「レッスンとトレーニング」

○喉の限界

 

 レッスンでは 1.状態をよくする(そのためのチェック) 2.強化する(そのためトレーニングのやり方)

 強化について、自分でやるときに気をつけることは、喉の負担の限界です。声楽家は、発声を学びはじめても、20代そこそこで大曲やダイナミックな表現をすることは避けます。先生から勧められません。ヴォイストレーニングも同じことです。

a. 喉の弱い人

b. 喉を壊した人

c. 喉を壊した後の人

は、特に注意を要します。同じトレーニングでも、人によって対応力が違います。

 

○喉の目安

 

 喉については、一般の人よりも体力や筋力、その他の能力にすぐれていても、強くない人もいます。

 トレーニングのあとに声が出やすくなるかが、一つの目安です。

 多くのレッスンでは状態を整えるので、声は出やすくなるはずです。ただし、それに対応力のない人や強化を目指したレッスンでは、しばしば、のどが疲れて、声が出にくくなります。理想的には集中できる時間内だけ、ゆっくりと休みを入れながらトレーニングを行なうことです。

 

○調整の必要性

 

 喉は、心身が疲れたり、よくない使い方をする方が声が出やすかったり、せりふや歌に感情が入りやすかったりするときがあるので、判断がとても難しいです。

 若いトレーナーや、あまり経験のないトレーナーは、現状に左右されて、なかなか聞き分けられません。そういうトレーナーは、自分の喉にもよくないので、強化よりも調整だけを教えることに専念するのはやむをえません。

 ポピュラーの歌ではハスキーな声も、喉声も許されます。だからこそ、そうでないヴォイストレーニングで調整することが必修と考えるべきと思います。

 

○可能性と限界

 

 トレーナーとしては勧められない、禁じたいようなトレーニングでも、その人が鋭い感性をもつアーティストであれば、直感的にやりたいと思ったことは、トレーナーのみえないところでやるものでしょう。他人がだめだといって「ハイ」といってやらない人は大成しないのです。

 これは他のトレーナーや医者が聞いたら怒られそうなことですが、私は、レッスンについても本音で語るようにしています。この20年、のどを壊す人は増えたのか減ったのかわかりませんが、医者の利用が増えました。またトレーナーがついてリスクは少なくなったはずです。実力も底上げされ、平均レベルは高くなったのに、世界のレベルに人が育っているとはいい難いです。

 

○本当のこと

 

 限度を超えたトレーニングの可否は述べませんが、本当のことをいうので気をつけて聞いてください。初心者や声に苦手意識のある人は読み流してかまいません。

 ヴォーカリストが理想とするイメージの声や実現が、その本人のもって生まれた声の可能性の真ん中にあるのか、延長上にあるのかを判断してサジェストするのが、私の仕事です。すべてがすぐにわかるわけではありませんが、調整のヴォイトレに対し、強化は、常に限界と可能性をみながら行なわなくてはなりません。一つ間違うと、方向違いの努力になりかねません。

 

○調整と条件

 

 調整とは、プロだった人がかつての状態を取り戻して、元の活動が可能なレベルに戻すようなことです。スランプからの脱却方法もその一つです。話し声の調整や、カラオケで歌う調整は、一般の人にもやっていますが、それをプロレベルにするようなことは調整ではできません。

 プロがヴォイストレーニングを受けてよくなったというのを聞いて、素人が行なっても大して変わらないのはどうしてでしょう。プロに評判のよいプロのスポーツ選手のフィジカルトレーナーに私が教えられても、プロになれないのと同じです。その日の状態をいくらよくしても、条件が変わらない以上、同じところをぐるぐる回るだけなのです。喉の弱い人や、これまでにうまくいかなかった人が医者に行ったら、原状回復で元に戻るだけです。メンタル面で自信がつき、声がよくなったように思っても、根本的な問題は、解決していないのです。環境や習慣から変えないと、普通の人並み以上になりません。

 

○プロの不調対策

 

 プロでも、素質に恵まれ、特別なトレーニングをしなくてもやってこられた人ほど、声が出なくなると難しいものです。ショックなどメンタル面もあるからです。30代から40代にかけて引退に追い込まれるのは、そういう理由です。

調子のよいときから、信頼できるトレーナーに把握をしておいてもらうと、いざとなったときに心強いものです。

 不調の原因を知り、取り除くことです。私は記録をとり、本人にもノートをつけるようにアドバイスしています。

 

○負のスパイラル

 

 マイナスからゼロ状態にはヒーリングのようにして戻すことは可能です。メンタルの改善だけで解決することもあります。ヴォイストレーニングといってもこの辺はクリニックのような原状回復が目的です。ストレスを解消した結果、戻ることも多いです。

ヨーガやマッサージのようなものも含めて考えてもよいでしょう。こういった体の柔軟や呼吸にもよい(ひいては声にもよい)ものは、ヴォイストレーニングに組み入れてもよいでしょう。しかし、それでオペラ歌手や役者になれるでしょうか。

 喉の調整も似ています。調整は誰にも必要ですが、必要条件に過ぎないです。そこで使うべき時間は、病人には必要ですが、一般の人なら、最小におさめて、一歩先に行くことでしょう。

 

○よくある勘違い

 

 本人やトレーナーが明確に到達への目的とそのプロセスを把握できていないため、練習しても調子を悪くしては、そういうところで整えることの繰り返しをしている人が多くなりました。それでは負のスパイラルです。トレーナーの熱心さにほだされて、あたかもそこで何かが得られているように思う人も多いのです。

 心との対話というのであれば、トレーニングの合間にセットしてもよいと思います。そこでも目標を高くとり、トレーニングの必要性を最大限に高めることが望まれます。本人の最大の可能性に向けてトレーニングをセットすることがトレーナーの腕であり、レッスンの真の目的です。

 

○「レッスン前シート」の大切さ

 

 私は、毎回、相手にレッスンにのぞむスタンスとその日の状態を確認しています。そのためにアテンダンスシートを使っています。形式はどうでもよいのですが、時間のロスも防げます。レッスンの目的をその都度、細かく把握することはとても大切です。

 

○レッスンのスタンス

 

 レッスンのスタンスは、人により、時期により、その日により異なります。

・完成した作品としてみる

・歌やせりふの練習としてみる

・フレーズ単位での声の再現力としてみる

 ライブやCDと同じレベルで、歌やせりふを、厳しい客やプロデューサーとしての立場で作品でみる場合、曲やアレンジ、バックの伴奏やバンドまで、想定してみます。できるだけ、ステージの視覚的効果、ふりつけや衣装は考慮せず、音の世界でみたいのですが。演出家、プロデューサーと異なり、音で徹底してチェックするのが、私の仕事だからです。

 へたにみえるところは消しこむアドバイスもしますが、その人の強みの発見や、その力をつけることが優先です。欠点の指摘と解消だけをしていたら、へたにはみえなくなりますが、個性をも損じることになりかねません。

 

○歌やせりふのレッスンのスタンス

 

 歌やせりふの練習としてみる場合は、その人の可能性と限界を見極め、限界が出ないように整えます。表現効果をふまえたトータルのバランスを重視します。できるだけ大きく、あえて伸びるように、少しでも大きな器を想定してつくっていくようにします。これも、全体のバランスをみるのか、部分の完成度をみるのかで、違ってきます。

 フレーズ、単位でめいっぱい完成させた声の使い方と、声そのものをみるのは、通常のレッスンです。

そのほかにも、

・発声だけのチェック

・日頃の自主トレーニングのチェック

・やり方のチェック(と課題セット)

などがあります。歌うために声を使うことと、声のために歌を使うことは違います。私のヴォイストレーニングの中心は、後者です。

 

○声の表面上での違いと本質での違いについて

 

 私は早くから、一流の作品の聞き方を変えていくことを念頭にレッスンやトレーニングを組み立ててきました。お笑い芸人が、弟子入りせず学校で勉強している時代です。落語家でも師から学ぶ以上に、名人の作品をDVD、CDで聞きまくっているのです。トレーナーが歌ってみせるのを口伝するなら、CDやDVDで充分です。一流の作品に安易にアプローチできるのに、その必要性は少ないし、トレーナーがまねると、トレーナーのオリジナルでないため、くせを表情や擬音でついてしまい、その形をまねさせてしまうからよくないのです。誰もが、早くうまくはなったのに、すごい人が出なくなった理由を見据えなくてはなりません。

 

○声の違い

 

 声の場合、一流の作品からストレートに学ぶことは、難しいことです。音声をどのように把握するかに、個人差があります。ビジュアルのように繰り返し視聴して合わせているだけでは難しいのです。そのためかスポーツやダンスのようには、日本から世界に通じる人材が育っていません。

 器用にあらゆる歌手のものまねができても、できないよりはよいとはいえ、大した力にならないのです。一人ひとりの声が異なるということが、楽器のプレイヤーと違う次元の問題を引き起こしているのです。

 

○まねとオリジナル

 

 他人の声と同じ音色、出し方に合わせようとしてムリが生じます。他方、そうでないケースでは、声の違いだけでオリジナルが生じたような勘違いをしやすいです。

 どちらにしても、体、呼吸からつかみ、その上で心でつかむこと、これがないと、素人のカラオケになります。どんなに心を入れても、基本がないと独りよがりになります。しかし、それでもまわりにけっこう受け入れられてしまうから厄介です。

ことばに情感が入っていると、音楽的なことは飛んでしまって、人の心を打ってしまうのです。どちらも、より優れた歌の中に入れるともちません。現場での必要はなくても、練習は時代や国を越えて通じるという高い目標からみないと、自己満足であいまいになりがちです。

 

○心地よさを求める

 

 トレーナーは、ことばでも図や絵でも何らかの形で「何が足りない」「どうすればよい」と具体的に、歌い手に問うことが、レッスンの意味です。この曖昧な世界にあなたの声の公式を共に築こうとするのがトレーナーの役割です。

 「体、呼吸から」「音楽性」というのは、音程やリズムと違い、みえません。楽譜上では正しい音程やリズムでも、心地よいかどうかに差があります。

 

○みえないもの、聞こえないもの

 

 体、呼吸、音楽性も程度問題です。しかし、プロの世界は、そのみえないものが大きくものをいうのです。聞こえないものを聞こえるようにするのが、私の役割だと思っています。そこまでいかなくては本来の面白さはわからないというくらいに大変ゆえに深く、確かな世界があります。これは確かな基準です。

 この基準づくりこそが、私が生涯をかけて見いだしてきた宝なのです。それは、全世界、この時代においてもポピュラーに限らず、一理あるものです。それがおかしいとしたら、人が何を求め、こういう世界を作ってきたのか、感動してきたのかということまで虚ろなことになります。

 時代は変わり、歌も変わります。しかし、変わらないものを見据えて変えていくのです。

 

○ヴォイストレーニングの基本と応用

 

 「いつまでやればよいのか」と、よく聞かれます。芸道であれば、卒業はありません。ここで述べているのは、レッスンとしてのヴォイストレーニングです。ヴォイストレーニングは歌そのものではないので、多くのレッスンでは、せりふや歌のレッスンやチェックに移っていくことが多いです。せりふや歌のチェックや、アドバイスができない場合は、別のトレーナーにつけることもしています。せりふや歌のチェックの難しさは、別に述べたいと思います。レッスンの内容を異なる視点で述べるのなら、

1. 声を出せる体、声をコントロールできる呼吸づくり

2. 発声と共鳴、音色とフレーズ

3. 音楽的基礎(メロディ、リズム、音感音程、読譜

4. 歌唱 解釈、展開・構成、創造

5. 表現 オリジナリティ(←2)

のような形でとらえるとわかりやすいかもしれません。

 

○基本と応用

 

 基本と応用は異なりますから、私のレッスンでは、基本が身についてきたら、あるいは一人でトレーニングできるようになったら、そこで確認チェックとしてトレーニングをみるか、歌唱や表現のチェックに移るか選びます。その人の表現が明らかに私の考える基本の延長上と異なる応用になっていくときは、私がアドバイスすべきかどうかを本人に聞くことがあります。

 いろんなプロがいらっしゃるので、私の基準や目指すところを述べます。それに100%沿わなくとも、そういう概念や基準を学びたいのなら、大丈夫です。

表現がしぜんと違う流れに進んでいくのがみえたら、一応は卒業だと思うのです。もちろん、初回にいらして、歌を聞いたら卒業ということもあります。これは、優劣ではなく、ここのレッスンにおいての可能性を照らし合わせて考えているからです。

 

○可能性のもとでの評価

 

 ここのトレーナーでプロの歌を評価することを求められることがあります。これは、一般の人の声の評価と同じく、よしあしなどつけられません。それぞれによいところがあります。本人さえ問題ないというのなら、それを聞くお客やファンにとってよければよいのです。

 ですから、私は常にレッスンによって、改善や、より大きな可能性が開かれる余地において評価します。つまり、トレーニングやレッスンで変わることに対して、不足や強化の必要と、そのプロセスを具体的にアドバイスするようにしています。

 ですから、どんなジャンルの人も、プロとして活躍している人も訪ねてくることができるのです。そして、レッスンも続くのではないかと思います。私には、私のスタンスがありますが、それは、私の価値観で判断するのではありません。相手の価値観がどうであれ、相手のスタンスとレッスンや評価が合わせられるか、からスタートしているのです。

 

 

「なぜ日本からは声で世界に出られないのか」

○日常の声の使用量の不足

 

 日本人の生活や文化は、特に耳で聞く声よりも、目でみる視覚に多くを負っています。私はその考察のための材料をたくさん持っています。しかし、ここでは日本語が「聞く話す」よりも、「読み書き」にすぐれていること、日本発の文化はビジュアルがメイン、J-POPさえ、声や音よりもビジュアルで世界から評価されていることをあげるに留めます。

 日常レベルでの音声の必要のなさが、声の使用頻度の少なさになっています。量も強さ(大きさ)も他の国の人の何分の一かになっています。この傾向は、今世紀になってますます強まっています。

 聴き手の耳の変化で、声の強い表現力を拒むようになってきていることが気になります。

 

○声の弱化

 

 私の企業研修のテーマが以前は、「大きくはっきり伝える」だったのに、最近は、「感じがよく伝わる」ような声を求められるようになってきました。上司の大きな声だけでパワハラに近いと思われる、そのようなことが現実にあります。

 日常の声レベルは基本ですから、そこでの差はハンディキャップです。そのままではオペラもポップスも邦楽も噺家も成立しないのです。歌については、音響とレコーディング技術の進歩と、聴き手の耳の変化が支えているのです。ここでは日常で1時間声を使えない人が、本番で1時間、声を使えるわけがないという常識を掲げておきます。

 

○体を元に考える

 

 今のポピュラーのヴォイトレというのは、高い声で出す、そのために喉声を回避します。喉声ゾーンを避け、喉の息をあけ、頭声にひびきをもってきます。ほとんどこれだけのノウハウです。日本の声楽も高音域獲得のために、同じことをやってきました。頭声から入って、小さな声しか使わないことでカバーします。リスクはなくなるのですが、形だけのノウハウです。声を調節するだけでなく、声を鍛えてまで変えるという考え方をとっているものは少ないのです。ですから体が使えないのです。私のヴォイストレーニングに胸声、頭声を加えて全体像としてわかりやすくしました。

 

○調整メインのヴォイトレ

 

 鍛えない理由の一つは、欧米のメソッドの輸入です。外国人は、すでにこのレベルの声が日常生活でマスターされていて不用です。もう一つは日本人のトレーナーの大多数が、のどが小さく、高めが出しやすい人なのです。あまり日常の声のよい人はいません。本人自ら、話す声がよくないと述べている歌い手やトレーナーがとても多いのは、日本の特徴です。欧米のテノール歌手にもそう言う人がいますが、日本人のトレーナーほど悪くはありません。

 そういうヴォイトレは、声をよくするのでなく、高い声を出せるようにすることが目的です。元からそういうことのできた人ですから、同じような人にしか通用しないことが多いのです。やり方自体は、間違いではありません。高い声は高い声を出しているなかでしか出てこないのです。それはどんなに喉のしくみを知ったところで同じです。

 

○「のどを鍛える」ということ

 

 声帯を鍛えるという考えの人には、アナウンサー、役者、声楽家の一部では、確かな音源として、息を強くして強い声にしようとしている人もいます。ひびかせるにも、声になっていなければ仕方ないので、一理あると思います。私は、低いところでのどの開きをキープするため、軟口蓋を感じる音としてガ行を使っています。

 ほとんどのトレーナーが否定するのは、大声トレーニングです。特に大声で高い声を出そうとすることです。喉で無理に声をつくった人のなかに、あとで脱力したやり方を知って、自分は方法を間違えていたと思う人が多いからです。もしその後、その人が発声をマスターしているのであれば、この無理、無駄なようなトレーニングが、実のところ、効いたのかもしれません。ここは微妙な問題なのですが、誰しも今の肯定のために過去を否定したがるのです。そして、そういう人は他人に苦労させたがらないのです。

 

○間違えとう間違え

 

 声を正しく使う前に、声を使う段階がいるのです。フルマラソンを走るまえに、ジョギングの期間が必要かといえば、あたりまえでしょう。

 走りすぎて痛めたから、やり方が間違っていたとして、やり方さえ正しければ、もっと楽に早くできたと思い込む人が多いのです。その人が今、前よりもよくなっているのなら、役立った可能性は否定できないのです。

 発声が楽になったことだけでいいと思う人が多いのです。これも問題です。表現レベル、心が息で伝わるものになりましたか。日常の声から変えていくことで私は声をみているのです。

 

○4つの喉

 

 一人ひとり違う喉があり、育ちがあり、その上でもっともそれを活かせる使い方があります。次の4つを一緒くたにして考えないことです。

 

1.自分の喉そのものの形態

2.自分の喉の育ち (喉のもつ条件、過去歴、鍛えられ度)

3.自分の喉の今の状態 (今の使われ度)

4.自分の喉の使い方

 このうち今のヴォイトレの大半は、3と4が中心です。

 ギターで例えると、1はギターの素材やつくりそのもの、2はつくられ方やなじみ方、3は弦の張り方や手入れ、4は演奏の仕方やその腕前となります。

 トレーニングは、将来に対して基礎となる条件を変えていくことです。4の前に3があります。これは最近の練習にあたります。高い声を出すと、高い声が出やすくなるとか、喉の使い方に対応して、およそ2、3ヶ月から半年単位で、喉の筋肉のつき方も変わります。そこは2に関わっていきます。このあたりがレッスン、トレーニングでの位置づけでは、1~2年の効果にあたります。

 

○条件を変える

 

 日常の声まで、その条件を変えるなら、2(一部は1)に踏み込んで、3~5年は最低限要するでしょう。そのつど、4は調整しなくてはなりません。

 

1.喉 2-1~2-2

2.喉の育ち、条件 1-2~2-1

3.喉の今の状態をよくする 1-1(1-2)~2-2(3-1)

4.喉の使い方 1-1~3-2

 

 このときに、胸部を補うのに一時、2-2~3-2を強化しようというのが、役者声、外国人声としてのレベル、その条件づくりを日常声とする私のヴォイストレーニングです。

 これらは発声法(方法論)としての正誤でなく、目的によるトレーニングの重点の違いにすぎないのです。どんな方法でも、どう使うかが大切です。

 

○日本人のヴォイトレの欠如

 

 私は正誤の議論をしたいのではなく、日本人の、特に浅い声の歌手、役者、トレーナーに対して、欧米を含め、世界中の民族が共通して持つ条件の欠如を指摘してきました。芯のない声にひびきをつける(低音のない高音)のは、根のない茎のようなものです。いつまでも大きな花はつけられないということです。

 生まれつきとか、喉が強いとか、鍛えられているから、凄い声が出るのではありません。育ちや日常レベルでのしぜんな鍛錬(というのは、年月が長いと無理しなくとも、必要条件が宿る)によるものです。それこそが本当の意味で、日本人のヴォイトレの必要性です。

 

○ヴォイストレーニングの意味

 

 トレーニングというのは、もともとふしぜんに無理なことを行なうことです。同じ日本人でも20年生きて、歌い手や役者に耐えうる声を育ちの中で得てきている人と、全く使わずにきて、トレーニングが必要な人がいるのです。なかには、声を長時間出す。大きく出す、長く出すなども難しく、喉そのものを鍛えなくてはならない人もいます。

音声ですぐれた国のトレーナーや歌手になれた人、日本でも小さい頃から声を使ってきて、すでに声の鍛錬が日常での育ちに入っている人には、わからないところです。

 

自然派

 

 トレーニングで喉を壊したり、悪化させた後に、それをやめて頭声での共鳴をつかんだ人は、それまでの過去(喉や胸声のトレーニング)を全否定してしまいがちです。こういう人は、私の理屈通りに実践していながら、他人に教えるときは、それを否定します。そして頭声の発声だけにしたり、ヴォイトレはさせず、呼吸法だけ、あるいはそれさえも害として、発声はしぜんに習得できるというような方針をとりがちです。私はそれを自然派とよびます。

 日本の業界には、多く、海外の方法などを学んで、さらにその傾向を強めます。その人ほどにも声の出る人を一人も育てられないことが多いです。

 

○声楽のテクニック

 

 ジラーレ、アクートなどの声区での変化、融合、ミックスヴォイスについて、またファルセット、裏声、地声、頭声、胸声、ビブラートなどは本来、個々に取り上げる必要のない問題です。

 

 喉のところで出している声を喉の奥をあけて共鳴を集めます。そのために鼻やほお骨、ひたい、眉間、頭のてっぺんまで持っていくのですが、そこにいろんな共鳴の体感イメージがあります。私は縦の線上というイメージを与えています。顔の表面でも、のどの奥から両眼の間でもいろんな線が引けます。いろいろ試して変化させていけばよいでしょう。いろんな教え方や感じ方があります。どれと決めず、自由にしておいてよいと思います。

 高いところで、C3-C5の2オクターブを考えてみると、1、2箇所、声区のチェンジのポイントが出てきます。m、nなどの発音を使用することが多いです。これを教わるか、しぜんに待つかです。しぜんといっても勝手にはできないのです。

 

○胸声と頭声

 

 胸声部も高い声と同じで、縦の線上でイメージしていきます。喉から下の方へ胸の真ん中あたりに出口を感じます。喉が離れにくいので、頭の方へのひびきを一度除くとよいでしょう。首から上では音をひびかせないという感じにするのです。ここは、先のC4から下の1オクターブ、歌では、あまり使いませんが、話声区と、さらに低いところとなります。

 そこで得た胸声をキープしつつ、ハミングなどを通じて頭声へ共鳴の切りかえができると、多くの問題は解決します。つまり、上下2本キープしておき、縦の線をイメージして、共鳴はその線上で行き来を、自由に扱えるようにするのです。低声部を先にマスターしていくのもよいと思います。

 

○「ヴォイストレーニング基本講座」の発声理論(Ⅰ)

 

感覚では、裏声、ファルセット 1-1(~1-2)

頭声、1-1~1-2

(喉声 2-1~2-2)

胸声、2-2~3-2

 

 これは、トレーニングの発達段階でいうと、2から、1へ伸びるとともに3、4へ伸びるイメージです。

つまり、素人 2-1~2-2、

マチュア 1-2~3-1、

プロ 1-1~3-2、

一流のプロ 0-1~4-2

 イメージですから、実証はできませんが、体感として、縦に伸びる方向にしておくのです。

ベルディング唱法は、3-1~1-2くらいです。2-1でつまる人がいます。そこで否定されるのでしょう。

初心者は、1-2と3-1を別々に意識して、そのうち結びつくと思えばよいのです。

3-2(~4-2)が芯(1-1~1-2)が天井と思うのです。その中でどのような線を引くかが、発声トレーニングです。体、声づくりとしては、1-1~3-1(3-2)を埋め、自由に扱えればよいのです。

 

○「ヴォイストレーニング基本講座」の発声理論(Ⅱ)

 

 日本人の歌手や声楽家には、1-1~1-2だけで勝負しようとしているように思えます。頭声と同じく胸声も、あてたり押しつけたりすると、2-1~2-2のひびきを増幅させ、拡散させてしまうだけです。

 上(高い声)の線で下(低い声)の線との折り合いをつけるのは、民謡など邦楽でも共通のことといわれています。名人は、上だけのひびきだけの歌唱を批判しています。

 声区のチェンジがグラジュエーションのように、なめらかになるには、(2-1~2-2)を使うのでなく、上のときに下で支え、下のときにも上で響きを感じていることが必要です。

 

○「ヴォイストレーニング基本講座」の発声理論(Ⅲ)

 

 日常の声は、日本人は2-1~2-2、 欧米人は、1-2~3-1、 ロシア人あたりには、~3-2もいます。

ここから歌う声を、日本人は、2-2~3-1の胸声の支え(戻れるところ、感覚=芯)をもたずに、1-1~2-1で勝負しているのです。ボーイソプラノがそのあたりです。

また、2-1~2-2を入れて、ハスキーにしている人もいます。どちらも、2-2~3-1に、話しているときほどにも落ちないのです。

なお、4-2で内股への緊張の感覚は、低い声(4-1)よりも、高い声(1-1)の支えに起こります。正しく発声を学んでいると3-2に集めた瞬間、1-1のひびきが同時にとれる(あるいは、移行する)、これを私もベルカント(よい声の)唱法のマスケラと考えています。

 

 

Q.プロデューサー、ディレクター、演出家など、他の人からの評価やアドバイスをどのように受けとめたらよいですか。

 

A.他人の評価については、自分にプラスに活かすことだけを考えてください。

ほめられたら、身を引き締めるようにし、批判されたら、直すべきことは直しましょう。それ以外は課題にするか、忘れるかです。ノートに記録しておくとよいでしょう。

誰がどういう立場でいったかによって、意味はかなり違ってきます。それに応じられなければ、仕事がなくなるようなケースもあるでしょう。

相手のものの見方や価値観、好き嫌い、コミュニケーションの取り方、自分との関係やこれまでの流れ、その人の関わるところ、私的事情と、みえないものはたくさんあります。それをすべて察するのは無理なことです。全てを正しく受けとめられると限らないからです。

何人か複数に聞くと、少しは客観的に理解できたり、わかりやすくなることもありますが、だからといって、何でも第三者に解釈してもらうのは危険です。ここにもよく先生やまわりにいろいろといわれたという人がきます。「まわりのいうことはあまり気にしないようにしましょう」というアドバイスもします。

 

〇アドバイス

 

 声や歌については、私のいうことの方が信用してもらってもよいでしょう。私も長くやってきたので、相手をみて、コメントは加減します。レッスンやトレーニングは、時間をかけて変わればよいのですから、よほどのケースを除いては、ズバッと悪いことだけをいうことはしません。それがトラウマになるリスクで、レッスンもやりにくくなるからです。

 他のところで評価が甘くて、厳しさを求めにきた人に対しては、具体的にとことん伝えます。感想や感じでいうのでなく、そう感じるのは「ここがこうなっているからで」「ここがこうなればよくなる」、そのために「こうすればよい」というところまで述べます。

 

〇アドバイス(Ⅱ)

 

 トレーナーに何かをいわれてきてわからないという人には、その意味を具体化して、伝えます。原因と対処法をその人に対して与えます。それを直す必要があるか、直らないときにはどういう対処ができるかを伝えます。

 ケースによっては、まねして、欠点として相手にわからせ(やや誇張してみせる)、直した形をみせます。目的によっては何が足らないのかを示すこともあります。

トレーナーにはできても、その人のできないことについて、すぐにまねさせてやらせることがよいのかどうかは、難しい判断です。問題にもよります。なかなか深い世界なのです。

 

 

 

「世界に通用する声にするためのレッスン」

 

○声だけの力

 

 声は声で、ことばやメロディをつけなくては通じないわけではありません。歌手は歌に使っている声で歌っているし、噺家や役者、声優、アナウンサーなどは、ことばに使っている声でしゃべっているともいえます。

 この場合、声はツールで、歌やせりふとして問われているのです。

 しかし、私が考えるのは、声だけの力であり、歌やせりふにしなくても通じる声の力の養成としてのトレーニングです。

 

○本当のギャップ

 

 声自体の力が、海外の歌手や役者と比べて大きく劣っているのが、日本の歌手、役者です。日常レベルでの差を、一般の人で比べても明確です。

 私は最初から、外国人の一般の人のレベルに、日本人は何とかベテランの役者レベルで追いついているくらいと述べてきました。極端に言うなら、「ワーッ」と叫んだときの声の差です。そこを解消しないと、本当のギャップは埋まらないと思っています。

「なぜ、歌の判断が必要なのか。それはどう判断するのか」

○声と表現と研究所と私

 

 ヴォイストレーナーには、大きく分けて、a声をみるトレーナーと、b表現、作品(歌やせりふ、トータル)をみるトレーナーがいます。どちらにも両方が含まれてはいるのは確かですが。

私は声だけをみたかったのですが、仕事がプロデューサーとプロをみるところから入ったため、作品からみざるを得なかった時期が長くありました。そこから研究所をたちあげて、声を中心にみるようにしました。しかし表現を独自にできる人が、ヴォイトレに興味を示すような人に乏しくなって補充するうちに、両方を含めるようになってきたわけです。そこで一人でなくトレーナーとの分担制をひいたのです。

 

○声と表現、作品の優先度

 

 歌において、表現は、声の力と必ずしも一致しないどころか、日本においては、相反することがあたりまえにあるので、ややこしい問題です。

 歌い手なら、自分かそのパートナーに表現力は、不可欠です。自分にその力がなくても協力者が何とかしてくれるわけです。もともと歌い手は、声を使うプロで、作品やステージは他に任せていればよかったのですが。それについては、次のような形でみています。

 

<ステージング>         <ステージパフォーマンス>

衣裳、ファッション      スタイリスト、メイク、コーディネーター

振付             振付師

音響、証明          SE、演出家

アレンジ             アレンジャー

作詞、作曲          作詞家、作曲家

伴奏             バンド、プレイヤー

 

 すべてが必要ではありません。その人の表現スタイルによります。それによって、レッスンでも声の必要や方向、求められるレベルも異なってくるのです。シンガーソングライターや自演(弾き語り)アーティストは、この多くを自分でやっています。

 

○共通すると相違するもの

 

 トレーナーは、その人の喉、体、性格などから、その人の体=楽器に合った声を伸ばしていくことになります。それがバイオリンかビオラかによって、根本で共通するものと異なるものがあります。

 体、呼吸、発声のベースは共通ですが、もっている条件が違います。音色やフレーズになると、いろんな可能性と限界が出てきます。まして歌い方になると、その人が器用にまねられるアーティストの数くらいにいろんなパターンが出てきます。

 

○二重性の中でのオリジナリティ

 

 まねでなく、もっともその人らしい、オリジナルな声のオリジナルな歌い方の上に、その人のオリジナルな世界が出てくる、それは完成度において誰がまねしても追随できないというのが、理想です。

 世界では、オリジナルの基礎の上に成立したオリジナルの表現しか認められません。まねは誰でもできるからです。

 しかし、日本ではまねるのに高い声やシャウトに不自由するので、そこが中心になります。

 向こうの文化をもろに受け入れて、向こうに似ていることがかっこよいというのが、日本人です。

受け入れてきたものを省みずに、歌をつくってきました。二重の意味でオリジナルな体の声のオリジナルな作品がわかりにくくなっているのです。

 

○不一致

 

 問題は、日本で好まれ売れやすいような、プロデューサーが欲している歌唱と、体からしっかりと取り出している声とのラインが一致しないということです。ルックスがよく器用な歌手は、プロデューサーのめざす路線にのっかって上手く歌うのです。でも声の処理はうまく歌ったレベルくらいで、のど自慢のチャンピオンほどの声の表現力もないわけです。音大で声楽をかじっておけば、ミュージカルで出演できるというくらいです。日本の歌唱の程度は、それを表しているわけです。

 

○欠点を明らかに

 

 トレーナーにとって歌をどう判断するのかを、抜かすわけにはいきません。私はいろんな人からのCDをもらいます。ふつうは他のトレーナーと同じく、何とかよいところをみつけて誉めます。頑張っている人を認め、勇気づけたいからです。しかし、レッスンをする人には、悪いところをハッキリと言います。そこを拡大して示します。それが仕事なのです。それはレッスンによって変わる可能性をみてはじめていえることです。悪く思われたくないから誉めようとは思いません。

 トレーニングやレッスンによって、何もしていない人に勝ることはできます。しかしそうしてきた人に対抗できる力をつけるのは、並大抵のことではないのです。

 

○限界の対処

 

 何らかの欠点や限界があったときの、対処の仕方は、つきつめると二通りです。一つは、諦めること。これは悪いことではありません。うまくいかないところを表に出さないように、きちんとカバーします。どんなプロもやっていることです。

 もう一つは、克服すること。できるかどうかわからなくとも、それを試みることは大切です。試みてできなければ、また考えればよいというのが、レッスンのスタンスです。限界までつきつめることです。

 

○可能性へのレッスン

 

 レッスンで関わらない人には、私はいろんな批評を求められても、言いません。どんな作品でもよいところはあるし、よいと思う人もいます。そういう人とやればよいからです。私のアドバイスは私の基準を投影することになります。プロの歌手なら別でしょうが、原則はよりよくなる可能性からみるべきです。

 そのときに悪いところを注意して、カバーしてもその場しのぎです。それに気づかずカバーもしない人にそのことだけ教えては、その人のためになりません。それをカバーしたくらいの歌で終わってしまうからです。

 悪いところより、よいところ、武器になるところを見つけるのです。それがパッと出てくることは、そんなにありません。長い時間がかかることもあれば、本人が思ったものと違う場合もあります。

 

○中立になる

 

 フレーズのトレーニングでは、その人の声からオリジナリティをみます。たとえ声に力がなくとも全体から何か心に引っかかるところがないのかと徹底してみます。

 私の立場は、個人の好嫌を離れた無私であることです。これは、一流アーティストの感覚だけでなくすぐれたトレーナーのもつ共通の感覚を学んでおかないとできません。鏡となることです。

 プロの歌い手が人を育てられない理由は、自分の作品や声の世界からみるからです。自分の世界があるからこそプロなのですから、職業病です。それを離れることができても、自分の喉で相手の喉をイメージして、教えるとどうしても無理がでるのです。

 

○トレーナーの一人よがりを避ける

 

 私のように、トレーナーをもプロデュースする立場では、チーフのトレーナーとしては、常にどのトレーナーがその人に向いているかを判断します。結果も、そのトレーナーたちより客観視できます。よりよくみえるわけです。

 トレーナー自身が全ての生徒に見本をみせるのではなく、その生徒の将来の声や歌にもっとも適した他のトレーナーが見本になった一人の方がよいという考えです。

 私の場合、本のCDも吹き込ませます。私の指示の元に、トレーナーが吹き込むのです。

 今の私の立場は、トレーナーのコーディネーターやプロデューサーのようなものです。つまり、プロ野球であれば、ピッチングコーチや打撃コーチを束ねる監督のようなものです。このことによって、一人でトレーニングして、一人よがりにならないようになります。ついたトレーナーによって、特定のトレーナーよがりにならない、そのトレーナーのくせがつかないメリットがあります。

 

○最初から慣れていく

 

 何人ものトレーナーに次々とついても、その関連性がわからなくては無意味です。最初にトレーナーの中からあなたに合う人を、一人でなく複数から選んでつくことに、メリットがあることをわかって欲しいと思います。

 トレーナーを使える力をつけることです。いろんなトレーナーにつくのは、自分を知るために有意義です。複数の観点をもつことが大切です。歌と声を別々に教えてもらってもよいし、発声を2、3人のトレーナーに教えてもらうのもよいです。

 声は変わっていくので(しっかりしたトレーニングをしたら、ですが)、その効果やよしあしは、違う時期に他のトレーナーについても、本当のプロセスはわからないことが多いです。それなら、最初から複数のトレーナーからアドバイスを受けたらよいのです。

 一人のアーティストの作品しか聞かないと、自分の歌が影響を受けているのに、どういうところなのかさえわからなくなるものです。まねしていなくとも自ずとついたクセが抜けないというのと同じです。

 

○多角的な視点をもつ

 

 トレーナーごとにやり方、判断は違います。それぞれに必ずクセもあります。判断の仕方や歌の評価も一人ひとり違うのです。相性もあるでしょう。

クセをとるのはトレーナーの役割ですが、厳密には、あなたのクセをトレーナーのクセで弱めているみたいなことで、必ずトレーナーのクセがつくのです。でも、それで、前よりはOKとかましということもあるからです。クセがいつも悪いのではありません。

 

〇トレーナーのスタンスの柔軟性

 

私は10人近いトレーナーと、いつも生徒の評価をつけながら、比べることからとても多くを学びました。トレーナーは、一匹狼の人がほとんどなので、他のトレーナーがどのようにみるかを学んでいる機会が少ないものです。プロデューサーと仕事をしていたら、プロデューサー的な見方になるし、フィジカルトレーナーとなら、体を中心にみるようになります。いろんな人(特にプロ)と仕事をすること、他のトレーナーと比べてみることも必要なことです。

 

○異なる価値観に触れる

 

 レッスンをして、トレーナー二人の意見、育て方や判断が違ったらどうしますか。私はどちらかに軍配を上げるのではなく、違いが何で生じたのかをあなたに伝えます。

 矛盾していてもいいのです。確かな実績があって人を育てているトレーナー、やり方と価値観を持つトレーナーが判断をした事実として知っておけばよいときもあります。

やり方が違ったら自分のトレーニングでは好きな方を選んでもよいし、別々にやってもよいのです。

 トレーナーのどちらかが絶対正しいわけではありません。ただし、あなたが高く評価したり、やりやすいと思うトレーナーがあなたの将来によいとも限りません。

 

○トレーナーとのレッスンの意味

 

 自分の判断が第一に優先できないところに、ヴォイトレの難しさがあるのです。あなたが最高の判断のできる力があるなら、声や歌はすでにあなたの思うように使えているはずです。そういう人は、世の中にたくさんいます。ヴォイストレーニングに関しては、以前のあなた(の感覚)をあまり信じてはいけないのです。ヴォイトレや歌のレッスンなしにうまく歌ったり、声を扱える人はたくさんいるのですから、それに対して何が欠けているのかを知ることです。

どのトレーナーもあなたよりは、あなたの声についてはわかっています。あなたが力をつけていき、トレーナーよりも的確に自分のことを判断できるようになるためにレッスンをするのです。

 

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「科学的トレーニングとマエストロのレッスン」

 

○音声科学で変わったこと

 

 私の研究所では、一早く声紋分析の器材を使い始めました。音声科学の発展はすばらしいことです。天文学や物理学、医学でいうと、天体望遠鏡や顕微鏡が出てきて、目で確認できるようになったくらい、革新的なものでしょう。

 関連書籍でも生理学から、音声学、音響学まで、詳しくわかりやすく、よいものが出てきました。声の基本的なことを誰でも知ることができるようになりました。

 特に大きく変わったのは、

・声区(レジスター)と胸声、頭声の関係、音色は胸や頭(腔)での共鳴の否定、仮声帯で裏声を出すのでないこと

・ミックスヴォイスほか、いろんな声の分類の細分化

・声帯の振動、発声、共鳴の可視化

・裏声、ファルセット(フルート)、地声、表声などにおける、男性、女性での定義

 

○現場第一主義

 

 自分の若い頃、半世紀前ほどの勉強のままの指導法を継承しているマエストロ的なトレーナーもいます。私の立場は、新しい発見や学説を学び続けても、それが実際の結果や効果をもたらすまでは、様子見です。よいと思えば試しに直観的に使うことはあっても、メインにはしません。一時的な成果でなく、長期的に複数の事例の結果をふまえてみるには、何年も要するのです。あまりジタバタすることではありません。若いトレーナーや指導をはじめて4、5年くらいの人の言うことをそのまま信じたりはしません。

 新しく出た理論や言っていることと、今、受けているレッスンや自分のトレーニングしてきた本やトレーナーの言うことが違っていても、迷わないように、と言っています。

 

○レッスン優先主義

 

 研究所では、私が本に書いたことより、レッスンでトレーナーにいわれることを優先してくださいと言っています。私のレッスンでも他のトレーナーのレッスンでも、現場第一です。

 本は一般的な対象に述べたことです。レッスンはあなたを個別に、今、みているのです。「どちらが」と迷うことはおかしいのです。レッスンに疑問があればレッスンで説明しています。

 

 私は現場(特定の相手とのレッスン)を離れたところの論争に加わるつもりはありません。尋ねられることが多いので、いろんな立場の人の意見や理論を知って、混乱している人の頭を整理させられるようにはしています。

 それは、レッスンのためでなく、その立場にいるために、問われることに答えるためです。私自身には、興味もない、本や番組でも、他の人に必要になると思われるものについてはコレクションしています。それと同じ理由です。

 

○価値

 

 バイオリンという楽器は、実に多くのすぐれた演奏家と技術者(製作者)によって、高度に完成されていきました。家が買えるほどの高価なストラリバリウスの音は、今の技術者でも超えることはできないともいいます。しかし、科学的に性能を比較すると、他のバイオリンと差がないというデータもあります。年月が楽器を育てたのか、名声が名演奏家を惹きつけ、伝説となったのか、知るよしもありません。

 そういう伝説の名器は別にして、私たちが買うくらいのバイオリンについては、およそ高価なものは、安いものよりもよいといえます。理想の形、素材があり、そのバイオリンで評価できるということです。

 これは声楽家という持って生まれた喉と体ということになります。その管理の仕方、育て方も入ります。10倍の費用を出してでも、1パーセントの質を向上させたいと思うかどうかは、その人によるでしょう。

 

○優劣ということ

 

a.元々の楽器=のどを中心とした体

b.使い込み、手入れ、今までの歴史、経年変化=育ち、育て方(スキル)

c.今の使い方=テクニック

 

 オペラにおいては、本人の努力はあるとしても、持って生まれたものの差は大きいと思います。パヴァロッティのような声を聞くと天与、giftということもわかります。しかし、表現やオリジナリティを踏まえるなら、ロマのバイオリンのようなもの、インドのカーストで音楽を生業とする人の演奏のレベルの高さは、それにひけをとりません。楽器は、ボロボロのようにみえますが、本人がつくります。手製ですが、その調整の耳とそれを活かす演奏がプロフェッショナルなのです。楽器を半分つくり変えるほどの調整と演奏をしてしまうのです。

 民族音楽とオーケストラに使われる楽器の優劣を簡単に述べることはできません。そのこと自体、無意味です。どの時代どの国にも、すばらしい演奏家も歌い手もいたということは事実です。クラッシックの楽器は均質化され、誰もが練習しだいでよい音を出せる保障がされているといえます。

 

○人間の力

 

 すべては人間の力、その人をとりまく環境から、表現へのあくなき欲求によるのです。それが有利で才能が輩出した時代や地域もあれば、まったく不毛だったときもあるということです。

私はあなたに、ロマのすぐれた演奏家を目指して欲しいのです。自分のもつ楽器を疑わず自分流に最大限に活かせる工夫をして、最高に使い切るつもりでトレーニングにのぞんで欲しいのです。

 

 声帯によって一流のオペラ歌手の素質が必ずしも決まっているわけではありません。こんなのどや声帯でどうしてあのような声、演奏が可能なのかといわれる一流の歌手は、たくさんいるのです。人間の力は科学の分析などを易々と超えます。

 

○知識、理論、科学の使い方と限界

 

知識は知識、理論は理屈です。否定的でなく、肯定するのに使うのならよいことです。自分の洞察力がないときに、一方的な思い込みで才能をつぶさないためのリスクヘッジになります。あるいは実力が伸びるまでの時間を稼げるかもしれません。

 知識は、要領よくうまくなるのには役立ちます。しかし、それくらいでは、人の心を奪うほど感動させることはできません。

 それは歌い手のルックスでの争いのようなものでしょう。歌や声の力が足らないから、問題になることです。表現が凄ければ、ルックスなどは凌駕されるのです。演奏がすぐれていたら、顔のよしあしなど吹っ飛んでしまいます。

 

○科学、理論と芸

 

 私は、科学を否定しているのではありません。それはよりよく生かすことで意味があります。中途半端な理屈やことばにとらわれ、自分を否定する根拠のように、自分のためにならないように使うのなら、知らない方がましです。芸事における科学や知識は、そう使うものと考えてください。科学的知識、理論は否定されても芸には関係ないのです。

 一流の歌手がまったく知らなくても、何一つ不自由していないのです。そんなことに時間や気を奪われること自体、勘がよくないということでしょう。

 

「基本と一流のもつ厳密性」

○基本のポイント

 

 世の中は、10年、20年と人を続けて見ていないと何とも言えないことが多いものです。それを残していくことが、この世界で生かされてきた私の努めと思っています。

 一つは、基本ということです。誰もが基本といっていながら、基本が身につかないのはなぜかということです。

 これは、二つのポイントがあります。一つはイメージ、判断の基準の厳密さ、もう一つは、声であれば声としてそれを示すことでの厳密さです。みる人がみたら一目でわかるというのが野球やゴルフの素振り=フォームです。それよりもずっと発声の基本はシンプルに示されます。

 

○基本は1フレーズ

 

 基本はいくつかのフレーズを10~15秒(歌のフレーズでもよい)を2、3回見せていただければほぼわかります。そこにどういう条件があるのでしょうか。

1.今ここで、声で示すことに日頃の充分な準備ができているかということ、そういう体と感覚を獲得して維持していること

2.相手の要望に応じて、今ここで自分の持つ声を調整、応用してもっとも相手の期待するもの、それに近いもの、それ以上のものを出せること

3.もし1回目うまくいかなくても、2、3回で修正してよりよく出せること。また1~3回でうまくいかなくても、本人がそれを自覚し、その原因や解決法を知って、次の機会までに解決できること(解決できない場合はそれがどうしてか、そうであればどのようにすればよいのかがわかること)。このあたりのことでわかります。

 

○基本に要する力

 

 基本には、次のような力が必要です。

1.フィジカル  体力 筋力 瞬発力

2.メンタル  精神力 モチベーション

3.イメージ力と判断力

4.実行力(実現力)

5.フィードバック力  反省し、誤差を把握して修正する力

これらは誰でももっていますが、そのレベル=厳密性において、区別されるのです。

 

○一流へのプロセスのとれない理由

 

 「早く楽に簡単に人並みになる、あるいは、人よりも上達する」というのと、遅く楽でなくとも苦労しつつも、明らかに常人とは違うレベルになるというのは、結果から省りみて、方向や順番、やり方が違うことが少なくないのです。

 目標があいまいでレベルが低いとき、うまい人をまねて通じるところでは、表面的な効果やコストパフォーマンスを求めることになりがちです。プロでも、感覚やイメージ、条件が伴わないときは、そうなります。その違いが声において厳密にわかる人は、日本ではほとんどいないのかもしれません。これは海外との音声での実力の差の原因の一つです。

 

○80対20

 

 芸の世界は、人並みの80パーセントまでは、20の努力がいるとすると、残り20パーセントを詰めるのに、80の努力を要します。それ以上になるためには、労力でなく、100から無限という世界へと挑むことになります。

 要は、人並みかそれ以上になったとして、その80パーセントの上に、20パーセントがそのままのっかればよいのですが、そういかないものなのです。

 声や歌については、この80パーセントは、プロやうまい人のまねにすぎないことが多いからです。80パーセントでの限界にあたるのです。これはデビューはできた、人前でできた、CD出したで終わってしまうレベルです。10~15年以上続いているのをプロというなら、アマチュアに毛が生えたくらいです。素質のある人なら1年半で到達できます。

 100パーセント以上の世界をつくることが念頭にあれば、80パーセントは目指さず、あとで100以上にいける基礎の20パーセントをしっかりと創りあげることです。

 トレーナーがつくときの、最大の問題として、ずっと積み上げ式で10、20、30…50、80パーセントと進めがちなことです。それではブレイクスルーできないのです。

 

○アナウンサーの声

 

 私のところでは、本格的に声のことを身につける人には、最初は、あまり発音、滑舌を重視していません。発声から考えると発音は後の位置づけです。実践的に考えるのなら、口をはっきり開けた方がビジュアルの助けも加わって、新人としては早く通用します。新卒で半年でTVに出る女子アナなどが、その例です。しかし、そこから20、30年たつと、アナウンサーでも残っているのは、個性豊かな声となった人だけです。口もほとんど動かさなくても明瞭な発音になっています。母音は口形でなく、口内でつくられるからです。

 

○新入社員のトレーニン

 

 新人社員をセールスや接客での即戦力とするには、滑舌練習からアナウンストレーニングをするのが手っ取り早い、話す技術の向上になります。しかし、声はほとんど変わらないか、人によっては浅くなります。歌も全く同じ構造上の問題をかかえています。

 日本人の社会風土や日本語の性質(高低アクセント、高出し)がそれに拍車をかけます。高く浅い方が、新入りとしては受けがよいからです。そこには日本人の幼くかわいいを好む傾向があります。個性や独自の説得力や表現力への方向性を奪われるのです。それを評価しない日本の社会の問題が大きいです。

 アナウンサー、声優に問われる初期の声は、役者やリーダー(にもいろいろいますが)とは異なります。形から入って実を伴うことができるなら、よいのです。しかし、形から入って形に終わり、そのまま、人並みの表現力ももてない人が多いのです。

 

○発音と声の深さ

 

 声が深くなれば、口形は少しの動きでも発音は明瞭になります。共鳴効率がよいからです。私のところでは、根本的にはこの考えをとりながら、その上で早く必要とする場合は、滑舌、早口トレーニングも同時に始めています。

 発音がはっきりとして、語尾まできちんといえるためには、次のような要素が必要です。発音での口形や舌の動きの問題は、一つの要素にすぎないのです。

1.フィジカル 体 姿勢 呼吸(腹式)

2.感覚  調音について 耳から発声、発音器官へ

3.メンタル 集中力 TPO 対応力

4.発声

5.共鳴

 

○低音と発音

 

 歌唱では、高音になると表情筋まで関わり、ひびきも前に出て、発音も明瞭になります。低音トレーニングは、深い声、芯のある声になり、声そのものを支えますが、そのままでは発音にはあまり絡みません。しかし、これがあってこそ高い声も活きるのです。事実、トレーニング中には本当に出ている高い声の支えは、太ももあたりにくるものです。

 体力づくり、体の柔軟、呼吸筋、表情筋のトレーニングをしておくとよいでしょう。大きな声で外朗売りや早口ことばで、喉を疲れさせるより、効率のよいトレーニングとなります。役者やアナウンサーは、長年に喉をことばで酷使することで、声が鍛えられることもあるのです。そのリスクを減らしたのが、私のヴォイストレーニングです。

 

○ヴォイトレと発音トレーニン

 

 発音のための滑舌トレーニングは、20パーセントくらいの要素で、それを長く大きくやり続けることで、体や感覚が巻き込まれていき、50パーセントくらいの要素のトレーニングが伴うと思えばよいのです。「外朗売り」のトレーニングでも、使い方しだいです。報道として早口の発音にこだわるアナウンサーより、感情表現として声の流れやメリハリをつけていく役者が、しっかりした声を得られるのは当然でしょう。

 

○科学的な効率主義と一流主義

 

 一流になるためには、いくら理論や分析をして、方法を取り入れてそれだけでは不可能です。音声科学は、近年、進歩を遂げ、いろいろなことがわかってきました。多くの発声に関する理論や方法の間違い(というか、仮説)も修正されました。

 トレーナーは、研究者でなく、他人の声を育成することが仕事です。トレーニングによって人がどれだけ育つかがもっとも大切です。しかし、秀れた人材の輩出という点では、30年前よりも劣っているのでないでしょうか。平均の人は多くなったのに、トップクラスの人が出なくなったのは、教育の方向や方針、トレーナーの問題が大きいです。声に限っては、その傾向は顕著です。同じルール上で競うスポーツのように、比較は単純ではありませんが。

 どの分野であれ、セミプロ化すると、底辺のレベルは上がりますが、ずば抜けたプレイヤーが出なくなってくるわけです。昔の人は理論、分析をしていません。努力の量と時間によって、すぐれた技量を手に入れる人がでたわけです。現実に結果を出した条件や方法を、もっと研究することです。一方ですぐれた人を分析しても、その分析ですぐれた人を生み出せるわけではないことを知ることです。

 

○喉の指標

 

 喉頭の能力について、一般レベルでは、喉からその人の可能性や素質のよしあしはわかるのです。しかし、一流の人が必ずしも声帯で恵まれていたわけではないという例はいくらでもあります。体重があればラグビーに向いているというレベルで選手を選んでも、それは素人集団にとって有利な要素の一つにすぎないわけです。

 同じことは声でもいえます。その人が加工して出した音の波が、楽器ならある程度、分析して、一流のプレイヤーと同じものが出ていたら優れているという指標になります。しかし、声は個人差が大きすぎてそうはなりません。

 一流のすぐれた要素を多く持つ人がそうでない人よりは有利でも、一流とはならないのです。それを証明しようとして実験したこともあります。結果、現実に売れなかったのです。

 この傾向は、J-POPになり、その人の声、歌い方と曲と詞とアレンジが密接に関わってくるにつれ、なおさら高まってきました。もはや詞と曲と声だけでの判断では、よい歌になるといえないでしょう。

 

○外国人のトレーナーの判断基準

 

 アメリカに行って、私たちのどのトレーナーの方法とまったく違うやり方で、声を開花させたという人がいました。こんなことは、いろんな国に行っている私にはよくわかっていることです。結論からいうと、それぞれ国のトレーナーはその国ですぐれていても、日本人のことは、それゆえによくわからないのです。

 私は最初に向こうに行ったとき、誰からもバランスのことを言われました。力を抜き、リラックスして、しぜんな声を取り出すとよいと。それでいくらやっても彼や彼ら並みの声にはなりませんでした。

 

○ベースの声から

 

 私は、彼らのやり方も日本の声楽の8割で行なわれているやり方は、その頃の私のように声のない(声の芯や深い声のない)人にはあてはまらないことを知りました。そこでベースの声を本格的にトレーニングをして鍛えてから、のちに向こうに行ったところ、ようやく彼ら並みの声になりました。そういう方法もわかりました。

 この人は、私と同じような経験をしたのです。年月やキャリアはずっと浅いし、声もまだまだだったのです。こういう初歩的な判断ミスによって、私のところでは向こうと反対のやり方と誤解されることもとても多いので、明確に説明しておきます。

 

○外国人との違い

 

 外国人は一般の人であっても、日常言語で、深くひびく太い声をすでに持っているのです。それを邪魔する要素を取ればよいのです。まして、歌手、役者をめざせる人ならかなり体=声ができています。しかし、日本人の大部分はそれがないので、その獲得から始めなくてはならないということです。

 もう一つの理由は、あまりに日本には、無理するだけの高音発声をよしとする人が主流です。うまく無理をしていたら、中には鍛えられる人もいますが、今は抜くだけ、あてるだけの発声ですから、本当にバランス調整だけなのです。歌手、トレーナー、演出家、作曲家にも元からそういうタイプゆえに、カラオケの先生やヴォイストレーナーをうまくやれる人の方が多いため(歌の指導はそういう人ばかりなので)、本当の意味で体からの声や胸声というのか、理解も獲得もできていないのです。高くきれいな声だけで、表現力、説得力、個性がない声、それゆえトレーナーにふさわしいという考えもあるのですが…。

 

○体の声

 

 疑う人に対して、体からの声がどういうのかを示しています。本当の基本とは、シンプルです。簡単そうにみえ、誰でもできそうで絶対にできないものです。でも、一瞬で示せます。

 こういう声は、歌に限らず映画や演劇などにも、外国人のオペラでもエスニックな歌にもけっこう共通してあります。そういう観点で、世界中の声を聞いてみてください。

 体の中にあり、トレーニングの年月が、体内で育って血肉になっている声においては、純粋にあるトレーニングの方法の結果(効果)だけを分離して判断することができないのです。

 

○声の鍛錬について

 

 私のところにも、舞台で無理に声を使い、手術したような人がきます。トレーナーにもいます。(生徒の喉の状態を注意してみています。)

 しかし、これもその人たちがその結果、歌や芝居から引退したというのなら不幸なことですが、今も活躍しているというなら、ケガの功名、それもまた一つの経験、自動的にトレーニングのプロセスにくみこまれたと捉えられなくもないのです。

 いらぬ苦労をさせない方がよいので、トレーナーの立場としては、喉に無理が生じるときはストップをかけます。それは簡単なことです。すべてその判断でよいかは全く別問題です。

 

○休止の判断リスクと勇気

 

 医者や専門家は、何よりもリスクを回避させます。芸人や歌手自身にもそれを超える直観がいります。高いレベルをめざすほど本人がリスクを負うからです。

 あるトレーナーは、手術後、半年安静といわれたドクターストップを2週間で切り上げ、舞台に復帰しました。

 

 これを読んでいる人には、理屈や知識を知って注意深くなっても、臆病になって欲しくはないのです。たまたまそのときは、そのトレーナーの判断はうまくいったが、他のときや他の人がそうしたら、再び手術するはめになったり、より悪くなったかもしれません。そのような選択も含めて、人生であり、自分の実力です。私なら他人に聞かれたら、このケースは、2ヶ月は出演を控えるべくアドバイスします。しかし、そこに最大のチャンスがきたら…!

私なら、医者やトレーナーが反対しても出たでしょう。

 

○喉の個人差と可能性(仲代達也さん)

 

 俳優の仲代達也さんは、何度も声を壊しては直し、鍛えて一流の声になりました。彼にとって、そのやり方がベストだったのかどうかもわかりません。多くの人はそのやり方では、彼ほどにはうまくいかないでしょう。しかし、彼と同じような素質(喉なのか、感覚なのか、勘か、熱意かわかりませんが)をもつ人にとっては、それがもっともよい、あるいは正しい、早いヴォイトレかもしれないのです。私が判断するのは、正しい早いでなく、「より大きな可能性をもたらす」=「もっともよい」ということです。

 

○喉が痛いとき

 

 私たちの多くは、外国人のシャウトの声を毎日、続けてハードにまねしていると、喉を壊します。しかし、現実に彼らは壊していないのだから、それが間違っているとはいえません。私たちがF1レースに出て勝とうとしたら、死ぬでしょう。プロレスでも同じかもしれません。そういうことに対して、トレーナーのアドバイスは、一面での注意にしかすぎないともいえます。

 「痛いならやめましょう」、これはヴォイトレでの基本的なアドバイスです。こういうセンサーが壊れていたり、鈍かったり、情熱のあまり鈍感になったりすると、過度に偏向して壊しかねないからです。

 

 

 

 私は鈍感だったのか、敏感だったのか、すごく過度にやりましたが、壊しませんでした。無理に高いところをやらなかったからか、10年もかけたからかよくわかりません。8時間に耐えられる声をつくるのに、毎日3~5時間ハードにやりました。

 こんなことは他人には勧められませんし、効率もきっと悪いでしょう。それはプロの人をたくさん教えるようになってわかりました。今の私ならそのようにしないでしょう。

 しかし、今でもまったく声が疲れないのは、その頃の基礎がきいているとも考えられます。

 誰よりも、あるいは、二度とそんなにできないくらいにやったというのは、自信になっています。検証もできません(まして10代から20代にかけてですから)。もうすっかり他人と違う体や喉になっていると思われるからです。量がやり方やメニュを凌駕することもあるのです(多くの一流の人は、やはり相当な量をやっており、そこから質に入っているのです)。

 

○階段

 

 初期の条件の獲得のための声づくり、発声とその歌唱のための共鳴とは、次元の違う問題です。

 登山の勝負とします。もし私が日頃平地しか歩いておらず、10階まで階段を上がったら足がつったり、翌日痛くなったとします。だからといってそれは歩き方が間違っていたのでしょうか。このケースでは方法がおかしいといえますか。登山の前に10階まで、毎日上り下りするようなことをやっておくとよいということ、それが、トレーナーがアドバイスする気づきということです。

 

○お坊さんの声

 

 私は日本で唯一といってよいほど、声づくりがしぜんにうまくいっているのは、お坊さんだと思います。彼らを見るたびに、なるほどと思います。高い声や発音や音階、リズム、歌詞、共鳴などに関わる前に、自分のもっとも出せる音の高さ、自分の呼吸に合わせて声を出して、しぜんに使えるだけの声にする期間が必要だと思うのです。私の日常の声は、10年20年かかりました。外国人にも認められましたが、京都や九州のお坊さんに認められたときの方が嬉しかったです。

 

○声が変わる革新

 

 シンプルな基準、ヴォイトレをしっかりしていくと、誰にでもわかるくらいに声が変わるというヴォイトレが、日本では行なわれていません。欧米では、あまりその必要性はありません。元から声が深いからです。

 今、考えられていないことで、これから、多くのやるべきことがあると思っています。ここしばらくは、幸い、いらしていただいている能や邦楽、読経・声明の関係者の人々と世界を広げて、日本人の声を追求し、革新していこうと思っています。

 

○J-POPと声のサンプリング

 

 私は練習曲に、外国曲や演歌、歌謡曲まで使わせていますが、J-POPの曲は声のベースづくりとしてはあまり使っていません。

 歌が詞と曲と声の総合的な組み合わせの妙で成立しているので、声のシンプルな見本になりにくいのです。曲、詞、歌唱それぞれ独立してみた完結性や完成度がないのです。ヴォイトレは声を独立させて判断する音楽を必要とします。

 ヴォイトレは声そのものの技術、完成度を求めていきます。一方、シンガーソングライターなら表現から入っていくので、トータルでの完成度となります。声、そのものの正解というものがないともいえます。

 

○標準化しにくい声

 

 アーティストのもつ生来の声や音色、フレーズのくせを生かしたように曲になっている、他の個性をその曲で発揮するのは難しいです。そのアーティストのようなくせで歌わないと歌が成立しにくいからです。歌だけでの完成度がなく、歌い手の作品として成立しているのです。個性にサウンドのアレンジまで加えたところで完成しているから声の参考にしにくいのです。

 

○プログラミングとしてのヴォイトレ

 

 私がJ-POPを評価していないのではありません。真のオリジナリティとは、そのアーティスト以外がそれをやると間違いになってしまうという持論ですから、標準化できないほどの強いオリジナリティはないのです。しかしそれゆえ、基本の発声やその人のオリジナリティをみつけ育てるヴォイトレは使いにくいわけです。

 体からのしぜんな声、発声原理にそって最大限、声の可能性を追求しようというヴォイトレでは、共鳴では、声楽=クラシック=オペラに一つの範をとることができます。その下位に発声があります。そこからヴォイストレーニングを考えるとわかりやすいわけです。

 

○歌と声の判断

 

 私は、ポップスのシンガーに接して、共鳴やシャウトの中にも、一つの芯(あるいは線)を捉えるような感覚で判断しています。デッサンの線をひものようによじって細く鋭くをめざしつつ、ハスキーやため息のように、解くことも許容しています。この絞り込みの程度も、まとめるのと同じく、ヴォーカルの裁量に任しています。要は、センスということになります。

 声楽家の判断は、アカペラを前提とした歌唱ですから、共鳴や声量、特にハイトーンでの焦点化(ベルカント的なものとして)の条件の上に問います。しかし、ポップスは、マイクでの音響加工をも含めて、何でもありです。オペラの条件の声量、声域、共鳴を絶対とはしないからです。

 ポップスの何をもって判断するのかは、声楽家、合唱団、ハモネプ、ミュージカルと異なり、複雑です。聞く人の好き嫌いや気分に大きく左右されています。言語と同じく歌われる風土(国、民族など)によっても好まれるものは異なってきます。

 

○優れている基準

 

 私はアドバイスを求められる立場ですから、好嫌でなく、秀劣において明確な私の基準をもって判断するように努めていますそこが仕事のもっとも肝要なところです。

 

 優れているという基準をいくつかあげてみます。シンプルに聞いて、表現性をもつこと(ステージの成り立つこと)です。それは今ここで、立体的に(リアルに)、生命感をもって(生き生きと)働きかけてくることです。聞き込まなくても聞こえてくること、その上で流れがあって(時間軸、リズム・グルーブ)、心地よい、バックのサウンドと合っている(空間軸、コーラス)、構成(空間配置)や展開(時間的メリハリ)でのまとまりのあることなどです。

 それには、起承転結や期待通りのフレーズの線の安定度と、オリジナルフレーズの飛躍や冒険(創造性、心地よさとその裏切りのインパクト、破格と収め方)、そのための確実なテンポ感(とリズム)、音感が音の動きに必要となってきます。

 

○日本人の欠点、センス

 

 ポップスの歌を世界的にみて、日本人に欠けているのは、メリハリ、リズム・グルーブを表せる声です。太く引っ張られるようなことばをつかみ、リズムに従えられるようなインパクト、パワー、ドライブ感、加速度です。つまり時間軸にそった横読みでなく、それを空間の広がりにして、時空を変えてしまうほどのパワフルさです。

 これは、俳優のせりふなどでは、一流のレベルに達しているものもあります。しかし、歌になると、発声、音程(メロディ)、リズム、ことばなどを消化しきれず、多くの場合、声質(音色)、声の線(動き)が犠牲となります。

 

○判断を迷わす二つの理由

 

 日本人の多くの歌は、初心者のドラマーが頭だけ合わせているリズム、メロディだけ正しく弾いているピアノの演奏に似たものになっています。声からいうと、平たく薄く浅いのです。それでも歌として許されているのは、次の二つの理由があると思うのです。

 一つは、一人ひとり声が違うから、それが個性やオリジナリティと思われていることです。楽器のプレイでは、同じ音色からタッチとオリジナルフレーズで、その人の音を出さないと評価されないでしょう。それと比べるととても安易です。

 もう一つは、ことば(歌詞)があることです。人の声、人のことば(物語、ストーリー)があることです。本来、楽器レベルでの声の演奏という技量を高めていかなくてはいけないのに、その人自身の声で感情を出すと伝わるために見えなくなっているのです。特に、詞、ストーリーを優先する日本人です。日本の歌のスキャットや声の楽器的な使い方の少なさをその例として指摘してきました。

 

○世界との差

 

 私は、1.楽器演奏として歌詞を介さないで聞く、2.欧米ほか、一流のアーティストの耳で聞く

 ここで一流と共通のものを守り、一流がそれぞれ独自に創っているところに、オリジナリティをどう創っているかでみています。

 残念なことに、このレベルでのヴォーカリスト(世界に通じ、歴史に残る人)は、あまりにも少ないのです。その代わりに、曲、詞と声の一体感で迫る、独自の世界のある歌い手と、ビジュアルで注目されるような人はいます。残念ながらオーディアルでの声の表現としてはまだまだというか、日本では一昔前より弱くなってきています。これは、体に基づくものだからともいえます。

 

○両面からチェックする

 

 どういう歌にも歌い手もファンがいて、世の中に必要なものだとは思います。私がこうして述べているのは、ヴォイトレをする場合での方向や可能性、つまり、レッスンというものを本人やその声にどう位置づけるのか、ということです。これがあいまいであると、それなりの成果しか期待できないからです。体からの声と、表現からの声の使われ方の両面を常に押さえておくことですトレーニングが、それにかけた年月分実を結ぶセッティングが必要なのです。

「トレーナーの声の把握と見本」

○プロの不養生

 

 この頃は、けっこうな立場にある人もいらっしゃいます。しかし、声の本質について、把握は直観的に理解できないことが多いことに気づかされ、私はいささかショックを覚えています。私などよりもずっとステージの実績や経験のある人が、私からみると初歩の初歩、声の把握そのものができていないのです。次のいくつかのケースを考えてみます。

 

1.声の把握が根本的に間違っている

2.声の把握が別の価値観としてある

3.声についてはど素人である

 

○他の見方

 

 私はいつも私を疑い続けてきました。もう聞く必要もないのですが、私のところの十数名のトレーナーに問うていました。この十数名の問うのは私の見解を肯定するためでなく、否定するためです。他の専門家の意見や考えを大いに参考にしようとしているので、その点はわかって欲しいのです。

 私には信頼できるセカンドオピニオン、サードオピニオンがいます。常に他の見方を知ることができます。しかし、こういう人はこれまで生涯、声の研究、あるいは演出について専門にやってきても、それだけに死角があるのです。

 

○一般的なトレーナー

 

 私はここで、自分の立場が一般の聞き方、耳と異なるというケースで、述べていきます。

 他の考えをする人を肯定することで、私を否定してしまうことを恐れずに、他方を声について日本人の一般的な代表としてみることにしてみると、私の立場がより明確になるからです。それは、日本人や日本の文化と国際レベルでの、声との比較となり、その対立点を明らかにすることにもなるのです。

 

 他のトレーナーの見解をまとめると、彼のは、

1.一般向き、とっかかりとしてわかりやすい

2.そこからの深みがない、次へのステップがない

3.声楽や声への誤解、短絡的なノウハウが目立つ

 

 3については、日本の声楽家も国際的な実績を残せていない分、自虐的に把握されてしまうこともあります。そのレベルを認めざるを得ない現状があるという言及もあります。

 自分を主体とし、原点として捉えなくては、こういう議論は机上のものとなります。そうしてこそ、彼自身の声はどうなのかということに切り込めるからです。その見本として、声の力のなさを指摘するのがもっとも本質的なこととなるからです。

 

○日本のポップスのトレーナーの声

 

 それにしても、日本のいろんなCDやDVDで入っているトレーナーの声というのは、どうしてこうも力がないのでしょうか。そういうことさえ思わないで買ったり、利用したりする人がほとんどです。こういうものを使っても、効果はないどころか、逆効果でしょう。一声聞いて、わからないのでしょうか。喉声はよくないといって、トレーナーは見本は喉声で録音していることもあります。トレーナーのなかには「それは“のど声”で決して目指してはいけない、見本は、私の声です」というのです。

 

○シンプルな一声「バーレスクアギレラ

 

 たとえば、映画「バーレスク」のクリスティーナ・アギレラの一声、もし声のトレーニングというものがあれば、その結果がシンプルに、冒頭の2、3秒の声で示されています。

 トレーニングが、一般化(一般の人対応に)してわかりやすく、安全になりました。誰でもできることを行なって、すぐに楽にできるのがよいとなったところで、大きく変わりました。一流のアーティストの声などは、危険、かつ人間離れしたものになって、目的にならなくなったのでしょうか。

 

○「バーレスク」のシェール

 

 すべての人が、パワフルな声や歌唱の方向を目指すわけではありません。一流といわれる声の使い手にもそうでないタイプがいます。映画「バーレスク」のシェールも、その一人でしょう。

 ヴォイトレという以上、一声で示せることを目指した上でそれでかなわないなら、次善の策があると考えた方がよいのではないでしょうか。最初から、次善の策に入るのは、もったいないことです。

 

○トレーニングで扱えない声

 

 こういうハードな声を常人にはできないと否定してよいのでしょうか、トレーニングをやってもみないうちに、です。多くの日本人の歌手、ほぼ全てのトレーナーが見本を示しているような高く、細く、きれいな声だけが理想なのでしょうか。ウィーン合唱団や、カーペンターズのカレンや白鳥恵美子さんのような声は、生来的に選ばれている声です。

 トレーニング以前に、特別に恵まれた声としての素質のある人何万人に一人くらいの確率でいると思うのです。それは逆にトレーニングでつくれない声なのです。そこに似させるのが、ヴォイトレでしょうか。それは“発声練習の声”と思われてしまいませんか。

 

○個性的な音色の消滅

 

 マイクなしには届かない声に頼る傾向は、著しくなりました。声楽でもドラマティックなイタリアオペラのようなものでなく、きれいな統一した音声にまとめるドイツリートが主流になりました。劇団や声優なども、個性的な音色をもつ人は少なくなり、誰もの声が裏声のようになってきたのです。

 それなら、生声の方が個性的と、日本でもそのままぶつけて歌う人も増えました。どちらも音響技術に大きく支えられています。ポップスでは、体から腹からの声がなくなってきた、いや使えなくなってきているのです。

 

○求められる声の変化

 

 体からの声は、演歌などでの音色と共鳴にはみられます。細川たかしから前川清石川さゆりから坂本冬美さんまで、彼らの持っているものに通じます。細川たかしの高音のよさは、民謡からきたものです。テノール(クラシック)に通じるものです。

 若い人はふつうの音域でも、ファルセットを使うようになりました。昔より半オクターブ上でも歌うようになりました。求められる声が大きく変わってきたのは否めません。

・パワフル

インパク

・メリハリ

・太さ

・重低音

・安定感

 

 私がスタンダードな見本にとっていた歌い手を聞いたことのない世代も増えました。そういう声を聞いても心動かないのかもしれません。同じ世代の歌に惹かれるのは、いつの時代もです。ポップスですから、歌はそれでよいのです。

 しかし、基礎トレーニングとしてのヴォイトレは、国や時代を超えて通じる声をベースに置くべきというのは、私の最初からの考えです。私がサンプルにあげているヴォーカルは、私の若いときでもけっこう過去の人も多いのです。

 

○胸声への理解

 

 日本の歌手やトレーナーに絶対に欠けている感覚が、胸声の理解と習得です。それがあるので、私は、高声や1オクターブ(一番低いところからは2オクターブ)上の発声や共鳴も、ふしぜんにつくるのと違うところで理解できます。

 声帯や目指す声のイメージは、人それぞれ違うのですが、私は、歌手の声と一般の声とを分けていません。テノールやソプラノは、ふつうの歌と全く違う声という立場の人もいます。

 私は低い方の声もあるので、多くのトレーナーの高い方ばかりの指導と異なるところも多いです。

日本のように”まね”から入ると、高い声が求められる傾向が強いため、本当の基礎がなおざりになってきたといえます。

 

○背中からの声

 

 今の私は、高い声が出やすい人はそこから入り、胸声にこだわるべきではないという立場を、相手によってはとっています。日本にはほとんどいないドラマティックなテノールは、バスやバリトンに近い声帯で高音域発声までをテクニカルに習得したというのは、私の直感的な仮説です。

 

 バスの声を出せる日本人は少なく、ムリに日本人が追いかけても仕方がないともいえるかもしれません。日本で太い音色をもつ、あるいはハスキーな声でハードに歌ってきたのは、欧陽非非、キムヨンジャ、新井英一、和田アキコさん、となると、大陸系の人です。

 スポーツ界とも似ていますが、文化やスポーツは、周辺から成り立っていくので、不思議なことではありません。パリの文化も、フランス周辺からの移民で荷われていました。

 映画「バーレスク」のクリスティーナ・アギレラのように背中(背骨)から声を出して歌えるようなヴォーカルは、日本から出るのでしょうか。アジア、中国、韓国やフィリピンあたりからは、欧米をしのぐ声の持ち主がどんどん出ています。世界標準と日本人のズレ、ガラパゴス化が気になるところです。

 

○体の楽器化

 

 体からの深い声には、息の深さ、太さ、体や筋肉の支えの強さなど、体の徹底した「楽器化」が問われるわけです。

 私のいう「体の楽器化」とは、一部のオペラ歌手や役者などが自分の演奏(表現)能力の限界を体に感じて、その体そのものを変えて限界を超えようとするときに表れてくるレベルです。口内だけのものまねの芸人と、骨格さえ変えるといわれるコロッケさんのものまねとの違いのようなものです。

 オペラ歌唱の絶唱の顔、つまり発声共鳴に有利な形は、ホセ・カレーラスなどオペラ歌手の最高音の顔をみるとわかりやすいです。楽器としての理想から追求されたものです(独特なラッパ顔です)。

 私も経験がありますが、発声しているともっとあごが開けば、口が開けば、鼻や眉間が出っ張っていれば、もう1音、2、3音クリアできると、音域(特に高音)がわかりやすいですが、感じたことがあります。

 

○しぜんな表情での難しさ

 

 発声トレーニングをして本気になると、高音では一時、顔がくしゃくしゃになってくるのです。ポーカーフェイスでハイCまで歌えるパヴァロッティの偉大さは、その逆ということで捉えられます。生身というしぜんと、造作というテクニック、人工的なものとのせめぎあいが生じるのが、ふつうなのです。表情を変えずに声色を変えられるいっこく堂さんのすごさです。

 喉という楽器の完成へのプロセスを未完成なりにももっとも、うまく奏でるために、というところからテクニックとのせめぎあいとなります。喉とその使い方においての葛藤につながるのです。