を伸ばすのに役立てていくのです。

 

○学び方

 

 私はここのシステムや制度をもって、トレーナーや生徒に学ぶ場のありよう、学び方を伝えているつもりです。それが変わらないのに声が大きく変わることもあまりありません。

 私のところのように、他のところではレッスンができない人もくるところでは、いろんなタイプのトレーナーが必要です(最近は、トレーナーをレギュラーと専科に分けました)。

 そういう組織がないなら、トレーナーとして、勘を鋭くして、「自分のやり方が、相手の望むことと合うときは引き受け、合わないときは引き受けない」というルールをもって対処すべきでしょう。この「合う」「合わない」というのは難しいのです。大半は、真の目的が不明確なままにいらっしゃるので、声だけで判断するのは至難の業です。未経験なタイプについては、レッスンをしてみないと、わからないです。たくさんの試行錯誤の経験なくしては得られません。

 私のように何十タイプものトレーナーや何百タイプもの人を何年もみてきても完全にわかるわけではありません。わからないゆえに、選ばずに新しい人を引き受けてきました。400人くらいの人を毎月、グループで続けて10年以上みていたことは、今となっては、願ってもできないよい経験でした。

 ですから、今の私はトレーナーの適性や使いどころといった、位置づけをおこなう能力については自信があります。

 医者や他の専門家にも通じるようになってきました。年に何人か外国人のアーティストやトレーナー、専門家なども訪ねてきます。そのレッスンをみると、大体、理論、考え方、方法、声への判断基準がわかります。その人のスタンスや位置づけがわかります。得意なタイプや合うタイプと、その逆も。

 そういう人たちの方が、自分自身のやり方、他との共通性や異質性をまったく知らないので、指摘するとびっくりされるのです。特にヴォイストレーナーは、他のトレーナーと共同で仕事をしないものなので、そういう経験はほとんどないのです。

 

固定観念を外す

 

 トレーナーの中には、最初から決めつけてかかる人が少なくありません。「あなたの声は…だ。だから、こうすべきだ」と。これでは初心者のトレーナーよりも悪い結果になりかねません。

 確かに一回のレッスンで、わかりやすい人もいます。しかし、わかったつもりでわからないこと、そう思っても必ずしもそうでないという可能性もあるのです。そういうときは、よくも悪くも、判断を棚上げにしておくことが大切です。つまり、先送りする。保留にしておくのです。

 すると、生徒は不安になるかもしれません。でも、そこで判断して、へたに希望をもたせたり、絶望させても仕方ありません。最近は、可能性を高めに見積もりすぎ、希望ばかりをもたせ、勇気づけることに行き過ぎているようです。それをメンタル対策としているようですが、フィジカルを軽視してはなりません。

 レッスンを続けさせたいために甘いことを言わざるをえないのが、今の多くのトレーナーです。やさしく仲良くやっていくことが、メンタル的に弱く依存しやすい人の多い声の分野では“つなぎ”となるからです。

ヴォイトレは、ヒーリングなのか、ストレス解消なのか、自信をもてばよいのか、自信の元となる本来の力をつけるのか、どれが大切なのかをよく考えてみることです。

 

○短期と長期

 

トレーナーとしては、トレーナー本人の力量を信じさせないと効果も出にくいし、レッスンも続かないので、どうしても過度に勇気づけたくなるものです。早くレッスンの効果をみせて信用させたいとの思いから、多くの方法が使われています。TVや本で紹介されているものの、「一目でわかる」といった類のまやかしものが多いです。

 何もかも「○○を見れば」「○○すれば」「○○を直せば」、それだけで「すべてできる」「ずっとよくなる」ということに対しては用心することです。

 私は、そういう軽さにうんざりするのです。短期ではよくても、長期では続くはずがないからです。そこで続かなくなって、ここにいらっしゃるからです。それもプロセスとしてはあり、と認めています。

ですから私は、「最初からここに来ればよかった」などということは一切言いません。そのプロセスがあって気づけたので、遅いということはありません。どんな過去も結果として、よくなった人には必ず肯定できるだけの意味(学びの深さ)をもつのです。

 人間は愚かなもので、急ごうとするほど、短期のくり返し、浮き沈みのくり返しだけで、結果としては、大切な時間をずっと使っていってしまうのです。

 この時代、長期でものごとに取り組もうとする人は、それだけでかなりのアドバンテージがあります。研究所は、当初からそのスタンスをとっています。「トレーニングとは、今すぐ役立たないことをやること」です。それをヴォイトレにおいて実践してきたのが。ここです。

 これは基礎についても、あてはまります。「基礎も今すぐ役立たないこと」をやるのです。多くの人が、基礎を欲しつつ、実際のところ徹底しないし、続かないし、やっていないのです。だから基礎が大切といわれるのです。

 

○なぜできないのか

 

 「できないことをできるようにしたい」これがレッスンの大きな動機です。しかし、「なぜできないのか」ということと、「できたらよいのか」ということを、よく考える必要があります。

 目標のとり方として、

「できないよりできた方がよいもの」と、

「できなくてもよいもの」と、

「絶対できなければいけないもの」

 があります。

 どれを優先すべきかは、けっこう重要な問題です。目的にも人にもよると思います。

 

 「なぜできないのか」は、結局、「絶対にできなければいけないもの」についてだけわかればよいことです。「わからなくても、できたらよい」のですから、方針としては「できないことからでなく、できていることからアプローチする」ことです。

 本当のことを言うと、「あなたができていると思っていることは、実はしっかりとできていないから、できないことが出ている」のです。この「実は」「しっかりと」がわかることが肝要です。

 これを考えてみると、「トレーナーはできていないとみるのに、自分はできている、あるいは、わからないとしている」、そこが根本的な問題です。トレーナーは、「そこができていない」と判断して、解決策を与えます。解決には、その「できていないということを判断する基準」を身につけなくてはなりません。

 

 基準のレベルの差を知ることが、ヴォイトレの第一歩です。「それができていない」のを知るために、声域や声量などの限界をチェックしてみるというならよいのです。しかし、それが目的になっていませんか。

 今や「○オクターブ以上、○日で出せるようになる」というようなマニュアルに惹かれる人も多くなりました。ということは、真の目的さえ、まともに立てられないという人が多いということです。

 そのような副次的な目的をメインにおくと、一見わかりやすいようです。しかし、基礎は乱れていくのです。応用の応用をやっても基礎は固まるどころか、ひどくなるのです。今、通用していない1~2オクターブが3~4オクターブになったからといって、何がよくなるのでしょうか。歌は1オクターブ半もあれば充分です。

 

 副次的な目的とは、「そうなっても大して役立たないが、身についたときには、それに伴って得られるものがある」ことです。ある分には、ないよりもよいが、それを得る努力に見合う目的にはならないことです。確かに「3オクターブも出る」ならば、どんな歌も調を変えずに歌えるでしょう。でも歌はそこで競うものではありません。声域の伸びに伴って発声もよくなっているならよいのですが、逆になったら意味ないでしょう。

 問題は、そういうキャッチに惹かれる人は、声域がないから歌えないと思っている人だということです。声質や発声もよくない。声域ばかりを目的にやっている人もいます。そこから脱しないと悪化させてしまうということです。その問題から一時離れることがもっともよいことなのに、同じところに惹かれてしまうのが、大問題です。

 

○表現における二重性

 

 日本語の勉強を、文法で捉え「主語」での欠陥を指摘する人がいます。「主語」のような概念は、欧米の言語学からきたもので、そこからの分析で日本語のよしあしの判断はできません。日本語にとって不利な分析となります。

 国の将来の経済方針をアメリカが作り上げた経済学で、日本の社会に当てはめても当てはまらないし、使えないのと同じです。

 欧米のベース(言語、リズム)の音楽を、日本語をつけて歌っても、日本人の声や感覚の根のところにあるものには、簡単にはならないのです。

 私が、日本人のオペラやミュージカルに反射的に入れないのは、それが日本人でないものを具現化したままだからです。クラシックは古典としてグローバルなものになり、多くのミュージカルも違和感なく感動させられます。問題は、日本語で日本人が演じているところです。演目が向こうのもののままであるときは、それを超えて個人の声がリアルに働きかけてこないという、現実のパワー不足が第一なのでしょう。

 

○JAZZのレッスン

 

 ジャズのヴォーカリストが何人か来ています。研究所では、21世紀の日本で「英語で1960年代前後」のジャズを歌うという、表現のあり方、あり様にあたらざるをえないのです。現状、現実的には見過ごしたままでいます。レッスンでは、次の3つができていない人が多いからです。

1.声楽、クラシックのレベルでの発声より丁寧なロングトーンやレガート

2.音楽的基礎、正確な読譜、メロディ、リズム

3.声の管理、タフでつぶれにくい声づくり

こういう問題は、音大レベルの基礎のなさ、声の管理や使い方(応用)の不足からです。

 

 歌唱は、バンドの人の判断へ預けて触れないこともありますが、「スタンダードとしての1960年代の歌い方」です。

 ジャズピアニスト、ギタリストが教える歌は、声の使い方が雑であることが多いと思います。楽器のプレイヤーですから自分のプレーの音で考えたら、もっと丁寧に、繊細に扱わせるようになるでしょう。

 女性歌手しかいないので、自ずとMCと心地よさ優先となるのです。

 日本には音楽的センスでの「伊藤君子型」が多く、「金子マリ型」は、希少です。

 このあたりは、いつか詳細を語りたいのですが、今は、このままではジャズでもオペラも邦楽も、20年後に存在の意味がなくなった後、存在しなくなるのではと危惧しています。

 1960年代後半に団塊の世代が支えたものと壊したものは、共に大きかったといえます。日本のなかで音楽というものを大きく変えてきたし、未だに保ち続けていることも否定しようがないのです。

 

○正しいと言うな

 

 声に正誤はありません。あるのは、広さ、深さです。それゆえ、程度とできの問題です。ですから、一つの方法でなく、いろんなやり方、アプローチがあり、プロセスがあり、効果があります。

 せりふは、ことばとしては、子音で共鳴を妨げ、具体的な意味内容を得られるかわりに共鳴の美しさを損ねます。しかし、美しさよりも伝わる味を得ます。

歌は損ねるものの方が多くなったゆえに、その地位を他に譲りつつあります。

 レコード―ラジオの時代は、万能にして神のような声や歌も少なくなかったのです。その完成度をもって伝わるものは大きく、今も、その後のテクニカルに加工されたものを凌います。

 神の領域にものごとが達したとき、それは、次の世代では保てないという運命に甘んじることになったように思います。

 歌のない世の中は、歌が不可欠とされるような状況、時代よりはよいのかもしれません。声についても同じようにいえるかもしれません。[E:#x2606]

 一流のヴォーカリストは一種のカリスマであり、天才です。ヴォイトレでは説明できません。その世界に触れ、伝わるものによって、時空を越えて、新たな人間の可能性をもたらします。そういうことのきっかけの場として研究所があり、レッスンが機能すればよいと思います。

 

○共感

 

 学び手が引き出すトレーナーの能力について述べます。

 かつて、私は、研究所のライブのステージを見て、一言も語りませんでした。そこの場は真剣に臨む人が多くいて、それだけでことばは必要としなかったからです。

 私がうしろにいて、空気を緊張させていれば、何も話さずとも伝わるものがあったからです。歌ったら何か起きる。そういう歌を聞くと、何も起きなければ歌の意味がなかったとなるのです。正直に言えば、歌や芝居に対して、今ほどに語れることばを私自身も持っていなかったのです。

 

 ステージですから「何かが起こった」らわかります。誰もがわかってこそ、「起こった」といえます。

起こらなければ失敗、というよりも、勝負以前なのです。何かを起こすかどうかは別として、出したところで何かが起きなければ表現ではないのです。

 それが、私がいちいちその破片を拾ってことばにしなくてはならなくなりました。次に、一人ひとり、誰にでもわかるコメントを与えるようになって、その場はスクールの発表会と変わらなくなりました。

 

 時代も変わりました。歌も、せりふも、声も、音響技術の加工の力の発達に反して単調になってきました。声やことば使いのレベルでなく、ことばを、声の動かし方で全く別のものにできない人ばかりです。今そのレベルは、歌手よりもお笑い芸人の方が達者です。

 

 昔は、「自分を出すような歌はうるさいから、神の声に委ねろ」と言っていたのに、今は「自分を出して歌ってください」と言っています。

 表現力は、体力とメンタルに支えられます。その我が弱くなり、その人の生き方、生き様が出てこないのです。

 歌が、メロディやことば、アレンジなどこなされてしまうと、私は、オペラやミュージカルと同じで、よくないリピート状態となり、飽きてしまうのです。

 歌や表現を、たとえレッスンの場だからといっても殺してはなりません。「先生として生徒を評している」というのはよくありません。知り合いの間柄だからではなく、誰でも惹きつけられる表現、と願っています。

 

○自立した歌

 

1.その人を知っているから我慢できる歌(カラオケ)

2.その人の努力、歌への思い、好き、が出ている歌(のど自慢本人)

3.その人の後ろにあるものが伝わってくる歌

こんな感じでしょうか。3が神(これは「人類が太古から今まで生きて受け継いできた大きな流れ」のようなもの)

 ですから私のレッスンで使う歌のほとんどは、「誰かに(私自身にも)伝わり、一人でも多くの人に私が残したい、伝えたいと思った歌唱や曲」です。そうした曲は、その声と共に普及して生き永らえてきたのです。

 

 生き生きと「生命力」にあふれ、「リアル」に3D(立体感)に迫ってくるものが、表現としてすぐれたアートです。その声で伝わるその人も生き方は、生きる力を与えてくれます。

 それがどうしてなくなったのでしょう。意識として、それに対抗する「死」がないからでしょう。

日本では3.11で身近に死が迫ったとき、歌は一時命を吹き返しました。でも、人間の歴史のなかで死は常に生に対峙して、身近にあったのです。命が危険にさらされたときの感受性の鋭さを失い、舞台では創造性は駆使されてきました。今やアートは、好きの延長上のひまつぶしでしかないのでしょうか。

 

○できること

 

 私はかつて、研究生の出してくるものに、いちいち論を返していました。私のスタンスをまっこうから否定してくる人にも対峙してきたのです。そこで時間をかけて答える姿勢を保ち続けることが私の生きることの一部でした。  

 ところが、対し方を伝えたいのに、その論の正誤ばかりにこだわる人が多くなりました。今も意見や感想はそのままに掲載しています。あえて、反論はしません。そうしたいと思わせないからです。そうしたいと論破する後味の悪さで、私も、日本人らしく大人になったのかもしれません。

 

 「相手のことを理解できるというのは幻想」です。どうしても無理なことで、「それを知った上で理解する努力を諦めない」ようにするものでしょう。まして、それがことばのやり取りでできると考えられると、ことばを放棄しないとと思うわけです。

 こういう分野は、先のわからないものです。わからなくてよいのです。わかってしまうくらいのものならつまらないし、わかってしまったら、投げていたでしょう。

 「わかっている、正しいのはこうだ」というような人には関わっても無駄と思うのです。そういう人ほど、貧弱な声しかもっていないものです。

 ちゃんとした声をもっていたら語らなくてもいいからです。

わかるというのは、どこかで見切っているだけです。わからなくても、一部わかっても、どうでもいいのです。できることが大切なのです。

 

○わからないものをわかるな[E:#x2606]

 

 コメントにも、わかりやすさばかりが求められるようになりました。

 音楽を「聞いて、わからない人に説明しても仕方ない」です。そのコメントをきっかけに何回も聞く人もいるというなら、やってみる価値はあります。万に一つでもそういう効果があるならお勧めします。それがレッスンというものになります。

続けていると、あるとき「わかった」とくる。学ぶというのは、そういうものです。

 今日聞いて今わかったとかわからないなんか、どうでもいいのです。そんなに簡単にわかったなら、大して、あなたが変わることではない。

全くわからないものなら、それがもしかしたらわかるだろう、わかりたい、わかったらおもしろいかも、などとなるかもしれない。そういう「いつかの自分」への直観を働かせて期待するのが、「学ぶ」ということです。

 今の人は「わかるように教えてくれ」とか「わからないからつまらない」とか「わからないものはよくない」と、自分で幼い判断してしまうのです。今のままでいたくて、将来もずっと変わらないと宣言してしまっています。幼児と同じです。

 

 私たちは若いころ、わからないものを知りたかった、見たかった、味わいたかった。そして、わかっている人、あるいはわかったようにみえる人にコンプレックス=ギャップを強く感じた。そこから抜け出せたら、その溝が埋まれば、もう一つ上の世界がみえてくるという予感があった。

 貧しく悪環境におかれていると、こういうことが起きやすいし、豊かで恵まれていると起きにくいのかもしれません。

 「変わりたい」という欲求は、自分の外であれ内であれ、逆境を強く意識しなくてはいけないのかもしれません。今は「変わりたい自分」より「変わりたくない自分」が強くなったのでしょう。でも本当にそうでしょうか。

 今、日本人の甘受している豊かさは自分のものでなく先人の作りあげたものです。それに気付かないのは平和ボケです。何一つ自分でつくっていないのです。

 昔から子供みたいな人はたくさんいましたが、そのことを家や学校や社会で気づかされたのです。そういうメカニズムが、今は働いていないのでしょうか。

 先生が教育の先には何もないようなことさえ言うのです。まわりがどうであれ、問題は、いつも自分自身なのです。

 

○整えていく

 

 BV法とか理論とか言っても、そんなものがあるわけではないのです。しぜんなものの成り立っていくプロセスを理解して身につけていくアプローチの一手段として命名しているだけです。

 「ブレスヴォイス」というのですから、息を吐いて声にする、声を出して生活しています。そういうなかに声や歌において、すぐれた人も劣った人もいる。なら、もう少し深く息を吐いて、深く声を出して、生活を深めたら声も歌もよくなるといったようなことです。

 体や呼吸の調節も似たようなものです。日常が浅く乱れているなら、ある時間をとって、ある場所で集中して(非日常として)整えていくのです。そのくり返しがトレーニング、そのきっかけがレッスンです。

 身体の能力を高める、感覚、心、精神関係と、全てにもっと丁寧にアプローチをしていくのです。そのプロセスはヨーガとか武道と同じです。BV法もモデルの一つにすぎません。

 

 何事であれ、これまでに心身をプロとして扱って何かをなし得たことのある人は進歩が早いです。声や歌というものは、その土台に体と感覚のコントロール、筋力なども含まれます。土台があって今のあなたの声も維持されているのです。

 少々、無理をしても応用しているうちに基礎も固まります。

 昔の役者は、音大生などよりもずっと声の習得が早かったと思います。今は声も呼吸も浅い人が多いです。アナウンサーや声優もです。浅い呼吸の上に急いで正確な発音をつくろうとするために声が素直に出てこないのです。

 体は健康であれば、半分はもうOK、そこから限界値の100%までというのはオリンピックレベルを望む人だけ、大体は、20%もアップできたら、何をやっても大体は、うまく適応できると思います。

 

○理想から引きあげる

 

 ヴォイトレは、普通の人の力50%を70%くらいにしていくものです。しかし、積み重ねるより天才ヴォーカリストと言われるような人のもつ完璧さ、100%の感覚の方から引きあげられるようにしていく、感覚―イメージ―体の順でレベルアップしていくのが理想です。

 私としては、未熟な体をそのままに、小賢しいレッスンからたくさんの技巧を習得して、歌をうまくするようなことは、百害とは言わないまでも、一利しかないと思っています。名人のものをたくさん聴くことが大切、そこから感覚、そして体を変えていくのです。

 聴いていても聴き方がなっていないからうまくいかないものです。そこをトレーナーが感覚と体の両面から部分的によくしていくのを手伝うのです。声もせりふも歌も丁寧に聴けるようにしていくのです。

 音楽やせりふは、時間のアートです。時間をどうみるかです。これは「永遠の問い」にも通じます。ともかくも、無音から一つの音やその動きに集中して、ゆっくりと学ばなくてはなりません。

 私は、ピアノ伴奏に頼らせずアカペラをメインにしています。何でも描ける透明なキャンバスに声を吹き付けさせるようなことを意図しています。

 私のレッスンはとても静かです。その人の声だけが響きます。声で時空を変えるのですから、時空が止まらないとダメなのです。時空を一瞬で変えるようなことをやろうと試しているのです。

 

○開かれる

 

 これまで、いろんなレッスンをみたり経験してきました。ワークショップは騒ぎすぎ、個人レッスンでもピアノや声がうるさいのが多くなったように思います。日本人はおとなしいので、トレーナ―がテンションをあげさせようとします。それでは、本人の感度が高まりません。

 私の合宿では、静寂のなか、小さな鐘を鳴らし、そこに小さな声を一人ひとり重ねていくようなことをしていました。どんな音も、もともと遠くまで聞こえるのです。とはいえ、この共鳴とロングトーンのコントロールは、基礎として、呼吸や体がないとしっかりとはできないのです。まずはできていないことに気づけばよいのです。

 

 私の手伝いをさせていたトレーナーがあるとき、私の全体評(ステージ実演のコメント)のあとに自分も「私と同じことを、寸分たがわずにノートに書いた」と言っていました。「10年もいたからわかること」だと思いました。

 評というのは、歌への評価ですが、本当に大切なのは「スタンスとして、今、何か欠けていて、どうしなくてはいけないのか」ということです。

 ステージの多くの問題は、歌でなく、そのスタンスにあるのです。スタンスができていたら何をどう歌っても大体はもつのです。できていなけれな、どんなにうまく一所懸命歌ってももたないのです。

 スタンスとは、「落とすべきところに落として、納まる」ということです。その人の「表現の力」、その人の「存在理由」が「納得できる」「腑に落ちる」ということです。

 何にしても「鈍い」を「鋭い」にしなくてはなりません。

 レッスンでさえ、スタンスで決まります。それをみている人が感動するようなものでなくては、と思うのです。私はいつも第三者に開かれているように意識してやっています。グループやマンツーマンでも、先生と生徒でクローズであってはならない。誰もいなくても常に外に開かれている。そう感じているべきだと思うのです。

 

 考えてから動くのでなく考えなくても動くようになることです。ピンポーンと鳴ると同時にドアの前にいる。そんな反応のできる感覚と体づくりの方がよほど大切です。

 身体性の問題は、ここのところ、何事においても中心になりすぎたきらいがあります。とはいえ、声を支えるもの、歌を支えるものですから、大切です。私はよく「頭でよいと思っても、頭ゆえに判断を間違うもの」だと言っています。

 そういうとき、「バッティングセンターでいつもより打てるか(ボーリングでもダーツでもよい)チェックしたら」と言っています。頭でよいと思っても、結果、打てなければだめ、頭でだめと思っても打てたらよし。

 それゆえ、身体が不良(悪い状態)と頭が思っても信じません。レッスンには、「体でいけ」と言っています。「倒れていなければ行ける」ということです。

 私に関してはワークショップのメニュに、レッスンではできないいくつかの体、感覚の刺激、耳と声のつながりみたいなものを入れています。ご参考に。(リットーミュージックの「裏技」に詳しい)

 

○BV理論

 

 理論を用いるのは、自分の体をモデル化して捉え、イメージで動かしやすくするため、記憶するため、再現しやすくするためです。私のイメージのモデルは、頭と胸の中心に2点があって、それが結ばれている軸とします。地声や話声の弱い日本人対策として、胸の真ん中に口があるようなイメージ(胸部体振)をつくりました。

 それは私のイメージですが、素直な人ならイメージそのままに自分の体に読み込めるのです。

 私たちトレーナーは、生徒の発声の母体としての体を自分の体に読み込みます。その逆をするのです。

 とはいえ以前に違うところから読み込んだものが、あまりに強かったり、頭で考えたイメージが強いとなかなか入れません。できたら一度白紙に戻して、トレーナーのイメージと柔軟に入れ替えられるのが理想です。

 イメージは一度入れても変化していくものです。その変化に対して、同一のものを再現できるようにしていくのが基礎レッスンです。

 トレーナーのそれぞれに言っていることや、方針、方法が違うことはよくあります。ことばの矛盾は、イメージをもてずにやっているから起こるのです。ことばそのものに囚われずに、それをイメージでとらえなくてはなりません。ことばは、インデックスに過ぎません。

 

○「よい状態」を知る

 

 かつて、10年前、合宿で軽井沢に行ったのは、心身を解放された場でリラックスと集中を感じさせたかったからです。スタジオの次元と異なる深さで体験させたかったからです。

 いい状態にするのに時間をかけるのでなく、「いい状態から始めたい」なら、いい状態になれるところに行くのがよい方法です。

 よく休み、よく眠ることも大切です。頭で考えてわからないのなら、黙って騙されてみればよいのです。そこで疑うと心身は深まらなくなります。頭が妨げるからです。何事でも、ある種の大きな信仰心がいるのです。宗教めいたことを言うと嫌う人は少なくありませんが、哲学も宗教もアートも同じことを目指しているのです。

 

○判断しない

 

 日常レベルの声や歌がうまくいってないこと自体があなたの判断の誤りです。それは、感覚やイメージの誤りでもあります。それでも、学びにくる人は自己評価は客観的にできているから、ずっとよいのです。その判断を一時預けて、トレーナーに替ってもらうのがレッスンです。何でも自分で知ることは必要ありません。トレーナーと分担すればよいのです。

 

○あこがれと身体との間

 

 快感にも2通りあります。音楽で体が踊りだすようなもの、これは他律的なものです。それに対して自分の心身内部からの心地よさは自律的なものです

 レッスンは、「他から入り自に至らせるプロセス」です。他から入るものは嫌なものもありますが、それを受け入れていくことで、より早く大きく変化できるようになるのです。ですから、嫌なトレーナー、嫌なレッスンも大いに貴重だと思います。

 幸か不幸か私のところには全ての人に嫌われるようなトレーナーは、残れないのでいません。「最初は苦手と思ったトレーナーに、いつしかしぜんに対応できるようになった」とき、その人の器が大きくなった、真に成長したともいえます。歌屋芸術も人間関係とまったく同じですね。