○姿勢とスマートスーツ
眼鏡も医療機器だったのですから、義手義足もメガネのようにファッションとなるでしょう。センサーや筋肉の電気処理技術の発達に加え、3Dプリンターでの造形が支えます。廊下に立たされたのび太は、ドラえもんから「ゴルゴンの首」を借りて、足を石にして疲れないようにしたのですが、スマートスーツは、それ以上の働きをします。必要なときだけ硬くなって座れる人工イス(足)のような製品になるようです。
姿勢については、こうした文明の利器でサポートを行えるようになるのです。懐メロのステージで車イスで登場した歌手がいましたが、遠からずして、そうなっても真っ直ぐ立って歌える日が来るでしょう。とはいえ、腰痛ベルト(コルセット)のように、頼りすぎると筋力低下につながりかねないので、自助努力に努めましょう。
○音のネットワーク
ウェアラブルコンピュータは、アップルウォッチほどに小さくなりましたが、この先、メガネ型や指輪、皮膚への埋め込み型となっていくことでしょう。SF映画でおなじみですね。
元をたどると、これはスマホ、携帯、電話と遡ります。その機能は、声と聴覚を結びつける拡張技術でした。音声を電信信号にして電線で伝え、また音に戻して伝えたのです。すでに世界中に電話、電線のネットワークがあったことが、瞬く間に普及した要因です。
○心の数値化
スマホでは、歩数計が使われています。(今は、万歩計とは言わないのでしょうか。)それと同じく、身体の情報がすべて数値化されて記録・管理される日は近いでしょう。
体の次は心、つまり、情動を数値化することになるでしょう。喜怒哀楽といった感情を記録するとともに、それを制御するアプリが使われるようになるでしょう。
○声の身体性☆
他人にくすぐられるとくすぐったいのに、自分でくすぐっても、くすぐったくはないですね。ロボットアームでくすぐると、どうでしょう。自分で操作すると、やはり、くすぐったくないのですが、0.2秒以上の時差をつくると、くすぐったいそうです。
イグノーベル賞での「スピーチジャマー」では、0.2秒、話声を遅らせて(delay)本人の耳に届けると、まともに話せなくなるのです。それは、自分の声を脳内で聞きながら話しているからです。声のディレイで話しにくいのは、国際電話やスカイプなどですが、そのため、そこでは、それを妨ぐエコーキャンセラーが使われています。
こうした聴覚の発声からのフィードバック機能は、声の大きさでもみられます。周りの声が大きいと、私たちも、つい声が大きくなるのです。ステージの歌で、よく失敗するのは、モニターの返しが小さいため、無理に大きな声を出してしまうことです。
こうして、声も身体性に深く根差していることがわかります。
○現実、世界、リアル☆☆
現実の世界は、私たちが主観的に感じて組み上げているので、現実そのものとは違います。その現実感をリアルといってきました。
現実とか世界とか、リアルというのも、混同されて使われています。ここでいう現実とは、物理的世界のことで、そこに私たちが感じ取る世界は、五感などを通して捉えられた世界のことです。
視力のない人とそうでない人では、みえるものが違います。赤外線ゴーグルをつけた人は、闇のなかでもみえるので、つけない人とは全く違う世界をみます。
現実と現実感は違います。「世界」と言うときも、物理的な世界と私たちのみる世界というのでは、違うのです。
○芸術のリアル☆
芸術の多くは、いえ、ややこしいので、たとえば、舞台の演劇としましょう、それはまさに虚構の世界です。しかし、そこで私たちが共感してリアルを感じます。現実以上に現実感を感じることがあります。それをリアリティとかリアルと言って、求められてきたわけです。
それは、観る人、聴く人、感じる人のなかに生じることです。もちろん、劇なら演じている側が役に没入しているから、そう働きかけるのです。
フィクションは、ノンフィクションでは伝えられないものを伝えるためにあります。とはいえ、純粋なノンフィクションはありえません。どこまでも主観的に捉えた世界に、私たちは生きているからです。
○主観と客観
アインシュタインの示す世界は、ニュートンが示す世界よりも物理的世界というようなことになります。でも、私たちは、リンゴが落ちるとみえる主観的世界にいるので、リンゴを地球が引っ張っているというニュートンの世界は、充分に、物理的=科学的です。主観的ではなく客観的といえます。
一方、宇宙の視点まで広がったアインシュタインの世界とても、絶対に客観的ではないのです。数字や科学だけでなく、物理もまた、純粋に物理的世界ではないといえるからです。
でも、そんなことは、3次元の今に生きる私たちには大した問題ではありません。自分のなかでさえ、主観的な捉え方は、刻々と世界の様相を変えるのですから。
○人の目
ニュートンは、物理学者で、プリズムの実験では、光を七色に分けてみせました。色によって屈折する角度が違うことを発見したのは、18世紀初頭のことでした。
そこから1世紀ほど後、ゲーテは、色彩論で反論します。プリズムを目に当て、白と黒の間に色をみたのです。そして、色相環や補色の関係を導き出したわけです。人の目があって、自然の光がそうみえるということです。
マゼンタ(ピンク)の波長はないのに、私たちは、虹では、両端にある赤と青という色、つまり離れた波長を同時にみて、合成してみているそうです。ディスプレイは、RGB(赤緑青)の比率でフルカラーの画面をみせています(ヤングヘルムホルツの3色説)。現実ではそうではないのを、私たちの目が、そのようにみているということです。
○光より音が速い☆
物理世界では、光速は30万キロメートル/秒、音速は340メートル/秒ですから、光は音よりずっと速いのです。花火では「ピカッ」と開花して、しばらくしてから「ドーン」です。
しかし、40メートル内になると、目よりも耳、視覚で捉えて動くよりも、聴覚で聞いて動く方が速いそうです。この知覚の差を、脳は、同時に感じるように補正しているというのですから、ややこしいです。
私は、かつて、スタートの合図には、ピストルの音が速く届くので使われると聞いたことがあるのですが、この点は、どうなのでしょう。
○3Dから4DXへ
錯覚や錯聴は、実際とは違うのでイリュージョンとなります。しかし、そこにリアル感があり、本物以上の体感を与えると、現実以上にリアルなシミュレーションゲームができるのです。それは、誰もが映画でも体験しているわけです。3Dから触覚、嗅覚なども含めた4DXとなっていくのです。
○声の可視化
バレエやダンスの練習では、動きやポーズを鏡の前でチェックします。それに対して、声や歌では、録音の再生でチェックするのです。音声の分析がグラフでリアルタイムに表示できるようになったので、それを参考にチェックすることもできます。
ここで大切なのは、人の耳でチェックできなかったものが、可視化できることで何が変わるかということです。
車も、バックミラー、サイドミラーをアラウンドビューモニターでみるようになると、死角がなくなり、駐車するのも楽になります。音を遠くへ伝えるように、モノを3Dスキャンと3Dプリンターで飛ばせるところまできています。
ひと昔前であれば、超能力や魔術と言われたであろう能力を、今、私たちは手にしているのです。
○分人☆
個人individualを役割で分けた分人dividualという概念があります。元より、一人の人間であっても、いくつもの顔をもって、人々は行動していたのです。どの社会でも自分に求められる役をいくつか演じ分けてきたといえます。
○情報化と身体性
人が、身体の制約から解放される一方で、身体性を求めることは、なくならないはずです。テレビでみて、興味をもてば、その現場に行ってみたくなるわけです。何かで聞き知って、ライブに行くのと同じです。どんなに武器に戦闘能力がついても、人は、人と人が至近距離で戦うのをみて、興奮したいのです。
○イタリアの大声、日本の馬鹿声☆
「戦さがなくなり、平和が50年も続くと、大声楽家がばったり出なくなる」ということを、声楽家の畑中良輔氏は言っていました。中欧の研究家の説とか。
イタリア人は、「大声に虚言なく悪人なし」、立派な声の男から小声で口説かれるのが、もっとも魅力的だそうです。
それにしても、日本で、日本人の馬鹿声というものを聞くことは少なくなりました。
○メロディと詞
三島由紀夫は、「言葉は音楽の冒涜であり、音楽は言葉の冒涜であって、言葉の持つロゴスは、すでに音楽の建築的原理の裡に含まれており、言葉の持つパトスは、音楽の情感的要素によって十分代表されているはず」と言いました。
ことばとメロディは、矛盾しながらも、お互いに包括していることを表しています。
○玉三郎の声歴史☆
坂東玉三郎は、14歳で玉三郎を襲名しました。そこから10年間、変声期で、お客の前で声を出せるようになったのは、22、3歳からで、本当に声が出てきたのは30歳くらいから、と述懐しています。
ついでにですが、「方式にかなった声は決して芸術的とはいえない」と述べています。「発声を学ぶのは、一般的な効率のよさを学ぶことで、芸術的なものとは次元が違う」と言い切っています。そして、自分流のものと基本とを、いつも照らし合わせていくことの大切さを問うています。
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○本当のスタート
原体験としての感覚、気持ちよさを実感することを大切にしましょう。
ことばが先に出てから、心が動き出すこともあります。
等身大に歌うことの大変さを知りましょう。そこから、体から声が出るように方向が定まってきます。
○中村天風のことば
過去の後悔、現在の悩み、将来の不安、この3つを考えてはよくない、「心を気持ちよくなくするな、嫌な気持ちに心をせず、喜ばせる、楽しくさせる、それが義務」と言ったのは中村天風です。氏は、聖人カリアッパに「身体の病で心にまで迷惑かけるな」と言われ、結核を治したのです。
○科学について☆
Scienceの語源は、ラテン語のScientiaスキエンティアです。Sciは知る、entiaは成すで、「知る」を「成す」のです。これは、自然科学だけでなく、あらゆる知識を得ることでした。
科学とは、理論と実証によって、自然世界の普遍的な原理、法則を発見することです。研究で得て、実験で確立した知識にあたります。研究と実証が重要です。
合理性、論理性、実証性、普遍性があることです。
「どこでも、いつでも、誰でも」これらを全て満たすことです。
「科学的」では、無私性、懐疑、批判を怠らないことが求められます。
○科学的な検証
科学的な検証は、次の1~4を必要とします。
1.様々な例を列挙する
2.内容を調べて分類する
3.全体を貫く理由を考える
4.結果的にどうするのか提案する
○ハチミツと声☆
「ハチミツを飲むと、声はよく出ますか」とよく聞かれます。
そう公言しているアーティストやトレーナーもいます。ハチミツにもいろいろあるし、個人差も大きいです。
プラシーボ効果でもあると思います。それは、思い込みによるものですが、たとえば、データ以前に、健康食品に気をつかう人は、そうでない人よりも日常生活をコントロールしているというようなものです。
栄養という面では、ハチミツに限りませんが、体によいものはよいです。高い栄養素とやさしい口当たりから喉も通りがよくなりそうというイメージとして思い浮かべるハチミツ効果でしょう。浅田飴のイメージもありそうです。スポーツ選手が本番前に口に入れるレモンのハチミツ漬けなども思い込みです。声帯には届きませんし、発声の原理からは関係ありません。
こうしたことは、大体が相関関係に過ぎないのに、因果関係と思ってしまう人が多いのです。
○ニセ科学にひっかからない☆
科学とか科学的とつくと、批判的な目を向けず、盲信してしまう、お任せしてしまい、考えない、指導者、専門家、マスメディアの言うことを鵜呑みにする、基礎的な知識や規範が欠けているなどが考えられます。
急ぎ過ぎる、早く効果をあげることばかり考える、欲に囚われるなどが原因です。「手っ取り早く安く楽に」、を求める人は、とても多いのです。
ひっかからないためには、いつも、「なぜ」と考えることです。
「どんなものにも、よいだけのものはなく、必ず、悪いこと、副作用もある」と考えるとよいでしょう。
○根拠とトレーニング
「トレーニングに根拠がないなら、やらない方がよいでしょうか」と聞かれたことがあります。
仮に、根拠がわからなくても、やった方がよいことはあります。ですから、やってみる方がよいでしょう。メリットも必要ですが、リスクを避けたり安全性が高まることでも、トレーニングはする意味があります。
○7世代の掟
アメリカの今のニューヨーク州にいたイロクォイ族は、取り決めに、以後の7世代への影響まで考える義務を誓い合っていたそうです。「7世代の掟」と言います。
「見えないものを見、聞こえないものを聞く」「影をみる」ことが大切です。
○豊かになると、ことばは不要か
豊かに平和になると、ことばが早口になり、切れ切れになっていくそうです。
平穏のなかにいると、生活、ひいてはものの考え方が似てくるので、しぜんと意志が通じやすくなり、ことばもなおざりになるそうです。会話も反応だけになりがちになるのです。
○姿勢の語源☆
姿勢は、ギリシア語でhexis、これには、人間の資質、知識、能力、感性という意味もあります。ラテン語では、habitus、これは英語のhabitになります。
○和服と姿勢
日本の着物は、重ねるほどに体を隠すものです。ちょっとした仕草や動きで心を表していました。歩くのに、膝を曲げ腰を落とす、足の親指に重心をおき、かかとをひきずるのは、鼻緒をつっかけて歩くのに適していたのです。
○イスと正座
日本にイスが使われてこなかったのは、家が狭いこともあったし、帯の邪魔になったからと思われます。
僧は、修行で、身体の型と発声のトレーニングをして体を整えていきました。「坐」もしっくりときていたわけです。
正座は、修養であり、芸事、武道の基礎であり、病の治癒にもなっていたのです。
○実感を急がずに得る
トレーニングとは、一定のことをくり返して心身の姿勢、動作に一連なりの調和バランスが生じたときに、実感としてわかるものです。それは、厳かな快感を伴うものです。プロセスとしては、こうした取り組みをじっくりと学んでいけばよいのです。
そのために「こうすればこうなる」という答えを早く求めてしまわないように気をつけることです。
○姿勢をよくするために
姿勢は、次のことと密接に関わっています。
運動能力、身体的な基礎、パフォーマンス向上、心理的安定、美的バランス、健康の維持、ストレス解消、感受性や感覚を磨くこと。
○「養生訓」の丹田☆
貝原益軒は、『養生訓』で、中国の『難経』から引用して丹田のことを記しています。
「臍の下三寸を丹田という。腎間の動気といわれるものはここにある。(中略)気を養う術はつねに腰を正しくすえて真気を丹田に集め、呼吸を静かにして荒くせず、事をするときには胸中から何度も軽く気を吐き出して、胸中に気を集めないで丹田に気を集めなければならない。こうすれば気はのぼらないし、胸は騒がないで身体に力が養われる」(『養生訓』伊藤友信訳 講談社学術文庫)
○白隠の呼吸法☆
白隠は、「真人の息は踵をもってし、衆人の息は喉をもってす」、という荘子の言葉を借りて、臍下の丹田から下半身全体へ気を巡らすことを説いています。
○日本人の丹田☆
頭部の「上丹田」、胸部の「中丹田」、臍下の「下丹田」、これが日本にきて、広まっていくうちに、臍下の「下丹田」のみを意味するようになったのです。
丹田は、物理的な体重心とは異なります。
身体の「中心感覚」は、熟練していくと位置や形が変化していきます。
臍下三寸といわれる丹田の裏側には仙骨があります。下腹部に深い呼吸が入り腹圧が上がると、仙骨が骨盤の真ん中に引き込まれる感じになります。
○腰と骨盤
運動するときに、動作の中心は腰に逃げやすいのです。胸部と骨盤とをつなぐ腰には、5つの小さな腰椎骨が連なっています。衝撃に耐えられなくなると、椎間板が損傷して痛みを生じてくるのです。
骨盤は、最も大きな骨格で衝撃にも強いのです。
○禅の座り方
禅では、座るときに「背筋を伸ばす」と言わずに、「鼻とへそ」「耳と肩」とをまっすぐにするようにします。道元の「坐禅儀」、天台の「小止観」も同じです。
肩や首を緊張させずに、背筋が自然と伸びるのです。
「鳩尾をゆるめる」のを「上虚」と言います。
筋肉を硬直させずに、骨に運動を任せるという感じです。
○究極の自然体☆
力として出そうとすることを避ける古武術では、身体の「芯」が自覚されてくるような状態を求めます。そして、気を扱うようにしていったのです。
「腕と肩の筋肉はどこまでも力を抜いて、まるでかかわりのないようにじっと見ているのだということを学ばなければなりません」(『弓と神』福村出版)
○運動能力
筋生理学からみると、運動能力は、骨格筋によるので、筋繊維が大きくなることで力がパワフルになります。しかし、古武道などでは、筋力より骨格そのものの構造で動かすことを学びます。力任せは嫌われるわけです。
日本人の技巧的なフォームでのバッティングと大リーグの上半身(特に両腕)マッスルむき出しの力のバッティングを比べるとよいでしょう。
○ことばのもつ客観性
ことばは、相手に何かを伝えるためという二者間だけではなく、それを第三者に聞かせるために必要とされたのです。二者間ならボディランゲージやノン・バーバルコミュニケーションも、ことば以上に有効でしょう。ただし、会議や外交などとなると、ことばが絶対に必要となるのです。
●相貌学(フィジオノミー)
トレーナーは、医師と同じく熟練した直観力を最大の能力とするものと思われます。それは、声を聴くことで効果を上げるのです。つまり、臨床心理士のような能力を身に付けなくてはなりません。声もまた、心理的な障害と関わっていることが多いからです。ときおり、精神科の医師から連絡を受けます。これも、こういうことを物語っています。
○ニヒリズム
ある価値観を否定するのに、その虚偽を暴くことが目的となってしまう。それは、手段の目的化です。否定することで、さらに否定が生じていくのです。
否定、非難でなく、代案、新しい構築を試みることです。よりよいものがでてくれば、古いものは淘汰されるのです。
○よいトレーナー
正しくみえることを安易に信じないことです。そのために、どうすればよいのでしょうか。
「アメリカの自己中心主義に傷ついてきた日本」のような立場の人が増えました。
どちらにしても、一人とどまって、個人的に問題に対峙するということです。
そこにトレーナーを利用してください。よいトレーナーは、人を安心させられます。