「結びつきと強化」

○結びつきと強化

 

 ヴォイストレーニングをしていました、という人も多くなりました。なかには留学までして、いろんなメニュや方法を体験していらっしゃる人もいます。しかし、肝心の声はよくなっていないのではないでしょうか。大半の人は発声のしかたを変えて、高めに楽にギアチェンジすることで終わっているからです。それが目標で満足しているからです。

 声=息=体、この結びつきと強化が、本当の意味での、私の考えるヴォイストレーニングです。

 声楽でも1、2年で大して変わるものではありません。ポップスのヴォイトレの数カ月では、調整して確認ができたらよいくらいです。

 それは、レッスンのよし悪しでなくトレーニングとしての絶対量が不足しているのです。そこで期待したり、ガッカリしたりするのは、おかしいのです。噺家の修行さえ、前座、二つ目で、3年、5年とかかります。1、2年での成果は、声でなら、少々優れている人なら、すでに身につけているくらいのものです。

 問題は、声を得るために、その手段を得にいったはずなのに、その実践を伴わせていない。つまり、いつかきちんと自分のものとなるように得てきていないことです。結果として処方や治療のように考え、先のことを忘れてしまっているからです。

 今の声の響きを変化させて、声域を上に(高く浅く)広げるように言われたとします。バッティングでいうと、脱力して楽になったので、当てやすくなったのですが、キチンと芯で打つことができなくなったようなものです。ちなみに、野球は飛ばないボールに変わって、再び、素振りという基礎の大切さが、クローズアップされています。

 声も同じです。マイクで音響がよくなったので、あてることばかり考え、きちんと芯で声を使うことができなくなったのです。初音ミクに歌わせるのですか。体から声を出すことの大切さを見直すことです。息吐き=呼吸のトレーニングの大切さをクローズアップしてください。

 

○息を深くする

 

 喉を強くするには「声出し」をすればいいのですが、個別に持っている身体が違うので、私は、喉そのものでなくその周辺を変えるイメージをもつようにした上で、息吐きをトレーニングのメインの一つとしています。

 一流の歌い手や役者は、息が聞こえるほど深い声をもっている、それを支える、深い息を持っています。人の心を動かすときに使う声=息=体です。その息からアプローチしてみようと思ったのです。

 彼らをよくみて、共通の体、息、声(の芯)をとらえます。声は個人差があり、わかりにくいのですが、体や息の条件は、私も近づいていくに従って、わかってきました。結果としては全身が響いてくるのです。椅子に座ると、椅子から床まで響きます。

 声の出る体では、息は意識しません。どういう息を吐こうとか、体をどう使おうとか、考えません。ただ、体から声が出るのです。少しの動きが、そのまま100パーセント声になるのです。これが完全な結びつきです。声は背骨から尾てい骨まで響きます。

 目先のレッスンには、そういう根本的改善=鍛錬がないのです。浅い息、浅い響きで、高音をカバーしようというのは、逆だからです。バランスをとるために今の息の力を制限していくのですから。

 「使った分しか声にならないが、使った分だけは確実に声になる」ようにしていくのが、正攻法です。

 常に100パーセントの結びつきで、80パーセントや、50パーセントでは、そうならないのです。120パーセントや200パーセントでもよくありません。

 1の体=1の息=1の声、この結びつきを完全に身につけると、声は体となります。これは、体や息で声を押し出すのとは違います。ことばや歌にしようというのではありません。声を発しようとしたら、もう響きが飛んでいるのです。よくみる発声練習のような、浅いつくり声ではありません。その人の体、喉をふまえた声、その人の性格、生き方、感情を踏まえた個性ある声なのです。ここでは使用目的での色は付けず、ベースとして目指すべき声とします。

 

○勘違い

 

 勘違いされやすいのは、体の声とか深い声といいつつ、喉を使い、押しつぶした声です。独力での自主トレでは、ほとんどの人が間違えてしまいます。憧れの人の声から、ハスキーを見本ととらえてしまう人にも多いです。

 とはいえ、これを安易に今のトレーナーは否定しますが、プロセスとしてはすべてがすべて、だめなのではありません。役者(悪役の人に多い)やハスキーな声のポップス歌手には、そういうプロセスのままの声も少なくないのです。ただトレーンングの中心にはお勧めできないということです。

 

 声の調子が少々悪くなったくらいで、喉を潰してもいないのに、大騒ぎするようになったのは、ここ20年くらいのことでしょうか。ヴォイストレーナーがたくさん現れた時期です。歌い手のレベルも下がってしまいました(これはトレーナーのせいでなく、歌い手の安易な目標にトレーナーが応じた、いやそれしか知らないためです。短期でみるのと、長期で育てることの違いがわかっていないのです)。

 とはいえ、これを促したのは、求められる歌の変化が大きかったのです。それと昔のように荒っぽい、大声練習では、通用しない人が多くなったことです。

 もとより大声とレーニングは効率が悪いのですから、効率をよくするトレーニングはよいことです。しかし効率のよい発声が、可能性を大きくする声の出し方なのかというと、そうではありません。

 声の弱い人と強い人がいます。この弱者がヴォイトレの対象になったために、トレーニング全体が、ヤワな方向へ行ったのは否めません。トレーナーについても同じです。タフな声のトレーナーは、本当にいなくなりました。弱い声の人が、弱い声は強くならないと、トレーナーに見切られてきたともいえましょう。

 そういうことが思い当たらないという人は、昔の、声と感覚だけで勝負できていた頃の、歌手や役者の声を聞いてみてください。世界の声、そして浪曲から民謡、詩吟の名人の声を聞いてみてください。耳から目が覚めるのではと思います。

 J-POPS用の声があるのではありません。いろんな声があり、いろんな歌い方があるのです。

 

○子供の声の日本人

 

 浅い声の人や弱い声の人は、日本人よりは、外国人に範をとることがよいでしょう。男性だけでありません。むしろ女性の方が、その差は大きいでしょう。文化的背景として、“かわいい”文化の先進国である日本の人は、早く大人になりたいという成熟願望をもつ人の多い海外と、大きくズレているのは言うまでもありません。

レーニングは早く一人前、大人になるための手段なのです。子供でいることを目的にすることは、大きな矛盾でしょう。

 ロシア人やフランス人の深い声とは言わなくても、欧米やアジア、アフリカ、どこの国にも声は範を取れます。エスニックな歌唱、民族音楽だけでなく、日本人の伝統的な声芸にも、たくさんのよい声、深い声があります。

 ここでは、聴衆の好みや歌のジャンル、流行については触れません。人類共通の体としての発声と表現に従いたいと思います。

 

○基本の「ハイ」

 

 私のトレーニングには、上半身を90度、腰から屈伸させ、床に背中が平行になるようにして「ハイ」を出すことがあります。前腹を押さえる(前腹が圧迫される)ので、横や背の筋肉が使われやすく、横隔膜呼吸の拡大を意図します。もう一つの理由は、下半身を固定して、上半身だけのコントロールをしやすくするためです。ひざは緩めてかまいません。

 入り口では、話声域、胸声をメインにしています。ここはすでに、私たちが持っている声ですが、使いきれていません。これは、出しやすい中音域の発声が完成に至りにくいのと似ています。生じ使えてしまっているからできていないのです。

 ベテラン役者の中には、この地声を自然に高い完成レベルで使えている人が結構います。大きく怒鳴れるのです。海外の人の声を聞いてください。胸の響きで話せる人が多いから、声がひびきます。響くというと、振動するイメージとなりかねないので、「通る声」を出す、ありきたりの言い方では、「腹から声が出る」ということです。

 

○頭部共鳴オンリー主義の限界

 

 私は基本トレーニングのなかでは、あまり高いところまでは無理させませんが、頭部の共鳴はイメージさせています。頭部で響くのはよいのですが、響かせるようにするのは、あまりよくないのです。これは、多くの場合、くせ声です。

 このくせ声を誘導するトレーナーが多いようですが、楽にうまくなるものの、実のところ、音に届くだけで、音色も太さもほとんどコントロールできず、ハイレベルではあまり使えません。そこを安定→固定させることで、次の発展を阻害する要因になります。

 優れたトレーナー、特に声楽家の中には(テノールやソプラノに多い)そのくせをつけては取りながら、まっとうに発声を伸ばしていく技量をもつ人も、少数ですがいます(「レベルⅡ」参考)。

 年数を続けるうちに、自然に体、息が強化されて理想に近づいていく人もいます。恵まれた声質と感覚のある人で、日本でのテノール、ソプラノの成功者はおよそ、このタイプです(私の考え方に否定的な人も、このタイプに多いです)。

 しかし、彼らの方法というより目的とするイメージでは、現実に世界では第一線で通じていないということで、私は3つほど仮説を立てています。1.メタリックな輝く頭声、2.深い息と体の支え、3.芯のある胸声、これらの欠如について、です。

 体―息―声の細い結びつきを、キープしているうちに、声に共鳴が加わってきます。発声して共鳴するより、共鳴が発声を正していくイメージです。[E:#x2606]

プロセスは私と同じですが、私は、声―息―体と基本に逆のぼるのに対し、彼らは、声―共鳴を中心にしていたのにすぎないことが多いです。

 いろんなやり方があってよいと思います。例えば頭声→胸声も胸声→頭声も、この順もどちらがよいと決める必要はありません。

 日本の声楽の教育を批判しているつもりはありません。海外からの受け売りで、メニュや方法は海外のと同じです。ただ、それを使う人のもっている条件(器、体、言語、日常)という前提が違っているのです。一言でいうと小中学生の合唱団に、40代の大人のレッスンをやらせているようなものです。日本には前者しかいない、それも頭声だけですべてやろうとするような人が多いから、結果として次の要素が最後まで欠けているのです。声楽だけでなく、ポップスにもそのまま言えることです。

太さ、深さ、インパクト、強さ、大きさ、パワー、タフネス

感情表現、日常性、ダイナミズム、ドラマツルギー、個性

 最初から2オクターブの歌唱を目指すか、まずは1音での完成度を目指すかということです。

 

○負荷のレベル

 

 無理に負担をかけて、重い強い声にしようとしては喉を壊しかねません。自然にできていくのを、できていかないようにしているから、どの程度に無理をしていくのかがトレーニングの肝です。これを私は「負荷」や「抵抗」といっています。

 きちんとした結びつきを感じられないうちに、思いっきり息を出して、その息を思いっきり声にする、さらに、それを高くとか、シャウトとか、大きくとか、長くとか、続けてやるとかで、無理になりすぎてしまいます。それは初心者には自殺行為に等しいことです。特に自主トレでは。プロでもやってはいけません。だからこそ、息なのです。

 喉を傷めたり、調子によくないときは、のどを休めることです。

 本番前に、息だけを流すというのは、私もよくやりました。オペラの教本にもあります。声を出すのは声帯を振動させることで、その負担やリスクを考えて、できるだけ喉を温存するわけです。

 ただ、いつまでも体や神経まで、うまく働かないままでは困るのです。そこで、アフォーメーションとして、呼吸を使っておくのです。ボクサーが試合前に、体を動かして、汗をかいておくのと同じです。サンドバックなどを叩きすぎては、フルラウンド前に疲れてしまう。でも、じっとして、いきなりリングに出たら1ラウンドでKOでしょう。

 声も息も体も温め、スタンバイできる態勢をつかまなくてはいけないのです。

 

〇喉の強さ

 

 もう一つ、誤りやすいことを注意しておきます。声や喉も、スポーツと同じく、やや疲れたときの方が、感情が乗りやすく、伝えやすくなります。それは厳しくいうと判断ミスです。一流のオペラ歌手は鋭い感性と経験で、そんなミスはおかしませんが、ポップスでは甘いです。トレーニングをしていく人にはありがちです。そのまま続くと、喉は疲れ、消耗します。

 日本人で、声量のある人の多くは、この限度をあまり気にせず、練習やライブパフォーマンスで全力を費やします。そこで、その後や翌日に、喉の不調を起こします。これは爆弾を抱えているようなものです。しかし、自覚していたら防ぎようもあります(そのために、レッスンが必要と言っています)。ステージはもとより、体調、メンタル面、年齢やキャリアによって大きく変わってきます。

 

 「トレーニングというのは諸刃の剣、必要悪」とまで言ってきた私ですから、そういうことを記録し反省して、改良していくようにアドバイスしています。それは勇気を持って限界にチャレンジして経験を積んでいくことです。そこから得られる大切なものがあるのです。

 トレーナーは、声=喉を守る役割があります。すぐに喉を壊すようなトレーナーは番外です。しかし、全く喉に負担のない声しか使えないトレーナーも困りものです。私の研究所では、声をこわしやすい人、洋画の吹き替えの声優や、子供ミュージカル役者、教師なども訪れますから、務まりません。

 「喉が強い」と伝わってくるような歌手やトレーナーが、日本においては、あまりに少ないのです。ここでいう喉は、生まれつきとか、ムチャをしても、ということではありません。トレーニングで、しっかりと鍛えられ、素人とは違うとわかるレベルです。アナウンサーが、原稿を読み上げるとアナウンサーとわかるように、声優が、セリフを言うと声優とわかるというように、プロとしてはごく当たり前の声ということです。

 

○条件の獲得と質の向上

 

 「強い声」「大きな声」を出すようにというと誤解されて、力ずくの危ない練習を導きかねません。私はレッスンでは「深い声」と言っています。「共鳴する声」―「深い声」―「深い息」―「深い体」、深いというのは、「腹の底からの声」と捉えてください。女性なら「胸の声」あたりです。それをトレーニング、強化しつつ、その結びつきを付けていくのです。

 ヴォイトレで「強化」や「負荷」「抵抗」ということばは、あまり使われません。使ってきたのは私くらいでしょうか。

 素振りをするのは、バットのコントロールとともに、全身の感覚と、体の動き、イメージをきちんと結びつけるためです。同時に体のそれぞれの筋トレにもなっています。

 かつては、「素振りをたくさんしても球は当たらない」、というような批判がありました。それは、すぐに球に当てるのではなく、いつかヒット以上の打球を打つためのトレーニングです。球を当てるなら、腕だけでバットを動かす方が簡単です、素人でもできます。それでは、試合では意味がないから、今、必要でなくても、いつかのためのトレーニングをするのです。

 思えば、昔もそういう理屈っぽい輩に、「ボール球でも、何でもバットに当てるスイングでなく、ど真ん中にきたのを確実にホームランにするためのフォームづくり」というような例えで述べていました。ここでいう球を当てる―飛ばすは、ヴォイトレでは、声の芯を捉える―共鳴する、のような位置づけです。

 目的のとり方が大切なのです。そこからの必要性がトレーニングの質を決めるからです。状態の調整と、条件の獲得が違うことを述べてきました。

 トレーニングという、質を変えるために行うことが、論議も実践もされていないのは残念なことです。育てることについては以前よりも、はるかに浅はかな状況になりつつあります。感覚が鈍ってきたのでしょうか。

 古今東西、世界の一流アーティストを、こんなに手軽に身近に、たくさん聞ける環境があるのにもったいないことです。感覚がなくては、どこに学びに行っても身につきません。

 

○方法の限界[E:#x2606]

 

 どのトレーナーもそれぞれの方法で教えています。新たな方法を知ったからと、習っているトレーナーの方法がよくないとか古いとか、否定してしまうくらいの浅い判断力では、何ともなりません。次のところに行くと、また、その前の方法が否定されるだけです。それが同じ方法だったら、肯定されるのでしょうか。方法自体は、さほど関係ないのです。

 あなたの声は、前と変わっていないのではありませんか。少し器用に響かすことを覚えたくらいというのが、ほとんどの人です。それで過大に評価されている。それでは、本当の自信にも実力にもなりません。トレーナーは、わかっていてそうしているのでしょうか。いえ、けっこうわかっていないことさえあります。

 その状況をきちんと知ることが、声の改革の第一歩なのです。

 ここまでは才能ではありません。事実を事実として素直に受け止めるあなたの力が問われるのです。

 

 なぜ海外にまで行き、あるいは、優れていると言われるトレーナーについたのに、メニュや方法、理論、外国語、発音などいろいろと覚えたのに、声は変わらなかったのか、という根本のことを考えて下さい。

 第一は、時間が短すぎることです。まだトレーニングに至っていません。

 第二に、本質的なことを理解してないことです。

 一流のアーティストの声に含まれていることは、私の研究所のメニュや方法のよし悪しとは関係ないことです。

 第三に、まさにこれが、ほとんど意味のないものにしている理由となる取り組み方です。よい方法やよいメニュ、そのトレーナーの評判やそこで習ったという経験を目的にしているということです。

 私のように本を出しているとよくあることですが、権威づけに1、2回のレッスン体験を欲して来るのです。

 1回のレッスンでもバランス調整くらいならできるので、研究所では、声楽家のトレーナーなどに任せています(レベルⅠ~レベルⅡの問題)。それで充分すぎるくらい満足していただけるのがほとんどです。このパターンは、第一、第二の問題も内包しているのです。

 

○声の習得の自然な流れ

 

 声づくりは、赤ちゃんの頃から声変わりの後あたりまでを前半(10代半ばから20代まで)とします。あとは加齢して変わっていくのを後半とします。声変わりまでのヴォイトレは、無意識に日常の中で、ハードに行われています。そこから意図的にヴォイトレをします。

 効果を出したいのなら、言語学習で臨界期以前に戻るように、声も前半でのプロセスを、再体験していくようにすることです。今度はより深く身につくようにします。

 私はヴォイトレの方法やメニュを、売り出しているのではありません。方法、メニュだけでよいとか悪いとかと言われても困ります。

 現場での声の使われ方は10人10様です。方法、メニュは無限ですが、私は「一つの声で全てを賄っていく」という、シンプルな原理に添っていくだけです。

 一つの声をさまざま使って生きてきたのが現実です。いろいろと用途によって違う声を身に付けようなどというヴォイトレが多いから、ややこしくなるのです。「いくつもの声を習得するのでなく、一つの声を中心にすべてに応用していく」と考えましょう。

 

〇「アー」の一声

 

 歌で音程やリズム、発音がよくなっても、声がよくなるのとは違います。歌唱のレッスンでは、ずっと声そのものは、問題にされないできました。元より声のよい人が選ばれていたのです。

 今のヴォイトレでも似たようなものです。トレーナーに「大きな声で『アー』と叫びたい」と言ってみてください。きっと教えてくれません。「声や喉によくないからやめなさい」とか、「歌うことやセリフを言うのと関係ない」と言われるでしょう。でも海外では「アー」と叫べる人、それだけで日本人と大きな差のつく人が歌っているのです。すでにできていることは彼らのメニュには入っていません。

 それは、「結果的に身につく」というものです。それなら、「そこを同じにできるところから入る」というのが、自然ではないのでしょうか。

 赤ちゃんの泣き声は世界共通で、耳も声も人種、民族での差はありません。日本人の赤ちゃんの泣き声が外国人の赤ちゃんに負けていることはありません。しかし、3歳、5歳、8歳、12歳、15歳と育つにつれ、どんどん声の差は広がっていきます。ヴォイトレというからには、それをなくす、その差を縮めると考えるとわかりやすいでしょう。

 こうした本質を説いていた私の初期の本はよく売れました。しかし、巷には歌い手やトレーナーであっても「アー」と言う声さえ体から出せない人が多くなっていきました。

 

○トレーナーの条件

 

 私はプロ歌手でないトレーナーが、プロ歌手のように歌えなくても、プロの役者でないトレーナーが、彼らのようにせりふを語れなくてもよいと思っています。声のトレーナーなら、プロの声を出せること(出せたこと)が必要なのでしょう。その声一声でわからせることができる、それをもって、プロのトレーナーではないでしょうか。

 

 ルーマニアで、私についたパーソナルトレーナー(フィジカルトレーナー)は男女二人とも、体重100キロ級でしたが、それなりに学べるものがありました。自分の体が管理できていないようにみえました。とはいえ、他人を教えることができるなら、よいとも思えます。となれば、声のないトレーナーも、何か取り柄があればよいと思っています。皆さんも、こうした問題意識を持って、励んでください。

 ここにも、他でトレーナーをやっている人が、学びに来ています。「ヴォイトレのビフォーアフター」で述べましたが、ヴォイトレに資格や定義が決められていないのですから、誰でも、いつからでもトレーナーを名のれます。トレーナーであれば、そのトレーニングで何が得られる、つまり何がどう変わるかを明確にすることです。

 

〇日本人の声の丈

 

 私は声域より声量、声量より音色であると思っています。歌やせりふでなく、声のトレーニングということです。

 歌い手の世界では、声域(高い声)に悩む人が多いので、それが第一目的になっていることがほとんどです。マイクが使えるから問題にならなくなってきましたが、声が届かない、つまり充分な声量がなくては、声は何もなしえないのです。声量が大切です。

 オペラ、ミュージカル合唱、J-POPS、海外の歌手の声域など、他に合わせるからややこしくなるのです。自分の持って生まれたものを最大限、中心に使うことを考えるのが真っ当なことでしょう。一人ひとりのレッスンの目的や手段は、異なって当然なのです(和田アキ子さんが、裏声のレッスンなど、必要としないのと同じです)。

 日本の歌手やトレーナーがあまりに偏りすぎて、独自のまとまりを作っているので(日本の声楽家も似ていますが)あえて、一石を投じておきます。

 私としては1オクターブで日常会話を話す海外の人たちが歌うのには、その自然な感覚を少し強め高めて、その1.5倍、1オクターブ半を中心にしているのなら、3音(3度)くらいの範囲しか会話で使わない私たち日本人は、半オクターブ、しかも彼らは話し出すと1分間まくしたてる。それが1コーラスなら、10秒くらいでバトンタッチしている私たち日本人は、半オクターブで10秒、短歌の幅で歌うのが身の丈ではないかと思うのです。

 しかも集団好きだから、連歌のようなフレーズつなぎがよいと実践したこともありました(詳しくは会報の「合宿特別号」)。日本の歌謡界の流れ、スマップからエグザイル、モー娘からAKB48の流れをみていると、私の読みも外れていないでしょう。

 

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○理論の正当性のなさ

 

 私が初期に直観的に理論立てて表した本には、あまり直すべきところはありません。ただ声のいろんな基本知識について、説明を加えています。他の本から引用したものは、知識や理論が短い間にも変わって、古くなったものもあります。いくつかの本で触れていますが、理論に理論で応じるのは研究家に任せ、現場で必要なことを学びましょう。

 誤解の元になるのは、ことばの意図するものの取違えです。現場のトレーナーのレッスンでは、イメージ言語として使うので、そのことばの正誤を論じても、意味がありません。バスケットボールの「腕でなくて、膝でシュートしろ」みたいなことです。イメージ言語では、トレーナーと相手との間で成立して効果がでていたらよいのです。イメージ言語は、きっかけをひき出すインデックスにすぎません。

 現場を知らない人が、理論から「間違っている」というのは、スタンスがおかしいのです(相手を否定することで自分を肯定し、何かに利用しようというような目的があるのでしょう)。

 このように論のための論が、つまらないことを述べておきます。生理学や声楽の理論も、中途半端に知るのは、害です。トレーナーの指導でしか出てこないことばも、たくさんあります。

 何を本当に問題にするかを学んでください。問題にしなくてもよいことを、問題として振りまわされないでください。そういう人が多いので気をつけるように注意しています。「声や喉がおかしいです」と言って、治療に多くのお金を費やしている人は、よく考えてください。

 

○胸声と頭声とミックスヴォイスについて[E:#x2606]

 

 声を地声、裏声やファルセット、他の声、胸声―頭声、どのように名づけるか、分けるのかの論議に、私は加わりません。男女によって、命名や使い方が違うこともあります。頭声、ファルセットは男性、裏声は女性など。

 声帯振動による生理的なレベルで、地声、裏声に二分するのは確かなことです。二つの声区ですが、それを一声区、三声区と言う人がいてもよいと思います。

 頭声や胸声というのは頭や胸から出たり、頭や胸に響くのではありません。体振からのイメージ言語といえます。二つの発声は、分けることも混同させることもできるので、ややこしくなるのです。

 よく使われる、声区という訳語も困ったものです。使う人によって定義が違っているからです。レジスターと言う人もいます。レジスターは、パイプオルガンの、「登録された音程」を弾くと、音階を作れる一連のパイプが選びだされ、演奏できる、その音階を作れるということです。レジはコンビニのレジと同じ用途です。ですから、どこか1点で「声区のチェンジ」が起きるというのでなく、元々、重なり合うニュアンスが強いのです。

 発声のしかたが違うといっても、うまく混在させて使うことでは、一声区のようにシンプルに捉えるのも、一案です。上の線と下の線の2本で、その範囲内でどう使うか、二者択一でなく、ミックス度合ということでよいと思います。

レーニングには、地声、裏声それぞれのアプローチがあってもよいと思います。これは胸式呼吸と腹式呼吸のようなものです。呼吸からみると一つで、胸式と腹式といっても、切り離せないのです。

 混合、混在させるというミックスよりは、融けて合わせる意味で「ブレンド」ということばを使う人もいます。私もミックスヴォイスよりブレンドヴォイスというニュアンスに近く捉えています。

 私は音色を、大切な判断基準としています。表―裏、開いた―閉じた、前―後(奥)、明―暗など、声のイメージで結びつけています。

 

○「統一音声」と支え[E:#x2606]

 

 頭声と胸声の音色を、どのようにして捉え使っていくかが問題の本質です。私は「統一音声」ということばを使っています。富田浩次郎氏が、俳優訓練の本で使ったことばで、その意図もありました。

 私は、当時の薄っぺらい歌唱、発声へのアンチテーゼとして、胸声でのレッスンを中心にしたのです。ファルセットや頭声からのレッスンでは、最初から調整、コントロールに、絞り込んでしまいます。成果の個人差での、よしあしの差が大きく、うまくいかないことも多いのに、です。

 これは、発声を喉をはずして共鳴レベルで捉えること、つまり異次元の感覚です。話している出やすいのど声が出てしまって、うまくいかないから、声楽家は高い声中心から始めることが多いのです。

 呼吸や共鳴の問題であれば、胸声でも同じです。私はアプローチとして「背中から出た声が、胸の真ん中に集まる」という感覚を、自らの体験から「支え」ということばで示しています。

 

○横隔膜呼吸?[E:#x2606]

 

 誤用されている「横隔膜呼吸」ということばについて、声楽家やトレーナーが、科学的、解剖的、生理学的知識を生じ中途半端に知って協調したせいで、まともに使えていない悪例となっています。これを指摘します。私や邦楽の師匠は「腹から声を出せ」と言います。

 横隔膜の位置を、教えているような人たちの多くが、実際よりも低めに示しています。なぜ、「横隔膜の支え」などという本人が感知していない表現を使うのでしょうか。科学的な本を勉強して受け売りしているのにすぎないからでしょう。

 日本には、師、先生のことばをそのまま、実感もなく使い続ける人が多く、そういう流派も多く、何かとめんどうです。横隔膜の位置は、実感としては、支えとはいえないくらい、胸の高いところにあります。人体図や模型ですぐわかります。

 呼吸の出る背中(腰)の方でなく、声のひびく、胸の真ん中あたりに、横隔膜は達しているのです。

 ですから、このあたりは呼吸保持という問題です。これについては、緩んでいること、柔軟であることをトレーニングの方向として求めています。

 

〇ことばの定義

 

 研究所のQ&Aや会報を見ても、いろんなことばが使われているのは事実です。使うつど、ことばの定義があるべきですが、定義の論争に時間をかけるより(そういうことには時間をかけてくれそうな人は、他にたくさんいるようなので)イメージ言語の精選を目指したいです。

 海外のノウハウを、指導者から、正しく取り入れるような声楽家は、専門言語での原典購読は必要です。しかし、声楽家をトレーナーとして使っていても、オペラ歌手を育成する目的ではない本研究所では、もっと別に優先して改革すべきことがあると考えています。

 

○息と声

 

 呼吸法は、レッスンでも常に問題になっています。私は日常で行っている自然な発声を強化することと思います。

 横隔膜呼吸法とか、腹式呼吸法とか、胸式呼吸法があるわけではないのです。声と呼吸に高い必要性を予見したら、毎日のなかで自然と鍛えられていくのが理想のことと思うのです。

 呼吸法を教わるというより、「今の呼吸では足りない」とわかることです。具体的には、そういう高度のせりふや歌の課題を与え、不足に気づかせるのが、本当のやり方です。

 

 ヴォイトレとなると、姿勢、呼吸、発声と区分けされ、呼吸法が第一にやる基礎のようになってしまいました。私はそういう本の著者ですが、レッスンでの呼吸はウォーミングアップです。身体=声の稼働のためのエンジンをふかすようなイメージです。

 歌を教えるには、ウォーミングアップを発声のスケール、ヴォーカリーズで応用してもよいでしょう。呼吸をトレーニングしなくても発声をゆっくり丁寧に行うと呼吸の足らなさ、コントロールの甘さ、ロングブレスのもたないことなどで、わかります。より実践的です。ていねいに行うようにします。

 私は、ドックスブレスやロングブレスは、呼吸筋などの鍛錬を通した体作り、声を出せる体づくりとして、有効だと思います。

 

〇大きな呼吸

 

 日本人は、日常であまりにも浅く短い呼吸しかしていません、何よりも言語活動、おしゃべりの中で、大声で(強く)長く、話さないからです。何もしなくては器は大きくなりません。

 プロでも、しばらくみていないと、呼吸が小さくなって、歌の迫力やスケールも落ちる人ばかりです。そのときは、呼吸が浅くなった、息がもっていないのです。そうみるのは、私だけではないでしょう。

 せりふを言ったり、歌いこなすことはできても、身体から、自由に余裕を持って声でメリハリをつけられないのです。高いレベルで判断する人が少ないのは残念なことです。

 

 知識というのは、その人の発声のレベルに応じて、理論となっていくことですから、少なめに少しずつ与えることです。へたに与えすぎると、感じるプロセスを妨げかねないからです。

 

1.吐いた分、入るようにする。

2.単調なくり返しをしつつ、感覚を磨き鈍くなるのを避ける。

3.器づくりでは、器官は強化するが、その強さを頼ってはいけない。

「理想の一声」

○理想の一声[E:#x2606]

 

 最近、ある役者さんと邦楽家の席に招かれ、お話したことを取り上げてみます。私のヴォイトレにおける立場や考えに通じることです。

 「ヴォイトレは、声楽とどう違うのか」ということから、始まったのですが、声楽の定義は、これも人それぞれですから、ここでは触れません。音楽之友社の、「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」)に詳しく述べてあります。

 ヴォイストレーニングという定義についても同じです。私がヴォイストレーニングで示そうとしたものは、声の発された一瞬を、理想として通用するレベルに高めようというものでした。一言で言うと、まさに「一声」、これだけで声の真価を示そうということです。

 そんなことができるのかという人は、そういう声を聞いたことがないか考えてみてください。ことばとして意味をもつ以前の声の力です。声=ひびき=歌ともいえますが、歌のような形式が定まっていないものを考えているのです。

 一瞬にできないもの、示せない声は、歌にも使えないというのが、当初の私の見解でした。

実際には、一声、一フレーズも、一瞬も、もたなくても、セリフや歌はもちます。プロはそこだけで見せているのではないからです。

 その「一声」といっても個人差があります。私は誰にも共通の一声(見本として、特定のプロや、あるいは私自身の声を元にする)を目標にさせるつもりはありません。そのために、理想の発声原理として「体―息―声の結びつき」と、「声そのもの」を見ていました。その人にはその人なりの発声があり、バランスがあるということです。

 そこにトレーニングということが入ると、このバランスと部分強化ということでの優先順位や価値観が生じ、いろいろと複雑になるのです。さしあたって考えるべきことは、次のようなことです。

1.その人にとっての「理想の声」というのはどういうものか、それは一般的な「理想の声」とどう異なるのか

2.それは、どういう状態や条件に支えられているのか

3.条件に対して、補ったり、強化したり、新たに獲得する必要範囲とは何か

4.表現における必要性からみた状態と条件について、どう考えるか

 

 この前提として、声を鍛える、磨く、それは声を変えることの可能性や限界への追究です。声の音色そのものの変化と言えましょう。それについては、ほとんど何も明かされてきていないのです。

 

○レベルⅠのヴォイトレ

 

 一般的なヴォイトレは、声の使い方を変えて、声域、声量(共鳴)、ロングトーンやレガートなどに対応しやすくすることを目指します。調整して、整えていく方向で行います。そのために表現や発声機能を変え、効果的に声が響くようにすることが多いです。便宜上、これをレベルⅠとします。

そのために、生声である発声に対しては、喉を外して、いかにカバーするか、というアプローチがなされます。ポップスのヴォイトレ、プロデューサー、演出家、作曲家、プレイヤー(特にピアニスト、ストリングス)、カラオケの先生のレッスンは、これにあたります。

 そこは、経験がある人、勘のよい人や、条件がそれなりに整っている人なら、レッスンを受けなくても結構できてしまいます。お笑い芸人の物まねでも、私が感心するほどに声を使える人もいます。

 日本でのコーラス、ハモネプ、合唱団、J-POPS、オールデイズ、ジャズ、シャンソン、民謡歌唱あたりの歌手を思い浮かべてください。声は軽く、浅く、頭声共鳴がよく、高い声が出しやすいタイプです。それはこういう人などをもっぱら教えているトレーナーにもあてはまります。

 これが主流なのは、初回のレッスンからすぐに効果が出てわかりやすいからです。短期において、わかりやすく、ローリスクなトレーニングともいえます。リップロール、ハミングなどは、このメニュの定番です。

 わかりやすい声域、高音域に焦点をあてていますが、音色などの基本条件は大して変わりません。声量はつきませんが共鳴がよくなるでしょう。トランペットでいうと、ラッパの先を広げてみるようなトレーニングといえるでしょう。日本のポップス、アナウンサー、声優あたりでも行われています。

 呼吸や姿勢も扱いますが、実のところ、表面的な形で、ウォーミングアップ程度に行われているだけです。そのため、本格的な習得にはなかなか至りません。その差は日本人と外国人の音色やパワー、特に、高音の違いに顕著に表れています。

 そのトレーニングの結果は、別のトレーナーのもとに行くと、「基本ができてない」という(言わなくても思われる)くらいです。

 このレベルではレッスンしたという判断が、端からつかないことも少なくありません。困ったことにこのレベルが日本では多くのトレーナーの指導目標になっています。こういうトレーニングがヴォイトレで一般的なのです。

 バランスを整えるということでは、海外のトレーナーも同じようなメニュを導入や仕上げ段階として使います。それは日常の声の基礎レベルの高い欧米人のシンガーには合っています。しかし、そこでのギャップは、Ⅱのレベルで補う必要があります。

 

○レベルⅡのヴォイトレ

 

 レベルⅡは、日本人の日常や、平均的な器からはみ出したトレーニングといえます。日本では声楽か俳優の、ややハードなトレーニングにあたります。

  1. 喉そのものを変える

2.表現、強いインパクトを目指す

3.体、呼吸、共鳴、その結びつきを変える。

 やり方、メニュや優先順位は違っていても、結果的にこの3つのことを相乗効果として、求めます。これは、日本では、ヴォイトレよりも長年の舞台経験や日常のトレーニングの成果として現れているほうが多いようです。

 役者は1、2から、声楽家は3からアプローチして、トータルとして1~3が変わっていきます。レベルⅠよりも全身での発声感覚が強いのと音色が深まる(芯のある声)となるのが特色です。

 最近は、科学的(生理的)な知識をもって、筋肉レベルでアプローチするトレーナーもいます。それは、レベルⅠでの、喉の状態をよくすることという、かなり限定されたなかでの効果しかでていないと思います。

 根本的には、喉の脱力で解決します。トレーニングとみるよりは、フォローとみるべきでしょう。

私は、ポリープや結節などの医者の手術でさえ五分五分、何でもすぐに処方すればよいとは思っていません。発声はもちろんのこと、体や心、日常生活そのもの、あなた自身の環境や習慣を変えていくことが、大きな課題と思っています。

 しかし、メインの処方ですぐに直して使いたい人が多いのが事実です。そういう人は、それでもよいと思います。大した変化は起きないでしょう。ハードに使えば同じ障害が起きるとわかると、少しずつ使わないようになってきて、表現の可能性も失っていきます。部分だけで処方してもよくなりません。多くの人は喉が原点だと思って、そこの問題だと考えるのです。

最近は、喉が弱い人が多いので、そういう傾向が顕著です。しかし、喉が弱いなら、鍛えなくてはいけないのです。それをどうこういじったところで、少しよくなったり、また少ししたら悪くなりで一喜一憂しても仕方ないです。その上、くせで固めて、声量を犠牲に安定させてしまいます。それを発声法だと信じてしまうのです(これは私でなく医者の大先生お二人からの意見です)。それでは1日1回の舞台で、2、3ケ月毎日の舞台に耐えられる日はこないでしょう。

 このレベルⅡで全体的に調整しつつも、結果として日常の枠を破りましょう。それが私にとっては最低限、トレーニングというのに値します。これまでのあなたの日常での限界、日本人の限界を、知らず知らずに、外しましょうということです。ここでは声についてのことです。

 

○レベルⅢの声

 

 レベルⅢでは、世界レベルで、人間としての共通のベースです。そこで声を掘り下げ、深めていくのです。結果としてみるだけでなく、最初からプロセスを、意図的にトレーニングするということです。これが私のブレスヴォイストレーニングの主旨です。

 素質に恵まれた人はⅡでも充分かもしれません。それを超えたければやりましょう。もっと恵まれた人はレベルⅠで楽しくやるのでもかまいません。目標レベルを最高にあげてやるためのニーズにⅢは応えます。起死回生でここからやるという人にはよいでしょう。

 一流なら、表現も時代、国を越え、普遍的に通じていくものになります。基礎というのも人間の体を掘り下げたら、時代、国(人種)を越え、共通になります。上を表現、下を基本として、その枠をⅠは上下にレベル1メートル、レベルⅡは10メートル、レベルⅢは100メートルにとっているようなものです。

 ブレスヴォイストレーニングが独創的で、すごいといっているわけではないのです。リズムでいうと、Ⅰは楽譜で学び、Ⅱはフィーリングで踊りながら振付の中で学び、レベルⅢはアフリカやラテンの国で生まれて育ったら身についた―ということに掘り下げるようなものです。つまり「日常性の最大化」ということです。方法やメニュで問うているのではないのです。

 スポーツで例えると、バッターなら、

レベルⅠは、ワンポイントアドバイス、すぐにできるくらいのフォーム修正。

レベルⅡは、バッティングマシーンでのジャストミートでのトレーニング。

レベルⅢは、重いバットを振るとかランニングや筋トレから行うことにあたるでしょうか。

 これは、ステージ、舞台での、非日常を日常にすることです。その人にとって、注意としてのレッスンか、トレーニングをチェックするレッスンか、日常をトレーニングに取り込むかの違いです。

 

○声の表現力

 

 先日、ある合唱団の先生が、「リズムは体でとると遅れるからイメージ(頭)でとれ」と教えていました。こういうのは、体感、イメージ力で、頭ではないのです。現にその先生自身は、体でリズムをとっていました。そこまでには何年もかかるから演奏会に間に合いません。普通の子の体や感覚はまだまだは鈍いですから、こういう指導がマニュアルとしてはよいともいえるのです。でも、こうした期間限定ばかりで仕上げようとしているのが、今の日本の大人です。中高校の合唱団は期間限定ですから、これはこれでよいとなるのです。

 今の日本のプロレベルのオーディション対応の歌唱やセリフまでは、レベルⅡで充分と思っています。しかし、その型を破り、個性にして、オリジナルのフレーズで勝負するならば、Ⅲレベルに達することが必要だと思っています。「歌手なら、しゃべるように歌い、役者なら歌うようにしゃべれる」ということです。

 レベルⅠ、Ⅱ、Ⅲというのは、レベルが上がっていくのはなく、必要性が上がっていくのです。Ⅲがハイレベルというのではなく、最も基礎の基礎となるのです。

 多くのヴォイストレーニングの受講者が、「歌うようにして歌おう」となるのは残念です。日本のミュージカルの歌が、その典型ですが、どうしようもなく違和感を感じるのです。その世界に入ったとたんに、置き換わった目標がミスリードしているのです。

 私は、演出家の作品としてのよし悪しとは別に、個としてのアーティストの表現しているものを見ています。表現としての声、ことば、歌をみています。声の問題が半分、あとは独創性、つまりは思う、感じる、考えることの集大成です。

 私のレッスンでは、一フレーズでも、どう思ったのかを確認します。一人で判断できる力をつけるためにです。その実習を通じて、主体的に考えられるようにします。本人の意見も参考にしつつですが。

 ことばに頼らないで深く感じることですが、ことばにしないと、積み重なっていくことの把握が難しいからです。研究所ではトレーナーにも、ことばで具体的に示す能力を求めています。

 

〇芯のある声

 

 一流の歌手は、声に表現力をもっています。それには表現、イメージのレベルを上げなくてはなりません。これは声の力とともに上がってくるのが望ましいのですが、クラシックならともかく、今のポップス歌手はそれを待てずに先に先にといってしまうのです。

 鍛えて磨いた声、その共鳴、輝きを作品に、全身(全霊)でそのまま使おうとするのは、オペラ歌手です。ポップス歌手や俳優は何でもありです。しかし、声として共通する、表現の核、中心をつかんでいくのが、本当のヴォイストレーニングと考えています。そういう核となる声、中心の声を、「芯のある声」ということばで表しました。これはジャンルを選ばず、全身全霊で表現し切れる声です。

 今の私の個人レッスンで発声の判断は、どこのトレーナーよりも厳しいです。昔は、本人がわかるまで待つレッスンが一般的でした。そういうアンテナの感度を高めて保つのが難しくなりました。

 私のレッスンは、5分間もあれば示せます。その5分間のうち、たった5秒のことが、5年、10年の課題です。呼吸も、体も、筋肉も、全身のバランスやセンサーも、共鳴もそれぞれに整わなくては実現しません。何かが、すぐにそこで実現できてしまうくらいの基準では、レッスンにならないではありませんか。

 

○基礎の基礎

 

 理論や理屈は、中途半端に持つと、却って害になります。アーティストやトレーナーのつくった教則本はありますが、私のように、あらゆるケースを想定、反証、チェック、フィードバックして、直し続けている人はいないでしょう。全ては仮説、試行錯誤で、私としても、完成はないと思っています。きちんとやらないで成果を云々したがる風潮は困ったものです。

 「これが正解」と示されても、それはその人のトレーニングや自分の周りで適用したサンプルにすぎません。

 一流の声楽家は、生涯にわたり、自分を研究し、発声も練習方法も変化させつづけているのです。スポーツ選手でさえ、たびたびフォームを変えるのです。

 私の考え方や理論も、変わっていくと思います。でも感性や本質をみるところではあまり変わらないでしょう。そういうものは、その人が20年、30年とやり続けて何を残していくかです。長くみていくしかありません。

 研究所は、今の時点でこれまでの研究所史上、トレーニングもトレーナーも一番充実しています。いらっしゃるアーティストもいろいろです。紹介をはじめ、異分野の人がたくさんいらっしゃっています。対象の広がりに追いつきません。だからこそ、研究所です。いつも大切となるのは、応用で問われる基礎の力なのです。

 

○感覚と感性と自立

 

 若い人に全力で全身から声を出す経験を与えないことが、日本の声力の低下をもたらしています。歌唱やセリフ、いや、発声の前に、声というものの、もっともベーシックなところでの、トレーニングを行う必要を、私は提示しています。それが必要な理由は、オリジナルなフレーズとして使うためです。それは自由な声の条件として必要です。そこで、外国人ヴォーカルのフレーズ処理からメニュの材料をストレートに与えてきたのです。イメージでは慣れてきます。声がイメージに伴わないところでねばるのです。

 

 声の器づくりとして、強い息や大きな声、深い声などを模倣して、急にたくさんやったり、休みを入れずにやったりすると、声が潰れるリスクが高まります。これは、トレーニングとか、メニュとか方法以前に、当たり前のことです。発声の原理にあまりに反することをはやめましょう。

 感覚的に心身をトレーニングするには、今の自分の発声の限度の把握が欠かせません。いわゆる常識的な判断のことです。こんなことまで言わなくてはいけないことが、今の日本での、声のレベルの低下を示しています。

 かつては、無謀と思われる悪環境での大声トレーニングでさえ、トレーナーや受講生は鋭い感性で、喉を守っていたと思われます。なかには無神経なまま、痛めた人もいるでしょうが、タフな人も多かったのです。そうして覚えていったのです。

感覚、感性は鋭くあるべきです。ハードな条件を課して、得ていくことです。

 

〇形はない、自立心

 

 私のレッスンやブレスヴォイストレーニングの方法、メニュというのは、他のトレーナーのように、特別に決まった形で存在するようなものではありません。相手に応じて変化します。材料は何でもかまいません。どの母音、子音でも、どのスケールでもかまいません。あなたの歌の一フレーズ、セリフの一言、何でもいいのです。それだけで5年、10年と育成し保つ基準があります。

 できないときには、アプローチの技術として考え、実のところ、すぐれた一流のアーティストの声を後追いしていくのです。そういう感覚や心身をめざし、発声の原理の獲得を目的にするのです。

アーティストの日常を、まだ非日常にしている私たちが拡大して取り込み、日常化していくということです。その考え方が、ブレスヴォイストレーニングであり、私のレッスンです。

 

レベルⅠ 基礎

レベルⅡ 結びつき

レベルⅢ 表現

 

 一つのやり方、方法、メニュ、プロセスでなく、多様な方法、メニュ、プロセスがあるのが、豊かな世界だと、私は考えます。問題がどんどんでてくるからこそ、克服する力がつくのです。

 その前に、どのやり方が正しいとか、自分に合う方法や合うトレーナーは誰かと、すぐに決めたがります。それ以外にも何か問題があると、すぐに解決しようとします。そのために少々うまくなるだけで、育たないのだと思います。問題は成長する限り続いていくのです。

 本人もトレーナーも、早くうまくなるのを目指しているとそうなるのは当たり前です。もっと根本的、本質的、その人の生活や生き方から、出てくるものをみるのです。凝視することです。

 私には、日本の音楽や歌が、戦後アメリカに守られて、自立も覚悟もない、自分の意見もつくれない、言えない、出せない、リスクを引き受けられない、今の日本人のありようとダブって見えるのです。

 「自分の歌を歌おう」これは私の出した本のタイトルです。未だ何も変わっていないように思います。

 

○ブレスヴォイストレーニングのメリットとデメリット

 

 レベルⅠ~Ⅲを捉えてこそ、ブレスヴォイストレーニングが、世界の対応のトレーニングといえるでしょう。世界に通用するようになりたいという人がきます。それでまた、いろんな面で、ブレスヴォイストレーニングの可能性と限界を見ることになります。本人や私の条件をも省みることになるからです。

 「トレーナーの選び方」で述べた、他のトレーニングやトレーナーのことを、私自身にも当てはめて、そのよし悪しを考えるのです。

トレーナーの条件やトレーニングの基本については、「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」(音楽之友社)を参考にしてください。私自身のことはあまり述べていませんが、この本の至るところに、私の声の背景があります。

 

 手本かサンプルかわかりませんが、一声でみせる見本、鍛えられた声の一つの叩き台としての、私のやサンプルの声を使います。30年にわたるトレーニングで、これに並ぶ、優れた人の声も、同じレベルの声として出します。

 声としては異なっても、音楽を司る表現力やコントロール力のある声を、歌唱、声として加えます。

 私が歌手の声として参考にしただけでなく、プロ歌手のプロの声として「レッスン曲史」などで紹介している声色、役者声は共通している何かがあります。トレーナーや声楽家にももっている人がいます。

 何をもってプロの声とするかの議論は不毛です。それぞれの分野で活躍した、プロの人の持つ声です。

 いつも私はこれからトレーニングをしていく人に、トレーナーとしてのスタンスでいいます。それぞれに違う声がありますから、与えられた声を、どう目一杯使うかに技術もあるのです。私や私の示すアーティストたちに、あなたの声が似ているのかどうかは考えなくてもよいのです。

 

○声を決める要因とまね

 

 声を決める要因があります。ここでは、声を出す体は楽器であるとして、体を中心にみていきます。それぞれに組み合わさっているので、声を決める要因、これで全て決まるわけではありません。

  1. 身長、体重、胸郭、頭部―頭蓋骨、

  首の長さ、太さ―喉頭の大きさ、声帯(筋)、

  輸状甲状筋、輸状被裂筋

  1. 表情筋、呼吸に関する筋肉

3.それらの使い方

 

 以前から、身長の高い人、首回りの太い人は低い声、という説がありました。男女の喉頭(のど仏)の違いで、声帯の長さの差が出て、ほぼ1オクターブの差となります。体格による声の違いも無視できません。大男でハイトーンの名人もいれば、小さい女性でヘヴィな声を出す人もいるので、断定することはできません。

 育ちでの発達の違いや、言語や文化圏の違いもあります。発声には本人の性格や、気質、心情、感情、表現の方向性まで、複雑にからみあっています。

 他人の持つものに憧れても、自分の持つものを伸ばしなさい。そのために他人を知る、他人に学ぶことです。しかし他人のまねが目的になると違ってきます。相手が優れているほどに、早く自分の限界が来るのです。あなたの見本、憧れる声がトレーナーの声と似ている場合のメリット、デメリットは省きます。

 一流のアーティストでも、あまりまねない方がよいタイプもいます。人間離れした喉を持つ人も多いだけに、そこは、よく考えないとなりません。サッチモルイ・アームストロング)など、白人がまねをしても壊したアーティストは、日本人に勧めるわけにはいきません。この研究所へもヘヴィな声やハスキーな声、たとえば、ロック以外にフラメンコなどを求めにくる人もいますが、まねから入るのは禁物です。

 

○私の声の歴史

 

 私が今の声をメインにしたのは20代後半くらいからです。自分でも歌の声から日常の声に切り替わったと感じました。主に仕事上の理由で、体からの声を使わざるをえなくなったのです。1日8時間近く、ぶっつづけで声を出す毎日が、私の声を変えたというよりも、その声を選んだのです。喉をつぶしたくなければ、体で支えないと、日夜連続した発声の必要性に耐えられないからです。

 こうして選ばれる声は、もっともよい声とは限りません。もっとも強い声、いえ、耐久性のある声です。非日常が日常化したため、高度の使用上の必然性から声が変わっていくのです。それまでトレーニングで体全体でなんとかコントロールしていた声が、いつも話す声にシフトしたのです。

 喉は全く疲れないが、体が疲れる。しかし、体が疲れても、喉に負担がこないで、その分、支えが強くなるという、よい意味で身につくローテーションに入ったのです。

 これを一歩間違うと、こわしては休めて直すという負の循環になります。それは、大声トレーニングやハードなトレーニングで声を手に入れていた昔の歌手や役者と、かなり似たプロセスだと思います。

 

○喉の弱さとメンタリティの問題

 

 研究所での当初のトレーニングは、プロに対しては調整や共鳴、アマチュアに対しては作品のフレーズコピーから行いました。後者は、本人の資質と勘の鋭さが成否を分けます。マニュアル漬けのレッスンやトレーニングとは大違いです。

 武術が武道となり、健康法となるのはよいことです。その健康法で実戦を戦えると思っているようなのが、今の声のレッスン市場のように思われてなりません。ピアノの演奏中、ピアノのタッチにばかり気がいっていたり、指と鍵盤との角度ばかりを気にしたりしているようなものでしょう。

 私の研究所は、声の病気のリハビリの人も受け入れています。声の仕組みを知り、自分の喉の状態を気にするようにアドバイスします。しかし、それはトレーニングのためで、頭の中ばかりが拡大していくのはよくありません。ヴォイトレに関わることで、メリット以上にデメリットをもたらしていることはないでしょうか。

 私やここのトレーナーの喉は鍛えられた喉です。形成のプロセスや自覚はそれぞれに違いますが、普通の人の何倍もの声を集中して使ってきたのです。

 それを、すぐにそうならないからと、医者やトレーナーを巡っているような人が増えました。そのメンタリティの問題を、医者はともかく、助長しているトレーナーが多くなったようで気になります。

 

〇理論は理論

 

 パワフルな声になりたいのとハードにやるのは別です。目的を高くポジティブにとる方が、効果が上がります。

 そこは眺めがいいのです。世界を目指せば日本では通用します。結果がでればいいのです。

 理論派のトレーナーは、皆さんの弱点が喉であり、そこを克服しなくてはならないようなことを言います。そういうことを言われても忘れたらよいのですが、そういうところに行く人ほど、そういうことを気にするメンタリティを持っているのでまずいのです。

 ヴォーカリストになるために、まず医者に行くのは、天才か、的外れの人です。いろんなチャレンジをするなかで喉の健康診断のために医者に行くのは賛成しますが、少しトレーニングしても喉がよくないとすぐに医者やトレーナーに依存してしまうのは感心しません。「自分の喉は、人と違って弱い、よくない、変わっている、だから直さなくてはいけない」などと思いつめないようにしましょう。

 

○頭より体~階段で足が痛む?

 

 整体などで日頃のストレスをとっている人はそれでいいと思います。プロのスポーツ選手やアスリートなら、専門のフィジカルトレーナーをつけていますね。声はメンタルとフィジカルがとても関係するものです。そこで取り組む姿勢はよいのです。しかし、常に見直すことです。

 ヴォイトレよりも体づくりや柔軟で解決する問題は少なくありません。ジョギングや柔軟、ヘッドスパやマッサージだけでも声がよくなる人がたくさんいます。そこをヴォイストレーナーがメインにするようになったのが、今のヴォイトレ市場と私はみています。

 理論、理屈で喉にせまるとよくない結果となります。「喉で声を出すな」という反理論が、広く使われていることからも明らかです。知るととらわれてしまうのが人間です。なかでも、そういうメンタリティを持つ人です。

 本の読者が来ますが、

「レッスンでは本のことは忘れてください」

「頭をからっぽにしてください」

「年に何回か、頭をまとめたければ、そのときに読み返してください」

 というようにアドバイスします。

 いつも自問してみてください。毎日10分も歩いていないのに、階段を上がって足が痛かったから骨や筋肉がおかしいとか、歩き方が変だとか考えないでしょう。マッサージしようとか、医者や整体に行こうというまえに、少しずつ無理なく量を増やしていくことです。毎日、しっかりと自分の足で歩くことです。

 

○タフでない日本人の声

 

 日本人の喉と声の可能性を、私は、英語の発音の専門家と本を書くほど比較して考えてきました。日本人の背の低さやモンゴロイド系の平坦な顔が、欧米人に引けをとって同じようにできないと言う人もいました。体格に差がありますが、国際的に活躍している欧米以外の多くの人をみると、これらはもう条件とはならないと思います。

 むしろ、近頃の日本人のダイエット好き、小顔で、首もひょろりとして、体力、精神力(ハングリー精神)も衰えていっている方が気になります。声は心身のタフさが支えるものだからです。

心身の問題は、大きくなった日本人に、大きな弱点として突き付けられているように思うのです。表現からの必要性も、声そのものとして向かなくなっているようです。プロとお客、アーティストと一般と、両面とも必要を感じなくなっているということです。その2つは声が弱化する大きな要因なりつつあります。

 

〇日本と時代の流れ

 

・日本人の作家、詩人は、大衆の前で朗読しない。

・ホテル、レストランのロビーやラウンジに歌い手がいない。

・全世代に共通する歌がなくなった。ラジオ、テレビからネットへ移った。

昭和の頃はクラブ歌手、流しの歌手もいました。

 

 

 歌の地位の凋落は、世界的な傾向ですが、日本では、光GENJIレコード大賞をとったあたりがターニングポイントとみています。世界でも、マドンナ、マイケル・ジャクソンの頃を思えば、現在の歌手の社会的な影響力は、限定的です。とはいえ、世界各国とも、アーティストの歌唱や表現レベル、声の力は、それほど、落ちていません。その中で日本だけは、フルダウンです。ヴォーカロイドに将来を委ねるのでしょうか。

 私が少年の頃は、今ほど手軽に、面白く遊べるものがなかったから、スポーツや歌を楽しんだのかもしれません。野球や相撲やプロレスも昭和のものだったのかもしれません。演劇も、不条理劇やアングラなど難しいもの、向こうから説いてきたり、問いかけてくるものは姿を消しました。誰でも楽しめるミュージカルなど、エンターテイメントに主流が移りました。日本では、ミュージカルでさえ視覚効果が第一で、音や歌の扱いがぞんざいです。

 誰もが背伸びすることに憧れももたなくなり、等身大のコミュニケーションに満足しているようです。宝塚から劇団四季AKB48という流れが、私には、虚ろに見えます。

 

〇失われた大人の声

 

 大正から昭和にかけ、日本には大人の文化があり、大人っぽく、わからないものに憧れました。そういうものが挫折しました。“かわいい”でくくられるロリータ文化は、アニメ、漫画、ゲームと、世界に発信できるクールジャパン、日本文化となりました。私たちは、日本人は大人になりきれず、ピーターパンの理想国家を築いたのかもしれません。世界の動乱の中で、日本は安穏として、ガラパゴスムーミン谷だったのでしょうか。

 

a.本人の声―体、日本人

b.表現の声―時代、日本

この2つについては、私の根本にある問題意識です。これからも至るところに出てくると思います。

 

○胸のハミング

 

 私は、日常の声、胸中の共振感覚をもとにした発声、声の芯、声のポジションなどについては、高い声が楽に出せてしまうタイプの人は、こだわらなくてよいし、メニュから、飛ばしてもよいとしました。

 これは日本の歌手やトレーナーに、特にそのタイプが多いからです。高校生くらいから、高いところがうまく出て(そのままで身にはつかなかったので)、歌手にならずにトレーナーやカラオケの先生になってしまった、というタイプです。これは、喉、声帯、呼吸が高声に、うまく対応してしまいすぎたのです。

 

 落語家や俳優にも、このタイプはいます。見かけよりもずっと高い声を使う人です。おネエ系の人の中にもいます。声が不自然なのでわかります。持っている資質もありますが、育った環境や性格で、声を高めに使っていた人に多いです。こういうタイプは、太い声、低い声に弱いです。

 

〇高い声と低い声

 

 男性は女性域でも弱く歌えるけれど、その逆に女性が男性の低音域は無理です。バス、バリトンが、音色ということを問わなければ、テノール域まで声が出せないことはありませんが、テノールにバスの声域は無理です。バイオリンとビオラを考えてもわかります。高い声を低くするほどには、低い声を高くするのは難しくありません。声帯の発声原理からも明らかです。

 高い声は技術しだいで出せるが、低い声は身長の高い人しか出せない、というように言われていたこともあります。これは、身長の高い人というのでなく、低い声の出せる条件のある人というべきです。つまり、高音は工夫しだいで、出せる可能性が大きいので、ヴォイトレの目的になりやすいのです。

 低い声は、発声の原理で限界があるので、あまり広がりません。もとより、歌は高めにシフトしていくものですから工夫もされません。

 カラオケの市場の発達とJ-POPSの高音化が、この傾向に拍車をかけました。そこに中途半端な理論も出てきました。

 私も、半ば現実と妥協、日本の業界に個人の持つ資質を合わせて中心を移しました。それによってここが悪影響を受けることは、それほどありませんでした。ここの声楽家のヴォイストレーナーは、ポップスやジャズ、役者や声優に対処するにあたって、自然とこの考えを取り入れていたのです。

 

○バランスと支え

 

 バランスは状態であり、支えは条件です。

 低いドから高いドまでの1オクターブ、その下にソ、その上にソとして、歌唱の2オクターブ(男性)を考えます。その上のドがハイCです。女性は、それを3度下げて、ミ(低)ーミ(中)ーミ(高)の域にとるとよいでしょう。

男性(低) ソードーソードーソ(高)

女性(低) ミーラーミーラーミ(高)

これを高低(上下)で便宜上2分してみます。真ん中のソ(ミ)で分けます。それぞれに、高い線と低い線を、並行して引いてみると、高い線(上線)は細く、低い線(下線)は、太い音色です。その上下の間で、いろんな音色がとれるということです。

a.頭声―頭声共鳴(共振)―細

b.胸声―胸声共鳴(共振)―太

と、これを2つに分けるのでなく、a-bを両極として、この間に、いろんな声のとり方があると考えるのです。

 

〇胸声の必要性

 

 私の読者には、私が胸声だけを勧めていると、誤解している人が少なくありません。それにお答えしておきます。

 当時も今も、歌は高い方へ音域をとるので、カラオケであれ、何であれ、自然と高く響かせ届かせようとします。それがうまくいかないから、そのコツを教えるのが発声、今はヴォイトレのように思われています。

 それに輪をかけて、声楽家も、ソプラノやテノールの先生ばかりの日本ですから、頭声の指導ばかりです。

海外の人や、歌手としての才能があって歌う人には、胸声の条件が、ある程度、備わっていたから、そこはスルーされました。備わっているものには、気づかないものです。似たタイプはうまくなり、そうでないタイプには、うまくいきません。頭声ばかりに偏る日本の問題は、一部の声楽家によって反駁されています。

 私は、誰もが高音から入ることに反対しません。そかし、行き詰ったなら、できているつもりの胸声を掘り下げる必要があると指摘しています(胸声という発声や胸声共鳴という共鳴があるのではないので、念のため)。

 

○声域と音色

 

 この頃は、多くの人が声域を優先します。私は、音色を優先しますから大きく異なります。以前は、声量と共鳴の延長上に音色をおいていました。どちらがよいとか、正しい間違いの問題ではないのです。いろんな考えがあってよいのですが、声の質感こそ、忘れてはいけないことです。

 

 役者や外国人の日常の声のレベルに接して、その差をふまえた上でギャップを克服し、歌唱へ入るのがブレスヴォイストレーニングのプロセスです。

 日常の声のレベル、たとえば、思いっきり「アー」と出した声ですでに生じるギャップを埋めていくことを中心にします。だからこそ、役者も、他の分野の人も、早くからいらしたのです。

 

 伝えることの限界として、高い声は応用ですから、相手をよくみなくては、かなりリスクの高いトレーニングとなります。これは現場のトレーニングで対応することです。

 

〇ヴォイトレのリスク

 

 もし私の本を読んで、声を出して壊したり、つぶしたりしたり、前より悪くなったという人がいるのなら、次のことが考えられます。

  1. 無理に大きな声を出す。
  2. 無理に高い声(で、大きな声)を出す(私のメニュにはありません)。

3.ほとんど休みを入れずに続けてやる。

  1. 声を喉で出している

私の本やレッスンの主旨とは違うことです。

 喉さえ壊さないのであれば、体や息、喉頭や呼吸に関わる筋肉のために、一時、若干、ハードに使うことは悪いことではありません。

 ヴォイトレがあろうとなかろうと、役者なら、舞台で大きな声を出すのです。雑に急すぎるからよくないのです。トレーニングも同じです。感性が鈍くならないことです。

レーニングの目的と、メニュでやっていることとの位置づけを、しっかりとふまえて行うことが前提です。

 こういう注意は、マラソンのためのランニングをする人に、「時間をチェックして」「信号や車に気を付けて」と言うことに近いでしょう。

 声を出すことは、新しいことでも、危険なことでもありません。声をうまく出す、つくらないで自然に出す、よくするためにすることです。それを歪ませたり、潰したりする方向へ近づけていくのは変でしょう。

 素人や初心者だからわからない、という高いレベルの方法やメニュではないのです。

 もしそうなら、ハイトーンで、複雑なメニュをやることの方が、ずっとリスクは高いでしょう(私の基本メニュには入っていません)。

 そういうメニュを使うと、メロディやリズムを正しくとることで目一杯で、声をしっかり出そうとできないのです。その結果、喉を疲れさせてしまうのでしょう。

 

〇目的のためのプロセス

 

 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲのレベルでの、それぞれの目的とプロセスを、よく考えてください。Ⅱ、Ⅲが、Ⅰの下積みになっているのです。

 Ⅰのトレーナーが、成果をすぐに上げられるように思うのは、誤解です。そこで上がったくらいの効果では、どこにも通用しないです。5年もみたら、わかります。一からやり直しするために、こういうところにいらっしゃるからです。

 

 日常性のところで通用しなかったのに、やり方を少し変えてみてよくなったと思う、そう思わせるトレーナーや整体のようなことに依存してしまう。となると、声の調子は、よくても本番の舞台には通用しないでしょう。それを自分の素質とか才能のせいにしてあきらめてしまうことになるのです。

 それをメニュや方法のせいにしないようにしてください。メニュや方法が悪いのでなく、おおよそは、あなたのスタンスの問題なのです。日常のベターを取り出すこと、使い方のよさでバランスを取ることが最終目的では、そこで上達が止まって当たり前なのです。

 

 私がⅢのレベルで課しているのは最悪のコンデションでもプロを凌ぐレベルです。こうなると、一声で違うのです。

 ですから、私は、最初から、あなたのめざすレベルの声、ヴォイトレやトレーナーが引き出すことができ、目的とした声が出たところで、どの程度、通用するかを考えることから、始めるように言っています。声域が曲をカバーできても、どうしようもないでしょう。

 

○現実対応のトレーニン

 

 自分のヴォイトレの声を聞いてください。いや自分の声だからわからないなら、一流のプロの歌でなく、声を聞いてみてください。「ここがポイント、ヴォイストレーニング」にも述べました。

 そういうことを目指している人にも、否定する人がいます。しかし、よほど勘の鈍い人以外は、喉を壊していないはずです。合わなければやめればいいというのは、責任逃れなので言いません。研究所はⅠとⅢの間にⅡをおいています。

つまり、他のヴォイトレやヴォイストレーナーが行うことのほとんどもまた、研究所の中で共存し併行させています。どれがよいかではないのですが、共に研究すべき課題だからです。

 

 どのトレーナーも自分のやり方に自信を持ち、こだわっています。すると、他のトレーナーの方法におのずと否定的になります。私も最初、始めたときはそうでした。肯定できないから研究しだしたのです。結果は、いらっしゃる人の欲するものが手に入るかどうかです。それ以上に持論を押しつけません。

 音大受験でも、ミュージカルのオーディションでも、パスすることが目的なら、そこにレッスンをシフトして、対応しています。

 トレーニングにあまり色がつくのはよくないことです。全ては本人のものとして、成果が出なくてはならないのです。そうでないトレーニング、特に歌や発声にトレーナーの形が、そのまま出ているものはよくないといえるのです。

 

○発声でみせない

 

 「トレーナーは黒子で、相手が学んで、自立していけるようにする」ことを本意とする私をカリスマ化するのは、困ったことです。その人自身の考え方や精神だけが、将来、未来を切り拓いていくのです。

私は声を材料にして、伝えるのに尽力しています。こうして、伝えたいことを補っているのです。

 自分の成長を自ら、阻害する考えを持ち、そういう言動を行う人がいるのは、残念なことです。そういう人は、人を妬み、僻み、落とし込むことに情熱をかけるのです。前向きに生きていたら、自分のことで精一杯で、他人をどうこう言う時間はありません。私とて、このようなことを述べるようになったのは、一段階引いてからのことです。

 

〇発声だけでみないこと

 

 表現のための発声ですから、発声の理想から外れても、表現を優先させる判断力をもつことです。その優先順位をヴォイトレマニア、人が表現する場にいない人や、浅い経験しかない人、表現してこなかった人は、とれません。

 私は歌を聞くときは発声でなく、歌をみます。喉声であろうと、心を動かされる表現をとれます。これはヴォイトレに毒されていなければ、誰でもわかるのですが、ヴォイトレが10割のつもりでやっているとわかりません。よい表現が出ても、「発声が違う」と否定します。発声がわからないときに、確認を求めたがるのです。これは目的をはきちがえています。マンガのようですが、よく目にします。

 若い時期やヴォイトレを始めてから、一時期は、そういうことは起こりやすいものです。いずれ、そこから出られたら、問題はありません。でも、そういうヴォイトレ信者になってしまったら、もったいないことです。マニアックに権威者の元を回り、発声だけの確認を得て、満足するタイプは増えているようです。

 

○問題にしないで学んでいく

 

 「問題にするから問題になるだけで、問題にしなければ何の問題もないのに…」と、私が最近よく思うことです。医者やメンタルトレーナーを頼り、一時的な喉のよさを求める人もいます。それは、時間もお金もかけて、なんら変わっていけない状況に自分をおいています。

 トレーニングもトレーナーも、自分に役立つために利用するものです。一流の人は誰からも学び、何でも吸収して、周りの人を活かしていきます。だめな人ほど、誰をも否定し文句だけ言って、周りの人を何ら使えないのです。

 いつの世の中も同じです。私がこうして指摘しても何ら変わりません。厳しく言うと逆恨みを買いかねません。こうして何か言うような手間さえかける人は少ないのです。大きな甘えなのです。無視すればよいことに、応答するのに文句を言うなということです。

 

〇お客にならない

 

 プロは客商売です。彼らにとってはアマチュアの人はお客様で、アンチファンにしておきたくはないのですから、よいことしか言いません。トレーナーも生徒がやめたら困ると思うと褒めることしかしません。こういう構造は知っておくことです。

 厳しいことを言われたら感謝すべきです。学べなくしているのは学べない本人のせいで、学べるようにしているのも本人の力です。

 そこは私もトレーナーも、限度があります。そこをも何とかしたいと思ってアドバイスをし続けています。

 トレーナーも大変だと思いますが、期待してレッスンをしています。どんな人がいらしても、学べるようにしたいと努めています。何事も縁ですから、大縁に育てましょう。お互いに学び合っていきましょう。私がここを続けている理由です。

「市場とその声の研究」

○市場とその声の研究

 

 研究所では、声や表現の研究をしてきました。本格的に研究体制が整ってきたのは、ここ十数年のことです。

1.日本のプロ歌手の個人指導

2.一般の人との養成所式グループレッスン、劇団の指導、ワークショップ、レクチャー

3.声楽家を中心としたプロのトレーナー集団での個人レッスン(複数トレーナー担当制)

と、3つの体制を経るなかで、医師、ST(スピーチセラピスト)、MT(ミュージックセラピスト)、フィジカルトレーナーや整体師、武術家、心理学、音響分析の専門家、ヴォイストレーナーほか、合唱、声楽、長唄など、専門家に協力をお願いして研究の体制が整いました。こういう運営ができるまでに20年近くかかったということです。

 

 現場で、よい効果を出すには、よいトレ-ニング、よいレッスン、よい方法、よいメソッド、よいトレーナーです。利用するのがお客様というなら、行き着くところサービス業にあたります。市場主義にさらされるわけです。

 プロのトレーナーなら、すぐにめざましい効果を感じられるようにすることが求められるようになりました。

 1990年代、カラオケのブームで、絵になるトレ-ニングを欲しがっていたTV局と、私は袂を分かちました。そういうことに対応できるトレーナーが他にいたこともありますが、指針が違ったからです。

 一般の人やビジネスマンを対象にするトレーナーも増え、その売りは「誰でも、すぐにできるヴォイストレーニング」でした。

私は当時、歌謡曲や演歌の終焉をみて、ロックや、ポップスのトレーニングを、脱日本、超世界レベルに考えていました。そこで「ロックヴォーカル基本講座」を出したのです。教則本を出すことで、こういう市場原理にも巻き込まれることになりました。結果として、レクチャーや本を通じて日本の声の市場を作ることに貢献することになりました。トレーナーになりたい人や、それでメシを喰えると思う人も出していくことになったのです。その私たちを越えて、大きく羽ばたいていきたい人には協力いたします。

 

〇1万人に1人

 

 私は、最初にアーティスト、タレント、芸能人、落語家の師匠やお笑い芸人、プロの声優、アナウンサーと、対することになりました。先見性のある、勘のいい人は、畑違いとも思われる分野から、この声の活動に、積極的に関わってきたからです。

 私はアーティスト養成に特化して、1,000人のうち1人は日本一、1万人に1人は世界一にするつもりで臨んでいました。目的も対象もトレーニングのスタンスや期間も、すべて異なっていました。市場で競合することもありませんでした。

 90年代半ばに「カラオケ上達法」の執筆を頼まれた時、一般の人対象の本に、音声学を取り入れ、逆のスタンスで書きました。ステージングから、歌唱、それ以上を目指す人には、基本は大切だという、逆行です。カラオケをきっかけにアーティストを目指す人を出すためです。そのあたりから、少しずつ一般のビジネス自己啓発書と似てきました。

 現場中心で動く私は、研究所といいつつ、くる人には自分自身の研究、アーティストとなるべく研鑽をつむようにセットしました。こういう風潮は、団塊の世代の年代の教養主義に通じますが、経験してない人には伝わりにくいかもしれません。それが変わってきたのは、まさに、いらっしゃる人が変わってきたためです。

 

○ヴォイトレの研究所の成立

 

 ヴォイトレを中心において、その一方に、心と体をもつ―人間という、人類の芸道に共通する体(呼吸)という器があります。そしてもう一方には、国を越えて世界に、時代を越えて永遠に、価値や感動を与える表現という作品があります。

 私が研究所と名付けたのは、声や喉の指導をするところというからではありません。この両極を統合していく研究こそが、ヴォイトレを確かなものにすると思ったからです。

 一、二年後には古くなるようなプロデュースに、関わらなくなったのも、この普遍的真理への追求があったからです。自分の夢を賭けた人が集まったのが、当初の研究所です。

 ということで、私は、一流アーティストといらした人を直結させるナビゲーターとしての役割を果たしてきたつもりです。日本ではあまり評価されないマルチクリエイターとして資金繰りをつけたのも、そのためです。

 

 90年代、ライブハウス型のスタジオを構え(バブル期、代々木の表通りでは、維持費で坪3、4万円したのです)、2段構えの内装を含めると億単位にかかりました。そこに集う人のために私が奔走しました。研究所の収益は、この活動維持と研究のために、資料やコレクション収集と自転車操業でした。

 どんな仕事でも引き受けました。月謝で生計を立てていたら、言いたいことも言えません。研究所維持のために辞められたら困るというのでは、お客さんとの関係だからです。厳しいこと、言いたいことも言うために、私はほとんどを他で稼ぎ、つぎ込んでいました。外ではビジネスアーティストといって、日本にできてきた文化研究所の嘱託や、アミューズメントの会社などの、ブレーンアドバイザーを複数つとめていました。

 若手のベンチャー起業家なども、私は、歌手よりアーティストっぽいということで、面白く感じたのです。私のブログ(fukugen「追悼スティーブ・ジョブズ」2012/01/23」)に、アップル社のことによせて、入れています。

 研究所は、マルチメディアスタジオだったのです。集客し感動させて、またリピートする。その時代、企業が求めていたのもまた、舞台の、アーティストのノウハウだったのです。

 

 代々木では当時、オウム真理教も活動していました。90年代、内部を組織化していくと、ビジネス的とか、宗教くさい、という批判も出てきました。別にビジネスでも宗教でもよいのです。

 要は、そこにどんな人が集い、そこから外に出て、どう活動していくかが問われることなのです。ですから、こういうところは、そういう人が集まらなくなった時、いや、そういう人が人材として外に出なくなったときに終わるのです。

 

○トレーナーの手腕

 

 レッスンの料金や時間や、制度や体制などは、本来は、大した問題ではないのです。本人の志ほど、決定的なものはありません。本質や先見力、感性の働かなくなったところにヴォイトレをしてみても先はないのです。そういう人財を見抜き、集中して育成するのには、私もまだ若く経験が不足していました。

 素質で選ぶのはプロデューサーの役割で、私たちのヴォイトレが真にヴォイトレであるならば、そうでない人にこそ、大きな成果をあげて、先を切り拓く武器となるものです。その考えは今も変わっていません。

 素質のある人は、どういうヴォイトレに行ってもそれなりに成果が上がります。誰からもどこからも学びとる力があるからです。

 そうでない人、例えば、本人に意志がないのに紹介された人、他のスクールでは続かない人、医者からの紹介の人などを、どのように教えるのかは大変なことで、そこがトレーナーの手腕です。

 ここは、アーティスト、OB、医者などの紹介で多くの人がいらしています。こういう人のなかにはメンタルの問題が大きく占めるケースがけっこうあります。声がよいとか歌がうまいだけのヴォイストレーナーが、扱えることでないので、そういういところからもよくいらっしゃいます。研究所としての課題です。

 私は、感性や集中力に関する研究があります。個別の能力開発は、ヴォイトレの中心テーマです。

 アーティストというのは、人に価値を与える人です。震災でも、改めて、そういう力の存在を確信できて嬉しかったものです。心のケアも、専門家が行くよりも、アーティストの方が影響が大きいかもしれません。医者はメンタルよりも、身体のケアに専念するべきとも感じました。

 

○包括する

 

 私が早くから本を出し、ロングセラーやベストセラーとなったこともあって、研究所には多くの人が来ました。それだけの人がここに関係したわけです。

 「私よりもできる」と思ってトレーナーになった人もたくさんいます。それはよいことです。でも、アーティストを諦めてトレーナーになることは、必ずしもよいことではありません。

 他の才能を実社会で試すこともなく、好きと生計のためだけで続けるのは厳しいでしょう。

 生計をかけて打ちこんでいくと、だからプロ、という自覚が強まることもありますが、自分の生涯をそこでつぶす可能性もあります。

私は、一時カリスマ化されてしまった反省を踏まえ、無用な露出を控えています。そしてそのずっと前から、ここを複数トレーナー制にしています。次代のこともありますが、いろんなトレーナーを実際にみて欲しいからです。

 

 そして、多角的にものを吸収することで自分なりの方法をつくらざるをえなくする体制にしました。これは日本人の最大の欠点を補うためにはよい方法だと思います。

 複数のトレーナーとのレッスンでは、矛盾が生じます。そこで気づくことがたくさん出てくるでしょう。セカンドオピニオン(この場合は、私やスタッフ)が、そこでの矛盾にあたることが、ヴォイトレで最も大きな課題の解決になるからです。単一のトレーナーについていると、問題として上がってこないのが問題です。それを求めない人もいますが、よく考えて判断してもらえるようにしたいと思っています。

 研究所では、あらゆる問題に応えるようにしています。それは総括できるノウハウがあり、私以外の専門家が、内外にいるからです。

 それでも、喉そのものの問題は、難しいです。

 

〇「○○流」と言う自己流と組織の盲点

 

 問題を個々に受け止めず、○○流(自論、考え)で押し通すトレーナーもいます。学問であれば、これは独善に陥りますが、ビジネスや舞台では、それもありです。原理がわからなくても、現場で効果があがればよしとすることもやむなしだからです。商品開発でも、その製品が良いと思う人が買って、いらなければ買わなければよいのです。

 ただし、健康を害するものについては慎重であるべきです。喉もそれに準ずるからこそ、セカンド、サードオピニオンを持つことが望まれます。

 誰をセカンドにするか、誰が専門家、トレーナーとしてよいのかが、わからないから厄介なのです。医者は痛みを抑え、命を助ける専門家ですが、万能ではありません。整体師も体の専門家ですが、個別の体のなかで喉は内部なので、特別です。そういうところをいくつ回っても、専門家に会っても、包括できないから、回るほど、混乱します。最後には、結局、自己流を疑わず、自信がある人につくことになってしまいがちなのです。

 

 指導を組織的にやっているところはどうでしょう。多くは、皆がボスと同じ考えでしょう。しかし、それなら一人と同じともいえます。

私のところは、それぞれのトレーナーの違いを明確にしつつ、並立させる努力をしています。

 研究所のもっとも人気のあるブログ「発声と音声表現のQ&A」、ブログの「研究所の複数トレーナーへの共通Q&A(同問異答)」を見てください。トレーナーのメニュも答えもそれぞれに違います。

 

〇直観力

 

 何でもあるからよいというのではありませんが、私は、声については、どれが正しいとか間違いとかいうものでないと思っています。

 研究所としては、どれだけの方法やメニュ、考え方があるか、そして、どのように世界や日本で行われているのかを明らかにしていく段階と考えます。皆さんは、どの声がよいかなど、今すぐよしあし決めるのでなく、自分にどれだけの声があり、また声の可能性があるかを追求するところからスタートしてください。

 もし自分の方法が唯一だとか、誰よりも正しいと思っている人がいたら、それは未熟な証拠です。

 他の人と比べないから、そうなります。同じく、あのトレーナーの方法は間違っているとか、だめというのも未熟ということです。

 大声トレーニングで効果をあげている人も実在します。全てをだめにするトレーニングなどがあるでしょうか。ある時期は、多くの人は、直観的に喉を鍛えて、劇団や邦楽でも、名人を生み出してきたのです。もっとも学ぶべきことは、直観力といってもよいと思います。

 

○脱効率化

 

 早く安全に、という効率だけでものをみるのも、未熟なことです。一生かけて、何かをやる世界です。そういうところが認められないで、短期的にみて成果を云々される最近の風潮には、私は大きな疑問を抱いています。

 

 「すぐに効果を出したい」そして1回体験したら、「よかった」と感じる。

 昔からすぐに大ファンになる人というのが、たくさんいました。ここに来て、すぐに感激して、すごいと思い込む人もいます。でも2、3年経つと、そう思わなくなる人もいます。

 多くは、学び方の浅さです。高いレベルで判断できたというわけではないのです。

1.多くのケースでは目標を失い、モチベートが低くなって、感覚や判断力が鈍り、マンネリ化していく

2.入ったときほど自主トレーニングをしなくなっていく、レッスンの回数が少なくなる

3.頭打ちのレベルに達し、伸び悩んだままである

 私がゴルフを習ったら、どこかで陥るであろうような状態のままといったところです。1年目に球が飛ぶようになったから、このコーチはすごいとか、この方法はすばらしいと思うでしょう。それで嬉しくて、2、3年とどんどん、本気になる人もいます。問題はいつもその先です。本質が問われているのです。

 

〇その日の効果

 

 私は即成的なようにみえるトレーナーのやり方も一理あるとここでも認めています。その日に効果がでるのは嬉しいことです。それをきっかけに、やる気にるからさらに効果がでます。しかし、芸道もビジネスもそれではすみません。どうも日本人は初めに重点をおきすぎています。

 トレーナーになっても4、5年で廃業する人はたくさんいます。客がリピートしていかなければ、成りたたないのです。

 海外で著名なアーティストを担当するトレーナーに会って、有名人の名前も大して親しくないのにPRに使う人も増えました。

 私はそういうところには、慎重です。「そんなに簡単に本当のことはすぐわかるものではない」からです。

 拙書を読んでいる人は、すでに私のファンで、評価してくださるにもバイアスがかかっています。本当は10年ですが、最低3年も経たないで言われたことは、お世辞、お愛想と受け止めています。

 一方で、長くやれば、必ず本質が学べ、より上達できるなどとも考えないことです。

 歌や声は、プロでも、あるところからよくなっていかない人、悪くなってしまう人が多いのです。絶え間ないトレーニングを続けない限り、声もよくならないし、若いときにやったというだけでは、声も維持できません。

 私も、いつもゼロからのつもりで、やり直しています。

 

〇声でみる

 

みる人がみたら、すぐわかるので、声は厳しい世界です。声でなく、特別の何かをしないとプロの声とわからない、というレベルでは、声でなく、俳優や歌手ということでの専門性に思えます。私は、ヴォイトレは声そのものを変えるものと、捉えています。

 トレーナーの面談採用も、今はほとんど推薦です。私は、声でみます。次に演奏力よりも指導力です。これは、ここでもゼロから学んでいってもらいます。

 

 日常性の中にある声や歌は、感覚や体が大きく変わらないと、技術では、本質的に変わりません。変じて器用にみせられるようになるだけです。それもノウハウですが、根本的に変えたければ習慣や環境から変えるのです。

あなたにとって、それは最初、非日常になるのです。そのためにレッスンがあり、レッスンからトレーニングで身につけていくのです。

 ゆとり世代からは、褒められ、プライドを満たされないと、続けられない人が多くなりました。芸事もビジネス化が進み、よい人材が育ちにくくなりました。

 邦楽界に残る縦社会をみると、昔は当たり前のことが、少しずつ消えつつあることが伺えます。これでは昔の人に勝てないのです。半年ほど休んでも、毎月月謝を払い続けるような邦楽にみられる日本の伝統芸の考えは、崩れつつあります。

 

○理論のミス

 

 体、心の研究と表現の研究、この二極をやりましょう。その間、喉については一時保留すべきだと思います。喉の説明がなくても声の表現ができます。

 私は、この分野で恐らくは世界最高レベルの専門家や医師に会ってきました。その上で、学者の研究や器材に一方的に依存せず、これまで通りトレーナーの直観でやることを勧められます。そこで声紋分析や医療のセンサーなどを導入しても、まだ一部の使用にとどめています。

 これらを使うと面白いし、見栄えがするのは確かです。PR、客寄せにはなるでしょう。でも本以上に勘違いさせる可能性があります。声の原理の可能性は追求していくとしても、限界を踏まえなくてはなりません。ゲームや占いとしては、声の分析は面白いのですが、その先は慎重であるべきです。

 科学や医学が権威づけにつかわれるのは、いつの時代も同じです。多くの本は、出た時点で、すでに古くなってしまいます。すでに誤った説になっている例も多いのです。巷で売れた本にはファンがつきやすく盲信しがちです。

 私も彼らと同じミスを犯しました。私の考えでなく、引用において、後に学会などで否定されたことを、その人の名とともに引用したことがあります。学術的な図版や用語、定義、理論は本に引用せざるをえず、こういう間違いが起きてしまうのですが、できるだけ使うことを控えるようにしています。

とはいえ、その引用でトレーニングを間違え、効果を損なうようなことはありません。拙書「声のしくみ」ヤマハミュージックは、声の知識をまとめたものです。引用元の本も読みましょう。

 間違いをあげていくと、経営の本、投資の本、健康の本などは、ほとんど世の中に出せなくなります。ですから、皆さんにも短期でなく、長期でものを見るようにしてほしいのです。

 

ダブルスクール

 

 研究所が続いているのは、変化し革新し続けているからです。矛盾やクレームも踏まえ、変え続けていなければ、なくなっているでしょう。

 PRに安易にプロや有名人などの名を出さないから、そういう人も安心していらっしゃいます。目立たないのはよいことです。多くの人とじっくりと長くやることで、少しずつ信頼が築かれていくのです。

 PRは必要ないのですが、迷う人もいるので、どんな分野でどういう関わりの人がいるのかは、出すようにしています。

他のところへ学びに行ってはいけない、などという劇団やプロダクションが日本にはあるので、個人情報に関連することは、伏せています。スクールや養成所には、他に学びに行くなら、契約破棄を定めているところさえあります。

 ここはプロデュースをメインとしていないから、教えたから、育てたからと、その権利を主張することもありません。どこに対しても中立の立場をとっています。

 声優や俳優のほとんどはプロダクションに所属しています。養成所などに行っている人が、声のことを専ら学びにきています。ダブルスクール、トリプルスクールのような利用も多いです。音大生や専門学校の学生のように、毎日のように来る人もいます。

 

〇考え方、使い方、引き出し方

 

 私は一人の師やトレーナーにしかついてはいけない、という日本らしいシステムには異議を唱えています。プロダクションがお金を出すなら別ですが、本人が自腹で勉強したいというのでしたら、誰でも受け入れています(他の理由があれば、その都度、考えます)。

 私は最初いくつものレコード会社、プロダクションと仕事をしていました。そのうち専属を求められたため、やめた経緯もあるからです。

 デビューはさせても、その後の仕事がない、レッスン料目当てのやり方とわかっていてもやめられない。囲い込みの是非も論じられますが、本人が実力をつけなくてはどこにいっても同じことです。

 相手に応じて必要な情報を出すにとどめています。

一人ひとりそれぞれがよかれと思って生きています。うまくいかなかったり、間違ったりして学んでいくのが人間で、人生です。努力しだいで結果が出てくるのです。

 私は他の人のやり方は否定しません。クレームがきたら、問題の提起として役立てるようにはしています。しかし、やるべきことがありすぎて、匿名には構ってもいられない。ひまな人は欠点をあげつらうことしかしない。人生をそんなことに使えないのです(他人の悪口というのも何もしないより前向きかもとは思いますが、その時間を自分のために使うことがずっとよいでしょう)。

 

 研究所も私もここのトレーナーも引出しはいっぱいあります。でも、引き出そうとしなければ、表面的なことしかみられません。それを改めていくように学んでいきましょう。

 引き出しについては、本や会報やサイトを見てください。

 何事であれ、一所懸命やろうとする人は応援しています。

 

○直観と経験

 

 絶対量について、時間や長い期間、体験を積むのは、それにあたります。それが経験知として体現できたのかわかるのは、そこから何かが身に付いたことが示されてから、です。自転車に乗れるようなコツ、思い切りの勇気、未知の感覚への慣れと調整、具体的には体のバランス、重心コントロール、腕、足での支えです。

芸事なら1、2年ではできません。そして、直観。感性のマップから説明しました。これについては、私の感性と集中力の研究を読んでみてください。

 生物として、情報を感受(感知)する、先取る、さらに直観―発想―創造力、この3本柱です。

 アーティストを育てるにも、こういうものを天性として見いだし、引き出し、補強しなくてはなりません。

 ここでは材料を与えます。材料を使い判断されてやっていくうちに、本人が判断をものにしていくのです。

 精神論は、トレーニングに不要というような最近の傾向ですが、おかしなことです。アーティストにするには、コーチは相手の精神をコントロールしていけばよい、体のことは本人が一番知っていく、そのように育てなくてはいけないのです。

 

○全体と部分

 

 喉は部分、体は全体です。これを最近、喉だけで解決しようという人が少なくありません。医者が声帯や喉頭をいくらみて、診断しても、アーティストは、そのようなこととは全く関係ないところで実践しているのが現実です。個人差もあれば、バラ付きもあります。

 診断から発声や歌唱を判断することは、一理はありますが、参考に留めておくべきでしょう。

 私も喉や声帯をみてもらいましたが、そのあとに何ら変わりありません。

 ですから、多くのトレーナーは、喉を忘れるように指導をしてきたのです。つまり全身の感覚でコントロールすることを覚えていくのです。どちらかというと、質や条件の欠けている人が、喉という部分にこだわるので、ますます、力が入るような症状が出やすいのです。

 病的なケースでは外見からの処置で直せることはありますが、それ以上は、どれくらいの効果があるかは、よくわかりません。そのあたりをきちんとふまえていきたいものです。

 

〇成果の検証

 

 トレーナーのヴォイトレの効果は、検証が難しいものです。他のトレーナーなら、もっと成果が出たか、あまり成果が出なかったか、もっと悪くなっていたかは、簡単に試せるものではないのです。しかし、私はいつもそのことを考えて対しています。

 前のトレーナーですぐに成果として出なかったり、一時、悪くなっていたようなことが、次のトレーナーのときに成果として出てくることもあります。どちらの効果かわからない。私は「野村監督のあとに(優勝させてしまう)星野監督効果」と言っています。どちらの貢献度が高いかは一概にいえません。

 本人の充実度、満足感と本当の成果は必ずしも一致しません。案外とトレーナーの力でなく、本人が9割の要因をつくっているものです。そのようにしてみると、初歩においては、どのトレーナーでも、あまり差がないともいえるのです。さらに、短期的効果と長期的効果は違います。

 受ける人の感性が鈍くなると、トレーナーもサービス業化していくものです。気をつけましょう。

1.笑顔

2.勇気づけのことば

3.専門知識での解説

4.安易な効果の実感、体験(体感)

5.商品のお勧め

 こういうものは、概してメンタルへの働きかけでのプラシーボ効果です。一時、よくなりますが、本来の本当の問題から目をそらし、解決を遅らせてしまうことになるのです。

 トレーナーの「毎日トレーニングしないとだめ」ということばも、「週に一度ほどでいい」ということばも、同じです。本当にコツコツとやっている人には、何の関係もないのです。

「ヴォイトレリアル」

○ヴォイトレリアル

 

 「革新的な試みをしているのに、叩かれないなら、その名に値しない」といいます。いろんなオーソリティにお会いして、叩かれてもいる私ですが、そのことについて。

 声の分野は、実質としては、啓蒙期に近いところで、同じようなことをくり返している段階で一個人の体験、そして、微々たる結果、それをもとにした指導、それだけで終わっていることがほとんどです。その後に、フィードバックして、改良し、他の人に共有されること、そして更にそこで第三者に試行され、チェックされ、改良されていくようなプロセスが、とられていません。声に関しては、このことがとても難しいことをずっと述べてきました。

 

 なのに、今や人は、正しいものなら、すぐに自分にわかり、実行したら、すぐに効果が出るのが当然だと思う傾向が強くなりました。日本の高度成長後の経済的低迷やゆとり教育の失敗で、何ら根本的な改革されずに超高齢化社会に突入、そうした世潮がこれに拍車をかけたように思います。

 私からみると、どんなことも、発展して後、万人に受けるようになってからは、ちょっとした目先の転換、目のつけどころの差別化になります。安く早くても、1~2割、変わるくらいでは大した意味はありません。ゴルフを習うと、「打つときに球を見ないで」とか、教習車では、「目線はずっと遠くに」などと言われて修正するのと同じです。それが必要な人にはレッスンにもなるともいえますが。

 

 私が研究所を個人レッスンだけにして、トレーナーは声楽家を中心とした集団指導体制にしたのは、この入口でのニーズにも充分に応えられるためです。

あなたの目的、レベルによって、あなたの好きなトレーナーを選べます。スタッフが間に入り、トレーナーのメニュも目的やレベル、進行のテンポも変えられます。

研究所も一般の人を指導するにあたって、かつての養成所の体質から、カルチャースクールや教室のような機能を合わせ持つことになりました。

 古武術家が介護法を教えるように、基本の原理を、今、必要とされているものに応用していくのは、世の中のためになることです。芸術や芸能、ビジネス、ボランティア、ということでも、いろんな面から関わる人を刺激することになります。ただし、そこは入口です。

 

○ヴォイトレの30年

 

 私はこれまで、著書に、あえて、あまり科学的なことや生理学的なことを入れないできました。

 デビュー本で、公にした仮説の元は、10~20代までの実演や経験です。自分が3割、海外や日本の他のトレーナーとの経験が2割、レッスン指導の経験が4割、類書からの参考引用が1割です。

 それから10年後に「基本講座」「実践講座」と、最初の2冊の本を全面的にリニューアルしました。そのときに思ったことは、他書から引用したことが、研究の進展で、ずいぶんと変わったことです。声のしくみについても「裏声は仮声帯で出す」と、音声医の第一人者が本に書いていたくらいです(米山文明氏など)。音声の研究は、物理的(音響学的)、生理学的に進みました。声については、専門分野の人向けだけでなく、一般の人も研究できるようになってきました。

 ヴォイトレでは1990年代後半から、

1.欧米のメソッド(クラシックよりポピュラーとして)

2.科学や理論に基づいたようなメソッド

3.日本人の求める高音発声や声域拡張、ミックスヴォイスなど

が出てきました。

 

〇研究所の30年

 

 研究所は代々木という土地柄もあって、声優、ナレーター、俳優、タレントの対応が増えました。ミュージカル俳優になりたい人も増え、J-POPSの志向が強まったので、外国人やポピュラーのトレーナーを使いました。そして、基礎の必要性を改めて認識して、体制を一新しました。声楽家をトレーナーとして声のベース(息、呼吸、共鳴)づくりを主体としたわけです。

 自前のライブハウスを引き上げ、個人レッスンにしたため、プロやプロデューサーと接する機会が増えました。歌の仕上げの後、プロデュースを依頼しました。ジャズやシャンソン、ラテンのシンガーも増えました。専門の先生についた人の基礎を引き受けることが増えました。トレーニングもコラボレーションが中心となったのです。

 研究所で、私は、2000年からメンタル面(精神科医心療内科の方向)、その後はフィジカル面(インナーマッスル、整体、マッサージ、他)の研究を重視せざるをえなくなりました。スタジオにも音声の医療や人体模型や解剖図、センサーや声の分析の機材などがおかれ、研究者との繋がりが増え、研究所らしくなりました。2010年までには、それまでのビジネス、執筆や講演を抑え、研究に専念できる体制になったのです。

 

○ハイレベルと効果の大きさ

 

 日本の声の現状を把握し、欧米とのギャップを縮めようとして研究所をスタートしました。今では、欧米だけでなくアジア、アフリカも含めて全世界と日本、古き日本と今とのギャップということです。

声ですから、歌唱だけでなく、せりふも入ります。俳優からビジネスマンまで、一流の国際的なレベル、歌手なら美空ひばり、役者なら、仲代達矢渡辺謙のレベルに、どうやって声を鍛えるのか、というのが、研究所の一貫した課題です。

 声は、ギャップを意識することからのスタートです。それがなければ、その人にヴォイトレそのものの必要がないのです。それは自分より高いレベル、必要性に対してのギャップです。

 その人のレベルによるので、人並みにとか、リハビリで最低限に声の出せるレベル(ST=スピーチセラピストの担当する範囲)というのも含まれます。

 心身の状態がよくなると声は出ます。そのレベルで不安定な声の人は、一般レベルまでは、心身を強健にするトレーニングを併用すると効果的です。

 研究所にはプロのゴルファーやアスリートがいます。そういう人は効果が出るのが早く、ハイレベルの手前までにはなります。年配の人でも体(体力、筋力、柔軟性)と心(表現力)がある人、たとえば、毎日、太極拳やヨーガなどを行っている人、健康的な生活習慣のある人は、レベルが高いです。美輪明宏さんは、毎朝、読経して、80代でも第一線で舞台をやっています。

 若くても、心身の条件が弱いと、うまくできるのに時間がかかります。こういう初期条件が整わないと、声、せりふ、歌がハイレベルに達するのは難しいです。しかし、ヴォイトレ以外でも変えられる条件が大きい分、そこを加えると効果は大きいのです。ハイレベル(他人と比べず絶対的)と効果の大きさ(自分と比べて相対に)とは違うのですが、どちらもトレーニングの目的です。

 

○状態の改善でなく条件の革新

 

 私はヴォイトレを、状態の改善でなく、条件の革新で捉えています。方法では、使い方ということで、声を心身の状態で整えようとするのがヴォイトレの大半です。そこでは、アスリート並みの条件だけがあればよいとなりかねません。心身を平常にすれば全力が出せ、それで通用する。アーティストにとって、それは必要条件の一つにすぎません、もっとも、ベテランなら不調を解消する調整をすればよいのです。

それに対して、これから一流になろうという人、一から始める人など、すぐれた条件を持っていない人では方法が違ってくるのは、あたりまえでしょう。

 トレーニングは、条件づくり、心身を条件として変えるために行なうのです。この大切さに私が改めて気づいたのは、一般の人と長く接したからです。

 プロは少なくともオーディションで選ばれてきますから、一般の人以上に心身に恵まれていたり、それまでに努力してそれなりに使える声を獲得していることが多いのです。10分も走れない人が、オーディションを通ることはないでしょう。

 私は野球、柔道、バスケット、水泳、合気道と、どれもかじっただけですから、一流のアスリートの境地まではわかりません。しかし、いつも、新しい物事を始め、3年くらいにわたり、あるレベルまで、形をつける基礎まで、つまり、一目みて素人ではないところの形を得るまでのプロセスを、何回もゼロから体験してきたのです。それは、トレーナーとして他の人のプロセスへの直観を働かせるのによい経験になりました。

 むしろ、幼いときからずっと続けているプロは、「自分に与えられたもの」「長い間かけて習得していったもの」の正体には気づきにくいのです。「灯台もとくらし」となるのです。

 いろんなスポーツや武道を毎日、3年やればリズムや時間にも鋭くなります。呼吸も深くなりますし、体のバランスや心身の状態も、気づけるようになるのです。舞台や人前でのメンタルコントロールも、初めて体験することが多く、大変なだけに鍛えられます。

 

○絶対量としての時間<しずちゃんの挑戦>

 

 アーティストに、アスリートのトレーニングがもたらすヒントはたくさんあります。教本や理論書をたくさん読んでいたら一流になれたでしょうか。いえ、一流の人に接してみると、彼らが読んでいるのは、精神面を鼓舞するものです。

 高いレベルの目標設定、それを可能とする具体的なトレーニングがなかったら、どうにもならないということです。

 バスケット部なら、監督がNBAのVTRを見せて、ゲームの本質を伝えてみたらどうでしょう。毎日のトレーニングを先輩から言われたままでなく、自分に合わせて創意工夫してやれば、もっと上達するでしょう。そういうことさえ気づかないと、大して上達しないのです。

 大切なのは、そういう方法以前の量です。不可能を可能とするトレーニングは、絶対量から始まります。

 南海キャンディーズしずちゃんは韓国のチャンピオンに、一ラウンドで敗れました。「2000時間のトレーニングが、2分で終わった」と、彼女のトレーナーが言っていました。身長、体重で勝っていても、相手はトレーニングを2000時間以上やっていたのでしょう。2000時間は2年で割ると、1日3時間です。

 5年やると、あるレベルに達します。それが、つまり1万時間の壁です。

 

○状態の改善の限界

 

 私は、最初から「ヴォイトレは、全体の10分の1」と言っています。あるレベルに行くのに、その10分の1であれ、確実によくなるものがあるなら、大きな糧となります。そうなるようにメニュを与えています。

 私の本を読んで、ヴォイトレがほとんどの問題の解決の鍵と思ってしまう人が出たなら遺憾なことです。あくまで10分の1です。まして、リラックスやマッサージや発声の仕方を変えただけでどうなるでしょうか。

 私がリラックスしても、どの競技でも中学生のクラブ活動のレベルで通用しません。スポーツは、職人技のようなものですが、頭、体、心も、声も、究めていくと同じです。

 

 10代で喉もよく、歌もぱっと歌えていた人は、音大に入るにはよいでしょう。そかし、そのままではそういう条件を伴わない生徒の多いスクールなどのトレーナーには向きません。

 そうでなかった条件を努力工夫で克服する経験をもつトレーナーは、一流のアスリート、アーティストにコーチするのは難しいでしょう。私が水泳を子供に教えられても、オリンピック選手に教えられないのと同じことです。

 

 ちなみに私は、喉としては判断できませんが、発声としては、最低の部類でした。10代から誰にも負けない絶対量を、自分に課してそんなものでした。大学時代をバイトとレッスンに費やし、トレーニングで変えてきました。

 ヴォイトレで最初の2、3年に、あるいは2、3日でも、2、3ヵ月でもよいですが、大きな効果が出たけれど、そこからさっぱりという人は少なくありません。本人がそのことに気づいてないことがほとんどです。

状態と条件との違いを考えてみて下さい。私のいう状態は、左右の横軸、条件は上下の縦軸のようなものです。大半が、くり返しているだけでステップアップしないようになってしまうのです。

 状態の改善とは、あたかも医者が、ステロイドを処方したり、手術したりするようなものです。医者が、ここを紹介するのは、ここは1、2ヶ月でなく、3年以上先の問題に対応しようとしているからです。他の人が1年で学んでいくことを2、3年かかって学んでいくからこそ、先の見込みが広がるのです。

 

○俳優、歌手の声力の衰え

 

 私は以前、俳優のワークショップのヴォイトレをたくさんしていました。プロの劇団を除くと、大抵はアマチュアで声は一般の人が対象です。となると、状態だけをよくします(大半は一日で完了という時間の制限があります)。

 俳優は2、3年目から、しぐさ、表情が伴って声に反映されていくから、純粋な声としてのトレーニングは、あまり行っていません。それぞれ、自己流の中で、表現の力で修正をかけていきます。経験量が声を鍛え、プロとして活動できるだけの器を作るといえます。

 実際のところ、今ヴォイトレを行っている俳優さんより、そんなことを知りもしなかった昭和の時代の俳優の声の方がずっとパワフルです。太く迫力があり、説得力があります。いわゆる腹からの声があったのです。歌い手も腹から全力で歌っていました。よく喉をこわしたり、ときに手術する人もいました。それでやめる人などいませんでした。

 ヴォイトレが、より早く効率的に、声を鍛えるものとして、利用されているならよいのですが、どうも、安全に喉をこわさないだけの目的に、留まっていませんか。自然と得てきたところで限界を破り、未知の可能性を広げるものになっていますか。私はどうも逆行、退行しているという気がします。

 

 その原因の一つは、歌手や俳優として選ばれる人が、昔ほど声のキャリアを問われなくなってきたことです。声の資質や経験値が高い人が、俳優や歌手になっているのではありません。日本は、世界に逆行して、小顔、しょうゆ顔、エラなし、首も体型も細型が好まれるようになりました。声は優しく、男性は高音、中性化(去勢化)が進んでいます。全体的にも声の出せない民族になりつつあります。

 

○日本のミュージカルの難点と克服法

 

 ミュージカルには現実的な対応がせまられます。舞台のスケジュール中心に動かざるをえないからです。研究所には、さまざまな人が来ますが、ここのところ多いのは劇団(ミュージカル俳優で、声楽の経験のない人)です。オーディション対策の若い人に加えて、30代、40代の中堅どころになって、声が劣ってきたと感じる人です。演目の多様化で、声楽の発声では出せない声を求めていらっしゃることもあります。

 もう一つの理由は、その人が教える立場になるからです。自分でやってきたトレーニングが、そのままでは、若い人に通用しないことが多いのです。指導しても、自分たちのようには伸びないのです。

 ミュージカルは、マイクが使用できるので、声楽の基礎レッスンでの対応が無難です。オフシーズンのように、集中してトレーニング期間をとれると理想的です。とれない人は、舞台の合間にヴォイトレを行います。

 疲れている声に対して、できるのはクールダウン、声のバランスを取ること、声を休めることです。そのレベルでのレッスンが役立ちます。

 これは「プロの舞台への応用トレーニング」の位置づけに当たります。呼吸や体の使い方、何よりも、その人の中心となる声を調整していくのです。若手やJ-POPSの人に行うのも、こういう調整からです。

 

 メニュの中心はスケール、レガート、ロングトーンなどです。これはアスリートのベンチの裏に控えているマッサージ師のようなものです。試合での疲労を回復させたり、次に残らないようにするのです。そのマッサージで、筋力がつくなどということはないのですが、声については、そういう勘違いが多いです。

 

アスリートが、基礎の力をつけるのはシーズンオフです。そこでは体力、筋力をつけ、フォームを修正して、シーズン開始にそなえます。オンすると同時に一気にブラッシュアップします。

私も水泳では、一冬でタイムが3割も縮まりました(初心者ならではの効果です)。育ち盛りでしたから、2年間で肩幅がでて、逆三角形になりました。

 相乗効果を出すためには、週1日で10年よりは、週7日で2年の方が大きいのです。若いうちは、最初に徹底してくり返して、身につけることです。声でなく、トレーニングができる習慣を身につけるのが大切です。

こういうことがわからない人が多くなりました。週0日よりは週1日の方が効果は大きいというローレベルでのヴォイトレが一般的になってしまったからです。セーブしたり休むから、喉が疲れない、壊さないだけだとしたら、それはトレーニングではありません。

 

○一流の見本とトレーナーの見本

 

 ヴォイトレで目指すべき声のモデルのとり方について考えてみます。それを演奏能力にとるのか、楽器レベルにとるのかは、両極といえます。

 養成所としての研究所の頃は、歌唱を1フレーズでチェック(コピー、デッサン、フィードバック)、自主トレとして、毎日、体という楽器作りをやらせていました。しかし、トレーナーが増えたこともあって、少しずつ研究所のレッスン内で、体の楽器作りをやることになります。

 

 一流になるのは、一流の人の後追いしかないのです。その感覚の生じてこない人は通用しないのです。

 誇張して見本を見せることで教えるのは、簡単な方法です。動画を見てわからないから、トレーナーをそばで見たらわかるという期待にこたえます。トレーナーが体を触らせる。1フレーズをゆっくりと繰り返す。うまくまねて近づけていく、そういったことより、感覚を鋭くすることが大切です。その多くはCDやDVDでもできるのにやらないのです。

 もっとも効果的に思えるのは、思えるだけ、のことが多いのですが、トレーナーがあなたのまねをして、次にその癖をとったやり方をすることです。あなたが気づかないギャップを明確に示すことです。しかし、これもよし悪しがあります。

 他人に頼りすぎると感覚がマヒして、指示通り動くだけのレッスンになります。それを食い止めるために、私はレッスン後にレポートを課しています。トレーナーにもアドバイスを書かせています。どちらも共に学んでいって欲しいからです。

 

○まねの限界

 

 何でもフリーに聞ける時代になりました。アーティストの音源を聞かないで、トレーナーを見て学ぶだけではよくありません。

 学びやすくするためにトレーナーは、体や息を大きく使ってみせることがあります。

 そうしたパーツとしてのトレーニングでは、全体像は見えにくくなくなります。フレーズや発音のレッスンも同じです。このパーツを組み合わせても、ベストの発声にはなりません。1つのパーツをきちんと長く繋げて作品にしてみた方がいいほどです。

 見せるためには、過度に強調してゆっくりと行います。息を深く吐き、ときに深い息の音を作ります。本当に深くとも音はしません。しかし、それではわからないから音をつけます。そこをまねてはいけません。

 みえるところから本質を感知して、自分の中に置き換えられるかです。主体的にやるのです。まね、コピーは、本質ではありません。

 習いにいっても多くの人は先生の半分以下の力しかつかずに終わります。そういうものになってしまうのは、本質をつかまないからです。一方、トレーナーや先生というのは、自分のようにしてあげよう、自分にしかできないことをできるようにしようと考えるからです。初等教育ではよいのですが、アーティストにはよくありません。

 歌の先生の生徒が皆、その先生と同じ歌い方になってしまうのは、その弊害です。それが入口になっていればよいのですが、先生のようにできたら、満足するから、そこが出口になります。いつのまにか目標が先生のように―となってしまうのです。先生は、アーティストではありません。同じことができたところでなんともなりません。入口の前にすぎないのです。

 

〇研究

 

 私の研究は、ヴォイトレの両極です。

1.心身のモデル、一般的でなく、その人特有なものとして、その中のベストヴォイスを追求する。

2.演奏表現への応用、そのイメージと技術の能力の育成。声は「うまい、器用、正しい」でなく、その人の体、心に合ったオリジナルなフレーズ、オリジナルなデッサン、音色を追求する。

2は、フレーズトレーニングで私が試みていることです。そこで行き着くところ、1の声帯、呼吸という体の中でも発声に関わるところを問題にしていきます。

 

○音声学と理想モデルの違い

 

 私が参考してきたのは、音声学です。特に生理学と物理学的でみた喉と共鳴のモデルです。これは、トレーナーが知っておけばよいもので、レッスンでは副次的なものです。ところが、世の中での科学知識重視の傾向で、理論を知らないのは不安だから、知って安心したいということで、取り上げるようになりました。

 私も、声の仕組みや音声学を、本でも説明することになりました。しかし、最小限しか入れないようにしています。他の先生のように出したくないのは、あまりにあいまいだからです。知識と発声や歌唱の上達とが、ほとんど関連していない点も大きいです。

発声はリアルの体で生じる問題です。静止した状態でみても何ともならないのです。

 例えば整体では左右のズレをバランスをとろうとして、チェックして直します。それで声はよくなるでしょうか。健康になり、けがをしにくくなればよいともいえますが、果たしてそうですか。人間の左右は違うという大前提が抜けていませんか。

 

〇自分で創る

 

 私は一流のバイオリンを入手しないと、一流のバイオリニストになれないとは思いません。一流なら、一流のバイオリンで演奏した方が映えるでしょう。

 ストラディバリウスという名器をもつと、その想いや伝統の重さで演奏がよくなるという、メンタル効果があるでしょう。しかし、一流なら、どのバイオリンでも人を感動させられるでしょう。

普通は、一流とか天才にはなれません。本人の感覚で自分という楽器を知り尽くしていくことです。調整して、声、せりふ、歌にする努力を優先するのです。

 人間は機械ではありません。ロマのジプシーのバイオリニストは、ボロボロのバイオリンでストラディバリウスに引けをとらない演奏をします。音と自分のつくりあげる世界と、自分のもつ楽器を知り尽くしているからです。

 4人メンバー集めないと、ロックバンドができない、というところから考えてしまう日本人には、わかりにくいことでしょう。

 でも邦楽で、例えば尺八は、まさに本人が作るのです。声明、読経などでも、あるのは、ゆるやかなルールです。日本の声楽の限界は、追いつき追い越せに、また戻りつつあるということです。ポップスでも同じように、1980年代とか1960年代の回帰ブームのようです。

 

○絶対的な時間量

 

 歌い手は、喉のプロであるとともに、音の構成、展開での演奏、イメージの組み立てにおいて、プロであるべきです。音響の完備された時代ですが、科学的、生理学的見解からなされるトレーニングのメニュや方法には、疑問があります。私自身、理由や根拠の全くわからないところで反駁されたことがあります。知識、理論をいくら集めても反証になりません。

 トレーニングをやらなければ、効果は出ないのです。感性、感覚を磨かないと声も表現に反映されていかないでしょう。

 絶対量から導き出され、声が変えられる、質となるのです。時間は、絶対必要です。

 

○理論、ことばの無力さ~声帯振動

 

 研究所にある、たくさんの声の測定器材を、PRのためには利用していません。そんな程度のものだからです。

 最近は、生じかじった理論がトレーニングの邪魔している人が、本当に多いのです。自分の成長のためにあるトレーナーや理論(この場合、説明なども)が、やれば出てくるはずの効果の邪魔をしてしまうのです。それは、自らが省みて再構成しないからです。

 科学的(解剖学、生理学、音響学)とつくと、完成されているような気がします。例えば、自分の体を正確につかむことで、正確なボディマッピングをする。例えば、舌が思ったより大きいことを知る。しかし、表現や演奏上での舌のイメージ(表現に必要になる)は、実態と違います。

 声帯の振動が1秒に440、これを880にしようと、1オクターブ上を出す人は、現実にはいません。プレイヤーがボールの球速や角度の数値を計算して、打ったり、とったり、シュートしたりしているわけではありません。直感的に読んで合わせるだけです。

応用される舞台では、現実のモデルと次元の違うモデルが必要です。

 料理人は、舌の味覚だけで味を捉えていないはずです。ヴォイトレで「喉を使わない」というのも、現実と矛盾することばです。

 

〇横隔膜の克服

 

「横隔膜で呼吸を動かせない」とか、「喉頭筋がうまく動かせない」などと言う人もいます。喉もかなりの個人差がありますが、よし悪しです。

「喉がよくないから直したい」と言い出す人もいます。直せるものは直せばよいのですが、直せないものもあります。直す必要がなく、バランスが少々悪いとかいうこともあります。人と違っていても、直さなくてもいいこともあるのです。

 喉は発声に関する重要なパーツです。こういうケースで「歌手(俳優)に向いていない」と思ってあきらめる人と、「だからこそ、着目され活躍できる」と思う人とがいます。本人の性格や考え方が大きくものをいいます。

 本も、理論にばかり狭く深く入っていく人は、メンタル的な問題が大きいです。その克服の方が、声の改善より大きな問題のことが大半です。それもヴォイトレで直ることもあります。頭でなく体を使うことで変わってくるからです。

 トレーナーが、声のこと以上にも手腕を持っている必要があります。最初から、相手を声の問題に閉じ込めることが、よいとは限りません。

 就活、婚活に悩んでいる人には、声のトレーニングから始めるのも1つのアプローチになります。確実な10分の1がとれるなら、あやふやな残り10分の9のことより、声を優先して重要視するとよいでしょう。

声は心身から出ます。身体は運動やヴォイトレで変えていけますが、心の問題は結構厄介です。頭をからっぽにしてトレーニングに集中するのが一番よいことです。生じな知識は、それを邪魔します。

 効果が出ないか、不安をあおられる。それなら、人、本、理論と一時、決別しましょう。体や喉のシステムを知らないから、声がよくならないのではないのです。

 最近どんどんと新しく出てきた理論や考えは、早々に、また否定されたり、改められたりしていくものです。理屈(科学や理論、説明も)とは、そういうものです。

 

○声のプラシーボ効果

 

 声は、心の問題、プラシーボ効果でも大きく左右されます。いつもわかりにくい問題です。

私も「トレーニングで、そういう声になったのですか」と、よく聞かれます「そうだ」とも、「違う」とも言えます。

 日常に生きている中で、使うものが他人と違うレベルに達するのは、トレーニングの成果です。トレーニングは、やればやっただけの成果と思いたいものです。私も人一倍やりましたから、そこでは、胸を張りたいのですが、トレーニングをやっていなかったらどうなっていたかという自分とも比べなくては、科学的な証明にならないでしょう。それは不可能です。

 この声で、仕事も研究所も、とことんやってきたことが、現実レベルでの証明です。いくら出版社でも、「この人がトレーナー?」という人の本は、出してはくれません。レッスンを受けにくる人もいなくなるでしょう。

 

 もちろん、トレーナーの、笑顔や生き方が素敵で、レッスンも好きというのでもよいでしょう。

1.依存心

2.安心感

3.前向きになる

トレーナーの勧めるメニュ、方法、技法、運動、体操、果ては飲食物まで、どこまで信頼できるのでしょうか。それで声に効果があったと思うなら、それはいいことです。健康法と同じで、「この健康法があればこそ健康だ」というのは、方法、器具、トレーナーに頼らずに自分でできるようにならないか、考えるとよいでしょう。

 サプリにはプラシーボ効果が著しくあります。私は結構はっきりと言うことにしています。自分の喉の形、喉の機能などに一喜一憂しないことです。人は、それぞれに独自のものを持っています。育ち、生活や習慣、環境で、それは大きく違ってきます。そこを変えていくことです。地道にコツコツと、です。

 声帯という、とても小さなものでの歌唱が、人々の心を感動させるのです。

 美空ひばりだからこそできたといわれることもありますが、彼女は、間近に死を控えて、片肺の状況でも30曲以上歌えたのです。人の声は、科学を超えるのです。それを突き詰めることこそが、科学的なのです。自分の判断を育てていくことです。

「事始め」

○事始め

 

 かつての私の方法(もし、そのようなものがあるとするのなら)は、プロ志向の人向きでした。全国でレクチャーをしていたのですが、地方在住の年配のトレーナーに「かなりモチベートと心身のある人でないと対応できないのでは」と、言われたこともあります。貴重なアドバイスと思って受けとめました。プロや一般の人に対応していく、その後の指針にもなったわけです。

 当時の立場は、昭和の頃の、歌唱指導(声楽も含め)に対し、アンチなものにならざるをえなかったからです。そのことは音楽之友社「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」に詳しく述べました。

プロのレッスンから始めたので、その理由もわかっていました。曲を正しく覚えて、すぐにレコーディングにもっていかないと間に合わないプロに、基本の基本からやり直す時間はありません。その頃は専門的な要求レベルの高い人しかこなかったので、心身共に恵まれた条件をもつ人が多かったのです。一方で、地方に限らず、その頃、ヴォイトレをするのは喉の不調で医者に行かざるをえない人と同じ層、つまり、自分の心身が自分でコントロールできない人が多かったといえます。歌うのにトレーナーについたり声の不調で医者に行くような時代ではなかったのです。

それが、ヴォイトレの成果をわかりにくくするとともに、その人たちの声での表現の限界をつくってしまっていたのです。

当時のプロは、プロなりに感覚と心身はすぐれていたと思います。ただ、今はさらにそうなってしまいましたが、国際レベルでみると、声の力が絶対的に不足していたのです。先人をのりこえるためにトレーニングがあるのですから、ハードなのは当然でした。ずっとこういうことをしっかりと伝えるべきと思ってやってきました。

 

○10年毎に…

 

 10年経つと、その20年ほど前のプロのすぐれたところに改めて気づいていく、というのが、20代以降の私のパターンのようです。プロデューサーは、何年か先のプロとしての優れたところを見抜くし、ファンは、新しいプロを認めます。それから比べると、私は遅れているといえます。しかし、実のところ、私は10年ごとに音声に求めるべき基準を下げているわけです。よくいえば、柔軟になり、その人のトータルの才能をプロデューサー的見地でみるようになってきているのです。

 業界に関わっていると、そうなるわけではありません。そのことで、プロになりたい人に適確にアドバイスできるし、他のトレーナーの相談や声以外のことについてもアドバイスできます。ここには「声をよくする」人や「プロになりたい」人もいらっしゃるので、この要素ははずせません。

 欠点よりもよいところをみる、これも私は声に限っていたのですが、トレーナーたちに任せられるようになったからこそ、プロとして仕事として、その人がやっていける要素を見出すことができるようになったともいえます。

 私は、10年古い感覚でやってきたから、20年以上年配の人たちとやってこられたし、世に出てたくさんの仕事をいただくことができたと思うのです。

 

○地球と半世紀[E:#x2606]

 

 私は、もっとも多忙な30代、40代で海外へほぼ年6回、50カ国以上を訪れました。日本と世界との差を実感するためでした。東京にいることで鈍くなっている感性をリフレッシュするため、あたりまえのものをあたりまえにみるために、世界の感覚を入れておくことの必要がありました。日本もその間、網走から沖縄まで、ほぼ二巡りしました。キューバやジャマイカ、アルゼンチン、ブラジルと、行き着くところまで行ってしまい、「日本は日本」と開き直ってからは、アジア中心に巡りました。地球を半周すると、その大きさが何となく実感できます。50年生きて、半世紀を実感するのと合わせ、私の1つのスケールとなりました。

 

〇この50年、1960年代~

 

 私は、自分の育った頃のアーティストから、彼らが影響を受けたアーティストに20年ほど遡っていって、そのままです。1950年代、1960年代をベースとして、ポップスのアーティストを捉えています。マイケル・ジャクソンでいうと、ジャクソン5のマイケルはよいが、ソロとしてのエンターティナーとしてのマイケルは別、プレスリー、シナトラあたりも、若い頃の声でみていました。

 これまでに、音のメディアは、レコード、ラジオ、トーキー(映画)、テレビ、ネットと、大きく変わりました。何よりも人間の声を聞きたかった人類は、レコード、ラジオで、歌と、音声でのことばを普及させました。貴族の特権だった音楽を、大衆のものにしました。そこから、100年、カラオケ、合成音声(初音ミク)、と大改革が、受け手だった側に起きてきます。まさに、ネットでインタラクティブ化しているのです。

 

〇声、歌、音楽の衰退化

 

 海外では、街やホテル、店で気軽に触れられる音楽や歌が、日本、特に東京では特殊な場でしか聞けません。TVでも、歌番組は少ししかなくなってしまいました。

 世界的にみると、歌や声は、一時の勢いは失いましたが、日本ほど顕著ではありません。このあたりは戦後、いや、明治維新以後の日本の欧米化の問題との絡みが大きいと思います。憧れて取り込んだあと、発展させるか。切り捨ててしまうかということです。歌や声について、日本人は発展させてこなかったと思うのです。

 私は、2つの原因をあげたいと思います。音楽、特に歌以上に、手軽で面白いものが登場したこと、音楽、特に歌のレベルの劣化(特に声の力)です。音質は向上していますので、ハード面ではなく、ソフトについてのことです。

 一人のアーティストとしての人間の力と、作品のレベル、創造力や発想といえばよいのでしょうか、それが衰えているのです。これは、発展途上の国と、発展を終えた国の人材の可能性のようなものでしょうか。日本には大物も大スターもいません。時代の流れの問題でもあります。

 

〇アーティストの不在

 

 1960年代からアーティストを挙げていくと、70年代、80年代、90年代、2000年代、2010年代と、明らかに、歌の説得力として、声の力として、衰えています。これは、日本においての特殊な現象と思います。海外もビックスターは出なくなりましたが、それなりにレベルはキープしていて層も厚いです。

 カラオケの普及や指導法の改善、音響機器の発達で、平均レベルは上がっています。しかし、アーティストというなら、トップのレベルでみます。常に前の世代より上のものをつくってこそ、アーティストです。

 歌はファン、聞く人の目的、レベル、志向あってのものですから、戦後、苦難の時代に大スターは求められ、祭りあげられたのは言うまでもありません。

しかし、アーティストは、ファンを新しくつくるのです。歌の衰退は、業界に才能が集まらなくなったからです。番組や場がなくなったとか、客が集まらなくなった、CDが売れなくなった、歌手では稼げなくなったというのは、本末転倒です。

 私の仕事がなくなるとしたら、私の実力がなくなったからです。世の中が変わったとか、多くの優秀な人が出たからではありません。本人がやる気がなくなったとか、別のことをやりたくなったというケースは別ですが(日本の歌の衰退については前出「読むだけ…」のP194「これから歌手という職は成立するのか」に詳しい)。

 

○ベースとしての6~20曲リスト

 

 つまるところ、私が10年遅れて現実を認めてきたのは、10年分、鈍かったのではありません。その10年に、前の10年を越えるアーティストが現れなかったからです。

 私は、「一流を見本に」と多用してきました。かつて、ここに関わった人なら、必ずここのある6曲(ある時期までは20曲)を聞いているはずです。そのリストはいまも変わりません。私が年をとったとか、保守的になったのではありません。これらは私の生きた時代の思い出の曲でもありません。私がリアルタイムでは生きていたけれど、リアルに聞くことのなかった、私の育った時代より古い曲です。今ならもっと古くなった曲です。

 今もこのリストであるということは、結果として、日本は、そのレベルのアーティストを育てられずにいるということです。

 日本の歌でいうと、せいぜい1980年代前半くらいまで、歌謡曲と演歌がしのぎを削り(五八戦争とは、五木ひろし八代亜紀の賞争いレース1980年)プロの作詞家、プロの作曲家がプロの歌唱をする歌手と一流の作品を生み出していた時代です。リストでは、もう少し古く1968年くらいまでです。

 私はレコード大賞光GENJIがとったとき(1989年)、この賞も終わり、紅白歌合戦も、裏番組のナツメロ番組と同じになったと思いました。

 私の目的は、世界に通じない歌と業界を超えることでしたが、世に求められる歌や声は、80年代を調整期間として90年代、大きく私の本意とするところから外れていきました。

 

○研究所の発足

 

 当時、私は、プロの育成から一時、手を引き、一般向けの研究所を開きました。1年363日体制で、来るもの拒まず、スタートしました。東京で300~400名、京都で40~50名で15年ほど続けたのです。

 そこでは、皆さんからもたらされる歌、マスメディアでの曲の批評、連載などで、時流に応じることを余儀なくされていきました。

 おかげで、そうでなければ聞きもしなかったであろう、よい歌やすばらしいアーティストにも巡り合えました(曲リストは、研究所ホームページ、前出の本に一部あり)。

 そこでの私は、30年間、まったく軸がぶれていないのです。やや無理やり、日本のアーティストの歌を付け加えていますが、カンツォーネを使い、シャンソンを使い、ファドやラテンなどエスニックを使うなかで、発掘できたアーティストもたくさんいます。欧米などで歌っているVHS(ヨーロッパ式の)、日本未発売のは、LDを研究所に追加していきました。全集もあり、ほぼ全てはライブラリーに入れてきました。何万枚もの声のコレクションです。TVの特別番組やライブ版は貴重なものです。

 

○歌い手のありかた

 

 大して気にかけなかったアーティストが、ある曲、(ときに他人の曲)で、たまたまTVのライブ、あるいはイベントで、すごい歌唱をするのを聞いて、見直すこともあります。大いに反省して、その人のCDを聞きまくるのです。といっても、他の曲は、どうもよくない、というケースも多いです。

 

 日本の場合は、すぐれたアーティストでもほとんどが1曲です。しかもデビュー曲などに多く、アーティスト発掘というより、その歌1曲を見つけたという方がよいです。これは大いに考えさせられる問題です。

アーティストに力がありながら、その力を作品に活かせていない、デビュー後に力量を伸ばせていないのです。プロデューサーやスタッフなどまわりの問題も大きいです。昔から変わっていないのです。歌や声に関しては、レベルダウン著しいと言えます。

 演歌歌手に、ポップスを歌わせたり、トリビュート版を作ったりするような、企画はよいとしても、選曲やその完成度は評価できません。質がよくないのです。やってみた、歌ってみたのレベル、ファンサービスで、創造していないのです。いろいろと聞かせていただいても、選曲や作品のねらいに首をかしげます。

 

〇客のありかた

 

 ファンはその人が歌っていたらいい。曲が好きならば、それでいいのでしょう。日本のアーティストは自分の歌のよし悪し、レベル、どう歌えばもっと良く見せられるのかを知らないのでは、と思うほどです。うまく歌えば、すぐに評価される、そのまま、同じに歌っていればよい、これは日本の風潮です。

 声や歌について、クリエイティブではないのです。

 エンターテイメントとしてのみせ方で、向こうのマネから始めても、アーティストによってはかなりクリエイティブな試みをしているのと、対照的です。進行、構成、照明、すべてが、装置産業となりました。日本ではステージの設備投資が莫大で、赤字になるくらい凝っています。

 それは、目をつぶって聞くと関係ありません。音に対してのクリエイティビティや完成度への追及が、ずっと甘くなっているのです。

 

〇アーティストとトレーナー

 

 喉を壊す歌手が少なくなったのはヴォイトレの進歩でなく、そこまで使えなくなったということです。レコーディングレベル以上に、生で歌える人も少なくなりました。カラオケのようなリバーブの効果に頼り、表現よりも喉を守り、そつなくこなし、ビジュアル(ダンサブル、振り)で見せていく。作詞作曲での才能が、プロの証となっていったのですから仕方ありません。海外ではハードなバンドも、作詞作曲はプロがやっている例が多いのですが…。

 ファンをライブで、感動させているから、プロを続けられているのは、確かです。そのことは評価すべきことです。世界に向かうよりも、日本の、今の目の前の人に受けるように、というのが、今の日本のアーティストとでしょう。

 私は、アーティストがそのように活動するからこそ、支えるトレーナーが、それに迎合するだけではだめだと思っています。トレーナーの元に来たら、大きく変わらなくてはいけないのです。ただの調整なら、マッサージや整体などで充分です。医者の元へいけば誰でも即効的に声が出るようになりますが、すでに持っている状態をよくして出す、日々の疲れを回復させる。それは、調整で、トレーニングではないのです。

 

○能力発揮までの三段階

 

 例えば、走ることでは、天性のランナーがいます。走るのが好きで走っている人が選手になった、というレベルです。その人の生来の素質、精神、いわゆる心技体が向いていて、しかも日常でかなり接していたというケースです。

 走ったことがない人は、ランナーになれませんから、育ちが要因としてあります。毎日の生活に組み込まれているかでしょう。毎日10キロ通学していた子や、農業、漁業を小さい頃から手伝っていたという人は、日常の中で、体や感覚が鍛えられていきます。知らないうちに他の人のレベルを凌駕してしまうのです。

 両方と関わりますが、そういう人がたくさんいる中で、その人だけに突出したという、何かがあったということです。これは生来のものかもしれないし、育ち方、学び方に起因するのかもしれません。フォームを改良したり、努力したのかもしれません。素質や才能といわれるものとは区別しがたいです。

 つまり、ここまで、

 A.生来(DNA、生まれつきの何か)

 B.育ち(日常生活の環境での何か)

 C.A +Bの中で、更なる変化、他人に優れる何か、ギフト(天与のもの)とみてきたわけです。

 

〇日常生活とヴォイトレ

 

 声、話や歌は、日常にありますから、トレーニングを考えるにあたっては、両親やまわりの人、また遺伝的要素まで、深く関係してきます。しつけ、教育や遊びの環境とこれまでの生活に、経験ものります。考え方、性格の向き不向きも含めて、関係してきます。自分を知ること、それは一人ではできないから、トレーナーを使うのです。

 ヴォイトレは、声やことばや歌が生活と育ちのなかにあるだけに、わかりにくく見えにくいのです。トレーニングをしなくとも、トップレベルに近い人もいるし、トレーニングを10年しても、平均なところまでいかない人もいます。それでも向上するから意味はあります。ふつうは、日常の中に、どっぷりとつかっているから、そんなことがどう起きてきて、どうなるかを捉えられないのです。ヴォイトレは、必要と思わないなら必要でないし、声にも発声にも正誤があるのでなく、程度の問題です。

 体力のない人は体力をつけるだけで、声はよくなります。体力が著しく劣るのに、ヴォイトレしても限度がありますが、きっかけにはよいと思います。眠れない人は、眠れるようになることが、声が出せるようになる秘訣です。喉に病気のある人は、医者で治すことです。ここまでは納得できるでしょう。ここからが、大切なのです。

 

〇調整とトレーニン

 

 研究所には、お医者さんの紹介からもいらしています。ポリープ、声帯結節などは治療します。手術すればすぐによくなるものもあります。しかし、そのままでは再発する可能性が高いなら、ヴォイトレすることでしょう。

 他の人と同じ練習をしていて、自分だけなったというのなら、発声法や体質や環境、習慣などに問題があるといえます。同じ練習や同じ生活をしていると、再発しやすいです。

 5時間、声を張り上げて、声が枯れたら休んでも、今度は1時間、声を張り上げたら同じようになるのです。カラオケポリープも同じです。たまにしか歌わないから悪化しないだけです。整体やマッサージでほぐしても、元々の楽器や使い方に無理があるので、そこを改めなくてはなりません。

 喉の状態の調整では、しばらくの間の改善だけでしかないのです。いきつくところ、自分の器を知って、それ以上、ハードに使わないようにしようとなります。これまでよりも、ハードに使いたいのに使えない人は、どうするのかということです。

 使い方で負担をかけないためのレッスンが多いのですが、必要なのは、負担がかかっても耐えられるようになるトレーニングです。

 そのことがわかっていないのが、ヴォイトレの一番の問題です。この2つは似ているようで全く異なるものです。

 歌手や役者、声優、芸人のように、高いレベルで、強い声、タフな声を要求されているなら、調整は、準備体操にすぎないのです。声が弱い人がヴォイトレに頼ろうとするときに、発声法や呼吸法の問題と勘違いをしてしまいます。柔軟体操や準備体操ですべて解決すると考えているようなものでしょう。

 

○レッスンとトレーニングの異なる次元

 

 走ることを目的としていても、1.オリンピックで勝ちたい、2.マラソンを完走したい、では、求めるレベルが違います。1はスポーツ選手レベル、2はアマチュア選手レベルとします。そこに30分、5千歩も歩いたら、足がパンパンという人がいたとします。これを3.一般の人レベルとします。

 一般の人が医者やマッサージや整体に行ったからといって、どうなりますか。疲れはとれて楽になります。しかし、2、3カ月後に、2、3キロも走ったら、また同じことでしょう。

 毎日のトレーニングで鍛えて条件を変えていかない限り変わらないのです。1と2と3には、求められるレベルとして日々行うことに雲泥の差があります。

 ヴォイトレも同じです。習いに行って、リラックスしたり、発声法を変えて、その日に、よく声が出たからといって、発声が身についたわけでも、基本が身についたわけでもないのです。何も変わっていないのです。

 私自身、そういう見せ方も、一日セミナーでは使っていましたから、よくわかります。使い方を少し変えて状態をよくして声をとり出してあげると、皆、喜んでくれます。これだけでは、条件のどれ1つ、変わっていないのです。

 

○非日常化のためのトレーニン

 

 トレーニングが真にトレーニングといえるものなら、それによって明らかに、体や感覚が変わり、結果、ヴォイトレなら声が変わるものです。

日常のなかで、よく眠ったり心身が活性化されたりしたら出るくらいの声を目的にとると、声の出方で自分の体調などわかってくるでしょう。つまり体調が悪いと、声もひどくなるわけです。それが少し悪くても感じられるようになっていくわけです。そうして声に対する感度が上がるのはよいことです。しかし、それはトレーニングの前提であってトレーニングとは違うと思いませんか。

 たとえば、入院して療養する患者さんへのヴォイトレ効果―ヴォイトレしなくとも、気力、体力が回復してくると人並みの声が出るから、そこまではトレーニングの効果ではないのです。

声が機能的に出ないところでのアプローチやメンタルケアが、ヴォイトレのメインになっていることが多くなりました。病後の声に悩みのある人のリハビリと同じです。そこはST(スピーチセラピスト)の仕事です。歩く―走る、という日常のことを、話す―歌う、に例えてみました。

 

〇目標をMAXにしてから整えていく

 

 走りたいならマラソンのレースに出る、マラソンに出たいなら、オリンピックに出る、そのように目的をレベルアップして必要性をあげるとよいでしょう。すると、効果もすぐには出ませんが、出るとすぐわかるほどになるのです。日常を非日常化させてこそ、非日常が日常化していきハイレベルになるのです。その結果、条件が変わり、身につき、はっきりするということです。

 日々にやっていることをくり返すだけでなく、次のステップにしていくことです。

 マッサージして状態がよくなってそれでよいと思うか、ハードなトレーニングのフォローとしてマッサージを使うのかくらい違うのです。マッサージを否定しているわけではありません。日常生活で、階段50段上って疲れたからとマッサージを使うより、5キロ、10キロと少しずつ長く走って、無理を起こさないように使うということです。そこでステップアップのためにいろんなメニュを使った方がよいと思いませんか。ハイレベルに問わないと、声などは本当の効果がわかりにくいのです。

 

〇条件改良のための高目標

 

 私は、ヴォイトレも、マラソンの例えでいうと、オリンピックに出るか、かつよい成績で完走できるか、など、具体的な目的を設定するとよいと考えています。今のあなたからみて非日常的なものにしたいと思います。それを遂げたらすごいけれど、遂げられなくても多くは問題ないでしょう。高い目的を持った方が、結果として条件改良を強いられ、早く向上できます。

 日本人は、まじめでいけません。「それは無理だと思います」「そこまで望んでいません」という人が多いのです。そんなことはわかっています。

 万に一つもあなたはオリンピックに出られません。でも、そのレベルの設定で行うからこそ、日常から変わってくるのです。市民マラソン完走したいのなら、それを目的にするよりもオリンピックを目的にする方が、ずっと早く、確実に成し遂げられる可能性が高まるということです。

 高めに、できるだけ具体的に目的をとりましょう。

1.世界の一流を超える(オリンピックの金メダル)。

2.世界の一流と並ぶ(オリンピックに出場)。

なら、日本で通じる選手になれる可能性がずっと高まります。

 

○一流への基礎づくり

 

 海外での経験が先であった私は、研究所でも、世界の一流のアーティストが鍛えられ、成立するレッスンやトレーニングというのを、常に念頭において考えてきました。それを実際に海外のトレーナーやアーティストと試みたこともあります。

 そういう体や感覚をもっている人は、その場でできます。そこで、私が一番感じたことは、欧米、いや今やアジアも加えて世界と、日本との、声の質感、声量の差だったのです。

 これは、テーマパークの催しものやミュージカルでさえ、外国人の出演者の声を聞いたら、直に感じることです。歌は、音響技術でカバーはできますが、声のインパクトや個性の差は、埋まりません。

 研究所には、ハーフやクォーターの人、帰国子女もいます。日本に染まっていない人ほど日本人でも声が出ます。歌謡界での、韓国勢の力をみてもわかるでしょう。今始まったことではありません。昔からです。スポーツも同じです。立場上、本人の努力も並ならないものとは思いますが。

 世界の一流のアーティストが来て、対応できるレッスンやトレーニングをセッティングすること。一流を超えるものを想って、あらゆるものを考えていたのです。そうなるほど、メニュが基本の基本に戻るのは、どの世界も同じです。

 

〇状態を使い方で変えるヴォイトレの盲点

 

 私は、声の弱者のためにメンタルとフィジカルの勉強をしました。これは、声の強者の基礎づくりのために、最初はアプローチしていたものです。

1.体と感覚の条件の違い―鍛え方でフォローする。

2.体と感覚の状態の違い―使い方でフォローする。

1は、どっぷりと日常のなかに入っています。そこでレッスンとなると、どうしても、2が中心になります。体や呼吸を使うというのは、難しいのですが(使えているなら使っているので)、軟口蓋をあげるとか、顎を引くなどの方法は、わかりやすいからです。声楽的な教えでは、そうなりがちです。でも軟口蓋を上げてもどこかで限界でしょう。これで1、2音高い声が出るようになったり、軽く響きやすくなったり、変わるところまで行い、そういう面をチェックするのです。

 このとき、よくなった面を、トレーナーは指摘しますが、実のところ、それによって、よくなくなっている面もあるのです。それを同時に知らせることやカバーすることはできないと思います。多くのトレーナーが気がついていないこと、そこが問題なのです。

 何も言えない理由にこだわり、気にしてしまうと、悪くなることがあります。しかし、相手をみて、よし悪し、両方について伝えるように努めています。

 一つのレッスンやトレーニングは、大きな目標を遂げるために、ある小さな目的や時期に対してあります。それは優先度や重要度において、全く違います。そこで優先する目的だけしかみないでやることで、ある面においてデメリットが生じ、大きなリスクがあるのです。

 

〇養成所時代

 

 どのトレーニングも、大きな効果を早く求めるとなると、個別に(人によって)どれくらいを、どのペースでやるのかを、丁寧に扱う必要があります。大きな効果と、早く出る効果は違います。

 私自身、最初は一般の人にもかなり大きく目標を与えてきたと思います。体育会系のように「毎日10キロ走れ」と言うようなことです。こうすると、条件に恵まれた人は、ついてこられますが、それに劣る人は、努力しないと、あきらめざるを得なくなるのです。当時は平均年齢20代前半、しかもプロ志向が強い人ばかりでした。劇団の養成所の厳しさからみたら、私のところなどは甘いところでしたが、声について、厳しかったのです。

 

 レッスンは私と対するのでなく、一流のアーティストの音源に対して挑ませました。トレーナーがアーティストの才能を潰してはいけない。それゆえ、一流のアーティストとストレートに対させることしかないのです。そのときは、私はいないわけにもいかないのですが、できるだけ、無となることが必要でした。

 

 私のグループレッスンは音源を聴いて、そのフレーズでのアプローチ、そことオリジナルの創造をメインとしていました(そんなレッスンだけができたのが、1990年代の半ばまででした)。

 個人レッスンでは、ピアノの音にのせて声でのアプローチです。話はしません。自分の声、それを通しての体や感覚に、一心集中して、何か変化の生じるのを感じて欲しいからです。

 

プロがプロに行うレッスンは、プロが一般の人(お客さん)に行うレッスンとは、目的もレベルも全く違います。ヴォイトレのワークショップでは、一般の人の心身をほぐし、リラックス、楽しさ、コミュニケーションの力での発声、メンタルの改善が中心にあります。私は、これを「マッサージ効果」と言っています。

 それに対して本当のレッスンは、厳しく孤独に、緊張を強いられます。そこでコツコツと重ねていくので静かなのです。

 

○外国人のトレーナー

 

 海外のヴォイストレーナーについた日本人が、ほとんど実質上の効果をあげていないのは、どうしてかと聞かれたことが何度かあります。本人に効果をあったと思わせるようにセットしている点は、ワークショップと似ています。そもそも、トレーニングというのは1回や2回、1日や2日で変わるものではありません。著名なトレーナーほど、そこにはハイレベルで条件の整った人が来るのですから、なおさらです。条件にふれず、状態を状況で改善しているのです。

 私は多くの外国人トレーナーと会いました。ここに招いてレッスンを引き受けてもらった人は相当な数です。ハイレベルなトレーナーほど声質だけをみるので困るのです。オーディションにおけるプロデューサーと同じです。それでは、自ずと声の繊細な調整となります。バランスの良さを重要視しますから、結果として、カラオケの先生の指導のようになってしまいます。それはチューニングで、楽器作りではありません。

 一流を育てている外国人のトレーナーは、日本人特有のくせを解せず、喉をより締めることにもなることも少なくありません。向こうでは通じるやり方では通じないのでリラックス状態を中心にした、メンタルトレーニングに移しているのです。

 私は彼らに、声を褒められたので、悪くは言いませんが。コミュニケーションを中心にして、褒めること、リップサービスは、日本のトレーナーも見習っているようです。そうして音楽に関わっているもの同士のコミュニケーションの手段や場のように、レッスンがなってしまうのです。

その状況は、あまり好ましくありません。「欧米に習え」の時代を思い出します。まだまだ彼らと対等になれていない悔しさを感じます。

 真のレッスンなら、ぶつかって当たり前です。反論する人もいない。トレーナーがどうも、そういう肩書に接し、形としてのキャリアをもらうことに払っているようです。

 学びに行っていると、効果が出るはずなのに、私の知るところ、海外に習いに行った人はたくさんいて、本当によくなった人は、ほとんどいません。歌がよくなったという人はいますが、声、ヴォイトレのトレーナーがあげている、育てた人リストなどは、声や歌では活躍できていない有名人です。実績はほとんどありません。

 

○全体と個

 

 それでは、個人の問題として、声を強化したり変えるには、どうしたらよいでしょう。

 たとえば、「黒人は足が早い」という現実を目にして、彼らに勝ちたいと思ったら、何をしますか。

 欧米人が考えるのは、まず「ルールを(自分に有利に)変える」、次に「本番の場を変える」。スポーツでは日本人選手も、これでハンディを負わされ、潰されてきました。ビジネスでは、もっと悪条件を与えられました。しかし、そのことで、相手よりも努力して優れていったのです。

さらに「ヘッドハンティング」があります。これはプロデューサーの仕事です。たとえば、海外から優れたものを持ってくるだけでも、日本でヒットさせられるのです。

 最後にようやく、彼らを分析して、それと同じように育てようとなります。

 一流の人と自分を書き出し、比較し、分析してください。

 研究所では、現場での習慣と環境を与えようとしました。ピアニストなら、音源と楽譜とピアノ、バレリーナならDVDとスタジオ。私のところでは音源とスタジオとなるでしょうか。防音スタジオも環境の一つです。優れた人のデータを入手し、体や感覚のギャップを補うメニュを与えます。

人生や仕事での成功の秘訣は、時間をかけて組み立てることです。私は、成功ということばを使うときは、用心しています。

 要領よく、てっとり早くやりたいということに焦点を合わせていると、最終的にはそうなりません。具体的なようで、実のところ、あいまいだからです。優れた人になるために、優れた人とのギャップをみて、具体的に埋めることです。

 

〇プランニング

 プランニングとは、その名の通り、計画ということです。

1.モデルの選択、把握、目的をおく。レベル―ある人物(→作品→歌唱→声)を想定する。

2.現実を把握、分析する。自分に欠けているものを知る。

3.アイデア、ギャップを埋めるアイデアを出す。

4.プランニングする。アイデアを入れ、スケジュールにする。

5.トレーニングを実行する。TO DOリスト(today)の厳守。

 

 アドバイスとしては、周りの人(大体、自分と同じレベルの人)と同じことをしないことです。そして、一流の人の頭で考えられるようにしていくことです。そういう人にアドバイスを求めてチェックすることです。

 ここがわからないと大して効果はありません。

レッスンに通うのでなく、レッスンで変わることが大切です。大した効果が出ないようにみえたら、出るまで続けていくのです。通っているだけでなく、変えていくことです。環境と習慣の方を変えるのです。

 すぐにできるなら、レッスンもトレーニングも必要ありません。毎日、走らない人が、いつかマラソンに出て完走することはありません。

 アーティストは、自らのルールを決めています。声や歌を考えるためのツール、アーティストやプロになるのに役立つツールはあります。

 

腹式呼吸を例に

 

 一流のレッスンとトレーニングは、一流に目的レベルをセットしたものです。しかし、一般の人でも、一般向けのトレーニングや初心者用トレーニングを行うよりも、私は最初から一流に、ハイレベルにセットすることを勧めてきました。

 基本の体―呼吸―発声―共鳴(母音、子音)などを、一般レベルでみると、逆にわかりにくいからです。腹式呼吸は、一般の人でも、およそできています。これを横隔膜呼吸などと、名称や定義を変えても、科学的に理論的に説明しても、本質から離れるだけです。

 本質は、直感的に腹から声を出していると周りもわかる声になっていることです。お腹から声が出せている人と出ていない人がいるというのは、明確な差として、現場での感覚、イメージで捉えられています。

 「軟口蓋を開ける」「助骨を開く」というようなアプローチは、レッスンで好んで使われる表現です。本などで、読んで知っていることでしょう。そういうことも本当のベースが伝えられていないのです。それは、頭では知らなくてもよいからです。

レーニングで、意識して、自覚して体から動いていないから、トレーナーが注意するのです。腹式の呼吸ができていないと、肩や胸が動き、発声の安定がよくならない、それは理屈です。呼吸からやり直し、とトレーナーは言うのです。

 

○ギャップと時間

 

 トレーニングですから、できている人はできているという状況の事実を知ることです。

それをイメージして、

できていない人はできていないというギャップを把握する―A、

それをできるようにしようと意識する―B、

そのギャップをうめるために行動する―C、

をセッティングします。

 それが行われていたら、トレーナーは、黙って時間を待つだけでよいのです。

 

 多くの場合、このプロセスが雑なのです。細かく把握し、再セットします。

できないということが、1.姿勢、2.呼吸、3.発声、に起因していたら、それぞれに、また再セットするのです。多くの原因は、その一つでなく、全てにギャップがあり、足りないことです。

 そのアプローチを、どこからチェックするかは、トレーナーや、その人によって違ってよいと思います。しかし、それだけで全てよくなると考えられると困るのです。

 

○程度という問題

 

 昔の芸人や職人は事実より、真実を知っていました。それは見えません。暗黙知です。教えて直るようなことではありません。教えたくらいで直るなら直っているのです。だから教えても仕方ない、だまってくり返せということでした。

 トレーナーが、目先の効果でしか考えていないと思われることが多くなりました。ちょっとしたアドバイスで、ちょっとした効果が出て喜んでいる人を見ているからでしょう。

 最初にわかりやすい効果を出さないと、信じないし、そうした効果を毎日出し続けないと来なくなる(他のところに行ってしまう)という、今の人の学びの浅さも要因です。そして、こうして学んだ人がトレーナーになって教えているから、さらにそうなります。フィジカルや整体などの分野では、顕著です。

 体については、声よりも研究され、実績も理論も練られて、わかりやすいです。そこで私も体からのアプローチを声の基礎の基礎にしています。しかし、だからこそ陥りやすいワナがあるのです。

 「5分で○○ができるようになる」に対して、「だから、何になるのか」というのが、私の見解です。痛みがなくなるとか、楽になる、楽にできるようになる、という健康や医療面のことなら、口を挟みません。外見の魅力やファッションアピールのことなども論外です。

 肉体を変える、声を変える。その人の価値観ですが、声を磨く、そのために体も鍛えられる必要があるわけです。

 

〇基本と応用

 

 ヴォイトレも「5分で…」というのは、それで一つのアプローチにはなります。入口はどこでもよいでしょう。問題は、入り口なのか、最初の一歩になっているのかということです。

 私のところでも、「基本ができないと、次にいけない」とは、言いません。基本も程度問題だからです。基本ができなければ、応用の幅や深さが狭まります。次に行けないとしたら、基本が基本でないのです。

 一流のアーティストは、そんな表向きの形を直感的に無視して、固めるべきところを固めています。

 フィジカルトレーナーでも、一般の人が相手なら、あるいはテレビ用になら、そういうことをマジックのようにやります。

一流のトレーナーなら、対応するアプローチをもっているものです。歌や声、感性は一人ひとり違います。どこからアプローチして、どのくらいしたら、次に移るのかも違います。

基本と応用との問題は、一般化して説明しにくいものです。私は応用できてこそ基本、だからこそ応用を高い目的レベルで設定して、基本を高められるように、セットすることを勧めているのです。

 

○ワークショップ

 

 ワークショップのもっとも大きな問題は、そこで行われていることが、レッスンやトレーニングへの前提、導入になっているようでなっていないことです。次のアプローチがないという点です。気づきとしてあっても、同じライン上に並んでいるだけです。実際は、その後に交わらないし深まらないことがあげられます。チェックや現状把握として終わっているのが大半です。

 多くのワークショップを受けてきた人を、たくさん見てきました。それよりは一つのワークショップを長年続けて受けている方がよいくらいです。理論や方法などというのは、それが消えてから身につくということを知っておいてください。

 ゴスペルやコーラスを何年もやっているのに、ソロでは音をはずすような人は少なくありません。日本では、いくかのクワイヤともやってきましたが、外国人やリーダーはよくとも、あとの人はだめ、ほぼ育っていないのです。

 

〇チェックと自覚

 

 目的が違うといえば、それまでですが、チェック機能、自覚のなさは、問題です。皆で声を合わせて応用しているだけでは、基本を深めることに役立っていないのです。

 歌っているだけの歌い手の歌も、あるところから変わりません。話のスタイルも、中学生くらいから、手振り身振りとともに多くの人は変わらないでしょう。話し方やトーンのことです。セールスマンや水商売など、技量がすぐに結果で問われるような仕事についた人は変わります。それだけ厳しいということでしょう。

 レッスンも、うまく歌えること以上の結果(応用)が現れるところにおいて、基本を学ばなくてはもったいないです。私は、早い時期から一流アーティストの一曲のトレーニングをメインにしてきました。一曲が無理でも、一フレーズなら使えます。一フレーズが同じレベルで歌えないのに、一曲歌えるわけがないのです。

 ですから、基本は全て一フレーズです。あとは任せています。それ以上のことは、あなた次第です。ただし、せりふや歌のチェックは細かく厳しくやっています。

 へたな作品でなく、一流のアーティストの共通要素から、学んでください。

 

○質と個人のレッスン

 

 研究所は、量の時代を経て、質の時代に入りました。いくら量だけを与えても、自分で365日やっているアーティストには敵いません。そこでトレーナーに質のチェックをさせています。

 レッスンでは、課題とのギャップの現状を把握させます。そして、その改善をアドバイスします。大切なのは、把握と次への問題提起です。

 毎日、そのように自分で行っていくことです。ハイレベルな課題なら、月に1回かのレッスンでも賄えます。しかし、普通は月8~12回くらいのレッスンは必要に思います。

 自分にあったものを否定するのではありません。そこは自分でやればよいのです。より大きく変わるために、自分以外の、一流アーティストの感覚(複数の方が無難)にどっぷりと浸って欲しいのです。潜在的な可能性を開花させるためです。

 一回が何分とか月何回などにこだわる人が多いのですが、問われるのは質です。時間や回数でなく、続けていくなかで相乗効果をあげていくことが大切です。語学やスポーツと同じ、いやそれ以上に、声には連続の上での飛躍が大切です。

 自分の状況が自分で変えられないうちは、できるだけ重ねてレッスンするといいのです。変えることは、体力、使い方、状態、そして何よりも条件、です。変えられないうちは、トレーナーとマンツーマンで向いあうとよいです。

 

○滑舌

 

 声優、ナレーターのように「滑舌をよくしたい」なら、私の本のCDで、優れた声優をまねると、人並みになります。それを続けながら、基本(体―呼吸―発声―共鳴)に戻していくことです。そこは人によって異なりますし、その人が何をどこまで求めるかによります。

 新人アナウンサーレベルから実力派といわれたいのなら、滑舌などは一つの条件にしかなりません。そのことを早く知ることです。かまないでスラスラ、日本ではそれで出ていける人もいますが、そのうちやれなくなります。声、表現力、演出力をつけていくなら、芸人、役者や歌手のようにハイレベルでナレーションや、声優の仕事もこなせている人をめざしてください。本質を捉えて本当の地力をつけていくことが大切なのです。

 

○自分のメニュづくり

 

 対処法は、その時その時にある力の方向を変えることです。トレーナーのメニュは、大体そういう大きな叩き台です。健康法と同じで、あなたにすぐ合うのも、しばらく合わないのもあります。今、合わなくても、合っていくものが重要です。口、舌、喉と一人ひとり違うのです。ハイレベルにみると、どれとして同じものはありません。

 自分のメニュが作れたら一人前です。ヴォイトレでは、これは難しいことです。そうなると、合わせやすい難のないメニュが選ばれるからです。

 

 本研究所のサイトにもたくさんのメニュがあります。全てをやる必要はありません。どう選びどう組み立てるかが、あなたの上達を決めていくのです。

 私のところは声楽でも8つの音楽大学から十数名のトレーナーを招いています。これは、日本の発声の縮図です。音大に行くよりも発声の研究ができると、クラシックの人もいらっしゃいます。習うとか教わるとかでなく、ここは、自分の研究をする研究所です。

 

○感覚とギャップを埋めるための鍛え方

 

 声の学び方について、輪郭が見えてきましたか。一流の人からどう学ぶかは、「読むだけで…」(音楽之友社)に、詳しく述べましたが、前提として必要なのは、一流の耳作りと感覚作りです。声楽の人も邦楽の人も、参考にしていただければよいと思います。

歌謡界では、藤山一郎淡谷のり子さんなど、昭和時代は歌の名人が輩出していました。かつては一般の人もクラッシック歌手には一目おいていました。TVにもよく出ていました。

一般的に知られた人では、立川清澄、五十嵐喜芳中丸三千絵鮫島有美子、森久美子、中島啓江さんなど。山路芳久さんは早逝しました。

 平成に入り、レベル的には底上げしたのに、有名な人が出ないのは、残念なことです。

 

 そういうプロセスで、レッスンやトレーニングは、誰かに合わせて行うものではありませんが、基準の喪失が惜しまれます。そこを変えていこうではありませんか。

 

 感覚や聴覚、楽器としての声、発声器官の調整と改善、補正、強化です。それは筋肉や神経レベルでは解剖学的な話になるのですが、軟口蓋や喉頭の位置のような話になりかねません。共鳴、発声、呼吸、筋肉などを自覚して、感覚から体を変えていくようにすることです。

 総括的なところでなく、部分的に捉えていくと変わります。関わりにもいろんなパターンがあります。より高く、より大きく、より音色、よりバランスよく、よりコントロールできるようにしていくのです。

 

〇メニュの使い方

 

目的によってメニュも判断も違います。仮にメニュは同じでも、判断を変えることになります。

 今のヴォイトレは、部分化しているため、○○のための○○のメニュとなっています。「○○のメニュを行うとこうなる」というのが、形だけになっていることが少なくないのです。「軟口蓋をあげる」ようなことは、「リップロール」「タンギング」「ハミング」などでの使用も同じことがいえます。

 これは、私だけでもなく他のトレーナーも、指摘しています。形だけなのか身についているのかは現状を見なくてはわかりません。メニュとして使っていけないものはないのです。

 整体で「ツボを押す」となっていても、押し方によって、効くことも効かないことも、悪くなることもあります。それは相手や状態にもよるのです。同じようにいかに柔軟に応用できるのかが問われているのです。

 

○基準と材料[E:#x2606]

 

 私は理論、メニュやQ&Aをたくさん公開しています。「考えるな」と言っても人は考えてしまうから、それならとことん考え尽して考えるのが切れるのを待てばよいのです。私が考えておくことで省けるでしょう。

 トレーナーは、説明して、自信をつけたり、信用させたりしなくてはいけないので、過度にそのようになりやすいものです。その人の才能を見つけることが、おろそかにされていませんか。

 

 私はトレーナーをも見続けてきました。アーティストだけをみるのでなく、トレーナーの指導とのペア、組み合わせということに敏感です。[E:#x2606]

 

トレーナーは何にでも応じて、話だけのカウンセラーになってはいけません。広げた分、浅くなります。声を育てること以外については、応じるのには慎重であるべきです。勉強は広くすることですが、応じるのは狭く深くとなります。おのずと他の専門家とのネットワークが必要になります。

 

 「こうすればこうなる」という図式を疑うことです。方法やメニュよりも基準と材料ということばを私が使うのは、そういうニュアンスをこめているからです。

 ことばはキーワードとなり、レッスンに有効です。しかし、イメージがうまく共有できないなら、誤解の元、害にさえなります。こういう文章も同じです。だからこそ、毒をもって毒を制する、つまりトレーニングとして、有効なのです。

 

〇第一線へ

 

 アーティストで、一人でうまくできるようになった人は、必ず私の述べていることを自ら実行しています。別にどこかのトレーナーのメニュを使わずに、第一線にいるのです。

 ですから、トレーナーは相手を自分の才能の範囲で判断して、自分の下においてしまうことに用心しなくてはいけません。

未知の若い才能に、自分の解釈を強いてはいけないでしょう。

 声楽家には、「他の指導を受けてきた人はくせがついているからよくない。真っ白の人がいい」とよく言います。その人が世界一流の人でもなければ、あるいは確実に全ての人を一流に育てていなければ、同じ穴のムジナです。その人が教えた人も他ではそのように言われているのです。

 

 人間関係を最大に重視するトレーナーは、その人のために、いろいろやってあげようと思うものです。しかも自分一人でなんとかしようとして、大体は、もっともよくない結果を招くのです。

 一流の条件について、ヴォイトレとトレーナー自身がよく陥る点について、注意を促してきました。

 

〇トレーナーの割り振り

 

 どういうトレーナーを選ぶかは自己責任です。選んだ以上、選んだトレーナーをどう使うかが大切です。メニュもトレーナーにも当たりもはずれはあります。しかし、そこからみると大したことではありません。

 私はセカンドオピニオンをやっています。ここに通うようなことは、立場上、勧められません。ここに来たいという人にも、その人のトレーナーのために、お断りしたり、他の専門家を紹介することもあります。

 そこをフェアに扱うようにしておかないと、問題でないことを問題にしてしまうことがでてきてしまうのです。特にメンタル面です。

研究所に私を訪ねて来た人を、他のトレーナーに割り振るのは、とてもよいことと思っています。

 回数や時間も大切です。しかし、すべては目的や必要度で決まってくることです。基礎の基礎を求めてくる人が、まず一通りの基礎を学んでいくのは悪いことではありません。

 

○理詰め

 

 私はトレーニングについて、理詰めを徹底して使えばよいと思っています。

 多くの問題は、「○○では△△できない」です。これは「□□では△△できる」という、声の程度の問題です。声が出ている以上、ゼロではないのです。できないというのは、すでにできている延長上できていないのですから、その間を詰めます。その必要があるのかも問うことです。

 トレーニングは器作りですから、細かなことは後まわしでも構いません。

「高いところで音程が不安定」なら、「低いところは音程が安定」かをみて、そこから片付けます。どの音から不安定になるのかをみることが、一般的な教え方でしょう。

 高いところの声がコントロールできないなら、音程練習の前に、発声を中心に行うとよいでしょう。一見、本人の目的を違う目的より優先させなくてはならないことになります。

 「高音域で声量がない」というなら「低音域で声量が出る」かをきちんとみます。

 (詳しくは音楽之友社の「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」に述べています。)

 

〇次元のステップアップ

 

 声の場合、問題になっているところほど、へたに手をつけないことがよいでしょう。本人がいろいろとやると、くせ(限定)がつくからです。それを忘れて、違うアプローチをしていると根本的な解決に結びつきやすいのです。

 コピーバンドでの歌手を目指すと言われた場合、初心者なら、コピーしていくとよくなりますが、ベテランは、引き受けるときに充分に考えます。

 ベテランの役者の発声は、すでに日本語では使いつくしているので、イタリア語の朗読やオペラ歌唱をやることもあります。状態でなく条件を変えることにより、日本語で広がった日常性をイタリア語で切るわけです。そこで「次元がアップ」するのです。

 この次元アップの積み重ね、これがクリエイティブなレッスンです。

 AもA’もできないとき、その答えを2つのどちらかやその間で探すのでなく、自分の器(体、感覚)を大きくすることで、上の次元のCで解決していくのです。もっと上位にある見本を開いて、感覚を同化していくのです。まねるのではありません。

 

○まねるな

 

 歌や声は、一流であるゆえに一流のオリジナリティ、それは、その人なら正解なのを、他の人がやると間違いになるというものです。

野球で名選手の王貞治と張本、野茂、イチローなどのフォームをそのまままねてはいけないのと同じです。

一流になるなら、一流を超えるためのレッスンが、必要だと私は考えています。そして、一流の人が来たら行うヴォイトレを、一般の人にも与えていたいのです。

 そこで、理解しにくいことや手間のかかることは、研究所のトレーナーたちが補充してくれています。ここのトレーナーは、その師や先輩とは同じにはなりません。私とも違います。トレーナーに独立性を与えているからです。

生じ私をまねしようとする先輩では、小坊主のように害になりかねません。初心者にはわかりやすくて受けはよいでしょう。しかし、一流になるべき人にはプラスにならないのです。日本の師やアーティストは一門を構え、そういう人をそばにおいて重宝して、守りに入って、だめになってしまうのです。

 

〇基礎のメニュ

 

 基礎のメニュはシンプルです。スケールトレーニング。それは、

1.同じ音を3つ、もしくは5つ。

2.ドレミレドのスケールで、これをテンポ、声域やことばを変えて使います。長さを変えることもあります。

3.半音シドのスケール。

もっとていねいにみるのに使います。使い込んでいくのです。

これらを応用するだけで、テンポ、リズム、音感、ハイトーンも他、中音域、高音域、ロングトーン、スタッカート、ファルセット、ハミング、すべてできます。基本はレガートです。

 

○「何を」でなく「どう」使うか

 

 ヴォイトレには、いろんな種類のメニュもあります。音程の広いもの、特殊なリズムもあります。それらは早口ことば、演出加工した声と同じです。声そのものの育成の目的から外れていたり、外れた使い方をされているのです。

 カラオケと歌唱ヴォーカルアドバイス、ヴォイトレは分けておくことです。総合点なトレーニングとして、他のパートの強化トレーニングの中で声も育つこともあります。声に接点がついていればよいともいえます。

 そこを声の芯(ポジション)、音色(トーン)、コントロールなど、楽器のトーンコントロールのようなことをしていく。これが最もヴォイストレーニングとしてふさわしい考えです。

声にそこまで求めない人は、せりふのトレーニングを人一倍やっていたら、声量がついてくる式のトータルトレーニングでもよいでしょう。その段階にていねいなヴォイトレを入れたらよいのです。

 

〇私のヴォイトレ

 

 私のヴォイトレは特殊なもののように思われるかもしれませんが、声の自然に育つプロセスを、一般の人ではなく、一流のアーティストレベルから持ってきているものです。正しいとか、間違いなどはないのです。

私のが正しい方法、他のトレーナーが間違った方法とは言ったことはありません。それなら私は一人でやっています。いろんな力がついて、総合的に器が大きくなっていけばよいのです。大らかさも大切です。

 

〇保留する

 

 方法でなく、一流の感覚、完成の影響下で自分を一時離れることです。捨て、殺し、保留するのです。つまり、()カッコに入れておくことです。

 追いすがっては振りほどかれ、また追いかける、一流のアーティストに憧れ、一流になっていった芸人たちの後追いをする、それ以外に真の上達はないのです。

 レッスンでできることは、トレーニングがそのようになるように目的と必要性を高くセットするということです。それコソトレーナーがすべきことです。

 

 基本の基本と応用のための基本、これについてイメージしてください。充分な情報は与えますが、それを使えるために、あなたに基準が必要です。それがなければ、それを得るまで、まず学んでいってください。

 

 多くの人の才能が開花させられるように、この研究所をつくり、日夜、声の研究をしています。あなたも、そのように自分の声の研究をし、創り直し、声を、表現力を活かしてください。そして、必要なら、この研究所を活かしてください。