「学ぶことへのヒント」

○素人コメンテーター

 スポーツの世界には、そのプレーをやったことがないとか、やったとしても、大してできないのにプロや一流の選手のフォームや監督の采配にまで口を出す人たちがいっぱいいます。

以前は、それは、便所の落書きのごとく、市井の居酒屋談義で消えていったのですが、今や、ネットに記録され、残っていくことになりました。

そして、内容のある話には、耳を傾ける人、コメンテーターのファンのような人も増えています。量が膨大になると、まさに素人恐るべしで、コメントする人のなかったプロのフォームやプレー、采配などについて的確に見抜き、ことばにする才能にすぐれた人も出てきました。

○プロとの違い

評価や批判は、必ずしも、それを実践してきた者の特権ではないと思います。むしろ、一流選手には、そういうことに不向きな人も多いものです。

選手あがりで、すぐに解説が通じるのは、プロでも10人に1、2名でしょう。素人となると、そんな高い確率ではありえません。言うことの根拠や基準を問われると、お手上げかもしれません。

しかし、プロでも、そこは「自分の経験から」と言うくらいしか答えられないことが多いはずです。

ハイレベルな判断のできる人は、ほとんどいないでしょう。

○量と質

 大衆は、多人数ですから、何十万人、何百万人のファンがいたら、そのうち0.0…1パーセントもないでしょうが、数人は、現場のプレーヤーよりもすぐれた見識をもつ人がいてもおかしくないです。

まして、選手よりも多くを広く見て記録し、分析しているような方法論をもつのであれば尚さらです。

○素人とプロ

プロが、固定観念、先入観をもつのに対して、素人は、自由であるから、しかも、数が多いので、当たる人も出るのです。

科学や医療、プログラムなどの革新では、1人の天才が何十万もの人ができないことをやり遂げます。芸術では、創造という点で違ってきます。分析、批評は、創造とは異りますが、創造的なものもあります。

○創造への妨げ

イメージ、形に支配され過ぎると、時代が変わるのについていけません。専門、知識、常識が、前時代のエッセンスとして、そのまま強くあるほど衰えてしまうのです。一気に衰退への道をたどり、滅していったものも数多いです。

名のあるプロとなると、いろんなしがらみ、人間関係が権力構造に取り込まれていかざるをえません。まわりへの影響を考えると、革新したくとも、できないことが少なくありません。

伝記などで真実が出てくるのは、本人も関係者もほぼ亡くなったり第一線から退いたあとです。それは、政財界や企業だけではなく、どんな分野でもいえることです。

○中途半端なエビデンスは不毛

 最近のヴォイトレでは、あまりに安易に“科学的なトレーニング”などと称して行われているように思います。そのせいか、生理的、解剖学的な質問も増えました。

競合するところとの差別化のためにサービスするのなら、他分野と行き着くところは同じです。

私は、非合理的な似非科学よりは迷信的な精神論の方が、まだよほど健全であるように思っています。

科学をエビデンスをもって活用するのには文句はありません。私もその成果を先陣を切って取り入れてきた一人だからです。それでも、過度なエビデンス主義を不毛と思っています。現場感覚、直観からの拒絶せざるをえないのです。

○脱エビデンス主義

物事に白黒をつけたいのはわかりますが、ほとんどは、白か黒かではなく、グレーなのです。それを早く白黒つけてもらいたくて来る人が多いと、黒を白といって、そこに科学的理論を後付けするようなことが、世の中で、いや限られた人たちのなかで通用してしまうのです。

普及期にはよくあることですが、それがずっと続いているとしたら、その分野の未熟性、人材の向上レベルの低さを嘆くしかないのです。

○アーティストは反例なのに

科学主義への反論は、これまでも述べてきました。何しろ、科学は、反例一つで覆るのです。一人の反例アーティストがいたら、覆るほどに頼りないものです。その一人になろうと夢見る人がつくってきた世界だからです。

しかし、もはや、そんな例外となることを求めることもなくなってきたのでしょうか。同じ枠内で皆、同じくらいにできたらよいと思うようになったのでしょうか。それが、この科学的、エビデンス信仰に拍車をかけています。

○思い込むのとマニュアル漬け

目標レベルを下げるほど、マニュアル漬けになっていくともいえるのです。自己陶酔で終わる思い込みは危険でもありますが、思い込みからしか始まらない、突き抜けられない世界もあるのです。

それを支えるだけの下積みができるシステムがあるのかが問われていると思います。時間や量は前提であって、そこでマックスに、バージョンアップしていく環境をどう確保するのかということになります。

○マックスと全力ということ

「マックスを恐れないが、マックスにしない」、トレーニングでは、最大限、100パーセント、力を養います。そして、実際には、加減して使うということです。力というのは、甚だあいまいなことばです。

 全力というのが何パーセントとかいうのは、100パーセントということもあれば、70パーセントということもあり、まさに、人間の限界をどこにおいて、どこまで使うのかは、いろいろと変わるのです。

○イメージ言語としての数字

 私としては、これまで、「トレーニングは、100パーセントの力を120、200パーセントにしていく」とか、「本番は70パーセントで」とか、そのときどきに変えて使ってきました。ですから、これもイメージ言語の一つといってもよいでしょう。

○数字の説得力

今までより「力が2倍強くなった」とか、「半分しか力が出せなかった」ということは、イメージです。能力が2倍つく、3倍記憶力がよくなるなども、そうした例えです。人が数字に弱く盲信するという弱みに付け込んだ説得術、誇張、オーバートークです。

しかし、そこに「球速が100キロから120キロで20パーセント増し」とかなると、1.2倍の能力アップのように客観性をおびたようなレトリックとなります。

それが“科学的”と言われて、さらに説得力を増してしまうのです。実のところ、大して変わりはないのです。

点数で比較しても意味ないから偏差値などが使われてきたのですが、満点が何なのか、わからない分野では、イメージ以上に意味のないのは言わずもがなです。

○アートとトレーニング

 ある一点ですぐれているか、総合的にすぐれているかでみることは、大切です。その間にいくつものバリエーションがあります。多くは、相関的に評価されていくのです。

アーティストは、それには当てはまらないところ、誰もやっていないところ、気づいていないところ、力を入れていないところでトレーニングを行っていくことでしょう。結果、自ずとギャンブル性を持ち合わせていきます。

○効率化とトレーニング

 リスクを抑え効率化することをトレーニングで考えると、それに反しかねません。トレーニングには自ずと理想像ができてくるからです。

一つのものを求めるところでは似たタイプが多くなるのは、当然の成り行きです。模範的な正解というのが必ず出てきてしまうのです。果たして、そこを目指してよいのかを、常に考えていかなくてはなりません。

○柔とテクニカル

 「柔よく剛を制す」とは、スポーツの世界では、すでに重量別などが取り入れられたことで遠ざけられました。しかし、相撲やラグビーなどでは、ときおり、同じフィールド上で、そういうことがみられることがあり、痛快です。

特に日本人は、自らを投影してなのでしょうか、判官贔屓で感情移入しやすいからです。

ただ、そのためにリスクが大きくなり、ケガや生命に関わるとするならスポーツの域を超えてしまいます。精神主義に陥りやすいのも欠点といえましょう。

 パワーがなければ技術にシフトするものです。パワーゲームか、テクニカルゲームかというジャンルの要素も大きいのです。

○イチローの脅威

イチローなどは、大リーグのベースボールというパワーゲームを奇跡ともいえる大活躍でテクニカルゲームにしました。ただ、ベースボールには、単なるパワーゲームでなくテクニカルに勝敗を決する要素がいろいろとあったのです。九回裏にランナーがいなければ、ホームランバッターが望まれそうですが、確実に出塁するイチローの方が怖いし、ましてランナーがいたら、イチローの方が望まれるのは言うまでもないでしょう。

○パワーそのものではない

 アート、演劇や歌唱、ステージの世界では、大スターと体の大きさ、パワーは、あまり関係ないといえます。もちろん、体の大きさ、身長や体重とフィジカルな能力は別なので、大雑把な例えですが。

その点、芝居などもですが、特に歌のパワーとなったときに、あまり男女に差がないのは、特筆すべきことではないでしょうか。

○マックスと変化

 「フィジカルなパワーは養成しやすい」ゆえに、「体は変えやすい」のは確かです。そこでもメンタルが大きく問われるのは無論ですが、「メンタルはフィジカルに支えられ、フィジカルの強化にも使える」のです。

 となると、パワーの上限をマックスまで上げていくのは、トレーニングとして理想的なことです。

しかし、それは、そのパワーを全開で使うのではありません。それをもって微妙な変化をつけられるようになるためということを忘れてはなりません。

○マックスとメリハリ

私が最速100キロのボールを投げたとして、下限は、ストライクが入るなら60キロ、すると、60~100キロしか変化がつけられないのに対し、150キロが投げられたら、その2倍以上の変化がつけられます。まあ、60キロは使えないでしょうから80~100キロと80~150キロ、その2つを比べても、どちらが有利か、その差は歴然です。失敗するのは、150キロのピッチャーでも、150キロでしか投げないときでしょう。

○歌のパワーとメリハリ

これは、歌や芝居のメリハリに置き換えられます。声量でいうと、デシベルとなりますが、110デシベルくらいをマックスにして、70~100デシベルを自在に使えたら70あたりだけで歌う人よりもメリハリが付けやすいでしょう。マイクを使えば50~70でも補えますが、やはり、口先でのコントロールでは、パワーやメリハリに欠けるのです。

○特化する

 体もあり、フィジカルもあり、メンタルもあった上で、テクニカルに特化するのなら、鬼に金棒です。そこは「己を知る」ことから始められることでしょう。そして、どこに絞り込むのかということです。

総合力があっても全て平均点では、プロでは難しいのです。一つでも最高のものがあるか、2~3の準最高のものがあり、それをうまく組み合わせられるかです。その上で、それを攻めとして、守りとしては平均点以上の固めができるかが問われるのです。

○価値の価値観

 すぐれたアーティストは、「人を感動させられたらよいのであって、どのように感動させるかは問題ではない」というのが、とりあえず私の頭にあることです。

しかし、アーティストを志願する人は、どうやって感動させられるかを考えているでしょうか。大体は、「どうすれば歌がうまくなるのか、演技力が上がるのか」を考えます。しかし、そこはトレーナーに任せたらよいのです。

どちらにしても、この場合、「うまくなる」「演技力が上がる」というのは、「感動させる力をつける」というように結びついていないことが多いのです。それは、価値に関する考え方、まさに価値の価値観といってもよいかもしれません。

○安定したパフォーマンス

 エンターテイメントなら、売り上げや動員数が重要な指標になります。消化ゲームのようなステージを重ねている歌い手の多い現在では、創造と消費との関係から見直すことも必要かと思われます。

数(量)をこなした上でのコンスタントな仕上がりを求められます。そして結果を出すこと、それも、できる限りマックスの結果を出すことです。

そのために変えられるところ、変えてよいところと変えないところ、変えてはならないところを、どのように見極めるのかがトレーナーの最大の腕の見せ所です。そこは何とも奥深く難しいのです。

○結果とエンターテイメント

 アートや芸は「結果オーライ」の世界です。狙って、よい結果をとれるものではありません。ベストパフォーマンスをいつも念頭におきつつも、今は今のよい結果を目指すこと、そのための準備と詰めを怠らないこと、その体制を日頃から具えておくことが肝要です。

一曲をうまく歌うこととステージで全体の見せの構成では、エンタメでは、後者が全てといえます。声と歌、歌と音楽、歌手と出演者(演奏者ほか、全て)との関係も似たようなものです。

○大局観

 パワーとバランスでは絶対的にバランス優位に、それがステージ、歌でも問われるとなってきたのなら、ヴォイトレもそうなるのがしぜんな流れといえましょう。

なんせ、歌手が48人というなら、紅白歌合戦でも目一杯、4時間かかっていたのに、今や、同時に登場し、一曲5、6分で演出してしまうのです。こうなると、歌手の力でなくステージパフォーマンスの力としか言いようがありません。まだ人間が出ているだけよいとは思うのですが。いえ、これでは、少しずつ、人間は不要となり、AI、ヴォーカロイドへの置き換えが進んでいくでしょう。

○ステージ経済

 バランスで最高の勝負をしていると、パワーが最大でなくてもよいのです。もちろん、平均点以下に下回っていてはどうにもならないはずです。しかし、それでどうにかなっているのが今の日本の、ステージなのです。まさに日本そのものと歩みを同一にしているのです。

となると、長くは続かない、それなのに、続けるだけのシステムで残していっているのです。歴史上の教訓では最悪の滅亡となる兆候です。(そこに触れると収拾がつかないので、ここでは、省いて別の機会に記することとします。)

○習わしは変わる

 パワーだけで雑なのは、デビューまでの特徴といえるわけです。そのパワーで10代、20代に世に出てから、走り続けるのが、これまでの世の習わしというものです。なかには、20代から30代で伝説となって夭折する人もいます。

しかし、それが40、50代はおろか、60、70代まで走り続けるのが当たり前となると、事情が異なります。しかもストイックでヘルシーで、好きなことをやり続ける健康優良児として求められると。これまでの習わしは大きく変わっていっているのです。

○人間の感覚、特に聴覚における錯覚

 アートはイリュージョンなのですから、どのようにマジックを使うかというのもテクニカルな技術となります。声のよさ、歌のうまさが同じでも、プロとなれるのかどうかの違いは、そうしたところへのセンスが大きくものを言うのです。

 人が感じることに敏感というのと、自分が感じることに敏感というのと、そうしたセンシブルが創造に結びつくのと、この3つの関係は、けっこうあいまいで、捉えにくいのです。

人間ですから、思春期などにそれが研ぎ澄まされることもあれば、歳と共に人生経験のなかでいろんなことが生じて深まる人もいるでしょう。案外と声や歌に現れやすいものです。それが大きく変化したり上達したりする例を、私はたくさんみてきました。

○意味と信心

 これまでも「無意味なトレーニングとは、何か」をずいぶんと考えさせられてきました。

エビデンスがなくても、いや、ほとんどないのですから、トレーニングに根拠や意味を絶対的に問うても難しいといえます。

トレーナーは、ヴォイトレを奨励する立場にあるので、それらしい理屈をつけて、そうした意味を信じられるようにする役割を負います。

「どうなるかわからないけど、やってみましょう」など、本音で言えるのは、かなりの信頼関係の得られた相手か一流のプロとの間だけです。まず、信心から効果は出てくるのですから。

○答えない良心

「直観的に判断したことへの説明を求められる」と、まず、答えるのか答えないのかに迷うのが良心だと思うのです。それをしゃあしゃあと答えてしまうのは、親切、かつ物知りのようで、人を伸ばすには、あまり向いていない人だとわかってきました。

その前にそういうトレーナーを選ぶ人は、まだ、本当に覚悟をもち、本気でやろうとしていないということもいえます。本人は頭で本気で熱心なのですが、その分、見えなくなってしまうという人もいます。

「うまくいけば」「運がよければ…」で、選ぶなら、人あたりとサービス精神のあるトレーナーがふさわしいでしょう。

○アティチュード

 姿勢や呼吸ということばを使わざるをえないことが多いのですが、できるだけフォームということばに置き換えて説明してきました。しかし、フォームというのもあいまいです。

そこには、フィジカルに合理的な動きのとれる肉体強化をもち、メンタルとしてそれを十全に発揮できるだけのものを具える、つまり、構え、スタンスがいるのです。

そこで「スタンスができていない」とも言いたいのですが、これまた、伝わりにくいものです。気構え、心掛け、意欲、態度というか、モチベーション、アティチュードのようなことです。

○起声のタイミング

 発声にタイミングは、とても大切です。呼吸のキープや切り(ブレスの音)はわかりやすく、これまでも多くを注意として挙げてきました。指導にオノマトペを多用したのは長嶋監督でしたが、そこは、聴覚を含めての五感の鋭さがあったのでしょう。

ハイレベルとなると入り方、いわゆる起声、アタックが安定していくのです。そうはいっても、そこに絞り込んで行うとうまくいかなくなることが多く、バランスとして全体、量から入る方がよいという例です。

○起声の難しさ☆

たとえば、1,2,3,4、1,2,3,4とすると、最初の1、その切り出しに呼吸、そして声(発声、共鳴)にするのが難しいのです。しかし、4のあとの1は、比較的うまくやりやすいです。それは、すでにフレーズで流れているからです。車の運転で、加速より発進が難しいのと同じです。

 何であれ、始動には0→1と最大のエネルギーがいるのであり、1→2→3の方が楽なのです。そのためにイントロ、前奏などもあるのです。電話で「もしもし」と声をかけるのと同じです。

 ステージでの1曲目前にブレスやハミングのトレーニングをしておくとよいでしょう。動きがゼロになるのをなるべくなくし、0.9くらいにあげておくためにしておくのです。

○みえない世界

理詰めで、ものごとを突き詰めるのが、物理学です。心のように、みえないものについては心理学です。でも、ものもみえなくなるから、心と同じようになるのです。

量子論は、もはや、哲学や宗教に近いようにも思われます。

現在は、私が選んだ結果としてあり、時間も空間も超えて、それは根源のものから繋がっているとなるのです。

 みえない世界で音を聞き続けてきた私に、そこにみえるもの以上の世界があったのは、まぎれもないことです。

○「絶対」はない

 「ものごとに絶対がない」のは、経験からも察せられることです。こうして、ことばにしたからといって、それが自分の考えていることと一致するとは限りません。TVをみて、そこに取り上げられる人が、いつもそういう服やメイクと表情をしているとは思わないでしょう。

つまり、何事もしぜんであるがままには、観測できないのです。つまり、「こうだ」と自然なままに、客観的事実として断定できることなどないのです。

○レッスンの特別な状況

レッスン、トレーニングでも同じです。相手やトレーナーが介在すると、すでに特別な状況となるのです。「あいまいで確定できず絶対的でない」ゆえに、しぜんに捉えておく方が「絶対に正しいもの」などを追求するよりも現実的で真理なのです。

自分=人を自然の外においてみることができないように、トレーニングも自分を外において客観的、絶対的など求めても無理なのです。

それゆえ、私は、これまで「トレーニングは各論(個人・特殊)であって、総論で問うても無意味」とくり返してきました。

物質が粒子でありつつ波動であるのなら、ものごとも常に揺らいでいるのです。その加減をよきように整えるのです。いい加減とは、言い得て妙なことばです。

○「正解」にとらわれない

喉の位置などを「正確に」などと客観的に観測すると、その一瞬を、どこかに固定されざるをえません。それは、解剖学のように、死んで動かなくなった状態です。波動が粒子になったように固定されます。動きの中の1枚の写真のように確定してしまうのです。

しかし、その写真は、すでに選ばれたもの、現象として取り出されたものにすぎません。そこに動きは全く入っていないので、全く違うということです。これを「観測問題」といいます。

○介入と非局在性

ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」というベストセラーがありました。現実化したのは思考、選択した結果ということです。

 芸術は、時空を超えると言ってきましたが、あらゆるものもまた、そうなのです。そして流れている、つまり絆なのです。

「今、ここ」しかないし、私自身が介入すると、「今、ここ」としか現れないのです。なのに、それは、同時に過去や遠くに離れたものとも関係しあっているというのです。つまり、非局在性をもつわけです。

○固有振動数

 ものが振動で共鳴、共振するとき、その振動数は決まっています。これを固有振動数といいます。

最近は、これについて、体内の細胞や臓器との関連で研究されています。固有振動数の乱れで病気になるなら、それを整えて治すという考え方です。

実際に音楽療法なども使われています。自然のもの、食べもの、香料、ハーブ、温泉などでの治療も昔から行われています。歌やことばも同じように整えるものとしてあるのでしょう。