「基本と応用について」

○基本と応用について

 

 レッスンの進め方を、レッスン受講生によせて変えていくか、トレーナーのもっとも自信のあるやり方で貫くか。

 トレーナーが

1.トレーナー(師や先生)から教わった方法

2.トレーナー自ら得た、もっとも自分にふさわしかった方法

3.指導に効果をあげた方法

 これらを型としてそのまま指導していくのか、レッスン生に合わせて、ときに新たに方法やメニュをつくりあげて、与えていくのか、どちらがよいかということです。

 私のところでは、これは常に問題です。しばしば私は判断を求められます。原則として、一人で教えず、複数のトレーナーをつけている研究所では、必ずこの問題は出てきます。意図して問題としてあがるようにしています。

 

 邦楽においては、絶対、守るべきは口伝でした。ところが、現代のメディア(音声動画の再生技術の普及)は、師弟制度の絶対性を根本から弱めました。

 1は、海外のノウハウを日本に持ってきただけのトレーナーにも通じます。

 2は、独善的に偏りやすい、トレーナーがどのレベルまで到達したかでみることとなります。そのことと、他の人にどこまで通じるかには、けっこう距離があります。

 3は、現実として人をどこまで育てられたかということです。

 それぞれ、その判断について一冊の本にできるほどの難題です。

 師をみるには、その弟子をみることもよい判断です。どんな弟子を育てたか、育てているかということです。あるいは、その師の師に聞いてみるのもよいでしょう。

 それによって、1、2、3のメリット、デメリットが少しは克服できます。優れた弟子になりたければ、優れた弟子のいるところを選ぶのも、一つの選択です。

 

〇オーダーメイドのレッスン

 

 時代としては、一人ひとりのレッスン生をみて、メニュや方法を組み立てる方へと、トータルとしてのオーダーメイド方式になりつつあります。

 私のところでは半々の割合を保つように努めています。

 トレーナー独自のやり方と研究所としての共通のやり方も半々、トレーナーの望むやり方と生徒の望むやり方も半々、そこで調整していくのが最もよい方法とはいえませんが、当初は、比較的よいと思っています。

 お互いを知るにも、その才能や性格を知るにも、時間は必要です。あえて試行錯誤の幅を広くとるのです。それを急いで一人のトレーナーの一つのやり方で走らせてしまうと、賭けのようになります。

 

 最初につくトレーナーの影響力が大きいことは注意しなくてはなりません。そこで価値観や判断のベースができることが多いからです。つまり、最初やその次のあたりのトレーナーは、レッスン生の判断基準の生涯のベースとなりやすいということです。

 

 自分に何があるか、何が足りないか、それはどう得ていくのか、誰から何を学ぶのか、ついたトレーナーからは何が最も学べるのか、それを自分に活かすためにはどうすればよいかといったこと、レッスンの内容、方向、自主トレの内容、メニュは、大切なものです。できたらそれを定めていくことをを当初の目的としてもよいくらいです。

 

○複数のトレーナーのアドバイスと相性

 

 一人ではなく複数のトレーナーのアドバイスにヒントを求める方が、気づきやすいのは、いうまでもないでしょう。自分に合うタイプ、相性のよいタイプもいれば、そうでないタイプもいます。そうでないからだめかというと、だからこそ必要、かつ効果的ということもあるのです。

 人につくというからには、できるだけ多面的に自分をみていくことが大切です。

 

 声はわかりにくいのです。自分とトレーナーとで比べていけばよいのですが、なかなかトレーナーの声も自分の声もわかりません。トレーナー一人よりも複数名にすると、複数の声の接します。すると、より早く、そして、深いことに気づけます。トレーナーの相違からわかることが多いのです。ですから似たタイプトレーナーをつけることは勧めていません。そこから、自分も客観視しやすくなるのです。

 歌も、一人の歌手ばかりしか聞いていないと、どこまでその人の影響か本人のものか、わからなくなるのと同じです。

 基本は、「今のあなたになく、トレーナーにはあって、自分の欲しいところ」です。みたり知ったりできるところではありません。みえても人様のものです。そこではトレーナーをみるのも、ベテランの歌手や役者をみるのと変わりません。

 

〇分化と統合

 

 トレーナーが見本ととして、わかりやすく、ゆっくりていねいに、スローモーションで分析してみせても、本当の基本とは違うのです。語学の勉強は、ゆっくりしたものを聞くよりも、ネイティブの早さに耳をならしていくことが基本です。ヴォイトレも、トレーナーが相手の体や感覚に近づいていくのでなく、その体、感覚を鋭く変えていかなくてはならないのです。私は、課題は短くはしますが、ゆっくりにはしません。

 次のどのスタンス(目的、レベル、本人の実力)で行なうのかが、大切なことです。

 

1.ステージ

2.曲の構成

3.1曲すべて

4.1コーラス

5.AメロかBメロかサビ

6.4~8フレーズ(8~32小節くらい)

7.1フレーズ(4~16小節くらい)

8.ひとこと、ひと声(ことば一つ)

 

 のように細分化します。その分、ていねい、かつダイナミックに、マックスの表現を求めます。次に8→1へ応用していくようにしています。

 

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○トレーナーの出身

 

 かつてトレーナーは、皆、実演家でした。先輩として後輩を教えていたのです。そこには世代、つまり年代の差=年齢差があり、おのずと師-弟子の関係があったのです(師は、一家を成し、家元ともなりました)。

 芝居で、演出家は俳優から、プロデューサーに、ありました。ディレクターはアーティスト(歌手)から、兼任、そして専任となっていきました。俳優やアーティストとして大成しない人が、次に、その途中で教えるほうの才能を買われて、専任のコーチやトレーナーとなる人が出てきました。そのあとは、舞台実践者としては、あまり経験や実績のない人も、別の専門分野の勉強を元に演出家やプロデューサーになるようになりました。

 この経緯は、評論家やコンサルタントの誕生と似ています。批評から評論という専門家として、一般の人のナビゲーターを務めるようになるのです。そうした職が創造性のある作品として実践者に認められ、対等なパートナーの関係が築けるのは、かなり後のことでした。その後、演出家、プロデューサーなどとして、人によっては実演家よりも強い立場になっていったのです。

 

 歌の先生には、作曲家、そして演出家には、曲づくりや脚本づくりという独自のパートがあり、そこから出た人もいます。映画監督も、役者やミュージシャン、小説家、お笑い芸人がやっても珍しいことでなくなりました。

これら表現というのには、もはや専門の分野などはないといえます。その人独自の世界観があるかどうかということです。

 

○声から表現に

 

 実演家が声を育てることについてのメリット、デメリットとその判断の違いについて述べます。

 私のようにトレーナーであっても、作品の選択やアドバイスまで加わるようになると、あたかもプロデューサーに近い役割になって、ぶちあたる問題があるからです。

 トレーナーとして声を育てるには、声が使えるということを、表現のよしあしで判断していく必要が出てきます。現実に使えるためには声だけの問題にとどまりません。ディレクション、プロデュースの観点が入ります。これは、1990年代に基礎ヴォイトレづくりを重ね、指針としていた研究所がとらざるをえなかった歩みでした。

 

1.声までをみている個人レッスン

2.声とそのフレーズを磨くためのグループレッスンの付加

3.グループレッスンを中心とした表現のオリジナリティを磨くための総合レッスン

4.グループレッスンでの選別、優れた人の発表の場=ライブステージのセッティング

 

 この順で、

1.声だけ(発声、共鳴、呼吸、体)

2.歌唱(アカペラ)、せりふ

3.PAや伴奏付、プロの伴奏(発表会)

4.バンドや打ち込みのBGM付(ステージ=実演)

 

 研究所の拠点も場も、

1.レンタルスタジオ

2.PA付スタジオ

3.ライブスタジオ

(4.ライブハウス)

のように広がっていったのです。

 

 これは、一人のアーティストが育っていくプロセスと同一です。おのずと研究所も大きくなり、90年代後半はライブハウスをレッスン場にするに至ったわけです。公開ライブ直前までいきましたが、そこで私がストップしたのは、時流に乗せることが音声(声)歌の完成よりも、ヴィジュアル面での拡充とならざるをえない状況に至っていたからです。

 

〇J-POPSの力

 

 欧米の流行をまねてきた日本では、声や歌の完成に伴わない分を機材(ハード)、そしてヴィジュアルで補っていきました。

 それこそが、今やヴィジュアル中心で世界に評価されるようになったJ-POPでの裏に隠れた真実です。音声だけで成立しないための演出面での工夫が、日本人得意のヴィジュアルでの表現形態を発展させていったのです。

 

 今の時代、かわいくない、美しくない、かっこよくない、ルックスのひどいヴォーカルが日本ほどどこにもいない国はないでしょう。でっぷり太った歌手さえ出なくなりました。これは、アナウンサーや声優、役者にも通じます。

 少なくとも昭和の時代はそうではなかったはずです。一芸に優れたもの=当時のタレント性が決め手だったから、人々の生活に必要だったのです。歌手の場合は、歌=歌唱力と声でした。

 おのずとプロデュースもヴィジュアル本位の方向に行ってしまいます。音声で表現する舞台にこだわった私は、ストップせざるをえなかったのです。

 

〇研究所の個別レッスン

 

 研究所において、2000年までは、著名な演出家やプロデューサー、黒人のトレーナーまで加えていきました。グループレッスンの充実のための妥協でした。

 そこから個別レッスンにして声を中心に回帰させました。その結果、全体で歌手は半分、後の半分は役者、声優、そしてビジネスマン、一般の人になっていったのです。これは歌手においての声の絶対の必要性の低下をそのままあらわしているといえます。

 

○発声と歌の評価

 

 私は、十名ほどのトレーナー全員とレッスン生のステージでの歌を評価し続けてきました。そこで、ポピュラー出身の生え抜きのトレーナーと、声楽家出身のヴォイストレーナーとの評価の違いに悩まされました。

 声楽家は、アマチュアに対して、曲、つまり楽譜に正確かが第一条件、次に発声のよさをみます。ちなみに黒人のトレーナーたちは、素の発声のよさとバランスを重視していました。それに対し私たちは、声の働きかける力、表現力と音楽性をみます。

 役者は、ことばの表現力があります。音楽性がある人ほど、声のパワー、インパクトがないのは、日本の特徴です。

 

 これは、一人のアーティストをどのように評価するかということの難しさにそのまま通じます。即戦力としてみるか、可能性をみるかによっても大きく違います。そこで、私のところではいくつかの視点から分けてみていました。

1.発声のベース力 声楽家か、音大8年生レベル(大学院、二期会レベルの歌唱ではなく、発声や発声教材をこなせる能力としてみる)

2.歌唱力(歌手意、音楽の専門演出家として)

3.表現力(エンターテイナー、パフォーマー、声、歌を使った伝わる力として)

 

 原点に戻ると、声のきれいな人、声のよい人、声の強い人(タフな人)への見方は、同じではありません。歌手もそれぞれに、核(強味)としているところが違います。ステージでは、いくつもの能力を兼ね合わせて作品の表現にするために複雑になります(選曲やアレンジにも大いに関係します)。

 

1.きれいな声で歌っている人

2.よい声で歌っている人

3.強い表現力を伴う声(歌唱力)で歌っている人

4.パフォーマンスなど、ヴィジュアルを重視したステージングで歌っている人

 

 このように区別してみます。皆さんは、それぞれ誰が思い浮かぶでしょうか。

 

○発声の理想と表現の現実

 

 トレーナーとしてはお勧めできないと思われているとはいえ、のど(声)をムリにつぶしたタイプでは、もんたよしのりさん、長渕剛さんは、個性的です。長渕さんの「乾杯」を最初のバージョンと今とを比べると、彼の場合、きれいな声が生来あったのに、それを(テキーラで)ムリに太く強くして、変えてしまいました。声楽家やヴォイストレーナーなら嘆くことでしょう。つまり、自分の器を大きくはしたが、もともとの声の延長上でなく、大きくはみ出したところにつくったのです(もんたさんは、声域・声量も犠牲にして、声質を変えたのです)。つまり、多くのヴォイストレーナーでは否定する世界で、表現力において、作品を成立させているということです。

 私は、こういうケースでは、本人の器を大きくして、そこからはみ出さない中での可能性=限界を最大限に探究した上での自由にします。そうでないと再現性に欠け、雑になり、耐性や将来ののどへのリスクが大きくなるからです。

 

 ところが今の日本では、声を大切にするあまり、こういうアーティストの歌の発声を一方的に否定するトレーナーが(声楽だけでなくポピュラーにも)多いのです。なのに、ロックなど、デスヴォイス、エッジヴォイス、ミックスヴォイスなどの見本をみせたりやらせたりして、それを肯定するだけでなく、伝授するようなことも行なわれています。

 

 どちらもトレーナーとそれを求める人の中で成り立っている分には、私には関係も関心もありません。成り立つことがないまま、私のところにいらっしゃると問題になるのです。

 私はそれを基本と応用で分けています。そこで苦い経験もあります。基本が6割くらいできた人に、応用でややかすれながらも表現が成り立ちそうだったのに、本人自身が声そのものを気にして、違うところへ移ってしまったことがあるのです。その後、大成することはありませんでした。

 

〇ヴォイトレの害

 

 もともと、本をよく読んでからいらっしゃるようなタイプの人は、うまくいかないと思っているときに違う本を読んでしまうと、また別のトレーナーのことばややり方を信じ、これまで間違っていたと思ってしまうという、判断の二極化の傾向が強くあります。

 本当の歌い手としての鋭い感性が磨かれていたら、声よりも表現力をとるのに、発声法や定義にこだわってしまうのです。

 

そこまでいかなくとも、ヴォイトレ重視の人は、声からばかり考える傾向が強いものです。一時、それは大切なことですが、どの方法やどのトレーナーがよいかなどを気にするのは、よくありません。

 たとえば、かすれた声よりもきれいに出た声だけを常によしとします。ある時期まではそれはよいでしょう。ヴォイトレや発声練習ではよいでしょう。しかし、表現とはそんな表面的なものではないのです。そこでは世に出て行ける可能性を狭めてしまうことになるのです。

 とはいえ、作品の訴求力において、最終的には「将来や可能性」よりも、「今、ここでの力(多くのトレーナーの基準=ディレクター)」で判断されることが多いのです。あるいは過去の実績(日本のプロデューサーに多い基準)ばかり気にします。どちらももったいないことです。

 

○大切なのは活用すること

 

 方法や理論は効果を出すために使うものです。それによって効果が出ないとか、逆効果になるなら捨てたらよいといっています。私の理論や方法への反駁もときに受けますが、合わないならやめたらよいのです。もっとよく自分の目的にかなうものがあれば、そうすればよいといっています。ただ、その判断をできるだけの自分なのか、あるいは第三者でも、何年も先の判断のできる実績や経験のある人なのかくらいは見極めておくことです。

 

 トレーニングもレッスンも、自分がよくなるために使うのです。そのよいところをとればよいのです。悪いところばかりをとるのはおかしなことです。

 トレーナーや方法に対しても同じ考えです。悪いところしかとれないなら、トレーニングにならないからやめることです。

 トレーナーやアーティストをまねするのは、そういう意味で気をつけなくてはなりません。多くのケースでは、悪いところしかとれない人が多いからです。よいところはとれないものです。

 頭で考える人は大体、こうなります。それでも頭で考えざるをえないタイプだとわかれば、頭を切るために、自己肯定の理論づけをするのでなく(そんなことはトレーナーに任せて)、学べるものから学ぶという実質本位へ踏み込むことです。

 

 私が一つの方法を押し付けないのは、万人に共通の方法ほど、こと声や歌の分野において、毒にも薬にもならないものはないということを知っているからです。声は、日常のなかで使っているからです。よい薬ほど強い毒です。うまく取り扱わなくてはなりません。

 多くのヴォイトレ経験者は、心身面でのリラックスという、プラシーボ効果だけでヴォイトレを使っているとさえいえます。それでも私はよいと思うのです。何事も必要度に応じてしか身につきません。

 

○クリエイティブなスタンスをとる

 

 私のレッスンでの尽力は、ヴォイトレではなく、その必要度を高めることにとられています。ですから、レッスンにおいて、大半の人に与える主たるものは精神的なものであると思っています。

 その人の感性、感覚という器が大きくなればおのずと体、声、呼吸の足りなさがわかります。誰のどんな方法でもためになるようにセッティングされていくのです。そのスタンスなしには、頭でどんなにわかっても身にはつきません。

 トレーナーが余計なことをいって、その人が自ら気づいていく大きな流れを妨げてはいけません。頭でっかちにさせてはなりません。知識や科学的な理論づけが、補強でなく懐疑のために使われているなら、大きな誤用です。

 私が科学的、医学的に探究しつつも、レクチャーやレッスンにそんなことをみじんも持ち出さないのは、そのためです。精神的なものもできたら分析やブログですませたいと思って述べているのです。そんなことを気にし始めたら、無心にコツコツやっていくことで少しずつ身についていくことさえ妨げてしまうからです。

 

 自分に合うことと人に合うことがすべて同じなら、やりやすいでしょう。でもそんなつまらないことはありません。私はミニ福島をつくりたくないから、多くの異なる才能のあるトレーナーやスタッフと共に場をおいています。生徒を決してミニ福島にさせないためです。

 

 それにしても今の日本人の、自ら学んで創りだそうとせず、正しい先生、正しい方法を知りたいという単純な答え探しには、ほとほと閉口することがあります。

 歌やせりふの表現にはそんなものはありません。理論も方法も学会ではありません。条件や制限のない正しさなどまったく問われません。

 理論や理屈は、私が本を書くのに最小限、論じる必要があって、あるいは、ことばで注意して具体化していく、効率の悪いアプローチとして、つまり、レッスンやトレーニングを形づくるためにあります。これは、現場そのものの現実よりも、普遍化して、次の世代やここにいない人に伝えようとするため、本や会報でのやむをえない手段です。

 

 あなたの声、せりふ、歌で示すこと、その邪魔をさせないことです。トレーナーも邪魔しないことです。

 世界中には、いつの時代もたくさんの手本があります。それに大いに学び、学べるようになっていってください。

 Be Artistは、Be Creativeからはじまります。ここではあなたがそうなるところからみているつもりです。

 

 

 

[E:#x2605]○歌謡祭と紅白(2011年末年始総括)

 

 <フジテレビのFNS歌謡祭>ほとんどデュエットでした。70、80年代前後のヒット曲と、新旧バランスをとって、二人の歌手(新といっても、新人は少ないのですが)の組み合わせです。

 

 歌謡曲は、由紀さおりさんの世界的ヒットでした。組んだ相手がノリノリの人気上昇アーティストだったとはいえ、その歌声は、日本ブームにも乗っかったようには思えます。1970年代までの歌謡曲や演歌のレベルの高さを作詞作曲、そして歌唱ともに再認識させられたことになりました。

日本のバーバラ・ストライサンド、サオリ・ユキと紹介

「マシュケ・ナダ」オーアリア アイオ オバオバオバ

ある意味、1969年の気分を代表する歌です。

6歳、プロの童謡歌手~16歳デビュー(安田幸子)

1968年「夜明けのスキャット」で大ヒット、210万枚 20歳

69年紅白出場

セルジオ・メンデスと出会う

 

 <紅白歌合戦>初登場のレディ・ガがと、椎名林檎さんがいい味を出していました。和田アキ子さんほかは、一時の低迷から脱せてよかったです。歌そのものを忘れさせるほどの力を西田敏行さんなどにみられたのはよかったです。紅白も、今年の曲はどのくらいあったのでしょう。

 その歌手が歌ってこそプロの歌という価値はなくなりつつあります。あまり日本の場合、他人の曲をうまく歌えるプロ、ものまねでなく、オリジナリティにもっていけるプロが少なすぎるからです。

 この原因は

1.基本の力のなさ

2.応用力のなさ(オリジナリティ)

3.ファンの判断が、歌唱そのものについて行なわれていないこと

などです。

 

 批判する気はありません。TVはTV、ラジオ→TV白黒→カラーと、ビジュアル面で発展してきたからです。音で聞くには、集中した時間と環境が必要です。今、TVは、ゲームほどにも集中すべき対象になっていません。業界については述べるときりがないので省きます。

 

 歌の力、歌手の力が落ちたのです。これは、私たちの責任でもあります。そういえば、スポーツ、野球(特に巨人)やラグビーも、プロレスも同じように低迷ですね。お笑いは、落語も含め若い才能が集まっています。歌よりもものまねの番組が多いのは、ただお笑いでなく、それだけ才能と芸のレベルが高いということです(とはいえ、お笑いの芸としてではないのは残念ですが)。

 

○視覚効果と耳の力

 

 伝わるとか感動させるというのは、本物であろうとなかろうと、映像特有のみせ方にマッチすると「すごい」となるのです。

 私は目を開けても、つぶって聞くのと同じ聞こえ方ができるようになるのに、10年以上かかりました。それからは、目をあけていても同じように聞けます。今はアカペラでも、バンドの音も合わせて聞こえます。

 

 それにしても、メークアップの技術は、進みました。

 ものまねが得意な人は、歌手としての一面での才能は豊かです。カラオケの先生やトレーナーなら、とても上手な教え方ができるかもしれません。音大のトレーナーよりも、ポップスの歌手や作曲家などのほうが(もちろん役者、声優にもうまい人は多いです)器用でしょう。正しく美しく上手にうまく歌えるからです。

 しかし、この基準は、私が育てたり関わったアーティストの条件とは違います。姿勢、表情やしぐさを計算して動かさなくても、声色や共鳴などをコピーする力と共に、ヴォイトレの基本の力がつくと伸びてくるものです。でも素人なら、ものまね芸人の表情や体の柔軟性、声のコントロール力やプロとしてのステージングに見習うことは、よいことだと思います。

 

○ものまね芸人とカラオケバトル

 

 ものまねの人や腹話術の人も、声を扱う私の大きなテーマの一つです。プロの歌手を目指す人は、作詞作曲の力が重要となりつつあるのですが、一方で歌唱力としては、お笑い芸人やタレントのものまねレベル(カラオケマシーンで90点レベル)を一つの目安にするのもよいでしょう。ちなみに、カラオケバトルを見ました。

 

1.プロといっても、力の差の大きいこと(とても低い人もいること)、衰えの早いこと(崩れる、デビュー時と違ってしまうこと)

2.崩れても伝わる歌唱と、カラオケの採点の基準の違い

が改めてわかりました。

 一般の方の多くは、(ゲストの審査員もほぼ同じですが)歌がうまいというのを、イメージ操作、つまりイリュージョン、視覚で大きく左右されています。

 

 私も学ばせていただくこと大です。いっこく堂さんは、表情に出さずに松山千春などをコピーしています。以前、口唇音であるマ行の発音などに奇跡を起こしました。コロッケさんは、異なるアーティストの表情をして、別のアーティストの声色で歌うという高度な声色加工の使い方をしています。彼ほどのプロになると、歌手本人よりも、多くの人の印象に残っているコロッケ流デフォルメ像を元にして、加工するので、声まねは甘くなるのですが、一流のエンターテイナーです。

 そうなると、あまりTVに出ない人から学ぶほうがわかりやすいということです。彼らの創意工夫に対して、歌い手は負けているということです。

 

 年始のものまねグランプリで、青木隆治さんに勝った父、ツートン青木さんは、選曲(細川たかし美空ひばり)とTVというメディアの特性を予選でうまく活かしていました(隆治さんは、「愛のメモリー」に挑んでしまった。彼については、よく聞かれました。

 

 ガラコンサートは、若返ったのに、私にはいつも以上に物足りなかったです。

どちらも職業柄、TVの録画でみただけです。お正月、ウクライナ歌劇団トゥーランドットサントリーホールでみました。

「歌唱に結びつくヴォイトレ、結びつかないヴォイトレ」

○歌唱に結びつくヴォイトレ、結びつかないヴォイトレ

 

 ヴォイトレも、多種多様です。

 歌手の指導をしているヴォイトレは、歌手が相手、アナウンサーや声優の指導をしている場合は、アナウンサーや声優が相手、もっとも多い相手が、そのトレーナーの専門、つまり出身分野になるのはいうまでもないでしょう。

 私はそれらの基本、ヴォイトレ=発声の基礎と捉えています。そのために、どこよりも多彩な分野の人がきています。歌手の先生では対応できない分野や他に行くところのない人がたくさんきています。

 私にとって、ヴォイトレは基礎の基礎、それゆえオールマイティです。声は応用すればオールカバーできます。その分、質や内容が薄くなりかねないので、他のトレーナーや専門家と組んで、フォローしているのです。

 

声楽家のトレーナー

 

 トレーナーは声楽家が中心ですが、それは、共鳴の専門家として言語の元となる母音レベルで行なっているからです。ちなみに「音声」というのは、単に声でなく、何らか伝わるもののある声、つまり意味、感情を伝えるという使い方をしています。[E:#x2606]

 体のメンテナンスが万人に共通するところが大きいように、声のメンテナンスとして、歌手にも、俳優、ビジネスマン、一般の人にも共通なところにヴォイトレをおいています。

 歌唱指導には、声楽家がヴォイトレとしてはもっとも有利な位置にいると思います。歌唱の表現に近いのは、プロデューサー、作曲家、カラオケの先生、歌手出身のヴォイストレーナーかもしれません。それは歌い方や歌のための声の使い方で、声そのものを育てるヴォイトレ(これは私の狭義の定義にすぎません)とは異なるでしょう。

 目的により使い分けたらよいことで、どちらの方法が正しいとか、間違っているということではありません。

 スポーツも、監督とテクニカルコーチ、パーソナルトレーナー、マッサージ師、医者など、役割が分かれています。ヴォイストレーニングにも、同じように考えています。

 ヴォイストレーナーの場合はいくつもを兼ねていることが多いし、相手によって対応が異なるので混乱しやすく、いい加減になっているのが現状です。それに対応するには独力でなく、各分野の専門家を組織するとよいでしょう。理想としては、あなたの伸ばしたい能力を分析して、それぞれにコーチをチームとしてつけるのです。

 

○ヴォイトレにおける正しい方法

 

 私は、指導を複数のトレーナーを交えて行なうことにしました。単に私の手伝いでなく、私と分担したり、私抜きにして、どのようなプロセスでどう効果が出るのかを検証したかったからです。検証するには、自分一人で自己評価しているだけではダメです。

 私のやり方を他の人にもやってもらったり、他の人のやり方でやってもらい比べてみます。

 ヴォイトレを受けてもらうのでなく、他の人に同じやり方で指導してもらうことで、検証できます。ただ、ヴォイトレでは、同じことといっても、その人なりのやり方がいろいろと加わり、変じていくものです。おのずと、人を育てることにもなります。

 正しい、間違いというのでなく、変じていく、応用されていくのです。改良するとどこかが否定されたり、落とされ、新しいものが加わっていくのですから、違うやり方のようにみえることもあります。

 試行錯誤を繰り返してきて、私がいえることは、「たった一つの正しい方法がある」という考えを捨てることが大切だということです。

 いろんな方法もあり、いろんな可能性もあり、いろんな人がいて、いろんな声もあり、いろんな唄もあるのです。

 逆にいうと、「これが絶対だ、他のは間違っている」という人のは、正しくないということです。

 

○一方に偏向しない

 

 「どの方法もよくない」「方法を使うこと自体がよくない」「しぜんのままがよい」という人もいます。これもよくある独断の一つです。

 一つの方法が正しいと思うと、他の方法を否定したくなるものです。これは歌唱において、一つの歌唱を正しいとして、他の歌唱を否定するようなものです。

 優れた人ならその危険性を知っています。他の人に習ったり、他の情報を得たり学ぶことを禁じません。振り回されるのは、トレーナーや方法を一方的に妄信してしまった人です。こういう人は、一時、はまった分、一度、嫌いになると全てを否定するから困るのです。

 トレーナーも方法も、あなたが自分を伸ばすために使うものです。それでうまくいく人もうまくいかない人もいるのです。

 うまくいかない人は、トレーナーや方法の問題でないことが多いといえます。うまく使えるようになるように努力することがあってこそ、かなうものです。

 一所懸命やると、どんなものでも何かに役に立つものです。目的をきちんと設定して、それを第一に優先するのは、なかなか難しいことです。

 

〇問題にしない

 

 仮に「ヴォイトレの正しい方法」とかいうのがあって、それをマスターしたとしても、「プロになる」というのとは違います。

 私がいえるのは、万人に共通の正しい方法はないし、万人に対して最も優れているといえるたった一人のトレーナーもいないということです。

 とてもよく効く薬は、誰かには、とてもよくても、誰かには、毒です。誰にでも効く正しい薬は、ご飯のようなものです。大して効きません。それで健康であるなら医者に行かなくてもよいでしょう。ここでは両方のヴォイトレもやっています。

 

〇正論にする

 

 発声や歌唱には、不毛な論議が多すぎるので、私はこの「トレ選」で正論というか、本音を述べています。

正論というのは、正しい論を立てるということだけではありません。問題にしたことで問題になるものは、問題にしないようにすることの方が大切です。自分の人生において前向きに、現実に実現していくことに集中するということです。うしろ向きになっていたり、時間が余っていると、人は他の人を否定するようなことばかり考えるからです。そういう人に付き合っていくと、迷走することになります。机上の議論には引き上げ、人生で勝ちましょう。

 

〇活動へのクレーム

 

Q.歌うと、批判ならまだしも、ときに中傷やいじめのようなことがまわりで起きます。プロになったり有名になると、ひどくならないかと不安です。

 

表現することは、人に働きかけるのですから、反応が戻ってきます。働きかけないと戻ってさえきません。反応があってこそ、第一歩です。自分への批判や非難は、自分の声が届いている、影響力のある証です。

 相手が人生の貴重な時間を削って自分に意見してくれていると思えばよいのです。もちろん、ひどいもの、耐えられないものもあるでしょう。自分の身体への直接的な働きかけ以外であれば無視するのは、あなたの自由です。

 匿名の批判については、オール無視してよいと思います。表現はその人の名のもとに行なうものと思っています。そうでない声を、「いつ」「誰が」の2つのことがわからないと、考えても意味がありません。反論もしません。誰がどこで何をいおうと、自由です。

 それが自分を落ち込ませたり、活動への力を削ぐというのでしたら、バカらしいことです。自分自身との戦いに負けたことになります。どんな負の刺激でも、大きいほど、見返させてやろうとがんばりましょう。そこで悪口で返すようでは同じ穴のムジナです。あなたはそれを糧に成長すればよいのです。むこうはそんなことにかまっている分、堕ちていくだけです。

 

〇あとから出る

 

 私のまわりにも一流のことや大きなことを成した人、成そうとしている人がいます。皆、あなたと比べ物にならないくらい叩かれています。あることないこと、好き勝手にいわれたり、書かれています。その多くは、ねたみ、そねみ、嫉妬からです。

 その大半は、あなたのまわりから出てくるものです。目立つのが心地よくないから、引きずりおろそうとしているのです。

 日本では、島国根性、世間というものがあり、同調圧力など、この傾向が強いわけです。自分の名も出さずに悪口を連ねるといった、大切な人生のムダ、消耗をできる人が、たくさんいます。情熱を前向きに使えば、その人の人生がよくなるのに、と思います。

 マスコミの一部もそうですね。商売や自分の利益になり、それで飯を食っている人たちもいるのです。海外と異なり、匿名というのが共通です。

 超人的な才能か実力があれば、誰もが賞賛してくれるでしょうが、多くの人は、そんなにうまく何でもできるものではありません。

 私にも万能、神のようであって欲しいと願う人は、そうでない実の私を非難するのでしょう。しかし、私からいわせてもらえば少しは自分でやれよということです。サッカーや野球選手が成績の落ちたときの、ファンの身勝手さにいたたまれない気持ちもわかります。反論しても仕方ない、よい結果を出すしかないのです。

 

〇一人のファン

 

 あなたが表現を続けたいなら、その表現で支えられる人(ファン)を一人みつけるまで頑張りましょう。一人いたら、100人を敵にまわしてもよいでしょう。その一人+α(次に現れるファン)のために、100人の負のエネルギーを前向きのパワーにしましょう。

 何かいわれるのは、力不足なのだと自省し、もっとがんばりましょう。私もそうして少しずつ力をつけてきました。一方で、ほめられ、あるいは何もいわれず、批判を恐れたり嫌になったりして、いつ知れずダメになった人をたくさんみてきました。それもその人の人生の選択です。

 表現していきたいなら、ぼろくそにいわれても、目立っていきましょう。目立つのが気に食わない人は放っておきましょう。少しずつ何かをやっている人たち、やり続けている人たちと親しくなって世界が開けていきます。

 まだ、あなたはそこまでやっていないから辛いでしょうが、一歩ずつ、そこから抜け出していきましょう。「類は友を呼ぶ」のです。低いレベルで争ったり気にしていては、そこから抜け出せなくなります。貴重なエネルギーをムダに費やすのはやめましょうね。

 

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Q.のどを守るために、何に気をつけたらよいのでしょうか。守るための環境についても教えてください。

 

〇喉の守り方

 

喉の守り方は、トレーニングで知っていくことです。私は、2つに分けて考えています。目的やレベル、今、何を優先するかによっても違ってくるので、これを参考に考えてください。

 調子のよいときは、ハードにセッティングします。調子の悪いときは、以前は、休めませんでした。しかし研究のチャンスでもありました。何事も育てていく、鍛えるときと、それをキープするときは、考え方、対処の仕方が変わるものです。

1.環境をよくして、よい状態で声を出すことが第一でしょう。自分のことさえよくわからないうちはよい環境づくりを目指します。湿度や温度も整えます。

2.プロ志向の人なら、その上でハードさに耐えうるため、ときには乾燥や、熱いところ(とはいえ、ほこりなどはだめです)、寒いところはあまりよくありませんが、あえて試みます。慣れていく、非常時にどうなるのかを知ります。

 

 ステージやスタジオは、乾燥していて、照明や人、荷物の出入りで、発声によい環境ではありません。かつては、たばこでくもっているようなところでした。

 空気清浄機や加湿器は、練習の環境にとてもよいのですが、そうでない場でやることも考えておきましょう。

 

〇悪循環にしない

 

 一般的には、のどの状態や体調のよいときは(特に若ければ)何とでもなります。気をつけるのは、心身の状態やのどのよくないときです。

 第一に欲しいのは、休養、声を出さない時間をとること。途中の休みをたくさん入れること。

 第二には睡眠や栄養、気分を切りかえ、マイナスの方向にいかないようにします。

 

 トレーニングは、集中したときしか行なわれないようにします。ステージや練習よりも、そのあとのしゃべりすぎで声の状態を悪循環にしてしまう人が多いものです。

 打ち上げ、アルコールや食べ物が入った状態での大声でのおしゃべりほど、疲れたのどに悪いことはありません。

 

 サイン会や握手会、あいさつや会話も大きな負担です。お腹からの声でなく、軽く浅い声を使うほうが、のどへの負担を押さえられる人が多いです。低い声はしっかり使わないと発音不明瞭になります。自分の声の使用状態をガソリンのFull-Emptyのように考えるとよいでしょう。Eに近づいてきたと思ったらセーブすることです。

 のどの疲れは、休めないととれません。気力やハイテンションで、一時、大きく声が出ても、少しでもかすれているときは、地獄の一丁目近くにいるのです。自分の限界を試してみるのも必要ですが、越えてはいけないのです。調子の悪いときは、気をつけて、早めに休めるのです。

「Q.しゃべる声と歌声の関係と、トレーニングでの変化や進歩について知りたいのですが。」

〇しゃべる声と歌う声の相違

 

これは、「歌う声と話す声では、一緒なのかどうか」ということで、さまざまな意見、見解が出ています。ここではそれらをまとめた上で私自身の経験もふまえて、今の私の見解を述べます。

 そもそも「違う」と「同じ」との違いとは、何かということです。声に関しては、怒った声と笑った声も違うといえば、違うでしょうし、話し声の中にも、細かくみると、一つとして同じものはないはずです。つまり、違うといえば違う、同じといえば同じ、どの程度かという問題にすぎません。

 

 学者や専門家でも「同じ」とか、「違う」という人がいても、声の使い方ですから、大きくいうと同じ、細かくいうと違うということになります。それなのに、この2種がよく取り上げ、比べられるのは、いろんな声のなかでも、特に意識的にコントロールして使うもの、そして、歌や話し方は、それをトレーニングして上達するという目的とプロセスがあると思われているからでしょう。

 

 

〇しゃべる声と歌う声の区別

 

 人間の声の獲得の歴史からもさまざまな説があり、また一口に歌といってもさまざまで、語りのような歌もあるので、一括りにはしにくいのですが、一応、大まかに区別してみます。

 

[話] ことば(発音)中心

 意味の伝達が目的のことが多い

 

[歌] 節(フレーズ)中心

1.声が高くなる

2.声を大きくする(マイクのある場合は、今はむしろ、より小さく表現することのほうが多いといえます)

3.声を伸ばすことがある

4.ほぼ決まった声調の変化や、節(メロディ、リズム)があることが多い。ことばがつくとは限らない

5.情感や感情を伝える。表現をすることが多い

6.楽器を伴ったり、他者とのコーラスもある

(2の大きさについては、話でもみられます。1、3は話よりも極端に、ということです)

[歌]で述べたことは[話]と区別される特徴です。

 

〇話し声と歌との関係

 

 歌の練習となると、メロディ、リズム、(歌)詞の三要素、さらに歌のための発声では、声の高さ、声量、ロングトーンなどが必ず取り上げられます。このあたりは舞台でせりふをいう役者などに必要とされる条件とも一部、重なります。

 つまり、しっかりとした話(せりふ)に必要とされる声の力の応用として歌唱を捉えることもできます。

 場合によっては、より少ない声量、より低い声域、より短い区切り(スタッカート)などが、歌の技巧に入ることでもそれはわかるでしょう。逆に、話には必要だが、歌には絶対に必要ないという要素は、挙げにくいものです(ことばのないときにも歌はあり、その声調の変化を応用して、ことばが生じたという人もいます)。

 舞台のせりふになれば、相手とのかけ合いやテンポ、間など、歌では音楽として組み入れられてしまったものが改めて問われるので、歌手なら誰でも役者ができるというわけではありません(一般の人よりは、いろんな面で恵まれているから、ドラマに出る人もいますが)。その分、歌手は音楽の形式や伴奏、プレイヤーに助けられているともいえます(となると、現実には、日常の話、舞台のせりふ、歌唱、さらに日常の歌などを分けるべきだという見解もあってもよいと思われます)。

 

〇歌手の話し声

 

 現実の歌い手をみてみましょう。すると、話し声もトレーニングされているような声の人も、全くそうでない人もいます。(歌うときの声も全くプロを感じさせない人もいますから、プロの歌手のすべてが声の力で支えられているわけでないし、時代とともにさらに異なってきています。ここでは「アナウンス声」か「役者声」か分けています。)

 

 一般的によくいわれるのは、高い声で歌っている人の話し声の悪さ(素人くささ)です。これにはオペラも含まれます。国際的にもテノールのしゃべる声は、あまりよくないようなことをいわれています。日本では、かなりあてはまるのではないでしょうか。

私は、日本人やポップス歌手を基準にみると、海外のテノールやソプラノはけっこうよい話し声をしていると思うのです。バリトンやバスのほうが話す声の声域に近い分、無理なく使えて、そこの声がよいといえるのは当然ですから、比べるのがおかしいのです。男性の声は、低く太く響くのが鍛えられているのがよいという基準でみたらですが…。

 

〇日本人の考えるよい声

 

 ”anan”の取材で声についてのコメントを求められた男性は、ケンドーコバヤシさん、大杉漣さん、遠藤憲一さん、宮野真守さんでした。やや低めのバリトンヴォイスです。女性が魅力的に感じる声は、それほど変わっていないのかもしれません。男性が第二次性徴期に声変わりし、複雑なメカニズムでわざわざ獲得した女性より1オクターブ下の低音なのです。

 

〇私の声と「役者声」

 

 私はヴォイトレで声が鍛えられ、変わったのですが、最初は変わり、プロレベルになったあと、1日8時間以上、人前で話しているうちに、プロの「役者声」の声になりました。

歌のレッスン時のほうが日常よりも、集中して意識的に腹式も使い、のども開くからではないでしょうか。その後、日常にも発声の体が用意されるに従って、全面的に変わっていったのだと思います。何もしなくとも、歳をとったら今の声になっていたのかもしれませんが、私がいえるのは、トレーニングをしないと、まがりなりにも、オペラの1フレーズを歌えるような発声は得られなかったということです。

 私は研究所で30年以上いろんな人の声のプロセスをみています。私ほどに時間をかけて声を鍛錬した人は、それほどいないと思っています。簡単には述べられませんが、2割くらい、私の半分以下の時間で、同じプロセスをたどったような人もいました。2割くらいは、そのようにならない人もいました。男性はわかりやすいのですが、女性では日本人の場合は多く、3割くらいの人は、声そのものは大きく変わりません。第一に変わる必要がなかったといえます。

 

〇声の変化をめざす

 

 今のヴォイトレは、声そのものの変化を目指してはいません。声そのものが少しでも変われば成果は大きく違ってきます。しかし、そのプロセスで不安定になりかねないのでためらわれるのでしょう。声は使い方だけでも大きく変わるので、それがノウハウになっています。一人ひとり異なる楽器で、それぞれに異なるプロセスをみる必要があります。

 

〇役者声から声楽へ

 

 以前は、日本では声楽家よりも、役者のほうがよい声をしていました。けっこう無茶なトレーニングで成果をあげていたので、私は最初、声楽よりも役者の練習場に拠点をおいたほどです。

 まず「役者声」を得てから、歌のレッスンをすべきだと思ったのです。この考えは、今も根本では変わっていません。ただ、世の中、業界の方が変わり、声楽よりになったのです。このあたりは、私が「声の二極化」について述べていることを参考にしてください。

 

 「歌は語れ、語りは歌え」といわれていた時代でした。歌のレッスンは、ピアノに合わせて、高音をかん高くあてて響かせようとしていました。

 私はアンチ声楽(日本の声楽)からスタートしました。語って伝えることの線上に歌があると思っているからです。一方、欧米の高音でシャウトして長いフレーズを一息で歌いきる歌手(クラシック、ポップス問わず)に憧れていました。いくつかの仮説をたてつつ、レッスンにくる人に声楽家も含め、他のトレーナーとともにあたって比べていたのです。

 

 その結論は出ません。かなりの数の人のレッスンのプロセスをみてきましたから、その人にとって、もっともよいレッスンの形態(トレーナーややり方)は、判断できるようになりました。

 

Q.レッスンの充実感と声の成長について

 

〇ヴォイトレの目的と価値

 

 声の変容、鍛錬とは別に声は、使い方によっても声は大きく変わり、歌の成果もみられるものです。「何をもってレッスンやトレーニングとするのか」は、もっとも考えるべき問題です。

 ここは一人でなく組織としてレッスンを行なっている研究所です。トレーナーの選択とその方法については、いつまでも考え続ける問題だと思っています。

 

 消費者的な感覚の人が増えてくると、レッスン以外のサービスに力を入れざるを得なくなるのは、やむを得ないことでしょう。すべてにおいて、満足できるように努めるのも大切なことです。優先順位を決め、指針を明示します。レッスンを受けたい人が、その目的にもっとも合うように選べばよいのです。どんな人がどんな目的でどんな状態でいらしても、それを受け入れる、その懐の深さには自信があります。

 サービスの明示はできても、レッスンの内容というもっとも肝心の点は、個別に対応しているので、明示しにくいものです。

 本人の求める目的が本当に本人のためによいのか、声の場合、いろいろと考えさせられることばかりです。根本の問題へのアプローチの前に、サービスのよしあしだけで判断されてしまうとしたら、残念なことです。

 

〇レッスンの指針とサービス

 

 レッスンの指針というのは個別に違うので、述べられません。たとえば、「誰でもわかりやすく、1年後に50点とれる、しかし、2年後も55~60点くらい、ずっと続く」というのと、「誰にもわかりやすいわけでないが、1年後に25点とれる、2年後に50点、3年後に75点になる。」

 こういうケースならどう選ぶかというようなことが、無限にあるのです。残念なことに、今のヴォイトレは、ここまで考えずに明示できるレベルで明示しているだけです。

 

 サービスとしてよくあげるのは、病院の例です。

  1. 受付の応対がよい
  2. 待ち時間が少ない
  3. 待ち時間にくつろげる 待つのが苦にならない (ソファ、TV、本、飲み物のサービス)

 

 これらは、肝心の医者の腕と関係ありません。医者自身が説明を長々として、安心させてくれるのはよいことです。しかし、私はその分、医者は少しでも休み、患者の治療に集中できるようにすべきと思います。治療が風邪か難しい手術かで違ってくるでしょう。芸事は、医学ほどにもはっきり明示できるものではないから、難問です。医学もかなり手探りで進めますが、年々、進歩しているのは確かでしょう。

 

〇回復と実力

 

 声のトレーニングは命に関わりはないので、それに例えるのなら風邪のように扱われているようです。とんでもありません。声は生まれたときから使ってきています。何か問題があれば(健康で、上達したいということであっても)それは、慢性化した、のどの問題なのです。そう簡単に解決しません。

 1、2割ほどよくするなら、一日でできます。毎日いわれたことをやれば、多くの人は人並みになれると思います。プロや一流を目指すなら、日常が90%、レッスンはそれを支えるチェックや課題の明示、判断力の習得ですが、10%くらいです。大きく変わるきっかけとなる1回、あるいは一瞬のためにあります。

 重病のあとのリハビリくらいの覚悟を持っていただきたい、それなくして真の上達はありません。

 リラックスして心身を解放するだけで声が変わるのは確かです。マイナスからゼロに至ったにすぎません。話さない人が何とか話せるように、歩けない人が何とか立てるようになったくらいです。人を感動させる何かをするために必要とされる基礎には及びようもないのです。

 

〇中低音域と高音域の両立について

 

 ヴォイトレの効果としてわかりやすいのが、

1.高音域、2.声量ですから、それを目的にしている人が少なくありません。

 高音域のトレーニングは、本来は中音域のあとにするものですが、そこはできているものとして、高い方ばかり進みます。

高い方が出しやすく、比較的、発声がよいなら、高めから入らせることもあります。それがよいというからでなく、中低音域からでは、うまくいかない人が少なくないからです。その人の出しやすいところから正していくのが原則です。

ただし、中音域が完成するまで高音を出してはいけないということではありません。高音域へのチャレンジは、調子のよいときは中心課題にするとよいでしょう。そのために悪い影響を与えないことです。やらないよりはやるべきです。

 今もっとも扱いやすい声=ベストの声ではありません。扱いにくい声よりは、理に通っているといえることが多いです。人まねでカン違いしてくせをつけてやっている人は除きます。もっとも出しやすい声は違うので、それぞれで決めていくことと思ってください。

 

〇声区融合

 

声区融合の問題については、あまり本やネットなどをあてにしないことです。現場では一人ひとり全く異なるからです。

 ちなみに、私が高音のトレーニングや理論にあまり触れないのは、思い違いをする人が多く、正しく伝わらないことと、一人ひとり、のどが異なっていて、一般的に述べられる基本の範疇を超えることが多いからです。文章での伝達の限界を超えて、方法を与えるのは、よくないと考えているからです。

 トレーニングの評価は、それぞれに異なるので一くくりにはできませんが、何にでも万能のような方法は、一個人にとっては、有効ではないでしょう。トレーナーが[メニュ、方法]として使うには、便利ですから、安易によく使われていますが…)。

 一般的に全体的なこと、半分くらいの人にあてはまる初歩で基本は述べられても、その応用や一個人に対する的確なアドバイスは、本人をみずに、無理なことなのです。それゆえ、私は読者には、いつもレクチャーの場を開放しています。

高い声は、舞台に通じるように音声のコントロール=調整に重きを置かざるを得ません。それで大きい声量のように条件を変えるトレーニングにはなりにくいものです。声楽を応用して、充分に対応しています。

 中低音域での声の問題を、徹底して洗い出すことです。力をつけていくときに、高音域や地声―裏声の切り替えが一時、うまくいかなくなることは、珍しいことではありません。

 最初はギアチェンジのように考えましょう。低いところを一通りできてきたら、高いところをやり、中音域をやって、繰り返していくのがよいと思います。長期的な目的が見えない人と、高い声の切り替えがやりにくくなって、不安を感じるでしょう。

 繰り返しの中で、鍛えられ、調整能力も高まって、ギアがスムーズに切替られるようになっていくのが理想です。

 

〇太い声

 

 ここのところ、私共のところには、歌手も含め、中低音の太めの声で説得力を求めにくる人が男女ともに目立っています。アナウンサー、キャスター、声優なども、高い声でちやほやされた時期は終わったのかもしれません。若く元気で、明るくかわいいような声、子供っぽい声、幼い声、いわゆるアキバ系、アニメ系、フィギィア系の声づくりをした人が増え、飽和状態になったせいもあるのでしょう。

 ようやく本筋(と私は思いますが)に気づいた人が出てきたといえます。

 「小顔がよい」「エラがないのがよい」などという、ガラパコス化した日本人の価値観をどう取り入れていくかに悩みつつも、本道は、表現として説得力のある声でのせりふや歌です。

 

〇声区と喚声点

 

 私は最初から、地声、裏声、チェンジのポイントを決めつけません。チェックしたり、知っておく分にはよく、トレーナーからそういうポイントとなる音の高さを指摘されるのはよいのですが、柔軟に変化していくくらいに考えておきましょう。

 即効的に上達するには、トレーナーの決めたところでチェンジすると早いのもわかっています。しかし、それだけを求めると、表面的なやり方になります。真の基礎の力(呼吸、発声、フレーズ、共鳴)がつくのを妨げかねません。

 常に体操、柔軟、筋トレなどといった基礎をつけるための体や感覚づくりと、試合=Playという本番、せりふや歌での表現を区別しておくことです。

 

〇即効的な成果

 

 即効的に成果をあげるには、固定してしまうほうがわかりやすいし、一見、安定して間違えにくい、リスクを少なくして、早くうまくこなせるようになります。声の実力を求めないアイドルには、その人の器の中での使い方、見せ方を徹底して教え、早くうまくします。私はヴォイスアドバイスといって、ヴォイストレーニングとは分けています。多くのヴォイストレーニングは、そこでなされているのが現状です。どちらがよいというのでなく、目的によって異なるのです。

 そんなことなら、日常、スポーツをたしなみ、元気に歌ったり叫んでいたらよいことです。芸としての、アートとしての表現に耐えるものにするには、プロセスで厳密な判断を伴うレッスンが必要です。一時、ステージのため、何かを固定しても、必ずそれをはずしていきます。いつか自由に解放しなくてはならないのです。

 方法を覚えていくことでは、成立しません。トレーナーに教えられたままの歌がうまいようでもつまらないのは、どこかで聞いて知ってください。

 トレーナーが悪いとは申しません。そういうのをレッスンだと思い、手取り足取りすべていわれたままという取り組みの意識の問題です。

 表現に耐えうる基礎は繰り返し、紙を重ねていくような地道な作業なのです。

 それを支える毎日があるか、そこでのどや声が変わっていく、重なっていっているのかを問うてください。トレーナーを問う前に、自分の日常での声、息、体との接し方をチェックしましょう。

 

〇ハスキーな声と喉の痛み

 

 ハスキーやのどの痛みの問題は、教科書的には、トレーナーや医者は、警告して本人に注意を促すべきでしょう。もともと声がハスキーな人も、ハスキーな歌に味がある人もいます。

 私は判断の基準として、「再現性」(同じことがどこまでの精度でどれだけ繰り返せるのか)でみると述べました。今は、その日だけでなく、2、3年後、5年後まで視野に入れています。

 若い人や経験の浅いトレーナー(ドクターなら)は、次のようなリスク回避のアドバイスをしましょう。

 

1.声量・声域を無理しないこと(特に高い声での大きな声やシャウト、かすれた声を制限する)

2.練習時間は、より短く集中的にする

3.発声前に充分に準備、発声中での柔軟、脱力をする

4.発声の間での充分な休みをとる(休む回数を増やす)

 

 これは、「初心者のトレーニングの注意事項」にそのまま当てはまります。

 プロであっても、調子のよくないときは、初心に戻り、心掛けるとよいことです。

 

〇音色と声量優先

 

 私は、表現としては声域より声量、共鳴より音色を重視しています。多くの人の関心は、声域(高い声)と、その共鳴に集中しています。トレーナーもそれに応えようとするので、さらにそこを強調せざるをえません。

確かに高い声は、筋トレや呼吸のトレーニングだけではうまく出せません。単に出すだけでなく、そこにコントロールや音色を伴わせたい、伝わる表現を目的にするなら、そうなっていきます。最高音の高さや声量は抑えられてくるのです。フレーズやメリハリのように、声のコントロール力のほうがずっと大切です。

 美しい声、キレイな声、単に高い声は、先天的な要素が大きいです。トレーニングで可能性をつかむなら、素質よりも鍛錬で示せるところに、目的をおいたほうがよいというのが私の考え方です。個性ある声であり、音色やフレージング(声の動かし方)です。

 歌のレッスンには、メロディ(音程、リズム)、詞ばかりに、ヴォイトレには声域、声量ばかりに目がいくものです。大切なものはそれではないと気づくことです。

 

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〇喉の専門医との違い

 

 いつも学者や医者といった専門家に次の3つのことを聞いています。

1.最近の最新の知識

2.心身(特に喉)とトレーニングとの関係

3.私の喉

 

 医者と私たちは、相手とする対象も目的も違います。「声のしくみ」をまとめたときも、のどという楽器が生体であることで、医学、生理学や解剖学、心身や発達学、運動科学、および声の共鳴としての物理(音響)学や心理学などが大切なことを知りました。そして、まだまだよくわかっていないことがたくさんあることを改めて気づかされます。

 

 私は、最新といわれる理論、理屈、知識に振り回されないように警告してきました。

 のどの病気になれば医者に行けばよいし、調子が悪ければヴォイストレーナーをつければよいのです。医者は免許があり、比較的、基礎とする知識がわかりやすいです。それでも、専門としてキャリアを積んでいる領域は個々に違います。

 

〇音声の専門医とヴォイトレ

 

耳鼻咽喉科というのは幅の広い分野なので、音声専門で診ている医者を訪れたほうがよいでしょう。変な例えですが、同じ税理士でも、相続問題を扱ったことのない税理士に相続手続きを依頼すると時間がかかり、成果も芳しくないでしょう。それぞれ専門や強みとしていることは同じ資格のなかでも全く異なります。その後の経験によっても全く違ってくるものです。

 まして、資格もないヴォイストレーナー稼業においては何をいわんやです。ちなみに私のところは最近、医者の治療の後や言語聴覚士のところと併行していらっしゃる人も増えました。医者の紹介でいらっしゃる人もいるので、他のトレーナーよりも、慎重に医療の現場を知って、行なう必要が増えてきたのです。

 医者の目的は治すことです。しゃべれなくなった人はしゃべれるようにする、社会復帰のために最低のレベル、できたら人並みを目指し、発声の障害や痛みの原因に対処します。戻すのであり、力をつけるのではありません。トレーナーは、力をつけるのですが戻すだけのレッスンもよくあります。

 のどの手術の是非などについても、医者の見解は分かれます。しないですむならしないほうがよいというのは同じです。しかし、ずっと悩み、他の手段で、いたずらに時間がかかるだけなら、手術のほうが根本的な解決としてよいときもあります。悩みや時間、費用というのにも患者さんの考え方や感じ方に大きな差があるので、一つの答えに絞れません。目をよくしたい、でも皆が皆、レーシック手術を受けるわけではありません。費用や時間だけの問題ではありません。

 

〇器質的障害と医者

 

 医者の多くは声帯をみて異常を判断します。結節やポリープなら、のどの病気です。しかし、これらは生命には異常ありません。

 発声に対して楽器としての限界が「物理的」「生理的」にある場合は、声帯の緊張度を高め、発声しやすくする手術もあります。声を高くしたい、性同一障害の人(男性→女性の場合)には朗報です。ただし声域は、移行するだけで、低いところが出しにくくなるので広がるわけではありません。けいれん性発声障害などにも即効的なようです。 専門のことは、医者によっても見解が違うので、ここでは述べません。

 医者は、のどという部分への処方をするだけです。そこで歌手や俳優が必要とするのどがつくられるわけではありません。発声と呼吸や共鳴は全身の筋肉や神経も関係しているのですから、いわば楽器のメンテナンスにすぎないのです。

 そこで、私たちのようにトレーナーが引き受けるにあたり、トータルでのトレーニング計画が必要となります。そのトレーニングは、一人ひとり異なるもので、これまでにないものを求める分、処方が難しいのです。

 

○日本の治療とアートの力量

 

 日本ののどの手術の技術のレベルは、世界でも一流です。それなのに、のどを一流のアーティストレベルに使いこなせる人や、それを教えるトレーナーのレベルは、まだまだ低く、忸怩たる思いです。

 まず

1.声のトレーニングの成果が、トレーナー本人にも一流というレベルにまで出せていない(ここでは声についてで、その応用の歌唱力や演技力は含めません)。

2.トレーナーの学んできたやり方や得てきたやり方が、相手によってどういう結果が出るのか詳しく検証がされていない。

 トレーナー本人の声もまた獲得したプロセスを分析し、本人が把握しなくてはいけないのです。これがかなりの難問です。

 少なくとも自分ののど(体も含め)を知ること、次にトレーニングのプロセスと結果を記録して、比較していくことです。しかし、それをやってきた人はほとんどいません。

 

〇自分の喉の分析

 

 私は十代後半からの10年にもっとも集中してトレーニングをしたのですが、今の年齢で始めて、同じように10年後を比べたら、同じ毎日のトレーニングができたとしても、決して同じ結果にならないはずです。体や心が、他の楽器の習得よりストレートに影響するのも、やっかいな問題です。

私は、10代半ばで丸2年間で、毎日水泳をしたら、まわりの人よりも細かった肩幅が広くなりました。こんなことは20代以降では起こりえないでしょう。

 私は今回、「自分の声帯の写真」を複数の医者にもらいました。が、「異常がない、医者には通わなくてよい」ということしか、表れないのです。のどを含めて他人に接する以上、自分ののどについて知っておくことは当然のことです。(声帯の写真で、のどを知ったとはいえませんが。)

 医者が呼吸や共鳴を医学的な機械を使ってみたら、もう少しわかるかというと、トレーナーの見立てを最低限のレベルで証明できたら、かなりすごいといえるでしょう。

 

〇研究所の分析

 

 私は科学的な声紋分析に鈴木氏と共著で出すくらいに関わりました。よい歌い手の理由をグラフから読みとることはできますが、それを元に声を判断したり、それを目安として育てるには、無理があります。

耳ですぐれた判断力のある人の、聞いて判断する力に及ぶことはないでしょう。本研究所にも、同じ機材があります。

 私は例え千分の一でも確かなこと、使えることがあればという期待で接しています。今はまだまだですが、いずれはサポートできるツールになる可能性もあるからです。ちなみに、いくつか簡単なものもつくられています。ゲームや占いの領域のものに過ぎませんから、あまり信じ込まないようにしてください。

 

 西洋医学から発達してきた、日本の医療は、今も、部分的によしあしを捉えすぎます。荒れたのどにステロイドを処すれば、きれいに声がでて歌えるようなのは、そういう面では最大の効果といえます。緊急の処置としては、こういうことを知っておくことは助けになると思いますが、体と心とのメンテナンスの一環として留めておくことです。

 

〇トレーニングの現場において

 

長期に最高のレベルを目指すためのトレーニングでは、もっと全体的に捉えなくては、多くの場合は行きづまってしまいます。その結果が今の日本の声の実情です。

 私のところには半数近くの人は、私や他の著者の本を読んでいらっしゃいます。本を読んだ上での判断は、何の情報もないよりもトレーナーの方針、考え方がわかるのでとてもよいことです。

 しかし、レッスン中やトレーニング中に、理解する頭を切らなくては、囚われてしまい、効果が半減するところが方向を違えてしまいかねません。

 ことばは大切ですが、そこからのイメージがもっと大切です。イメージからことばを選びつつも、一通り頭に流したらあとは忘れるようにお勧めしています。スポーツと同じで、頭で考えるのは必要とはいえ、考えて動かすものではないからです。イメージや感覚を磨いて心身がうまく動くような条件(もっともよい反射回路)をつくっていくのがトレーニングともいえるのです。

 

〇動くことから

 

 私がこのところ警告していることは、理屈で考え納得しないと動けない傾向がますます高まっていることです。理解や納得のために行動するのでしょう。若い人は自分のもつ独自性からの才能の発揮よりも、何でもよいから「他人のようになりたい」「周りにすぐに認められたい」というほうにどんどん偏ってきています。

 

ワークショップもレッスンも、今の医者の治療のように同じくマイナス面をみて、そこをゼロにすることに焦点があてられることになりつつあります。心身をリラックスして、状態がよくなれば、しぜんなあなた本来の声が取り出せる、そこまではよいとしても、それが目的のようになっているのです。それは、前提であっても、最低条件の一つにすぎないのです。一回だけ、もしくは毎回、その日の成果で問われるようでは、トレーナーはそのように本人がわかる効果をあげることに専念せざるをえなくなります。ともすれば、本質をみえなくしてしまいます。

 

 例えてみると私が、ビジネスマンの研修で「早口ことば」を使うのと似ています。それを100回もくり返せば、これまでつっかかったこともいえるようになります。それを効果と思ってくれますが、やらなかったことをやっただけですから、声として伝わる力は変わっていないのです。

 トレーナーがメニュのその人に対する意味をこういう位置づけと知って相手に合わせるのはまだよいのです。こちらに寄せられるトレーナーの質問をみると、それさえ把握していない人が多いのです。質問するだけ問題意識があるからよいともいえるのですが。

 確かに、マイナスはゼロにしないと、そこが前提なのだから、それが第一歩という考えもあります。しかし、ゼロになることをいくら続けても、それはゼロであって必ずしもプラスにはならないということがわからない人が多いのです。

 

○スタートとゴール

 

 研究所のレッスンでは、本人の希望があればムチャなことでもやってみます。そこで得られた即興的な結果で満足されるならそれで終了ということもあります。

 声は正解があるわけでなく、求める程度問題です。いらっしゃる人がもう充分といったらそれでよいとも思うのです。そうでなければ、私やトレーナーも、そういう目的をもっていらっしゃる人を最初から受け入れないという、大変に無茶なことをしなくてはならないからです。

 本来は前提条件を整えながらも、トレーナーはその人の最終的な目的とする表現へのプロセスをシミュレーションして具体的なメニュ方法を考えていきます。実のところ、試行錯誤で、その可能性や限界に見通しをつけられないこともあるものです。

 スタートラインにつけるのは、ゴール設定をするためです。なのに、本人はともかくトレーナーもスタートライン(そこは医者にはゴールですが)しかみていないことが多くなりました。歌やせりふについても、トレーナーのレベルによるのは、スタートラインなのにゴールになっているのでは、先がないのです。

 

〇養成所とスクール

 

 トレーニングの前提とするスタートラインについて、医者とアーティスト、トレーナーの見解は違います。医者が6ヶ月の休養というと現場では2ヶ月、私は1ヶ月、すぐれたアーティストは1~2週間の休みで復帰しています。リスクはありますが、自己責任で、ギリギリの感覚を自ら知っていたら処方ができるのです。

プロのスポーツ選手は、すぐれたトレーナー、一般の人なら6ヶ月の休みの必要なケガを1ヶ月くらいで治し、ゲームに復帰できるのです。

 人間の大きな可能性を一般の人、それよりも劣っていたかもしれないがために、のどを損ねた人を基準にするなら、リスクの大きい分、医者もトレーナーも慎重にならざるをえません。私がそれを養成所とスクールの違いとして述べてきました。

 

〇一流のプロに学ぶ

 

 トレーナーは一流のアーティストに接して、その資質や声そのものを学ばなくてはなりません。本当に大切な鋭い勘や判断力が磨かれません。私がここのトレーナーにプロをつけているのは、そこから学ばせたいからです。

 

 医者もトレーナーも長く経験を積み、そこから学ぶと、決して部分的な処方を全体的な調整や条件づくりよりも優先しないはずです。決まったやり方でなく、多様多彩なやり方をします。体も心も、人は部分が組み合さっているのでなく、全体で一つなのです。

 初心者や一般の人には、体力づくりや柔軟運動が、のどでどう出すかよりも大切です。ヴォイストレーニングよりも、心身を鍛えたり整えたりするほうが、声に効果的です。私はそこからお勧めしています。引き受けたら、すぐ発声を学ぶのがよいことではないのです。

 イメージづくりのほうが、のどの使い方やならし方にこだわるよりも大切です。そこに、優れた判断力のあるトレーナーの力が必要です。

 

〇こだわりをなくす

 

 声に問題のある人は、リズムや音程に問題のある人と似て、一つひとつにこだわりすぎることが少なくありません。トレーナーの指導下でも一つひとつ自分で「合っている、間違っている」とチェックするような人です。トレーナーにもいますが、医者の取り組み方に似ています。

 もっとも大きな根本的な問題は、そこまで生きてきたところでの感覚(聞き方)とその処理のしかたの不適合です。それは、よいものを入れて、感覚から変えていくのです。

これまで日常であったものを少しずつ入れかえていくので、時間もかかります。補強すべき体や心の鍛錬も時間がかかります。しかし、続けることでしか変わりません。何事であれ、続けることで人は気づいたり体得して変わります。ようやくこれまでにない大きな能力を得ます。

 

〇できても身についていない

 

 「外郎売り」や「早口ことば」も、本質的なことを知っていていわないのは騙すようなものですから、次のように説明しています。

 「今日復習をしないと明日忘れて、あさって、ひっかかります。1週間続けたら、1週間もちます。忘れないために毎日2年間続けたらほぼマスターできます。忘れても、今度は半分以下の時間で、できるようになります。3年5年と続けると声もよくなっていきます」

 アナウンサーをみてください。アナウンスのスクールで2年ほど練習して入社できたとします。半年後か1年後にTVに出たときは、口をはっきり開けて、伝えるのが精一杯です。ヴィジュアルの表情の力も借りてもたせているので、少しでも噛んだらとても目立ちます。(表情で話力をカバーできるかわいさ、かっこよさで選ばれます。日本ほど同じようなタイプのアナウンサーがそろっているTV局は、海外にはあまりないでしょう。)

 20~30年後まで残ったアナウンサーは、口はさほど開けていないし、少し噛んでも聞き手にはわかりません。声にも個性が出て魅力的になっています。話だけでなく声のトレーナーとしても通じるほどの人もいます。

 発音に引っかからないようにいえることは前提ですが、目的ではないのです。声をよくすることは別です。ですからアナウンサーがここに通いにいらっしゃるのです。ここのトレーナーは、発声共鳴にそった声色中心に、何十年もかけずに変えていくお手伝いをしているのです。

 

〇声以外の強化

 

 私は十代で近所の声楽家(ソプラノ)の先生がつきました。今と同じくらい高い音は、何とか出たのですが調子によってうまく出たり出なかったりでした。共鳴をみけんにという、声楽の教科書の教え方です。今でも一般的に行なわれていますから、「間違った教え方」とは思いません。心身の状態のよいときは少々よくできて、よくないときは、できなかったのです。

 初心者が心身の状態によって、できが左右されるのは当然です。今の私であったなら、その最高音は、心身の状態のよいときだけ出し、そうでないときは、痛めないように無理をしなかったかもしれません。ある程度は、のどを鍛えるつもりで、挑戦していました。私の場合は、スポーツで心身は人並み以上でした。高音に関しては、調整でよいでしょう。一般の人なら、少々鍛える必要があるのですが、高音を使って行なうほうがよいかどうかは、タイプによるでしょう。

 基本となるヴォイトレにおいて、声のよしあしよりも、声を出すことやそれ以外のトレーニングで声を出せるような心身の調整やより必要なものの強化が、積み重ねられているかということです。[E:#x2606]

 呼吸、発声、共鳴が変わるのは、そのイメージ、感覚、それを支える体や心が変わっていくということです。

 

〇トレーナーの盲点

 

声楽家や歌手のなかには、自分がすぐれている(そのために苦労せずにできた)ために誰でもイメージ=使い方だけで声が変わると思っている人がいます(いろいろ変わるのは確かですが大体どれも使えない)。そういうトレーナーは同じ優れたレベルの心身条件をもつ人にはよいのですが、一般の人にはなかなか通じません(自分よりも長い時間をかけても自分並みに育てられないトレーナーが多いのは、自分よりもへたな人しか教えていないから、そのことにも気づかないのです)。

 

○体で覚える基本

 

 なぜ2年やると次は忘れても早くできるのかというと、頭でなく体が覚えたからです。車や自転車の運転と同じです。ですから、私の最初の声楽の先生は優秀ゆえに声を正していくことしか頭になかった、長く通っているうちに呼吸が伴ってくるというスタイルです。

 私の心身は、クラブ活動でそこそこ鍛えていたつもりでした。声は他の人より全く鍛えられておらず、声の劣等生でした。声の音色をしっかりとみるトレーナーに会わなければ、人並みの声ももてなかったでしょう。私なりに誰よりも時間をかけて、息や声を鍛えていったので、今さら検証はできません。

 

PS.2年間というのは1日8時間です。2年間では5千時間。発声は1日2時間とすると、8年間かかります。1時間としたら、16年間というところです。20歳で始めたら、30代半ばに整うというのは、オペラ歌手なら大よそ合っているのではないでしょうか。

 

〇指導のプロセスのチェック

 

 私の研究所では、複数のトレーナーで指導を分担してきました。私の指導の判断は、誰よりも多くの人の声だけでなく、トレーナーの指導のプロセスをも長年にわたりみてきたことです。結果を捉え、絶えず検証してきた経験からきています。

 ここからは私論となります。のどの状態をよくすることは、ワークショップで心身を使える状態によくすることと同じで、即効的なものです。他の人が調整するのは、医者の処方するステロイドと同じです。マッサージも同じです。

 そういうことを体験した人が、同じことのくり返しの後、ここにくるのは、同じことのくり返しと気づくからです。あるドクターのことばでは「パッシブで、アグレッシブでない」ということです。そういうことでは不毛です。 

トレーナーや医者が、あなたの心身や声の状態を一時よくしても、その日は声の調子はよくなりますが、日が経てば、同じに戻ります。自分で変えたのでなければ、何かを得られたのではないのです。気づいてくるから、伸びます。

 

〇タフな声のフォーム

 

 子供がバッテイングセンターでうまく打ちたいなら、誰かにフォームを手とり足とり教えてもらえばよいのです。ややムリな体勢だと思えても、モノになれば、それなりにいけそうなフォームになります。しかし、その人がいなくなれば、大半は元のフォームに戻ります。ムリな体勢と思うのは、それを支える体、筋肉、感覚がないから、元の自分のバランスに戻るのです。ムリがしぜんになるまで、何かをしなくてはならないのです。それがトレーニング、あたりまえのことです

 声についても同じです。多くの人は、声が出やすいフォームでなく、立ちやすい姿勢、楽な姿勢で生きています。その日常性を変えるのは、他人の手を借りても一日ではできません。そういうレッスンやそういう治療に意味がないとはいいません。整体やカイロで調整して、とてもよいパフォーマンスを得る人もいます。

 

 私は最悪の心身状態、のどの状態でも仕事をせざるをえなかった経験上、あまりに不安でないかと思うのです。私自身、他人の手や自分の心身の調整のよしあしで左右されてしまうような、不安定かつ頼りない声では通じない年月を生きてきたからいえるのです。アーティスト以上にトレーナーも自分の声に責任をもたざるをえないのです。ですから、私がプロの人に求めるのは、そのくらいにはタフな声です。

 

〇強い必要性

 

 リピートと空回りは違います。整体やカイロに通うよりも、それから脱却できるように考えてみてはいかがでしょう。お金もバカになりません。リラックスのトレーナーのように、相談相手が欲しいというなら、それもよいでしょう。

 サプリやマッサージには頼っていません。それがよいのでも偉いのでなく、時間とお金の使い方です。のどの管理は、心身からです。管理や保守、守るより、ますます強化する、鍛えるという攻めのことばのほうがよいですね。

 いつも医者に通わざるをえなくなっている人は一度、相談にいらしてください。違うお医者さんをお勧めすることもあります。

 多くの人は、調整より強化、状態より条件を変える必要があります。そのことをわかるために、オペラや声楽という大上段の目標から強い必要性を与えます。遠回りのようで早い、確実です。基本、基礎とは、本人が習得できてから気づくしかないのです。そして、いつも誰もが問うことです。

 

 

Q.息や声の深さを自分でわかるという目安はありますか。

 

〇息と声の深さ

 

お一人ではどうでしょうか。身体が動くようになってきたら、一体感があること、息だけや声だけなら、私やトレーナーと、どれかのトレーニングや息や声を出し合って比べるのも悪くはないのですが、人と競うものではありません。過去の自分よりも力がついてきたらよいでしょう。息吐きは、耐久力でもみられますが、やりすぎると危険です。

 表現の必要性によっても違うので、ゴルフ選手になるのに100メートル走や腕立てを競うほどのギャップがあることではないでしょうか。もちろん10メートル走るにも息がもたないとか、腕立てが10回もできないという人は、プロのゴルフ選手にはいないでしょう。プロでも70歳くらいになればわかりませんが、ゴルフは極めてメンタルにも負うので少し似ています。

 体と技術はあるところまで相関すると思います。身体としてなら、フィットネスジムやパーソナルトレーナーの基準でよいでしょう。総合的に捉えるか、過去の自分との実感でみてくださいということです。

 

〇やさしく歌いたい

 

Q.プロ歌手のようにやさしく伝わるように歌えません。どんなトレーニングが必要ですか。

 

これは結構、答えにくい問題です。歌手のキーにわせようとすると、それが合っていないと、遠回りになります。自分の歌いやすい声域にしてください。小さな声でも「使う声域」をていねいにカバーすること、声に「やさしく」伝わる感じが出るのをつかむことです。

 呼吸法、発声法、レガート、ロングトーンなど、基本トレーニングを徹底しましょう。

 カラオケレベルでなく、プロのようにというのでしたら、強く、大きく、器づくりからはじめないと本当のやさしさは伝わりません。どこかを「やさしく」聞かせようとするのでなく、全体の構成から、相対的に「やさしさ」を出す必要があるからです。[E:#x2606]

 歌の流れ(フレーズ)と音色(トーン)に注目してください。このバランスを支える呼吸、体をつくりましょう。

 あなたが「やさしく伝わる」と思う歌手を何人か聞いて比べるとよいでしょう。まねやすい人からコピーして相違点を学んでください。

 

Q.歌のサビの音をはずさず盛り上げ、しっかり歌うためにどういうトレーニングが必要ですか。

 

〇しっかりメリハリつけて歌うために

 

歌のメリハリを発声からみると、

1.ロングトーン

2.クレッシェンド

3.デクレッシェンド

4.1~3の組み合わせ

 となります。長さ、強さ、そして変化のつけ方です。ここに、音色(トーン)や、発声の仕方、さらに地声、裏声などを考えると、いろんなパターンがあります。それぞれにトレーニングもあります。

 

Q.一本調子をさけるためにはどうすればよいですか。

 

一本調子は、均等に息も声も伸ばし、均等に切るからです。モールス信号みたいに、メロディの高さと長さだけをとっているからです。イメージの問題が第一、次に強弱フレーズのイメージ、それがあっても声が自由に動かなければ、メリハリはつきません。

 

― ― ― ― ―  (長)

― – ― – ― – ― - (長短)

 

 一時メロディを壊して、短いのはさらに短く、長いのを2~5倍くらいにとらせ、まず、長短の差を大きくさせます。次に、その長さを戻して強弱にします。[E:#x2606]

 曲が壊れてもよいから、思い切ってやることです。そこで何かインパクトがなければ、正しく合わせても伝わらないのです。

 いつも階段のように幅と高さを同じにするなといっています。古い寺の階段のように、味のあるメリハリを出します。最後に楽譜に合わせて確かめていくのです。

 総じて、声量やフォルテッシモのトレーニング中心でよいでしょう。大きく出すのはそれを使うためではなく、より小さく使うためです。

 

〇バランス構成と展開

 

Q.歌うときの緊張と弛緩のバランスをどうコントロールすればよいですか。

 

これはメンタルトレーニングの専門書をヒントにしてください。(rf)

 

Q.構成や展開について詳しく知りたいです。

 

私は次の3つでみています。

1.切りかえて、展開させる(ドラマ性)

2.ピークでの働きかける力と納め方

3.結末、エンディングと余韻での印象

 

Q.プロはジャンルを超えて歌えるのですか。

 

アーティストの売り、勝負どころはそれぞれに異なります。全体の捉え方も、一点で勝負するタイプ、全体でならして雰囲気のタイプでは違います。そのタイプと曲との相性があります。

 演歌の人がポップスを歌ってもなかなかうまくいきません。分野を超えて、完全にこなせたのは、日本では美空ひばりさんくらいでしょう。

 「演歌の力」というCDが出ています。演歌歌手が創唱したポピュラー歌手よりうまく歌っているのもありますが、演歌歌手の演歌の完成度には及びません。

 

〇歌唱のテクニックと疲れ

 

Q.歌唱テクニックとは、なんでしょうか。

 

私は、その歌い手特有のオリジナルのフレーズとみています。これが役者の歌と区別するものと思います。大きなフレーズでの中で使われる声質(音色)、これが日本では役者のほうが個性的です。音楽として、それを最大に活かした動きがでると魅力的です。

 

Q.歌唱のテクニックを捨てるというのはなぜですか。

 

一般的には、ヴィブラートやシャウトとか、声の使い方の多彩さや器用さを指すことが多いです。一時、ミュージカルなどによく使われていたフェイクっぽいものなどです。ミュージカルでは音大出身が多いのでオペラのテクニックが流用されています。そこだけが目立って好感が持てません。こういうものをテクニックというなら、否定的な意味になります。

 テクニカルなことに優れた歌手は、たくさんいます。ホイットニー・ヒューストンやマライヤ・キャリーなども、そういう例でしょう。

 

〇感情表現と声

 

Q.情感や心を入れたいので、くせをつけると、つっぱったり、かすれたりします。

 

個性はくせでなく、オリジナリティとはいっています。くせも個性の一つです。私が考えるに、音楽としてはくせは邪魔ですが、人間味、人間性として魅力になりうるのです。しかし、私はその人独自の音色や声のおき方に出ることを求め、それをニュアンスといっています。

 

Q.歌での感情表現は声でつくるのですか。

 

私はエンターテイメントとしてより、ミュージシャンとしての歌い手をみますから、くせや色が音楽のインパクトやスケールを制限するときは、除きます。しかし、それでも出てしまうのは、よいとします。感情や心は入れようとしないほうが、本当は伝わります。つくるといやらしくなり、色づいても飽きられやすくなるからです。