「トレーニングのつくり方」

○万能なトレーニングを考える

 

 疑問に対応する基本的な考え方を示しておきます。

 

1.トレーニングは、器を大きくし、可能性(限界)を広げていく。

  歌は伝えるための器のなかで切りとり、作品として最高のものに編集していく。

  花壇づくりと活け花のような関係。

2.どんなメニューがよいかは、目的にどう結びつけるかで決まる。目的に結びつかないと本当には使えない。それ

ぞれの必要性に対して位置づけがある。

3.問題を発見するためにメニューをセットして、発見したらそれに対応をとる。その場での処置法と根本的な対応

とは、異なるので、二段構えにする。

4.体に教え込み、意識せずともやれるようにしておかないと、何事にも対応できない。

  正確さが欠けたり、遅れる。

5.自分で必要と感じて初めて意味がある。全身と全精神で捉えようとしたときに、どんなに必要か、どんなに欠け

ているのかを実感することから、心身と結びついてくる。

6.目的と優先順位をはっきりさせる。トレーニングは部分的な目的達成のための必要悪である。早く効果を期待す

れば、無理がくる。

 

〇論理的につめてメニュをつくる

 

二つ以上の問題が矛盾していることをつかめば、そこにチェックのためのメニュー(認識)と解決のためのメニュー(トレーニング)ができます。

 

7.対立させられる二軸に対しては、論理的にその間にメニューを詰めていくと解決に近づく。少なくとも、問題がより明らかになり、より細かなメニュー設定ができる。矛盾を詰め、その間にメニューをおく。

 

たとえば、

1)息を強く吐くと、リラックスできない。それは、強い息をリラックスして吐く必要があるとしたからです。

その必要性の是非は、もう一つまえの問題です。

2)高い声を強く出したい

  「高い声=○、強い声=×」と、「高い声=×、強い声=○」の間に、いくつかのトレーニングをおく。そのまえに「高い声を弱く出す」「低い声を強く出す」という別の必要性や目的がある。

3)響かせると発音がはっきりしない

  「響く=○、発音=×」「響く=×、発音=○」、

  それを両端におき、そのなかにメニュをつくります。

  その真ん中に「半分よく響く=△、半分よく発音できる=△」がくる。

4)アエイオウで「イ」がいえない

  aeiouで、aeouがよいなら、aiaaiaeiaieなどで詰めていくのです。

私は音声学などを利用して、より早く適切なメニュをつくっています。

ただ、現実の発声、発音から聞いて、メニュを設定する方が効果的です。

すぐれた医者の診断は、マニュアルにまさるのです。

 

〇トレーニングの考え方

 

8.正誤ではなく、できたら、あなたが惚れ込むだけのものにする。

  それで終わるのではなく、すべてはそこからである。

9.トレーナーにつくのは、問題をはっきりとさせ、解決の糸口をつけるためである。

自分自身で問題を自覚できるようになることと修正できるようになるためである。

10.結果として声に表われ働きかけるものを、マニュアルや方法論として勉強すると、本やトレーナーに一方的に与えられるほど、積み重ならず力にならない。

11.トレーニングできるところでなければ、トレーニングはできない。トレーニングできないところはできない。

できると思っているところがきちんとできていないから、できないところが生じる。そうでないところは、それ以上のところは不要のことが多い。

12.メニュは、どういうことのためにやっているのかをわかっておくこと。

それぞれの問題は、全体の一つの要素にしかすぎず、多くはそれを解決せずとも他で代用できる。

解決にこだわることが、常に全体のより大きな問題を見失ってしまう。

13.表現力は、日常のものをパワーアップした上に成り立つ。声は歌、歌はステージで応用して正される。出口という目的に対して、セットすることであるが、本当の出口を考えつづけることが大切である。

14.多くの問題は、何事もできないよりはできた方がよいというくらいのもので、本人が思っているほど大したことではないことが多い。むしろ、小さいと思う問題の方が重要なことが多い。

15.「より高く」「より大きく」「より深く」などの「より」というのは、「今より」ということで、今できないことである。そうでなくては、問題にならない。

  だから、今、問題としても、すぐ解決すべきことではない。

16.形をとり、実を入れないより、実から形をとること。

17.問題として、すぐに解けたとしたら、それはごまかしやクセがついたということである。

18.人間には、限界がある。それゆえ、作品にできる。

19.作品には限界がある(時間、予算、設備、スタッフ、才能)。

  それゆえ、作品にできる。

20.あなたが売れるものをもっていたら(つまり買い手が欲するもの)、プロになれる。プロとは、制作者であり、制作能力が問われる。

21.あなたのもっているものが一つでもあれば、まわりの才能、技術を駆使することで、補えることは多い。

22.すでにあなたは充分にもっている。ただ、使えていない。

23.わかりやすいものなど、所詮、わかってしまえばつまらないものにすぎない。

24.わからないうちは、わからなくてよい。すべてわかることはありえない。

25.決して、声や歌のせいにするな。

26.決して、他人のせいにするな。

27.すべては、あなた自身のイメージとテンションからなのだ。

 

○好きの限界

 

「自分の好きにやればよい」という人には、それでよいでしょう。ただ、私に接する人は、好き嫌いを超えて、最高のもの、自分で気づいていない本当の才能を引き出すことを求めてきます。

私も長時間、年月をかけたら、誰でもできることよりも、その人しかできないことを求めていきます。 

あなたが好き嫌いで勝手にやるようなものは、必ずしもオリジナリティや個性として力をもつほど深められていないからです。

 

「世界のことを知るよりも、自分自身を知ることの方がはるかに難しい」(ゲーテ

「汝自身を知れ、汝自身を知れば、今までの汝をのりこえられる」(ソクラテス

「知識や理論に振り回されないこと」

○中途半端な知識、理論が邪魔する

 

 昔、私の講演にきた、ある専門家が、「ピアノの真ん中の音は、なぜ人間の話す声の高さと同じなのですか。」と聞くので、「私は人間がつくったから」と、答えました。

なぜピアノが両手で届く幅しかなく、20オクターブものピアノを作られないのかは、わかりますよね。勉強熱心な人は、このように、ものごとの正誤だけを求めて、本質を見失いがちです。これについては、「バカの壁」(養老孟司著)でも読んでください。そこには、個性は、頭でなく、イチロー松井秀喜中田英寿選手のように、体に宿ることを説いています。

 

 なまじ知識や理論は、実践という見えないものをみる力、聞こえないものを聞く力が問われる現場では、邪魔にさえなります。人間が人間に伝えるために、長い人間の歴史の中ですぐれた表現者は、常に科学で捉えられぬことをやってきたのです。

どうして、頭で一秒に何千回も開閉、振動する声帯をコントロールできますか。

理屈でなく現実の人間の声で、世界中ですばらしい作品を生み続けてきたのです。

 本気で相手に伝えようとしたとき、人間の心から体、息、声、ことば、音色は、もっとも効果的に働きます。つまり、人間が本当に伝えたいときに伝えてきたものを、大切に受け止めてきたDNAに反応したもの、それが結果として目指すべき表現なのです。

 

〇分析は何も生み出さない

 

 よいものの要素分析はできますが、分析からよいものは生まれません。

この例は、正しい発声法をいくらそのしくみから解明しても、万人に効果のあるトレーニングにならないことに、顕著に現われています。間違いを防ぐために使われる科学的な理論などは、正しさを求めるところですでに土俵を間違えています。時代とともにある声は、未来の先取りしたアートと現実の社会の聴衆とともにあるからです。

 

 私はレクチャーで時に実例を見せます。こういう発声、ひびき、歌は、一見もっともらしいけど、嘘っぱちですと。なぜなら、私が伝えたい思いを持たずにやったからです。その結果、テンションは落ち、部分的にしか体が働かず、心が死んでいるからです。この声をとてもよいと思われる人がいるかもしれません。とても大きいかもしれません。でも、大きさとか声質しか伝わらないでしょう。皆さんは、これを技術とかキャリアと思ったかもしれません。しかし、伝わりましたか、感動しましたかと。

 

 ヴォイストレーニングを長くやれば、このくらいは数年で何割程度の人はできるようになります。だからって、これだけでは何にもなりません。

目的や方向を今一度、考えてもらうためです。声楽に学ぶのは有意義ですが、声楽家もどき声を目的にしないことです。イメージすべきことは、一流のプロの演奏レベルの声と歌唱力をもったとき、あなたはどういう世界を作るのか、ということです。

 

 お金があっても、使えない人にはお金は無価値で、お金を得ることを考えるのも、意味がありません。行動したら、お金は動きます。今のお金を最大限に使える人は、また大きく使えるだけのお金も得られるのです。この、お金のところを声に置き換えて考えてみてください。

 ただし、その上で何もわからない場合、数年かけて、声量や声質だけでも他の人に認められるキャリア、技術を先に得るのはムダなことではありません。それこそ、ヴォイトレの基礎なのですから。

 

〇すぐれたアートとハードトレーニン

 

 本当に人の心に働く声は、あなたの内面からしか変わりません。外面から変えるマニュアルや方法は、ただのきっかけか、一時しのぎにすぎません。もちろん、それも使いようによっては有効です。技術やスキルともなります。

 すぐれたアートが出てくるには、あなたの中にすぐれたアートが宿ること、あなたにアーティストがくれたものが、あなた自身とのコラボレーションによって、次代のアートがあなたに引き出されてくる、そこにしか真の可能性はないのです。

 

 昔から、私が述べてきたことがあります。「ヴォイストレーニングだけを考えると、おかしくなる。ハードにやるとのどを壊す。しかし、ハードにやらなくては身につかない。壊れないためには、音楽を入れておき、ギリギリでリスクを回避できるようにしておくこと。」

 これはトレーニングだからです。できたら、10年以上時間をかけて、ハードにやらずに身につけば、もっとよいのです。

声はやるべきことの10分の1に過ぎない。しかし、確かな10分の1は大きい力となる。ということで、

今も同じことを伝えているつもりです。

 

 科学(音響学)、医学(生理学)的な分析や客観的事実の限界は、そのことが真理であっても、人間が感じられたり、心を動かすものにならないということです。たとえば、声の強さは、声量(と人が感じるもの)と違います。

ピアノのダイナミックな表現も、腕力の強さや音の大きさでなく、タッチのメリハリ、速さ、鋭さ、ドライブ感から人の心に訴えかけるのです。

 

 案外と、声のヒントは、現実社会の人間の間に落ちているのです。

正しい発声法で歌えば、人に伝わるのではありません。テノール、ソプラノ、あるいはアナウンサーの発声が正しい発声の見本でしょうか。

 発声は、きっかけに過ぎないのです。心の表現が、発声を高度なところまで、そして完成を求めるのです。そこにヴォイストレーニングが必要なのです。そして、この入り口には、出口が必要なのです。

 

「理論と実際の現場での違い」

○価値あることの演出と鏡のトレーナー

 

 トレーニングの考え方や方法に対し、科学や医学、身体学などの進歩は、マニュアルの誤りや誤解、誤用を解くヒントを与えてくれます。

私は、当初からプロとやってきましたから、自分のできることが必ずしも相手ができるわけではない、相手のできることが、必ずしも自分ができることではないということを痛感してきました。そのために、相手が価値あることができることが、最重要であるということを基本の考えとしてきました。自分と違う相手、違う目的の相手にどう対するかということです。自分と異なる時代や場に出ていく相手に対して、どう把握するのかを考えるわけです。

 

 多くのトレーナーの、自分にできたことを相手に、いかに早く簡単にできるように伝えるかでは、本人の本当の力を引き出すことはできません。少々うまいといわれるところまでもっていけても、そこまでです。第一線の現場に通用しないし、そういうプロを支えることはできません。

 

私自身はもっとも厳しく声で伝わるものを聞く“鏡としての役割”に徹してきました。自らも客観性を求めるため、専門家と声の分析も行なっています。

 とはいえ、いつになっても、私はデータ(仮に真理だとしても)を、自分の感覚よりも信じることはないでしょう。専門家と共同研究を続けながら、私は自分の耳を、これからも世界中をまわり、音や声でもっともっと鍛え続けていくつもりです。

 なぜなら、現場で私に問われることの目的は、声を正しく出すことでなく、結果的に、声で人々に感動を与えることだからです。それを自分の耳で聞き分け、誰よりも厳密に判断し、アドバイスすることだからです。

 

〇指導者の生む誤り

 

 私は単に呼吸法や発声法でなく、音楽や表現として、どう声を捉え、導くかを主にやっています。この分野は、まだまだ未開で人材も乏しいと思います。

 これまでの科学的な説(仮説を含む)や声楽家やトレーナーの指導書、方法論こそが、多くの誤りを生む原因にもなってきました。これもイメージを介しての指導であれば、端から記述されたことで正誤を判断すればよいというものではありません。

 

 声や歌は個人差(民族、言語や文化の違いも含めた上に)体や声帯の差、日常の言語や歌唱で得たものでの差、目的の違いが大きいからです。

さらに、声の発信体としての研究だけでなく、声の受信体(客の反応)としての研究も必要です。(音楽心理学や大脳生理学、音声知覚など)とはいえ、次のようなことが前提として、あるといえます。

 

1.スポーツのように、目的が一定でなく、個別の設定によるため、真似から正しく入りにくいこと。

2.目に見えない音であるため、耳にすぐれた人でないと、難しいこと。

3.指導上の感覚・イメージ言語の誤解、継承、解釈、使用の誤りが必ず起きること。

4.現場と研究との乖離、日常と芸術、舞台との距離があること。

5.音響や舞台装置など応用技術効果の導入で、表現の到達レベル、基準があいまいになったこと。

6.舞台、ショースタイル、客の趣向で大きく左右されること。

7.本人の生き方・考え方・パーソナリティが優先されること。

8. 才能より好みが優先してしまうこと)が優先されがちである。

 

〇常に表現、ことば遣いの修正の必要性

 

 私は、引用していた図表や理論、他書や他の方に教わった方法・用語を新しいものへと、差し替えてきました。私自身が直感的に述べてきたところは、今のところ、大きく変更する必要にせまられていません。それでも、思いがけなく、誤解を与えかねないところをみつけては、表現上の修正を常に重ねています。

 

 私の根本での考えは、同じですが、伝え方は日々変じています。相手により、時代により、違ってくるのです。

 現場と理論では、現場での効果が優先です。アーティスト相手の仕事である以上そうなります。トレーニングにどう対するかは、ケースによってまったく異なります。同じケースで全く逆の対応をすることもふつうにあります。

 

〇早くうまくなることのリスク

 

 たとえば、一時悪くなるけど、あとで効いてくるものと、一時、効果は出るが、大してあとも変わっていかないものがあります。これに関しては、トレーニングとして、前者をとるべきですが、なかにはそれを一時でみて、間違ったとか、下手になったと見切ってしまう人もいます。また、現場では後者をとらざるをえないことがほとんどです。そのため、いつも二段構えで臨みます。トレーナーが、この区別ができているのかがもっとも重要な点となります。

 

 スポーツのように、コーチに言われたようにやったら新記録とか勝ったというように、結果にすぐには還元されないし、試合もないから明らかな結果というのも難しいのです。結果がよければすべてよしという結果が公の場でなく、個人の感覚や好みで判断されるからです。レベルの低い日本では、長期的な成果は、促成栽培的な効果のまえに否定されがちです。結局、声も歌も、所詮、本人が選び、本人が決めるのです。

しかし、アートですから、教えるのでなく、刺激すること、気づかせること、自分の声の可能性を認識させることが、トレーナー本来の仕事だと思うのです。

 

 本人の要望に答えることと、それ以上の深い真理へいざなうことを、矛盾させないためには、神(この場合、一流のアーティスト)の手を借りるしかありません。

そのことのわかるアーティストとのトレーニングを行なってきた実績をもって、私は確信をもって述べているのです。プロは、投資分を必ず回収する力を持つ人です。力のある人はいわずともわかるのですが、それを一般の人にどう持っていくかは、難問です。本当に効果的な方法は、単独にあるのでなく、トレーナーと一体なのです。

 

〇科学的説明の限界

 

 たとえば、いかに高音が周波数で決まるから、そのように声帯の振動をどうこうでしょうといっても、人間が反応する高音は、音響技術のようにはいきません。

私たちは、現実には次のように声を使っています。表現として強めたいとき、息は強く吐かれ、声も強くなり、高くなり、それが強く伝わる、何よりも受け手は、それに反応してきた現実の生活と歴史、つまりDNAがあるのです。

 

 声の高さは、まだ比較的確かなものですが、そこでさえ、声帯の周波数ほか、いろんな要素で決まり、そのしくみも厳密には解明されているわけではありません。

周波数(音高)とピッチ(これは受け手の感覚値)も違うわけです。

倍音や音色などの要素が入ってくるので、複雑です。

 

 しかし、現実に、聴衆は声の高さや大きさ、長さを聞きたいわけでも、それに感動するわけでもないのです。現実の声の効果を聞きたいのです。

それゆえ、声の問題は、総合的に捉えざるを得ません。これをいくら基本的な理論や知識で理解しても仕方がないのです。つまり、声を高く出すため、などという問いは、歌を形(1オクターブ近く、高く出し、メロディと歌詞で歌うもの)と決めたところからきているのです。「高音コンクール」などがあるなら別ですが、それを目的にすることで、すでに本当の目的を飛ばしているのです。

「力をつけるための基礎の徹底」

○効果を出し、力をつけるトレーニン

 

 養成所が与えられるものというのは、本番以上に厳しい場とそこで耐えうる習慣だと思います。伝わる、伝わっていないというのは、否応無しにわかってくるところでなくてはなりません。とことん音声に敏感になれたら、ということです。そうやって、ようやく自分の基準ができていきます。

 

 私のいいたいことは、読むことと実行できることは違います。そのことばの意味することがどういうことなのかということを、レッスンの場から気づいてこそ、効果につながるのです。

 トレーニングをやって何の意味があるのかと考えるような人もいますが、力をつけることで意味が見出せてくるのです。

習いに行かなくとも、それ以上のことをやっていて、それなりのものを作っている人はいくらでもいます。それを前提に考えなくてはいけません。今うまくできないとか、まだやれていないということは、気にすることはありません。

 

○あなた自身の声、そして歌に気づくこと

 

 自分のものがいつ出てくるかというのは、誰にもわからないのです。

続けていくには、手間ひまをじっくりとかけることです。そのことを最優先して生きることです。作品そのものからインスピレーションを得て、トレーニングの方法を自分で発見し、それを実践して、常にレッスンの中で問うていくことです。

 

 レッスンであっても、「その歌」を歌うのではありません。もし「その歌」から学べるものを全て学んだら、「その歌」にはなりません。「あなたの歌」になり、「あなたの声」に「あなた」が現れて、はじめて伝わります。

 

○徹底した基本のマスターを

 

 発声なども、1曲を繰り返し徹底してマスターすれば、ほとんどの問題は解決するはずです。もちろん、何事も発声法だけで解決するものではありません。

複合的なものを入れては出して、繰り返すのです。いつかそれを忘れたときに歌が出てくるのです。だから、発声と音楽たるものの基礎を徹底して、自分に入れておくことです。

 

 曲を本当に聞くことができているなら、一曲の中でリズムトレーニングも、音感トレーニングもできるのです。それが聞けない時期は、トレーナーについて、別の方法で音感、リズム感などを磨いていくこともあってもよいでしょう。そうして自分なりに、自分の方法論をつくってください。

 

○トレーニングで本当にやることとは

 

 トレーニングでやることは

1.長期的に身になること、今すぐ役立つものではないこと

2.やがて過酷な状況でも、のどが耐えられるようにしていく(鍛えてタフに、使い方を知ること)

 そのために、レッスンでは一人では、できないことを気づき、自ら、やりにいくのです。

 

 このように、あとで効いてくることをやることがトレーニングなのです。

 参考までに、中川牧三氏の言葉を引用させていただきます。

聞き手は心理学のオーソリティ河合隼雄氏です。(「101歳の人生をきく」中川牧三・河合隼雄著 より)

 

河合:合唱団なんかも、ちょっと特別なものと違いますか。一糸乱れぬようにパーッとやって喜んだり、むずかしい曲を必死に練習したりして。

だけど、自分の身体からほんとうに声が出てきて楽しいという感じじゃなくなっているのが多いみたいに思うんですけどね。

 

中川:悪口のようになるから言うのはいやなんですけど、いまのみなさんの勉強のしかたには多くの問題があるように思います。世に蔓延する偽者(技法)に騙されてはいけません。それに近道を望んでもいけません。

レコードを、エンリコ・カルーソーのにしても、レナータ・テバルディのにしても、ほんとうに偉い人の歌をよく聴いてみてください。けっしてみなさんがやっているような声で歌っているわけではない。それがすぐわかるんです。

 

この歌をカルーソーはどう歌うのか。ここまでポジションをもちあげて、その次にここをゆるめて、この場所に入れる。それから曲芸を見せて、ウーッと・・・。真の芸当ができるのは真の力のある人だけです。

それに、この正当なベルカントの発声法は、ただ練習を熱心にしたからというだけでできるわけではないんです。

 

河合:それはしかし、音楽だけじゃなくてすべてに通じることですね。

いまはやっぱりみんな慌てるから。本当の先生は時間がかかるんですね。

 

中川:時間はかかります。

 

河合:パッパーッと真似して、「ここまで」とか「これで」と言うんやったら、これは方法があるんです。そこまで到達するなら、わりと簡単な方法があるんですよ。

それにいまの人たちは、歌だけじゃないですよ。あらゆる世界で、みんなマニュアル方式で「ここまで行きましょう」と。

それでちょっと才能のある人は、それにプラスして勝手にミックスしてやっている。

そういうふうな格好がものすごい多いかもしれませんね。

 

中川:そのとおりです。

 

河合:それをもういっぺん、ほんとうの先生から、人間から人間に、と。これは歌の世界で言っておられるけど、あらゆるところに通じることじゃないですかね。

現代の大問題。それは機械でパッとわかるということと同じで、要するに、要領のよい方法であれば、ここまで行きましょうというのは、ものすごく発達してきているわけです。

 

中川:あらゆる分野で。

 

河合:また、若い人はすぐ、「先生、どうしたらそうなりますか」と訊くんです。

 

中川:よく訊かれますねえ。

 

河合:その問題がすごく大きいことかもしれませんね。で、生の、生きている人と生きている人の関係というのが少なくなってきて・・・。

 

中川:イタリアでも発声レッスンの場合、習うほうにしてみればもの足りないんです。

それらを積み重ねて紙一重の違いを見極めていく忍耐がいるんですが、でもいまの人は、じれったいんでしょう。それから、曲をちっともやらしてくれないから、おもしろくない。それより、一つの曲を二回歌って、克明に直してもらう「曲づくり」のほうを喜ぶ。それでは何にもならないんだけど。