「トレーニングとしてトレーナーを使うことについて」

○守・破・離

 

 邦楽は一流の見本がある程度定まっており、そこへ到達するべき分野ゆえに、口伝、師の見本を有無もいわずに弟子がまねぶ、まねすることが勉強です。オペラはそうではないと思うのですが、日本では向こうから入った分、まねていく傾向が強いです。それはポップスにも通じます。未だ舶来主義が幅をきかせています。それでも守・破・離は一流への道です。しかし、できるだけまねして終わる=守を終えていく必要があります。

 

〇身につける

 

 ヴォイストレーナーが教えるものはそれぞれに定まっているわけではありませんから、少々強引に述べます。

 たとえば、呼吸法でトレーナーは自分の体を触らせ、同じようなことをやらせます。全く同じことはできませんが、胴まわりが大きくふくらむという事実を見て触っていると、イメージとして強く入ります。そこからそのイメージと現実のギャップを埋めていくために行なうのがトレーニングです。

結論として、トレーナーは、そういう体を相手に求めて、何年後かにそうなっていれば、トレーニングはうまくいったということになります。しかし、多くは、一時の体験で終わってしまい、身につきません。毎日、くり返して変えていく努力が伴わないからです。

 

〇体づくりの方向

 

 お腹をさわってまねるというケースだけでも、いろんな観点と問題があります。この例はまだ視覚と触覚で把握できるので、わかりやすいのです。それが「共鳴させてごらん」というようになると、個人差、体格や目的によってどこまで合っているのかは、客観的とはいえなくなります。もちろん、それはやむをえないことでしょう。

 少なくとも、体づくりのレベルでは、声に有利になるように器を大きくして、いろんなケースに対応できるように、できている人も、もっと余裕をもってできるようにしておこう、という方向で進めていくのです。こういう大きな目的が是非とも必要なのです。

 

○再現のための器づくり

 

 基本とは再現性です。同じことを何回行なっても、厳密に寸分の狂いがないということです。心身のもつ力を高めることと、感覚でよりよく取り込めることになります。そこで毎日のレッスンの質が高まり、安定してきます。

 強化というと、声量や声域のことばかりに思われますが、現場では耐久力が必要です。長時間保てる、体調の悪い時でもそれを影響させない、大きく狂いを修正できるという力です。

 今すぐにはできようのない体の支えを、レッスンや実践のなかで使おうとすると、歌唱、せりふ、表現どころか、発声のバランスさえも崩れてしまいます。使えないものは使えないのです。それを使おうとするから不自然になります。ですから基礎のトレーニングと応用を切り離すことです。

 

〇レッスンとレーニン

 

 レッスンは基礎にも応用にも、どちら側にも寄せられます。私はレッスンは、トレーニングのやり方やそのチェックを気づきにくるところで、トレーニングを行なうところではないと考えています。トレーニングは一人静かに黙々、コツコツ、繰り返すことです。

 呼吸法のマスターに5年、10年かかっても、そこばかりみていては、何もできないまま、すぐに年月がたってしまいます。やるべきことをやっても、あとはいつ知れず自分のステージ、つまり応用に対してしぜんに反映していくつもりでよいのです。トレーニングと実践(本番)は、スタンスも目的も異なるのです。

 

〇ヴォーカルアドバイザーとヴォイストレーナー

 

ベテラン歌手は、新人歌手にとって、トレーナーでなく、ステージ、実施、応用におけるよきヴォーカルアドバイザーなのです。同じ力をよりよくみせるのが、ヴォーカルアドバイザーです。

 私の考えるヴォイストレーナーは、トレーニングで力をつけさせます。その人の実力のうち、強いもの弱いものをみて将来の理想図をつくり、それに欠けている条件を補っていくのです。しかし、その理想図一つをとっても、本人もトレーナーによっても全く異なるのが、声という分野の最大の難関です。

 

○ものまねは即成法

 

 ヴォイストレーナーが何らトレーニングたるトレーニングを与えていないことが多いのが現状です。ヴォイトレといわれながら、ヴォイトレの定義もバラバラです。多くの目的は、「早く」「楽に」「うまく難なく」という、カラオケ上達法になっているのです。その代表が、先生が歌の見本をみせて、それをまねして近づけていくというレッスンです。

 これは、

  1. 早く上達する
  2. 早く上達するようにみえて、少し伸びて留まる。あるいは、限界を設ける
  3. 大して変わらない
  4. 悪くなる

 大体は、こういう方向のどれかになります。

 

〇即成法のデメリット

 

まねて似たら上達とする判断というのは、ある時期を限ってみると正しくとも、長期的には、正しくないケースが多々あります。

私自身ON BOOKS(音楽之友社)で出した「カラオケ上達法」は、演出面から入り、最後に基本について学ぶという構成にしています。

 表現やステージには形がありますから、収まるところに収まらないと、人はうまいとみません。そこにいろんな工夫がなされています。まねもその一つです。ステージや作品を持たせるための工夫や装飾が、トレーニングの本質を見誤る最大の原因となっているのは皮肉なものです。

 

〇まねられるのとうまいのと

 

 プロの世界をみて一般の人は、似たことができるとうまいと思います。ですから、形を覚えるのは、てっとり早い上達法です。振りや表情、音色やフレージングまでまねます。

 すぐに形でとれる人は器用な人で、そのまま楽に歌えます。

カラオケ教室に行って苦労するのは、うまくまねられない人です。それはコピーする器用さであって、漫画家でいうと、手先の器用さで本質的な才能とあまり関係ないのです。

すると、カラオケの先生はフレーズを短くしたり、もっと簡単なところから始めるようなアプローチ手法が考えられます。こういうケースでも、歌がもともとうまかった先生より、そうでなく努力して克服した先生の方が、いろんな手だてや経験を持って、細かくアドバイスしているので、教えるのがうまいものです。ただそれが、相手にとって本当によいか悪いかは別です。

 

〇メリットとデメリット

 

 何事も、メリットがあればデメリットもあります。大きいメリット=大きいデメリットと考えるとよいと思います。即効果大ほど副作用大、可能性を大きくとるほど、その振れ幅も大きくマイナスになることも多くなるのです。表現の大きさと同じで、発想と創造と納め方の三点がセットならないとより悪くなりかねないのです[E:#x2606]。

 ハイリスクの中でそれをローリスクにしていく学び方が求められるということです。

 大きなメリットをとれる自分にしていくとことです。余計に揺らし、自己解体へ自己崩壊のリスクをとりつつ、自らの本当を、芯をつかみ、あるいは植えつけていく必要があります。

それには、メリットやデメリットのワクを超える人や作品との出会いが必要です。デメリットをなくそうと努力するタイプのトレーナーでは、そこが見えなくなります。 

 

〇認めない人

 

少し上達して頭打ちになる人が多いのです。形がとれたところまでのうまさを例えると、音大の演歌やジャズみたいなものでしょう。ですから、叩きあげて創ってきた人、特にポップスを歌う人には、そういう基礎たるものの存在を認めない人もいます。

感性やフィーリングを重視する人などに多いようです。「どんなトレーナーも、自分が認めるレベル、欧米のアーティストあたり・・・とは限りませんが、には歌えないではないか」と心底、思っている人もいます。こういう正直な思い込みから考えてみるのも大切なポイントです。メニュや教える技術で判断してしまえるなら、トレーナーなどは、お絵描き教室の先生にすぎないのです。

 

○お腹から声がでる

 

 当初の私の立場に戻ると、体からしっかりと声を出すのと、マイケル・ジャクソンのように歌えるのは、レベルでなく目的が違います。(マイケルは、お腹からのシャウトもできる上で加工しています。)

 ヴォイトレなら、まず「お腹から声が出る」ように、会話レベルでもそういうことを一声でわからせる人かどうかを問うてみるとよいでしょう。レッスンしたという人もトレーナーにも、その条件を満たす人は、とても少ないのではないでしょうか。そんなことを条件にする必要はないという考え方がある上で、私は客観的にわかるストレートな基準として提示しています。

 

○ステージと環境 

 

 本人のトレーニングのために、より深く気づくための考え方やポイント、イメージを与えるのがレッスンだと私は思っています。少なくとも、ことばで伝えるのはそれが目的と思っています。

 私はCDもいくつか監修してきました。一つには、耳で捉えることを充分に学んで欲しいからです。

 目でみるとわかりやすい。しかし、早くわかる分、わかった気になる分、形をとってくせをつけやすくなるリスクがあるのです。

 ステージは、必要に応じて変わるものです。そのステージから直接、形でなく実となるトレーニングを学べる人は、特別な才能のある人といえます。そうでない多くの人に、私はレッスンやトレーニングの環境を整えたいと思っています。私自身も環境でありたいのです。必要以上にでしゃばりたくないと考えてきました。

 

○主役 

 

レッスンの場はトレーナーでなくアーティスト(となるレッスン受講生)が主役です。(私が実演より、監修、編集に重きをおくのは、トレーナーと受講生の関係をみるスタンスだからです。歌うなら歌手、演ずるなら役者、彼らの力を引き出すトレーナー、私は、そこでの関係をみる黒子です。)

 レッスンでも、トレーナー主体のレッスンよりは、受講生主体のレッスンであることです(本もCDも同じです)。

 もちろん、トレーナーが受講生を何とかしないと何にもならないという現場の状況もあります。

 しかし、何とかしようとすることは、あまりよいことではありません。何とかされたいレッスン受講生が多い現状では、本人が主体的になるのを待つ必要があります。そのために、その必要を知ってもらうことです。

 

○満足するということ 

 

 私は急がないこと、押し付けないことをトレーナーに求めています。

 トレーナーに受講生と考えるか、アーティストと考えるかによって大きく違ってきます。歌手の満足度は客の声、トレーナーの満足度は受講生の声によるのでしょう。でもただ満足でよいのでしょうか。その問題はとても大きいはずです。

 

  1. 受講生が自分の声に自分なりに満足する
  2. トレーナーが生徒の声に満足する
  3. 客が生徒の声に満足する

それぞれにどうよいのかということでしょう。

 

 aは、ビジネスとしてはよいでしょう。お客のニーズにトレーナーが合わせサービスする、CS(顧客満足)です。

 cは、ステージ、作品から考えるので、よほどの人でないと、弱点を隠し、今風に合わせてまねする形になりやすいです。プロデュース 演出家型といえます。

 b は、トレーナーによって、a、cになるスタンスもあります。あるいは、受講生によって、a、cになるケースもあります。私はbですが、a、cに、トレーナーに対話させることもあります。

 

○トレーナーの満足する声

 

 目的別なら、マイナスをゼロにする人には、a

 カラオケやオーディションなら、c

 それでは b のスタンスはどうなのかというと、

  1. 目的
  2. レベル(現状)

3.期間

4.回数

5.自主トレ

など兼ね合いで異なります。

 

少なくとも、 a = b = c が一致することは、かなり浅いレベルでしかありません。

a = c ≠ b のときは、トレーナー、不審になりやすいです。

a = b ≠ c は、メンタル的に弱い受講生と、やさしく丁寧なトレーナーが陥りやすいです。

b = c ≠ a は、旧式に多いパターンです。初心者や判断力のない、あるいは偏った受講生のときは、理想的です。今は受講生がすぐやめるので、あまり見られません。

 

○理想とする体制

 

 私は誰よりも多くのトレーナーと仕事を行なってきたと思います。そこで教育における伝承と創造について述べてみます。現在の研究所は、私の代替や補助としてでなく、私にできないことのできる能力のある声楽家を集めて、多くの要望に対応しています。チームとして対応できるように、二重、三重の構造にしています。

 これは、受講生にまねることのよいところと悪いところを区分けできる力をつけるためにとてもよい結果をもたらしています。できるだけよい影響を与えられるようにするのに、私が最終的にたどり着いた体制です。

 

○万能対応

 

 いかに天才的なトレーナーが一人いたとしても、その才能の恩恵が受けられるのは、1万人に一人か二人でしょう。残りのほとんどの人には却ってよくないでしょう。100人がそのトレーナーを求めるとしたら、オーディションで10人に絞って、自分の教えに合う人を10分の1くらいで選んで、受け入れるとよいと私はアドバイスしています。そんなに恵まれた人選ができるようなトレーナーは日本にはいません。しかし、私は、ようやく10人以上のタイプの違うトレーナーをそろえました。つまり、計算上は万能対応です。

 

○グループレッスンの経験

 

 私のところでは、以前は養成所としてのクラス制だったので、上達するとしぜんと上へ残っていけるような形になっていました。それがレベルや実力と比例しなくなってきました。そこで生え抜きのトレーナー、育成していたトレーナーに加え、何人かは外のトレーナーをお願いして客観性をもつようにしていたのです。

 グループレッスンが中心でしたから、トレーナーの個人的な影響はそれなりにとどまっていました。それでも、その影響下に入ってしまう人も少なくありません。本人は伸びているように思っても、そのトレーナーの半分にも満たない力もつかないのです。

 これは、一人で教えているトレーナーのところで常に起こっていることです。私のところは複数のトレーナーから、選べたので、大分、害は防げたのですが。

 そこをなぜ問題視しないのでしょうか。本当にすぐれた一流のトレーナーがいるとしたら、自分のかけた年月で、少なくとも自分より上のレベルに育てられることが証明でしょう。かける年月(時間)が半分、要する努力が半分で、そのトレーナー並みの力にできるなら、まあまあのトレーナーです。多くのトレーナーはそれ以下の実績となるわけです。

 

○自分のようにしない

 

 なぜ、多くのトレーナーは、「トレーナーである自分のように相手をする」という目的には疑問を抱かないのでしょうか。教えるというスタンスになって、弊害が出てくるのです。先輩(小坊主)の教える害というものです。身近な人が教えるのも、こういう点で考えると、メリット以上にデメリットがあります。

 私はトレーナーをミニ福島のようにさせたくないので、具体的なメニュや方法は、各トレーナーに任せています。ここにいると私の影響をうけざるをえないので、意図的に切り離すようにしているのです。

 一般的には、カリスマ的なトレーナー、第一人者は、トレーナーにも自分と同じようにすることを求めます。組織的には、同じプログラムで同じ効果を保証しようとして、当然、そうなることかもしれません。しかし、そうして日本では声において効果があがってこなかったのは、事実なのです。トレーナーがそこのトップアーティストをコピーさせるところでも同じです。

 私は、声の育成に関しては、トレーナーだけでなく、宝塚歌劇を含め、音大や合唱団、劇団、プロダクションなど多くの機関とそのカリキュラム、成果をみてきました。そこでとてもよくわかりました。

 当初、私は声楽には否定的で、役者の養成所を立脚点にしていました。その代表のトレーナーでさえ、育てられていないのをミニトレーナーに分担させるのでは、結果がよくないのは明らかです。

 

○組織づくり

 

 私の組織づくりは、これまでの日本では特別だったのでしょう。おわかりでしょうか。いらっしゃる人をメインに、それぞれが何らかのスペシャリストとしてのトレーナーを必要なだけつけます。目的や時間、費用の制限内で思うようにいかないことも多いのですが、月に4~8コマでも、複数のトレーナーにスタッフと、ときには私も合わせて4名以上が入ります。多面的にみるためです。

 

 このあたりはグループレッスンで、利用しまくると10名ほどのトレーナーすべてに教わることができた頃と変わっていません。グループでは個人差に対応できないこともあります。かなりの主体性が参加者に求められました。

 今はそれぞれのトレーナーが生徒別に考えてレッスンをまとめ、プロセスや結果を共有しています。それできめ細やかに対応できます。こういう力は400名近くをグループレッスンという同じカリキュラムで10年以上もみてきたからこそ、できるようになったのです。

 

○引き受けない、わからない

 

 トレーナー一人で行なう場合や、すぐれたトレーナーの元に同じ教え方で統一して教える場合、リスクを避けるため、合わない生徒は引き受けないという判断基準をもつことです。私はそうしているトレーナーを少数ですが知っていて、敬意を払っています。

 私自身も当初はそういうことが、わからなかったのです。経験を積み、失敗をフィードバックし、それを防ぐように考え、改良するのです。この繰り返しによって、ようやくわかってくるのです。

 多くのトレーナーにはそういった基準がありません。実績がない人ほど、誰でもよく伸ばせると、確信しているように思えてなりません。

 人の実力を伸ばすというのに、声については、どの程度かも、トレーナーのみぞ知る、いや、知らないというようなあいまいなものが大半です。誰かに言われないと気づくこともないのかもしれません。

 

○本質把握

 

 知識や肩書、あるいは人間的なコミュニケーションでカバーしようとするトレーナーは、気づくことがありません。本質を観ていないからです。

 本質を観ていたらメニュも方法も、毎回、相手別にも変わり、進化するものです。体制も組織も次代に対応して常に変革せざるをえないものでしょう。

 その上で変わらないものがあるのです。それを私は基準といっています。これは、一番ベースのものが不変で、レッスンの中では毎度変わる、つまり応用されていくのです。

 自らの声を変えることを他人の声を変える前に徹底して行い、声ということをとことん知ることです。自分の限界がみえて初めて、他人を使うことも、他人に対して、どのくらいのことができるのかもわかってきます。声の力を伸ばすというのに、声自体の目標の程度が低いというより、曖昧なのは、ずっと気になっています。

 

○演出家とヴォイストレーナー

 

 演出家やプロデューサーでヴォイストレーナーをやる人は、よい素材(人材)を選ぶ立場にいます。私がトレーナーをやり始めた頃もそうでした。今もプロの人がいらっしゃることがそうなのですが、反面のどに恵まれない人、障害をもつ人も増えてきています。こちらの条件を了承していただいた上で、一緒に取り組みます。常に研究、実験ということでは、どんな人にも共通するのです。こういう人は本当の基礎のさらにもう一つ下の根本を変える必要がある場合が多いのです。メンタルやフィジカル、自信、姿勢、生活習慣など。しかし、ヴォイトレにはもっとも大きく早く変わる可能性があります。

 プロとのトレーニングでは、元々自分とは、異なる歌やせりふの才能をどう使うかの立場で入ることになります。オーディションなどでよい声、うまく歌える人をとるところからスタートできます。トータルとして仕上げるというケースなら、声に頼らずということも考えます。他の才能で補ったり、声の見せ場を限ることで早く舞台で通じるようにできます。

 歌手であれば、自らが身につける基準については、作品ごとにおいて行えばよいのです。日本ではもっと基本を身につけて欲しいと思います。その人の声の可能性より限界を示した方が早く役立つのは確かです。

 

○バランス本位の日本

 

 演出家やプロデューサーは、声、歌においてというよりは、表現として客に働きかける力を見抜いたり、引きだすプロです。ただし、歌や声としては専門外ともいえます。私たちのような音声の関係者をおくことがあります。演出家やプロデューサーとしての力量と経験が相当にあることが、人を見抜いたり育てたりする前提です。それもできていないようでは問題外です。

 世の中に出て、世の中で勝負し、通用しているなら、それなりに鋭い感覚があります。それを声や歌をみるときに応用しているというところと、これまで優れた人と活動してきたという経験において、私はアマチュアのヴォイストレーナーよりは彼らを高く評価しています。しかし、その自信が、声に限っては裏目に出ていることも少なくないのです。

 日本の場合、声には個性よりもバランスがみられがちです。

 彼らは、自分を手本にまねをさせません。そこに価値のないことを知っているのはよいことです。学ばせるのは、一流の作品で一流のプロを紹介していることが多く、これは評価できます。

 声については、自分でやってみせて、まねをさせて学ばせることは、なかなかできないからです。ときにそういう人もいますが、大体は、持って生まれて恵まれていた分だけは自分の声を鍛えましょうというレベルで行っています。イメージで伝えるための伝えることばももっています。応用が効くし、実践的です。

 デメリットについては、彼らの求める舞台の世界観や価値観が優先するということと、声に対しての基本の浅さです。相手の潜在的な能力を認めて伸ばせるほどは広くないということです。この点では、歌手出身のトレーナーと重なるところがあります。選別眼の方が働くので、プロ志向でかなりの素養のある人でないとなかなか難しいです。あるいは全くの素人や初心者向けです。

 

○教わるだけでない

 

 何十人くらいしか、しかも短期に接したことのない若いトレーナーが、どこかで学んだだけのやり方をずっと変えずに行っているようなことを見るにつけ、本人がもっと学ぶべき必要を感じるのです。ここにもトレーナーが学びにいらしています。大切なのは、教わることでなく、イマジネーションと創る力をつけることです。

 劇団のワークショップのようにアマチュア向けのものでも、体験してみるのはよいことです。楽しいメニュのオンパレードと表面的なチェックでも、心身の解放の体験ができたら第一歩です。問題はその先の方法のないこと、そして見通しのみえにくいことです。

それでも声について、いろいろと感じるには有効だと思います。トレーナーに教わる前に、自分の体・心・声を見直したり、気づく視点を得られることもあります。理論より実践型が多いので、うまく巻き込まれると、思わずハイレベルな声を実感できることもあります。

 

○声の鍛錬のプロセスについて

 

 声優や役者の養成所から、ここにいらしている人の多くは、同じような体験をくり返しています。声についての課題だけをいわれ、具体的な処方箋を渡されないのです。

 「声を大きくしなさい」で「どう大きくしていくのか」を知らないし、トレーニングを行なわないのだから、変わらないのです。

 「もっと練習しなさい」では、何をどのくらい、どのようにしていくのかわかりません。そういうことに大雑把な、一般的なメニュはありますが、今のあなたの問題への具体的な解決策が必要です。その見通しを得るのが、私の考えるヴォイトレのレッスンです。

 

 それを解決するのが、ここのヴォイトレというと、どんなこともすぐに誰でもできてしまうように思われてしまいますが、できることもできないこともあります。時間のかかることや、やってみないとわからないことも多いのです。

 しかし、可能性を広げていき、限界までやって限界をみて、その克服法も研究し得ていくのです。その力をつけていくために必要なのが、私の考えるヴォイトレのトレーニングです。

 

○似ていると学びやすいが・・・

 

 現実的な問題として、性差やパートの違い(テノール、ソプラノなど)をどう考えるのかです。学ぶのに先生の得意なものを選ぼうとするのは、当たり前です。しかし、そうでないものやそうでないときは学べないのかということはありません。

 人情噺は得意でない師匠なら、それが得意な師匠から学ぶ。ピッチャーならキャッチャーである監督でなく、ピッチングコーチから学ぶ。というのは、もっともわかりやすい例えです。しかし、声については何とも答えにくいです。

 似ているほど早くまねしやすいが、大体は、くせやまねるとまずいところからうつるもので、学んだあとにそれを取らなくてはいけないことが多いのです。そこに気づける人はほとんどいないのです。その師匠がもっとも教えられないことだからです。

 似ていないと、まねもしにくいし、学びにくいかもしれないが、もし学べたら表面的なまねでなく、本質的な基礎が入りやすいということです。

 

○まねるリスクを減らす

 

 ソプラノでしたら、ソプラノの先生なら、そのまま丸写しのようにまねしやすいでしょう。ところがバスの先生では、出てくる声は全く違います。だからこそ、呼吸法や体の支えなど共通しているところに、発声の基本的な原理まで踏み込んで学べるとしたら、得られたときの完成度は高いということかもしれません。

 私のところでは、トレーナー二人以上につきなさいと勧めています。極端にいうと、二人の見解の分かれるところをどうするかが肝です。まねて生じるクセを許容しつつ、いずれはとらなくてはいけないと知って学ぶのと、区分けできずに学ぶのは違います。

 歌でも一人のアーティストだけを見本にとるのは、二人以上のアーティストを見本にとるのに比べ、圧倒的にものまねになるリスクが高いでしょう。それと同じです。

 

○効果と副作用

 

 私は、トレーニングは効果的なところほど、たとえば早くとか大きく変わるところほど、副作用も大きいので、気をつけるようにと、言っています。これはトレーニングでミスを恐れ、大きく変えるな、ということでなく、ミスを恐れず大きく変えてよいが、そのあとにきちんと整理してミスを最小に抑えるようにということです。表現として何かをやるのはよいし、やるべきですが、いずれそれなりの形で納めなくてはいけないのです。

 逆にいうと、あらゆるミスはトレーニングで行ない、心身で知っておくことです。そのためにレッスンがあります。

 

○ミスを出しつくす

 

レッスンを上手にこなそうと思ってはなりません。そこで大切なことは、あらゆるパターンのミスを出し尽くしていくことです。そうしたレッスンこそが大きく気づき、本質的な判断力を磨いていく最大の機会だからです。

 独りでのトレーニングは、ミスを恐れないとなりませんが、トレーナーがついているレッスンは、ミスへチャレンジするつもりでよいのです。

 調子が悪くてもひどい状態でも、レッスンでその処方を学べばよいのです。いくらミスをしてもよい、大きなミスをしましょう。そこからミスを知り、本番で対処できるようにしていけばよいのです。同じミスをしてもかまいません。同じレベルでしないようになっていけばよいのです。本番でミスしないためです。

 

○気にせず、記録する

 

 「ヴォイトレに効果があった」とか、「あまり変わらない」というようなことも、その時々だけで判断すべきでないこと、よくわからなくてもよいということがわかります。

 自己評価や自己満足、充実感も不安やスランプも、気にすることもないのです。ただ、いつも自分なりにきちんと記録しておくことです。より高い水準で自己反省、省察できるようにしていくプロセスの大切さをわかってください。

 トレーナーに教わるのではありません。トレーナーはあなたが実力をつけるために使えるヘルパーです。ですから、何人かのタイプの違うヘルパーがいる方がよいと思います。

 

○トレーナーもサンプルの一つ

 

 私は見本については、

1.一流のものをたくさん見聞きすること

2.できるだけ複数のアーティスト作品を入れ、その共通点を知り、体得していくこと

3.その相違点から自らのものを創造すること

その継続をお勧めしています。

 

 トレーナーについては、すべてといいませんが、どこかが一流(一流と共通)と思えば、そこを盗めばよいのです。思わなければ、まねなくてもよいと思います。最初は、トータルとして優れている人より、一つだけはずば抜けている人に複数つく方がずっとわかりやすいです。

 とはいえ、こういうことにはすぐに判断しがたいことがたくさんあるのです。学べるようになってください。

 

○判断力をつける

 

 自分の声を変えたいのなら、自分の耳や、判断力が変わらなくてはなりません。ただ、変わるのでなく、すぐれるように変わらなくてはなりません。

 日本ではやり始めてから判断力が劣っていく人が後を絶ちません。トレーナーに頼り、ものまねで、表面的に伸ばそうとしていくからです。それでプロのように扱われてしまうこともあります。そういう判断をする力のある人がいない、そういう人材層の薄さが問題です。プレイヤー、トレーナー、プロデューサー(演出家)に接していても悪循環から、抜け出せないどころか、音響やステージでの補助技術の強化で、劣化していきます。

 一流は何かということを一流のものから学ぶのが不可欠なのです。一流をめざしても、なかなか二流にさえなれないのに、なぜ皆、安易に手近なものをそっくりまねしようとしてしまうのでしょう。

 まねをするなら、呼吸や発声など一流の要件を満たしているものに限定します。それを部分的に集中して強化する目的でやることでしょう。この点では、ヴォイストレーナーの発声に限らず、歌のコピーでも、注意する必要があります。

 

○鑑賞とコピーについて

 

 鑑賞については、自分の外にあるものを取り入れるということです。それは、ステージやYouTube(ネット動画)、教材などについても、共通することです。

 大きくリソースを、a)アーティストもの、b)レッスン、トレーニングものと、分けてみます。

 レッスンやトレーニングについては、いろんなものがあるので、その位置づけをはっきりさせます。1.本、2.通信教育、3.CD教材、4.DVD教材、5.レッスンでのトレーナーの見本などがあります。それぞれの目的や内容によっても、大きく違います。

 

○部分的に集中する

 

 レッスンには、

  1. トレーナーや歌手が全て(一曲フル)を歌う
  2. トレーナーや歌手が一部を歌う
  3. 生徒が全てを歌う
  4. 生徒が一部を歌う

などがあります。

 

 全コーラスを歌ってこそ歌というものですが、レッスンというのは、部分的に切り取り、集中してそこで直します。だからこそ、わかりやすくステップを踏んで直せるし、効果もあるわけです。

 これは、違いに気づかせやすく、近づきやすくするのです。そこからみると、トレーナーが(あるいは歌手が)、生徒が歌いにくいところを歌ってみせて、まねさせているというレッスンは、そのよしあしは別として、レッスンらしいレッスンといえます。

 

○ヴォイストレーナーの不在

 

 昔は、芸事の伝承は口伝(もしくは一子口伝)でした。作品が記録できなかったから、その形全体を知るためにも、題材の知識を得るにも、弟子入りが必要でした。それが、出番やデビューまで(家元制やプロダクションの問題にも関わる)の下積みにもなりました。ところが今や、種本どころか師匠や先生の名人芸まで動画で、見られるようになり、大きく変わったのはいうまでもありません。

 歌をプロデュースした人から、その楽譜や歌う権利を必要としたときは、レッスンを作曲家が行なっていたのです。

 私のところでも、以前は、歌は作曲家に教わり、声は声楽科にヴォイトレにいくというパターンもありました。今はプロデューサーやアレンジャーが歌担当になりますか。それはトレーナーというよりは、伴奏者やサウンドづくりとしての役割が大きいと思います。

 

○天性の才能とヴォイトレ

 

 歌や芝居には、その人の半生が入っています。声も経験してイメージしたものが出てくるのですから、誰も歌や声に関して、本当は初心者ではありません。それゆえ、逆に難しいのです。

 誰でもできるものだからこそ、選ばれるには難しいのです。ならば、創ればいいというのが私の「アーティスト論」です。

 「十代で何のトレーニングにも通わず、プロになれる人がいるのは、歌手と役者」と、私はいつも言っています。そういう人のヴォイトレと、そうでなかった人のヴォイトレは、違います。前者は、少し修正すること(応用)でスタート(プロ活動)すべきです。根本的な基礎の多くは現場での経験で入れていきます。ヴォイトレは、そこで行きづまってからスタートです。

 アーティストや作品から気づく力にすぐれていることが肝要です。ちなみに、声そのものよりも、声の持つ力を発揮する力の方が問われます。

 プロでも一部の人は本当の基礎力をつけたいと言っていらっしゃいます。より早く(といっても、2~4年以上)トレーニングして、声を強化していくのです。

 

○条件を変えたいなら

 

 早熟デビューでなかったタイプにも、器用ですぐ歌えるタイプと、不器用なタイプがいます。

 私のヴォイストレーニングに限っていうと、すぐれた人がよりすぐれようとする場合と、人並みの力がない人が人並み以上になろうとする場合が多いです。

 たとえば、劇団四季の主役級の人がブロードウェイに挑戦するときは前者、のどの弱くて人並みに声が出ない人が声をよく使う職を目指すようなときは、後者です。

 私のところでは、舞台で生で通用する音声の基礎力をつけさせることを第一のモットーとしています。

 声は日頃使ってきたものだけに、本当に変えるのなら、大変革を起こさなくてはなりません。根本的に変えようとしないと、条件から変えないと通用するに至らないということです。生きてきた年月がキャリアですから。

 通用させるにも、通用しやすい調整を主として入るのと、根本的な条件から変えるのは、一見、方法が逆です。これこそが、私のヴォイトレのレッスンでもっとも誤解されやすく、混乱しやすいところです。

 

○調整と条件の分かちがたい関係とトレーナーの問題

 

 極端にいうと、状態の調整は高い声で「ミャー」といいなさいとか、鼻に響かせなさいと、その場で初回から気づかせる方法をとります。条件は、走って体力をつけなさいというようなものです。どう声に関連するのか、本人はすぐにわかりません。しかし、これもアプローチの違いです(私たちは、どちらも併行しています)。

 前者はのどを開く、後者はのどを鍛えていくみたいなことになります。調整と強化トレーニングの違いです。とはいえ、どんなレッスンにもその両方が入っているので、混乱しやすいのです。

 トレーナーや生徒によっても、その配分は違います。目的や方法やレベル、もっている条件によっても違います。捉え方や言い方で違うこともあります。生徒の受け止め方でも違います。同じレッスンでも、二人のトレーナーが同じことをすることはありません。私のところのトレーナーは、自分の実感に基づき、アレンジします。それはセンスというような問題です。

 

○前提を整える

 

 「走れば声が出る」というのがトレーニングというのは極端ですが、そういうことが、発声をよくすることはよくあります。寝ていない人なら、充分な睡眠、病気なら、それを直すのが、トレーニングの前提となります。声は、のどや肺や呼吸筋など、体に支えられているのですから当然です。ですから、徹底した体の管理が前提です。どんな方法であれ、調整しつつ、鍛えてはいるのです。

 たとえば、頭部の共鳴から入りつつ、それが胸にまでつながり、呼吸も深くしていくというのも、呼吸を深めて胸から頭へ共鳴しやすくしていくのも、逆のアプローチのようで、同じ目的です。

 

○同じにしたいトレーナー

 

 日本人の気質としては、学校のように誰もが同じようなプロセスで、同じように習得でき、同じ程度にこなせるようになるという思い、確実に人と同じになりたいという思いが強いようです。

アーティストは誰でも同じようになり、同じにようにこなせるとはなりません。表現でなく、学習をしたいのです。これらは協調性の強い合唱団などに顕著にみられる傾向です。

 トレーナーという職を選ぶ人には、こういう学校の先生タイプが多いのです。ほとんどのトレーナーは、平均以上ののどを持ち、うまく歌えた人が中心です。だからといって、それ以上の個性も表現できなかったともいえます。

 一方で、弱点から克服してきたトレーナーもいます。個性豊かで幅も広く深く、人を長期的に育てられる力のある人もいます。竹内敏晴氏などがそういうタイプでした。

 

○トレーナーを目標としない

 

 一言でいうと、一流のアーティストから気づき、声を鍛え、自ずと上方へ修正がかかっていくのが一番です。トレーナーはその人自身がこのようなことを気付く可能性を信じて、安易にやり方で教えてしまうことで邪魔すべきではありません。これが私の理想とするレッスンです。

 私のようなトレーナーは踏み台であり、目標とすべき点ではない、と思っています。それゆえ、私の凡たる力の中に、相手をとどめてはいけないというスタンスの取り方です。

 そこで、私は私以上のレベルの人を引き受けられるのです。こういうことはできない人や、できる人にはわかりやすいのですが、器用にできる人には通じにくいようです。誰かのようにうまくなりたい人、誰かのような声を誰かのように出したい人には、理解しにくいのです。その先鋒が案外とトレーナーであるのは、困ったことです。

 

○トレーナーの個性のよしあし

 

 レッスンの場を、学校のような教育と考えるか、アーティスト養成と考えるかでいろんなことが違ってきます。私はトレーナーにも多様性と個性を望みます。そのために複数トレーナー制にしたともいえます。私自身が表現を説くと、私の個性も出ざるをえません。そこで、一人でやるのを断念したいきさつがあります。

 一般的に考えて、皆さんの意思で選べるという師というのは、個性を出してよいと思います。生徒から選べないという学校の先生は、あまり個性を出さない方がよいのかもしれません。そういうことでは、日本の合唱団の先生には最も理解していただけないかもしれません。ただ、世の中の誰よりも私と考え方の一致するのが、その代表といってもいい合唱団のある先生だったというのも不思議ですが・・・。

 キャスターやDJとアナウンサーとの違いのように、そこは似て非なるところが大です。こういった二つの分類は、私の発声に必要とされるものの区分にも共通しています。つまり、個性ある声と上手でうまい声との違いです。

 

○エリートの育て方

 

 言い換えると全員を平均点にあげるのと、一部のエリートをトップスターにするのとは、考え方が違うのです。

 日本は戦後、本当の意味での(心身、体の)エリート教育を捨ててしまいましたから、こういうことがわからない人が多くなりました。誰もが平等、同じ実力、同じ評価というのを、芸にまで持ち込みかねない風潮です。

 たとえば、プロからアマチュアの指導に降りてくる人には、プロだったゆえにやさしい人がとても多いのです。ファンサービスの延長上に、よい人と思われるように振る舞います。結果として、プロには絶対になれないように指導してしまいがちです。これは仕方がないことかもしれません。

 私の知人の黒人トレーナーは、日本人にはやさしく、同じ黒人にはとても厳しくレッスンしていました。日本人に好かれることが第一だったかもしれませんし、生計がレッスン料によっているという現実の問題もあります。

 

○グレートということ

 

昔、プロや先生というのは、初心者や一般の人にはやさしく、内弟子や見込みのある人や同じプロには厳しくと使い分けているものでした。厳しくされるようになったことがプロへの道の証と思ったものです。同時に冷たく遇される、つまり同じ道を行なうもの、同業者、ライバルとなったのです。

 海外で一流のトレーナーがやさしくレッスンしてくれて、とてもほめてくれた「Great!」の連発だったなどというのは、アーティストやビジネスレベルでなく友好コミュニケーションのレベルです。日本の大手の英会話学校で外国人講師につくとよくわかります。

 

 レベルの低い日本だからこそ、海外で改めて、トレーニングのプロセスやノウハウを評価されることもあります。私もときにそういう動きに引っ張られて行くことがあります。そこでは客観かつ冷静に処するようにしています。現実にはトレーナーも、バンドのメンバーも日本のプロ歌手より声がしっかりしているのです。

 

イエスマン

 

 トレーナーが個性的で、アーティストであるときの弊害は、そのファンになったり、ミニトレーナー化するケースです。

 私は日本のすぐれたトレーナーが、そのトレーナーが好きな人ばかりの中に埋もれ、新たな才能を伸ばせなくなったのをたくさんみてきました。これは、トレーナーに限りません。それゆえイエスマンに囲まれる裸の王様にならない努力もしてきました。たとえば弟子を自らに敵対させて乗り越えさせるというのは昔よくあったやり方です。私は歌手でないので、棲み分けができたので、対立はしないのですが。

 もっとも高いレベルを求める人でなくては、こういうこともうまくいきようないのです。

 

○世界との接点

 

 とても難しいことでしたが、確かに一時、私のグループレッスンにおいて、声で世界と接点のついていた時期がありました。90年代前半までのことです。

 私も30代で今思えば、まだまだそこからを活かせませんでした。

 私自身を世の中に問うことに生きていたので、背中で語るしかないときでした。今もその頃のメンバーは何人かいます。ゼロからモータウンレーベルのように築こうと思っていました。それからの経緯は、歌そのものの変容によるところが多く、今だ総括して語り切れません。

 トレーナーが生徒さんと仲良く「ちいちいぱっぱ」をやるようなものをみていた私としては、トレーナーという名称さえ使わなかったのです。今から考えると、孤軍奮闘の芯のあるトレーナーも少なくなりました。日本で先達を乗り越えようという意気込みがあった最後の時代を私は拾っていたのでしょう。

 

○内制化ということ

 

 外にある見本によって、自らに内制化できるのかということに入ります。アーティストもトレーナーも、歌や芝居もその一部のフレーズ、トレーニングメニューもすべて、自分自身の外にあることについては同じともいえます。

 ヴォイトレとして取り出し、そこにレッスンとして本番ではできないプロセスをおきます。

 方法やメニュとして断片的なものを用いるからこそ、うまくもいくし、ややこしくなるのです。トータルではなかなか学べないから、部分での完成度から徹底するということを突きつめます。声で一声、歌で一フレーズをとことんまでやるのです。

 ヴォイトレとして、ヴォイストレーナーがやるからこそ、ややこしくなるところがあるのです。そこはきちんと位置づけしておき、あとで挽回しなくてはなりません。そうでなければ、その人の才能を活かせず、混乱、埋没しかねないからです。

 

○トレーナーはどこまで関わるべきか

 

  1. 声や声のための体づくりにだけタッチする
  2. 表現や仕上げまで関わる

 大別して、2タイプのトレーナー、トレーニングする人がいるわけです。

 aはフィジカル(パーソナル)トレーナーやマッサージ師、医者のようなものでしょう。日本でヴォイスティーチャーやヴォイスコーチでなく、ヴォイストレーナーという名称がつけられたのは、そういう役割分担だったのかもしれません。

その割には、ヴォイストレーナーはヴォイスのトレーニングではなく、歌い方やせりふを教えていることが多く、基礎について徹底していなかったのです。今は逆に体や声の知識が過剰になり、そのためメニュや方法だけが一人歩きして、声そのものが力を発することができないようになりつつあります。

 

○教えるプロとしてのトレーナー

 

 日本も現場が厳しくなくなったせいか、長期的な視野でみるトレーニングの必要性を感じない人が多くなってきたのです。ヴォイトレする人が増えているのは、盲目的な依存化とさえいえます。

 カウンセラーなどの世界と同じく、ヴォイストレーナーも他に何もできないから(声がすぐれているとか学んできたというならよいのですが)、これしかなかったという人と、他の事にすぐれていて、参入してきた人がいます。

 後者は声での経験は浅いかもしれませんが、何らの表舞台での実践経験は豊かで、教えることにキャリアのある人です。勘や気づき方、伝え方に長けているので、生徒も心を奪われやすいのです。

現実に世の中でやれている人につきなさいというのが、私のアドバイスの一つです。鋭くなっていくべきレッスンで、鈍くなることこそ、最大に恐れなくてはならないことだからです。

 

○トレーナーの選び方の本質

 

 私は、トレーナーについても、舞台の経験を重要としてみています。目的実現のためのヴォイトレでありたいからです。目的が健康やストレス解消、アンチエイジングでもOKです。そういうトレーナーもいます。それも含めて私はトレーナーには、世に問うているプロの人に対応できることを求めています。私より目上のトレーナーもいるのです。

 目的がその日にトレーナーがサジェストしたらやれてしまうくらいのものなら、トレーニングというのに値しません。私は十年以上の下積みを通して、声をものにするということがどれだけ大変かをそれなりに知っています。それを人に伝え、変えていくことは、今でも大変なことと思っています。

 

○その日の効果

 

 私も、その日に効果を上げるように求められることが少なくなかったのです。すべての対象に応じるとなると、劇団のワークショップのようにメンタル面の解放や心身のリラックスがメインになっていくものです。

だから、ワークショップなどで評判のよいやり方もいろいろと知っています。それが得意なトレーナーもいます。多くのヴォイトレでは、そのときのリラックス声がベスト、目的です。私にはそれは初めの一歩かそれ以前なのです。セッティングして効果が表われると、自信ややる気をもてることで、声が変わるのは確かです。このすぐにみえるのを目指すようなヴォイトレは否定しません。

 

○人並と並を超えること

 

 私は並を超える変革を求める分、メニュは同じでも、その使い方には厳しいです。難しいのはまだ、私の実力不足たるゆえんですが、真意を伝えるのは大変なものです。だからこそ、価値があると思うのです。

 あまりに方向違いや、力づくばかりで声をうまく扱えず悩んでいる人の多い日本では、リラックスが先だとも思います。他のレッスンで物足りなくなってから、こちらに来る人の多いという現状は、それでよいと思っています。

 

○鈍さ

 

 私は10-20%の調整で満足してしまうような、いくら続けても自分のトレーナーのレベルにさえ届きそうもない鈍さが嫌なのです。そのくらいで育てたといっているトレーナーの鈍さも嫌です。そういうところには、あまり関わらないようにしています。

 

○初期効果

 

 どのトレーニングもどのトレーナーも存在意味はあります。そのやり方がうまくあてはまる人もいます。なかなかうまくいかない人もいます。短期でみているのでは本当は※しません。それをしっかりと把握して研究改良を続けています。こうして30年以上やっているからこそ、みえないものもわかります。

 

 どうも日本人は、ただのスタートで、つまり独立開業したところで祝って、ちやほやしてしまうことが多いようです。その9割は、5年先にはうまくいかずに終わっているのです。大学でも卒業より入学に重きが置かれている国です。トレーニングも同じかもしれません。スタートしたところでなく、その人の5年先、10年先をみて、判断することです。それには、かなり多くの人をかなり長い時間みた経験がないと、できないでしょう。

 

○創造の厳しさ

 

 何にもやらずに口だけのような人は問題以前で、その取り組み、考え方、自己把握、分析、処世術を直さないと何ともなりません。

 日本人のほとんどは、創造していく世界に対して、プロも含めて苦手です。

養成所で私は、ゼロから叩き上げていたのですが、そういう演出家や監督もいなくなりました。今やバッシングされて続けられないかもしれません。

 でも、そこから学ぶ人もいるので、私としては頑張って欲しいのです。何もやらないで批判や否定するばかりの人が増えていくなかで、声に関わる人は、思う存分、表現して欲しいのです。

 

○トレーナーと一流の作品

 

 トレーナーは偉いもの、完全なものでも力のあるものでもありません。会ってみたらわかります。本やNETでもわかります。だからこそ、一流の作品から学んでください。それがどう一流であるのかを耳や体を通して知ってください。あなたが少しは早く、少しは深く、気づけるお手伝いをできたらと思って、私はこの仕事を続けているのです。

 トレーナーに問われるのは、声より耳、指導力よりは発想力でしょう。声もよろしければ尚よい。でも、人を育ててなんぼです。では何をもって育てたというのが難しい分野だけに、先に続くということになるのです。

 

 私は名誉とか所属とかはどうでもよいのです。そこにいたとか役職についていたとか、そういうものに頼ること自体でおごってしまう人をあまりに見てきました。声を求めに来た人も声があいまいゆえに、惑わされることが多いものです。

 文章は、私の思想であり、世の中への問いかけとして、残していきます。あとは、声を耳で、レッスンそのものや声で判断してもらえばよいと思っています。

「ヴォイストレーニングの”ビフォー&アフター”」

○トレーニングで変わるもの

 

 ヴォイストレーニングを目的と結果、ビフォーアフターでみてみましょう。

 「トレーニングをした」ということは、何かが変わるわけです。トレーナーのあげる例をみてみますと、大体、次のようなことです。私もいくつか示してきました。取材などでは、端的に言い切らされてきたので、実情と一致していないところもあります。

 ヴォイトレにおいて、結果(終点)は、もちろん、始点(現状)を定めるのさえ容易ではありません。だからこそ、ことばを使ってはっきりさせる必要があるのです。一つの目安としてのことばのイメージが、一人歩きして、トレーニングの進行や効果を妨げている例も多いから注意することです。

Before→After

1.高い声が出ない→高い声が出た

2.大きい声が出ない→大きい声が出た

3.声がかすれる→声がかすれなくなった

4.声が疲れる→声で疲れなくなった

5.声が弱弱しい→声が強くなった

6.声が出しづらい→声が出しやすくなった

7.声が途切れる→声が途切れない(途切れにくくなった)

8.声が悪い→声がよくなった

このうち、1の声域、2の声量は、相対的なものでしょう。「まわりの人に比べて劣っていたのが、人並みになった」のか、「自分の中で出しにくかったのが出しやすくなった」のかでも、どちらもあいまいです。高い声も大きな声も人間としての限度もあるし、その人の限度もあります。無限ではありえないのです。さほど使わないし使えなくとも、深さ、奥行き、余力、余裕としてある程度は必要です。

しかし、ビフォーアフターでみるなら、「前よりよくなった」で充分かとも思います。

 その人の中では、トレーニングも、レッスンも、やると、やらなかったよりも大体はよくなります。相当きちんとやってからレッスンにいらっしゃる場合は、伸びしろが、それほどないこともあります。しかし、その基礎ができてから、することは無限に出てくるのです。

 

○「うまくなる」という目的の程度問題

 

 英語を学ぶのに「先生について勉強したらうまく話せるようになりますか」と聞いたら、「必ずうまく話せるようになる」といわれるでしょう。学んだことのない人は、レッスンするごとに毎回少しずつ話せるようになります。そのことばは間違いではありません。しかし、ニューヨークに行って不自由なく通じるには、1、2年では無理でしょう。高い目的からみたら、全く通じないはずです。スタート時がどのレベルかで大きく違いますが。

 声や歌も誰でもそれなりに使ってきて、経験しています。ですから、外国語の語学より複雑です。身近な例として日本語で考えてみましょう。日本語をもっとうまくなりたいと思ったら、あなたはどうしますか。混乱しませんか。話し方教室に行けばよいのでしょうか。日本語教師養成講座でしょうか。そこなら外国人に教えるための知識が学べます。相手の国によって教え方も異なります。一口に日本語といっても、漢字、故事成語、敬語・・・いろんな分野がありますね。

 声も歌も同じです。あなたが何を求めるかで、トレーニングも専門も、やるべきことも進め方も異なります。

 私は、このヴォイトレのビフォーアフターを、「『ヴォイトレをしていない声』が、『ヴォイトレをした声』になった。」ということで括りたいと思います。その要素のいくつかは、これまで述べた中に含まれます。でも、単に高い声や大きな声が出たから、ヴォイトレの結果が出たとか、ヴォイトレでできたというのは、おかしなことです。

 

○状態と条件によるレッスンのスタンスの違い

 

 今の状態での調整(バランス)と、今の状態ではできないレベルへの条件の獲得(強化)というのは、全く別です。トレーナーの高声の発声のまねをしたら、すぐに出せるようになったというのは、調整にすぎません。多くは、脱力と共鳴点への集中テクニックです。その先へいくためのスタートというなら、よいでしょう。

 そこでコツを得たつもりが、体や感覚の条件が整わなければ、それはクセとして表向きのやり方で、音を届かせるだけの発声をつけたということです。

 レッスンとして教わるのですから、すでに教わったやり方でやるということがしぜんなことでないと考えるならば、副作用としてこのクセを許容してスタートしていくのは、悪いことではありません。

 ただ、高い声を出すことが目的の人は、このことで目的がかなえられたと思い、このくせをスキルや技術(テクニック)と勘違いするのです。

 元々、目的の取り方が「高い声を出す」というのがよくないというか、そんな副次的なものをメインとするところでおかしいのですが。

 

〇まねてうまくなることを疑う

 

 歌をまねるのも、その人の体や感覚に着いていない形をトレーナーから表向きに移行し、植えつけただけだからです。

 これらは皆、同じように上手になろうという学校教育と似た話です。ここで取り上げるまでもないことです。絶対音感に価値があると思って、そのための勉強することと似ています。先生にそっくりをめざす小・中学校の合唱団をみるとよくわかるでしょう。

日本人のそういう確からしいものへの好奇心は強いのです。検定や資格マニアも多いです。何の意味もないが、基準としてわかりやすいもの、その基準だけを単独に取り出せるものを他人と同じようにやりたいということです。ですから、スタンスの問題です。そういうことが、レッスンにおいても、意味を問わずに目標として絶対視されてしまうのです。

 私はスタートは何でもよいと思います。そこから自分のものにしていく、身につける努力をすればよいのです。しかし、それがわからないから、こういう人たちは、さらに次の仮目標(この場合なら、もう1、2音高く音を出そう)に興味をもつのです。トレーナーもまわりもそんなことを評価し、ほめてくれるからです。外国語を、覚えた単語数で誇る日本人です。

 もっとも大きな問題は、主体的になるレッスンで、そういう目先の効果を基準にすることで、他人(トレーナー)判断=価値観依存になってしまうことです。

 

○目的と現実問題を捉え直すこと

 

 大切なのは、一音でもトレーニングした結果の声が出てくることです。つまり、トレーニングをして、「トレーニングしていない人には出せない声」にするということです。

 高い声を出そうとしたら、簡単に出せる人がたくさんいるのに、できなかった人がそれを無理に出そうとすることに年月をかけていると、早々に限界になるわけです。できて当たり前、だからやらなくてはいけないということではありません。中途半端にできても、強みにならないということです。

 カラオケの上達法は、今では、高音やファルセットをそれらしく使えるようにすることに尽きます。そこでもっとも簡単なのは声を弱めてマイクのリヴァーブに頼ることです。

 しっかりとした声を身につけたいと思うなら、そういう目的には、あまり関わらないことです。弱めるだけでは結果として、あなた自身で本当の個性(個声)を出せずに終わるのを選んでいることになります。体から表現できるしぜんでパワフルな声の可能性は、眠ったままなのです。

 絶対的に自分の声がトレーニングされていくこと、トレーニング以前と一声で、一聴きで違って聞こえるレベルにするということに一時、集中してみてください。それが私の考えるヴォイトレのベースとなります。

 

〇声の質

 

 声域重視(特に高音)の考えは、向こうのすぐれた歌唱をする人のコピーからきたものにすぎません。現に、オリジナルのアーティストたちは、語りかけるようにもシャウトしても歌えているではありませんか。それなら、そのように歌える声の獲得が先でしょう。まず声の音色、次に声量は、ヴォイトレに入るなり、忘れてしまうのですが、優先することです。

 目先の目的に価値をおくと、トレーナー自身も気づかないうちに、いやむしろ、相手のために親切に頑張るほど、トレーニングの大半の本当の問題を刷りかえてしまうことになります。

 それがわかっていても、相手が求めるからと、対応しているトレーナーも少しはいます。対応すべきは、現実問題です。

 何よりも一声を変える方が、声域声量などよりも大変だし、わかりにくいです。時間もかかります。わかりにくいのは、低レベルでの格闘だからです。

 素人にもその違いは一声でわかる、それだけの声でなければ、どうしてトレーニングの成果といえるのでしょう。

 鍛えられた声の見本は、CD、DVDにいくらでもあります。私は今、能、狂言、歌舞伎の演者に接しています。そこでの第一人者は声の質だけで第一人者です。

 トレーニングされた声を示せるトレーナーが、少ないのが問題です。鍛えられた分、個性的で、アーティスト性を帯びるケースもあるので、そこはメリットとデメリットがありますが。

 

○体でみせる声の基準

 

 欧米のヴォイストレーナーにも、声のよしあしでは二通りいます。少なくとも私は、声で示せないトレーナーのいうことはあまり信じません。声で伝えているのですから、能書きも理屈もいりません。そのようにして出来上がっている体、感覚はしぜんですから、簡単にまねしようありません。

 そこでときおり、トレーニング中の人の声のビフォーアフターを聞かせていました。あなた自身の声(のど)とは違うので、そのままでは参考になりません。しかし、ヴォイトレを本格的に行うと、声自体が変わることは知って欲しいのです。

 声の判断にも好き嫌いは入ります。私の声が嫌いという人もいるでしょう。私はいつも歌も声も学びたいなら、好き嫌いでなく、優れているかどうかでみることを勧めています。私は自らの声でそれを示してきました。優れているにもいろいろあります。よい声、心地よい声、タフな声、その他。

 残念ながら、声の本質やその形成のプロセスをよく知るトレーナーはあまりいません。(外国人のトレーナーは、日本人については、自分たちがしぜんと獲得してしまった声の形成のプロセスを示せません。)

 

〇ベターからベストの声へ

 

 声の深さ、息の深さの見本を私は、示しています。すぐにはまねられないから、トレーニングが必要なのです。

 そんなことをしなくても素質と育ちに恵まれた声をプロレベルでもつ人もたくさんいます。そのようにできる人はそれを使えばよいのです。海外でも日本でも、ヴォイトレなしに一流ヴォーカルとなった人はたくさんいます。

 私のヴォイトレは、一言でまとめると一流の声の持ち主のプロセスを凝縮したものです。そういう人は、私のヴォイトレを自分でしていたことになるのです。

 トレーニングというのですから、負荷をかけ、それで器(体、感覚)を大きく、強くします。ヴォイス=声(のど)に負荷をかけるのは誤解です。のどの筋肉、呼吸筋、体の筋肉などを鍛えるのです。

 急にハードに行うと壊しますし、副作用も出ます。そこはチェックしなくてはなりません。そこは一人では難しいです。自分で自分の声をみるのは無理です。だから、トレーナーとのレッスンなのです。

 私はそれぞれの人に「今、調整して使えるもっとよい声(ベターな声)」と、「今からトレーニングして得られるもっともよい声(ベストの声)」があると分けています。現に、私のところのトレーナーも、俳優、声優の第一人者も、声は声としての完成度をもっているのです。(話し声も応用性に富んでいます)

 学校の先生や医者、言語聴覚士、演出者、プロデューサーなどのいう、よい声は、「ベターな声」にすぎません。声自体は、「ベストの声」に値していない、一般の人と同じことも多いです。それはそれでよいのです。なかには、体やのどの弱い人もいます。

 

○動きの理解とトレーニングの実践は違う

 

 いろんな器具やメニュを使って、発声のシステムをわかりやすく知ることはよいことです。それは一つの気づきのきっかけにすぎません。その後のトレーニングに結びついていないことがよくあります。

 私は技法を教えるときと、実践としての実力をつける練習とは、分けています。レッスンとトレーニングの違いについても、きちんと知ることです。

 トレーナーさえ、気づきのレッスン=トレーニングと思う人が多くて困ります。たとえば、私が既刊書で述べてきたように、「できる限り長く息を吐く」ようなことは、チェックです。トレーニングではありません。気をつけないと、それを使うと悪いくせがつきかねません。トレーニングでは、短く息をくり返し吐く方が実践的です。こうしたことも目的やその人の状態によります。無理やりにのど仏を下げさせたり、のど仏を押させるようなトレーナーもいますが、一つ間違えると、大変に危険なことです。トレーナーがついているときはトレーナーの意図によりますが。

ストレッチも使い方によっては、効果的ですが、そのあとにすぐに発声するのはよくありません。直後では、リラックスにはならないからです。こういったことは、たくさんあります。

 

○緊張とメンタルの問題

 

 レッスンで緊張するのは、私はよい実践経験と思っています。ときにリハーサルのつもりで挑んでください。

 しかし、これも目的と相手によります。極度に緊張しやすい人は、それにふさわしいトレーナーで始めさせます。そこでリラックスできるからといってうまくいっているのでありません。ケース別の導入(対処的)の一手法にすぎません。次の段階では、改めていくべき課題をそこに内包しているということです。

 

○トレーニングの完成と歌

 

 完成というのは、どこまでのことを指すのかによって違います。歌がうまくなったのを完成とすると、トレーニングはそこまでのものとなるのでしょうか。歌がうまくなるというのは、どこまでかと考えると、わからなくなりませんか。あえていうのなら、歌もトレーニングも本人が必要とするところまでです。必要があれば限界もあります。

 現実的な対処としては、意識的に集中的かつ部分的なトレーニングをするとき以外は、そのときどきの完成を歌に求めてチェックするとよいです。

 一人で行うときは、よほどの確信がなければ、トレーニングのために歌がうまくいかないことが生じたとき、やめてしまいます。普通は生じるものですが、多くの人は、そこでうまくなることばかり求めるので、間違ったと思います。そしてバランスだけをとります。トレーニングにならないのです。発声について、初心者はトレーニングのセッティングの位置づけがなかなかとれないものです。

 トレーニングはトレーニングとして、基礎条件をアップさせるので、体、呼吸、声を惜しまないこと、それが後で効いていると考えましょう。今の歌の完成度は別に問うてください。

 

〇基礎と応用

 

 私はトレーニングは基礎、せりふや歌は応用としています。器をつくるのに鍛えて大きくするのと器の中で整えるのは違います。私の考える声の基礎づくりのためのヴォイトレは声そのものやその声の動き(オペラでの勝負どころ)に反映します。

 しかし、現実のステージでの音響効果、加えて演出やパフォーマンス効果が大きくなりました。そういうステージ向けの歌を目指すと、声はその初期条件をつける、たとえば体から出る声を呼吸で完全にコントロールすることなどよりも、声の使い方や声に乗っている気持ちや詞の伝え方などが優先されるでしょう。発声もバランスや柔軟性の方が、声の動きもひびきの集約度が問われるでしょう。

 ちなみに、カラオケ教室などでは、ヴォイトレといっても高音の共鳴などに一喜一憂しておわっていることが多いようです。それが悪いとか間違っているということではありません。そこから入るのはよいのですが、それを目的としては、そこまでになります。

 歌を早く上達したい、上手に歌いたいというなら、そういう制限(限界)を早く作った方がまとめやすいのです。それがよくあるマニュアルですが、それで全てと勘違いしてしまうのです。

 

○トレーニングの目的

 

 トレーニングはすぐに役立たないことを行うこと、そこで、できるだけ大きな器、つまり余裕をつくることです。形だけで左右されない実をつくる、その懐を深くすることが本来の目的です。

 具体的には全力で歌っても、その声(たとえば歌)ですが、その限界を他人に見極められないようにするということです。それがその人の懐、奥行きとなります。さらなる可能性の暗示、ひいては見えない魅力となり、飽きられない表現力になります。不調のときでもカバーできる力(フォロー、余力)となります。

 私がプロとのトレーニングで目指してきたのは、今すぐの歌唱力の向上よりは、こういう器づくりです。将来に大きな可能性が開かれてこそ、基礎づくりです。

 出ない声を出そうと頑張るのでなく、出る声を完成させて表現しつくすことです。それができる声、呼吸、体づくりを目指すのです。

 ですから、歌唱指導者の多くが、歌のために出ない声(特に高音)を届かせることを第一の目的としていたのとは、異なる立場です。

 すでに充分に出ているとみえる声さえ、一流の声との差をみつめ、大きなギャップのあることを知ることです。まずは一声を、一音ずつ埋めていくことです。その中で繊細な使い方を知るために、大きく出せるようにしつつ、音楽的感性やフレージングを伴わせていくのです。

 

○見本をみせることについて

 

 このテーマは意外と、大きな問題です。ケースによって大きく異なります。そのことを前提に述べます。私のやり方についての、背景となる考え方を語れると思うからです。トレーナーを多数抱え、全国のトレーナーの質問も受けている立場として、どこかで詳しく扱う必要を感じてきた問題だからです。

 私の研究所では、見本をみせることについて、トレーナーに権限を与えています。どちらでもよいし、相手によって変えてくださいと。少々無理をすれば、レッスンでの見本の実状は、次のようになります。

a.いつも見本をみせる

b.ケースによってみせる(相手、メニュ、年月、分野)

c.特別なケースだけみせる

d.見本をみせない

 邦楽やクラシックの人には、見本をみせないトレーナーがいるのは、信じられないかもしれません。ポップスや俳優、声楽家などでも、aのやり方のトレーナーは、dはありえないと思うかもしれません。私自身は、bとcあたりを中心に、グループレッスンなどの形態ではdでした。私の場合、音源もですが、他のトレーナーを使えるからということもあります。

 私のレクチャーは話中心で、実習をさせる時間より、キィとなるところをみせていました。今の私はトレーナーをプロデュースする立場になり、実習の機会は少なくなりました。

 年齢や声の衰えのせいではありません。多忙で体調が悪くなり、自分の声に不安を覚えてからは、自分のメニュを組み、リハビリをし、調子を取り戻しました。

 歌わなくなったために、声が衰えた歌手出身のトレーナーを見てきました。歌に専念していたら、これほどにも声の力は低下しなかったでしょう。加齢のせいにみえるかもしれませんが、天性でうまくいってしまった歌い手ほど、声の管理はうまくできないのです。人前で歌う機会が減り、よくない状態になることが日本では一般的です。日本のお客さんの音声表現に寛容なことが裏目に出ているといえます。

 

○トレーナーの声の完成度と歌手との違い

 

 私自身はトレーナーが常に完璧で、完全な声の体現をしなくてはいけないとは考えていません。私も常に自分の声を整備し直しています。邦楽の指導の準備もありました。

 多くの方は、教えている人は、教えられる人よりもずっとすぐれていると考えています。声についてもそうでしょうか。歌や大声、高声、演出、伴奏などで、あいまいになっていませんか。

 邦楽・オペラは、師や先生の元、弟子や生徒という、年齢もキャリアも実力もおよそ教える人の力よりも下の人が学びにきます。

 しかし、すべてがそうでしょうか。一流のシンガーをみている欧米のヴォイストレーナーは、少なくとも、歌においては、そのシンガーに劣ります(何を歌というのかによりますが・・・)高齢のオペラ歌手が、全盛期のプリマドンナを教えるときに、声ではかないません。全盛期にも、その弟子以上にできていたとは限らないのです。

 歌とヴォイストレーニングは、専門分野として違うのです。レッスンで教える関係、能力を見抜いたり、引きだすという関係は、多くの人が考えるほど、ワンウェイではないのです。

 関脇止まりの親方に、横綱大関の指導ができないわけではありません。比べものにならないほど難易度のあがっていく体操やフィギィアスケートの若い選手を、20年前の選手は、そのプレイができなくても指導できます。試合で活躍したことのない選手に、全日本の監督やコーチはできないということもないのです。

 どんな分野でも本人ができることと、教えることは必ずしも一致しません。できなくともできる人よりも教えられる人も、できるのにできない人よりも教えられない人もいるのです。

 

〇プロヴォーカルとヴォイトレ

 

 私のところに来ている、大ヒット曲をもつプロのヴォーカルは、「とても他の人には教えられない」といいます。私は彼を教えているのに、彼のようには歌えません。でも、彼は私に長くついています。自分は教えられないからと、新しい歌手を紹介してくれます。教える気がないのでしょうが、それも一流の歌手ゆえと思うのです。

 私は歌手を目指す人には副業としてのトレーナーを勧めていません。結論からというと、一流となると歌手は、それゆえに教えられないという、相反するのが、ヴォイトレの分野とも思うのです。

 ヴォイトレに携わる人の中には、歌手や俳優(もしくは元○○)兼トレーナーの人もいます。実経験は大切で必要なもので否定しているわけではありません。しかし、第一にメンタリティの違いがあると思うのです。

 一部にある「トレーナーはプロの歌手、俳優の経験者でなくてはできない」という批判は、本筋を外れています。アスリートと両輪であるパーソナルトレーナーは、一緒にプレイするチームメイトとは違うのです。

 私も過去、いくつかの大きなステージの経験があり、その感触が指導に役立ってはいます。プロとしてはもっと場数を踏んでいます。私は自分の歌やせりふでプロ並みの力がついたときに、自分よりもすぐれたプロたちのレッスンを始めたのですから、多くのトレーナーやカラオケの先生と始点が違います。

 イマジネーションで理解するのに、プロの100の経験を1の経験でもって凌ぐ、100倍のイマジネーションがなくては、トレーナーは務まりません。

 どんな分野にも監督兼プレイヤー(プレイングマネージャー)、演出家兼出演者、という人がいないわけではありません。プレイヤーは、弟子をとる人も多いでしょう。それが声の問題になると、かなり複雑になるのです。

 他人の声を扱うと、自分の声にも必要のない負担をかけます。音大ではある程度のキャリアを経て教わると、音大生相手だから、やりやすいと思われます。本人の歩んできた道だからです。

 

○体から声を出そう

 

 ヴォイストレーニングの中核は、「体からの声を出しましょう」ということです。体から声が出るというのは、その人が何かしゃべっているだけで、お腹から声が出ているのがわかることです。欧米人にはふつうの人でもそういう人はいますが、背中から声が聞こえるということです(背後にまわっても)。英語の発声を、聴覚を鍛えることから入るアレフレッド・トマティスのメソッドでは、その違いを明瞭にしています。

 

○研究所のジレンマ~理想と現実[E:#x2606]

 

 充分な声が出ても歌やせりふは、一段の応用レベルです。しかし、そのベーシックな声が出ない人が多いのです。日本人にはほとんどいない、そういう声の発見と育成からスタートするのは、基本中の基本です。

 バレエでいうと、一本足でまっすぐ立てるとか、片足が頭の上まであがるなどということにあたります。それができたらステージにバレエができるわけではないのですが、そうでないと何もできない、基礎レッスンで実力の差が一目でわかるということです。

 次に、音楽的な耳のつけ方です。これは表現のうち、音声を聞き続け判断してきた私が基準とする耳の力をつけることです。一流のフレーズのメニュを聞いてコピーして身につけていくとよいでしょう。遅く始めてプロの耳に追いついた私だからこそ、そのプロセスが伝えられるのです。

 考えてみれば、研究所は根本的な発声が、声優、お笑い、俳優、エスニックから邦楽と、しぜんな声(リラックスして響かせるなどというレベルでなく、体から伝わってくるように鍛えられ、吟味されたレベル)を求める人たちに支持されて続いているのです。

 私と逆の価値観や立場もありましょう。私はそれにも大きな期待をしていたのです。しかし、どうもそれはかつてのカラオケや歌の先生のようなものとわかってきました。表面を変えるので速効性(楽に、早く、よくなる、すぐうまくなる)はあります。しかし、それゆえあるレベル以上に抜けていかないのです。

 他を否定しているわけではありません。それでそのまま、それなりにうまくいく人もいます。多くの場合、気づかないうちにくせをつけてしまい、そこで限界となるのです。これを発声の根本からみるのです。

 日本のポップスの多くの歌手は、このくせを個性としています。日本には、声が人と違う(一人ひとりが違うというレベルに過ぎない)ことで、オリジナリティとみられます。ことばやストーリーでもたせるステージがほとんどだったからです。

 声そのものの育成、養成は使い方、あて方、抜き方、ひびかせ方などではありません。自分の音として楽器レベルでの音声をもち、演奏として自分の音を奏でるということです。あくまで完全な演奏能力を扱えるレベルでのオリジナリティであるべきというのが、私の考えです。そのメニュは「ハイ」で、半オクターブで、充分といえます。

 速効性のある方法を、否定しているのではありません。名ばかりのプロ歌手相手に、現場でそれをもっとも求められたのは私だったからです。それに閉口して、無名の人が、一から学べる研究所をつくったほどです。

 しかし、ここでもそういう要望が大半になってきましたし、今はさらにその傾向が強いのです。その結果今のように海外では通じそうもないヴォーカルばかりになったといえます。向こうを追いかけるヴィジュアル系での、日本独自という別のアプローチは音声で問うヴォイトレからスルーしてのことですが。

 私は理想は理想として、現実には求められることに対応しています。ここのトレーナーは、もっと、一人ひとりの要望に応じています。

 トレーニングはベースの声づくりです。しかし、相手の要望によって、柔軟に対応しているのです。一見、そうなると他のところと同じことのようでも、そういうことを知ってやるのと知らないでやっているのは、天地の違いがあるのです。

 こういったことが区別できないレベルで行われてきたのが、ヴォイトレです。状況に合わせ、声の使い方、つまり状態だけを変えるために調整します。つまり基礎条件が身につかないヴォイトレです。

 最近のヴォイトレの本をみたら、そのタイトルに驚きます。編集者は一般の読者の代表ニーズにそって、タイトルをつけます。それが本当に表面的なものになってしまっているからです。

 

「すぐれているものをとり込むには」

○進化と退化

 

 ゴルファーについての話です。これだけ道具、ボール、テクノロジーが進歩しているにもかかわらず、20年前とアマチュアのハンディキャップは進歩していないというショッキングなデータがあるそうです。

 コンピューターで分析するほど、枝葉末節に関わり、多くの人が悩んで迷ってしまっているからです。

 これは歌や役者にもいえます。科学や分析、理論、技術ということばが一人歩きをはじめています。底辺のレベルはそれなりにあがったと思いたいものの、大成する人は、少なくなっています。

 声や歌において、スポーツやダンス、バレエのように、世界レベルでの活躍ができる人や天才スターは生まれそうにありません。レッスンの変容をみているとよくわかります。

 

〇ていねいでテクニカルでだめ

 

 他のスクールによばれることがあります。すると以前のように、黙々とやらせるような放任的なレッスンや、叱ったり、無言だったりする厳格なレッスンは、みられなくなってきました。それに代わって、分析やメカニズムを説明するテクニカルな傾向が強まりました。発声のしくみや原理、メカニズムに関する”科学的”ということばが、よく使われるようになりました。欧米とかの海外のトレーナーの流れも出てきました。かく言う私も、またがって展開していましたから、批判できませんが。

 こういう流れは、創成期から停滞して、膠着期になると出てくるものです。そこにそのまま、のっかっているのです。

 いらっしゃる人が一般化するにつれ、アーティストが、生徒となり、お客様化していく。そうなると、レッスンの方針もマイナスを凌ぐプラスをつくることよりも、マイナスをなくすことにばかり目がいくのです。お客様は、「安心、確実、わかりやすい」が欲しいからです。トレーナーもその流れに合うような、タイプに変わっていきます。型破りなアーティストから、先生になり、今や、カウンセラーや販売員のようになってきました。憂うべきことです。

 

○嘘になる

 

 トレーナーにすぐに「何がよくて何が悪い」「どうすればよいのか」を知りたいという人が多くなりました。それに対し正直に「全部悪くてよいところは一つもない」などというトレーナーは、いなくなりました(というより聞かれなかったし、言う必要もなかった)。つまり、そこをあいまいにするかほめるようになります。

結果、期待レベルが下がるのです。すると次に、そこがよくない、わからない、確かでないということもいえずに、よくないものさえよいとみてしまうようなトレーナーも増えるのです。「知ってしてしまう」でなく「知らずに言ってしまう」のです。(わからないというより、わからないことがわからない)嘘のない分、困ったことです。

 それで、誰も困りません。トレーナーは生徒と、良好な関係になります。力はあまりつかないとなります。嘘になるのです。

 時代とともにレッスンも受講生も変わりました。変わったのはトレーナーです。もっとも一般化、大衆化したのです。

 

〇科学的対応とは

 

 私が一貫して、耳を鍛え、一流のものを入れ、感覚を磨き、体を変えるということを主張してきたのは、「何が悪いか」を知り、直すためではないのです。何がすぐれていて、何が劣っているかを、いくら科学的に、技術的に説明し、生理的、物理的に理解させても、何の力にならないということを知っているからです。

 そういうことが言えるのは研究所は、どこよりも早くから声の分析器や人体の模型、解剖図などを入れ、専門家と共同して、声の科学や医学の研究を最前線で続けているからです。誰よりも、理論や科学的な裏づけを求め、まわりから求められてきたのは、私であったからです。

 

〇わかりやすさのワナ

 

TVや本や雑誌の取材や依頼では、目でみてわかるようなメニュや方法を求めてきます。そこにうまく対応していったトレーナーもいます。一般の人に初歩的にわかりやすいということは、トレーニングのスタートラインに立てることとは別です。そこを勘違いさせるテクニックを求められるのです。そこで私は今のワークショップやそういうツールにあまり肯定的ではなくなりました。

 私がずっとトレーナーを十数名を束ねている立場として、適切な判断をするためです。その人にできる範囲とできない範囲、他の人(他のトレーナーや専門家)に委ねるべき範囲を知り、もっとも適任な人や方法を求めたり選んだりするためです。そういうことを、レッスンを受講する人は知らなくても、かまわないのです。そのために私の元にトレーナーがいるのです。

 

〇本のメリット

 

 独自にトレーニングをする人が本などで知識を得るメリットとしては、急いで、独りよがりになるのを保留する、思い違えたまま、違う方向へ行き過ぎるまえに、トレーナーの元に行くことで、防ぐ効果はあります。

 たとえば、声は力で出すのではないことを、生理学的に知ると、正しい理解でのイメージづくりになります。もっとよいのは、一流の作品群から、それと共通している理想のイメージを得ていくことです。

 悪いのをよくみえるように表面的な誤りだけ正していくのは、あまりに低いレベルです。これは基礎といえないのです。最も高いことを支えるための力が基礎力です。それをするためでなく、それができるようになるためにトレーニングをするのです。

 

○ヴィジョンの大切さ

 

 時代と音楽と自分と、三つに分けて考えてみましょう。ヴォイトレは、本来の自分の潜在的能力を出し、その可能性の最大のところへもっていくために行なうものと、私は考えています。

 ゴルフでいうなら、理想のイメージをするのと、それで一回だけでもよいから、理想のインパクトを体感することが第一歩です。一人では、よほどの人しかできないから、そのプロセスづくりとしてトレーナーがいるのです。

 トレーナーのいうことは、形ばかりで複雑で、というのなら、歌でも歌っていた方がよいのではないでしょうか。複雑なメニュや広い声域でやるのなら、少なくとも声のためになりません。よく知っている歌のほうがシンプルの基礎練習になる、とつっこみたくなります。

 歌を何回も歌っても、それ以上にならないから、声の問題に戻してレッスンをするのです。

 

〇必要条件で満足しない

 

 トレーナーが、難しいこと、できないことを与えて、それをこなしたら、上達と思わせているようなことも多いのです。できないということは、トレーニングの必要性を知るためによいのです。できる人がいるなかで、できないなら、到達目標はできます。しかしそれでやることがよいのではありません。

 早口ことばをマスターしたら、ベテランのアナウンサー並みになれますか。でも、その練習を行きづまるまでやるのはよいのです。できたような錯覚を与えることで留まるのがよくないのです。

 すべての基礎は、本人ができていると思っていることがいかにできていないかを実感させることからです。明らかなギャップを知り、それを埋めるきっかけとプロセスを示していくことです。

 その上に理想のイメージへのアプローチがあるのです。悪いところを直すといって直っても、大した力にはなりません。

 

〇ヴィジョンの違い

 

 安易なレッスンがカラオケのレッスンではメインでしょう。最後まで歌い切れるレパートリーを増やすことが上達と思う人がとても多いです。確かに、最初の1、2年や50~100曲くらいまではそれでもよいでしょう。そういうのは、慣れです。人並みになるプロセスですからトレーニングでなく、慣れなのです。そこをもってヴォイトレと思う人がトレーナーにも多くいます。

 高い声をすぐ出せるようになるなどというのもこの類です。問題はそこからなのに、高音、2オクターブを3オクターブとがんばっているような人たちです。がんばらせているトレーナーもいます。

 やれない人がやれるようになっているのでなく、やっていない人がやっただけの成果なのです。結局、やっていない人よりもできるようになりたいのか、やっている人のなかでできるといわれるようになりたいかの違いともいえます。これもヴィジョンの違いです。単にデビューしたいか、生涯活躍したいかの違いです。

 

〇早く行きづまること

 

 行きづまってまでやらないうちにレッスンにくるとそうなりがちです。早くくるのが悪いことではないのです。レッスンで早く行きづまればよいのです。誰でもトレーニングになるためには時間がかかるものです。レッスンでトレーニングの本当の目的やプロセスを知るのに、時間を惜しまないことです。

 器用に対応していった人ほど早く頭打ちがきます。そのやり方でのりこえた分、そのやり方を離さないと、上にいけないのです。その必要性を感じなくなるから伸びないのです。そこを指摘するのが、トレーナーの役割です。

 即効的なものほど応用の応用です。くせやくずれになるから、基本に戻し、固めたのをとらなくてはいけないのです。でも本人は、その位置づけがわからないから、うまくなったと満足して、そのままで前に進みたがるのです。これを自分で把握するのは、至難の業です。

 

○声の力はついたか

 

 ピアノがとても上手でうまくて歌がうまく聞こえるように弾いてくれるトレーナーもいます。生伴奏で歌うのが好きな生徒さんにはよいでしょう。トレーナーがピアニストを兼任してくれるからです。でも、その分、声のチェックは疎かになっているものです。それでうまくいく人は、本当に素質があり、よい発声にめぐまれた人だけです。昔のプロには、そういうタイプの人が多いです。実践しつつ、自ら気づけて伸びた人です。トレーナーがいないからよかったといえます。

 トレーナーがあなたに出せない声域や声量、ビブラート、ひびきなどをみせて、それを目標にするなら、自問自答してください。その声で感動できるもの、可能性があるでしょうか。

 ちまたでは、そんなメニュができたらトレーニングなどいらないというような難しいメニュや方法に挑んでいる人が多いです。間違いとはいいません。そこから入るのもよいでしょう。それがどのレベルでやれているかをみなさいということです。

 誰でも、1ヶ月あれば落語も漫才のネタも覚えられます。しかし客を感動させて帰せますか、ということです。あなたの声は本当にしっかりと伝わるようになっていっていますか。

 

〇声の力とは 

 

 少なくとも私の考えるヴォイストレーナーは、ひと声、ひとことで、あるいは「アエイオウ」「ドレミレド」だけで大きな基礎を学ばせる力がなくてはならないと思うのです。

 せりふや歌は総合力です。リズムや音程、声域、声量、声の使い分けや、いろんな音色の出し方もトレーニングに含まれるのですが、その基礎は感覚、体、発声そのものです。

 理想のイメージを少しずつ実感できるようにしていきます。それを100日に1日、100回に1回から10回に1回と、精度をあげていきます。最終的に身体やのどの状態が悪くても、確実にできるようにしていくところまで必要です。シンプルなメニュをあくなき繰り返すことで、確実にしていくのです。それが、最も高いレベルに結果として早く到達するプロセスだと思います。

 ゴルフではトッププロさえ、毎日50センチほどのパットを50回連続で入れるようなトレーニングをしているのです。一人で打ちっぱなしばかりして、10回に5、6回バットが入ればよし、あとは難しいコースばかりまわっている人は、いつまでたってもうまくなりません。繊細さや緻密さ、ていねいさを欠けたままだからです。しかし、ヴォイトレでは、そういうことが当たり前のように行なわれています。

 シンプルな反復練習をしていますか。それが少しずつ深くていねいに、確実になっていますか。

 私は、本の読者やレッスン生にそういうことでトレーニングを問うように述べています。メニュが変わるのでなく、同じメニュに対して、あなたの声の質が変わっていくのです。

 

○シンプルに難しく

 

 私の述べたことを読んで、よくわかったとお礼やコメントをいただきます。

 いつも「難しいことは、それ自体がおかしいからやりなさるな。」「簡単なことがどんなに難しいかを知っていくようなトレーニングをやりなさい」といっています。

 難しいことを難しくやっている日本人は、もっと難しいことを簡単にやれている向こうの人に勝てません。どうしてでしょう。シンプルな第一声で、すでに誰もがわかるほど明らかに負けているからです。

 簡単そうにみえることがいかに難しいかというセンサーがないことです。

 次々に難しいというよりは、ややこしいことや複雑なことばかりやっていこうとするからです。それをレッスンとかトレーニングと思っていませんか。スキーヤーや登山家なら大けがで命をおとしているでしょう。そういうトレーニングやメニュや方法を形だけで評価する人が多いからです。

 真の表現の成立に、声、ことば、音楽、それぞれ、きちんとくみ上げていく労力を毎日、惜しんではいけないということです。

 次の3つのプロセスを頭に入れておいてください。

1.理想のイメージ

2.イメージと現実との接点づけ

3.その接点から確実に強化していく

 神経回路-感覚をつけ、足らない筋肉などを補い、使い方も柔軟に自由にできるようにしていくということです。

 

〇できないことをやるな

 

 高い声を出すためのような本が、最初から高い音域のメニュで書かれている、そのような本がよく売れる程度ですから、まずは、本質に気づくことから学ばなければなりません。

 できないことはできません、できたら不思議、おかしい、どこか間違っている、と思えばよいのですが、そこがマジックのようにわからないで、間違いさえ生じさせない低いレベルでの対応になっているのです。本当に大きく間違っていたらステップアップできる可能性があります。大きく間違えることさえ、できないトレーニングがよくないのです。

多くのトレーナーは、自分のことは棚にあげ、自分のように相手をしたいと思い、そうすることがあなたの上達と信じているのです。それはトレーナーの指導テクニック上の上達にすぎません。トレーナーのことばにのせられないように。

 できるところでできていないことをきちんと感じて認めましょう。そこを克服していくことです。

 

○間違いを恐れるな

 

 私の思う個性やオリジナリティは、その人以外の(トレーナーも含み)すべての人がやったら間違いというものです。本人だけにあてはまるのですから、その探究のプロセスは、他の人がみると間違いだらけ、その中であなたが勘づき、他人が間違いといえないところまで深めて提示し、納得させてこそ成立していくのです。

 できないことは、できなくていいのです。これまであなたはそう生きてきて、そのように声を使ってきたのですから、トレーナーのいうようにできないことができたらいいというようなものではありません。

 あなたのよいところをもっと出して、その上で、伸ばすようにすることです。よいところを探しまくりつくりまくることです。今もっているものをどこまで完全に使い切るかを考えてください。それがどれだけ大切で全てであることを知ってください。

 

 今、もっている以上の声域や声量は、その範囲をよりよく使うために過度に学んでおけばよいことです。余力、余裕となります。使う必要もありませんし、大して使えなくてもよいのです。

 

〇自分と向き合う

 

 トレーナーと向きあうまえに自分と向きあいましょう。レッスンも本も、そのためにあります。トレーナーもそのためにいます。そしたら「声域を3オクターブとか5オクターブにしたい」などということは考えなくなるでしょう。私は「ハイ」「ラー」「ラーラーラー」「アエイオウ」「ドレミレド」に何年かけてよいと思います。そこで体も呼吸も感覚も筋肉も変え、ていねいに100%コントロールできるようなことを目指していくようにするのです。私は10年で変わりました。それだけかかりました。

 応用メニュやせりふ、歌の練習を併行して進めていくのはかまいません。これも接点や必要性を知り、軸をぶれないようにするためです。ヴォイトレのためのせりふ、歌は、声づくりが目的です。ステージのためのせりふ、歌とは使い方が違うのです。ですから、あえてレパートリーにしない作品を使わせることが多いです。

 

「レッスンとトレーニングの意味」

○レッスンとトレーニングの意味

 

 私のレクチャーはかつては4~6時間でした。今は20~40分くらいです。それでオリエンテーションも兼ねています。

 レッスンの目的をしっかりさせることは、自分のトレーニングを定めて、プロセスを歩むために必要です。

 レッスンの目的やスタンスは、あなたの情報(目的、キャリア、今の実力)で決めていきます。私が本や会報に多くのことを語っているのは、レッスン中、必要以上に話さないためです。レッスンからムダ話をできるだけなくすにはどうすればよいでしょう。私たちのところにいらしたらわかります。

 私がしゃべっておわったら、そのレッスンは私の負けと思っています。体感させられないと、ことばが必要になるということです。

 グループのレッスンでは、参加者や一流のアーティストのフレーズの声があれば充分でした。実演までしたら、そのレッスンは成り立っていない。トレーナーのショーです。厳しくいうとそういうことです。(レッスン前のオリエンテーションで実演することはありますが。)

 レッスン時間にレッスン受講生よりも声を出すトレーナーは、役者です。ステージの代わりか練習をしているのです。レッスン受講生は観客ではありません。トレーナーの歌や声だけ聞くなら、一流プロの舞台を、その分、繰り返しみることです。

 人の心を動かさない声や歌とはこういうものという反例ならよいのですが、重なるとそれが移ってしまいます。トレーナーがよほど気をつけないとなりません。

 

〇ヴォーカルのレッスン力

 

 ゴルフのレッスンプロの多くは、プロのトーナメントでは勝てない自分の立場や位置を知っています。しかし、ヴォーカルは、そうでないのです。ヒットしたからといって、他人に教える声は自分の声とは違う要因がたくさんあります。しかも、相手によっても違ってくるのです。自分自身の体験は、そのままで生きるのではありません。カウンセリングのようなアットホームな雰囲気が問われているので、ここもすごく温かくおだやかです。音楽は、コミュニケーションツールと考えるような若い人には、上から目線では力をつけることを阻害しかねません。今の受講生はそれを望んでいて、そこだけで評価してしまうのです。

 実力向上が目的なら、声そのものへの厳しい指導が必要です。誰でもできる声やせりふ、歌だからこそ、世に出るには、続けていくには、どのくらい厳しいものなのかを想像できるようになることからスタートです。

 

○トレーナーの評価

 

 私のところのトレーナーについては、レッスンごとに受講生が評価します。しかし、それとは別に、私は、プロセスと成果をみています。声としての成果が中心ですが、レッスン受講生の本当の目的に対して本当の成果です。

 プロになりたくてきた人はプロになったことが成果です。歌がうまくなるというのは、一つの条件にすぎません。私の考えるヴォイストレーニングは、単に声を出しせりふや歌をうまくするのが目的ではありません。音声表現で、他の人に働きかけられることです。そのために歌も声もあります。もっと有効なツールがあれば、それを使って成功しても成果です。声だけではなかなか成功をなしえないからです。

 

〇声に反映する

 

その人の意志、本質(内容)持続力、生活や考え方すべてが声に出てきます。レッスンよりも運動したり海外を放浪していたほうが、歌や声がよくなることもあります。それもよいことです。

 より大きな自然に身をゆだねると、声が自然と出てきます。そのためには邪魔しているものを除くこと、それをともに活かし切れていないものをもっと鍛えて磨くことです。それがトレーニングであり、それを知りにくるのがレッスンです。

 トレーナーは、そこに気づきを与えます。本人が知らないことを本人が理解しようがしまいと指摘し続けていかなくてはいけないのです。ことばでなく、声や楽器を使って感じさせてあげられたらベターです。

 

○レッスンの実とは

 

 私は無言で成り立っていたグループレッスンでの評価を、最後の頃は、一人ずつへのワンコメントせざるをえなくなりました。気づけない人が多くなってきたのです。自分を知らず、一流のアーティストの世界をのぞいた経験のない人が増えてきたからです。

 研究所をつくって、よかったと思ったのは、人間の声は、誰でもすごく魅力的にもなるし、すごい表現もできることにあらためて気がついたことです。そこからみるとトレーニングやレッスンやトレーナーの方に問題があります。それらにあまり振り回されないことも大切です。ことばで論じられて、立派なことに思えても、世の中、社会に対し、無力で声が届いていないことに、謙虚になることです。その前に届けようとしていますか。大声を出して届かないことに気づくことで、小さくも大きな表現ができるようになるというのならよいのですが・・・。トレーナーなら人を育ててなんぼ。人数を誇るのは愚です。あなたは一人でよいですから、どこまでの成果をもたらしましたか、ということです。

 

〇気づきのレッスン

 

レッスンでは、アーティストの演奏のかけあわせなどを加えました。一流といっても全ての作品が一流でないし、かけあわせなどで偶然にすごいものが伝わることもあります。一流アーティストだけでなくとも、声せりふ歌では、誰でもいつでもそのチャンスがあるということです。

 レッスンは、気づきを与えるためですが、多くは気づきが起こる環境づくりに過ぎなくなります。あなた自身への問いかけです。答えをことばで求めると、正解も誤答もなく、やっていく人には関係ないものです。あまり神経質にならないことです。

 何かを知るのは自分の至らなさに気づくためです。他人に対し優越感を味わったり、それを自慢して自己保全を図るためではありません。形にとらわれずに、実をみることです。形だけは間違っていなくても、うまいようにみえても実につまらない、心に働きかけないせりふや歌が、どれほど多いでしょうか。

 

○失敗する

 

 私は人を育てるとか教えるという立派な目的やそこから自己満足を得たくてやり始めたわけではありません。多くの失敗もしました。

 私自身は、今からみるとかなりのハイリスクのトレーニングで声を鍛えてきました。年間30勝以上(生涯400勝分)した金田正一投手の腕のように、声を酷使してきました。トレーナーになっても1日に12時間、使っていたので、日本のクラシック歌手や役者よりもよほど強くなったのです。

 30代になると外国人もお坊さんも、声がよいとほめてくださるレベルになり、ようやく目標達成レベルが視野に入りました。とはいえ、私の声は私自身がトレーナーとして客観視すると、大してよい声ではありません。耐久性にすぐれた声です。一種の仕事病かもしれません。

 甘やかされ気味のポピュラーと違い、お笑い芸人、邦楽やエスニックの人たちは、声に厳しいので、そこを耐え抜いてきた声になります。

 声は一声ですべてわかるので、私は声を専門にしてよかったと思います。どんな根拠があるかとか、科学的に正しいかとかではないのです。誰の前でも、一声、一秒で、声は実証できるのです。シンプルイズベストの世界ゆえ、私の性に合っています。

 

〇歌の成り立ち力

 

 日本にいると日本人らしく何曲か聞いてくださいという人に会います。表現力があるなら聞かそうとしなくても聞きたくなります。こちらからリクエストしてしまうものでしょう。相手の心に何の動きが生じないことに、歌手まで鈍感になってしまったことには悲しくなります。

 歌うというのは、何か特別な時空が与えられるように思うのでしょうか。マイクや楽器を持てば心に通じるかのような勘違いが、日本の音声レベルをひどくしました。

 ヴォイトレをしなくても、民謡から小唄、都々逸と一般の大衆レベルで高度に成り立っていたものがありました。国際化、舶来品大歓迎の流れのなかで、浅草オペラから美空ひばりを代表とする歌謡曲も、あと一歩まで行ったのに、今世紀には絶望的な状況です。あらゆる分野に根がなくなりつつあります。いまや、成り立っているのは、お祭りのかけ声くらいでしょうか。

 

リスクヘッジ

 

 トレーニングに、大声を使うかどうかは、相手の声の状況によります。何でも禁ずるのはよくありません。よくない結果が出たら、そこを指摘して、その判断材料か別のメニュを与えることです。判断は、いつか本人自身ができるようにしたいものです。

 崖の上から下を見たことのない人は、小さな崖をのぼって、1、2度落ちてみるのもよいかもしれません。トレーナーに判断されるのでなく、自らの感覚で知っていこうとすることが大切です。

 トレーナーにつくのは、いつも状況にふりまわされるのでなく、そうなりがちな声を長期的に考えていくためです。トレーナー自身が長期的視野をもたなければ何ともなりせん。

 私は皆さんにつける2人のトレーナーを、2つの目的として、今の状況改善と将来の条件改善に分けることもあります。トレーナーの扱う問題は似ているようでも別にみる必要があります。トレーニングとしても両立しやすいものでないからです。