「歌唱論(Ⅲ)」

歌唱論(Ⅲ)

 

○客観的にみるということ

 

 どのように歌唱するのかは、一人ひとり違います。

私の場合はいくつかの条件のもとにみています。それは、私自身の感情、心とは別に、仕事としてみるということです。私自身の好き嫌いと別にみることです。

ですから、ファンの人が、ある作品に感動していたら、それはそれでよいことと思うのです。歌い手や演奏者が、自分なりに満足のいったものであれば、さらによいことです。そこに対して、私は一言もありません。一人ひとり、それぞれに違うだけでなく、時代や場所、そのときの気分でさえ違って聞こえるものだからです。

 よいものが多いなかでは普通のものは悪く聞こえ、よくないものが多いなかでは普通のものでもよく聞こえます。よいものをあまり知らない人やそういうものをめったに見聞きしない人には、どんなものもよい感じになります。そのまま評価されることが多いということです。イベントやライブの客の評価が当てにならないということです。

 

○機能的な面での基準

 

 声をよしあしを正確にみるというなら、機能的なことのチェックとなります。これがトレーナーの役割のように思われていますが(そういうトレーナーが多いのですが)、私は、表現への可能性をもとにみます。視点が違うので、見解が異なることが多いのです。そのために、的確なことばにすることが求められ、造語力や文章力も必要不可欠と思っています。

 機能面でのチェックについてみましょう。

1.音程、音高(メロディ)

2.リズム

3.発音、せりふ(アクセント、イントネーション、ことば、方言など)の正しさ

4.声量

5.音色

などが含まれます。

1から5にいくにつれ、ノリや心地よさなどというあいまいなものになります。ビブラート、ロングトーン、発声の明瞭さ、フレーズでのよしあし、発音(外国語)なども、それらを支えるための要素として出てきます。そして、解釈や構成、展開などがあります。

 

○レッスンでの見方

 

 私がトレーナーとして、みるのは、

その人自身とその声、

その声の可能性、

その声の表現での可能性(フレーズ、音色など)

本人サイドのこと

それに加えて

ステージ、歌、パフォーマンスも含めた表現力

作品、ライブ側との結びつきです。

 

 目的に対して、何が欠けているのか、何を加えられるのかをみます。

そのためにどういう手段があるのか、何が必要か、それは声において、どう解決されるものか、解決できるのか、あるいは、ときに、声以外で何とかすべきものなのかということです。

 本当に一人ひとりそれぞれに、ややこしいのです。

表現からのアドバイスは、プロデューサーや演出家に近いことなので、いろんなことに通じていないといけません。

可能性がないようなときも、工夫やアイデアしだいで最高のものにもっていく道筋を発案して、そこまでひっぱる力が必要です。

 

○参考意見として

 

 本人の作品や声については、質問を受けても、本人自身がいないときは(イメージであるところまでは出せますが、却って、否定的になりかねないので)難しいし、参考意見にとどめさせてもらいます。本人の目的、表現やステージが、具体的にみえないときに、ことばにするのは難しいです。

 それでも、それなりにイメージで補って、その仮のイメージを伝えながらアドバイスすることが多いです。発声を、「声のマップ」をつくって図示していくのと似た手法です。

 質問の多いのは、「誰々の歌をどう思いますか」ですが、そんな答えは出せません。

 出してみたところで、アーティストにもそのファンにも関係ありません。

 目の前の相手にシミュレーションしてみるのに、レッスンの材料としての見解としてのみ示します。レッスンに役立つようにコメントするのです。

 

 作品は表現ですから、好きにやったものを好きな人が聞けばよいのです。ファンとの間に、アーティスト本人のイメージのなかに成立していることに、トレーナーが口を出しても仕方ないのです。

 「何とかしてくれ」と頼まれて、初めてレッスンは成り立つのです。全ては程度問題で、その必要性は本人自身が自覚することでしか成立しえないのです。本人がこれでよいと思ったら、それはそれでよいのです。「何か違う、足らない」と思えばこそ、ヴォイトレ、その他が必要となるのです。

 

○守りのヴォイトレ

 

 最近は、創造的、冒険的でポジティブな試みよりも、守りのヴォイトレのようなものが増えています。のどが疲れるとか、声の調子がよくないからということへのフォローとしての利用は、調整だけになりがちなので、あまり、お勧めしないのですが、大半はこういうケースです。

そのように追い込まれてしまうくらいの力しかないとか、そうならないと気づかないことが、本当はおかしいのです。実のところ、攻めない限り、守れません。

 とはいえ、心身の不調でマイナスになった状態をゼロにするためには、フォローが不可欠なので、受け持っています。このフォローとしてここを利用している人もいます。

 これにはパーソナルトレーナー、マッサージ師のような役割が期待されます。人によっては、とても大切なこと、不可欠なことです。

 心身の方からみるのは、表現からではなく、一個人の体から、声の状態を調整することになります。ですから、そこでは調整ですが、それをしっかりくり返していくと条件づくりになってきます。「底上げ」として再現力の基礎となります。調子を崩しにくくなる力として表れてくるのです。

 

〇守りから攻めへ

 

 のどの状態チェックと実力を判断しても、将来への可能性をみる方へ力を入れないと、本当に力をつけられないし変わりません。

 その時点での判断は、医者の診断に似ています。近代西洋医学は、手術など対処的に問題を解決します。ステロイドの効果の即効的、かつ大きいことは驚くほどです。

 心身のリラックスによって、のどの発声を外して共鳴の効率をよくすると、一時的によい声がとりだせます。そういうことを注意するのを中心としているトレーナーは少なくありません。でも、病巣と違って悪いところをとってしまったらよくなるというものではないのです。

 

 私のトレーニングはハードに思われていますが、漢方医のようなものです。目的や声のレベルもそれぞれに応じて変えます。そして、時間をかけてゆっくりと変えていきます。発声より、それを司る呼吸や頭を変えていくのです。体という器を大きくしていくことで応用や再現力を高めていくのです。

 

○形と流れ

 

 歌の1コーラスは、大きな声で4つから8つくらいの文章を読みあげるくらいにしてください。フレーズとして、息はともかく、流れは、つながっているのです。外国人がそのくらいで捉えているものを、日本人は、16から32くらいで細かく捉えます。歌の形を声でコピーしてしまうからです。表現としては総じて固くなり、緊張を欠きます。ことば単位で切って、つなげようとすると低い次元になります。

 プロは表面の加工技術に長けているので、一般の人にははっきりとわかりません。でも、感じられるものです。問題は、本人がそのフォローを技術と思い、固めてしまうこと、そこでアピールできるものとしてテクニカルに使ってしまうことです。

 

 発声や歌唱は、迷いや不安が入るだけで安定性を欠いてしまいます。しなやかさ、柔らかさ、伸びやかさは、音楽としての心地よさのために、もっとも大切にすることです。しかし、なかなかみえません。それは、せりふにも通じます。自信をもって使いきると、それなりに説得力をもって伝わってしまうのが、せりふや歌の困ったところです。

 

〇意図を表現

 

 曲から離れて全体をつかんでみましょう。楽譜を歌うのでなく、歌全体の意図を歌うのです。

 声を一つずつ伸ばしてつなげるのは、日本の合唱などにはよくみられます。うまくいくと心地よさが眠気を促すようになってきます。一つずつ均等に伸ばすような日本語の母音に忠実であるほど、表現としては、間伸びしたふしぜんなものになりがちです。インパクトが切り捨てられているのです。

均等というのは、楽譜やプレイヤーの演奏上、そういうルールのときもありますが、スタッカート、テヌートでもない限り、動かさないと表現としての緊張を欠きます。

次の対立項は、日本人の歌唱、特に日本語の歌ではよくみられます。声とフレージングが、これらの2つの溝を埋めるだけでなく、超えていたら、表現としてはかなり強いインパクトを持ちえるのです。

メロディ          ことば、リズム

伸びやかさ(声量)     きめこまやかさ

レガート(スタッカート)  ことば

ロングトーン        ことば

 声とフレージングが、これらの2つの溝を埋めるだけでなく超えられたら、表現としては、かなり強いインパクトを持ちえるのです(目指している目的自体がずれている人の多いのが、日本の歌唱の問題です。拙書「自分の歌を歌おう」で詳しく触れました)。

 

ダルビッシュ有とパワー

 

 世界へ出ていくサッカー選手や野球選手はよい参考になりますが、ダルビッシュアメリカでの活躍もその一つでしょう。渡米前、「技術でなくパワーそのもので世界に挑戦したい」と言っていました。技術で勝っても本当には評価されないから、パワーで打ち勝ちたいということです。日本人も、チェンジアップや変化球で買われていたピッチャーだけでなく、野手も大リーグに出ていけるようになりました。イチローのマジックのようなバッティング技術も足も、当初はベースボールとして認められなかったのです(ボクシングでも、ヘビー級がメインなのは、フライ級とか、モスキート級という命名でもわかりますね。小が大を制する美徳を持つ日本人なら、ハエ級、蚊級とはつけないでしょう)。

 

 圧倒的なパワーで勝負できないから、技術で勝負しようというのは、大国に対して小国日本の指針でした。大柄な外国人に対し小柄な日本人のとってきた方法です。しかし、156キロを出せるダルビッシュだからこそ、その負けん気に火がついたのです。

 ところが、初戦から、そのパワーは通じず、変化球主体の投球に変えざるをえなくなります。すべるボールと固いマウンドで、コースが定まらず、シーズン半ばにして大ピンチとなります。そこで、大リーグのコーチは、変化球主体の組み立ての指示を止めます。ダルビッシュは、プライスの投球をみて、ただ足を上げて投げることしか考えていない、リラックスの大切さに気づきます。自分が小指側からついていた足と、彼のベタ足でのつきかたの違いに気づき、改めます。マウンドの土の固さの違いから、ダルビッシュのフォームは不利だったわけです。

 このあたりは、NHKダルビッシュ自身が言ったことです。

 本場のコーチも気づかなかった、本場ゆえ気づかなかったのです。そのことに、重要な示唆があると思うのです。

 

〇修正能力

 

ヴォイトレでも、トレーナーの方針ややり方、メニュと、本人の上達とのギャップに、悩む人は少なくないからです。

 ダルビッシュの言うように、プライドある大リーグのコーチが方針を変えたことのありがたさは、日本では難しいのではないでしょうか。「自分でみつけて、気づいてやっていく。逃げずに立ち向かっていく。まわりの意思でなく自分で向き合ってやる」

 自分中心の考え方、まわりの意見で迷ったり、自分自身と向きあうことの得意でない日本人には、見習うべきことです。

 

 着目すべきは、気づくことと、気づいたら修正できる能力の高さです。ゴルフの石川遼も、シーズン中にフォーム改造をして、成績をアップさせました。2年ぶりの優勝でした。

 そういう能力をレッスンのときに磨くことです。トレーナーのアドバイスを一方的に聞くのでなく、きちんと判断して、自分にプラスに役立てていきます。ときにはトレーナーのアドバイスも自分が気づいたことでも、これまでの自分に対して異なるアプローチをしてみます。その必要性や可能性について判断して、実際に応用して結果を出すのです。

 

〇懐とストーリー

 

 ダルビッシュはその後、今年最強のルーキーを、大事な場面で、なんとインハイにストレートで決めて三振にとりました。キャッチャーがOKしたのです。

 そういう環境を与える大リーグとのいうものの懐の深さに、ダルビッシュは大リーグに行って、本当によかったと思ったことでしょうが、日本人としては残念に思います。

 プロ野球も、相撲も、プロレスもボクシングも、私が子供の頃のような、エキサイティングな環境が失われているからです。選手も監督もコーチも、何もしていないわけではないのですが、明らかにスケールが小さいのです。野村元監督が、○○の○○監督の「何も指示しなかった」というコメントを、「その通り。正直だ」そして、「何もしないからダメなんだ、野球もダメになるんだ」と述べていました。

 

 相手を信用して何もしないのと、指導者の役割を全うするために、考えに考えて何も指示しないのとは違います。現場のことは、そこにいる人しかわかりませんから、何が正しいとか、誰が偉いとかはわかりません。人に伝えるときにはストーリーやドラマをつくってしまうからです。

 私たちの現場も、そこから先を考えていくことが大切です。

 「ピンチになった、気づいた、変えたらうまくいくようになった」というほど現実は単純ではありません。もっと語られないこと、本人たちにもみえないものが、大きく働いているものです。

 シンプルに学んでいくことも大切です。私たちは大リーグに行くわけでも、マウンドに上がるわけでもありませんが、選手のことばや番組のつくったストーリーから学べるものを学べばよいのです。それを明日へ、自分へあてはめて、ヒントにすればよいのです。そのために、ここで伝えています。

 

○トレーニングは一時、鈍くなる

 

 問題を深刻にしないことは、大切なことです。

 声を強く大きくしたいという要望に対して、多くのトレーナーはストップをかけます。なぜでしょう。

私は、ストリートサッカーの時代の必要を説いています。サッカー場でプレイする前に、どれだけボールに触れていたかが、一流のストライカーの条件と述べたことがあります。高い声や大声を自己流でやるのは、本を読んでいるだけよりはよいことだと思います。

 でも、多くのトレーナーが中断させるようになったのは、トレーナーが優秀で、そこへくる人があまり優秀ではないからともいえます(私の場合は、私というトレーナーが優秀でなく、くる人が優秀だったので逆です)。習い事なら、そういうものです。優秀な先生からみると、「強く、大きく」は「鈍く、丁寧でない」のです。彼らの立場では、「強く」とか「大きく」は、学びにくるまで自分でやって失敗しているから(その限界を知って)ここでは、大人になりましょうということです。だから、その先に行けないのでしょう。

 

〇その先のヴォイトレ

 

 私も「体と感覚を変えていきましょう」と、体は鍛え、感覚は磨くのです。プロは、感覚が磨かれているわりに、日本人の歌い手の体は鍛えられておらず(柔軟性にも欠けている)、息吐きメソッドなどを発案したのです(ここでは、私の「ヘビメタ=レスラー論」※を参考に)。

 しかし、少しずつ、レベルが下がってくると、感覚(音楽的センスも)の強化がより重要となります。試聴音や音音程・リズムトレーニングを加えました。

 

 感覚(耳)を磨かずに、体(声)だけ鍛えていくと、鈍くなります。体育会系の人などには顕著に表れます。彼らは体や息や声ができているほどに歌にならないのです。一方、トレーニングを積み上げなくても歌手になった人がたくさんいます。声や歌では、それで通じるくらいの日本の市場だからです。そこから先のトレーニングの不毛さを証明しています。

 

○ヴォイトレ、声楽はふしぜんか

 

 役者や歌手は「ヴォイトレ(特に声楽)にいくと、ふしぜんになるのでやめた方がよい」と言われていたことがあります。それは一理あります。私が思うに、トレーニング=ふしぜんですから、トレーナーに「よい」と言われることのなかでも、のど声になる、オペラみたいな(オペラもどきの、よくない)押しつけたり、こもったりした発声になる、合唱団みたいな(合唱団もどきの)個性のない発声になる、などがあげられます。

 「声楽やオペラを学ぶと個性がなくなりませんか」という質問も、よくあります。私の本を読んでいる人は、それは応用と基礎の取り違えであるとわかるのでしょう。

 コンテンポラリーダンサーが、クラシックバレエを習ったら、そのダンスがバレエになるでしょうか。本人が声楽の勉強しかしていないし、それにばかりこだわるなら、どう考えても声楽っぽくなるでしょう。

 習いにいったくらいで消えてしまう個性って何でしょうか。

 よくあるのは個性=自分というのと、表現として現れる、価値としての個性との違いです。これはオリジナリティと混同していることです。

 

○一貫する

 

 演じるあなたは、あなたであっても、あなたでないし、あなたでなくてあなたです。

「あなたが出たら、歌=音楽は出なくなる。歌=音楽が出たら、あなたは出なくなる。両方が両立、一つになるのは大変なこと」です。

 私は、自分=表現=歌=音楽を一つの声として一貫させるのを理想としています。真のアーティストなら、しゃべればせりふであり、歌であり、音楽であり、そのまま作品であり、芸術であるのです。そのために必要なのが基礎トレーニングです。結局は、応用において、どれかが通じていたらOKという現実の判断を強いられるようになりました。

 

 声がすべてでないので、歌がOKならよい、表現がOKならよい、という判断も必要です。でも声がOKではだめです。トレーニングや体づくりは基礎で、それがOKになるのは器づくりや可能性としてのプロセスです。

問われるのは、切り取った作品として歌や音楽という表現です。いくら人間としてよい人でも、歌がだめなら歌手としてだめなのです。

 

〇ことばにならないこと

 

 ことばにならないことが大切なのです。「星の王子様」みたいなこと(ここの話は研究所のサイトにあります。読んでみてください)ですが、いらっしゃる人と、ことばでやり取りをして長くなることもあります。

 わからないことをことばにして整理するのもトレーナーの能力であり、仕事です。でも、考えるまでもなく、ことばはどちらにもぶれさせることができます。論理に組み立てます。

 そこで、どうしても雑になります。感じ、イメージから離れます。インデックスです。だから決めたがる人は、ことばを求め、ことばに安心します。そこで止まってしまうのです。

 ことばは、詰めるための手段とし、使えるところで使うのにとどめたいものです。あとは、体と感覚に委ねなくては先に進めないのです。私は「本でやるのでなく、本でまとめるように」と言ってきました。

 プロセス自体まわりのもの、すべてをみないようにしたら、ことばにできます。でも、それで伝えられたと思えないでしょう。

 

〇考察

 

感覚と場を読み取る力

「聞くことに答えない」という答え

他人に委ねられないのに非難するな

自分のことばのフィードバック(のりとつっこみ)

フィードバックをかけすぎる人、ためないと出せない人

継続性、連続すること

一貫しているもの、芯とぶれ

歌のなかの線、声のなかの芯

相手のなかに自分をみること

すぐれたものがあることを知っていること

相手の立場にたってイマジネーションする能力

「判断力と再現力」

○「ハイ」の再現力

 

私のメニュのなかでの基礎のチェックです。

1.「ハイ」を10回言ってみる。その中の一番よい「ハイ」を選ぶ(判断力)。

2.選べなければ選べるようにする力をつけていく

3.その「ハイ」を10回言う。言えなければ言えるようにする(再現力)。

次のステップとして、

4.「ハイ」のなかで一番よい「ハイ」を選ぶ。

5.以下「ハイ」をくり返していく。

これで私のヴォイトレの基礎のすべてといってもかまいません。これに伴う考え方としては、

1.今のなかで、もっともよい「ハイ」をよりよくしていく。

2.今のなかで、そうではない「ハイ」を今のもっともよい「ハイ」にそろえていく。

このもっともよいは、今のなかで、ですから、もっともよいといっても、その人のなかでは、ましな「ハイ」に過ぎません。

「ハイ」を使う理由は、「基本講座」を参考にしてください。

 これを、グレードのようにランキングしますと、「ハイ」=Hとして、10個のHのうちの1つが勝ち抜き、レベルが1つあがる、以下、同じように、それを10個くり返し、そのまた10個のHのうち1つを選んでいく。もちろん、もっと下位から始める人もいるでしょう。すべては例えです。「ハイ」や10個というのは一例であり、現実的にはそれぞれを母音、子音、ハミングなどで、発声練習で行っているわけです。

レベルA H(1つの「ハイ」)

レベルB HHHHHHHHHHHHH(10の「ハイ」) 

レベルC HHHHHHHHHHHHHHH…(100の「ハイ」)

レベルD HHHHHHHHHHHHHHHHH…(1000の「ハイ」)

 

〇判断のレベル

 

 バッティングのフォームづくりにたとえて説明します。バット(竹刀でもよい)を持って10回振ってみてください。そのなかでどれがもっともよかったか、直観的に選んでください。何となく選べるはずです。素人である私なら、それと同じスイングを10回くり返すことができません。野球部員なら、私よりもそろったレベルからスタートできるでしょう。

これはスイングの違いが何センチメートルくらいの幅で認識できるのか(判断力)、実際に振って調整できるか(再現力)の能力の差となります。イチローなら、その差はミリ単位でしょう。ボールを投げる側で例えてもいいですね。距離、スピード、コントロール力と、今はスピードマシンで測れるからわかりやすいでしょう。

 人それぞれ、スタートのレベルが違います。2、3ケ月たつと、その人なりに調整できるようになってきます。少しコツがわかるのです。そういう判断力や修正力がどのくらいあるのか、またどのくらいついてくるのかが、その後の伸びの違いとなります。それはスタートのレベルの違いよりも大切です。

 トレーナーは、あるレベルまでは、本人よりも正しく選べます。声は判断しにくいものだから、その指示に従えば、修正へ効果的に進めていけるでしょう。少なくとも本人よりは客観的に聞くことができるのです。しかし、その客観性は、客観ゆえの限界があるのです。高いレベルでは、表現性に伴って判断は変わります。磨かれた本人の感覚が、そのレベルを逆転するようにしていくように育てることです。ここでは直観的に知っておいてください。[E:#x2606]

 

○「できていない」とわかること

 

 トレーナーがつくのは、「どれが正しくて、それにどう合せて修正するのかを教える」ためと思われています。しかし、「どのように判断するのかを伝えること、その判断を満たすように、方法を試行錯誤させ、本人に編み出させる」ことがもっと大切なのです。

 でも、つい、「こういうふうに」と教えてしまうことになります。答えを知らせても、その解き方を学び、自分で実感できなければ、本当は何も変わりません。トレーナーの答えは、トレーナーのものにすぎません。

 最初はなんとなく「できていない」と思うだけで「何が」「どう」「できていない」のかが、わからないのです。

 でも、よくわかっていないことがわかっていくなら、一人で行うよりは、長い目でみるとずっとよいことです。

 

〇場を求める

 

 「大きな声が出ていない」「のどでなく、お腹から声を出せ」と言われて、レッスンを受けにくる人がいます。「やっているうちにできてくる」とよく言われます。そう指摘されても、「どうすれば大きな声が出るか」、「どうすればお腹から声が出るか」は、具体的に示されないから、困って、ここにいらっしゃるのです。

 本人が「充分にやっていないなら、やる」ことです。やればよい。それで解決しないからトレーナーにつく。そこからでいいのです。

「必要性に応じて、場を求めて、次のステップに進む」ことの一例です。

 「やっているのに、やれていない」というのを判断するのが、本人よりトレーナーが厳しくしてこそレッスンです。その実現を目指し、具体的に進めていくのがトレーニングです。

 

○体での習得を知る

 

 スポーツや武道を経験したことのない人には、あるいは、頭でっかちだと自覚している人には、今からでも簡単なスポーツを試して欲しいと思います。自覚できていない人こそ行って欲しいのですが。そこで頭と体やイメージの関係をつかみ直してほしいのです。声だけで行うのは、案外と難しいことだからです。

 結果が出るというのが、どういうことかを身をもって経験してもらいたいのです。フォームをみてチェックしてもらうのをコーチにつくならもっとよいでしょう。自分の感覚や体のズレとその修正法を客観的に教えてくれます。その結果を構造的に捉えてほしいのです。

 ゴルフやバッティングは練習場があり手軽です。バスケットやテニス、弓道、アーチェリー、ボーリングなどもよいでしょう。ダーツ、卓球、ビリヤードは、少しわかりにくいかもしれません。いかに自分の頭と体がうまく動かないのかを知るだけでもよいでしょう。

 

〇実践と表現

 

 同じスイングが10回できるということをつめていけば、それには確固たるフォームが必要であり、体力、筋力、集中力など、それを支えるものを補強する必要がわかってきます。試合で確実に実現するとなると、確実なフォームの再現に加え、それを臨機応変、変化自在に動かせる応用力が必要になります。モチベーションやリラックスできる力も必要です。

 トータルとしての柔軟な対応力が、ステージや仕事には必要です。それがないと続けられないでしょう。

 だからといって、こうした応用ばかりでやっていては、基礎が得られません。得ていたとしても狂っていき、応用が効かなくなくなります。柔軟性や対応力が劣ってくるからです。それは基礎的なことを固めない、あるいは固めたとしても、それを維持することを継続しないからです。

 

○固定化させないレッスン

 

 ここで重要なことを述べます。同じことをくり返すことで固定させられるような技術ができ安定度を増すと、失敗は少なくなります。でも同時に新鮮味や面白み、凄さは欠けてきます。応用性も落ちてきます。

いつの間にか、高いレベルを目指すべきトレーニングが、安定し、リスクをなくすことだけを求めるように置き換わってしまうのです。

アーティスティックなことも、仕事になると、そうならざるをえないのです。そこで伸びが止まります。これは子供という天才が、大人という凡才になっていくプロセスと似ています。

 だからこそ、それを壊すためにトレーニングをしなくてはいけないのです。

 しかし、自分で壊して創れるのは、人に教えられたままに、でなく、自分で気づいて、たえずゼロに戻って試行錯誤して自分をみつけ、伸ばしてきた人だけです。つまり、独自の自分の世界、オリジナリティのある人だけなのです。そこは、一人では難しいので、レッスンがあるのです。ただ、レッスンの目的によって大きく違ってきます。

 

〇パターン化するレッスン

 

 日本でよく行われているパターンは次のようなものです。

レッスンで正しい方法を教えてくれる。

それと違う方法は間違いだと教えられる。

正しい方法で調整して、よくなる。

その方法を技術(テクニック)として、習得して固める。

これで固めて進歩が止まる。

頭でっかちなレッスンでは、トレーナーの求める形がここにあるから、どうしようもないのです。

 こういう人は、自分以外の他の方法や他の理論に批判的です。他の否定において自らが肯定する人も多いのです。そんなことができるわけではないのですが、そう思う人が、教える人にはよくみられます。

すると、「どの先生(のやり方)が正しいのか」となり、「この先生(のやり方)が一番正しい」、「他の先生(やり方)は劣っている、間違っている」と思い込むようになります。

 そういうことは、一人のトレーナーと一つのレッスンで続けていると必ず陥ることです。

私は、2、3年そういう時期があってもよい、いや、そうなるのは当たり前のことと思います。そうして一所懸命やったことは身につきます。そして次のステップにいけばよいからです。たとえ、次のトレーナーと方向や判断が異なっていても、極端な話、正反対であっても意味はあるのです。

 それを方法だけでみると表現と対立するのです。あなたへのアプローチに、なぜそういう方法がとられたのかを考えてみましょう。それを知ってみる努力は怠らないようにしましょう。

 

〇次のステップへ

 

 演奏や実践に秀でたトレーナー、初心者の指導に秀でたトレーナーなど、いろいろなタイプがいます。それが見えない時期は、自分をみようとして、一所懸命やるとよいです。

 大切なのは、その自分を突き放して、次に進むステップを用意していくことです。その時期その時期に、あなたに必要なトレーナーもいるし、あなたに必要な判断や方法もあると思ってください。

 すぐれた人は、自ら生涯にわたり方法を変えていきます。方法はツールにすぎないからです。

 多くのトレーナーとともに行なっていると、トレーナーの直感を磨き、本人の力を伝えることの必要を感じます。表現できるようになることです。本人が考えたり、疑ったりしても、壁があっても、そこを突き進む力を与えることだと思うのです。

 

○しぜんに伝わるとは

 

 頭から入る人もいます。体から入る人もいます。いろんな学び方があります。表現から入る人もいます。声や体から入る人もいます。いろんなプロセスがあります。

 声や歌がよくても、そこで表現にならなければ、学ぶことが必要です。表現がよくなるには声の力もいります。しぜんに力を入れなくても伝わるくらいで、声が働きかければ、かなりよいと思ってください。

 そのためにトレーニングし、声を使い切って、表現力を伸ばしてほしいと思っています。

 しぜんにうまくいっているのが一番よいのです。トレーニングもレッスンも、それを補うものです。

一人でしぜんとできていたら一番よいです。そういう人はとても少ないから、すぐれるために人について学ぶのです。レッスンやトレーニングをするのです。その逆になってはなりません。

 

〇補強としてのレッスン、トレーニン

 

レッスンやトレーニングは補強にすぎません。気づいて変えるための時空です。私はレッスンでは、声だけでなく、ことばの働きも重視します。感覚が磨かれるからです。本質をみるには、くり返すだけの練習では足らないからです。

 

 私は、カラオケ教室のスタイルは肯定しています。他の方法もどれも否定しません。それなりに実践が伴って、目的とニーズがはっきりしているからです。

 

 こういう関係について、ヴォイトレの定義や関係性があいまいなので、ほとんどの人はつかんでいません。ですから、本番への調整と本来のトレーニングの違いを、くり返し述べているのです。

 

 かつて、カラオケ教室や歌唱教室で、音程やリズムトレーニングをやっていました。うまい人はどちらにも行きませんでした。へたな人は、習って少しうまくなりましたが、アマチュアのうまい人並みにもいきませんでした。なぜでしょうか。結果を早く求められると、固めることを上達と思うからです。バランスと安定感が評価となるからです。

 

 バッティングセンターでは、慣れない人(特に女性など)は、バットにボールをあてようとして、あたって前にはねかえったら喜んでいます。くり返しているうちにあたるようになってきます。しかし、これでいつかちゃんと打てるようになるでしょうか。「バットにボールをあてる」のと「ボールにバットをあてる」のは違います。あたるのではなく、あてなくてはいけないですね。似ているようで逆のことです。笑わせることと笑われることくらい異なります。

 まずは、腰中心の素振りをマスターした方がよいですね。コーチが子供に教えるときはそうしています。ヒットを打つのと、バットにボールをあてるのは、目的が違います。必要とされる条件も違います。そこをみて、変えないと大した上達は望めません。

 

○積み重ねても固めないこと

 

 バットにボールをあてることが先決なら、バント練習もありかもしれません。それが第一歩といっているのが、今のヴォイトレのように思えます。早く楽しむための手段として考えるとそうなります。

 ここがややこしいところです。そこにいる客を満足させるところで判断されるライブと、客を超えるべき一流の作品を、どのように考えるかでしょう。

 高校の野球部員、ノンプロの打者でも、バッティングセンターなら10発10中、ジャストミートします。まわりでみてはいる人は驚くでしょう。でもプロとはレベルが違うのです。

 舞台は、客商売であるので客のレベルにも左右されてしまいがちです。至高の表現よりも瞬時の作品として、確実安全なものを求めてしまうのは当然でしょう。でも表現者なら…。

大きな素振りをしたところからトレーニングの一歩が始まります。そこに、柔軟から体づくり、筋トレがあるものでしょう。

 

〇代用

 

「まず楽しみましょう」という人の行うヴォイトレのワークショップやカルチャー教室は、きっかけとしてはよいと思います。それをトレーニングとは思わないことです。体験する機会として行われているからです。私も似たことを導入としてやったときもあります。しかし、そのままトレーニングに結びつけられないのは欠陥です。

 バッティングセンターでも100回振るのではなく、いいフォームを100回みて、1回振る、イメージ通りに一回振るために、バッティングセンターの外で、素振りを100回振る、そのための筋トレをすることです。本来の上達は、そこからです。

 声や歌も同じように考えてよいと思うのです。歌い込みが大切なのは、表現でのオリジナルのフレージングのレベルでのことです。基礎は、何回も聞き込むこと、100回聴いて全身全霊で1回行うのです。そのために別にヴォイトレの時間をとって、声を鍛えておくことです。

 量だけでも、質だけでも足りないのです。このようなことに時間、量をかけることで、質とつながるのです。そこを区分しておいた方がよいということです。このあたりを、レッスンと自主トレの関係と私は考えています。

 家では、思う通りにやりたいだけやればいいのです。よくわからなくなってもよいのです。それに指導や方向づけを与えるのがトレーナーのように思えます。本来は一流のアーティストやその作品からの天啓です。その代りとして、トレーナーが部分的、ある時期、関わっていると考えてください。

 

○自分と体での判断

 

 トレーナーの言うことや理論に振り回されることは、本末転倒です。

 情報量を中途半端に増やしていくことを学んだと思うこと、そのために決めつけたり、混乱したりするくらいなら、「情報をマックスにして判断不能にしてしまえばいい」と思います。それでこうしてたくさん述べています。

本人の資質もいるので、必ずしもお勧めはできませんが、「すべての情報を切って体で動くこと」です。

 「ハイ」でもスイングでも「どれが一番いいですか」と聞く前に、本当に見分けがつかないのか、選べないのか、とことん試してみればよいのです。

 体というのは、頭よりも正しくて、精巧なメカニズムで動いています。少しでも狂ったら死んでしまうくらいに、あなたの体は正確無比に働き続けてきたから、生きているのです。そこを信頼すればよいのです。

 

〇モデルとグレーゾーン

 

 あなたの声も歌も、あなたが否定しているとするなら、すぐれたモデルをイメージとしてインプットして、そこから正すことです。それが唯一の王道です。トレーナーがそれを左右する存在ではいけないのです。

 何かを教えたり、アドバイスすることは、有益であるほどに邪魔もするのです。薬と同じです。たくさんの薬はいけません。中途半端に他の本や他のアドバイス、レッスンを受けて混乱するのもよくないです。

 そのグレーゾーンのレベルで、悩むなと言っているのです。悩むとネガティブになり、行動が後ろ向きになります。他からここのレッスンに移ってくる人の半分はそういう状態ですから、よくわかります。問題の解決でなくてもトレーナーを移るという行動でポジティブになるなら、それも一つのアプローチです。

 

〇変わること

 

 なぜ、何かを知ることで変わると思うのでしょうか。

 体が正確に動いている限り、大きく変わるのは、ハイリスクなことです。

 日常は安定しているから日常で、そうでなければ非日常です。

歌手や役者は、虚構の世界の非日常的存在として表現者たるのです。それでありつつ、そこでの本質を日常化していくことで、プロとして一流としてのキャリアを積んでいきます。

 デビューのときには緊張してあがっているのに、慣れてくると落ち着くのと同じことです。でも高いレベルへ挑むと、また緊張するはずです。そのうち、場や相手など、まわりに左右されずにできるようになります。舞台が特殊に日常化したのです。そこから各々の世界を作るべく、自立した個として、イマジネーションとの格闘に入ります。

 

○その人らしい声や歌

 

 声、ことば、歌は、日常のところに帰る必要があります。でも日常では、それゆえに、ふしぜんにできません。そこでトレーニングします。日常を変えることもトレーニングという必要悪においては可能なのです。

 特に日本の場合、歌やせりふが、その人の日常に求められるものでないのです。別に形づくられ、そこから判断されるのでややこしいです。

 私はヴォイトレで、その人の声、その人の歌の復権を意図してきました。業界の求めるものでなく、本当の意味でのその人らしさです。この「らしい」さえも、日本では形が優先されます。

 そこがよくわかる例の一つは、ミュージカルの歌です。ブロードウェイと比べてみましょう。本場のゴスペルと日本のもの、合唱団などと比べるのでもよいでしょう。

 

ダブルバインド

 

 日本の声の表現での二重性(ダブルバインド)について、プロデューサーや演出家はもちろん、トレーナーも、それを助長してきたのは否めません。

 あこがれの歌い手のような声で、その歌い方のように歌いたいのは、誰もが同じでしょう。カラオケの指導や、ヴォイトレは、そこにも使えますが、それは真意でないと私は思っています。

自らの器を大きくして、今は非日常のものを、明日の日常に化していくことがトレーニングだと思うからです。

 

〇トレーニングと努力の才能

 

 誰でもトレーニングしだいで何でもできるようになるわけではありません。結果として自らの潜在的な能力を開花させるところまでです。

 それを理想の方へ、変えていくのです。何かをなしとげた人は、努力で叶うと言います。すべてが叶うほどの努力をした人の言うことを否定するほど、私は傲慢ではありませんが、それだけが真実なのではありません。そこまでの努力ができるのも一つの才能であり、それ以上の努力をしても適わないこともあります。

 

〇トレーニングの本意

 

 確認しておきます。トレーニングで潜在的な能力を開花させていくのは、そのことですべてが可能になるからではありません。むしろ、「やっていない人たちのなかには、やれば通じること」でも、「やっていない人たちのなかではやるのがあたりまえで、なかなか通じないこと」を知るためです。つまり、自らの勝負をできる場を知るためです。

努力するのは、敗れる限界を知りつつ、そこを破っていくことで、自分の本当の限界を知ることです。

ヴォイトレで声域や声量を拡げたい、でも拡げても、限界があります。あなたの限界を超えてやれる人もいます。上には上がいます。

 努力しても、努力していないようにみえる人にかなわないこともあります。そこから本当の個としての勝負が始まるのです。

 

○限界、制限あっての個性の表現

 

 レベルが上がるというのは、可能性の世界のことです。クラスのなかでバスケットボールが一番うまくても、バスケット部に入ったらどうでしょう。市の優勝校のエースでも、県では、国では、オリンピックではどうでしょう。能力がついて活躍の場が上がるほどに、自分以上の存在や能力をまわりにみることになります。そこから上がるには、誰もかなわないところにいくしかないでしょう。そこから、本来の意味での、オリジナリティが決まってくるのです。

 

 私は「才能があれば…」「金があれば…」「方法があれば…」「トレーナーがいれば…」などという人には、期待しません。大切なのは時間です。時間があなたを変えていくのです。

 

〇量的な時間と質的な時間

 

才能、トレーナー、金、方法などは、量の質的転換において使えるのです。

精一杯やれば、今の自分の限界がきます。本当の自分の限界を知るためには、一つ上の何かが必要です。それがレッスンと、それに基づくトレーニングです。

ここで初めて、あなたが判断し行動を統制する才能と、それを補助するトレーナーが、本当にものをいいます。

あなたの位が上がるにつれレベルの高い参謀が必要になります。

歩兵には参謀は使いこなせません。将軍には参謀が必要です。共に持っている専門能力は違います。それぞれに高めあってきた能力を合わせてことにあたっていくわけです。

 

〇独自のフォームへ

 

 声は、体が楽器です。そこで、共通して人間のもつ体というところで、あるところまでは共通のトレーニングができます。能力、体力、集中力、呼吸など、他のことで共通している基礎といわれるものがあります。

 そこからいつかは、独自のフォームを持つ世界へ入るのです。野球でいうと王、張本、野茂、イチローといったところでしょうか。

 オリジナリティとは、他人がまねられないフォームの確立のことです。その結果による実力が一流の証明です。

歌やせりふはアートで、スポーツより自由が効くので、本質のが見抜きにくいです。見抜く人は早くオリジナリティの壁につきあたります。見抜けない人や、他人のようになりたい人は、異なる壁に突き当たります。見本のようにはパーフェクトにできないという不可能の壁です。

 そこに優劣の基準を設けることは難しいことです。人の好き嫌いというもの、ファンという移ろいやすいものに支えられているとするなら、エンターテイメントとしてみるしかありません。

 とはいえ、何でもOKです。よいものは人に伝わり残っていきます。そういうものを価値とする、というのは結果論です。

 そこまで考えると、ヴォイトレのよしあしも申せません。いろんなメニュや方法で、いろんなトレーナーや関わる人がいるという状況で、私もよしとしているのです。

 

○成り立ちのありよう、ありかた

 

 まとめておきます。(詳しくは「声の基本図」参照)

基礎←→応用

自分←→相手

積み重ね←→飛躍

これらは左から右へいくのでなく、インタラクティブ(双方向性)です。

 ヴォイトレは、体から声へ、そして、自分の声へ進んでいきます。

 歌やせりふは、表現の必要性から声を引き出していきます。

 

レーニングでは、地力、底上げ、再現の確実さ、徹底した丁寧さを目指します。

 レッスンには、いろんな目的があります。私のレッスンについては、内容としては次の4つが中心です。

 

1.日常のトレーニングのチェック

2.声のチェック―体、息、発声、共鳴、それらの結びつき

3.表現のチェック―声を中心としたオリジナリティ

4.ステージのチェック―表現を中心としたオリジナリティ

 

〇ステップとメニュ

 

歌でもせりふでも、歌手でも役者でもかまいません。

 何かをチェックするということは、一つ下に戻って、支えるためのそれぞれの要素を、より確実に行なう、行なえるように調整したり、鍛えたりすることとわかります。

 歌は、歌としてみるのですが、そこでチェックしたり直したりするのではありません。そこでの問題を一つ戻って、それを成立させる各要素の成り立ちのありようをみるのです。

 ヴォイトレというのは、歌のありようをみて、それをバランス調整するだけでなく、どのありかたなのかを根本まで遡ります。たとえば、舌や軟口蓋や喉頭の位置などをみて直すようなのは、こういう理由です。

 

 トレーナーは、表現をみながらも、その基礎のところまで、いくつかのステップを戻ります。連続的に、かつ構造的に捉えていくのです。医者の診察のように仮説をたてながら、不足している情報を得るために、メニュ(この場合は、チェックリスト)で本当の問題をあぶり出していくのです。あるときは部分的により丁寧に絞り込んでいき、包括的にみます。

 何かを習得させるためにメニュがあるのではありません。問題を拡大して本人に気づかせ、自ら修正できるようにするために、メニュを与えるのです。レッスンは気づかせること、ピアノを弾いているだけでも、スケール範囲、テンポなどをいろいろと変え、気づかせようとしていきます。

 

〇沈黙のレッスン

 

教えないで気づかせること、それまで待つ沈黙のレッスンこそが、もっとも本質なものと思います。教えないレッスンが成立するには、生活からの表現の感覚が磨かれているか、磨かれてくることが大切です。

教えられることがレッスンだというのは、私からみると依存症です。今の日本の教育を受けたらそれも当たり前となった人がくるので、成り立たせることが難しくなります。商品のように「払った分、ノウハウを教えろ」となるからです。

ことばで言うのは簡単ですから、多くのトレーナーはすぐに教えます。教えていると楽だし、気持ちいいし、時間も早く感じるから、先生というのはとかくしゃべりたがります。求められないことまで話してしまいます。その方が生徒の受けもよくなり、充実したレッスンになります。しかし、これこそが虚構のトレーニングなのです。

私はトレーナーに「話すな」「理論を言うな」「教えるな」「やらせてなさい」と、時折、注意します。力のないトレーナーは知識や理論を使わないと間がもちません。

最初はしゃべれなくても慣れてくるとしゃべれるようになります。受けがよくなり、2、3年放っておくと話がとても多くなる。自分が学んだり、他で気づいたことを話しまくります。本人の気づかない慢心も出ます。私はそれをメッセージや会報ですませるようにしています。文字にするとフィードバックができるからです。

 

〇活かすか育てるか

 

 レッスンの目的を個別(その人のオリジナリティ)のモデルか、共通の要素(誰にも必要と思われるもの)に重きをおくのかで、そのスタイルも大きく変わります。

 「誰にでも必要と思われる」ことは、オリジナリティの価値がある人ほど必要としないこともあるので、そこでトレーニングをどう考えるのかは大きな岐路になるわけです。

 たとえば、オリジナリティを重視するなら、その人の今の全部、歌い方を、作品、ステージ、音響も含めて、どう活かせるかを考え、声についてもそれに最大限必要なところまで伴わせます。これは、プロデューサーや演出家的な立場です。すでに選ばれたものを選んで絞っていく、即戦力として役立てるためのレッスン=調整なら、これでよいのです。

 しかし、育てていく立場なら、その人中心に考えます。その人のよいところが活かされる(基礎の徹底)のと、仕事になる(求められる)ことは、必ずしも一致しません。

 私はその一端として、声楽を音大にいったつもりで学ぶようなトレーニングをお勧めしています。

 

○音大リスク

 

 研究所では、発声については、ある面では、音大やスクールよりも効率をよく伝えられていると思います。発表に重点をおいていない分、そのためのロスを基本の声づくりに集中させられるからです。

 研究所には、少なくとも8つ以上の音大の声づくりのノウハウをおいています。

 これは、私一人が教えることとはケタはずれにパワフルな体制です。

「一人のトレーナーの考え方や方法、嗜好で結果が左右されるリスク」が防げます。

 トレーナー同士が話しあえば何事も解決するわけではありません。それを徹底していくと、意見、見解も分かれることでしょう。それでも本人に多角的な気づきを、早くたくさん与えていくこと、同じ期間や同じ練習に対して、よりよく変えていける可能性が高まります。

 

〇効率とステップ

 

 効率というのは、一つの指標にすぎません。情報が優先される世の中において、即興的効果、早ければ1回ごとと、1、2ヶ月で何かを効果としてみせることを強いられるトレーナーは、そういう方法やメニュをとらざるをえないからです。

 これをわかって行っているならまだよいのですが、トレーナーによっては、いらっしゃる人が充実したり、満足するのがもっとも正しいと信じているのです。こうなるとビジネスか癒しです。ヒーリングなどにもその傾向が強くみられます。

 「早く2、3割よくなるプロセス」と、「時間がかかっても2、3倍よくなるプロセス」とは一致しません。早く2、3割よくしていこうということが、その先の可能性を低くしてしまうのです。

 初心者用レッスンというのが第一歩として、第一ステップとなればよいのですが、入口に入れない第一歩であることが多いからです。

 より高いレベルにいたるには、より深く掘り下げなくてはいけません。建築物のように、高さを考えるほど、土台を深く堀ることを優先することと思っています。自己流を停止させ、基礎を固めるのが初心者用レッスンと思うのです。それが本人の自己流と異なっても、トレーナーの自己流となるのはよくないでしょう。

 

〇即興的効果の限界

 

 現実にステージをやっている人がくると、今さら土の中にいる蝉のような潜在期をもつことは難しいのが現状です。オーディションや大きなステージ前には、柔軟的なこと、調整以外のことは、薄めてステージに差しさわりのないように、用心しなくてはなりません。「ヴォイトレをやったら、へたになった」と言われかねないからです。だから、柔軟、のどの調整がヴォイトレのように思われるようになってきたのです。

 ワンポイントアドバイスなら調子がよくなるのですが、根本的に変えていくようなトレーニングをすると、一時的にバランスをくずし、調子の悪くなることもあります。

 自己流で泳げている人に、コーチが正しいフォームを教えたら、一時は、泳ぎにくくなり、記録も上がらなくなくなるでしょう。ふつうは、バランスがとれず疲れます。

ここでメキメキよくなるのは、自己流というのがひどかった人だけです。そういう人がヴォイトレにも多くなってきているので、問題がややこしくなるのです。

ここで正しいというのは今日結果が出るので正しいのでなく、将来、今とは比べられないくらいに飛躍した、よい結果が出るので正しいということなのです。それを今日だけでみるなら間違ったフォームとさえなります。

 

腹式呼吸を例に

 

 たとえば、呼吸法だけでも変えたら、発声は今までよりうまくいかなくなります。声を変えたら歌もうまくいかなくなります。といっても、肺呼吸をエラ呼吸にするわけではないのです。

 トレーナーは「腹式呼吸に切りかえなさい」と言うのですが、「胸式と腹式を併用して呼吸しているのを、腹式をより働かせられるようにする」ということです。「より高度の必要に使えるようにする」ということです。

 「長く伸ばす」とか「大きな声を出す」とか、「楽に出す」というのが進歩としてわかりやすいので、目的にされます。本来は、「より繊細にコントロールすること」「息から声に、より確実に変え、理想的に共鳴し、それを支える」ということです。

 「より大きな必要に耐えられる」ように、胸式呼吸でがんばると、肩や胸が上下にも動いてしまうので、発声に支障が出ます。それを抑えられたらよいだけです。お腹で横隔膜あたりで対処するのです。

それは発声のためという、生命のためとは異なる機能で強く求められたために生じたことです。そのために呼吸法、呼吸トレーニングがあります。といっても、それも日常の延長上なのです。より大きな表現、より大きな必要性があって身につくのが理想です。

 「○○法」とかいうように、特別のメニュをつくるのは、そこだけに要素を分けて、集中するためです。

 

〇余裕と余力

 

表現するには、ギリギリの基礎より、やや余裕をもって余力のあるくらいに身につけておいた方がよいということもあります。

より早くより強く身につけられる、これが私の考えるヴォイトレ、つまり、トレーニングです。

ふつうのヴォイトレは、「胸式を腹式に切り替えましょう」レベルですから、何年たっても、結果として、あまり身につきません。1、2回でも、あるいは1、2ヵ月でも、そのような感じにはなります。緊張気味のレッスンで、少しゆるめたらそう感じるだけです。パンに飽きて中華を食べるとうまいと感じるようなものです。日常での少し運動したあとくらいの強さの呼吸にすぎないのです。他のスクールからきて、腹式呼吸や腹から声を出せるような人は、10人に1人もいません。日夜トレーニングしていないのですから当然です。

 トレーニングでも、その必要性も高めていないと何年たってもそのままなのです。

 

〇フォームと基礎

 

 スポーツでも、フォームを教えてもらったところで、それをキープする感覚や支える体、筋力を身につけていかないと、自己流のくせのあるフォームに戻ります。

 知らない人よりはましかもしれませんが、できないのは同じです。こういう人は、しゃべるとまっとうなことを言います。ヴォイトレのトレーナーにも、そういうトレーナーのレッスンを受けた人にも、そういうタイプの人は少なくありません。わからなくても、説明できなくても、できていれはよいです。

 息の吐き比べ、声の伸ばし比べでもよいでしょう。息での声のコントロール力だけでも、その違いは一目瞭然です。

息を吐けたからといって偉いわけではありません。歌やせりふがすごいこととも違います。ただ、基礎というなら、比べるとわかりやすい。試合でなく、野球の素振りやサッカーのリフティングだけみせて差がわかるというようなものです。

本当の基礎の差はせりふや歌でなくとも、一瞬の呼吸、声でわかります。そういうことが直観的に感じられない人が多くなったのは、困ったことです。

 その人の動作や体つき、たとえば、筋肉の付き方からだけでもわかるのが、アスリートの世界です。もちろん、スポーツにもよりますが…。それでも、走ることなどを除くと、スポーツは、楽器のプレイヤー同様に、かなり特別なトレーニングを長期にわたり、続ける必要があります。

 それに比するのは、ポップスよりは、声楽や邦楽の世界でしょう。そのためもあって、私のトレーニングのベースの説明は、そうなっていったと思うのです。

 

○レッスン特有の価値問題

 

 個性とは、多様なものですから、それに基づくレッスンでも多角的にものをみるようにしています。そのことは、共通化、共有化、ルール化が必要とされる実際のトレーニングにおいて、多くの問題を引き起こします。まして組織として、複数で行うと尚さらです。複雑になってもしかたないので、どこかで「エイヤ!」とシンプルに切らざるをえません。たとえば、効果となると、トレーニング前と後に比較ができるような指標をとらざるをえなくなります。

 人間は、わかりたいし、わかりやすいほうをよいと思うので、自ずとそういう方向に進んでいくのです。そういう方向に進めている人が評価を得ているとそっちへ行きたくなります。組織ができるといつ知れず、それが固定観念となっていきます。例外を許さなくなっていくのです。ミュージカルや合唱団なども、その傾向が強いですね。何にあっても「道」というものがつくられやすい日本人は、一糸乱れぬことに美を見出そうとする意識が強いように思います。

 

 一般の人だけでなく、さまざまなトレーナーや専門家がここを訪れてくださいます。それが、固定観念を妨げてくれるところがあります。

人は、正解を求めてくるのですが、私は「そんなものではない」と述べています。

 私の本を読んできた人も、同じことを聞くことがあります。つまり、突き詰めると「でも、正解は?」

 これについては、レッスンという場も、時間が限定された特別な空間として、ある目的をもつ場合での仮の答えとして考えるしかありません。トレーナーに接する時間や場を共有し、ヒントを得るために使うことです。

 

〇教える関係での偏り

 

 トレーナーの仕事が教えることとするなら、何らかにおいて教えられる人よりすぐれており、そのスキルを伝えることで仕事としているからです。

 すると、歌ってきた人とこれから歌う人の間では、歌ってきたことで知っていることを伝えるのが教えることにもなります。プロがアマチュアに教えるといっても、表現のプロもいれば、指導のプロもいます。何をもってプロとするかは大変にわかりにくいことです。アマチュア同士で教え合うこともあるので、あまり区別しないでよいとも思います。

 

 スクールでは、入ったばかりの人が、すぐにトレーナーに勧誘されてなっているケースもあります。そういう人は、いろいろと困って、よくここに教え方を学びにきます。教える資格がないとは思いません。長年やっているからといって問題がないともいえません。完成することのない、奥の深いものだからです。

 レッスンやトレーニングでは、「教える―教えられるという関係」が生じることによって、それまでになかった、たくさんの問題が出てきます。それらのなかには、教えるという体制をつくるためにつくられたもの、人によっては必要のないもの、役に立たないもの、害になるものも少なくないのです。

 

○文化とプログラミング

 

 私は、どんなメニュもやり方も、ないよりはあったほうがよいと考えています。選ぶ機会が多様にあるのが豊かなことであり可能性も広がるからです。そのなかから選ぶだけではありません。自ら創り出すための材料となるからです。一人でゼロから創ることを考えてみたら、どれだけ助かることでしょう。

 人類は先人の経験を生かし、文明や文化をつくり出してきました。継承の上に創ったから偉大なこともなしえたのです。

文明は共通に基準化され、伝達され模倣されて発展します。一方、文化は、一般人、一個人、一地域、一時代のオリジナリティを元とします。この二律相反の問題には悩まされるものです。

あるところまでのプログラミングは、文化、芸術の理解、指導、習得に有効です。私が方法やメニュを一個人でなく、組織として扱い、それを通じてまとめ上げ、公開するのもそのためです。

第一段階として、材料を一覧化しています。第二段階として、ノウハウやメニュを欲しがる人が多いのですが、必要なのは、基準とそれを満たす材料です。

 表現は基礎を必要として、基礎によって可能性を大きくします。しかし、基礎そのものの中や、その延長上に表現が生じないことも多いのです。小説をいくら読んでもよい小説が書けるのではありません。それをいうなら、いくら書いてもよいのが書けるとは限らないともいえます。

 声は基礎、表現は歌やせりふとなります。声を出しても、そのまま表現にはなりません。それは、よい竹を叩けば、よい音が出るというレベルです。尺八の音にするには、楽器として加工し、演奏者が技術を高めなければなりません。そのレベルでの表現を私は目標にしていますが、難しいものです。

 

〇基礎の声

 

 声が基礎、でも基礎の声とは何か、ということが最大の問題です。人間としてもって生まれたもの、例えば顔などと同じで、時代や違いによってよしあしはあっても、正しいとか間違いとかはありません。今、流行の歌や声というならあるのでしょうが…。

 「どの人の声にも間違いはない」ということです。いろんな問題を抱えて、いらっしゃるのですが、本当に問題になる人は1パーセントくらいです。声が出ないとか歌がへた、音痴が直らないといっても、その1パーセントの人以外は、大して深刻な問題でないのです。

 その1パーセントの人の問題は、声の器官、耳(聴覚)、脳の問題があげられます。医療の分野やメンタル的なアプローチを要します。

 

 多くの人は、「本来の問題をきちんと捉えられていない」「足らないものを知って補充していない」だけです。それをチェックしていくのがトレーナーの第一の仕事でしょう。

 そこでも大半は、声というよりは、話や歌での機能での問題、声量やことばの明瞭さ、滑舌(発音)や音感、リズム感の解決をはかります。不慣れなら慣れていくことで、ほぼ解決します。緊張などメンタル面も大きく関わっています。

 舌、表情筋、呼吸筋ほか、柔軟性や運動不足などの日常生活のもたらすものが関係します。そこからみると、発声の効率などは、基礎であるのに高度な問題です。

 

〇くせをとる

 

 本人の声と本人の理想とする声(憧れの声、モデルとしての声)とのギャップは、問題です。

声の判断基準は、いろんな人の声を聞いて、できてくるものです。多くの場合は、自分の声から目指すべき理想とイメージでの理想にギャップがあります。

 すでにこれを無理に(くせをつけて)のりこえると、自分本来の発声でなくなっているのです。歌うときにはもちろん、日常の声にもくせはついているものです。

 自分の発声と思っているものも、本人のもつ生来の声に、育ちや生活(環境や習慣)が入って、姿勢などと同じでくせがついているものです。ですから「くせを取り除く」というのが、レッスンの第一の目的となりやすいのです。その結果、そこでは悪い意味で合唱団の発声のようになることが多いのです。体や呼吸の使い方も、声量を抑えて丁寧にということで不問になるのです。

 それが本人らしい声なのか、理想の声なのか、他人の求める声なのか、いろんな見方があると思います。

 私は何であっても、できないよりはできた方がよいという判断もしています。表現の可能性、応用性を大きくしていくのが、トレーニングの目的でもあるからです。合唱のできる人は、できない人よりもよいのです。ただし、そこから踏み出せたら、です。

 

〇応用力のある声

 

基礎としての声をどのようにするかは大変な問題なのです。多くのケースでは、「シンプルに認める」か、「タッチしないでスルーする」というようにされています。

 私は、これを応用力のある声と捉えています。

体の中心からの声で、共鳴した声でなく、共鳴を自在にできる声、

芯のある声、小さくても聞こえる声、通る声、深くてパワーのある声、

口を動かさなくても発音が明瞭な声、

聞いて心地よい声、その人らしい声、説得力のある声、しぜんな声、

器の大きい声、限界のみえない声、

と捉えています。

 

○よい声とタフな声

 

 私が皆さんと接して使っている声は、もっとも私らしい理想の声やよい声というよりは、仕事を完遂できる声です。崩れずに8時間以上の持続に耐えられる声です。よい声かどうかは別にして、タフな声、強い声です。仕事に使うのですから仕事の声です。

レッスンのなかでは、変えることもあります。使える声といっても、応用されるのですから、ケースバイケースで多様なものです。

 

 応用というのは、ある意味では調整でなしていることです。自分のもつ器のなかで上下左右と動かしていくことは、器の拡大とは違うのです。これを上下左右、器のなかでも大きな振り幅で動かしていけると、結果としてしぜんと器を大きくしていくことになります。リスクをおさえ、時間をかけてやっていくことで、トレーニングとしてみると正攻法なのです。

 大人の声になっていくのは、人生の歩みとともにある声です。トレーニングではない、しぜんな日常の声の進歩が、本来は理想です。

 

〇強さを求める

 

 誰もが歩いたり走ったりしていたらオリンピックに出られるとか、記録をつくれるわけではありません。高いレベルを求め、自分自身の不足を補い、能力を早く手にいれたいとなると、無理が生じます。その無理を承知の上でセッティングするのがトレーニングです。私は「トレーニングは必要悪」と言っています。

 

 今の器を大きくするのは、今の形を壊すともいえますが、違うものをゼロからつくるのではありません。ベースに今のあなたの声があります。その最大の器をみます。そのまま全方向へ伸ばすのではなく、ど真ん中の声をみて、そこをつかみ直して、可能性をマックスにしていくのです。

 野球で言うと、ストライクゾーンを拡げるのではなく、もっとも力を発揮できるコースを絞り込んで、自分自身のストライクゾーンをセットしていくようなものです。それが資質や応用性に恵まれていて、ルール上のストライクゾーンを包括するくらい大きくとれる人もいれば、その半分くらいしかとれない人もいるかもしれません。

 しかし、勝負すべきは、広さではなく強さなのです。

 

 声の広さというと声域になるのですが、ヴォイトレでは、高音を目的にトレーニングをする人ばかりが目立ちます。そのためのトレーニングとやらは、長い目でみると、方向違いになりかねません。トレーナーの指示とメニュで、一時的な上達に長けてしまうことも少なくないのです。

高い声が出るようになっただけ、声質(音色)やコントロールは、初心者のままという結果です。何年たっても、そうであれば、プロセス、そしてその目標のセッティングが違っていたのです。

 

○刷りかえで教える

 

 たとえば、「歌える体づくり」といっていながら、「声の向き」の指導において、「できましたね」とほめるときには、いつのまにか声の高さが変わっています。「向き」ということをポイントにするのは、悪いことではありません。

高さが変わってできるようになったのなら(それが目的なら)よいのです。そうでなく、最初からできる高さに問題をすり替えて、「できた」というのは、まやかしにすぎません。

 自信をつけ、トレーナーの信頼感をもたせるためにしているのなら、一種のトリックです。右に求めていたことを左にしてOKと思わせているのです。多くのトレーナーは気づかずにやっているのですから罪はありません。トレーナー自身が気づいていないのが、今の日本のヴォイトレのレベルです。こういう例はとてもたくさんあります。意図せずやっているのです。

 

〇目的のための仕掛け

 

 私やここのトレーナーは、多少、意図的に使っています。私は知って使っていますが、知らないで使っているトレーナーがいたら、そこは注意します。そういう手練を知った上でレッスンに役に立つなら使ってもよいと思っています。しかし、これをトレーニングとか、トレーニングの成果とすべきではありません。

 レッスンに、こういう仕掛けをするのは、目的を遂げる手段の一つとして容認しています。ただし、トレーナーが知っていて、トレーニングのために役立てることが前提です。リスクも使える範囲も知っていて、処方するからこそ、専門家です。

こういう場合、声を害するのは、注意を守らない人の一人よがりの自主ハードトレーニングです。

こうしたトリックがトレーニングと信じているトレーナーも少なからずいます。すると、レッスンを受けても変わりません。次のようなところで、こういうトリックは、よくみられます。

 

高い音に届かせる→あてる

音程、あるいは音高を正しくとる→あてる

大きな声にする→ぶつける

 

 その日に行う下半身の筋トレや、股関節の柔軟、お腹のふくらみ、お尻の穴を締める、手を上げるとか、このあたりも、状態の変化を促すためのとってつけのようなものです。何かを変えるためにやっても、プラシーボ効果です。

 「気持ちや体の状態が変わることで初心者の声は大きく変わる」「変わったように聞こえる」ので、よく使われるのです。どれも、高いレベルでは使えないことで、本当に変わったといえないのです。

 

○「お腹からの声」の嘘

 

 大きな誤解の上で行われている一つは、「お腹からの声」「腹式での発声」「声量のある声の出し方」でしょう。質問にも多い事柄です。

 高音に届かせたり、喉をはずしてクリアな声にしたいなら、そう出すことは調整でできるようになるのです。しかし、その実、ぬいたり、そらしたり、逃がしたりしているだけのことが多いのです。ポップスのトレーナーの見本をみるとわかります。

 カラオケになら使えるのでよいとして、「体からの声を腹式呼吸によって(同時に)出す」というのは、一般のビジネスマンなどの声の指導などにも使われるようになってきました。しかし、大体が「押しつけ、無理をした声、お腹を固めた声」です。

 そうしたトレーナーの見本の大半が、お腹からの声でなく、「のどで胸に押し付けた声」になっています。そうでないトレーナーは、ごく少数です。

 

〇演出としてのトリックと実際

 

 しぜんにお腹から出ている声では、レッスンとしてわかりにくいので、わざと、体や息を使っているようにみせるような“演出”が必要なこともあります。深い息を、無音なのに、有音にしてみせたりするのは、私も演出(先の「トリック」)として使っています。しかし、トレーナーがそれを本当に「腹からの声」と思っていると、どうなるかわかりますね。のどを乾燥させたり痛める危険が大きいでしょう。

 

 私は「トレーニングは無理を強いるもの」と言っています。それが、本当に使える声として反映するまでにはかなりの時間、タイムラグをみています。

 「できないことは簡単にできるわけがない」というのが原則です。「すぐできたらおかしい」と言えます。そこで教わって、すぐにできたとしたら、それはトレーナーがすごいのではなく、トリックです。

 フィジカルトレーナーのところでも、いくつかの例を示しました。それが入口で本人のモチベート、やる気になるならよいことですから、私は反対はしません。

 ただ、そういうトレーナーが多くなると、そうでないことをしっかりと時間をかけるトレーナーを無能に思うようなことがあるのが問題なのです。「どこまで求めるか」ということです。

 

○「できる」ということ

 

 ある能楽師の話です。「鼓というものは最初うまく鳴らない。手で打っていると、よい音が出るのに30年もかかる」しかし、「そのあともずっとよくなっていく」そうです。それを最初から無理に伸すと、板などで打つと、すぐに音が出るようになるのですが、長持ちしないそうです。発声も同じことに思います。

 体からの声でも、調整としては部分的な障害として、力が入っているのを解決するのに、脱力、柔軟などをします。呼吸の扱いの向上が発声へ結びつきます。共鳴のイメージと共鳴の向上など、本一冊では述べられないくらいチェックポイントがあります。それは求めるレベルや人によって変わります。

 

 姿勢を定め、固定し(下半身の力で支え、上半身のリラックス)、フレーズを短くすると、できたように感じます。しかし、そこで間をとらずに8フレーズくらいに伸ばすと、もう対応できません。「ハイ」でも説明した通りです。

 

 歌やせりふで、バランスや間や流れが悪くなっているのに、「できた」とは言いません。メニュを使わなくても、1フレーズで、ゆっくりと短めにやればできていくのです。

 

〇両立させる

 

トレーナーの考えた方法やメニュでできたように思わなくてよいです。その分、他のことが疎かになり、両立できていないのをみていないだけです。つまり、ABCDEの課題で、ABCDができて、Eができていないときに、Eだけやって、できたというのは一つの要素を取り出しただけです。A~Dと両立できていないのです。本当は使えていない、使えないのです。Eだけでやれば元々できているのを、「できた」と思っただけです。本当にできていたら、すでにA~Eのなかでできているのですから。A~Dとともに使えなくては本番では使えないのです。

 「一人でやるとできない」というトレーニングには、こういうケースが多いのです。こんなことはレッスンを受けている人は知らなくてもよいのですが。

 「できた」と思ってやる方が、「できていない」と思ってやるよりも楽です。その錯覚を利用するのは、一つの方法です。

 つまり、ABCDは○、Eは×を、ABCD-×、E-○にしてみせたのです。もっとも多く犠牲にされるのが声量です。小さな声にすると、他のことはうまくこなしやすくなるのです。

 体を鍛え、息を深くして、声の結びつきをより強固にして、その結果、体から出た声は、聞くだけで違います。姿勢も、ポジショニングも、呼吸も発声も「しぜん」のままに体から出した声でないと「ふしぜん」で、しぜんには使えないのです。

 

 私はビジネスリーダーに、「アナウンサーのように話すな」と言います。役者や歌手に、「ステージで腹から声を出すとは考えるな」と言います。

 調整は今すぐ使えるとしても、トレーニングが今日使えることはありません。アナウンサーのような滑舌練習、オペラ歌手のような腹式呼吸の練習は、毎日やります。

 

○心身の問題 

 

 筋トレや柔軟に対して、私は「自分のメニュ」と「教えるメニュ」と分けています。

「他のトレーナーのメニュ」も否定もしません。「どんなメニュでもよい」と言っています。本人にとってよいのか悪いのかは別のことです。

 どんなレッスンでも、生徒もトレーナーも思い込みのなかでやっています。ですから、「あまり片寄らないようにやる方がよい」といえます。

 たとえば、走ることをいくら練習しても、山を登るときはつらいでしょう。それには階段を上るような運動の方がよいトレーニングになるでしょう。

 

 息を深く吐いてみるのは、深く息を吐くためでありません。表現の声の必要に応じた深さで入れるようにするためのシミュレーションです。「息が浅い」と言うのも、ことばへの感覚やスピード感が劣っていることが問題なのです。すぐに息を深くしても直りません。

 

喉が弱くなった。

声量がなくなった。

声域がせまくなった。

 

これらは、一つひとつの問題より、心身の問題であることが多いです。発声法や喉の問題にするのと、トレーナーとしては教えやすいし、そこでできたように思わせられやすいからです。心身のトレーニングで、あなたの実力は2、3割は、アップする(取り戻せる)はずです。

 

〇一つの声として、みる

 

魅力的な声 

説得力のある声

強い声

よい声

安定している声

 

これらは、それぞれに違います。できたら一つの声(の応用)でまかなえるのが理想的です。すべて自由に変じて対応できるのが理想ですが…難しいものです。

 自分の声を中心に、自分の声の中心をみつけ、イメージや理想をその可能性のマックスのところにおきます。そうするようにできるようにすることです。

 

 あこがれの人の声を中心にして、まねていこうとしたり、そこで自分の声とのギャップを埋めようとしないことです。またいくつもの声の出し方をそれぞれに使い分けて、つくってしまうようなことも感心しません。教え方としては一般化しているようですが、特別な目的の場合を除いて、私のところでは行っていません。

 

 発音、話し方、歌い方などの表現においては、一流の作品からストレートによい影響を受けてください。そういう環境に身をおきましょう。

たった一人の相手を見本にするのでなく、何人もの一流の人から多面的に刺激を受けて、自分の未熟さを補いましょう。一流のアーティストの共通のベースに気づき、自分の不足を補っていくといのです。

「トレーナーとアドバイザー」

〇トレーナーとアドバイザー[E:#x2606] 

 

 現在の日本のヴォイストレーナーは、ヴォイスアドバイザーやヴォーカルアドバイザーにあたると思います。

アドバイザーは、役者、声優、アナウンサー、ナレーター、朗読の指導者で、今ある力を100パーセント確実に活かすために次のようなことを扱います。

1.全体のバランスの調整を仕上げ

2.発音、発声の安定、使い方や応用のアドバイス

3.メンタル的勇気づけ

アナウンス学校やカラオケの先生を思い浮かべるとよいでしょう。

それに対して、トレーナーというのは

1.個々の要素の相違、分析と目標設定、調整

2.心身や発声そのものの強化、鍛練、地力のアップと調整

3.日常でのトレーニングやその管理

これはパーソナルトレーナーを思い浮かべてください。徹底して個々を中心とするのは、当たり前のこととして、多くの研究や試行錯誤の上に専門家として、対処するというのが、違いです(この専門というのが一口で説明できないのですが、実技の経験だけでは無理ということです)。

 

○白紙にして大きく変わる

 

 体で覚えていくものは、覚えていたらできているのですから、できないとしたら、それを認めることからです。これまでの考え方、やり方、経験の上に、よくも悪くも今の自分の実力があると認めます。それで不足していると感じるのなら、他の助けを借りないと大きく変わらないと考えることです。

そのために

1.目標の基準

2.現状の把握基準

3.1、2のギャップを埋めるためのプロセス(計画)

1、2を明らかにして、そして、3の可能性をきちんと考えることです。

覚悟のもと、自主トレするのなら、可能性を考え、実行あるのみです。

トレーナーとのレッスンとなると、大切な問題は、何でしょうか。自分の体をオペするなら自己責任、他人の体をオペするには、合意がいることです。手術にも100パーセントがないように、声も誰でもどうにでも変わるわけではないのです。

 レベルの低い目標や、経験の少ないトレーナーなら、誰でもどんなことでもできるように言うかもしれません。せいぜい、今より多少よくなるくらいでしょう。少しよくなっても目標に到達できるわけではないから、私からみると、それは効果なしに等しいのです。大きく変わるために、他の人を使う、専門家のアドバイスを受けるのです。

 

○勘と発想 

 

 次の3つの原則を頭に入れましょう。

1.誰もをその人が望むようにできるというトレーナーはいない(あなたにとって、トレーナーが仮にそうであったとしても、それ自体、客観性に乏しいことですが、他の誰もがそうはいかないということです)。

2.どのトレーナーもメリット(強味)もあればデメリット(弱味)もある。

3.オールマイティにこなせる人ほど個別対応に弱く、特定のことに強い人は、他のタイプに弱い。

つまり、強い分野や強いタイプがある分、弱い分野や弱いタイプもあります。

 これは、十数名のトレーナーとずっと続けている私だから、よくわかることです。

 新しいトレーナーに対し、半年くらいは、そのトレーナーの強いところと弱いところ、向くレッスンと向かないレッスン、向く相手と向かない相手を見極めていきます。それは見極めと同様に大変なのです。

その人のその時の声だけみて、毎日どのくらいその練習をするのかがわかるわけではありません。本人がやると言っても、どこまでやるかまではわかりません。

 多くの人と長く接していると、自ずと勘が磨かれてくるのです。私がトレーナーとして、いや、トレーナーをまとめて皆さんに提供する立場として、もっとも重視しているのは、こういう経験から働く勘です。トレーニングの現場で見聞きしたり試行してきたことからの発想です。この二つが、もっともな大切なことです。

 

○うまさと仕事の価値

 

 技術を得たいというなら技術のある人に、世の中に出たいというなら世の中に出た人についていけばよいのです。ただ、歌手というのは、歌手を育てるのに適していないということです。歌手になりたければ歌手を育てた人につくのがよいと思います。

 まじめな人ほど声や歌の技術が一番必要と思うのです。それを得たら、プロになれる、ヒットする、歌手や役者で生活できると。まじめな人ほど、名も知れず、声や歌がすごいという人に惹かれていきます。

これは、画学生がきれいに絵の描ける人にあこがれるのと似ています。学生ならいいでしょう。でも、その人はうまくきれいに描けるのに、その絵が売れていない、価値を認められていないという理由を考えないのはなぜでしょう。

世界中、日本中に声のよい人、歌のうまい人はたくさんいます。なのに、売れていないとしたら、声や歌がへたでも売れる人はもちろん、それで売れない人よりも大きな欠落があるということでしょう。これは、どんな仕事にも当てはまります。仕事とは創生した価値を与えることです。[E:#x2606]

へたな人はうまくなるとなんとかなるかもしれません。でも、うまい人はどうしようもないでしょう。

私のところも、そういう人がたくさんきたので、よくわかります。自信とプライドで固まったところに努力やまじめさ、一所懸命さが表れても、それはアマチュアです。アマチュアがプロになるのにもっていてはよくないのです。声のよさ、歌のうまさは一要素ということです。

 

○プロの育て方 

 

 プロの育て方はどういうことでしょう。プロデューサーが何千人のオーディションで最高の素材を選んで、歌を覚え込ませ、売れっ子作詞作曲家でヒットを演出させるという昭和の頃の歌謡曲や演歌のやり方は、もう通用しません。今も売れっ子の作曲家やプロデューサーに近づけばチャンスと思う人もいるのでしょうが、それはあなたが最高の素材であればです。

 彼らは、選りすぐれた人材を見出し、デビューさせることでのプロです。プロデューサーは、声質や歌い方のくせにファンのつく魅力を見出したり、2、3年たてばアイドルになる子を見抜く点ですぐれています。声質を重視しますが、それに偏ったプロデューサーも減りました。

私は、声100%でみた上で表現力を100%でみるという2つの基準をもっています。業界や市場の思惑は、最初は、別にしておくように、と思います。

 あなたがあなたを充分に発揮すれば、今の日本をきちんと生きてきたあなたは、今の何かを切り取ることができるのです。それは、私やトレーナーができないことです。だからこそ、共同作業のレッスンの価値があるのです。

 

○プロの育ち方 

 

 ここで「育ち方」としたのは、人は、育てようとして育つものではないからです。特にアーティストは、です。

学ばせて学べたら、教えて教われたら、そんなによいことはないのです。それはそうしないよりもましです。しかし、そんなことをしなくても、毎日そうして生きている人がたくさんいる世界では、それでは大したものにならないのです。

私が日本語の教室に行くようなものです。すると、教えると理屈っぽくなりそうです。日常では、さほど、そういうことはいらないのです。でも、理屈のなかに本質があれば、それのエッセンスが一つ上に行くのに役立ちます。

 だからこそレッスンを通じて環境や習慣、思考や考え方が大きく変わるのです。変わらないと、大してこれまでとアウトプットが変わらないです。

 歌やせりふは、他人の人生に触れていきます。自分の口から嘘を言って、その虚構に他人を引き込み、共感、感動を、ときにその人の生活になくてはならないほどの大きな影響を与えるのです。究極のサギ師です。

だからこそ、日常が日常であってはいけないし、他の人には特別な場のレッスンスタジオやステージが日常になってこなければならないのです。

 

○「気持ちより」発声を 

 

 小さい頃からピアノを弾けた人は、なぜ弾けるようになったのか、覚えていないでしょう。教えるときには、もの心ついてから学んだ人よりも苦労します。弾けるようになった手順を覚えていないからです。

歌ならなおさらです。もの心ついたときにスターになったような人は、教えるにも「気持ちがすべて」と。そのような人は「気持ち」でコントロールできるのですが、大半の人は発声、音感、リズムを何とかしないと、どうにもなりません。

NHKののど自慢のゲスト歌手の励ましに似たようなトレーナーのレッスンもみたことがあります。日本人が海外に行くと社交儀礼とともに、レッスンがそういうレベルでされていることがよくあります。

 自信とプロフィルの履歴がつくのです。私が体操を内村航平くん、スケートを浅田真央さんに習っても、彼らの人生の無駄です。

 幼い時に習ったピアノで絶対音感が残っている私に、その音を出せない人の指導はできません。しかし、十代でやりだした発声は、プロセスが明確に残っています。発声のプロセスをみたのです。

 

○音楽を知る 

 

 プロの歌手をたくさんみているうちに、

世界の基準からみる

一流との比較からみる

同曲異唱からみる

同一歌手の歌のよしあしからみる

など、骨董屋か目利きになるためのようなことを、私は歌声で他の人の何十倍してきました。

受講者の1コマ1時間ほど聞くものを、私は、東京で5~6コマ、京都で3コマと、ほぼ10倍、同じものを聞き続けたのです。それも十年以上ですから100倍です。フレーズなど1時間で30回ほどまわしたものは、1ヶ月の中で10コマ分、300回聞いたのです。

 教える材料として出したのです。その頃、私は「ヴォイストレーナーDJ」と自称しています。未来型の教育として認めてもらってよかったほどに思います。

 受け身の人には評判がよくないでしょう。日本での学校教育に慣れてしまった人には仕方ありません。

当初、ぼんやりみえていた輪郭がはっきりしてきて、確信に変わってくるのです。曲のよしあしが1フレーズごとのよし悪しまで鮮明にみえてくるのです。そういうレッスンを目指していたのです。

 

○贅沢なレッスン 

 

 毎日、熱心な生徒がレポートを出して、「この曲で」「このフレーズで」こんなことに気づいたと教えてくれます。それは、教室で終日ゴスペルを歌って踊って説教しているような毎日でした。

 私は世界レベルに歌を捉えて、そこから降ろしてきます。そうでないと、迷いが出てしまうからです。

本人のオリジナリティが音楽、歌のオリジナリティを凌駕したとき出してくる絶対性、オーラは、確かに存在します。それを使う作品(一部)、ステージは、伝説となります。

 日本の場合は、それが大衆のものとして一体化して認められないのです。ほんとにすごいものでないもの、ディズニーのイベントでさえ、芸術かアートのようになってしまうような構図があります。評論家の論評として、誰かまとめて欲しいものです。

私のケースでは現場で、レッスンのなかで相手の可能性を伸ばすための材料として使ってきたのですから、贅沢なことです。

 

○「もっとも厳しい客」として 

 

 私は飽きっぽいタイプです。それがよくも悪くも「もっとも厳しい客」としての判断のできる資質になっています。今でも、声や歌を溺愛しているといえません。他によりよく伝わる手段があれば、それを使います。声や歌で邪魔するべきでないと思います。ヴォイストレーナーとしてはあるまじき本音を吐いています。

日本の声楽は、舞台どころか基礎レッスンでも、一部しか成り立っていないと、声楽家たちと一緒にやりながら述べています。私にしてみれば、一部が成り立つところをすごくありがたがって認めているといえます。ポップスのような、暗中模索のまま、「失われた20年」より、ずっとましです。

 同じ曲、つまり、課題曲を1日に80人が歌うのを飽きないとしたら、モータウンレベル以上のアーティストを聞けた日でしょう。私はいつでも、そのレベルにセットして聞いています。

続けられているのは、皆様のおかげです。他のことは全て飽きてきたのに、わからないのが声の魅力です。

 日本人に必要なのは、アーティストの努力を認めつつも、つまらないものにまで優しくしないことです。当のアーティストが伸びません。「ブラボー」と言うのはいいけど、言おうと思って準備してきて言わないようにしてください。

 

○「アハ!体験」 

 

 本格的なオーケストラの指揮者はやったことはありませんが、似たことはやってきました。メトロノームで[E:#x266A]=60,80などの基本テンポを覚え、ドレミレドとピアノを弾くのにドーミとミードを数コンマいくつまで一致させようとしたりしてきました。何人もの世界の第一線で活躍する優秀な指揮者が出るのですから、日本人の耳は捨てたものではないと思います。

 私たちが苦手なハーモニー、瞬時のそのときの全ての音を把握する空間的な能力と、曲全体を総括して捉え、構成と進行展開を論理的に捉える時間的な能力です。

 私は歌に接して10年も経って、みえたのです。

それは、中学のバスケットボール部を退いてから、高校のクラス対抗のときに全体図、つまり10人の構成と次の展開がみえたのと同じような「アハ!体験」でした。これは、中学生の頃、TVでワールドカップ大会のサッカーをみて、高校でラグビー、アメフトをみて、大学でアイスホッケーをみて、ゲームの醍醐味がフォーメーションであることに気づいたことと似ています。

 

○織りなす曲 中島みゆき「糸」

 

 歌曲は、中島みゆきさんの唄う「縦の糸と横の糸が織りなす布」のように、まさに織物なのです。発色模様も計算された上で、アートなのです。

 大切なのはオリジナルのことばや音色、フレーズが出たら、一つでもよいから可能性としてストックすることです。それが恵まれている人は、構成を整理すればよいのです。惹きつけるところをセーブし、絶妙のタイミングに抑えるのです。それを私は促します。

 逆にうまくてきれいだけど、インパクトがない人は器量貧乏なわけです。一色、一線を求めましょう。何曲使ってもそれを見出すセッティングをします。声域、キィの変更、テンポの変更、声量を変えると、かなり変わります。効果となるポイントを探す、なければそれを出すためのセッティングがレッスンの目的となります。

 

○その人の音色 

 

 私の初期の本には、「一つもよいところがなければ、いくらがんばっても大きくは変わらない」「1秒が通じなければ1曲ももたない、まして1時間もたない」というような表現をしています。

楽器の演奏では、曲の前にその人の音色がなくてはなりません。楽器の音はある程度決まっていて、誰でも出せるようになりますが、それは楽器本来のものです。その製作者なら出せます。

 アーティストはそこから音づくりです。自分の音で線をどう描くかなのです。音の色と線で基本デッサンが成り立ちます。それを私はみているのです。

 それでつなげる曲もあれば、うまくいかない曲もあります。そこは選曲の妙となります。

アレンジが自由なのがポップスなのですから、ムリに声域、声量で不自由になる必要はありません。そこで無理をしているのが、日本のミュージカルです。声域とバランスをそつなくこなせる人しか選べなくなります。日本人では、レベルアップが難しいのです。

 

○次の世代の声 

 

 すでにある作品を輸入して、それをまねて作品をつくると、歌手にはハイレベルなものとなるわけです。こなそうとするのが輸入期です。その啓発期ではまねるしかやりようがないからです。

日本人がすぐれた歌手を世界に送り出せたのは、一曲です。そこに邦楽の伝統があったというのが、坂本九さんという、キャラクターのオリジナリティあふれるヴォーカリストの実績です。彼の母親は常磐津の師匠でした。

謡曲三波春夫、村田英雄ほか、邦楽との和魂洋才です。詩吟や長唄なども、オペラも、団塊の世代以降ではどうなるのでしょうか。

私はこれらを同列に扱ってきました。「マイクを使わないという条件での声づくり、体づくり」に共通するので、声の基準としてわかりやすいからです。

 

○声の力 

 

 思うに、80年代くらいを境に、ヴォーカルの条件が、音色、声量から声域に、ハイトーンへ変わりました。役者も声量が条件でなくなる、というか声の力でなくなってきたのでしょう。オペラも含めての、ビジュアルの時代の到来、シネマからTVの時代です。日本はそれが顕著でした。

「どこの国のアイドルも歌手なら歌唱力はあるのに、日本は」など言っていたのも懐かしいくらいになりました。

 世界を回ってレコードやテープを買うときは、「イケメンや美人、可愛い子を避ける」のが、私の原則でした。ときにニ物を持っている歌手もいますが、ブサイクな人ほど歌唱力が上なのは、どこでも同じです。デブ、ふくよかな人がお勧めです。

私がこの世界に入って最大の転機は、すごい美人の歌手がいくらうまく歌っても、全体重、いや全存在をかけたブサイクが出て、すごい一声を発すると、きれいとかうまいとかいった程度のものは、すべてが飛んでしまうということでした。ひどい悪口のように聞こえるかもしれませんが。

 

○一声の力と総合力 

 

 歌も芝居も、演じるというのは総合力です。一声だけで勝負は決まらないのです。しかし、一声だけで明らかに負けている場合はどうでしょう。

ミュージカルでも、テーマパークでも一声の違いで日本人と外国人は区別できました。長年、世界の声と比べてきた私には、ヴォイトレとは「まずは、その一声からの勝負を可能にする」ための世界です。今の若いトレーナーは、あまりにも意識していないようです。歌を一声でなく、総合的なステージで見ているからです。

 海外では声の力は前提として確保されています。トレーナーはその使い方を応用度を高めるテクニカルな方へ導きます。特にマイクのあるポップスではそうなります。

日本も、歌手を目指す人は高音域が出ることばかりこだわるので、声のあて方のようなコツがヴォイトレのメインになりつつあります。トレーナー本人はよくても、その人に似たタイプしか教えられたことをコピーできていないのです。

本当に伝えられる声を目指す人は、私のところでも、基礎となる発声、技術を伝えられるソプラノやテノールにつきます。高いレベルを目指すなら最初からその方が早いです。

本当の問題は多くの場合、声域ではないからです。なのに、それをマスターすることが目的になっているのは、大きな間違いです。

 

○楽譜のビジュアルライズ 

 

 歌の解釈について、私は、雑誌の連載と通信教育でやることになりました。声の本質的なことを伝えようとするのは、とても難しいものです。メインは、詞の捉え方の深さを語ることで歌心を伝えることでした。文字の限界です。

レッスンでホワイトボードに図で表し、様々な工夫をして何とかイメージを伝えます。そのうち、長くいるメンバーとはイメージを共有できるようになるのです。

歌詞か楽譜にいろんな曲線を入れて、歌い方と、そこからよくなる可能性のあるところとに線を引いたり、一言、一字ずつに○△×をつけます。一字(一音)でもその入り方、キープ、終わり方(抜け方)で○△×をつけたりすることもあります。

部分を丁寧にみることでは、私は職人の域に入りました。コンダクターの個人指導並で、きめ細やかすぎるヴォーカルアドバイザーといえましょう。細部にいたり、なかをみるのと同時にフレーズや全体の流れをみているのです。

 

○ヴォーカルのフレーズ 

 

 細部にいろんな動きが出るのはよいことですが、それがメインのフレーズの線と共にどのように働きかけているかが大切です。作曲家が意図してプレイヤーの描く基本線をふまえた上で、そことセッションしていくのが、ヴォーカリストの歌というものです。そのままなぞるのでありません。それでは楽譜に正しく歌う音大の入試やよくある合唱団レベルでの歌いこなしになり、きれいでうまいだけのものとなります。

 そのときの変化、結果として、創造したものの評価は、その人の呼吸にのっているかということです。大きくはみ出させたいなら、大きな呼吸が必要です。それがないと不自然、形だけが狙ってそうしたのがみえて、音楽としてはぶち壊しです。素直に歌うより悪くなるのです。しかし、歌に飽きかけた客はそういう形が出ると声を出し拍手するのです。

○ヴォイスナビ集と楽しむレベル

 

 フレーズのつくり方をギターのフレーズナビ集のようにつくったことがあります。シャウトやアドリブを中心にしました。スキャットについて、数多くの基本パターンをマスターしておくと応用がきくと思ったのです。

歌唱に近いとわかりやすいのですが、うまくつくると、マイケル・ジャクソンの歌をコピーするようになって、日本の歌のステージでよくみられることです。却ってよくありません。発声上も応用をやるより、基礎をやるべきです。まねするべきでないということでは、ここでゴスペルなどをやめたのと似ています。

 音楽やダンスを日常のなかで自然と楽しみ身につけてきていない、日本人に対して、それを体得してきた外国人などは、「まずは音楽を楽しみ、感じることから始めましょう」となります。それは当然のことで、正しいと思います。パフォーマンスを楽しむにも、日本人には覚悟がいるのですね。皆と一緒にスタートするのは、とてもよいのですが、個人としての能力がないと、教えてくれるトレーナーがいただけで、少しも前に進まないのです。

 自分が楽しむのと、人が楽しむものを自分が出すのは違います。日本では彼らが言うのと同じように、「自分が楽しんでいないと、見てもいる人楽しくならない」というのが、「自分が楽しめばみている人も楽しくなる」となってしまったように思えるのです。

 

○相似形 

 

 私がいろんな歌唱の構造がみえたのは、楽譜の研究、いや、楽譜にこじつけて、すぐれたヴォーカルたちに歌唱の解釈や創造したなかでのよしあしの判断の基準を皆に納得させようとしたことによると思います。

シンガーソングライターがつくった曲を分析すると、作曲家とは違うおかしな点がたくさんあります。それはシンガー特有の呼吸や声の特質からきています。コード進行にのせて楽器でつくる人より、即興型(鼻歌型)の人はその傾向が強いことから、その意味をていねいに読み取ったものです。本人(シンガーソングライター)は、そんなつもりもなく、つくれてしまった。それでよいと思うのです。Aメロ―Bメロ―サビでのBメロ(日本人の歌の特色の出るところ)の研究でも、得るところが大きかったです。

 海外の曲などは4呼吸くらいでつくられて歌われています。それを日本人は4×4×4=64フレーズでカバーしています。力量の器の差が呼吸に出ます。日本でも昔は4行くらいで3番までの曲が多かったのです。それは日本人の呼吸に合っていたと思うのです。

 

○俳句、短歌に習う日本の歌唱

 

 私は、日本人の歌唱力からみて(ポップスですが)半オクターブ、30秒(Aメロ、4×4=16小節くらい)にする、「俳句、短歌のような歌唱」論を提唱しました。そこまではヴォイトレで自然にことばと音楽が一致するレベルの声をつくれるし、処理もできたからです。

その基礎もなく、2オクターブ、ハイトーンまで使うから、いつまでも声が育たないのです。歌が特殊発声技術の上にきて、それを追いかける人ばかりになったことを警告してきたのです。

しかし、ますます、そうなって歌は世につれなくなってきました。若い人に昔の歌がカバーされているこの頃の風潮も、こういうことでしょう。学校でのレコード鑑賞や唱歌は、ためになっていたと思います。

今は誰もがすぐにつくれるし、公開できる時代です。となると、つくるために学ぶというところからの観賞レッスンにするとよいと思うのです

 

○曲全体のトーナメント構造

 

 一例として、曲は、Ⅰ(1、2、3、4)、Ⅱ(1、2、3、4)、Ⅲ(1、2、3、4)、Ⅳ(1、2、3、4)で1コーラスとすると、これが3つで3コーラスです。このケースでは4×4×3コーラスです。

4というのは起承転結としての4つ、それぞれ1つのブロックです。文章と同じように、そこにはそれぞれの役割と、伝わりやすくする工夫が入っているのです。これをさらに細かく、Ⅰ(1、2、3、4)のⅠ(1)を取り出すと、ここにも4つのフレーズ(小節)a-b-c-dが入っています(数え方では8つともいえます)。すると1コーラスは4×4×4=64となります。そして、ⅠのなかⅠ-Ⅱ-Ⅲ-Ⅳのなかのそれぞれに1-2-3-4が入り、そのそれぞれにa-b-c-dが入るという3重の相似構造になるわけです。図示するとトーナメントのような形となります。

 

○相似形とニュアンス

 

 あるフレーズから出てきたものを+αとすると、この+αが出てくるルールがあります。その+α(私はニュアンスとよんでいます)が、どこに出るかをみます。最下層で出たところを結んだ形とします。+αが(1、2、3、4)の上位のⅠ-Ⅱ-Ⅲ-Ⅳにも相似形として表れていることがよくあります。

1行のなかの3つめのことばが、起承転結の転というのと同じ、1段落4行でも3行目が転で働きます。それがⅠ~Ⅳ番まであれば3番目が転じる役割となるというのと似た相関関係です。

 そのリピートと複層的なレベルでの2ステップ、3ステップと次元の違うところの相似性が、意味をもって聞いている人の心に迫るのです。転じた後、4つめにAメロに戻ることで安心感、落ち着きを出すというのも同じです。

 

○フレーズでつなげる 役者の歌 

 

 形を歌わない、演じて形だけにならないために、全てをゼロに戻して再構成する必要があります。実として身につけ、出すためです。

 個性の強い歌い手は、役者のように自分を中心として、歌を再デザインします。自ずとそうなるのです。

 日本では、役者の歌は音楽性で欠けるものが多く、全体の流れの構成、展開を無視して、自分の呼吸で音楽の呼吸を妨げる、つまり、彼らの強みであることばとその感情表現で、力づくでステージを成立させてしまいがちです。

しかし、それはリピートの効果を損じます。背景の絵を台無しにしてしまうのです。だまっていてももっとたくさん伝わる効果があるのを、一人で全てやろうとがんばってしまうのです。フランク・シナトライヴ・モンタンのように完全な両立をなしえた人との違いです。

 これはレッスンで変えることができます。表現力の基礎があれば、力の配分を加減すればよいからです。その前に声楽で高音域のマスターをしておくこと、歌の構成を入れることです。声そのものは、コントロール力の問題です。

 

○分解と再構成(「マック・ザ・ナイフ」) 

 

 ソロのプロでありたいなら、出る杭は打たれる日本の合唱団のようなところより、ステージを独自に経験してきた人の方が早いです。お笑い芸人の歌唱力がそれを証明しています。一人芝居でもよいでしょう。

歌手は今や、企画、演出、アレンジ、デザイン、スタイリストからメーキャップアーティストまで兼ねる存在なのです。演出家なども案外、歌えます。たとえば、渡辺えり子さんの「マック・ザ・ナイフ」は、日本語の歌詞も含めて最高レベルでした(エラのコピーですが)。

 

音楽としての構成、展開を実感させるには、自らその曲の作詞、作曲、アレンジャーになりかわることです。他の人の曲でかまいません。次のような手順で分解して再構成してみてください。

 テンポを2倍に速くして、息継ぎの回数を半分以下にします。Aメロを一フレーズで捉えて感覚します。そう、8×4小節くらいを4~8回のブレスで歌っているのを1~2回でできるスピードにするのです。すると、違う音の関係やつながりが感じられるはずです。元のテンポでもそのくらいのロングブレス、ロングトーンに対応できる呼吸を養いたいので、そのためにもよい練習です。

 

○つながりフレーズ感 

 

 よくA、A’、B、Aの基本パターンフレーズで(それぞれ8小節くらいで8×4行)のときに、プロや外国人がA’からBをノンブレスで続けて、Bの途中でブレスを入れて盛り上げるパターンがあります。それを聞いてまねてやるのはよくないです。形をとるのではなく実=身として捉えましょう。呼吸が余裕があるから感情の盛り上がりでつながってしまうのでなければ、しぜんでないのです。即興である歌の応用表現です。

 それをA-A’、A’-B、B-Aでもやってみてください。つまり、ブレスの位置を1つすらも、音の流れをもっともよいところにして、そのことを知るのです。

 1コーラスで、どのような動きをしているかを歌詞を抜いて、しっかりとたぐっていきます。そのために、コンコーネ50などを母音や子音の一音、ハミングなどで歌っておくことは、基礎の基礎となるのです。

 

○歌のドライビングテクニック 

 

 発声から歌唱を車の運転と思ってやりましょう。プロでも日本では、急アクセス発進、急ハンドリング(ステア)、そして急ブレーキです。これでは音楽的に心地よくありませんね。

 ちょっとした踏み込み、キーピング、終止の仕方で、歌は天地のように変わるのです。ドライビングテクニックでいうなら、車体感覚と運転感覚をもつことです。自らの体に置き換えて、ていねいに体を扱うことです。愛や恋を表現するのですから、当然のことでしょう。

 ていねいにていねいに、でも、そこから始めるのはよくありません。ハンドルやフロントガラスに目を近付けた危険な運転のようになります。

ですから、教習所でも姿勢から教えます。そのための姿勢保持、筋肉、集中力がいるのです。とはいえ、レーサーと通勤のドライバーでは、求められるレベルが違います。

そういえば、私はよく「レーサーになるのに、ずっと教習所に習いに行っても何にもならない」と言っていました。求めるレベルは高い方がよいのですが、運転は実用に応じたレベルの習得でよいので、そこは大きく違います。

 

○器と基礎力 

 

 かつて作曲家は、歌手のために曲を書きました。歌手によって、その歌の魅力が十分に発揮されました。ときには、歌わせる歌手の器をふまえて書いていたからです。

ときに歌手が作曲家のイメージを覆ってしまうくらいの歌唱をして、大ヒットする時代になりました。作詞家の永六輔を怒らせたという坂本九さんの「上を向いて」の節まわし、沢田研二さんや山口百恵さんあたりも、よい意味で、曲のイメージを裏切り続けた人でした。森進一、前川清八代亜紀など、紅白の常連組の3分の1くらいはそれがありました(そういう人のすべての歌がそういうものというわけではありません)。

 シンガーソングライターになると、本人が自分を総合的に演出することになります。声そのものや音楽としての基本デッサンの力は、あまり問われなくなりました。

 J-POPSになると、プロになりたい人に見本にさせるのはリスクがあるほど個人と曲の結びつきが強くなりました。歌の基礎力の大切さがわかりにくくなったのです。

 

○スタッフの力 

 

 歌手とまわりのスタッフの力量のなさは、日本の歌手が世界に出られない最大の要因です。好きに楽しく歌えているヴォーカリストを気づかうのか、大切なことを伝えられていない。プロデューサーからバンドのメンバーまで、私は、欠けていることを本音で言うようにお願いしてきました。

海外のように、まわりが皆、ハイレベルに歌えるなかで、絶対的なオリジナリティをもつ存在としてしか成り立たないのがヴォーカリストであれば、ミュージシャンレベルで厳しくレベルが問われます。声=音の世界でのデッサンとして演奏力が問われるのです。

 しかし、日本ではけっこうなレベルのプレイヤーでも、音楽や声に無知なことが多いです。音のアドバイスは、なかなかもらえません。大体80パーセントはのり(リズム)、ピッチ(音高)の注意という状況です。声を音として、音楽として聞く訓練がないのです。[E:#x2606]

 これは当のヴォーカリストにもいえます。まわりはヴォーカルよりも先に音楽の世界をつくって、そこにヴォーカルを当てはめようとします。そのために予定調和で、荒のない作品になるのですがベストなものになりません。

 

○カラオケとヴォーカルの関係 

 

 日本の独自開発のカラオケ現象は、全世界に広がりました。しかし、そこではヴォーカルのつくり出していく音の世界にそってプレイヤーが音を動かしていくというセッションが成立していないのです、カラオケというのはヴォーカルが歌っていなくても伴奏として進行して、終わりまでいくからです。むしろ、日本の歌は、このカラオケ感覚に堕していきました。

ポップス歌謡全盛の60年代に、日本ではすでに、すぐれた作曲家が編曲、アレンジして伴奏をつけていました。しかし、そこは相当耳障りなバックの音が入っていたので、歌手の力を引き出すのではなく、もたせられるようにしました。

トータルプロデュースの時代となり、ますますヴォーカルの力に頼らなくなっていったのでしょう。それだけの力がヴォーカリストにないのか、今も昔も、まわりの人の才能を引き出しました。果ては、ハイレベルなカラオケ機材まで生み出したのは、私の立場からみると、皮肉で残念なことです。

 

○あてになるヴォーカルに

 

 作曲家やプロデューサーは、ヴォーカルのフレーズでのデッサンを当てにしなくなりました。いや、もともと当てにしていません。アドリブ、スキャット、即興は、日本では普通はありません。形だけ合わせる歌に、未来はありません。

 海外ではオリジナルのフレーズに対し、トレーナーは、応用技を伝えています。日本ではその前にフレーズを、音色を、さらにオリジナルのフレーズを養成するところから必要です。いえ、そういうことであることを気づくところから必要です。

そうでないので、いくら海外のトレーナーについても真の実力としては大して変わらないのです。それは、そういうことをした人たちの声からも明らかです。ヴォーカリストでなく、トレーナーとしての権威づけになるだけです。

「私の考えるヴォイトレの基本に関する注意事項」

○私の考えるヴォイトレの基本に関する注意事項

 

私がレッスンとトレーニングに求めたこと

1.長期間にみるということ。

2.多角的にみるということ。

3.飛躍を求めるということ。(つみ重ねから逸脱)

4.頭を疑い、体を信じること。

5.ものごとを二極(正誤、よしあしなど)でみないこと。

 

○10年からの声

 

どの世界でも、10年でようやく一通りみえてくるものがあると思います。それが体感でき、ものにするには、もう10年かかります。そこで、私はプロとは20年、短くても15年、できたら25年続いて、最低必要条件を満たすと思ってきました。プロということばは、さまざまに使われます。ケースバイケースであることは当然で、「ざっというと」ということです。

私も声を教える、伝えるという立場になって30年になろうとしています。自分で声を使ってきたとなると、生まれたときからです。ヴォイトレで区切って、四半世紀超えとなります。

 トレーナーというのは、自分でなく相手をどうにかして何ぼのものです。相手と接して10年、20年先どうなったかをみて、初めて結果がわかるのです。20代、30代でやっていたことは、ようやく40代、50代で結実してみえてくるわけです。

 

〇声は魔物

 

 ですから、本を書き始めたときの私は、自分のこと以外、いや自分のことも含めて何もわからなかったと思うのです。そういう自分に接して学ばせてくれた多くの人に、特にここの関係者には、感謝してもしきれないくらいです。

 

 ですから今、若い人はあたりまえですが、声という分野に入ってくる多くの人(年齢としては上の方も)をみると、私がこれまで試行錯誤してきたこと、迷ったことなどを、話し出されて、なつかしくも新鮮な思いに捉われることがよくあります。

 声というのは魔物のようなものです。正体不明、誰もが「捉えた」とか、「わかった」とかいっていながら取り逃がしているものです。大事に見張っていたカゴが開いたら空っぽということもよくあるのです。

 そのあたりは、今では、「その人がどういうことを質問するか」で、大体わかります。

 ここにはけっこうな肩書やキャリアをもった人もみえます。しかし、案外と声については、その指導についてのプロセスや結果の検証からみると、まだまだ未熟です。

声については専門家がいないのです。医者は身体の専門家ですが、発声となると素人、表現になると素人以下の人も少なくありません。身体の専門家として人を診ているキャリアから私が教わることは山ほどあります。ただ、彼らのなかには、10年20年と、音大の先生と同じく、20代から勉強(知識、理論)してきたと、固まってゆずらない人も少なくありません。

 舞台に関わる私たちの方が、表現を通じて声からは多くを学ばされているのでしょう。

 

○現実の表現からみる

 

 演出家や映画監督、出演者と言ったプレイヤーは、表現の判断の専門家です。その舞台裏がのぞけるのは、私の役得です。

 優れたプレイヤーほど、一般の人の声の問題について、学びにくいといえます。プロとしてプロ中心に接している人は、なかなか社会の問題に触れる機会がありません。

私のところは、声楽家をトレーナーにしていますが、彼らはここで初めて世間一般の現実のレベルでの声の問題につきあたります。音大では音楽的、声楽的にすぐれている人はいても、一般社会で困るような声の劣等生はいません。そんな人は学校に入れません。

健康な人もそうでない人も、伸びる人もそうでない人も、たくさんの人が、私に多くのことを学ばせてくれました。そういう面では私の方が多くを知り、体験してきているわけです。

 役者、声優、お笑い、邦楽、エスニックなどについても、それぞれ専門家ゆえに声の問題には疎く、ここに研究にいらっしゃることになるのです。それでも5年、10年はひよっこというような世界の人にいらしていただけるのは、この研究所ならではの、ありがたいことだと思っています。

 ここでは、いろんな分野での専門家といわれる人たちのアドバイス(考え、意見)、判断(診断や治療)も、共に検討していくようにしています。毎年400名以上を声や表現でみてきた私とのコラボレーションの実践です。専門家や私でなく、本人を中心にして、どのようにみていくのか、どのようにしていくのか、どう支えるのかが問われているのです。そこでは知識や理屈よりも思想と実践です。どうも今の日本人はどんどん頭で考え、理論や客観的な知識の方に寄っていっています。本質を見失っていっている感を否めません。それゆえ、社会や時代の問題とあわせて、切り込まざるをえないのです。

 

○教えて育つか

 

 体から声はその人なりのものとして発現しています。自分の体と他人の体は似ているようで異なっています。

トレーナーは他人の体を扱います。そこに入り込み、自分の体とのギャップから、それを埋める手段をメニュとして提示します。多くは自分自身が手本、見本にならざるをえないのです。

 表現者たるアーティスト、歌手、俳優、アナウンサーなどのベテランは、先輩アドバイザーとしてはよいわけです。しかし、自分の体というものがあるために、なかなか他人の声のよき指導者となれないのです。

 技量やキャリアとしては優秀な先生が、自分の半分の力にも、生徒や弟子を育てられないことが多々あります。生まれや育ちに加え、日常生活の環境や習慣のなかに、つかっているだけに、歌手や俳優は、天性に恵まれていた人に学ぶのは難しいのです。昔は住み込みの弟子入りが、すぐれた養成方法としてありました。

私も、1990年代、365日24時間、ほぼ2年間の養成所体制を意図しました。全寮制をよしとする欧米の考えにも似ています。すぐれた指導方針とある意味で選ばれたエリートで構成しないと、大体はサークル化するものです。今の日本の大学が、よい例です。スポーツのようにタイムや勝敗で結果が出ない世界ゆえに、判断の基準や何を価値とするかという問題が大きくのしかかってきます。

 

〇歌手とトレーナー

 

 トレーナーとしては、表現者として、あまりすぐれなかった人のほうが優秀なことが少なくありません。すぐれたフィジカルトレーナーには、アスリートとしての可能性をけがや病気のために、若くして断念した人が多いと思われるのに似ています。

 特に歌手では、我が強くなくては一つの世界を築いたり、保ったりできませんから、どうしてもその傾向が強くなります。それゆえ、私は、歌手にはトレーナーを仕事として両立させることをお勧めしません。

 実際に私のところにはいろんなところからいらっしゃいます。そこをやめてくる人いれば、続けながらくる人もいます(第二期は、私のところだけに在籍しているという人が8割くらいであったのに対して、今は5割を大きく割っています。外部との共同作業として、研究所の指導を考えているのは、ここ10年のことです。おかげで多くの情報が入ります)。そのときによくみると、歌手やプロデューサー(として成功した人)などが教えた人よりも、あまりそういうことですぐれなかった人の方に教わった人の方が基礎ができているものです。

 

○あいまいを観る

 

 声とヴォイストレーニングの分野は、あいまいです。トレーナーといっても、専門家という資格も基準もなく、出自もやってきたことも、方法も判断も、知識も理論も違います。声といっても広範な分野をカバーするので、それぞれに自称しているだけです。医者(音声医、耳鼻咽喉科)、声楽家、作曲家、プロデューサー、俳優、声優、アナウンサー、ナレーター、話し方のインストラクター、講演家、講師、さらに噺家(落語家)から邦楽家長唄、民謡)ビジネスマン、政治家と声を使う人ならトレーナーとして教えられるものをもつのです。誰でも先生になれます。

 歌手も俳優も日常に根ざしている歌や話を専門とします。しかし、誰もが話も歌もたしなんでいるからこそ、特別な勉強もなくプロになれる人もいるのです。

その違いとなるとあいまいです。ヴォイトレの必要自体も、あいまいなものです。それにアプローチするのが目的で、こういう話になるのです。

 

 たとえば、声がよくも丈夫でなくとも、克服してよくなった人が、体に詳しく、そこからアプローチして声にせまるのは、当然です。一方で、歌手や俳優は、大体は体力、集中力があり、健康な体をもっています。そのようなアプローチなくとも歌唱や発声にすぐれています。となると、どちらがよいとか正しいということではありません。

 

○「できる」と「うまい」

 

 いつも私は、あなた自身が、具体的に詰めていくために、必要なことを述べているつもりです。個別にしか成立しないと思われている個人レッスンで、何名もの出自の異にするトレーナーと一緒に行っているのもそのためです。

 

1.あなた自身のこと(体、感覚)(生まれ、育ち)

2.あなたの目的のこと

1が基礎、2が表現です。この2つを抜くとヴォイトレは、あいまいになります。

人間の体としての共通要素のところでは「できた―できてない」という基準をつけると、基礎としての集団トレーニングもできます。レクチャーや文章でも伝えられることをこうして述べています。

 歌や演技でのせりふとしても、「うまい―へた」くらいは、共通に望まれる表現を目的とするなら、大きくは同じような指導方法がとれます。

 

 私はカラオケ教室やその先生を批判しているのではありません。

 問題とすることが違います。私の考える基礎や表現に「できた」とか「うまい」ということが入っていません。

 プロになれるのとプロとしてやっていけることは違います。オーディションに通るのと、作品で一流の実績を残せるのは違います。レベルも目的も、問われる条件も違うものです。多くの人は、その一歩としては同じと思うのです。私は違うと思うので、この問題は後述します。

 

 本やネットでも、ヴォイトレに対して、意見や考え、ときには熱心な議論が行われています。質疑応答も行われています。私は関与していません。本人不在では、ほとんど意味がないからです。

 この分野で本を出し、ヴォイトレのQ&Aサイトを提供している私がいうのですから、説得力はあるでしょう。

 なのに、この連載も含めて、いつも述べ続けているのは、そこからあなた自身のこととして考えてほしいからです。これは研究所内外での私の仕事とも密接に関わっています。私には毎日の仕事や生活の一環です。

 

○情報論

 

 今の時代、情報はたくさんあります。それぞれが違うと迷うでしょう。ですから何かを決めたいなら、情報をとりすぎないことです。質のよい少ないで判断します。

 私のところでも、質問に1人のトレーナーが答えると相手は満足します。そのとおりにやるでしょう。私のところのQ&Aは、似た質問にいくつもの答えを出しています。「トレーナーの共通Q&A」は、ここのトレーナー10人以上が同じ一つの質問に、それぞれ自由に答えたのをそのまま載せています。

 「どの子音でトレーニングすればよいのか」について、この研究所のトレーナーでは結果として異なる子音を使っていました。

 あなたは混乱するでしょう。明らかに矛盾します。どれが正しいのでしょうか。どれが正しいのか私はわかりません。

あなたに来ていただいて、あなたの現状をみて、その目的を聞いて、どのようにそれらの答えを考えるのかを、アドバイスします。これが研究所での私の仕事の一つです。

 あなたに問われても正解は与えられません。あなたは、他の10人のトレーナー一人ひとりに聞きますか。答えは一致しないでしょう。結局は自分自身に問うしかないのです。そして自分自身の答えを、あるいはやり方を見つけていくために、レッスンをしていくのです。もっとも大切な判断のもととなるものを学ぶのです。

 

〇問いをつくる

 

 ここのトレーナーを方法やメニュということにおきかえてもよいでしょう。

 私は読者に「答え」でなく「問い」を求めるようにと述べています。レッスンにも研究所にもそのように対して欲しいと言い続けています。多くの人は、本やサイト、レッスンに正しい答えを求めようとするのです。買物の、「価格コム」や「よい商品や店を教えて…」なら、答えを聞けばよいでしょう。ネット社会はそういう情報、知識をすぐにくれます。でも、表現や声は違うことを知ってください。知ったところで何ともならないのです。

 

 ただ一人から、たった一つの答えを聞いて、それを信じるなら、それはもっとも強力かつ早く、すぐれたことかもしれません。私は情報でなく、それを発する人をみます。その人が偉いとか、知名度や実績があるということと、その答えが自分に役立つということはイコールではありません。一般的には信用できる何かがあれば、匿名などの身元・実績不明の人よりは信用できるでしょう。長年やっている人、キャリアのある人、本人の実績のある人などがいます。

 大切なのは、一般的に信用できることと自分自身にとって、ということです。表現、一流の作品、オリジナリティということになると、一般的によいという基準は、役立たなくなるのです。

 

〇カラオケとプロ

 

 カラオケのうまい人が、プロになれないのはなぜでしょう。「カラオケにうまくなっていくのは、プロに近づいていく基本の(あるいは最初の)一歩」ではないからです。そこで、元プロか現プロのカラオケの先生、つまりプロになれなかった、あるいはプロになっても続かなかったカラオケの先生について学ぶことをどう考えるか、です。

 私はそういうところの教え方を、慣れることにおいては、いいと思います。しかし、あまり勧めていないのは、本音でいうとカラオケでうまくなるのと、プロとは逆方向と思っているからです。

条件づくりと調整との違いです。カラオケというのは調整だけの方が、早く大きな効果が上がるからです。ヴォイトレも効果を早く、求められるとトレーニングでなく、調整になりがちです。実際、多くのトレーナーは、そういうスタンスでレッスンしているのです。

 

○知識よりタイミング

 

 一般的には情報も考え方も方法も、たくさんあるのが、よいと思います。しかし、整理できないと、いつも迷ってしまいます。自信がもてなくなりかねません。

 最初にあらゆることをアドバイスしようとするトレーナーは、未熟でよくわかっていないのです。私は採用しません。あとでそうなってくることもあるので、折をみて注意します。そういうレッスンで相手は知識欲がみたされ満足します。実際にトレーニングとしては、進展していかないからです。

 こういうことを頭で勉強したい人が増えてきたので、トレーナーとしても対応をせまられることがあります。それがどういう位置づけか、スタンスかを知らないといけません。そうでないとトレーナーも生徒も、中学校でやるようなことがレッスンと思ってしまいかねません。

 レッスンで大切なのは、伝えるタイミングです。本人が受け身から主体的になり、聞いてくるのを待つ、あるいは聞いても仕方ない(とはいえ聞いてみるのはよいことです)と思い、問いを自らに向けて答えを試しにくるように導くことです。トレーナーに必要なのは、信じて待つ力、忍耐強さです。

 

〇主体的に補う

 

 私のレッスンのスタンスは変わりません。はじめは表現よりも基礎を、今は、人により基礎より表現を中心にすることもあります。基礎は、トレーナーがやるからです。この分業体制を無視して、私のレッスンを部分的と思う人もいるので、最近はそういうレッスンをアドバイス・レッスンとしました。

 基礎はピアノをひいているだけ、グループではすぐれた歌をCDで聞いて、2、3フレーズをやってみるだけ(相互に聞き比べ、自分なりに調整していく)表現は、フレーズを歌ったり、せりふで言うだけです(1コーラスのこともある)。

 「~だけ」というのは、後は本人に補わせるためです。

 レッスンでは、何よりも主体的になることです。それができるまでには、時間がかかります。かなりの個人差もあります。本人がそこで、私(やまわりの人)の心を動かす表現を声を問うのです。

 表現というのは、色づけがされた声(オリジナルフレーズで、くせや個性が入る)です。基礎は、応用性の高い柔軟で変化に応じられる声です。それは無色です。本人が主体、トレーナーはサポート役です。

 自分のもっているすべてを早く教えてしまおうとトレーナーが頑張ると、授業パフォーマンスが作品、生徒は観客となってしまうのです。「先生みせてよ。すごい」これでは本末転倒なのです。

 

〇教えたいと教わりたい

 

まるで中学校といったのは、日本の教育とは先生に教わることと捉われている人への私の忠告です。パフォーマンスをみないと信用できないという人もいるから、やっかいなのです。クリエイティブな現場では、トレーナーは自分のもっているものを出すのでなく、一刻一刻と相手に欠けているものをとり出すアプローチを発想できるかを、問われるのです。

 ヴォイストレーニングを、どのように捉えるかも人それぞれにあると思います。カラオケ教室や英会話スクールにさえ、広義にはヴォイトレと考えられます。

 まとめておきます。

現実対応―表現

自分―発掘―基礎

 

○初期化

 

 私の思う歌手というのは、劇団員のようにはなれないとわかってから、今の体制に舵を切ったのです。そこまではOBや在籍した人にサブトレーナーを任せていました。生え抜きとプロデュースしたトレーナーとは、一長一短です。私は異質な集団でカオス状態にする必要を感じていました。私自身、多忙で、裸の王様状態になっていたので、ここを壊すか、離れるかも考えました。

 我流のブレスヴォイストレーニングということに、こだわっていたのですが、歌という表現を取り巻く環境の大きな変化と、ヴォイトレの一般化の波にさらされたわけです。

日本では歌手という入口から、俳優やタレントになります。歌手はシンガーソングライター、アーティストである限り、そのような職名、属性はどのようでもよいのです。

20代中心の、理想としては、全日制的な体制は10年以上、つづけたものの、維持しにくくなりました。外からどう見られようと、内に人材がいるのか、育っているのかが、もっとも肝心です。踏み台のはずの私が、ヘッドに君臨するのはよくなかったのです。

 ブレスヴォイストレーニングが、本来の基礎となるものなら、どのような分野や表現とも、他の人々とも、融合していくはずです。福島式とつけなかったのは、ブレスヴォイストレーニングが自由に変化していくように、という思いだったのです。

今では、試行錯誤ながら、いろんなところと提携し、邦楽から、喉の病気の人まで、それぞれにレッスンを成り立たせています。iPS細胞のように初期化したといえるのです。

 

〇変化と思想

 

 ここに至るには、試行錯誤、うまくいかないことの連続でした。常に第一線で、全てをさらしていったからこそ得られたことが大きかったのです。多くの批判や叱責とともに、より多くのすぐれた人との関わりでできていったのです。

 今の私ならとてもやれなかった、やらなかった、無知ゆえの活動が、多くの人や組織を巻き込みました。どこよりも多くの情報と多くの人と多くのトレーナーと多くのやり方も含めて、ここまで変化しました。ここを変えさせ、進化したのは思想であり、今もその途中にあると思います。

 研究所をつくって、ようやく研究すべきテーマや方法、それに必要な技術やスタッフ、トレーナーがそろってきました。それが正直なところ、この10年の歩みです。他の人に協力を求めたり教えてもらうためには、内部がきちんとしていないとなりません。ライブやプロデュース志向の第二期には、養成所であっても研究所ではなかったのです。

 

○創造と環境づくり

 

 このように研究所のことを語るのは、トレーナーに教わるという姿勢から始めたとしても、一人ひとりが自分の声、自分の表現の研究をして、独自に研究所をつくって欲しいからです。

 私は、環境と習慣を変えていく、その必要性を、いらっしゃる人に話しています。

 自分を中心に自分の目的を達成するのに必要な環境を整えていくこと、その一環として、ここを使って欲しい、と。昔からそのためにここを変えていきました。ここをあなたのために役立てて欲しいと思ってきました。

役立たないなら役立つようにして欲しい。やめることや休むことも含めて自由です。

表現のもつ力は、人のいる場を変えます。ここはその変える力をつけて、試すためにあったのです。養成所のときに「あなたがここを変えないなら、あなたのいる意味がない」と言いました。

 教えてくれないと学べないような人が多くなると、今の日本の縮図のようになるのです。いつでも研究所や私やいろんなものを変えてきた人に多くのことを学べたはずです。充分にそれを試行錯誤する環境があったのです。

 

 立ち上げの頃はゼロでしたから皆が創りました。最初のスタジオは、建物のペンキ塗りまで生徒がやりました。そこからライブスタジオが実現して、疑似ライブまで開催されました。すると、そこを利用したい人、創造でなく消化する人が多くなってきたのです。

そういう人は、創造する努力を怠り、ものごとを否定的にみます。その結果、チャンスがなくなる。つくっていく人が現状を変えるのなら、つくらない人も現状を変えていく。日本の戦後の、進退という2つの歩みが、この研究所でも起こるのです。

 

○なるようになる

 

創った作品を聴きたいと思うから人が集まり、聴きたくないと思うと人はいなくなる。私が皆の声(歌)を聴きたいと思ったから、どんどん聴けるようにしていったのです。そういうものがなくなったら場も機会もなくなるのは、あたりまえです。

 私もがまん強く、つぶしはしなかった。再び創るのに相当かかりました。つくっていくよりひいていくことの、ひいて、つくっていくことの難しさも経験しました。

 今も昔も、いつも変わりつつあるのです。すべてが変わっていく中に、変わらないものがあるのも、これまた真実です。

 真実だけでなく、真実と信じ、変えたくなくても現実には、それを変えてしまわざるをえないこともあります。真実でありたいのに、そのことがそのまま通じないままにも続け、対応していかなくてはいけないこともあります。そういう後ろめたさや反省も、つづれないものかもしれません。

 私にカリスマであってほしい、私の方法や言っていることはすべてが正しく、誰もがそれで救われる。こういうことを望んで、それがあたりまえのことですが、かなえられないとブチ切れる、今では珍しくもないのですが、幼稚な人にもいました。

 

〇研究所のことばと感動

 

 ことばで伝えていることの限界も私は本のなかで述べてきました。頭でっかちで盲目になる。たかがことば、されどことば。本の方法も理論も、そしてトレーニングも自分に役立てるためにあるのです。それを役立てないばかりか、やり始めたときよりもだめにしてしまう。それは方法や理論にではなく、本人の受け止め方、使い方に問題があるのです。声や体のことでなく、考え方や生き方ですから、本人は気づかないのです。声や体は、死なない限り、何とでもなります。私の方法で死んだ人は知りません。

 何であれ、心から魅かれて、本物だとか、すごいとか、感動したというのが、大切なことです。たとえ、十代のときだからこそ惚れてしまったアイドルの歌でも、あなたの、その心の感受性は純粋で真実です。それを「あんなアイドルは…」とか「それに夢中になった自分が恥ずかしい」となると、嘘が始まるのです。それを本人は成長したとか、めざめたとか、本当のことを知ったとか、これまでだまされていたとかいうのです。私からみると、向上心がゆがんだだけです。頭でっかちになると眼が曇るのです。

 

○複数トレーナーに学ぶという考え

 

 前の先生や今ついているトレーナーがだめという理由でくる人が少なくありません。他のスクールなどに移る人の大半がそうでしょう。

 私のところは、意図的に一人の生徒に複数のトレーナーをつけています。目的やレベルによって変えていく体制をとっているので、その人とトレーナーとのレッスンの問題がどこよりもわかります。他のトレーナーにつきながら、ここにもきている人もたくさんいます。

 私は、20年以上、この体制でみ続けてきたのです(グループレッスンのときも他のトレーナーのレッスンに出られ、他のトレーナーに個人レッスンを受けられたのです)。否応なしに比べられるのですが、それをよしとしました。

 ここのトレーナーは、この体制に慣れていきます。通常は、自分がいるのに、他のトレーナーにも習っているというのは、嫌なことでしょう。

 私はトレーナーとともに生徒のことを考えています。その結果、辿り着いたのが、複数のトレーナーで一人の生徒を分担する、そのカップリングを第三者がみる、という、世界でもまれなシステムです。

 多忙な先生が直弟子にレッスンを任せるのは、よくあります。同じやり方をスムーズに踏めるからです。ただし、これは別の問題を引き起こします。弟子の能力は先生に劣るのと、先生のをみようみまねで行うことになるからです(日本の徒弟制)。

 私はあえて、トレーナーに本人独自のやり方を優先させているのです。とはいえ、まったく価値観や考え方が違うトレーナーでは無理です。

 自分のことを知り、判断力と基準をつけていくのがレッスンの目的だからです。そのために、他の人の学び方からも学べるグループレッスンから始めたのです。

 価値観、考え方が同じでも、人が違うのですから方法は違ってくるのです。同じ方法でやればいいというのがおかしいのです。弟子よりも、出自が違うのに共通した価値観をもつ人の方がトレーナーとしてよいのは、そのためです。ただ、弟子の方が扱いやすいから、日本ではそうなりがちです。

 

○情報を遮断しない

 

 ここにはいろんな人がいらっしゃいます。

1.他のトレーナーから移ってきた人

2.他のトレーナーにつきながらきている人

他でついているトレーナーには、ここのトレーナーとのレッスンのことを話してかまいませんが、「言わないほうがよいかもしれません」とは言うこともあります。すぐれたトレーナーなら、すぐバレるものですが…、バレるのだから言う必要もないでしょう。私もすぐわかります。他のトレーナーの影響が良くも悪くも一時的に出るから、レッスンのスタンスが問われるのです。

でも、他のところのトレーナーは、慣れていないので不快になり、レッスンの状況が変わってしまうこともあります。よくなるならよいのですが、ギクシャクしたり、厚意的でなくなったり…。でも、私から、ついているトレーナーをやめた方がよいとは絶対に言いません。

 

 必ずしも、そのトレーナーやレッスンに問題があるのではなく、あなたが活かせなかった、それはなぜかの方が大切なのです。どんなトレーナーであれ、レッスンのなかには、プラスのこともあるはずです。それをできるだけ活かそうとするのが、のぞましい姿でしょう。そのトレーナーとのレッスンの年月も救われます。

 

 どんなことにもムダはありません。そのときはマイナスであったようなことでも活かせばプラスです。何事も、短期でみてはいけないのです。

 

 そのトレーナーにもファンがいて、仕事も続いているなら「だめ」とは言えません。「合わなかった」ということでしょう。その違いは何だったのでしょう。

 私のところにも、熱心な人は10年、20年と続けています。効果の測定を、洗脳されたというように蔑む人は、あわれなことです。研究所では、いつも内外関わらず、多くの作品や人に会って刺激を受けることを、どこよりも勧めています。

 

〇トレーナーの批判よりも活用を

 

 トレーナーを批判するのは、およそ一方的なもので、浅はかです。ものごとには、両面あります。批判することも認めるべきこともあるのです。どちらに目を向けるかです。

 私は、本を出し続けてきたたので、若くして批判の矛先にも立たされてきました。本を読んで、今までついていたトレーナーのレッスンをやめて、ここにいらした人もたくさんいます。そういうトレーナーがよく思うわけがありません。

どこにも属していないので言いたいことを言っていました。風通しがよくないままでは、この分野も発展しないからです。長年続けていると、日本においては、関係者に迷惑のかかることは避けたいと思うようにもなるわけです。

 皆さん、ここに足を運び、確かめにきます。プロダクションや編集者にも現場を見せます。

 

 批判というのは、その人に実利があると執拗なものになります。ねたみ、そねみ、ひがみも相当にあります。当人の前に出て言えるようなことは、ほとんどありません。内容もとるにたらない、とりあげるに足らないから、答えるに値しないのです。

 批判やクレームは、実名にて送っていただくと嬉しいです。本については、メールや封書、FAXで。ときに専門家や一般の人からいただきます。指摘から学ばされることも多くあります。お互いのためになるようにと思っています。

 

○選ぶ力より合わせる力をつける

 

 どの世界でも、多くの人は入口前でたむろしては去っていきます。

移ってくるときに、ここに来る前のレッスンを忘れたがるのは白紙に戻す点ではよいのですが、一方で困ったことです。「これまで」「前のところでは」「大してやっていない」「身につかなかった」と。そのことばをここをやめるときにくり返さないとは限らないでしょう。もちろん、ここでは、これまでにないレッスン、全くレベルの違う目的、プロセス、方法を与えることを目指しています。しかも何段階にもおいてです。

転々とスクールを変える人は、「合うトレーナーがいなかった」「合う方法がなかった」と言います。「自分と合う時間や合う体制でなかった」というのは、深刻な問題です。そこで効果を上げている人がいるのですから「自分に合わせる力がなかった」ということです。

 私のところに10番目にきて、ここでも何人ものトレーナーのレッスンを受けて、合わないと言った人もいました。医者から紹介された人のなかにもいました。いくつもの医者をまわって、すべて合わなくて、ここを紹介されてきたのです。こういう人は、合わないと言う前に自分が合わす力をつけなくてはいけません。

 

〇合わせる力=応用力=仕事力

 

 ヴォイトレの必要性自体、人によって違います。必要なければやらなくてよいのです。まわりはまわり、自分は自分で情報を得るのならそれもよし、勉強です。お金がないなら無料体験レッスンを受けたら、よいでしょう。合うところを見つけたいなら、「合う」という条件を具体化して交渉していくことです。

 他にあたるなかで、具体的にイメージを絞り込んでいくのです。一人で悩んでいるよりも、ずっと発展的です。

研究所内ではトレーナーの選択から意図的に促しています。

大抵の人は具体化していけないで「何となく合わない」「合っているのかわからない」で終わってしまいます。普通は少しがまんして、トレーナーと相互に合わせる努力をします。少しずつレッスンができてきます。そして「選ぶ力」となり、「合わせる力」がついてきます。

トレーナーにすぐにピッタリと合わせられるのは、天才のレベルです。人に合わせる力がつくということは、「仕事にする力」がつくということです。プロになっていくのです。  

1.初回からレッスンが成立する

2.初回で相手に合わせる可能性がみつかる

判断ができなくて、好き嫌いで動いているうちは、人は魅きつけられません。私も会ったら最善を尽くしますが、初回からわからないこともたくさんあります。そこからのプロセスが大切です。

 そこがわからないと、ヴォイトレをして声がよくなっても何ともならないのです。

 

○決めること

 

 私のところでは世界レベルを体制としてセッティングしてきました。世界レベルで最高のシンガーがきても対応できる体制があります。紹介でいらっしゃることが多いので、選ぶ間もなくピンポイントで決まるので比較できませんが。表現=目的に対して欠けていること、課題がはっきりしている人ほどやりやすいのです。

1.直観で決める

2.たくさん、まわって決める

3.長く試しながら決める

2は迷うから、1も悪くありません。たくさんみると、第二義的な要因が大きくなることもあります。サービスや設備や料金、立地などが、レッスンやトレーナーのよし悪しよりも影響してしまうということです。目が曇るのですね。

 直感的に正しかったこと、真実だったことが、みえなくなってしまうのです。

 憧れを抱いて、業界に入って現実をみたら失望してやめた。こういうケースも何をみたのか、同じものをみて、どう思ったのかは、人によって違うでしょう。水商売の業界、アートで表現ですから、いろいろとあるでしょう。むしろ、早く失望できた方が先が開ける、いや、自ら選択を迫られ、切り拓けると思います。

 私は、多くの人が長く続いているところというのは、それほどおかしなものではないと思っています。

私は、トレーナーの未熟さにも、生徒と同様に寛容です。私もかつてはそうであったし、今もだからです。

 

○過去に学ぶ

 

 学べているのなら、次のステップにいけます。学べなかったなら、ゼロから学ぼうと過去を封印するより、過去に学べなかった原因を知るのが有効なこともあります。

 どこかやめてくる人はうまくいかなくて、前のところをよく思っていない人が多くネガティブなイメージですが多いのですが、私はそのレッスンからも1つプラスに役立つことがあれば、そこを活かすように心掛けています。そうしてみると必ずよいところがあります。

 トレーナーにも生徒にも万能を求めるのは、目的が低いということです。何からでも学べるのです。それを絞り込んで、何をどう学ぶのかのレベルを高めていくことができてこそ、学び続けることの意味があります。

 

〇オープンにする

 

 トレーナーを変えるときも、前のトレーナーに学んだことを活かせるように考えます。有能なトレーナーが去ったときのデメリットは大きいものです。しかし、トレーナーによってその人の将来が左右されるのは、あまりよくありません。

 研究所では、マンツーマンで一人のトレーナーの影響しか受けられないようにはしない方針にしています。

 本当のところ、トレーナーとのレッスンで行われていることは、第三者にはわかりにくいものです。トレーナーは、あまりオープンにしたがらないし、レッスンのプロセスに他のトレーナー入れたがらないものです。それゆえ、他のトレーナーが学べず、こういう分野の発展が個人のキャリアにしかならないのです。

 私は、国内外のトレーナーの考え方ややり方、そこを受けた人の評価のよし悪しも、誰よりもよく知ることができました。研究所は、この閉鎖性に対する挑戦として、一般の人にも多くのトレーナーにも内容をオープンにしてノウハウの共有化をしてきたのです。こんなにメニュやノウハウをオープンにしているところは世界にもないでしょう。それを批判するひまがあるなら、自分のを公開していけばよいのです。いろいろと批判しているようにみえるこの連載は、愛情の賜物なのです。

 

○学べないパターン

 

 現実に学べている人は、学んだことを感謝して、トレーナーがどうであれ、次のステップへ歩みます。トレーナーがどうであれ、続ける中で次のトレーナー、プロデューサーと活動します。

現実に学べてない人は、学べなかったことを否定して(忘れるようにして)同じことを繰り返すのです。それを学び直すならよいのですが。そこでやめてしまう人も多いし、身についたと安心してやめる人も多いのです。

学べなかったことを自己肯定しているのです。そういう形で次のトレーナーについても実力はつきません。よくあるのは、どこかで調整してもらってよくなったら、これまでのやり方を一転して全否定するパターンです。理論や知識で頭を満たす人は同じく、新理論や新知識におぼれるのです。

 次のトレーナーでよく学べたとして、自ら前途を閉ざしているパターンが多いのです。悪口を言う人はこういうタイプです。本当に力がついたら、過去は気にせず活動していくからです。

そういう言動を耳にすると残念に思います。声も歌も人生もうまくいっていないかと、同情を禁じえないからです。

 

〇効果は出る

 

エネルギーや時間を自分のために集中して使えばよいのに、他の情報に振りまわされ安易なやり方をとってしまう人も多いものです。

 最初の情熱をもって一所懸命に続けないともったいないです。一所懸命にやったことは、すぐに効果がなくても、続けていくと必ず役立っていくのです。ですから安心してください。

 トレーニングは効果を出すためにやることです。効果がない、トレーニングにならないならやめればいいのです。ですから私はトレーニングで効果が出なかったという人は、性格はともかく、考え方を変えることと思います。

 効果については、主観的なことが多いです。もっと効果が出るべきだったのか、それでも最高の効果だったのかは、わかりません。でも、いつも検証するのです。そのためにトレーニングがあります。そこに一般論や他人の実例は役に立ちません。自分を知ること。自分を活かすことです。

 

○茶番から

 

 精神論と思われることも多いのですが、取り組みやスタンスに何度も言及しているのは、それがもっとも必要だからです。ヴォイストレーニングなら、何をもってトレーニングかをつきつめなくてはなりません。その必然性も、始点も終点もあいまいなままで、どう判断できるのでしょう。

 日常性ということからみると、しっかりと他人と生きて生活しているなら、ヴォイストレーニングのベースは入ってくるのです。その結果が、今の声です。健康に生きていることをベースとして、ただ話すことにも声は充分に使われているのです。

 このことがヴォイトレをわかりにくくするのです。それとともに、一部の即効的で目にわかりやすい効果がヴォイトレとして切り取られて、レッスンの目的になってしまいがちなのです。そうした茶番が行われているのが現実です。

 たとえば、骨盤の位置を動かすと、腹がへこみます。それがダイエットになる。本当でしょうか。そのくらいのことに何百万人が一喜一憂し、何億円ものお金が動く。日本人のレベルも低くなったものです。

 大切なのは、方法でもトレーナーでもなく、あなた自身のセッティングです。今や、フィジカルトレーナーの前に、メンタルトレーナーが必要です。メンタルトレーナーは心身の心を担当しますが、トレーニングの計画管理もします。スタートしましょう。そのあとのステップアップが大切なのですから。

 

〇次の学びに行くには

 

 「今ここで」学べていると、方法やトレーニングを超えて、「次にどこかで」必ずよりよく学べていくのです。他のトレーナーについても、異なる方法であっても、自分なりに活かしていくことができるようになります。すると、その人は、もっと自分に必要な人に出会うことができます。今のトレーナーときちんと学べていたら、自ずと次のステップへいけるのです。

 多くの人は学ぶことの限界へつきあたっていくのはなぜでしょう。学んでいくには、より柔軟に、自由に解放されていかなければいけないでしょう。しかし、学んでしまい、というのは学べなかったということですが、頭でばかり考え、頭でっかちになってしまい、ネガティブにものをみるようになってしまうのです。

これは、どこでも起きることです。どの業界でも、どのスクールでも、そういうものでしょう。一時的にそうなっても脱していけるのか、そこで止まってしまうのかの違いです。

 いくつかの壁があって、大体は、その何段階目かで自らの成長をとめてしまうのです。より学ぼうとして、学んだ結果、頭にたくさんのことが入り、後進に対しても知識、理屈は言えるようになり、その結果、自らの成長は、止まります。止まるということは相対的に後進してしまうのです。場合によっては始めたときよりも悪くなってしまうのです。

まわりに自分よりすぐれている人が多いとそれは防げるのですが、年とともに大抵は逆になります。よほど冒険と挑戦をしないとすぐれた人とは、会えません。よほど高い志をもたなければ、知らないうちに、そうなってしまうものです。

 

○歌の限界を超えるには 

 

 歌も、ほとんどが円熟とか成熟という名のもとに汚れ、新鮮なものでなくなっていきます。昔のように、全盛期をすぎ、老いてナツメロ歌手になる頃ならよいのですが、日本ではそれが早く、昔であれば40代、早ければ30代後半で退化していたように思うのですが、今やデビューから2、3枚目のアルバムでそうなってしまうのです。

一つには客の耳がゆるく育っていないことがあります。カラオケで歌いなれた客は、他人の歌を聴く耳がおろそかになっています。[E:#x2606]

俳優や歌手も、ステップアップして大舞台に立つ人は、表現から、反省を強いられるうちはよくなっていきます。他のアートや海外と違い、その表現が、基礎のオリジナリティの延長にないことが、日本の場合、大問題です。

トレーナーになる人は、表現からも基礎からも厳しい追及を受けないところで自分より実力や経験のない人ばかりと接するので、マニュアル先行で直感が磨かれず、先にやってきただけの先生になってしまいがちです。

 

〇声を学ぶことの難しさ

 

 自分の世界をつくっていくことは、保守化していくことになりやすいものです。トレーニングは、表現世界でなく、そのためのプロセスなので、異なるものです。

 人に教えられることが、どこかに属するということになると、表現のための基礎トレーニングが、トレーニングのためのトレーニング、理論や知識の獲得のためのトレーニングになりやすいのです。ことに日本人はそういう傾向があります。

 ヴォイトレでは、声の表現をしっかりと詰めていくことです。細かく繊細に、丁寧に詰めていくことがトレーニングに必要です。レッスンで他人の耳を借りて多角的にチェックしたり、アイディアを得たりしていくのです。

 声が音声での表現の基礎でありつつも、全てを担っていないということが、この問題をややこしくしています。

 歌手にとって発声は、基礎ですが、その習得のレベル、声を占めるその人の表現(歌)に対しての度合は、アーティストによって違います。

 だからこそ、私は一見、逆の方向に、音声、表現、舞台の基礎として、ヴォイトレを位置づけているのです。声は歌やドラマのすべてを担っているのではありません。音響技術のフォローや聴衆の観客化によって、声の力の必要性は失われてきています。

しかし、ヴォイトレですから、私は目をつむった世界(レコード、ラジオ)で、耳だけのアカペラでの声力を基準にしています。時代に逆行しようと、そこを外すと声の基準は、とれなくなるのです。だからこそ、表現についてどう観るかの眼も、どう聴くかの耳も両方とも大切だと思うのです。

「歌唱論(Ⅱ)」

歌唱論(Ⅱ)[E:#x2606]

 

○理とスタンス

 

「歌は時代と人とともにある」と思いつつも、日本の歌や声の力の弱体化をみてきました。結局のところ、流行したり売れているものは、何かの理があります。それを他のところ(たとえば国外)や他の時代(昭和以前)と比べて、評したところで、しょうもないのです。その理の正体を見据えて対さなくてはならないのです。日本の歌には、そういう人の存在感も希薄です。

批評家を気どるのではありませんから、私は歌や演技だけを単体として評することはしません。トレーナーという立場と、批評家、プロデューサー、客はスタンスが違います。私は「今、ここで」よりも「将来いつか、どこかで」を本人の可能性の軸の延長上においてみます。歌だけを吹き込まれたテープを送られても、本人のことを何も知らずに評することはできません。レッスンをする立場での可能性や限界について、本人の目的、レベル、表現活動において、声をみます。

 「プロになりたい」といらっしゃることが多いので、立場上、「プロとは何か」、「どういうプロか」という問題を本人と共有をせざるをえません。プロでも、レッスンに訪れる人は、もっとプロらしいステージをというのがトレーニングの目的となるので同じことです。それは、今の日本、世界はもちろん将来を本人を中心に見据えていく力を必要とします。

 

〇絶対基準

 

 基礎トレーニングについては、声楽をベースとした体、呼吸、共鳴、発声でよいときは、トレーナーに任せています。表現についての問題は、複雑です。今の日本では、さまざまな事情を加えると、なかなか判断ができないのです。

 私は「声からの絶対基準」と「表現からの絶対基準」をベースにしています。ここで「絶対」というのは、時代や国を問わないということです。本人の資質をベースに最大の可能性=オリジナリティで問うということです。

 しかし現実には、仕事になるための「今、ここで」=「21世紀の日本」「客やファンの求めるもの」でという相対基準、外から求められるスタイルや能力に合わせるという基準を配慮せざるをえないのです。そこを超えたところでは、思想、価値観となります。

 総合力としてのオリジナルが評価される今、声での創造力においてのオリジナルでやっている歌手は、ほとんどいません。トレーニングで教えられるもの、育つものではないからです。となると、精神的サポートが中心とならざるをえなくなります。

 

○日本のゆがみの構造

 

 日本人における「二重構造」は、今もクラシックもポップスも音楽業界に根強くあります。欧米人と同じ教育を受けることを最上とし、欧米人の感覚で評価してきた流れのことです。ロックやへヴィメタルなど、洋楽しか聞かず、洋楽しかやっていない人にも多いですから、クラシック、ポピュラーに共存する問題といえます(楽器では幼少から行われていますが、歌では難しいでしょう)。

 「本物は本場に近いほど優れている」「向こうの人が認めたら本物」というものですから、評価は楽です。向こうの誰かに近いかどうかです。そこには、世界を席巻した欧米の声楽やポップス歌手だけでなく、作曲家や演奏家も含め歴史と実績に支えられているわけです。世界の覇権者の推移(モンゴル→ポルトガル、スペイン→オランダ→イギリス、フランス、ロシア→アメリカ)と無関係ではありません。文化や芸術も世界と連動してあるものです。

 明治維新以降、上からの音楽教育改革によって、西欧にシフトし、戦後さらに欧米化した日本では、今でも音楽教育は欧米に追いつけ追い越せなのです。世界支配のための戦略として、宗教と武力を用いた欧米人のやり方は、プログラム化され、世界の欧米化=グローバル化を促進しました。

 私が研究所を運営するのに、トレーナーを声楽家中心にしたのは、そこに一個人に左右されない基準があったからです。この基準を、私は自分の基準と相対化させています。

 

〇未熟という独自性

 

 オペラは、世界の観客を熱狂させた、一部の天才の能力にのっかってきたのも事実です。200年も前の、遠く離れた国で権勢を誇っていたものが何一つ疑問を持たせず東洋の島国、日本で伝承され、保持され、存在していることを否定するつもりはありません。ラテン、カントリー、ロックからヒップポップ、ハワイアン、フラメンコまで、どの国よりも柔軟に世界中のものを集めて、楽しんでしまえる日本人の許容度の高さは、歌に限ったことでないからです。スポーツや舞踏だけでなく、工業製品からクリスマスなど宗教まで受け入れアレンジしていくのは日本人の能力でしょう。こうなると文化、宗教の定義さえ日本人の場合は特殊となります。

 

 本来のオリジナリティは、文化や風土に触発されて生じ(地に足をつけて)、高度な域に高まるものです。その資質の上に表現が生じてオリジナリティとなると思います。なのに、日本では本人の上でなく、斜めや横の方に開かれてしまうことが多いのです。そのいい加減さ、未熟さにも、よし悪しがあります。

一流の職人などではありえない、その独自性の完成について、歌の場合、歌手は(俳優、声優やアナウンサーなども含め)本人不在のままにパッケージ商品化されてしまいます。その矛盾に対して誰も指摘しないことです。

というより、プロデューサーはじめスタッフなど、まわりはむしろ、それを促進していく構造になっているのです。つまり、判断がなされているのに、その基となる判断基準がゆがんでいる。客についてもいえると思うのです。未熟をよしとする文化の歌が、代表になりました。

 

○まねから総合化へ

 

 「欧米には、世界の人が憧れるすごい文化がある。同じことを日本人がまねてくれたら、向こうに行かなくても見たり聞いたりできる―。」

歌唱、演劇に限らず、多くの分野でこうして模倣が生じたのです。宝塚歌劇団劇団四季も、ステージ側、観客ともその構造下にあります。日本のシャンソンが向こうのものを日本語で歌ってヒットしたようなことです。その点では、そういうジャンルのトレーニングやレッスンに声楽の基礎を学んだトレーナーにつくのは意味があります。

 日本人は、プロデュースした人や世に出た人が、それを元に日本人向けの基準を本人の好むところの狭い範囲に定めてしまいがちです。それが結果として、本来、自由であるべき声や歌まで限定をかけてしまうのです。それを受け入れ続けるのも鈍いのですが…。

そして、それがマニュアル的な指導をつくるのです。早く、うまく、人に見られて恥ずかしくないように、ミスのないようにするために、正しくうまくの形づくりです。形で示されるとわかりやすいため、歌唱も再現芸術になり下がります。結果、リアルなライブでなくなるのです。これを安易に誰でもできるようにビジュアルと装置化して、日本独得のステージ技術が発展したのです。まさに「カラオケ」的といえます。声や声の表現である歌や歌の表現のストレートさ捨てて、能のように複合芸術化をしたのです。

 

〇ビジュアル化と声の弱化

 

 昭和のころまでは、歌も世界を目指し、欧米とも張り合おうとしていました。二番煎じに甘んじつつも日本人のオリジナリティ対して、探求もされました。ただ、結果からみると、声でなく作曲、アレンジ、演奏、ステージ技術での発展が顕著でした。

 世界的にもビジュアル化へしていきました。そのためにクールジャパンとして日本は肯定され、高める必要も失ったのです。

「私たちからみて、今の若者のだらしない会話の声や発声が、そのまま使われているカラオケやJ-POPSが、ポップスとしては、日本人らしくてよい」と私が言っていたのは1995年頃でした。

 日本人のもつ特性について掘り下げて考えるとよいと思います。私は、その頃、歌に表現力が感じられないから、モノトークとしてせりふでの表現力に戻してレッスンに入れました。今はせりふの表現力でさえ取り出せないレベルになりました。声を支えるフィジカルやメンタルが、弱化し続けているのです。メンタルについて問題と私の考えは「メンタルはフィジカルから鍛える」で触れました。[fukugen 2012/10/01]

 

○ビジネスの声の弱化

 

 私は早くからビジネスマン相手にヴォイストレーニングを行っていました。しかし、日本のビジネス界で、本当に相手を論破できる声が必要なのかは疑問でした。声をパワフルに使えているのがよいというのはオーナーや一匹狼のセールスマンくらいではないでしょうか。

 「大きな声を出せるように」と頼まれていた研修も、「心に伝わる声、相手に好ましい印象を与える声」のようなものに変わってきました。

 声は、戦国の武将の時代をピークにして、武士→軍人→会社員(モーレツサラリーマン)と弱体化してきました。

もう弱いために「語尾まできちんと言えるように」、「何をいっているかわかるように滑舌をよく」というレベルで

す。日本の公の場での言語環境の歴史については改めたいと思います。

オフィシャルな場での最低限の声、声かけ、挨拶、電話、会議、プレゼンにも欠く声が当たり前になってきました。幼少から成人するまでの日本人の発声総量(大きさ×時間)は大きく低下しているので、当然です。

 

〇音声のリーダー喪失

 

 体や心の弱化について、コミュニケーションの問題から取り上げます。一国の人々の声力(言語力―広い意味での)は、その国のトップの声でわかります。日本の首相は、世界で何位くらいでしょうか。伝達力としては間に合っても、敵を説得する力は乏しいようです。

 これまでも、かなり声力のひどい首相がいました。日本は、音声での説得力でリーダーが選ばれる国ではないのは確かです(首相であった人々、田中角栄、橋本、小泉、中曽根、大平、麻生、菅、細川、安倍などの声を比較してみましょう。各国首脳、たとえば、アメリカの歴代大統領、クリントンオバマ、トランプほか、女性首相なども)。

 相手をやり込めてまで意見を通そうとする説得力、言語力、論理力、声の力が、それほど日本人に必要なかったということでしょう。

 

 福沢諭吉がスピーチを「演説」と訳したあと、自由民権運動と議論が高まりました。そこから団塊世代の学生のときの安保闘争赤軍派の挫折などを経て、少しずつ、言語の信頼が喪失していきます。今の若者は喧嘩もしませんが、討論もしないでしょう。

 

〇個性化と日本人の声

 

 私は1980年代までは日本でも個人化(個性化)、表現化が進むと、音楽はアコースティックにオリジナルな表現がより強くなると考えました。現実は逆となり、研究所は1995年に得たライブハウスを2002年に手放しました。

 少子化はともかく、若年層の保守化、メンタル、フィジカル面での衰えがこれほど大きくなるとはと思わなかったのです。大きなモノへのあこがれや、大きな欲求の時代は終わり、ささやかな差別化に精を出すようになりました。それも豊かさの一面なのでしょう。安全ゆえ政治は軽視され、有能な政治家は出なくなります。世界に出ていけるアスリートは、戦前教育のようなスパルタの親が育てているといえます。

 

○状況共感時代へ

 

 歌手の集団化、スターをつくらないシステムが、日本らしい成功をおさめているといえます。そこでは、演出家、プロデューサーがアーティストです。テクノや機器でしか世界に出られない日本、SEやアレンジャーがアーティストのステージ、客が主役のフェスティバル・コンサートと、アーティストのカムバックブームからAKB48まで、シンプルな図式がみられます。

 デビュー曲にインパクトとオリジナルの表現力の出ていた有能な歌手が2、3年たつと、ありきたりの歌い方になります。海外から戻り、日本のステージをやるにつれインパクトがなくなるMCが多くなり、客に寄り添う共感型(ブログやツイッター型)になる、それが日本のもつ文化でしょう。それを打ち破るべきアーティストがそれに迎合してしまうのです。

 

〇対人スキル

                                                              

 欧米でのリーダー、スターは、ステージ上から自分が思うように客を動かせる人です。感動させること、未来、あるべき姿を伝える人です。歌手も役者も、牧師もゴスペルをみたら同じとわかります。ヴィジョンによって人心はまとまり、盛り上がり、行動します。狩猟の手順でもあり、家畜や奴隷の支配の方法にも通じます。

 そのために声を使うのです。正確に論理的にことばを使い、相手を説得します。正論をもって人を説き伏せます。

 民族の交わるところで鍛えられた人の対人スキルのレベルの高さです。私は、外国人に接するごとに、驚かされてきました。言いたいことは言い、くだけたり、脅したり、褒めたり、諭したりしつつ、目上にも目下にもフレンドリーで変幻自在なおしゃべりで、当初の目的を達成します。

 私たちが、立場をふまえ、相手をみてその出方に気遣い、反論を避け、雰囲気をこわさないように努めるのとは対照的です。彼らからは、そういう日本人の「和」の文化は、あいまいで、「どう考えているのかわからない」となります。何も考えていないのです。日本語もそういう性格を持つ言語です。この一例として、私は日本のシンポジウムで最後に必ず対立が解消されたかのように終わること=日本特有の儀式としてみています。

 

〇日本語の弱点と場の空気[E:#x2606][E:#x2606]

 

 日本語を使わない方が外国人だけでなく、日本人同士でもはっきり意思を伝えられます。日本語よりも強く声に出しても相手が傷つかないからです。日本語は相手を気遣ってハッキリと意思を伝えない言語、かつ音声の使われ方までも弱く、あいまいにして、それに従っているのです。私は、愚かなきまりと思いつつも、楽天などの英語の社内公用語化のメリットをここにみます。

 

 日本語のことばのあいまいさは、取り上げるまでもないことでしょう。でも、「はい」は、yesでなく、「はい、聞いていますよ」ということです。「わかりました」も同じです。「もういいよ」「いいですね」は(よくないよ)です。

 

侵略され、ひどい目にあったことがないから、ことばに寛容といわれます。イヌイットやモニ族(ニューギニア)など、世界では少数です。

謝ることで責任を徹底して追及され悲惨な目にあった経験がないからです。

 農耕民族で同質性が高く、以心伝心で「察する」文化といわれるゆえんです。場の雰囲気や面子をたてるため、思いやりにあふれ、情緒的といわれます。

 場という集団的な雰囲気=空気に逆らえません。鶴の一声に逆らえず、問題が大きくなるまで止められず、それがしばしば、悲惨な結果を招いてきました。

 それでも責任者は追及されないのです。第二次大戦も原発も、今の政治支配も同じ構造です。

厳しくジャッジする第三者がいないのです。日本は司法をもマスコミも第三者でなく、政党も一党です。

 中根千枝氏が、「たて」の構造社会で指摘した自分と身内をウチ、それ以外をソトとする構造です。他の国のように「自分(自我)―他人」でなく自分は場(自分、まわりの人)、人と人の間にあるのです。

 

〇大道芸と宴会

 

 コミュニケーションとは、見知らぬ人、育ちや考えの違う人への説得ツール=言語となります。自分の考えを意識化して、言語化して伝えなくてはいけないから、言語=論理になるのです。

 ステージも、この個と説得する相手としての客の対立図式です。通りで箱の上に乗って、通りゆく人に呼びかけて、その人の足を止め、そこで聞かせ続ける大道芸人型です。

それに対して、日本では、歌は内輪のもの、宴会芸です。カラオケも前者から発展した後、この形に落ち着いたわけです。客=ファン=身内=場なのです。客は、従順で安心、安定した存在ですから身近なMC中心がよいのです。「勝負」でなく「共感」の場なのです。お互いに気遣い、よい感じに終わらせます。日本では、不調でキャンセルするアーティストはとても少ないです。「熱が出ていますが」でも出るのが、レベルが落ちても支持が得られるのです。いわゆる「甘えの構造」です。

 

〇日本人は会話だけで対話がない。

 

 今の時代、日本で、観客の想像にゆだねるアングラ劇や不条理劇は成立しにくいです。楽で安心して見られるミュージカル仕立てが流行するのです。歌もインパクトがあり、声がよく歌がすごいのよりは、身近に感じられるステージがよいのです。叫ばずにつぶやく(ツイッターニコニコ動画)にも、無記名(匿名)であんなに書き込む努力ができるのは日本人だけでしょう。

 これは今に始まったことではありません。クールジャパンの一端をなすのです。

 日本人の海外の文化の柔軟な取り入れは、日本語の成立をみても明らかです。中国語や英語が和語と対立は起こさず、二者択一を避けて全て受け入れてから、自然な流れで選択されていくのです。カタカナでの外来語受容は特殊なものです。一方、インドなどでは、部族言語が多すぎて共通に使える英語に頼るため、英語力がつくのです。

 

○声のオーラ

 

 私は、世界が日本のようになるのが理想です。しかし、現実には国家単位とその対立で世界が成立しているので、日本人も21世紀前半はナショナリズムに立地せざるをえないと思っています。そのモデルとしての他民族社会の世界、アメリカ合衆国に幻滅し、ユーロ圏も崩壊していくでしょう。まだまだ時間がかかるし、危険も大きくなりそうです。

必ずしも世界中が日本のように子供っぽくなるのがよいとは思いません。それが平和ということなのでしょう。世界には日本たるようアピールすることに努める力としてクールジャパンをみています。女子供化、メンタルもフィジカルも戦えなく弱くなったら…です。多くの国はそれで滅びました。

 

 私は言語としての限界を日本人らしくよく知っていたので、それで示される世界よりも音楽や声を重視してきました。日本の歌はストーリー、歌詞、物語重視です。それゆえ、その他での完成度が低く、声もいまいちです。

 今のミュージカルやJ-POPSにも「立派な歌詞」のうさんくささを感じています。でも声力が歌詞を上回れば、ことばを超えた音楽となり、その問題はなくなります。スピーチでさえ伝わるのは、ことばや内容を支える声のオーラでした。

 日本のアーティストは概して草食系です。その理由もわかるでしょう。歌詞の部分でも、自分―他人でなく、自分=身内(場)で成り立っているものが多いのです。半面、欧米の弱点は、自分―他人の対立での孤独に耐えられなくなってきていることです。グループカウンセンセリングなどが日本人には考えられないくらい、処方されています。

 欧米の設けたリング、スポーツにしろ、アートにしろ、そこでしか鍛えられないとしたら、それは、おかしなことです。

 和道、日本の芸の多くは、自分=身内が場でありながら師弟構造を有しています。役者養成所はサークル化に伴い、趣味の場になりつつあります。一億総セミプロ化の時がくると1985年頃言いました。レッスンにおいて、そうなってきているのが現状です。